2008/10/14 - 2008/10/21
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旅人のくまさんさん
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今回のトルコ旅行も最終盤に近付いてきました。昨日も暗くなってからアンカラのホテルに到着しました。今朝はアンカラ市内の交通渋滞を避けるため、暗い内からの出発です。アンカラ郊外でバスの運転手さんが交代されました。3つ歳上のお兄さんとお聞きしました。午前中はイスタンブールを目指して、ひたすら高速道を走りました。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 20万円 - 25万円
- 交通手段
- 観光バス
- 旅行の手配内容
- その他
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アンカラで泊まったホテルの自室の紹介です。このホテルも暗くなってからの到着で、朝早い出発でしたから、記憶の残ったことはほとんどありません。旅行会社には、シングルの一人部屋を注文していましたが、ツインのベッドの部屋が用意されていました。泊まったのは、アンカラ郊外の『エセンボア・エアポート・ホテル』でした。(同上)
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アンカラでは、昨年の旅行(2007年4月)の時にも宿泊しましたが、見学した場所は、トルコ共和国の建国の父のアタチュルクが眠る『アタチュルク独立戦争記念館』の外観だけでした。今回は市内見学もしませんでしたから、アンカラの簡単な歴史などについて、まとめて紹介しておきます。アンカラは、トルコ共和国の首都で、中央アナトリア地方に位置する、人口500万人ほどの大都市自治体で、イスタンブールに次ぐトルコ共和国第2の都市です。(同上)
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アンカラの都市の主要部分は、『ウルス(Ulus)』と呼ばれるオスマン帝国時代以前からの歴史的旧市街と、1920年代以降にトルコ共和国政府によって、その南に『イェニシェヒル(Yenişehir)』という名で計画的に建設された新市街があります。アンカラは、旧市街、新市街と、その郊外地区から構成され、政府の施設はイェニシェヒルに集中しています。(同上)
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アンカラ市街は、政府計画に基づき建設が進められましたが、郊外地区は第二次世界大戦後の都市集中に伴って、アンカラに流入してきた人々が建てたゲジェコンドゥと呼ばれる不法占拠住宅によって無秩序かつ急速に拡大した部分も大きいようです。1980年代以降は、地下鉄など交通網の整備が進められた郊外に、大規模なニュータウンが建設され、都市としての進展を続けているようです。(同上)
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この地には、古代ヒッタイト時代から人類が居住していた跡が残っていますが、プリュギア時代に規模が拡大した『アンキューラ(Ancyra)』と呼ばれた都市が、現在のアンカラ旧市街の始まりとなりました。アンキューラは、紀元前189年、ローマ帝国に占領されて『アンゴラ(Angora)』の名で知られるようになりました。(同上)
*写真は、ホテル内の売店だったようです。 -
この地を占領したローマ人は、アンゴラをローマ帝国の都市として整備するため、大劇場、大浴場、アウグストゥスを祀る神殿、ユリアヌスの来訪を記念する円柱などを建てました。それらは、現在もアンカラの遺跡として残っています。東ローマ帝国のもとでキリスト教が広まり、現在も残る城塞が築かれました。また、テマ(軍管区)・オプティマトンの首府となりました。(同上)
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アンゴラは、アナトリア中部における帝国の地方行政・軍事の拠点都市となったため、度々イスラーム勢力の侵攻を受けました。806年にはアッバース朝のカリフ、ハールーン・アッ=ラシードが自ら軍を率いてアンゴラを包囲しました。アンゴラは、1073年にムスリム(イスラム教徒)のセルジューク朝によって占領され、トルコ人によって『アンカラ』と呼ばれるようになりました。(同上)
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1101年には、十字軍としてやってきたトゥールーズ伯レーモン4世がアンカラを占領しています。セルジューク朝がレーモン4世の軍を撃退した後、アンカラはセルジューク系のアミールであるダーニシュマンド家の政権や『ルーム・セルジューク朝(1077~1308年)、さらにはモンゴル政権である『イルハン朝(1256/1258~ 1335年/ 1353年)』の支配を受けました。(同上)
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アンカラは、1356年にオスマン朝のオルハンによって占領され(ムラト1世の時代という説もあります)、以降はオスマン帝国領となります。1402年、近郊でオスマン朝の『バヤズィト1世(在位: 1389~1402年)』が、中央アジアから来攻した『ティムール(1336~1408年)』に敗れ(アンカラの戦い)、オスマン朝は10年間に及ぶ分裂期となりました。(同上)
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オスマン帝国時代のアンカラは、アナドル州に属するアンカラ県の県都でしたが、17世紀初頭、アナトリアで発生した大規模反乱であるジェラーリーの反乱の際には反乱側に落ち、その中心地となりました。また、オスマン帝国時代には特産のアンゴラヤギの毛を用いたモヘヤ生産の発展もありましたが、19世紀に入るとイギリスがアンゴラヤギの飼育に成功し、アンカラの毛織物工業は衰退に向かいました。(同上)
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イチオシ
1864年には行政区画の改変によりアンカラ州の州都となり、1892年にはアナトリア鉄道(CFOA、トランス・アナトリア鉄道)が開通してイスタンブールやエスキシェヒルと結ばれましたが、全体としてはアンカラは地方の小都市であり、20世紀初頭の1919年においても人口は2万5000人ほどでした。(同上)
*写真は、トンネルの入り口光景です。洒落たデザインでした。 -
第一次世界大戦終結後、戦勝国によりオスマン帝国の分割が進められ、さらにギリシャによってアナトリア西南部が占領されると、アンカラにも英仏軍が進駐してきました。1920年、これに反対して決起したトルコ人たちの抵抗政権がアンカラに樹立され、ムスタファ・ケマルがその指導者となって、ギリシャ軍をアナトリアから撤退させることに成功しました。(同上)
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1922年、さらにアンカラ政府は、イスタンブールにあったオスマン帝国のスルタンを廃してトルコ国家の単独政府を宣言し、1923年に共和制を宣言してアンカラを首都とするトルコ共和国が樹立されました。1923年にアンカラを首都と定める法律が大国民議会で可決され、首都となったアンカラは官僚の移住などにより急速に人口が増大しました。(同上)
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この人口増大で、旧市街ウルスが手狭になったため、1924年に『新市街(イェニシェヒル)』の建設計画が定められました。1928年にはアンカラ市全体を対象とする都市計画(マスタープラン)の国際コンペが開かれ、ドイツ人のヘルマン・ヤンセン(都市計画家)が主席を獲得しました。(同上)
*写真は、観光用のラクダさんのようです。 -
1932年から始まった都市整備は、このヤンセンの案に基づくものです。新市街の建設や、大火で焼けたウルスの再開発などが行われました。さらに経済発展に伴う都市への人口集中により、人口は膨張の一途を辿った結果、旧都イスタンブールに次ぐトルコ第2の都市に成長しました。1984年に都心部は、大都市自治体として指定されました。2004年にその指定範囲は、知事室周囲半径50kmまでに拡大しました。(同上、以上)
(追記):2012年の行政区画改編で、指定範囲はアンカラ県全域に拡大しました。 -
アンカラの見所の紹介です。
『アタテュルク廟(その1)』:アタテュルク廟は、トルコ共和国の首都アンカラにある、初代大統領『ムスタファ・ケマル・アタテュルク』の霊廟です。トルコでは『アヌトゥカビル(Anıtkabir)』と呼ばれますが、『アタテュルク廟』と同じ意味とされます。アンカラ市街南東の丘の上に位置し、廟が建設される以前は、ラサットテペと呼ばれ、紀元前8世紀頃のフリギア人の古墳がありました。この古墳は廟が建設される際に発掘調査されたのち取り壊されました。(同上) -
『アタテュルク廟(その2)』:1938年のケマルの死と同時に、この丘に巨大な廟の建設計画が持ち上がりました。同時に葬儀計画も進行し、これを一晩で完成させたのはドイツ人建築家・『ブルーノ・タウト(1880~1938年)』でした。ケマルとタウトは互いに尊敬しあっていた中とされます。(同上)
*写真は、地元産品を展示した市場の光景です。 -
『アタテュルク廟(その3)』:アンカラ市からタウトに金品の申し出があった際、タウトは『申し訳ありませんが、我々の時代の最も偉大な一人の死に際して私の恵まれた名誉の仕事にために金を受け取るわけにはいきません』と断ったとされます。タウトは、ナチス政権との折合いが悪かったのか、日本インターナショナル建築会からの招聘を受け入れ、1933年に来日し、3年半滞在しました。(同上)
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『アタテュルク廟(その4)』:話が少し逸(そ)れますが、『ブルーノ・タウト』の紹介を続けます。表現主義の代表的な建築家として名高く、『鉄の記念塔(1913年)』、『ガラスの家(1914年)』などの代表作があります。日本滞在中に、各地の建築物を見て回り、日本人に日本建築の素晴らしさを教えた人として有名です。若い頃に読んだ『日本美の再発見』は、今でも印象に残っています。(同上)
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イチオシ
『アタテュルク廟(その5)』:アタテュルク廟の建設案は、国際建築家連合の規定に則った国際コンペティションで募られ、応募期間は1941年の3月1日から翌年3月2日でした。ただ、第二次世界大戦中だったためヨーロッパ人参加者が少なく、決定案はトルコ人建築家2名の連名案のものが採用されました。(同上)
*写真は、トルコの北側の黒海のようです。あるいはマルマラ海かも知れません -
『アタテュルク廟(その6)』:廟にはケマルの事績がレリーフで表される一方、全体のデザインはアナトリアン様式で統一され、イスラム様式は用いられていません。トルコ国内で産出した石材のみを用いて建設され、1953年9月1日に完成しました。アタテュルクの墓のほか、ケマルが生前に愛用していた品々や蔵書、また各国から贈られた品々などを展示した博物館が併設されています。(以上、同上)
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『アナトリア文明博物館(その1)』:アナトリア文明博物館は、アンカラ城の南側、アトパザール(馬の市)と呼ばれる地に位置しています。オスマン時代の二つの建物、マフムトパシャ・ベデステンとクルシュンル・ハンを博物館として新しい役割のために改造された建築です。ベデステン(バザールの一部で特に責重な品々を貯蔵場)を建てたマフムトパシャは、征服王メフメットII世の総理大臣でした。(同上)
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『アナトリア文明博物館(その2)』:建物に銘は残っていませんが、アンカラ『Sof』(山羊又はラクダの毛で織った布)はここから各地に出回っていたという記録があります。ベデステンはこの種のものとして、ごく一般的なもので、中央の方形の部分は10のドーム型の屋根で覆われ、周囲のアーケードは、アーチ型天井の下に商店が、業種ごとに向きあう形に並んでいました。(同上)
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『アナトリア文明博物館(その3)』:クルシュンル・ハンは、マフムトパシャのその後に総理大臣となった『メフメットバシャ(1506~1579年)によって作られたようです。このハン(隊商宿)からの収入は、イスタンブール、ウスキュダル地区の貧しい人々の福祉に充てられました。大宰相のメフメットパシャは、ウスキュダルにモスクや神学校も建て、彼自身その地に眠っています。(同上)
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『マルマラ海(その1)』:マルマラ海は、トルコのアジア側とヨーロッパ側の間にある内海です。北の黒海とはボスポラス海峡、南のエーゲ海(地中海)とはダーダネルス海峡を通じて繋がっています。東西280㎞、南北80㎞の大きさで、最大水深は1370mです。(同上)
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『マルマラ海(その2)』:塩分濃度は2.2%で、黒海より少し濃いとされます。一方、海底近くでは3.8%あり、地中海と同程度なのは、表層水が黒海から地中海方向へ、底層水は逆に流れているためです。北岸のボスポラス海峡入り口部には、イスタンブールがあり、東部の陸地に深く入り込んだイズミット湾の最奥部にイズミットがあります。(同上)
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『マルマラ海(その3)』:イズミット湾の入口には、オスマン・ガーズィー橋が架かっています。マルマラ海には、プリンスィズ諸島、マルマラ諸島の二つの島嶼群があります。前者はイスタンブールに近いリゾート地、後者は大理石の材料の産地として知られています。この大理石(ギリシア語でmarmaros)が、地名の由来とされます。(同上)
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『黒海(その1)』:黒海は、ヨーロッパとアジアの間の内海で、大西洋の縁海の一つです。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がります。バルカン半島、アナトリア半島、コーカサスと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれ、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東欧の大河が注ぎ、アナトリアとバルカンの間のボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡で地中海に繋がります。(同上)
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『黒海(その2)』:クリミアの東はケルチ海峡を隔ててアゾフ海があります。黒海に面する国は、南岸がトルコで、そこから時計回りにブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、ジョージアです。黒海に面する港湾は、イスタンブールから時計回りにブルガス、ヴァルナ、コンスタンツァ、オデッサ、セヴァストポリ、ヤルタ、ノヴォロシースク、ガグラ、バトゥミ、トラブゾン、サムスン等です。(同上)
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『黒海(その3)』:黒海沿岸で最も大きな都市は、トルコのイスタンブールです。人口は1300万人を超え、ヨーロッパでも有数の大都市圏を形成しています。古くは東ローマ帝国時代より、この地域の中心となる都市として栄えてきました。これに次ぐ都市は、ウクライナのオデッサです。黒海の中央部は嫌気性の深海平原で、最大水深はヤルタの南で2,212mです。(同上)
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