2008/10/14 - 2008/10/21
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旅人のくまさんさん
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トロイ遺跡紹介の続きです。年代が異なる遺跡が積み重なった複合遺跡のため、発掘作業も大変なようです。この後も、しばらくは発掘作業が続くようでした。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)
- 同行者
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- その他
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『トロイア戦争』の紹介の続きです。メネラーオスは、兄でミュケーナイの王であるアガメムノーンにその事件を告げ、さらにオデュッセウスとともにトロイアに赴いてヘレネーの引き渡しを求めました。しかし、パリスはこれを断固拒否したため、アガメムノーン、メネラーオス、オデュッセウスはヘレネー奪還とトロイア懲罰の遠征軍を組織しました。(同上)
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イチオシ
この戦争では神々も両派に分かれ、ヘーラー、アテーナー、ポセイドーンがギリシア側に、アポローン、アルテミス、アレース、アプロディーテーがトロイア側に味方しました。ボイオーティア地方のアウリスに集結した、アガメムノーンを総大将とするアカイア軍は、総勢10万、1168隻の大艦隊でした。アカイア人の遠征軍はトロイア近郊の浜に上陸し、アキレウスの活躍もあって、待ち構えたトロイア軍を撃退すると、浜に陣を敷きました。(同上)
*写真は、発掘作業が済んだ一角の光景のようです。石畳と石柱です。 -
トロイア軍は、強固な城壁を持つ市街に籠城し、両軍は海と街の中間に流れるスカマンドロス河を挟んで対峙しました。『イーリアス』の物語は、双方に犠牲を出しながら9年が過ぎ、戦争が10年目に差し掛かった時期を起点に始まります。戦争末期の状況については、『イーリアス』のほか、『アイティオピス』や『アイアース』などで語られています。(同上)
*写真は、発掘された石造建築の一部になるようです。四段に彫り込まれた正方形の窪みの中に、花か、木の葉のようなものがレリーフにされていました。ネット情報では、『天井飾り』の記述もありました。(同上) -
トロイアの勇将ヘクトールと、アカイアの英雄アキレウスの没後、戦争は膠着状態に陥りました。しかし、アカイア方の知将オデュッセウスは、巨大な木馬を造り、その内部に兵を潜ませるという作戦を考案し、これを実行に移しました。なお、『小イーリアス』では、女神アテーナーが考案した作戦と記します。(同上)
*写真は、白大理石の遺物の一部です。額縁のような跡がありました。 -
この『トロイアの木馬』の計は、すでに紹介しましたが、その補足です。この計略は、アポローンの神官・ラーオコオーンと、王女カッサンドラーに見抜かれましたが、ラーオコオーンは海蛇に絞め殺され、カッサンドラーの予言は誰も信じることができない定めになっていましたので、トロイアはこの策略にかかり、一夜で陥落しました。(同上)
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古代アテナイの三大悲劇詩人の一人・『アイスキュロス(紀元前525~紀元前476年)』の『アガメムノーン』によれば、トロイア戦争はアカイア遠征軍の勝利に終わりましたが、アカイア軍の名だたる指揮官たちも悲劇的な末路を辿りました。ギリシャ神話の英雄の一人『小アイアース』は、アテーナーの神殿でカッサンドラーを強姦した事でアテーナーの逆鱗に触れ、船を沈没させられて死亡しました。(同上)
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また、ギリシャ神話の英雄の一人、『メネラーオス』は、帰国途中に暴風に悩まされエジプトに漂流し、8年掛かりで帰還しました。総司令官・アガメムノーンは、帰郷後、妻とその愛人によって暗殺されました。オデュッセウスは、故郷にたどりつくまで10年もの間、諸国を漂流しなければなりませんでした。(同上)
*写真は、貴重な古い日干しレンガを保護するテントです。 -
イチオシ
レンガの歴史についての紹介です。煉瓦が建築材料として使用されるようになったのは、メソポタミア文明の時代からとされます。チグリス川、ユーフラテス川にわたる広大な範囲で煉瓦建築が発展していきました。紀元前4000年からの約1000年間は、乾燥させただけの日干し煉瓦が使用されていました。
*写真は、発掘した発掘した遺物を保存するために建設された、大型のテントの中の光景です。そのテントには、日干し煉瓦を使ったらしい、石壁の姿などがありました。この場所の日干し煉瓦は、最も古いものは約4500年前のものとされ、世界最古クラスのようです。 -
日干しレンガを使ったらしい赤色の壁のズームアップ光景です。レンガの歴史についての紹介の続きです。紀元前3000年頃からは、焼成煉瓦が使用され始め、この頃には大型の建造物の外壁の仕上げに焼成煉瓦が使われています。内部の壁には、一番厚い日干し煉瓦を使用し、焼成煉瓦はそれを保護するために使われていました。紀元前1600年から1000年の間には金型を使って表面に様々な細工を施した焼成煉瓦も見られるようになりました。エジプトにおける煉瓦を使用した建築物は、メソポタミア文明より後のものです。エジプトから煉瓦技術が地中海沿岸やインド、中国に伝わっていったと考えられています。(同上)
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エジプトで最も古いピラミッドの中には、内部の壁に乾燥煉瓦を使い、外側を石で仕上げてあるものもあります。また、その頃エジプトで使われていた煉瓦の寸法は、現在使用されているものに大変近いとされます。ヨーロッパでは数世紀間、煉瓦の生産技術(採砂、準加工、乾燥及び焼成方法)は、ローマから採り入れられてきました。古代ローマでは、建物の品質を確保するためにレンガごとに製造業者の刻印を押すことが義務づけられていました。これが、結果的に高い品質が維持されることとなりました。(同上)
*写真は、大小の石材を使った壁面の光景です。その背後は土壁でした。 -
半分が土に埋まり、打ち捨てられたままになっていた、白い石柱の光景です。白い大理石が使われているようでした。権力を象徴するような、大きな建造物であったことが想像されます。ギリシャ建築の様式らしい溝が側面に刻まれた石柱でした。
レンガの歴史についての紹介の続きです。古代ローマでの刻印の制度は、周辺地域に波及し、古い時代のレンガの製造地や製造業者の特定が可能となっています。煉瓦建築は19世紀まではあまり変化を遂げず、乾燥はそれに適した時期だけ日干しし、焼成は野外に煉瓦を山積みにして作った釜で行われていました。(同上) -
産業革命によって、発動機(蒸気による機械)が導入されるようになってから、煉瓦生産の技法が変わり始めました。この機械の導入により、準加工と成形工程を機械化させることが可能になり、生産力及び作業能率が高まりました。この発動機をとりいれた焼成システムにより、生産が合理化され、同時に熱の消費が大幅に現象しました。
*写真は、遺物があちこちに転がる『トロイ遺跡』の光景です。小さな丘のように見える場所も、かつての砦施設の一部かも知れません。 -
ついでに、日本でのレンガの歴史についても触れおきます。飛鳥時代から奈良時代にかけて、磚、塼、甎(せん)と呼ばれる土器の建材が用いられました。平城宮には磚積擁壁(せんづみようへき)と呼ばれる、壁や柱の基礎などで用いられていました。また、日干しレンガも作られていいました。(同上)
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ここからは、シュリーマンによるトロイ遺跡発掘と、その後の経過についての紹介です。1858年の36歳の頃には、ビジネスから引退しても問題ないぐらいのお金を得ていました。この頃からホメロスの叙事詩や、古代ギリシャ文明への思いが次第に強くなっていったと言われています。(同上)
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1866年にはパリのソルボンヌ大学で1カ月ほど学び、1869年にはドイツのロストック大学で学びました。そして、トロイ遺跡に関する論文で博士号を取得しています。この時期に勉強や旅行で家を空けることが多くなり、妻とは1869年に離婚しましたが、ギリシャに移住して出会ったギリシャ人の妻と同年に再婚しました。(同上)
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『シュリーマン(1822~1890年)』は実業家でしたが、私財を投じてトロイの発掘に乗りだし、やがてトロイア遺跡を発見しました。しかしながら考古学では素人扱いであり、また当時は考古学という分野もまだ未整理であったことも関係し、まったく認められることは無かったとされます。(同上)
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シュリーマンが発掘調査を行った場所は、現在も残されています。その場所は、現地ガイドさんから教えて貰いました。その後の詳しい調査で、遺跡は9層からなる歴史を持つことが分かっています。シュリーマンが見つけたのは第II層Gとされ、紀元前2500年~紀元前2200年の層とされます。(同上)
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トロイアの地では、実際にギリシャとの戦争があった事が歴史上認められているようです。興味深いのは、シュリーマンが発掘したのは紀元前1700年~前1200年頃とされるトロイア戦争よりも前の層でした。トロイの木馬の痕跡を探していましたが、見つかったのは更に古い時代の遺跡でした。(同上)
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シュリーマンの発掘には、オリンピア調査隊も協力に加わっていました。1870年にヒッサリクの丘の発掘に着手し、翌年正式な許可を得たようです。1873年に、『プリアモスの財宝』を発見し、伝説のトロイアを発見したと発表しました。この出来事により、古代ギリシアの先史時代の研究は大いに進むこととなりました。(同上)
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左上に、『Troia I-IX』の表示があった説明パネルの光景です。トロイ遺跡の縦断図のようでした。古い地層が、新しい表層の下に重なっているようでした。中間より少し上にあるカラーの帯が、年代表示のようです。左の濃い茶色部分が一番古く、右の水色部分が一番新しいようです。(同上)
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シュリーマンが、ヒッサリクの丘から発見した『プリアモスの財宝』についての紹介です。トロイア遺跡から持ち帰った、黄金の装飾品およびその他の工芸品からなる遺物です。多数の出土品の内、約8千点の遺物を神話的なプリアモス王の時代のものと考えましたが、現在では年代的に誤りであることが分かっています。シュリーマンは1881年にこの財宝をドイツ帝国に寄付しましたが、その中の特に重要な部分が第二次世界大戦の終わりに、ソ連によってベルリンから持ち去られました。現在はその半数以上がモスクワのプーシキン美術館に所蔵されていて、ベルリンではレプリカ(複製)が展示されています。(同上)
*現地ガイドさんからは、この辺りがシュリーマンの発掘場所とお聞きしたような記憶です。 -
イチオシ
『プリアモスの財宝』についての紹介が続きます。シュリーマンは、オスマン帝国(現代のトルコ)のチャナッカレの南20キロの地点にあるヒッサリクの丘をホメロスの叙事詩『イリアス』で歌われているトロイア王国があった場所と確信していました。その歴史的な痕跡を求めて、プリアモス王が統治し、トロイアが陥落したと想定される年代に達するまで、地層のすべてをためらうことなく掘り返しました。(同上)
*写真は、現在も発掘調査が進められている個所のようです。地層を記したらしい札があちこちに表示されていました。一番下の『Ⅱ』の表示が、シュリーマンが掘り進めた地層かも知れません。 -
1873年4月、彼が発見したのは、火災によって破壊された都市の遺跡であり、その年代は紀元前2450年頃に相当します。シュリーマンは、二つの大きな扉、石の手すり、彼がプリアモスの宮殿として特定した、建物の遺跡に繋がる二つの溝を発掘しました。(同上)
*写真は、崖の部分の地層表示です。一番手前が『Ⅲ』、右端が『Ⅳ』でした。 -
数週間後の5月31日、シュリーマンは大都市の門の近くの壁に沿っての調査を行った後、約8.5メートルの深さで、割れた銅製品を発見しました。この発見で、崩落の危険を無視して掘り続け、さらにその下から大量の金の財宝を発見しました。(同上)
*写真は、『5:Troia Ⅰ』のタイトルがあった説明パネるです。発掘された城壁などの写真と、説明文です。 -
その後、シュリーマンは発見した出土品を建設小屋に持ち帰り、それらを安全に保管し、分類しました。出土品には互いに絡み合ったり、入れ子になっているものがありました。
*写真は、『6:Troia Ⅱ』ののタイトルがあった説明パネルです。トロイ遺跡の復原図と、発掘品の皿か碗などの写真との写真と説明文のようです。 -
発掘品の中には、盾、平らな大釜、銅の短剣と槍の先、水差し、三つの銀の花瓶とナイフの刃、フラスコ、ゴブレット、二つの小さな金の鍋がありました。最も大きな銀の花瓶には、二つのティアラ、細いヘッドバンド、四つのペンダント、六つのブレスレット、56個のイヤリング、8,750個の小さなボタンと指輪を含む金の装飾品が入っていました。(同上)
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シュリーマンは、オスマン帝国当局から発掘の許可をもらう必要がありましたが、押収とそれに続く出土品の分割を恐れた彼は、発見について当局に何も報告しなかったようです。1873年6月17日、シュリーマンは密かにギリシャの国境に出土品を運び、アテネに向かいました。そこからヨーロッパで最も有名な学会に特派を送り、自身の発見を知らせました。これに対して大宰相府は密輸したとしてシュリーマンをギリシャの裁判所で訴えました。(同上)
*写真は、『地層Ⅸ』の表示があった崖のズームアップ光景です。 -
オスマン帝国での1年の裁判が終わり、シュリーマンは賠償として10,000金フランを支払うよう命じられました。彼はコンスタンティノープルの帝国博物館に50,000金フランを自発的に寄付することを決め、あまり重要ではない財宝の一部を返還しました。シュリーマンは、プリアモスの財宝および将来的な考古学的発見を収蔵するために、アテネに新しい博物館を自費で設立しようと考えました。オリンピアとミケーネの遺跡の1873年の広範な発掘権について、ギリシャ政府と共通の見解を得られなかったため、最終的にコレクションの受け入れをルーヴル美術館に打診しました。しかしフランス当局はその申し出を断りました。(同上)
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シュリーマンは、1879年の発掘遠征に参加した友人のルドルフ・ルートヴィヒ・カール・フィルヒョウの提案で、1881年に帝国の首都で途切れることなく永遠に財宝を所有できるようにドイツ国民に寄付しました。シュリーマン自身は、ベルリン人類学・民族学・先史学協会の会員になり、ベルリンの名誉市民になりました。皇帝ヴィルヘルム1世は手紙で個人的に感謝の意を表し、プリアモスの財宝がベルリン国立民族学博物館で永久に展示されることを保証しました。(同上)
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1890年12月26日にシュリーマンが死去すると、彼の遺志により、未亡人のソフィアにより、アテネの彼女の自宅に保管されていた最後の財宝が遺贈されました。これらは1893年から1894年に帝国博物館の管理により、トルコからベルリンに移送され、シュリーマンのコレクションに最終的なコンテンツを提供しました。(同上)
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