2008/10/14 - 2008/10/21
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入場して見学したアヤソフィアの紹介です。アヤソフィアの周りには、その場所に以前にあった教会の遺跡が保存されていました。ギリシャ・ローマ建築を想起させる石造の建築物の遺物でした。現在アヤソフィアのドーム内に残るステンドグラスも紹介しました。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)
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『ラテン帝国時代のアヤソフィア(その1)』:アヤソフィアは、13世紀、ラテン帝国の支配下にありました。1204~1261年にはカトリックの影響下に置かれましたが、1261年に奪還しました。床の装飾の一部にある、ラテン皇帝『ボードゥアン1世(1065頃~1118年)』の墓碑文は、ビザンティンの人々が吐き捨てる唾に晒されたようです。(同上)
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『ラテン帝国時代のアヤソフィア(その2)』:ラテン帝国は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から奪った、コンスタンティノープルに第4回十字軍の指導者らが建国した封建制十字軍国家です。正教会のローマ皇帝に代わって、カトリックの皇帝を即位させるとともに、ラテン帝国は東ローマ帝国に代わって東方で西洋諸国が認めるローマ帝国になろうとしていました。第4回十字軍は、当初、ムスリムが支配する都市エルサレムを取り返すために召集されましたが、十字軍による東ローマの帝都コンスタンティノープル略奪により、一連の経済的そして政治的事件は頂点に達しました。(同上)
*写真は、現在のアヤソフィア建設以前の教会遺跡などになるようです。 -
『ラテン帝国時代のアヤソフィア(その3)』:『ラテン帝国』の説明が続きます。本来の計画は、アレクシオス3世アンゲロスによって帝位を簒奪された、東ローマ皇帝イサキオス2世アンゲロスを復位させるためのものでした。十字軍はイサキオスの息子アレクシオス4世アンゲロスによって財政的・軍事的援助を約束されており、その支援によりエルサレムに進み続けることを計画していました。十字軍がコンスタンティノープルに到達すると、状況は直ぐに危険なものへ一変し、イサキオスとアレクシオスが短期間統治しましたが、十字軍が望んだような支払いを受け取ることはありませんでした。1204年4月、彼らはコンスタンティノープルの莫大な富を占拠し略奪しました。(同上)
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『ラテン帝国時代のアヤソフィア(その4)』:十字軍は、フランドル伯ボードゥアン1世を初代皇帝に選出し、総大司教にはヴェネツィア出身のトマーゾ・モロシーニを任じて、ラテン帝国を樹立しました。旧東ローマ領を封土として付与された十字軍諸侯らは、ラテン皇帝に忠誠を誓いました。ラテン帝国の支配権は、ニカイアのラスカリス家やトラブゾンのコムネノス家に率いられた残存国家により直ちに楯突かれました。(同上)
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『ラテン帝国時代のアヤソフィア(その5)』:1224年から1242年には、テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスがテッサロニキからラテン帝国に異を唱えました。ラテン帝国は第4回十字軍の後、旧東ローマ領に成立した他のラテン勢力、特にヴェネツィア共和国に対して政治的・経済的優位性を得ることに失敗し、短い初期の軍事的成功の後は北方の第二次ブルガリア帝国や東ローマの継承権を主張する様々な国と絶えず戦争状態にあり、次第に衰退していきました。最終的には、1261年にミカエル8世パレオロゴスのニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪回して東ローマ帝国を復活させました。(同上)
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『ラテン帝国時代のアヤソフィア(その6)』:最後のラテン帝国の皇帝・ボードゥアン2世は収監されましたが、複数の詐称者とともに皇位は14世紀まで存続しました。『東ローマ帝国』や『ラテン帝国』といった用語は、当時の帝国そのもの、またはその他の世界によって使われた当時の言葉ではなかったようです。また、『東ローマ帝国』は、ギリシャ語の『フランコクラティア(フランク人の支配)』の意味で使われたようです。(同上)
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『ラテン帝国時代のアヤソフィア(その7)』:1228年までにはラテン帝国の情勢は絶望的となり、ブルガリア側との交渉に入って当時未成年の皇帝ボードゥアン2世とイヴァン・アセン2世の娘ヘレナの婚姻を約束しました。この結婚は、ブルガリア皇帝をコンスタンティノープルにおける摂政にさせるはずでしたが、その一方で、ラテン側はフランス人貴族ジャン・ド・ブリエンヌに摂政期を提供し、彼の娘がボードゥアンと結婚しました。(同上)
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『ラテン帝国時代のアヤソフィア(その8)』:ニカイア帝国と同盟を結んだブルガリア帝国は、1235年にコンスタンティノープル包囲戦を仕掛けましたが、失敗しました。1237年にジャン・ド・ブリエンヌが死亡すると、ボードゥアン2世の摂政に就いたイヴァン・アセン2世は、ニカイアとの協力関係を破棄しました。1241年頃に、モンゴル帝国による侵攻を受け、一時捕虜となったボードゥアン2世は家臣としてハーンへの貢納を約束させられました。後に釈放されたようです。(同上)
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『ラテン帝国時代のアヤソフィア(その9)』:その後、ニカイア帝国が、国力を増強してラテン帝国侵攻を準備します。1261年7月、ヴェネツィア海軍の留守中にニカイア軍がコンスタンティノープルに攻め入ったことで、ラテン帝国は崩壊しました。ボードゥアン2世や一部の市民らは、遅れて到着したヴェネツィア軍により救出され、帝都を脱しました。ボードゥアンは、その後ローマに赴きました。教皇ウルバヌス4世が、将来彼を皇位に就けることを約束しましたが、ウルバヌスは間もなく死亡し、彼は復位することはありませんでした。(同上)
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『ラテン帝国時代のアヤソフィア(その10)』:ラテン帝国の年表です。
〇1204年:フランドル伯ボードゥアン9世が、初代皇帝ボードゥアン1世に即位。
〇1205年:ラテン帝国軍、ブルガリア軍に敗北。ボードゥアン1世が捕虜に。
〇1206年:ボードゥアン1世の弟のアンリ1世が皇帝に即位。
〇1216年:アンリ1世が死去。ラテン帝国は以後衰退の一途をたどる。 -
イチオシ
*ラテン帝国の年表の続きです。
〇1217年:アンリ1世の後を継いだピエール2世・ド・クルトネーがローマからコンスタンティノポリスへ向う途中、エピロス専制侯国に捕らえられる。
〇1225年:ニカイア帝国軍に大敗。小アジアの領土の大半を失う。
〇1242年:モンゴル帝国軍に大敗。後に首都カラコルムに使者を派遣する。 -
*ラテン帝国の年表の締め括りです。
〇1261年:ラテン帝国軍がヴェネツィア海軍と共に黒海西岸へ遠征に出ている隙をつかれて、7月25日の夜中にニカイア帝国軍にコンスタンティノポリスを占領され、最後の皇帝ボードゥアン2世・ド・クルトネーは逃亡。ここにラテン帝国は滅び、57年ぶりに東ローマ帝国が復活しました。
〇補足: 東ローマ帝国は、1261年にミカエル8世パレオロゴスの下でコンスタンティノープルを取り戻しました。1579年にオスマン帝国がナクソス公国を併合するまでラテン人の財産はギリシャに残り、1383年にジャック・デ・ボーが死去するまで、様々な生き残ったラテン人諸公国はラテン皇帝の血筋を認め続けました。 -
第一次世界大戦でオスマン帝国は敗戦国となって滅び、代わって世俗主義的なトルコ共和国が建国されました。オスマン帝国滅亡から12年後の1934年、トルコ共和国の建国者にして初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルクによってアヤソフィア・ジャミィは世俗化され、翌年に博物館として公開されました。長年敷かれていたカーペットが取り払われて、大理石の床のオンファリオン(戴冠のための円形の場)や、除去された白漆喰が覆っていた多くのモザイク画が姿を現しました。しかし、建物の構造には劣化が見られ、ワールドモニュメント財団(WMF)は、1996年と1998年の「ワールド・モニュメント・ウォッチ」に記載されました。(同上)
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アヤソフィアの銅製の屋根にはクラックが入り、そこから染み込んだ水がフレスコ画やモザイク画を伝って流れ落ちていました。同様に湿気は下からも上がってモザイク画に影響していました。さらに地下水が上がって記念的建造物内部の湿度上昇に結びつき、石材や塗料を脅かしていました。アメリカン・エキスプレス社の資金援助を受け、WMFは1997年から2002年にかけて修復のための費用を交付すると保証しました。第一段階として、天井部分のひび割れ修繕と構造の安定化工事が、トルコ文化観光省参加の下で行われました。第二段階はドーム内部の保存のため、若いトルコ人博物館学芸員を雇用して訓練する機会を設け、モザイク画の保護体制を確立しました。2006年までにWMFのプロジェクトは完遂しましたが、他の部分にも引き続き保存活動が求められています。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その1)』:アヤソフィアのミナレットの光景です。大ドームを中心として四方にそびえています。その内の一つですが、この方角のミナレットは、逆光になってしまいました。アヤソフィアのミナレットは、1453年にオスマン軍がコンスタンティノーブルを征服した後、キリスト教会をモスクに改修した時に建てられました。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その2)』:同じく、アヤソフィアのミナレットの光景です。トルコのモスクの特徴とされる『鉛筆型』と呼ばれるミナレットです。バルコニーと尖った屋根が特徴的で、塔は1~6本を対象の位置に建てます。オスマン形とも呼ばれる、トルコ独特の形です。トルコでミナレットが4基あるモスクは、ウチュ・シェレフェリモスク、スレイマニエ・モスク、セリミエ・モスクなどです。また、6基あるモスクはスルタン・アフメット・モスクのみです。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その3)』:美しい文様を持った大理石のようです。左右の文様が対称でした。推測ですが、大理石を薄く切った時に生じた、表と裏の関係のように見えました。聖堂の建設の時に、全国各地から美しい大理石が集められたようです。大理石には、しばしば独特の模様や色ムラがあり、『マーブル模様』と呼ばれています。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その4)』:こちらも対称性を持った大理石の装飾文様です。技術的なことは分かりませんが、もし、4枚の薄い石板が切り出し可能であれば、表2枚、裏2枚で出来上がる文様です。個人的な経験では、インド旅行でお土産に買った大理石のコースターが、大きさは異なるものの、薄くカットした大理石でした。ただし、カラフルな文様は手書きでした。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その5)』:『皇帝の門』の上部にある、『祝福を与えるイエス』のモザイク像(部分)のようです。右手の書物には、『汝に平和を、我は世界の光なり』、と記されているようです。この写真には写っていませんが、左下に皇帝レオ(9世紀末当時6歳)らしい像が描かれています。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その6)』:2度の焼失を経た後、ユスティニアヌス帝は直ちに再建することを決定し、2人の技師に委ねました。過去のパジリカ復旧ではなく、全く新たに設計され直した大聖堂の建設過程は、プロコピオスによって詳細に報告されています。技師は地表の水平面を正確に計測し、ドームを支える主支柱をレンガではなく大型の石材で造成することによって、クリープによる変形や乾燥収縮が起きないよう工夫しました。しかし、緻密に建設を進めたにも関わらず、ドーム下部のアーチ架構に差し掛かると建物は変形し始め、各所で亀裂や破壊がおこったとされています。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その7)』:プロコピオスによると、東側の大アーチの工事が完成しないうちにこれを支える主柱が外側に傾き始め、また、南と北のアーチは養生段階で下部のティンパヌムに過大な荷重をかけたため、窓の円柱か2階廊下の円柱が破壊し始めました。それでも、巨大なバットレスをドーム直下にまで補強するなどの方法により、高さ41.5 mのドームは建設されました。工事は5年11か月という短期間で終了し、 537年12月27日、ユスティニアヌス帝を迎え、総主教メナスによる献堂式が行われました。ユスティニアヌス帝は『ソロモンよ、余は汝に勝てり!』と叫んだと伝えられています。(同上)
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イチオシ
『現在のアヤソフィア(その8)』:青緑色を中心とした下層の大理石と金地の強い色彩が鮮やかな上層の壁面とドームのガラス・モザイクが織りなす色彩の動きも、このアヤ・ソフィアの魅力を生み出しているようです。メンテナンスが行き届いていないのか、剥落して白くなった部分が目立つドーム天井の光景です。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その9)』:内陣の柱とシャンデリアの光景です。教会の中心部の内陣は、大ドームによって形成され、その大きさは直径約31メートル、高さ56メートルで、世界最大級とされます。その原点は、6世紀に遡る、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝『ユスティニアヌス1世(483~565年)』の『ソロモンの神殿より立派に』との命令にあったようです。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その10)』:アヤソフィアが、イスラム寺院のモスクとして使われていた時代の標識のようです。残念ながら、読み取ることはできませんが、コーランの一説が装飾文字で記されているのかも知れません。類似の文様では、唯一神のアッラー、預言者のムハンマド、カリフの名前を示しているとの解説もありました。ただし、文様は大きく異なっていました。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その11)』:ステンドグラスの紹介です。モスクでは、お祈りの支障になるなどの理由で、ステンドグラスは基本的に使用されていませんが、何らかの理由で、偶像崇拝や、具象的な表現を避けることで、モスクとして使用された時代に使われたステンドグラスかも知れません。文様は幾何学的なものばかりの、いわゆるアラベスクと呼ばれるものです。人物を描くことを禁じる、スンニ派のイスラム的世界観に基づいている装飾様式です。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その12)』:次に紹介するステンドグラスは、中央部分が空白になっていました。推測ですが、先ほど紹介した、偶像崇拝に関わる人物像等の装飾があった部分かもしれません。アーチ型の周辺には、『花』などを表現したとみられる具象的な絵が残されていました。キリスト教会時代の絵が、イスラム教時代に白紙にされたように思われました。推測ですが、周りが花ですから、キリスト像ではなく、マリア像などだったかも知れません。これもあくまでも推測です。(同上)
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イチオシ
『現在のアヤソフィア(その13)』:このステンドグラスも、中央部分が空白になっていましたが、その上半円形と、下部の横長の長方形部分には、アラビア文字が記されているようでした。周辺の濃い色のステンドグラスに比べますと、随分と薄い色ですから、後年の細工かも知れません。明らかにオリジナル部分と比べて、材質・技法が異なっているように見受けました。周辺部分がオリジナル部分であることは、装飾の密度、デザインの統一性からみて、間違いないようです。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その14)』:色彩は異なりますが、文様に統一性がみられるステンドグラスの紹介が続きます。子のステンドグラスも、中央部分が空白になっていましたが、その上半円形円形と、下部の横長の長方形部分には、アラビア文字が記されているようでした。中央の空白部分が謎です。手元のガイドブックには、『スレイマニエ・ジャミイ』のステンドグラスとして、全面が濃いイスラム文様のものが写真紹介されていました。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その15)』:最後に紹介するステンドグラスです。各部に空白部分がありましたが、全体がイスラム様式として統一されているようでした。先に紹介した4枚のステンドグラスとは、材質・技法で異なる部分が大きいようにも見えました。キリスト教時代とは縁がないステンドグラスかも知れません。(同上)
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『現在のアヤソフィア(その16)』:アヤソフィアの大聖堂内の光景です。左端に見えるのは、キリスト教会からモスクに改修された後に造られた『ミンバル(説教壇)』のようです。オスマン芸術の傑作とされる彫刻が施されているようです。先ほど紹介したステンドグラスが、壁面上部に見えています。正面に明るく見えているのが、『ミフラーブ(聖龕:せいがん)』です。(以上、同上)
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