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パムッカレ見学を終え、今晩の宿になるカッパドキアに向かって長距離移動です。途中、コンヤ市に立ち寄りムハンマドの髭が展示されているメヴラーナ博物館に立ち寄りました。ここでは、建物内部の撮影は禁止されていました。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)

2008秋、トルコ旅行記2(20/47):10月17日(5):パムッカレからコンヤへ、昼食、メヴラーナ博物館、尖塔

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2008/10/14 - 2008/10/21

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旅行記グループ 2008秋、トルコ旅行記2(上巻)

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

パムッカレ見学を終え、今晩の宿になるカッパドキアに向かって長距離移動です。途中、コンヤ市に立ち寄りムハンマドの髭が展示されているメヴラーナ博物館に立ち寄りました。ここでは、建物内部の撮影は禁止されていました。(ウィキペディア、旅行ガイド・トルコ)

同行者
一人旅
一人あたり費用
20万円 - 25万円
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
その他
  • トルコ内陸アナトリア地方の主要都市の一つ、コンヤ県の県都のコンヤの紹介です。人口は約120万人で、人口規模ではトルコ第6の都市です。キリスト教の使徒・パウロが、布教に訪れたことで知られる古都・イコニウムの後身都市です。前方に羊さんの群れが見えましたが、羊さんが優先の道路のようです。(同上)

    トルコ内陸アナトリア地方の主要都市の一つ、コンヤ県の県都のコンヤの紹介です。人口は約120万人で、人口規模ではトルコ第6の都市です。キリスト教の使徒・パウロが、布教に訪れたことで知られる古都・イコニウムの後身都市です。前方に羊さんの群れが見えましたが、羊さんが優先の道路のようです。(同上)

  • 羊さんか、山羊(ヤギ)さんの群れのズームアップ光景です。生物学上の分類は、ヤギもヒツジも偶蹄類のウシ科ヤギ亜科に分類され、されぞれヤギ属、ヒツジ属という分類になっています。ヤギには基本的にあごひげが生えていますが、ヒツジには見られない事が多いようですから、羊のようです。見分ける方法は色々ありますが、絶対的なものはないようです。(同上)

    羊さんか、山羊(ヤギ)さんの群れのズームアップ光景です。生物学上の分類は、ヤギもヒツジも偶蹄類のウシ科ヤギ亜科に分類され、されぞれヤギ属、ヒツジ属という分類になっています。ヤギには基本的にあごひげが生えていますが、ヒツジには見られない事が多いようですから、羊のようです。見分ける方法は色々ありますが、絶対的なものはないようです。(同上)

  • 昼食のレストランに到着したようです。この建物は、壁面に『アナトリア(ANATORIA)』とペプシの看板がありました。まだ新しい建物のようでした。右手には、屋外席がありましたが、今回利用するレストランではなかったようです。(同上)

    昼食のレストランに到着したようです。この建物は、壁面に『アナトリア(ANATORIA)』とペプシの看板がありました。まだ新しい建物のようでした。右手には、屋外席がありましたが、今回利用するレストランではなかったようです。(同上)

  • 右手に見える青い標式には、『アナトリア・レストラン』らしい文字がありました。一番左の赤い旗は、トルコ国旗、そのほかにも4種類の旗が立っていました。白い人物像もありましたが、名前は分かりませんでした。(同上)

    右手に見える青い標式には、『アナトリア・レストラン』らしい文字がありました。一番左の赤い旗は、トルコ国旗、そのほかにも4種類の旗が立っていました。白い人物像もありましたが、名前は分かりませんでした。(同上)

  • 昼食に立ち寄ったレストランの光景です。トルコはイスラム系の国ですが、お酒に対する規律は緩やかですから、食事の時のワイン化、ビールが楽しみです。世俗派とも言われた、初代大統領のアタテュルク(1881~1931年)さんに感謝することの一つです。オスマン帝国軍の将軍で、トルコ共和国の元帥でもあった人です。(同上)

    昼食に立ち寄ったレストランの光景です。トルコはイスラム系の国ですが、お酒に対する規律は緩やかですから、食事の時のワイン化、ビールが楽しみです。世俗派とも言われた、初代大統領のアタテュルク(1881~1931年)さんに感謝することの一つです。オスマン帝国軍の将軍で、トルコ共和国の元帥でもあった人です。(同上)

  • さっそく注文した白ワインです、小さいボトルのワインがありました。1923年に共和国を樹立したケマル・アタテュルク大統領は、国民にワインの利点を認識させるために、1920年代に国営の醸造所の設立を進めたとされます。自身はラクを愛飲したようです。ルビーを意味するラク(ラクー)は、トルコの固有品種のオクズギョズとボアズケレを使った赤ワインです。(同上)

    さっそく注文した白ワインです、小さいボトルのワインがありました。1923年に共和国を樹立したケマル・アタテュルク大統領は、国民にワインの利点を認識させるために、1920年代に国営の醸造所の設立を進めたとされます。自身はラクを愛飲したようです。ルビーを意味するラク(ラクー)は、トルコの固有品種のオクズギョズとボアズケレを使った赤ワインです。(同上)

  • ブドウ(葡萄)かと思って撮影しましたが、違っていました。ヤマブドウ(山葡萄)なども確認していましたが、違っていたようです。生食などを目的に栽培されているようでした。昼食のレストラン近くでの撮影です。(同上)

    ブドウ(葡萄)かと思って撮影しましたが、違っていました。ヤマブドウ(山葡萄)なども確認していましたが、違っていたようです。生食などを目的に栽培されているようでした。昼食のレストラン近くでの撮影です。(同上)

  • 〇コンヤの歴史(その1):フリギア、リディアの時代から存在する都市で、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王の征服を経てセレウコス朝シリアの支配を受け、ギリシャ語ではイコニオン (Iconion) と呼ばれました。ペルガモン王国の後にローマ帝国に組み込まれ、初期キリスト教の舞台の一つとなりました。<br />*パウロは弟1次伝道旅行の際、バルナバを伴って訪れました。その後も何度か訪問しました。かなりの人がキリスト教に改宗しました。<br />*パウロ書簡の一つガラテヤ人への手紙は、この地域を含む南ガラテヤ諸教会にあてたという説があります。(南ガラテヤ説)

    〇コンヤの歴史(その1):フリギア、リディアの時代から存在する都市で、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王の征服を経てセレウコス朝シリアの支配を受け、ギリシャ語ではイコニオン (Iconion) と呼ばれました。ペルガモン王国の後にローマ帝国に組み込まれ、初期キリスト教の舞台の一つとなりました。
    *パウロは弟1次伝道旅行の際、バルナバを伴って訪れました。その後も何度か訪問しました。かなりの人がキリスト教に改宗しました。
    *パウロ書簡の一つガラテヤ人への手紙は、この地域を含む南ガラテヤ諸教会にあてたという説があります。(南ガラテヤ説)

  • 〇コンヤの歴史(その2):その後も東ローマ帝国のもとでキリスト教都市として栄えますが、マラズギルトの戦いの後、アナトリアに侵入してきたトルコ人ムスリムの侵攻にさらされ、1076年にセルジューク朝の王族スライマーンによって征服されました。<br />*スライマーンの建設したルーム・セルジューク朝が第1回十字軍によってニカイアを奪還された後、コンヤがかわって首都となりますが、1097年にゴドフロワ・ド・ブイヨン、1190年にはフリードリヒ1世によって一時的に占領されました。(同上)

    〇コンヤの歴史(その2):その後も東ローマ帝国のもとでキリスト教都市として栄えますが、マラズギルトの戦いの後、アナトリアに侵入してきたトルコ人ムスリムの侵攻にさらされ、1076年にセルジューク朝の王族スライマーンによって征服されました。
    *スライマーンの建設したルーム・セルジューク朝が第1回十字軍によってニカイアを奪還された後、コンヤがかわって首都となりますが、1097年にゴドフロワ・ド・ブイヨン、1190年にはフリードリヒ1世によって一時的に占領されました。(同上)

  • 〇コンヤの歴史(その3):13世紀に入ると、ルーム・セルジューク朝は最盛期を迎え、東はアルメニアから南北は地中海、黒海両岸に至るまでのアナトリアを征服し、対岸のクリミア半島にまで勢力を延ばすに至り、コンヤはその中心として繁栄を極めました。<br />*コンヤの南のカラマンに興ったカラマン君侯国の支配下に入り、その首都となります。14世紀末にオスマン帝国のバヤズィト1世により征服されました。<br />*アンカラの戦いの後再びカラマン領となり、1466年に至ってカラマン君侯国がメフメト2世に征服されると、メフメトがアナトリア中部に建設したカラマン州の州都となりました。(同上)

    〇コンヤの歴史(その3):13世紀に入ると、ルーム・セルジューク朝は最盛期を迎え、東はアルメニアから南北は地中海、黒海両岸に至るまでのアナトリアを征服し、対岸のクリミア半島にまで勢力を延ばすに至り、コンヤはその中心として繁栄を極めました。
    *コンヤの南のカラマンに興ったカラマン君侯国の支配下に入り、その首都となります。14世紀末にオスマン帝国のバヤズィト1世により征服されました。
    *アンカラの戦いの後再びカラマン領となり、1466年に至ってカラマン君侯国がメフメト2世に征服されると、メフメトがアナトリア中部に建設したカラマン州の州都となりました。(同上)

  • 名前:『ハイマツ(這松)』:推定<br />分類:マツ科マツ属<br />分布:日本、シベリア等の寒冷地に分布。<br />その他:生長速度は極めて遅いようです。

    名前:『ハイマツ(這松)』:推定
    分類:マツ科マツ属
    分布:日本、シベリア等の寒冷地に分布。
    その他:生長速度は極めて遅いようです。

  • 真剣にえさを探していたネコさんです。白地に茶色の斑点や縞模様があったネコさんです。人慣れしているように見受けました。(同上)

    真剣にえさを探していたネコさんです。白地に茶色の斑点や縞模様があったネコさんです。人慣れしているように見受けました。(同上)

  • 現在は博物館として一般公開されている『メヴラーナ博物館』は、イスラム神秘主義メヴラーナ教団の創始者である『メヴラーナ・ジェラール・ウッディーン・ルーミー(1207~1273年)』の霊廟があり、教団の総本山となる崇高な場所でした。彼は、ペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人と言われています。後ほど詳しく紹介します。(同上)

    現在は博物館として一般公開されている『メヴラーナ博物館』は、イスラム神秘主義メヴラーナ教団の創始者である『メヴラーナ・ジェラール・ウッディーン・ルーミー(1207~1273年)』の霊廟があり、教団の総本山となる崇高な場所でした。彼は、ペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人と言われています。後ほど詳しく紹介します。(同上)

  • メヴラーナ教団のメヴラーナとは『我が師』という意味があり、この地は長い間教団の大本山として信仰の対象でした。後に教義を学ぶ修行場、神学校としても位置付けられています。ルーミーの思想の一つに、旋回舞踏によって『神の中への消滅』という、死に似た状態に陥る神秘体験の実行が挙げられています。(同上)<br />

    メヴラーナ教団のメヴラーナとは『我が師』という意味があり、この地は長い間教団の大本山として信仰の対象でした。後に教義を学ぶ修行場、神学校としても位置付けられています。ルーミーの思想の一つに、旋回舞踏によって『神の中への消滅』という、死に似た状態に陥る神秘体験の実行が挙げられています。(同上)

  • ルーミーの没後、コンヤのルーミー廟を拠点とする彼の弟子たちによって、コマのように回って踊る『サマーウ(セマ)』という儀式で有名な、メヴレヴィー教団が形成されました。メヴレヴィー教団では同教団の始祖と仰がれています。主な著書はペルシャ語の詩集『精神的マスナヴィー』です。推測になりますが、写真は、教団時代からの『(尖塔(ミナレット)』のようです。(同上)

    イチオシ

    ルーミーの没後、コンヤのルーミー廟を拠点とする彼の弟子たちによって、コマのように回って踊る『サマーウ(セマ)』という儀式で有名な、メヴレヴィー教団が形成されました。メヴレヴィー教団では同教団の始祖と仰がれています。主な著書はペルシャ語の詩集『精神的マスナヴィー』です。推測になりますが、写真は、教団時代からの『(尖塔(ミナレット)』のようです。(同上)

  • メヴレヴィー教団時代からの『(尖塔(ミナレット)』らしい塔のズームアップ光景です。イスラム教の施設として使用されていた雰囲気が残っていました。ルーミーの生涯は、1244年までの第一期、1244年から1261年までの第二期、1261年から没年までの第三期に大別されて紹介されていました。<br />〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』:1207年にホラーサーン地方の主要都市の一つバルフ(現アフガニスタン)において、高名な説教師でもあった神学者『バハーウッディーン・ムハンマド・ワラド』の次男として生まれました。(同上)

    メヴレヴィー教団時代からの『(尖塔(ミナレット)』らしい塔のズームアップ光景です。イスラム教の施設として使用されていた雰囲気が残っていました。ルーミーの生涯は、1244年までの第一期、1244年から1261年までの第二期、1261年から没年までの第三期に大別されて紹介されていました。
    〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』:1207年にホラーサーン地方の主要都市の一つバルフ(現アフガニスタン)において、高名な説教師でもあった神学者『バハーウッディーン・ムハンマド・ワラド』の次男として生まれました。(同上)

  • 〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』(続き):また、別の説ではルーミーの父や祖父はバルフの出身であるが、彼自身はドゥシャンベ近郊の小都市ヴァフシュで生まれたとされます。母はバルフの知事の娘で、祖母はホラズム・シャー朝の王女と伝えられています。母方の祖父ルクヌッディーンは、第4代カリフ・アリーの子孫と伝えられます。幼少期のルーミーは他の子どもと遊ぶことはほとんどなく、宗教的学問の探求と禁欲的な自己鍛錬に没頭していました。(同上)

    〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』(続き):また、別の説ではルーミーの父や祖父はバルフの出身であるが、彼自身はドゥシャンベ近郊の小都市ヴァフシュで生まれたとされます。母はバルフの知事の娘で、祖母はホラズム・シャー朝の王女と伝えられています。母方の祖父ルクヌッディーンは、第4代カリフ・アリーの子孫と伝えられます。幼少期のルーミーは他の子どもと遊ぶことはほとんどなく、宗教的学問の探求と禁欲的な自己鍛錬に没頭していました。(同上)

  • 〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』(続き):バハーウッディーンは、バルフに敵対者が多く、早い時期からモンゴル帝国の中央アジア侵入を予見していたといわれます。1217年頃にバハーウッディーンは、家族とともに郷里のバルフを去り、西方のマラティヤへ移住しました。放浪の旅の中、一家は滞在した各地で温かい歓迎を受けました。(同上)

    〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』(続き):バハーウッディーンは、バルフに敵対者が多く、早い時期からモンゴル帝国の中央アジア侵入を予見していたといわれます。1217年頃にバハーウッディーンは、家族とともに郷里のバルフを去り、西方のマラティヤへ移住しました。放浪の旅の中、一家は滞在した各地で温かい歓迎を受けました。(同上)

  • 〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』(続き):旅の途中、ルーミーはニーシャープールで詩人アッタールと対面し、ルーミーの成功を予感したアッタールから彼の著書『神秘の書』を賜ったとする伝承が存在するようです。一家は、バグダードを経由してメッカ巡礼を終え、ダマスカスを経由してエルズィンジャンに滞在しました。(同上)

    〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』(続き):旅の途中、ルーミーはニーシャープールで詩人アッタールと対面し、ルーミーの成功を予感したアッタールから彼の著書『神秘の書』を賜ったとする伝承が存在するようです。一家は、バグダードを経由してメッカ巡礼を終え、ダマスカスを経由してエルズィンジャンに滞在しました。(同上)

  • 〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』(続き):10年以上の流浪の末、一家はルーム・セルジューク朝のスルターン・カイクバード1世に招かれてアナトリア(ルーム地方)中南部の都市コンヤに定住し、コンヤに到着したバハーウッディーン一家はカイクバード1世から手厚い歓迎を受けました。ジャラール・ウッディーンは居住地のルーム地方に因み、ルーミーと号しました。(同上)

    〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』(続き):10年以上の流浪の末、一家はルーム・セルジューク朝のスルターン・カイクバード1世に招かれてアナトリア(ルーム地方)中南部の都市コンヤに定住し、コンヤに到着したバハーウッディーン一家はカイクバード1世から手厚い歓迎を受けました。ジャラール・ウッディーンは居住地のルーム地方に因み、ルーミーと号しました。(同上)

  • 〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』(続き):1231年に父バハーウッディーンが亡くなった後、その高弟ブルハネッディンに伴われてハラブ、ダマスカスなどの都市に留学し、留学先ではイスラーム神学(カラーム)やハナフィー派法学を修めました。帰国後は祈りと瞑想に身を捧げる潔斎を開始し、修行を終えた後にブルハネッディンから学問の修了を言い渡され、指導者となりました。(同上)

    〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』(続き):1231年に父バハーウッディーンが亡くなった後、その高弟ブルハネッディンに伴われてハラブ、ダマスカスなどの都市に留学し、留学先ではイスラーム神学(カラーム)やハナフィー派法学を修めました。帰国後は祈りと瞑想に身を捧げる潔斎を開始し、修行を終えた後にブルハネッディンから学問の修了を言い渡され、指導者となりました。(同上)

  • 〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』(続き):父の後継として自らも説教師の仕事に就き、コンヤではイスラム教徒以外にギリシャ正教の修道士とも交流を持ちました。ルーム・セルジューク朝末期の実力者である宰相ムイン・アッディーン・スライマーンもルーミーに師事し、ルーミーは彼から保護を受けました。<br />〇『ルーミーの生涯の第2期(1244~1261年)』:1244年頃、コンヤを訪れた放浪のスーフィー修行者シャムスッディーン・タブリーズィー(シャムセ・タブリーズ)と出会ったルーミーは、それまでの形式的説教や生活態度を破棄し、彼を師匠と仰いでスーフィーの修行に一生を捧げる事を誓ったとされます。(同上)

    〇『ルーミーの生涯の第1期(1207~1244年)』(続き):父の後継として自らも説教師の仕事に就き、コンヤではイスラム教徒以外にギリシャ正教の修道士とも交流を持ちました。ルーム・セルジューク朝末期の実力者である宰相ムイン・アッディーン・スライマーンもルーミーに師事し、ルーミーは彼から保護を受けました。
    〇『ルーミーの生涯の第2期(1244~1261年)』:1244年頃、コンヤを訪れた放浪のスーフィー修行者シャムスッディーン・タブリーズィー(シャムセ・タブリーズ)と出会ったルーミーは、それまでの形式的説教や生活態度を破棄し、彼を師匠と仰いでスーフィーの修行に一生を捧げる事を誓ったとされます。(同上)

  • 〇『ルーミーの生涯の第2期(1244~1261年)』(続き):タブリーズィーに神の愛の具現像を見い出し、これ以降師に日夜仕えながらサマーウ(アッラーフの神名を唱えつつ音楽や踊りを通じて忘我・陶酔境に至るスーフィーの修行法の一つ)などに日夜没頭しました。ルーミーは人前に出ずに自宅に籠り、またタブリーズィーが傲慢な態度をとったために、ルーミーの弟子やコンヤの市民はタブリーズィーを憎悪したといいます。1244年までのルーミーは、詩作にほとんど興味を抱いていなかったが、タブリーズィーとの邂逅が彼に変化をもたらしました。(同上)

    〇『ルーミーの生涯の第2期(1244~1261年)』(続き):タブリーズィーに神の愛の具現像を見い出し、これ以降師に日夜仕えながらサマーウ(アッラーフの神名を唱えつつ音楽や踊りを通じて忘我・陶酔境に至るスーフィーの修行法の一つ)などに日夜没頭しました。ルーミーは人前に出ずに自宅に籠り、またタブリーズィーが傲慢な態度をとったために、ルーミーの弟子やコンヤの市民はタブリーズィーを憎悪したといいます。1244年までのルーミーは、詩作にほとんど興味を抱いていなかったが、タブリーズィーとの邂逅が彼に変化をもたらしました。(同上)

  • 〇『ルーミーの生涯の第2期(1244~1261年)』(続き):この時代のルーミーは、タブリーズィーによって詩的才能を触発され、1247年12月5日の夜にタブリーズィーが突如失踪した後までに神秘主義的熱情から多くの抒情詩群を生み出しました。この時期の詩を編纂したものが、ルーミーの初期の作品『シャムセ・タブリーズ詩集』です。<br />タブリーズィーが去った後、ルーミーは彼の教えを自身の心中に見出し、詩作に没頭していきます。1261年(一説には1258年/59年)に愛弟子フサーム・ウッディーンの懇願によって神秘主義詩の傑作となる『精神的マスナヴィー』の執筆を始めます。(同上)

    〇『ルーミーの生涯の第2期(1244~1261年)』(続き):この時代のルーミーは、タブリーズィーによって詩的才能を触発され、1247年12月5日の夜にタブリーズィーが突如失踪した後までに神秘主義的熱情から多くの抒情詩群を生み出しました。この時期の詩を編纂したものが、ルーミーの初期の作品『シャムセ・タブリーズ詩集』です。
    タブリーズィーが去った後、ルーミーは彼の教えを自身の心中に見出し、詩作に没頭していきます。1261年(一説には1258年/59年)に愛弟子フサーム・ウッディーンの懇願によって神秘主義詩の傑作となる『精神的マスナヴィー』の執筆を始めます。(同上)

  • 〇『ルーミーの生涯の第2期(1244~1261年)』(続き):これは、自我の滅却によって人間存在を本源的真理へ帰還させることを唱った作品冒頭に掲げられる18句を主題として展開された全6巻、約25,000句~27,000句におよぶ長大なマスナヴィー(叙事詩)形式の叙事詩です。<br />〇『ルーミーの生涯の第3期(1261~没年)』:1273年12月17日の夕方にルーミーはコンヤで没します。翌18日の葬儀にはイスラム教徒だけでなくギリシャ人やアルメニア人も参列し、ルーミーの親友で、思想家イブン・アラビーの弟子でもあるサドルッディーン・クーナウィーが葬儀の指揮を執りました。

    イチオシ

    〇『ルーミーの生涯の第2期(1244~1261年)』(続き):これは、自我の滅却によって人間存在を本源的真理へ帰還させることを唱った作品冒頭に掲げられる18句を主題として展開された全6巻、約25,000句~27,000句におよぶ長大なマスナヴィー(叙事詩)形式の叙事詩です。
    〇『ルーミーの生涯の第3期(1261~没年)』:1273年12月17日の夕方にルーミーはコンヤで没します。翌18日の葬儀にはイスラム教徒だけでなくギリシャ人やアルメニア人も参列し、ルーミーの親友で、思想家イブン・アラビーの弟子でもあるサドルッディーン・クーナウィーが葬儀の指揮を執りました。

  • 〇『ルーミーの生涯の第3期(1261~没年)』:ルーミーが眠る霊廟の設計は、タブリーズ出身の建築家バドルッディーンが手掛け、費用はムイン・アッディーンとその妻が負担しました。ルーミーの魂は肉体を離れて神の元に召され、合一が果たされたと考える人々は彼の命日を「結婚の夜」と呼び、12月17日のコンヤではルーミーと神の再会を祝って盛大な旋回舞踏が催されます。1274年に完成した廟は『緑のドーム』の名前で知られ、後世でも多くの参拝者が訪れています。14世紀初頭に活躍したトルコの民衆詩人ユヌス・エムレは、ルーミーに深い敬意を表し、多くの作品にルーミーの詩を引用しました。(同上)

    イチオシ

    〇『ルーミーの生涯の第3期(1261~没年)』:ルーミーが眠る霊廟の設計は、タブリーズ出身の建築家バドルッディーンが手掛け、費用はムイン・アッディーンとその妻が負担しました。ルーミーの魂は肉体を離れて神の元に召され、合一が果たされたと考える人々は彼の命日を「結婚の夜」と呼び、12月17日のコンヤではルーミーと神の再会を祝って盛大な旋回舞踏が催されます。1274年に完成した廟は『緑のドーム』の名前で知られ、後世でも多くの参拝者が訪れています。14世紀初頭に活躍したトルコの民衆詩人ユヌス・エムレは、ルーミーに深い敬意を表し、多くの作品にルーミーの詩を引用しました。(同上)

  • 〇『ルーミーの生涯の第3期(1261~没年)』:オスマン帝国時代には、ルーミーの生涯を題材とした細密画が多く描かれました。ルーミーの生誕800周年となる2007年は『ユネスコ国際マウラーナー年』に定められ、イスラム教国や欧米でルーミーの生誕を記念する事業が行われました。ルーミーの生誕地のバルフが属するアフガニスタン・イスラム共和国、ヴァフシュが属するタジキスタン共和国、生涯の大部分を過ごして没したトルコ共和国のほか、彼がペルシャ語を著述に用いたことからイラン・イスラム共和国は、彼を自国の偉人として顕彰しています。(同上)

    〇『ルーミーの生涯の第3期(1261~没年)』:オスマン帝国時代には、ルーミーの生涯を題材とした細密画が多く描かれました。ルーミーの生誕800周年となる2007年は『ユネスコ国際マウラーナー年』に定められ、イスラム教国や欧米でルーミーの生誕を記念する事業が行われました。ルーミーの生誕地のバルフが属するアフガニスタン・イスラム共和国、ヴァフシュが属するタジキスタン共和国、生涯の大部分を過ごして没したトルコ共和国のほか、彼がペルシャ語を著述に用いたことからイラン・イスラム共和国は、彼を自国の偉人として顕彰しています。(同上)

  • 〇『ルーミーの作風』:簡潔かつ平易であるが抒情性に富む文体が特徴で、詩を読む者に深い感銘を与えます。詩には独特のリズムがあり、名手が吟じたルーミーの詩を聴いた人間は陶酔感に浸ると言われています。また、詩の内容にはイスラム教だけでなく新プラトン主義、キリスト教神秘主義からの影響もあります。著作はモロッコから中国、インドネシアの広範なイスラム世界で読まれています。(同上)

    〇『ルーミーの作風』:簡潔かつ平易であるが抒情性に富む文体が特徴で、詩を読む者に深い感銘を与えます。詩には独特のリズムがあり、名手が吟じたルーミーの詩を聴いた人間は陶酔感に浸ると言われています。また、詩の内容にはイスラム教だけでなく新プラトン主義、キリスト教神秘主義からの影響もあります。著作はモロッコから中国、インドネシアの広範なイスラム世界で読まれています。(同上)

  • 〇『ルーミーの思想』:思想家としてのルーミーは、時に詩作の分野ほどの独創性は無いと評されます。思想はイブン・アラビーと似ていますが、ルーミーの思想は体系化されていない点で差異があります。自らの精神世界を『哲学』という形で表したイブン・アラビーやその高弟のサドルッディーン・クーナウィーと異なり、ルーミーは『詩』という形式で精神世界を表しました。(同上)

    〇『ルーミーの思想』:思想家としてのルーミーは、時に詩作の分野ほどの独創性は無いと評されます。思想はイブン・アラビーと似ていますが、ルーミーの思想は体系化されていない点で差異があります。自らの精神世界を『哲学』という形で表したイブン・アラビーやその高弟のサドルッディーン・クーナウィーと異なり、ルーミーは『詩』という形式で精神世界を表しました。(同上)

  • 〇『ルーミーの代表作』:<br />*『シャムセ・タブリーズ詩集/大きな詩集』<br />*『精神的マスナヴィー』<br />*『ルーミー語録』(井筒俊彦訳:中央公論新社)<br />*『七説話』

    〇『ルーミーの代表作』:
    *『シャムセ・タブリーズ詩集/大きな詩集』
    *『精神的マスナヴィー』
    *『ルーミー語録』(井筒俊彦訳:中央公論新社)
    *『七説話』

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