2026/09/14 - 2026/09/14
1963位(同エリア7058件中)
Bachさん
今月の月一京町散歩は、以前より行きたかった清水焼窯元の邸宅「五龍閣」の特別公開で、ついでに今までしっかり観光してこなかった八坂神社から高台寺、霊山護国神社、清水寺へと通じる東山の参詣道を歩くことにしました。
このエリアの特筆すべきは、面白い「通り名」が連なっていることで、八坂神社「神幸道」から始まり、「ねねの道」「石塀小路」「維新の道」「一念坂」「二寧坂」「産寧坂」「夢見坂」「清水坂」「五条坂」「茶わん坂」など、名前の由縁を見ていくだけでも楽しく、また「維新の道」は、松下幸之助を中心とした財界メンバー、「霊山観音」は帝産バスの創業者、老舗料亭の「山荘京大和」はハイアットホテル、竹内栖鳳邸跡や老舗銅加工メーカー創業者の「アカガネ邸」はホテル・レストラン会社が運営し、今回の目的の「五龍閣」も、湯豆腐屋順正が歴史的建造物を保存しながら、事業としても活用するという非常に参考になる事業モデルで、こういう事業家がどんどん出てくることを期待してやみません。
このエリアは予想通り、観光客で大混雑状態でしたが、メイン通りから一歩入った「維新の霊山墓地」や「五龍閣」は閑散としていたので、今回も新しい歴史の痕跡や情報をたくさん収穫出来て、同時に10年以上昔にはなかった新しい店がどんどん出来ていて、町家を活用したカフェレストランには、入って見たいところが何ヶ所かありましたが、今回はランチを老舗米屋の「八代目儀兵衛」で、コーヒーを五龍閣の「夢二カフェ」でいただいたので、またお客さんでも来たら新しい店に行きたい思います。
インバウンドの多種多様な人種や、今どきのお洒落な店を見ながら歩くのもなかなか楽しいウォーキングでしたが、「東山四条」の八坂神社西門から「東山五条」まで、見どころ満載で万歩計は2万歩以上になり、予定時間は軽くオーバーしてしまいました。
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10:40京阪四条河原町~(東山四条)11:00八代目儀兵八坂店~12:00八坂神社西楼門~南楼門~中村楼~石鳥居(神幸通・下河原通)~(石塀小路)~(ねねの道)~1.0km春光院~高台寺表門~(維新の道)~霊山護国寺~霊山観音~竹内栖鳳邸跡~青龍寺~八坂庚申堂~法観寺~(三年坂)文の助茶屋~2.0km(二年坂)竹久夢二寓居跡~奥丹本店~青龍苑~経書堂(来迎院)~七味家本舗~(清水坂)~2.5km12:30 清水順正おかべ家・五龍閣~15:00清水寺仁王門~(茶わん坂)~3.5km15:30東山五条
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10:40京阪四条河原町スタート
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そろそろ秋模様
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四条通突き当りは祇園(東山四条)「八坂神社」
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11:00 ランチ「八代目儀兵衛」
「究極の銀シャリ」を味わえる店として行列が絶えないので、いつも素通りしていたが、今日は予約で訪問 -
「八代目儀兵衛」
江戸時代、初代儀兵衛が創業した京都の老舗米屋で、2006年に八代目が「八代目儀兵衛」として、米を絶妙なバランスでブレンドした米ギフト事業を始め、オリジナルの土鍋炊飯釜を使った炊飯技術を確立した弟と共に2009年「米料亭」を立ち上げ、現在祇園と発祥の地・西七条と東京銀座で店舗展開 -
期間限定メニューがあったので、「卵かけ御膳」を注文
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鯛の刺身、海老の天麩羅、鮭、梅、明太子、イカの塩辛、昆布、漬物に、土鍋ご飯は食べ放題で、1杯目はそのまま、2杯目は卵をかけて、3杯目は軽めにお新香で頂いたが、卵かけご飯だけでも良かった
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イクラもカレーも食べたかったが既に満腹状態
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ネットでも販売されているが、5kg 7,000円は高過ぎ
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行列が出来るのも当然の、料亭と呼ぶには程遠い、古民家の屋根裏部屋のような狭いところだが、八坂神社を見ながらの食事は観光客には喜ばれそう
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12:00「八坂神社」西門前
この西門石段下で、祇園祭山鉾巡行の夜に「神幸祭」が行われ、素戔嗚尊など3座の神輿が市中を巡行する出発式の後、何度も神輿の差し回しや差し上げを行って気勢を上げながら、四条御旅所に向かう -
(2025/07/17撮影)祇園祭「神幸祭」
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八坂神社の境内を「南門」へ通り抜ける
途中にある「疫神社」(えきじんじゃ)は、素戔嗚尊(牛頭天王)が旅の途中に手厚くもてなされお礼に、子孫代々疫病から護ってくれた、という「蘇民将来」(そみんしょうらい)を祀り、祇園祭で授与される「蘇民将来之子孫也」と書かれた紙札が添えられた粽(ちまき)を玄関に飾ると疫病退散になると言われる -
「本殿」(左)と「舞殿」(ぶでん)
「本殿」には、主祭神の素戔嗚尊(すさのおのみこと)と、妻の櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、子供の八柱御子神(やはしらのみこがみ)が祀られる -
(2022/07/15撮影)祇園祭
7.17の「神幸祭」には、7.15の「宵宮祭」で「本殿」から「舞殿」(ぶでん)に遷されていたご祭神が、3基の神輿に奉安されて、四条御旅所への旅立ちを待つ、中央に素戔嗚尊、右側に櫛稲田姫命、左側に八柱御子神 -
祇園祭で、3基の神輿は「舞殿」から正門の「南門」から出発する
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八坂神社「南桜門」
東大路通側の「西楼門」は室町時代の1497年に再建され境内最古の建造物であるが、この「南楼門」は、幕末の1866年の火災で焼失し明治の1879年の再建で、本殿・舞殿と同じ高さで、三位一体を表している -
「中村楼」(なかむらろう)
正式名は「二軒茶屋中村楼」で、室町時代から旅人が名物の餅やだんご、豆腐などで一服する場所として、参道沿いの両側にあった二軒の茶店のうちの一軒で、明治時代に「中村楼」へ改称され、現在は13代目 -
名物は、田楽豆腐の「祇園豆腐」
江戸初期からの「祇園豆腐」が名物で、木の芽味噌で焼き上げた風味と、店頭での豆腐切りの早業が評判となり、明治に入って旅館を兼業するようになると、伊藤博文ら多くの文人墨客が宿泊し、坂本龍馬暗殺の「近江屋事件」で龍馬が履いていた中村楼の下駄が残されていたことで有名 -
「神幸道」(しんこうみち)
祇園祭の「神幸祭」で、神輿が通る道であることからの命名で、東大路通から八坂神社の正門「南楼門」前を通り、坂上正面に見える「長楽館」までの通り -
(2024/09/19撮影) 「長楽館」(ちょうらくかん)
明治42年(1909)「煙草王」と呼ばれた実業家「村井吉兵衛」により建てられた別荘で、当時国内外の賓客を接遇する迎賓館として使われ、昭和29年(1954)滋賀の実業家の手に渡り、現在はカフェ、レストラン、ギフトショップ、ブライダル、全6室のホテルになっている、設計は立教大学の聖堂や京都御所向かいの聖アグネス教会なども手掛けた米国宣教師建築家のガーディナーで、完成直後に来泊し感動した伊藤博文が「長楽館」と命名したが、その4ヶ月後の明治42年(1909)にハルピンで暗殺された -
「石鳥居」前から「下河原通」を清水寺方面へ南進する
「石鳥居」は、日光東照宮、鶴岡八幡宮と並び日本三大石鳥居といわれ、江戸時代1646年建立で国の重要文化財、「下河原通」(しもがわらどおり)は、八坂神社南門から八坂通まで約500mの通り -
「大谷祖廟」(おおたにそびょう)参道
浄土真宗開祖の親鸞聖人の廟所(お墓)まで300mに及ぶ全面石畳の道で、真宗大谷派東本願寺の管理、東山五条坂にある「大谷本廟」(おおたにほんびょう)は真宗本願寺派西本願寺が管理し、別名「東大谷」「西大谷」と呼ばれる -
カフェ「京都祇園茶寮」
2020年、大阪の店舗設計会社のマーケットクリエイティブという会社(2003年創業)が、築100年の「蔵」をリノベーションして開業 -
すき焼きしゃぶしゃぶ「富之上」(とみのじょう)
2026年、祇園に3店舗構える和牛の店が、庭園付の元旅館の古民家をリノベーションして開業 -
「秋葉三尺坊大権現」(あきばさんじゃくぼうだいごんげん)
火伏せ・火除けの神様として中村楼や木屋町松屋の信仰も篤く、曹洞宗・天寧寺の末寺「秋葉山東景寺」(秋葉堂)に祀られているご本尊で、三尺坊という修験者が、修行の末に神通力を得て、鳥のくちばしや羽を持ち、白狐に乗る天狗に変身したとされ、静岡県秋葉山に舞い降り、火防の秘法を伝えて人々の苦しみを救ったと伝えられ、江戸時代には「秋葉講」と呼ばれる講社を通じて広く庶民に広まり、東京の「秋葉原」の由来も秋葉神社が祀られたことに由来する、京都には他にも北区釈迦谷の山中に「秋葉寺」がある -
秋葉堂のわき道から東山方面に「祇園閣」(ぎおんかく)が見える
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(2024/09/19撮影)「祇園閣」(ぎおんかく)
帝国ホテル、ホテルオークラ、大成建設などの創始者・大倉喜八郎が1927年京都別荘として造った建物で、祇園祭の壮観を常に見たいという思いから、山鉾を模した形にしたが、喜八郎が昭和3年(1928)92歳で亡くなって2か月後に「祇園閣」は完成している、鹿苑寺金閣、慈照寺銀閣と並び「銅閣」とも呼ばれ、現在は「大雲院」の所有となり、庭園があった辺りに「大雲院」本堂が造られ、祇園閣や書院も伽藍(がらん)の一部となり、寺院としてはアンバランスな建物となっている -
京うどん「美竹」(よしたけ)
50年の歴史を持つ旅館も兼ねた風情ある古民家のお店で、昼は京風うどんや手作りおばんざい、夜はバーとして営業する -
手前は中華レストランとワインバーで、隣はりめん山椒 京佃煮舗「やよい」
片や2024年東京本社の飲食店が古民家をニューアルオープンした、1階はモダンチャイニーズレストランの「hakubi」(ハクビ)、2階は隠れ家風のヴィンテージワインバー「蘇芳」で、片や昭和57年(1982)創業の京佃煮製造販売のちりめん山椒京佃煮舗 -
着物レンタル「璃光和服」
2015年設立の中国系と思われる会社で、祇園店、八坂店、清水店を運営 -
「京都東山ホテル」新築工事
2026年5月着工、2028年8月竣工予定 -
楽焼窯元「和楽」
京都の楽焼を、鑑賞したり手頃な価格で購入できる店舗と工房一体の店で、(HPによると)江戸末期に八坂神社の門前茶屋「短冊楼」主の七左衛門が楽焼窯元「短冊家」を開き、1918年東郷平八元帥から直筆の号をもらい4代目が和楽と改名し、現在八代目 *「楽焼」(らくやき)は、安土桃山時代に千利休の指導が初代・長次郎に作らせた茶道専用の焼き物で、京焼(清水焼)は、京都で焼かれる多様な陶磁器全般の総称 -
「石塀小路」(いしべこうじ)
「下河原通」から「ねねの道」へ抜ける石畳と石塀が美しい小路で、明治末期から大正時代にかけて形成され、石畳の一部は京都市電の敷石を利用している -
民家の下を小路が通っているトンネルのような構造は、現在の建築基準法では考えられない
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京情緒漂う路地空間は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている
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入り口が分かり難いので、観光客は少ない
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小路の両側には料亭や旅館、スナックが建ち並ぶ
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祇園の奥座敷として知る人ぞ知る穴場で、ランチもやっている所もあるので、比較的安価に利用できる
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特に夕暮れに歩くと、料理屋や旅館の看板がぼんやりと光って、さらに情緒があふれる
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「HARIO(ハリオ)CAFE京都」
2024年、コーヒー器具で有名な耐熱ガラスメーカー「HARIO」が、京町屋をリノベーションした直営カフェを京都にオープン、HARIOの器具で淹れたコーヒー・紅茶や、実際に使用した器具の購入も可能 *HARIOは、大正10年(1921)東京で創業した国内唯一の耐熱ガラス工場を持ち、コーヒーサイフォンから家庭用分野に進出し、現在ではさまざまな素材を用い幅広い商品を展開している -
旅館「田舎亭」
(HPより)もともとは明治・大正期の100年以上前に建てられた元料亭を利用した旅館で、先代までは「一見さんお断り」で、映画監督や銀幕のスターなどが長期滞在していたが、現在は一泊朝食つきの「片泊まりの宿」で部屋は5つあり、茶室だった「離れ」はいかにも「隠れ家」という風情で人気が高い -
もう一方の「下河原通」の出入り口、正面直進すると「ねねの道」
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(安井北門通)「TSUKIMI HOTEL」
「安井北門通」は、安井金比羅宮や建仁寺のすぐ北側を走る、建仁寺の北門付近から下河原通までの通り -
日蓮正宗「住本寺」(じゅうほんじ)
1698年建立の古刹 -
「阿闍梨餅」の配達らしき車が停まっていた
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お香 incense「やまとごころ」
2022年、お香専門店の神戸「有馬香心堂」が京都で開業、日本一のお香生産地である淡路島のお香を中心にお香・和雑貨を取り扱う -
「鮨 今井」
「今井」という名前からして高級そうな寿司店、2012年に大丸近くでオープンしてからミシェラン1星を獲り、2013年に現在の場所に移転したとあるから値段もそれなり -
チョコレート ショップ「Madame Delluc」(まだむどりゅっく)
2019年、ベルギー王室御用達のチョコレート店が、築120年の京町家をリノベーションして、日本初の1号店としてオープン -
「そうすけ」石塀小路店
2024年、清水寺店に次ぎオープンした焼き串メインの食べ歩きとイートインの店 -
京都着物レンタル「奈々屋」
2022年に新規開店した着物レンタル店、祇園店と2店展開 *京都市内には大小200~300店舗以上の着物レンタル店があるという -
「祗園にしかわ」
2009年祇園さゝ木から33歳で独立し開店、2010年から2年連続ミシュラン二つ星の割烹、夜3万円以上、昼も15,000円以上 *「祇園さゝ木一門会」は、祇園きだ、祇園 にしかわ、にしぶち飯店(祇園)、老松 喜多川(大阪西天満)、おが和(烏丸御池)、料理屋まえかわ(清水五条) -
甘味処「鍵善良房」(かぎぜんよしふさ) 高台寺店
1983年、江戸中期創業の「鍵善良房」が、四条本店に次ぎ開店し、2024年リニューアルオープン、他にも「ZEN CAFE」、美術館、ミュージアムショップも展開 -
アンティークショップ「猛虎」(たけとら)高台寺店
2023年オープン、他にも清水店、七条店を展開 -
「高台寺 表門」
秀吉の正室「ねね」(北政所)が1606年に「秀吉」の菩提を弔うために創建した「高台寺」の表門として、桃山時代に加藤清正により建てられた「伏見城」から、開山堂や傘亭、時雨亭、観月台などと共に移築されたもので、寺へ迎える最初の入り口となる -
「東山参道」案内図
円山公園辺りから知恩院や八坂神社、高台寺へと通じる参詣道の総称 -
「東山眺望図」
人力車の案内図で、清水寺辺りまで45分、15,000円~が目安 -
「春光院」(しゅんこういん)
江戸時代初期の1627年、北政所(ねね)の兄の子で、晩年は歌人として活躍した木下勝俊(きのしたかつとし1569-1649)が、娘・春光院の菩提寺として創建、幕末には清水寺成就院の僧・月照が一時住職となり、しばしば西郷隆盛と密談し、最後は共に入水を図ったという因縁の寺 -
「東山路傍(ろぼう)の触れ仏」
円山公園から高台寺界隈へ続く「ねねの道」の周辺の散策路に観光・癒し用として2010年前後にかけて整備されたもので、大黒天や布袋さん、三地蔵などの石仏などが置かれている、この「摩利支天」(まりしてん)は、インド神話の女神「マーリーチ」の陽炎(かげろう)や光を神格化したもので、3つの顔と6本の腕で猪(いのしし)の上に立つ姿をし、実体がなく、姿が見えず、捕らえられず、傷つかないことから、武士の守護神として厚く信仰された -
「ねねの道」
秀吉の正室「ねね」(北政所、高台院)が、余生を過ごした圓徳院や、秀吉を弔うために開創した高台寺を通る美しい石畳の散策路で、もともとは「高台寺道」と呼ばれていたが、1998年から電線地中化や石畳など景観整備され「ねねの道」となった -
(高台寺南門通)石碑「高臺寺」(旧字体)
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「霊山護国神社の鳥居」
京都霊山護国神社の参道「維新の道」の入口 -
振返ると「八坂の塔」
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背後には「京都タワー」も
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「山荘京大和」と「パークハイアット京都」
2019年、明治10年創業の歴史を持つ老舗料亭「山荘京大和」と、「ハイアットホテルズ」と「竹中工務店」の3社が提携して、料亭を取り込んだ日本国内2カ所目の最上級ラグジュアリーホテルをオープン、中には江戸時代から続く茶室「送陽亭」(そうようてい)や幕末に尊王攘夷派の志士が集った「翠紅館」(すいこうかん)があり、ホテルは地上2階地下4階の全70室で、2006年に開業した東山七条の「ハイアットリージェンシー京都」は現在工事中だが、1ランク下の格付けになる -
この先、維新の道「坂本龍馬の墓」、昭和の森「大東亜戦争従軍記念の碑」
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「維新の道」石碑
高台寺南門通の東端から急な坂を上がり、幕末維新の志士が眠る霊山墓地(りょうぜんぼち)に通じる「京都霊山護国神社」の参道から産寧坂に繋がる、コの字型の約700mの通りで、明治百年にあたる昭和43年(1968)に、関西財界を中心とする霊山顕彰会により付近一帯が整備され、維新変革の原点と現代を結ぶ道として「維新の道」とされた、石碑の字は「霊山顕彰会」初代会長の松下幸之助の揮毫 -
「京都霊山護国神社・昭和の森」
坂本龍馬、中岡慎太郎の墓、パール博士顕彰碑 -
「京都霊山護国神社」
その昔、この地には霊明神社(れいめいじんじゃ)という神社があり、幕末から明治維新にかけて殉節した勤皇の志士を奉祀し、その寺域は広大で霊山と呼ばれたが、明治維新後は、国家のために殉難した英霊を祀る「官祭招魂社(しょうこんしゃ)」として、国の費用で祭祀し神社の運営を行なうようになり、霊山の墓地などは国有地として没収され、隣接する護国神社の管轄へと移り、霊明神社の寺域は縮小された -
「京都霊山護国神社」(駒札)
当神社は、幕末、維新に殉した志士と、それ以降、大東亜戦に至る京都府出身の英霊7万3千11柱を奉祀する。幕末、各藩が東山三十六峰の中心であるここ霊山に、それぞれ殉難者を祀ったのが当神社の起源で、明治元年(1868)5月に、太政官布告をもって我国初の「官祭招魂社」とすべきことが定められた。明治10年(1878)には皇室より巨費が下賜されて神域が整備され、全国招魂社のうち最も崇敬を集めた。更に昭和4年(1929)6月には、昭和天皇御即位大礼の建物を下賜せられ、現社殿を整備し、昭和14年(1939)に護国神社と改称して現在に及んでいる。霊山神域内には、坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允(桂小五郎)をはじめ蛤御門の変・天誅組の義挙等に加わった志士の墓300余基があり、1356柱が合祀されており、この地は明治維新を偲ぶ大霊域・史跡となっている。 -
「坂本龍馬、中岡慎太郎之墓」入り口
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コイン式自動改札で入場料300円投入
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「墓地案内板」
幕末・明治維新の志士が1,300名余り、全体としては約3,100柱の志士が合祀されている -
東山三十六峰の一つ「霊山」(りょうぜん)山腹の墓所参道を上がる
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「木戸孝允神道碑」(きどたかよししんどうのひ)
西郷隆盛・大久保利通と並ぶ「維新三傑」の一人として日本の近代化に尽力した「木戸孝允」(桂小五郎)は、維新に殉した志士たちを慰霊する招魂社を建てることを提案し、京都には山口・高知・福井・鳥取・熊本などの招魂社が建てられ、後に霊山護国神社となり、東京では東京招魂社が建てられ、後に靖国神社となったが、この木戸孝允の功績をたたえ大正2年(1913)に建てられた *「神道碑」とは、国家に大きな功績を残した人の偉業や人柄を後世に伝えるために明治天皇の命により建立された碑で「勅撰碑」(ちょくせんひ)ともいう -
「パール博士顕彰碑」
パール博士は、東京裁判で「戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎない」として、唯一「被告全員無罪」を主張したインド代表判事で、このことを称えるためインド独立50周年を記念して平成9年(1997)に建立された -
「昭和の杜」
大東亜戦争から生還した戦友たちが、昭和史の足跡や従軍の事実を後世に伝え、祖国の繁栄と世界恒久平和を願って、平成9年(1997)建設された -
(碑文)「国のため いのち捧げし ますらおの いさを忘るな 時うつれども」
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「駆逐艦長波慰霊碑」
昭和19年(1944)11月のレイテ島沖海戦で戦死した、駆逐艦「長波」の乗組員247柱の碑で、元乗組員らによって昭和56年に建立された -
「土佐藩招魂社」
津和野藩を皮切りに、長州藩、山口藩、土佐藩、京都、福岡、福井、鳥取、熊本などがそれぞれの殉職者を祀って招魂社を創建し、明治元年(1868)に官祭招魂社(かんさいしょうこんしゃ)となり、昭和4年(1929)に護国神社と改称された -
山腹の通り一面に墓碑が並ぶ
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「坂本龍馬と中岡慎太郎の墓」(享年それぞれ32歳、29歳)
慶応3年(1867)11月15日に近江屋で暗殺された2人は、11月18日に葬られ、霊山に埋葬された、2010年に霊明神社の古書の中に、龍馬と慎太郎の遺体を霊山の地に実葬したという記録が見つかり、龍馬と慎太郎は間違いなくここに眠っていることが判った *坂本龍馬(1836-1867)と中岡慎太郎(1838-1867)は、高知城下で武市半平太が1861年結成した土佐勤王党で知り合い、尊王攘夷の志士として交流を深めた -
左「坂本龍馬紀直柔之墓」、右「中岡慎太郎道正之墓」
(駒札)徳川慶喜大政奉還劇の大作者である坂本龍馬は、洛中においては河原町三条下る材木商酢屋嘉兵衛方に寓居していたが、遭難十日前に醤油商近江屋新助方に転居した。坂本龍馬は、当時、最も幕府側から狙われていた志士で、新撰組・見廻組らの追求が急となり、藩邸の堀内慶助らの気遣いから近江屋を選んだのが仇となった。慶応3年(1867)11月15日、午後6時ごろ、中岡慎太郎が訪問。この2、3時間後、会談中の彼らは刺客の襲撃に遭い、坂本龍馬は額を横に斬られ、二の太刀は右の肩から左背骨にかけ、三の太刀で更に前頭部を裂かれて悲痛なる一言を残して倒れた。盟友・中岡慎太郎も全身に刀傷を負い、2日後の17日の夕方に息を引き取った。18日、近江屋において葬儀が行われ、ここ霊山に埋葬された。坂本龍馬にまつわる逸話として、37年後の日露戦争の最中、昭憲皇太后の夢枕にひとりの侍の蔭が立ち現れて、「微臣坂本にございます。このたびの海戦、皇国の大勝利に間違いありませぬ。不肖坂本、皇国海軍を守護しておりますゆえ、ご安心願いあげます」と言い残すと消えたという。坂本龍馬、志士中の一級志士と云っても過言ではない。 -
墓の横に「忠魂碑」と「坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像」
右にある「忠魂碑」は、明治37年(1904)2月の日露戦争開戦直前、明治天皇皇后の夢に坂本龍馬が現れ、日本海軍の勝利は確実だと告げた。皇后はこの夢を坂本の忠魂のなせるものだと誉めたたえ、坂本龍馬の墓前に石碑を建立した、その横の「二人の銅像」は、1934年に昭和御大典記念事業として設置され、戦後昭和35年(1962)に、京都高知県人会初代会長・川本直水が私財を投じて像を再建し、同時に円山公園にもこの銅像を拡大したものが設置された -
(碑文)「贈正四位坂本龍馬先生 贈正四位中岡慎太郎先生銅像銘」
土佐藩士坂本竜馬先生、中岡慎太郎先生は維新回天の偉業達成の為に最も重要な事績を遺しながら、惜しくも大政奉還の後僅かに三旬を経た慶応三年一月十五日、旧幕府士の為に京都に斃(たお)れた、坂本先生は特に海外の情勢に鑑み乍海軍操練所の設立につくし隊長となり、更に西郷、木戸の間を斡旋して薩長両藩を連合させ、藩主山内容堂を動かして慶応三年十月十四日大政奉還の建白を実現せしめた、先生がかつて長崎に於いて後藤象二郎に示した八策が 昭和天皇によって宣布せられた五ヶ条の御誓文の基底をなしたことは 即ち先生の卓越した経国の理念を知るに足るものである。中岡先生もまた陸援隊長となり坂本先生と共に薩長土同盟の達成を見るに至らしめた、両先生は単なる軍国主義者ではなく始めてわが国議会政治の確立を唱え、外交の重要性を力説して海運貿易の発達に伴う内外経済の平衡と文明開化を熱望し、以て国勢の興隆に率先推進した大先覚者であった。殊に坂本先生は、その平日愛誦した「天我レニ自由ヲ与ヘヨ 然ラズンバ死ヲ授ケヨ」と自作の詩の一説にある如く、わが国に於ける自由主義の先駆をなし、その影響が最も強く板垣退助に及んでいることは顕著な事実である。しかるに両先生の健軍の趣意は昭和軍閥にゆがめられ、銅像も戦時中に撤去の厄に遇った、坂本先生は三十二才 中岡先生は二十九才をもって賊害されたが その不朽の鴻業(こうぎょう)と高邁なる識見には永く萬人の軌範と仰ぐべきところであるところを確信して こゝに銅像を再建し顕彰の実を挙げんとするものである 昭和三十七年(1962年)五月三日 撰文 京都高知県会長 川本直水」 -
京都の町を見下ろす「坂本龍馬と中岡慎太郎の銅像」
龍馬が立像で慎太郎が座像なので、慎太郎が従者であるように見えるが、龍馬は身長174cmの長身、慎太郎は153cmほどだったため、背の高さが違いすぎたからというのが真相 *この辺りの標高は170m、護國神社境内は100m、東山山頂公園将軍塚の標高は220m、清水の舞台は120m、京都タワー展望台は130m、塔は160m -
「山口長州藩招魂社」
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「桂小五郎・幾松の墓」
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「内閣顧問勲一等贈正二位木戸孝允」墓
木戸孝允(1833-1877)は、高杉晋作や久坂玄瑞とともに急進的な長州藩の尊王攘夷派指導者として桂小五郎)の名で活躍し、1865年に藩主より「木戸」の苗字を賜り、1866年薩長同盟の際には長州藩代表として参加した、王政復古の新政府では、参与、総裁局顧問、参議を歴任し、明治元年、五箇条の御誓文の起草・監修、さらに版籍奉還や廃藩置県など、近代的な改革を進める中心的役割を果たし、1871年には岩倉使節団の一員として大久保利通とともに欧米列強の現状を見学、帰国後は、征韓論を唱える西郷隆盛と対立し、岩倉具視や大久保利通らととも反征韓論で西郷を下野に追い込んだ後、西南戦争時に京都で盟友・大久保利通に手を握られながら病死した、享年43歳 -
「贈正二位木戸孝允妻岡部氏松子」墓
木戸松子(きどまつこ1843-1886)は、若狭に生まれ、10歳から京都に出て、貧しい家計を助けるため初代幾松(いくまつ)の養女となり、13歳から二代目芸妓幾松として座敷に出て、19歳で勤王の志士たちの中の桂小五郎と結ばれることとなり、禁門の変以降長州藩が朝敵とされ幕府に追われる身となると二条大橋下に乞食の姿で隠れ潜んでいた桂に握り飯を持っていったり、新撰組近藤勇の追及にあった時には機転をきかせ逃がすなど、苦労の連続だったが、明治維新の大業成就し、明治元年(1868)桂小五郎改め木戸孝允の正妻となるにあたり、一旦長州藩士・岡部富太郎の養女となり名を松子と改め、身分差を超えた正式な婚姻をして「木戸松子」と名乗ったが、木戸は明治10年(1877)5月、京都出張中に病に倒れ、26日逝去するまで看護につくし、その後「翆香院」と号し、木屋町別邸で余生を過し、明治19年44歳で生涯を閉じた -
「桂小五郎・幾松の墓」(駒札)
維新三傑の一人、桂小五郎。容姿端麗にして神道無念流の達人、吉田松陰の門下生で、理性もあり、流血に程遠く、一生人を斬ったことがないと言われ、この点は北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬と似ている。勤皇芸芸子の第一人者、三本木の幾松とのロマンスは、文久元年(1861)の頃、桂小五郎28才、幾松18才、相思相愛の仲となり、激動の時代の中で苦楽を共にし、そして結ばれた。勤皇の志士と云われる志士たちの最後は大方悲劇に終わっているが、明治10年(1877)5月26日に45才で病死するまで、動乱の幕末を駆け抜け、維新後も活躍し、陽のあたる道を歩んだ幸運児とも云える。幾松とても同じで維新の大業成るや、正二位公爵、木戸孝允の妻となり、従四位を賜るほどの女傑。此処霊山に建立されている勅碑からも伺え知ることが出来る。 -
勤皇力士「錣形岩右衛門」(しころがたがんえもん)之碑
帰り道に「勤皇力士」というお相撲さんの石碑があるのを発見! これは、勤皇の志士として京都の治安維持や力士隊として活動した「京都相撲」の初代横綱で、石碑には「京都相撲横綱、錣形岩右衛門は上方相撲頭取として活躍すると共に、禁裏守護補佐力士隊長を拝名し、王政復古の礎石として名実共に輝かしい幾多の功労を尽くした。因りて、此処に顕彰の碑を建立す」とあり、見落としたが、坂本龍馬の墓の隣にも、近江屋での暗殺直前に二人を庇って斬られた用心棒兼世話役の元力士・山田藤吉の墓もある *「京都相撲」とは、京都に江戸時代から大正時代まで存続し、幕末には伝統的な相撲の枠を超えて、尊王攘夷や倒幕・勤皇の思想に共鳴して活動した興行組織で、そもそも相撲は宮廷で「相撲節」として始まった日本の国技であるが、江戸時代には、相撲の元祖の分流である五条家が「相撲の御家」と定められ、横綱免許や相撲興行免許など発給し、江戸や大坂よりも格が上だった歴史があり、皇室との関わりも深く禁裏守護として天皇の身辺警護なども務めた -
「特操の碑」
第二次世界大戦が転機をむかえた昭和18年、日本の戦況は急に悪化し、存亡をかけた総力戦となる。この年10月、2500余の若人は学業をなげうち陸軍特別操縦見習士官として祖國そこくの危機に立ち上った。二期、三期、四期と続く、ペンを操縦桿にかえた学鷲は懐疑思索を超え、肉親、友への愛情を断ち、ひたすら民族の栄光と世界の平和をめざして、死中に生を求めようとした。悪条件の元夜を日についだ猛訓練を行ない学鷲は遠く大陸、赤道をこえて雄飛し、あまたの戦友は空中戦に斃(たお)れ、また特攻の主力となって自爆、沖縄、本土の護りに殉じたのであった。無名の栄誉は歴史に刻まれたが、愛惜と悲しみは尽きない。平和は血と涙により築かれた、われらは心から祖国を愛し、平和を願う。ここに兄等の栄誉を讃え、その靈を慰さむるとともに、特操の果した役割を永く後世に伝えんとするものである -
「あゝ特攻勇士之碑」「 騎兵隊慰靈碑」
騎兵第20聯隊は明治37年日露戦争、昭和6年満州事変、昭和12年支那事変に、同十三年騎兵第120聯隊は昭和13年中国中支に、第16聯隊は昭和16年フイリッピン方面に、捜索第53聯隊は昭和18年ビルマ方面へ進攻し、犠牲者は900余名に及ぶ、と書かれている、実に生々しい! -
野砲兵第五十三聯隊「星光萬年」碑
昭和18年12月、伏見駐屯地を出発し、インパール作戦でビルマ戦線に急派された、1000余名の戦友と砲門馬匹を喪う、ビルマ派遣軍第53師団、と書かれている -
「維新の道」右は「霊山歴史館」、正面は「正法寺」の鳥居
「正法寺」 (しょうほうじ)は、平安時代最澄が開創、南北朝時代の1383年に正法寺として再興し、江戸時代には広大な敷地に多くの伽藍、14の塔頭、末寺42を持つまでに興隆を誇り、幕末の1809年、勤皇の志士たちの神道での葬儀を行うため山林の一部を買い受け「霊明神社」が創建され、明治維新後に「官祭招魂社」として国有地として没収され護国神社の管轄へと移されたが、正法寺も霊明神社も寺域を縮小されて存続している -
「霊山歴史館」(りょうぜんれきしかん)
昭和45年(1970)年、幕末・明治維新期の歴史を総合的にとらえて研究する専門博物館として開館、松下幸之助をはじめとする関西財界人によって設立された公益財団法人霊山顕彰会の運営 -
坂本龍馬、西郷隆盛、新選組(近藤勇、土方歳三)など倒幕派・幕府側双方の史料や所用刀などを常設展示している
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東山の山麓に一際目立つ、白い巨大な観音像が鎮座する「霊山観音」へ
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今までは遠くから見るだけだったので、初の「霊山観音」に入ってみる
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受付で火のついた太めの線香を渡されて境内に入る
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「霊山観音」(りょうぜんかんのん)
昭和30年(1955)帝産グループの創設者「石川博資」氏により、太平洋戦争の犠牲者の仏教式慰霊施設として建立され、正式名称は「霊山観音教会」 *石川博資(ひろすけ1891-1965)は、秋田県生まれの実業家で、1934年伊豆大仁金山で帝国産金鉱業を設立し、1946年帝産グループ各社(本社東京で愛知、京都、大阪、兵庫、奈良に支店)を創設した -
「本殿」前の「大香炉」にお線香を立てて参拝
観音像の下に「本殿」があり、本尊は十一面観音で、宗教行事では臨済宗建仁寺派と高台寺の僧侶が勤めているという、「観音像」は白衣観音坐像で、高さ約24m、総重量500トン、胎内に十二支の守り本尊を安置し、背後に戦死者の位牌が納めらた「霊牌殿」がある -
「霊山観音様の大きさ」、建物内には「釈尊涅槃像」
観音像の「パーツ別大きさ」が表示されている、高さ24m、お顔 6m、眉 1.1m、目 1m、鼻 1.06m、化仏(けぶつ:頭上の小さな仏像)の身丈 90cm、口 90cm、総重量 500トン、開眼 昭和30年6月 *秀吉が造った方広寺大仏は、高さ19m、奈良東大寺の大仏は15m、重さ250トン、鎌倉の大仏は13m -
「願いの玉」(如意宝珠)
如意宝珠とは、仏教において、天地の「気」が集まり、あらゆる願いを叶えることができる、神秘的な宝の珠(たま)のことで、願い事を念じながら右手で玉に触れて周囲を3回周ると願いが叶うらしい -
「観音胎内守本尊」上り口
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後方から観音さま胎内に入る
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観音さま胎内には「十二支の守り本尊」が安置され、自分の干支(えと)自分の干支の本尊にお参りできる
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「十二支守りご本尊」
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再び「維新の道」に戻る
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「二年坂」と「一念坂」
「維新の道」から「二年坂」に入ると、右手に高台寺南門通から入る「一念坂」があり、更に進むと「三年坂」に突き当たる *いずれも清水寺参拝道として作られた道で、清水寺の子安観音に安産祈願をする人が多かったことや、秀吉の正妻・ねねが清水寺に安産祈願をしていたことから「産寧坂」が生まれ、それが「三年坂」になり、その下の坂を「二寧坂」(二年坂)、さらに下に続く形で「一念坂」(一年坂)が生まれた、御影石の石畳は1978年市電全廃後に転用されたもので、他に石塀小路、祇園新橋通、哲学の道、南禅寺、金戒光明寺、立命館衣笠キャンパスなどで利用されている -
「竹内栖鳳邸跡」(たけうちせいほう)
近代日本を代表する日本画家の竹内栖鳳(1864-1942)が晩年を過ごした私邸で、昭和4年(1929)私邸兼アトリエ「霞中山房」(東山艸堂ひがしやまそうどう)を建築し、晩年の創作拠点として作品のモチーフとなる草花や動物を育て、文化人たちが集う交流の場としても活用し13年間を過ごし、長年空き家状態だったが、平成15年(2003)株式会社Plan・Do・Seeが歴史的建造物を活かしたレストランおよびウェディング施設「THE SODOH HIGASHIYAMA KYOTO」として開業した *「竹内栖鳳」は、御池通油小路の料亭「亀政」に生まれ、京都画壇の重鎮となり、東の横山大観(1868-1958)と並び称され、上村松園、橋本関雪など数多くの後進も育てた、竹内栖鳳の残した邸宅は嵯峨嵐山にも会員制の「霞中庵」(かちゅうあん)がある、また河原町二条の武田五一設計の島津製作所旧本社ビルをリノベした「フォーチュンガーデン京都」もPlan・Do・Seeの施設 -
「青龍寺」(せいりゅうじ)
平安時代に桓武天皇の勅命により創建、鎌倉時代に法然の弟子により再興され、天台宗から浄土宗へ改宗し、江戸時代に青龍寺と改めた、桓武天皇が最澄に命じて彫刻させた本尊の「伽羅(きゃら)観音」がある -
「東山艸堂別館」(ひがしやまそうどう)
「東山艸堂」の広大な一角には、高級創作和食レストラン「KURO KYOTO」、江戸前鮨の「鮨麻布 東山」、大正元年創業の旅館「松葉亭」をリニューアルした洋食レストラン「MATSUBATEI」がある -
「MATSUBATEI」と「高台寺松葉亭」
旅館「松葉亭」は、大正元年(1912)に旅館として創業し、平成22年(2010)に料亭に業態変更し、2025年カフェレストラン「MATSUBATE」として開業したが現在改装中、料亭「松葉亭」は「高台寺松葉亭」として営業中 -
高台寺「前田珈琲」、チリメン山椒「はれま」、ホテル「ゆとね」
「前田珈琲」は2009年開業で、店内には宮川筋で昭和56年創業した「はれま」が同居している、「ゆとね」は2012年開業のホテル *前田珈琲は京都市内に14店舗展開 -
「アカガネリゾート京都東山1925」
江戸時代から続く京都の老舗銅加工メーカー「三谷伸銅」(本社上鳥羽)の創業者の私邸だった建物で、至るところに銅(あかがね)が使われ「アカガネ邸」と呼ばれ、2013年「バリューマネジメント株式会社」により、700坪の広大な敷地と庭園を生かし、レストランや結婚式場として活用されています。 る *バリューマネジメント株式会社とは2005年設立の歴史的建造物や文化財を利活用した宿泊施設、レストラン、結婚式場などを運営している会社で、2008年、鴨川松原橋の袂にある明治3年創業の料理旅館「鮒鶴」(ふなつる)を再生したのを皮切りに、神戸迎賓館旧西尾邸、大阪城西の丸大阪迎賓館、神戸北野異人館や、函館、愛媛大洲、広島竹原、三重伊賀、福岡八女、丹波篠山など全国で地方再生にもつながる観光まちづくりを推進している、注目の会社 -
「高麗ギャラリーカフェ」
烏丸丸太町駅近くでも見かけたが、詩人でアーティスト、NPO活動家として活動する、少し神がかったような雰囲気の高麗恵子(こま けいこ)が運営するギャラリーカフェ -
下河原通の突き当り「八坂庚申堂」山門
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「八坂庚申堂」(やさかこうしんどう)
正式名は「金剛寺庚申堂」で、平安中期の960年に天台宗僧侶「浄蔵貴所」(じょうぞうきしょ)によって創建され、「庚申信仰」(こうしんしんこう)発祥の地とされる、「庚申信仰」とは、人間の体内には頭に上尸(じょうし)、お腹に中尸(ちゅうし)、足腰に下尸(かし)という三尸(さんし)の虫がいて、庚申の夜に人間が眠っている間に天帝にその人の悪事や罪を報告し命を奪われるという、そのため庚申の日の夜は一晩中眠らず、またこの虫に悪事を見られないよう「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿をおまじないとする信仰のことで、平安貴族の間に始まり、江戸時代には全国的に盛んになったといわれる *「浄蔵貴所」は、目の前にある八坂の塔が傾いた際、強い霊力で真っ直ぐに戻したという逸話で知られる -
「くくり猿」に囲まれた「撫で仏」
「撫で仏」は、お釈迦様のお弟子さんの「びんずるさん」(賓頭盧尊者)で、体の悪い部分と同じところを撫でると病気やケガが治る仏様だが、ここでは色鮮やかな「くくり猿」に囲まれて、写真映えスポットして人気がある、「くくり猿」は、境内至る所に飾られており、文字通り手足をくくられた猿の姿は、欲望のままに行動する猿を動けないようにすることで、欲望を抑える教えを表し、欲を一つ我慢して奉納すると願いが叶うとされる -
「くくり猿」に囲まれた「本堂」
本尊は三尸(さんし)の虫を押さえる神「青面金剛」(しょうめんこんごう)で、病気や災厄を払う強力な守護神、特に「庚申信仰」との関係が深く、人々が眠らずに夜を明かす時の本尊として信仰され、ここでも「くくり猿」に願いを込めて、欲を我慢して本尊に奉納すれば願いを叶えてくれる -
「青面金剛」と「三猿」
本尊の「青面金剛像」の足元には、人の悪事を天帝に告げ口しないように、悪事を「見ざる・聞かざる・言わざる」の三猿を従者(使い)としており、この「三猿」は、境内の色んなところに配置されている -
本堂手前の香炉にも「三猿」
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本堂手前の灯篭にも「三猿」
他にも居るらしいが、また次の機会に -
「夢見坂」(ゆめみざか)道標
東大路通から八坂の塔へ至る、約90mのなだらかな上り坂の参詣道は「八坂通」だが、かつて聖徳太子が「いつか京都に都が還る」と夢見て「法観寺」(八坂の塔)を建立したことから「夢見坂」とも呼ばれる -
「八坂庚申堂」から「八坂の塔」へ
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「八坂の塔」(法観寺)高さ46m
飛鳥時代589年、聖徳太子(574-622)により創建されたと言われるが、渡来人の八坂氏や小野篁(802-853)の説もあり詳細不明、現在残されているのは「八坂の塔」と聖徳太子の「太子堂」、本尊の薬師如来や夢見地蔵を安置する「薬師堂」のみで、八坂の塔(五重塔)は、平安時代に建てられてから、1440年室町幕府6代将軍足利義教により4度目の再建されたもので、日本唯一、心柱の礎石が創建当時のものがそのまま残っている -
「聖徳太子が創建した寺院」
聖徳太子創建の寺院は、四天王寺(593難波:日本最初の官寺)法隆寺(607奈良:世界最古の木造建築物)、中宮寺(607奈良:母の願いで建立した尼寺)、橘寺(606奈良:生誕地)や、京都に頂法寺(六角堂)、広隆寺(603太秦:秦氏が聖徳太子供養のために建立)、寂光院(594大原:父用明天皇の菩提を弔うために建立)があるが、頂法寺(587)も法観寺(589)も、聖徳太子が四天王寺建立(593)のための用材を探し求めて訪れ、念持仏の如意輪観音像が「この地に留まり人々を救いたい」と告げたことからお堂を建てたといわれる -
「木曽義仲」の首塚
境内には、平安末期の木曽義仲の首塚と伝えられる石塔がある、木曽義仲(1154-1184)は、後白河法皇と対立し、法住寺殿を襲撃し征夷大将軍になったが、源頼朝との対決で討死し、大津・義仲寺に葬られ、家臣により八坂にも葬られた -
「法観寺」(ほうかんじ)
(駒札)霊応山(れいおうざん)と号し、臨済宗建仁寺派に属する。寺伝によれば、聖徳太子が如意輪観音の夢のお告げにより建立し、往時は延喜式七ケ寺の一つに数えられ、隆盛を極めたが、現在は八坂の塔(五重塔)と太子堂、薬師堂を残すのみである。八坂の塔は、本瓦葺五層、方六メートル、高さ四十六メートルの純然たる和様建築で、白鳳時代の建築様式を今に伝えるものである。創建以来度々災火により焼失したが、その都度再建され、現在の塔は永享十二年(1440)に足利義教によって再興されたものである。塔内には本尊五智如来像五体(大日、釈迦、阿閦(あしゅく)、宝生(ほうしょう)、弥陀(みだ))を安置し、須弥壇の下には古い松香石製の大きい中心礎石があり、中央には舎利器を納めた三重の凹孔が残っている。寺宝として、塔を中心に当時の社寺を描いた紙本著色八坂塔絵図のほか、足利義教画像、法観雑記など貴重な文化財を蔵している。 -
甘味処 「文の助茶屋」
明治42年(1909)に、甘党だった上方落語家の二代目桂文之助が、高座を退いた後、高台寺円徳院の周辺に甘酒茶屋を開いたのが始まりで、 清水寺や八坂神社参拝の休憩所として親しまれてきたが、30年ほど前に現在地に移転、創業からの看板商品甘酒や現在の看板商品わらび餅が名物 -
カフェ「ケフスタンド」(KéFU STAND)
2024年開業のカフェスタンドで、コーヒー、クラフトビールなど、奥に店舗と外にベンチがある -
「八坂の塔」は周囲に高い建物がなく、坂道に建つため、どこからでもよく目立つ
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京料理店「つぶら乃」
2014年、京都拠点に飲食店を運営する緑歩園が、築100年以上の町家を改装してオープンし、京おばんざいや京野菜、宇治茶を使ったスイーツなどを提供する -
京扇子「舞扇堂きよみず店」
昭和43年(1968)創業の京扇子の製造販売店で、オリジナル扇子の名入れもおこない、京扇子絵付け体験もしている -
「二年坂まるん」と「山椒ちりめんいづみ屋」
「まるん」」は、2007年、舞扇堂が経営するお菓子と雑貨のお店、「いづみ屋」は、1829年の創業の山椒ちりめん専門店で、1986年から現在地で販売 -
「二年坂」(二寧坂)
左:高台寺・八坂神社、右:清水寺・産寧坂(三年坂) -
「二年坂」の階段を降りてすぐ左手に「竹久夢二寓居の跡」がある
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「竹久夢二寓居の跡」石碑
大正時代の挿絵画家で詩人の「竹久夢二」(1884-1934)は、大正4年(1915)恋愛問題や離婚のゴタゴタから東京を逃れ、次男と一緒にこの2階家に下宿し、2ヵ月後、高台寺南門前へ引っ越し、約1年間にわたり愛人彦乃と至福の同棲生活を送ったが、1920年彦乃は若くして亡くなり、その後1921年新しい愛人と渋谷に所帯を持つなど多くの女性と浮名を流したものの、彦乃の名前が刻まれた指輪を生涯左手にはめていたという -
竹久夢二の寓居跡「港屋丹波黒」
寓居跡は現在、夢二グッズの販売や丹波黒豆きんつば、あげもちなどを店頭で焼いて販売する甘味処として営業している、「港屋」は、夢二が東京日本橋に開業した、自身の千代紙や絵葉書を販売する「港屋絵草紙店」に因んだ名前で2013年頃の開業、また、隣の建物に見える看板は「スタバ」で、手前には夢二も通った大正3年創業のぜんざい・おしるこ店「かさぎ屋」がある -
お茶漬けバイキング「阿古屋茶屋」(あこやぢゃや)
1995年開業のお茶漬け屋さんで、約20種類の京漬物、おかわり自由、時間制限無しで1,950円は高いか、安いか? 同敷地にある陶器専門店「嘉祥窯」(かしょうがま)の経営、ここは1914年創業の京焼・清水焼の窯元で、陶器の製造・販売、陶芸教室と、飲食事業も手掛け、滋賀信楽にもカフェがある -
ゆどうふ「奥丹」(臨時休業9月10日~17日)
江戸初期1635年創業の、日本一古い湯豆腐専門店で現在十五代目、大正時代の建物と庭園を見ながら食事出来る、南禅寺店もあるが現在休業中、建物は、醤油醸造で財を成した石橋氏別邸として大正2年(1913)建築で、清水店として開業したのは昭和50年代 -
梅干し「おうすの里」産寧坂店
2010年、1983年京都城陽で創業の梅加工会社が、祇園店、嵐山店に次ぎ開業、蜂蜜風味の「京一輪」が美味 -
ハチミツ専門「杉養蜂園」産寧坂店
2012年、1956年熊本で創業のハチミツ専門店で、全国の観光地に75店舗出店し、三条店、銀閣寺店に次ぎ開業、京都には他に錦市場店、嵐山店、特にニュージーランドの最高ランクの「マヌカ蜜」が人気 -
和雑貨カフェ「忘我亭」(ぼうがてい)清水店
2020年、1981年哲学の道沿いでお土産店に次いで開業し、京都の和雑貨やセレクトショップ、カフェ、ギャラリーなどを展開 -
甘味処「梅園」 清水店
昭和2年(1927)創業の河原町本店に次ぐ2店舗目として開業した、みたらし団子やあんみつ、夏のかき氷や冬のぜんざいなどの甘味処で、他に、三条寺町店、蛸薬師通店、JR京都伊勢丹店、西武池袋店など6店舗を展開 -
カフェ「MACCHA HOUSE抹茶館」清水店
2018年、2010年設立の外食事業会社が、河原町、祇園四条店とともに展開しているカフェで、インスタ映えを狙った抹茶ティラミスが人気 -
「青龍苑」(せいりゅうえん)
江戸初期の北政所(ねね)の兄の子で、晩年は歌人として活躍し、ねねの道にあった「春光院」を創建した「木下勝俊」(きのしたかつとし1569-1649)の陰棲の地で、その後西陣織物商・平井仁兵衛の山荘となり、戦後料亭「京都坂口」(霊鷲山荘りょうじゅさんそう)になったが、平成12年(2000)「青龍苑」として商業施設に生まれ変わった -
「旧霊鷲山荘庭園」(りょうじゅさんそう)
見所は、七代目小川治兵衛の池泉回遊式庭園を、2000年に再構築した庭園で、中心池の周りに茅葺屋根の3棟の茶室があるが、予備知識なしで訪問したので、まさかこんな所に「植治」の庭があるとも思わず、しっかり確認できなかったので再訪問したい -
「庭園の周りに京都の有名店が並ぶ和風モール」
よーじや、井筒八ツ橋、雑貨土産のくろちく、お香の松栄堂、京つけもの西利、茶道の坂口庵、蕎麦の有喜屋、伊藤九衛門など京都の有名店が並ぶ -
「よーじや」と「井筒八ツ橋本舗」
「よーじや」は、明治37年(1904)、三条御幸町に舞台化粧道具の店を構えたのが始まりで、大正初期に楊枝(ようじ)と呼ばれていた歯ブラシを販売したことから「楊枝屋さん」となり、京都の撮影所で強いライトで汗や脂浮きに悩む役者さんたちの要望により開発された「あぶらとり紙」が大ヒットし現在京都市内に10店舗展開、「八ツ橋」は、江戸初期に箏曲の祖・八橋検校を偲び作られたと言われるが、現在14社の業者が存在し、その内「井筒八ツ橋本舗」は3番目に古い1805年の創業で、祇園本店を含め7店舗を展開する、生八ツ橋「夕子」で知られる -
「伊藤久右衛門」清水産寧坂店(維新の道の合流地点)
江戸後期の1832年、京都宇治田原で茶業に携わり、昭和27年(1952) 五代目が宇治平等院表参道に店舗を構え、抹茶スイーツなどで全国へ展開、(以前イノダコーヒーがあったところに)2025年6月に開業、2023年にもすぐ近くに「清水店」を開業しており、合計11店舗展開 -
「円光大師別時念仏御旧跡」(興正寺霊山本廟)
円光大師(法然)が、念仏を唱える行事「別時念仏」を行ったゆかりの地で、「興正寺霊山本廟」は、宗祖親鸞聖人の御骨を収めるご廟所、「興正寺」は、鎌倉時代に親鸞聖人が流され1212年に帰洛し山科の地に草創した後、1320年渋谷(京都国立博物館辺り)へ移転し「佛光寺」と改め、1591年豊臣秀吉の方広寺建設で堀川七条の西本願寺の隣接地へ移転、明治になって西本願寺から独立し真宗興正派の本山となり、親鸞聖人の霊山本廟も建立された -
「三年坂」(産寧坂・再念坂)
(駒札)八坂から清水坂に通じるこの石段は「三年坂」または「産寧坂」「再念坂」ともいわれる。宝暦12年(1762)刊行の「京町鑑」によると「大同3年(808)に開けし故三年坂とぞ」と記されている。また、三年坂を上った清水寺の塔頭である安産に御利益があるといわれる泰産寺(子安の塔)の産(うみ)寧(やすき)坂で「産寧坂」ともいわれている。明暦4年(万治元年・1658)に刊行された「京童」・「洛陽名所集」には、三年坂・産寧坂・再念坂という三通りの名前があらわれる。なかでも再念坂については、清水寺への参拝後、この坂で再び願い事を念じたことから「再念坂」と名付けたとある。三年坂で転ぶと「三年のうちに死ぬ」、「三年寿命が縮まる」といわれる逸話は、すでに延宝7年(1679)刊行の「京師巡覧集」で紹介されており、転んで抜けた魂を瓢箪が戻してくれるとのおまじないがあり、瓢箪を売る店が往時は軒を連ねた。産寧坂地区は、昭和51年、文化財保護法に基づき、京都市が伝統的建造物群保存地区として指定し、国の重要伝統的建造物群保存地区第一号にも選定されている。 -
「紫翠亭明保野別邸」(しすいていあけぼのべってい)
2023年、坂本龍馬の常宿だった「明保野邸」の跡地に、飲食業を展開する東京本社の会社が開業した和牛専門店、「明保野邸」(あけぼのてい)は、江戸後期からの料理旅館で、坂本龍馬をはじめ幕末の志士たちが密議の場や常宿として知られ、1864年池田屋事件の5日後、新選組と会津藩士が池田屋事件の残党を捜索中、明保野亭で不審者を見つけて拘束したら、相手が同盟関係の土佐藩士と分かり、藩同士の衝突を避けるため、切腹処分としたという「明保野亭事件」の現場で、長らく料亭として営業してきたが、コロナ禍等による休業を経て、「紫翠亭明保野別邸」としてオープンした、清水坂側にも寿司や天ぷらを中心とした「坂の上紫翠亭」がある -
「七味家本舗」
江戸初期の1655年、清水寺の門前で茶店として創業し、参拝客らに白湯に生姜や唐辛子の粉を入れた「からし湯」を振る舞い評判になったことから、唐辛子に山椒や胡麻などを調合した「七味唐がらし」を創案した、山椒が効いた辛さ控えめな味が特徴で、日本三大七味唐辛子の1つに数えられている -
「三年坂」から「清水坂」への階段を上った所から高台寺方面
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「経書堂」(きょうかくどう)
清水寺の境外塔頭「来迎院」(らいごういん)の仏堂で、飛鳥時代に聖徳太子が創建したとも言われ、聖徳太子の写経所跡とも言われ、本尊は聖徳太子が自ら刻んだと言われる厩戸王(聖徳太子)像 -
「土井志ば漬け本舗」清水店
明治34年(1901)京都大原の地で特産品である赤紫蘇と茄子を使った志ば漬を開始、5代目まで販売を拡大し、現在8店舗展開 -
12:30 名物ゆどうふ順正「おかべ家」
南禅寺にある湯豆腐の老舗「南禅寺順正」の支店にあたり、京町家風の店内で名物のゆどうふ・ゆば料理をいただける -
土産物店「尾州屋老舗古京庵」
清水坂から狭い脇道を入ると、正面に順正が経営する土産物店と、ゆどうふ「おかべ家」がある -
「京野菜のサークルオブジェ」
観光客で混雑する通りから中に入ると、「順正おかべ家」の敷地内に、ゆっくり休憩できる中庭があり、賀茂なすや聖護院かぶら、鹿ヶ谷かぼちゃなど、京野菜が描かれた大きなサークルがある -
京の夏の旅「五龍閣」(旧松風嘉定邸)特別公開
今回の目的は、通常非公開の「五龍閣」(ごりゅうかく)で、特別公開は7月10日~9月30日、1日6回 各45分(予約優先)のガイドツアーになっている -
「五龍閣」(ごりゅうかく)
この建物は、清水焼窯元の「松風嘉定」(しょうふうかじょう1870-1928)邸宅として、大正10年(1921)に、関西近代建築の父「武田五一」(たけだごいち1872-1938)の設計で建てられ、昭和51年(1976)に、湯豆腐順正の創業者「上田堪一郎」(うえだたんいちろう1906-1994 )が購入し、現在「CAFE五龍閣」として営業している -
カフェ「五龍閣」
平成21年(2009)にカフェとして生まれ変わった -
平成11年「登録有形文化財」
この建物は約100年前、清水焼窯元を洋食器・ガイシ・陶歯の製造へと国際的な事業に発展させた明治の起業家「松風嘉定」の邸宅で、主に迎賓館として使用された。設計は京都帝国大学建築学科の創設者「武田五一」によるもので、近代建築に和風を融合させた武田の傑作のひとつである。当時の進取の気風あふれた五龍閣は、京都を代表する貴重な住宅遺構として、1999年国の文化財に登録されている。 -
「夢二カフェ五龍閣」
途中、休業と改修を繰り返し、2024年12月にリニューアルオープンした -
「一階・大広間」カフェスペース
当時は、赤絨毯が敷き詰められ、重厚な趣の装飾の中で、ゲストを招いてダンスパーティを行っていた、現在はフローリングで靴を履いたままでOK -
「調度品も和洋中折衷」
入ってすぐの所に、存在感のある大きな円卓があり、京都をモチーフにした歌舞伎画や祇園祭の山鉾などがモザイクタイルで描かれていて、テーブルを囲んだ洋風の椅子と共に、部屋の腰壁やアンティークな窓と良くマッチしている -
「竹久夢二の絵」
店内には随所に竹久夢二の絵が飾られ「夢二カフェ」の由縁となっているが、これは現在の順正社長の母方祖父の「近藤義次」氏が音楽家で、楽譜の表紙に夢二の作品を使ったご縁で深い親交があり、夢二が一時清水坂に住んだ時の支えでもあったらしく、生前交わされた書簡や楽譜なども保存されているという -
「アーチ状の三連ステンドグラス」
大広間の先には、サンルームがあり、その境界には大きなアーチ状の三連ステンドグラスがあり、半円の中に半透明のガラスで7枚の菊の花びらを表現したデザインは、素晴らしい -
「一階・サンルーム」
南側には全面ガラス張りのサンルームがあり、ここで飲むコーヒーは格別、ガイド開始まで時間があったので待ち休憩 *1階のカフェはいつでも入場可能で、コーヒー800円~ -
天井の照明も、アール・ヌーヴォー風の優美な曲線で、部屋と一体化している
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サンルームの欄干窓には、小鳥たちが飛んだり休んだりして遊んでいるステンドグラスがあり、遊び心があって楽しくなる
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サンルームの窓からは、中庭の噴水が見えるのもニクイ!
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ガイドツアーが始まるので2階受付に上がる
清水寺参道にある由縁か、地主神社の子供神輿が飾ってある -
存在感のある「らせん階段」
この建物の中心は、3階まで吹き抜けの「らせん階段」で、シンプルでありながら重厚な感じのデザインが素晴らしい -
夢二以外の作品も多く飾られており、当時は松風嘉定がパトロンをしていた京都の洋画家「鹿子木孟郎」(かのこぎたけしろう1874-1941)の油絵が飾られていたそうだが、現在、踊り場にあるのは「吉田博」(1876-1950)の木版画らしい
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「二階の居室」で説明があったが、ここのステンドグラス、シャンデリア、星型飾りの天井も素晴らしい
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「二階・広間」
暖炉を備え、窓はアール・ヌーヴォー風の洋室だが、格天井(ごうてんじょう)や壁面の長押(なげし)など、格式の高い日本建築の技法も取り入れ、和洋折衷の素晴らしい部屋になっている -
「格天井」は、天井は複雑に升目がいくつもあり、周囲から一段高く盛り上げさらに中央を上げた「二重折り上げ格天井」という、格式高い御殿や寺院など、二条城などでも見られ様式で、これが洋室の中にあるのが凄い!
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どの部屋もケヤキ材がふんだんに使われた温かみのある部屋になっており、部屋ごとに意匠の違う窓が、アクセントになって見ていて楽しい
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どの部屋にも、大理石のマントルピースがあり、当時の贅を尽くした要素が随所に見られる
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この部屋に飾ってある絵は、「生悦住喜由(いけずみ きよし1913-2010)の木版画で、説明はないが、全館ギャラリーとなっている *よく見るこの絵は、「さかな屋」という「いろは44店」シリーズの一つで、「い:犬店」「ろ:ろうそく屋」「は:旅籠」など、いろは順にいろんな商店の風景が描かれている
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この「食器棚」は、当時からの造り付け食器棚で、松風嘉定が海外輸出用に作っていた洋食器が陳列されている
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五龍閣の二階のベランダ(南側バルコニー)から、敷地内に最初に建てられた日本家屋の母屋と、正面にしゃちほこの祖型とされる陶製の「鴟尾」(しび)が並んでいる
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2階の広間を出て3階へ上がる、3階へと続く階段踊り場にはこれを支える柱がなく、壁から張り出す構造と、天井から吊るという2つの構造を組み合わせた高度な技法で、吹き抜けを美しく見せるために、あえて柱を取り除いた、という点をガイドさんが強調していた
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三階の部屋は洋室1室のみ
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壁際に何か意味不明のものが置かれている
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「以前の風見鶏」写真
かつて最上部の望楼にあった「風見鶏」が、2018年、近畿地方に25年ぶりに上陸した台風21号で落下し、現在は室内で展示されている -
「三代目松風嘉定」肖像画 昭和4年(嘉定没翌年)鹿子木孟郎作
「松風嘉定」(しょうふうかじょう1870-1928)は、京都の清水焼の窯元から、陶磁器の技術を応用して、電気に欠かせない「碍子」(がいし:絶縁体)や、人工歯・義歯などの開発に成功し、事業を国際的な規模に拡大させ、現在の歯科材料メーカー「松風」の礎を築いた *「松風」は、大正11年(1922)創業、東福寺近くに本社を置く、人工歯や研削・研磨材分野で国内トップシェアを誇る総合歯科医療メーカーで、従業員約500名、年商約400億円 -
窓から左手に「八坂の塔」、右手に大雲院「祇園閣」が見える
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部屋ごとに異なる「シャンデリア」は見応えある
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アール・ヌーヴォー風の窓も、部屋ごとに異なり、ひし形や長方形に曲線も交えた意匠は見応えがあり、ステンドグラスもあって美しいが、大正ガラス越しに見る風景も美しい
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最後に「四階・望楼」 へ、人一人登るのがやっとの狭い階段を上がる
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「望楼」は、四方をガラスで囲んだわずか2畳の狭いスペースで、360度の眺望で京都市内を見渡すことが出来、全ての五山の送り火を見るために造られたと言われる、京都人にとっては最高の贅沢!
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西山方面には、京都タワーから石清水八幡宮の男山、大坂まで一望できる、東山方面には清水寺も目の前に見えるが、撮影は禁止されている
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東山方面の清水寺
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五龍閣「平成三拾年修復 順正上田闊三郎」(二代目社長?)と銘記
平成30年(2018年)は、京都を襲った台風21号で、風見鶏が落下した年で、外観・外壁の大規模改修を行い、城の天守閣などの「鯱(しゃちほこ)」の祖型となったとされる、陶製の「鴟尾」(しび)を屋根の上に載せた -
四階「望楼」から狭い階段を下り、外に出る
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南側に廻ると噴水池と回廊
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噴水池
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「南側全景」
外観は出窓やサンルーム、ベランダなど洋館に見えるが、屋根は瓦葺きで、入母屋と切妻を重ねて鴟尾(しぎ)を載せ、外壁は花崗岩とモルタルで、柱には雷紋(ラーメン渦巻き)やメダイヨン(丸型のレリーフ)の装飾が見られ、洋風と和風が組み合わさっている -
「松風嘉定が五龍閣を清水坂に建てた理由」
断崖絶壁に建つ「清水の舞台」も驚愕だが、こんな清水坂の中腹にあるのも驚きで、その理由を調べると、清水焼窯元の発祥の地であることと、自邸と共に、国内外のゲストを招く迎賓館が目的だったため、清水寺への参詣道であり、かつ清水寺と同じ目線で京都の町をいつでも一望できる、ということらしい -
「松風嘉定が武田五一に依頼した理由」
松風嘉定は、東京工業大学の同窓で、京都を中心に近代建築を手がけていた「あめりか屋」という住宅会社の西村磯十郎と交流があり、武田五一は、その顧問を務めていた関係で、日本の伝統と西洋の最先端デザインを融合するという武田の思想は、松風嘉定にとって最適な存在であった *「あめりか屋」は、同志社大学新島会館、富岡鉄斎宅、革島医院など、「武田五一」は、白河院、京都市役所、京都府立図書館、京都大学本館、島津製作所河原町本館、岩倉文庫、平安神宮大鳥居などの実績 -
「順正が五龍閣を購入した理由」
順正の創業者・上田堪一郎は古美術収集や茶人、数寄者として知られ、戦後繊維業から転じ、荒廃していた南禅寺境内の建物「順正書院」を昭和21年(1946)に購入し、昭和37年(1962)に湯豆腐料理「順正」を開業した人で、美術や建築への造詣が深く、五龍閣の建築美に惹かれ解体から守るために取得し、清水エリアでの店舗展開も考えて自社の所有地とした *「順正書院」は1839年江戸末期の蘭学者・医師の「新宮凉庭」が建立、京都国立博物館内の「茶室堪庵」は上田堪一郎の寄付 -
せっかくなので「清水坂」を清水寺まで上がる
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あいかわらず、インバウンドと修学旅行で大賑わい!
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15:00 久しぶりの、清水寺「仁王門」、ここから本堂までは約160m
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清水寺「仁王門」と「三重塔」
「清水寺」は、778年奈良の僧・延鎮の開山で、798年坂上田村麻呂の建立、度重なる火災で殆どの堂塔は江戸の1633年再建だが、「仁王門」は火災を免れた貴重な建物で室町後期の再建、「三重塔」は847年創建で1632年の再建で、 高さ30mは日本最大級の大きさを誇る三重塔 -
「茶わん坂」と呼ばれる「清水新道」を下る
「茶わん坂」は、五条坂から分岐して清水寺へ続く参道で、大正11年(1922)頃、通りの両側に清水焼(茶わん)を売る店や窯元が多く軒を連ねていたことから名付けられた -
15:30「東山五条」
「八坂神社」西門から「霊山護国神社」、「清水寺」、「東山五条」までの、直進距離3.5kmのウォーキングだったが、見どころ満載で万歩計は2万歩以上で、予定時間は軽くオーバーして帰宅
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