二条・烏丸・河原町旅行記(ブログ) 一覧に戻る
今月の平安京南北散歩は、富小路通や東洞院通などと同様、秀吉の洛中改造によって出来た「車屋町通」を歩きます。約1kmの短い通りですが、その先にはその延長と思われる「不明門通」(あけずのもんどおり)と呼ばれる面白い名前の通りが約1.3km続き、途中烏丸通を迂回する分も含めて約4kmのウォーキングです。<br />「車屋町通」の目的は、たまたま、応仁の乱からの歴史を誇り日本で1番古い蕎麦屋と言われる「本家尾張屋」さんが閉店するという、突然のニュースが流れたので、来年1月11日の閉店までに行っておきたいと思って、行列覚悟で行きましたが、何とか達成出来て満足です。<br />しかしこの建物は壊されるという話も聞いて、京町散歩でいつも気になるのは、古い建物が無くなったり、上手く活用されていたりすることですが、今回も「京の温所」を展開している大手企業の「ワコール」や、「Nazuna」というブランドで展開している若手経営者や、江戸時代から東本願寺が焼失するたびに再建に集まる門徒たちのために出来た「詰所」という宿泊所を、リニューアルしながら今でも続けている旅館など見かけて、ここではインバウンドのお陰もありますが、何とか「古木を繋ぎ、新し木を作る」、「温故知新」ならぬ「温故創新」が進んでいって欲しいものです。<br />また、午前中は今年4回目の京都植物園ミニツアーに行き、先月10月4日に天皇皇后両陛下が訪問された「どんぐりの森」や「観覧温室」を周り、これから始まる紅葉を期待しながら、いい気分転換となりました。

月一京町散歩(11月)平安京南北散歩「車屋町通」「不明門通」と「本家尾張屋」で食べ納め

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2025/11/06 - 2025/11/06

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Bach

Bachさん

今月の平安京南北散歩は、富小路通や東洞院通などと同様、秀吉の洛中改造によって出来た「車屋町通」を歩きます。約1kmの短い通りですが、その先にはその延長と思われる「不明門通」(あけずのもんどおり)と呼ばれる面白い名前の通りが約1.3km続き、途中烏丸通を迂回する分も含めて約4kmのウォーキングです。
「車屋町通」の目的は、たまたま、応仁の乱からの歴史を誇り日本で1番古い蕎麦屋と言われる「本家尾張屋」さんが閉店するという、突然のニュースが流れたので、来年1月11日の閉店までに行っておきたいと思って、行列覚悟で行きましたが、何とか達成出来て満足です。
しかしこの建物は壊されるという話も聞いて、京町散歩でいつも気になるのは、古い建物が無くなったり、上手く活用されていたりすることですが、今回も「京の温所」を展開している大手企業の「ワコール」や、「Nazuna」というブランドで展開している若手経営者や、江戸時代から東本願寺が焼失するたびに再建に集まる門徒たちのために出来た「詰所」という宿泊所を、リニューアルしながら今でも続けている旅館など見かけて、ここではインバウンドのお陰もありますが、何とか「古木を繋ぎ、新し木を作る」、「温故知新」ならぬ「温故創新」が進んでいって欲しいものです。
また、午前中は今年4回目の京都植物園ミニツアーに行き、先月10月4日に天皇皇后両陛下が訪問された「どんぐりの森」や「観覧温室」を周り、これから始まる紅葉を期待しながら、いい気分転換となりました。

  • 「車屋町通」(くるまやちょうどおり)は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の洛中改造によって、烏丸通と東洞院通の間に開通した通りで、東洞院が竹田街道に続いて交通の便が良かったことから、輸送業者や車鍛冶など車両関係の業者が集まったことに由来し、当初は、出水通から姉小路通まであったが、宝永5年(1708)の京都大火の後、京都御所の拡大により現在の丸太町通から姉小路通間の約1kmの通りとなった。そしてその先にはその延長と思われる断片が残されていて、高辻通先から塩小路通までは、因幡薬師(平等寺)の南門が常に閉ざされていたことから「不明門通」(あけずのもんどおり)と呼ばれる約1.3kmの通りが続く。この通りは東本願寺との関係が深く、仏具店や旅館が多いが、途中東本願寺の前で隣の烏丸通と一体になっており、明治時代の市電の痕跡が残されている

    「車屋町通」(くるまやちょうどおり)は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の洛中改造によって、烏丸通と東洞院通の間に開通した通りで、東洞院が竹田街道に続いて交通の便が良かったことから、輸送業者や車鍛冶など車両関係の業者が集まったことに由来し、当初は、出水通から姉小路通まであったが、宝永5年(1708)の京都大火の後、京都御所の拡大により現在の丸太町通から姉小路通間の約1kmの通りとなった。そしてその先にはその延長と思われる断片が残されていて、高辻通先から塩小路通までは、因幡薬師(平等寺)の南門が常に閉ざされていたことから「不明門通」(あけずのもんどおり)と呼ばれる約1.3kmの通りが続く。この通りは東本願寺との関係が深く、仏具店や旅館が多いが、途中東本願寺の前で隣の烏丸通と一体になっており、明治時代の市電の痕跡が残されている

  • 9:30植物園~地下鉄北山駅~11:00烏丸丸太町駅~車屋町通~(竹屋町通)~小少尉旧跡~京都新聞~(夷川通)~薫習館~(二条通)~雨森敬太郎薬房~0.5km12:00「本家尾張屋」13:00~(押小路通)~石田梅岩講舎跡~(御池通)~亀末廣(和菓子店)~0.4km/1.0km(姉小路通)~(中断)~1.5km因幡堂石灯籠~因幡薬師(平等寺)~川上雅宣堂(松原通)~(万寿寺通)~京の文化の石畳~0.5km/3.0km蕎麦料理よしむら(五条通)~(楊梅通)~(鍵屋町通)~(的場通)~福田人形匠庵~(六条通)~(花屋長通)~長安寺~福永念珠舗~(上珠数屋町通)~八木仏具店~ホテルNazuna京都東本願寺~(烏丸通と合体)、山田屋旅館~(正面通)~(下珠数屋町通)~(烏丸通と分離)森信三郎商舗~東光寺~(七条通)~(塩小路通)~1.3km/4.0km京都駅「ナチュラルカフェ」

    9:30植物園~地下鉄北山駅~11:00烏丸丸太町駅~車屋町通~(竹屋町通)~小少尉旧跡~京都新聞~(夷川通)~薫習館~(二条通)~雨森敬太郎薬房~0.5km12:00「本家尾張屋」13:00~(押小路通)~石田梅岩講舎跡~(御池通)~亀末廣(和菓子店)~0.4km/1.0km(姉小路通)~(中断)~1.5km因幡堂石灯籠~因幡薬師(平等寺)~川上雅宣堂(松原通)~(万寿寺通)~京の文化の石畳~0.5km/3.0km蕎麦料理よしむら(五条通)~(楊梅通)~(鍵屋町通)~(的場通)~福田人形匠庵~(六条通)~(花屋長通)~長安寺~福永念珠舗~(上珠数屋町通)~八木仏具店~ホテルNazuna京都東本願寺~(烏丸通と合体)、山田屋旅館~(正面通)~(下珠数屋町通)~(烏丸通と分離)森信三郎商舗~東光寺~(七条通)~(塩小路通)~1.3km/4.0km京都駅「ナチュラルカフェ」

  • 9:30「京都植物園」<br />今年4回目の植物園、ガイド付きのミニツアーで、四季折々の変化が楽しめてレフレッシュになる

    9:30「京都植物園」
    今年4回目の植物園、ガイド付きのミニツアーで、四季折々の変化が楽しめてレフレッシュになる

  • 11月 の京都植物園

    11月 の京都植物園

  • (2025/9/10撮影)9月の京都植物園

    (2025/9/10撮影)9月の京都植物園

  • (2025/5/14撮影)5月の京都植物園

    (2025/5/14撮影)5月の京都植物園

  • (2025/3/05撮影)3月の京都植物園

    (2025/3/05撮影)3月の京都植物園

  • 11:00 植物園から烏丸丸太町駅へ移動<br />地下鉄から出たところが「烏丸通」で、1本隣の筋が「車屋町通」

    11:00 植物園から烏丸丸太町駅へ移動
    地下鉄から出たところが「烏丸通」で、1本隣の筋が「車屋町通」

  • 「京都御苑」も秋の模様<br />今日、植物園で教えてもらったばかりの「アメリカヅタ」の紅葉が際立っている *「アメリカヅタ」は、エノキなどに絡まっているつる性植物で、紅葉シーズンのスタートを告げる存在

    「京都御苑」も秋の模様
    今日、植物園で教えてもらったばかりの「アメリカヅタ」の紅葉が際立っている *「アメリカヅタ」は、エノキなどに絡まっているつる性植物で、紅葉シーズンのスタートを告げる存在

  • 「車屋町通」(くるまやちょうどおり)

    「車屋町通」(くるまやちょうどおり)

  • 「高麗屋」(こまや?)ギャラリーカフェ

    「高麗屋」(こまや?)ギャラリーカフェ

  • (竹屋町通)「和牛ラーメン笑門」<br />1,600円のラーメンは完全にインバウンド向け

    (竹屋町通)「和牛ラーメン笑門」
    1,600円のラーメンは完全にインバウンド向け

  • 「京都新聞」第一別館

    「京都新聞」第一別館

  • 「山茶花社」(さざんかしゃ)<br />建物は明治13年(1880)建立の、国の有形文化財登録「西島家住宅」で、現在、短歌・書道・華道・茶道入の教室、及び「山茶花美術館」として使用されている

    「山茶花社」(さざんかしゃ)
    建物は明治13年(1880)建立の、国の有形文化財登録「西島家住宅」で、現在、短歌・書道・華道・茶道入の教室、及び「山茶花美術館」として使用されている

  • 「少将井旧跡」(しょうしょういきゅうせき)<br />平安中期の歌人「少将井尼」(しょうしょうのいのあま)と呼ばれた歌人の邸宅があった場所で、邸宅の庭には「枕草子」でも記述されている京都の名水と呼ばれた「少将井」があった、その後、祇園祭の山鉾巡行の御旅所となり、櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)を祀る東御座(ひがしござ)の神輿が安置され、中御座(なかござ)素戔嗚尊(スサノオノミコト)と、西御座(にしござ)八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)が安置される「大政所御旅所」と2ヶ所であったが、秀吉により現在の四条寺町の御旅所に統合された<br /><br />

    「少将井旧跡」(しょうしょういきゅうせき)
    平安中期の歌人「少将井尼」(しょうしょうのいのあま)と呼ばれた歌人の邸宅があった場所で、邸宅の庭には「枕草子」でも記述されている京都の名水と呼ばれた「少将井」があった、その後、祇園祭の山鉾巡行の御旅所となり、櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)を祀る東御座(ひがしござ)の神輿が安置され、中御座(なかござ)素戔嗚尊(スサノオノミコト)と、西御座(にしござ)八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)が安置される「大政所御旅所」と2ヶ所であったが、秀吉により現在の四条寺町の御旅所に統合された

  • 「京都新聞」烏丸通側にも「少将井跡」案内板がある

    「京都新聞」烏丸通側にも「少将井跡」案内板がある

  • この辺りは「京都新聞社」ビルが建ち並び、印刷工場跡は「京都印刷発祥の地」

    この辺りは「京都新聞社」ビルが建ち並び、印刷工場跡は「京都印刷発祥の地」

  • 「京の温所」<br />この辺りで良く見かける京町家を活用した一棟貸しの宿泊施設で、地元企業の「ワコール」が、「京都の街並みを次世代に残したい」という思いで2018年度にスタートし、ロイヤルパークホテルズと提携し現在7棟を展開している、住み手がなく手付かずとなった町家を10年~15年で借りて、活用後はそのままの状態で返却するという

    「京の温所」
    この辺りで良く見かける京町家を活用した一棟貸しの宿泊施設で、地元企業の「ワコール」が、「京都の街並みを次世代に残したい」という思いで2018年度にスタートし、ロイヤルパークホテルズと提携し現在7棟を展開している、住み手がなく手付かずとなった町家を10年~15年で借りて、活用後はそのままの状態で返却するという

  • (夷川通)「フリアンディーズ」(フランス語でお菓子の意)人気のパン屋さん

    (夷川通)「フリアンディーズ」(フランス語でお菓子の意)人気のパン屋さん

  • 左「茶寮哲心」(高級蕎麦店)と、右「大塚巧藝社」(出版社)

    左「茶寮哲心」(高級蕎麦店)と、右「大塚巧藝社」(出版社)

  • 「松栄堂」(しょうえいどう)<br />1705年創業の老舗お香屋さん 御所で水・氷・粥などをつかさどる「主水職」(もひとりのつかさ)を勤めた3代目が香づくりに携わり現在13代目、線香や匂い袋など年商40億円

    「松栄堂」(しょうえいどう)
    1705年創業の老舗お香屋さん 御所で水・氷・粥などをつかさどる「主水職」(もひとりのつかさ)を勤めた3代目が香づくりに携わり現在13代目、線香や匂い袋など年商40億円

  • 「薫習館」(くんしゅうかん)<br />「松栄堂」の展示館として、香料の生産や文化に関する展示を行い、香り文化の情報発信拠点とする

    「薫習館」(くんしゅうかん)
    「松栄堂」の展示館として、香料の生産や文化に関する展示を行い、香り文化の情報発信拠点とする

  • (二条通)車屋町二条

    (二条通)車屋町二条

  • 「雨森敬太郎薬房」(あまもりけいたろうやくぼう)<br />屋根看板と、黒壁に虫籠窓を持った風格のある建物は、江戸時代慶安元年(1648)創業の老舗薬屋さん、看板の「無二膏」(むにこう)は、江戸時代からある腫れ物に効く膏薬で、「北印雨森無二膏」を商標として、現在15代当主まで続いている

    「雨森敬太郎薬房」(あまもりけいたろうやくぼう)
    屋根看板と、黒壁に虫籠窓を持った風格のある建物は、江戸時代慶安元年(1648)創業の老舗薬屋さん、看板の「無二膏」(むにこう)は、江戸時代からある腫れ物に効く膏薬で、「北印雨森無二膏」を商標として、現在15代当主まで続いている

  • 「無二膏」(むにこう)<br />初代の「雨森良意」は、御所の御典医(御用医師)を務めていたが、腫れ物、でき物に効く膏薬を作り出し、この世に二つと無いほど良く効く「無二膏」と呼ばれて人気が高まり、製造が追いつかないほどになったので、御典医を辞め、当時「薬の町」と呼ばれた二条通で無二膏作りに専念した

    「無二膏」(むにこう)
    初代の「雨森良意」は、御所の御典医(御用医師)を務めていたが、腫れ物、でき物に効く膏薬を作り出し、この世に二つと無いほど良く効く「無二膏」と呼ばれて人気が高まり、製造が追いつかないほどになったので、御典医を辞め、当時「薬の町」と呼ばれた二条通で無二膏作りに専念した

  • (2024/10/11撮影)同様な屋根看板のある「秦家」(はたけ)<br />油小路通・仏光寺通にある「秦家」は、元禄13年(1700)創業の薬屋で、小児薬「奇応丸」(きおうがん)を製造・販売し、明治初期には京都で1、2の薬屋さんだった

    (2024/10/11撮影)同様な屋根看板のある「秦家」(はたけ)
    油小路通・仏光寺通にある「秦家」は、元禄13年(1700)創業の薬屋で、小児薬「奇応丸」(きおうがん)を製造・販売し、明治初期には京都で1、2の薬屋さんだった

  • (2024/8/24撮影)「井上清七薬房」(いのうえせいひちやくぼう)<br />麩屋町通・仏光寺通にある「井上清七薬房」は、江戸時代嘉永元年(1848)創業の家庭薬の老舗で、「御目洗薬」(おめあらいぐすり)は「井上目洗薬」とも呼ばれる京都の伝統薬で、ハマグリの殻に入った練り薬として、ただれ目、かすみ目、やに目、充血などに効果があり、近年まで存在した目薬らしい

    (2024/8/24撮影)「井上清七薬房」(いのうえせいひちやくぼう)
    麩屋町通・仏光寺通にある「井上清七薬房」は、江戸時代嘉永元年(1848)創業の家庭薬の老舗で、「御目洗薬」(おめあらいぐすり)は「井上目洗薬」とも呼ばれる京都の伝統薬で、ハマグリの殻に入った練り薬として、ただれ目、かすみ目、やに目、充血などに効果があり、近年まで存在した目薬らしい

  • 「本家尾張屋」(ほんけおわりや)<br />応仁の乱の前年1465年創業、560年の歴史を誇る老舗蕎麦屋さんと和菓子屋さんで、日本で1番古い蕎麦屋と言われ、店構えは明治時代に建てられた築130年の立派な建物で、京都でも室町時代からの超老舗として人気店だったが、先月10月8日に突然、来年1月11日閉店のお知らせが流れ、京都では一大ニュースとなった

    「本家尾張屋」(ほんけおわりや)
    応仁の乱の前年1465年創業、560年の歴史を誇る老舗蕎麦屋さんと和菓子屋さんで、日本で1番古い蕎麦屋と言われ、店構えは明治時代に建てられた築130年の立派な建物で、京都でも室町時代からの超老舗として人気店だったが、先月10月8日に突然、来年1月11日閉店のお知らせが流れ、京都では一大ニュースとなった

  • 「本家尾張屋」は、室町時代に尾張国から上洛して「菓子」職人となり、江戸時代中頃には禅寺の依頼で「蕎麦」を作るようになり、御所への出入りが許される「御用蕎麦司」(ごようそばつかさ)になり、宮中に蕎麦つくりに行ったり、宮家や寺院からの注文も増えて、以来「菓子」と「蕎麦」の二枚看板の商いを続けている *禅寺では修行僧が中国から持ち帰った「蕎麦切り」を食べるようになり、寺では賄いきれないので「練る・伸ばす・切る」の技術を持っていた菓子屋に注文するようになったという

    「本家尾張屋」は、室町時代に尾張国から上洛して「菓子」職人となり、江戸時代中頃には禅寺の依頼で「蕎麦」を作るようになり、御所への出入りが許される「御用蕎麦司」(ごようそばつかさ)になり、宮中に蕎麦つくりに行ったり、宮家や寺院からの注文も増えて、以来「菓子」と「蕎麦」の二枚看板の商いを続けている *禅寺では修行僧が中国から持ち帰った「蕎麦切り」を食べるようになり、寺では賄いきれないので「練る・伸ばす・切る」の技術を持っていた菓子屋に注文するようになったという

  • 創業寛正六年(1465)一子相伝「そばもち」<br />江戸時代になって菓子と蕎麦の二枚看板の商いから生まれたのが「そば餅」で、こし餡を蕎麦入りの皮で包み焼き上げた饅頭は上品な味で「一子相伝」と言われ、他にも、蕎麦板、蕎麦ぼうる、蕎麦わらびなどある *同様に、御幸町通にある老舗の蕎麦屋「河道屋」も、餅菓子屋さんから始まり、江戸時代に(多分同じ事情で)蕎麦も商うようになり、明治には「蕎麦ほうる」が誕生し、現在も「菓子屋」と「蕎麦屋」を続けている

    創業寛正六年(1465)一子相伝「そばもち」
    江戸時代になって菓子と蕎麦の二枚看板の商いから生まれたのが「そば餅」で、こし餡を蕎麦入りの皮で包み焼き上げた饅頭は上品な味で「一子相伝」と言われ、他にも、蕎麦板、蕎麦ぼうる、蕎麦わらびなどある *同様に、御幸町通にある老舗の蕎麦屋「河道屋」も、餅菓子屋さんから始まり、江戸時代に(多分同じ事情で)蕎麦も商うようになり、明治には「蕎麦ほうる」が誕生し、現在も「菓子屋」と「蕎麦屋」を続けている

  • 「本家尾張屋 菓子処」<br />2020年に、隣接した場所にお菓子の新店舗をオープンしたが、現在は閉店している、これは2014年初の女性当主になった16代目が、蕎麦ジェラートや蕎麦チャイなど提供した店で、先代の長女になる16代目は、17歳でアメリカに留学し写真家となり活動し、39歳で実家に帰り家業を継ぎ、今も写真家との二刀流で活動しているが、残念ながら閉店を決断したらしい

    「本家尾張屋 菓子処」
    2020年に、隣接した場所にお菓子の新店舗をオープンしたが、現在は閉店している、これは2014年初の女性当主になった16代目が、蕎麦ジェラートや蕎麦チャイなど提供した店で、先代の長女になる16代目は、17歳でアメリカに留学し写真家となり活動し、39歳で実家に帰り家業を継ぎ、今も写真家との二刀流で活動しているが、残念ながら閉店を決断したらしい

  • 「2026年1月11日をもって閉店」のお知らせ<br />「菓子処」は「本家尾張屋」の茶室前庭園と繋がり、一時は人気になったが、閉店を発表、詳細はあらためて発表するらしいが、店舗は売却し今後のことは検討中という。閉店理由としては、コロナ禍による経営不振、老朽化した建物の改修工事が困難、先行き不透明な物価高騰と人手不足の3点を挙げているが、これは明らかに、事業継承の難しさを表しているもので、京都には江戸、明治、大正時代からの老舗が沢山あるだけに、悩ましい!

    「2026年1月11日をもって閉店」のお知らせ
    「菓子処」は「本家尾張屋」の茶室前庭園と繋がり、一時は人気になったが、閉店を発表、詳細はあらためて発表するらしいが、店舗は売却し今後のことは検討中という。閉店理由としては、コロナ禍による経営不振、老朽化した建物の改修工事が困難、先行き不透明な物価高騰と人手不足の3点を挙げているが、これは明らかに、事業継承の難しさを表しているもので、京都には江戸、明治、大正時代からの老舗が沢山あるだけに、悩ましい!

  • 店頭で販売している、お持ち帰りのお菓子や蕎麦は、並ばなくても買えるが、蕎麦屋の行列は玄関前から並ぶ

    店頭で販売している、お持ち帰りのお菓子や蕎麦は、並ばなくても買えるが、蕎麦屋の行列は玄関前から並ぶ

  • メニューは、名物の「宝来そば」2,970円、「にしんそば」1,870円、「利休そば」(湯葉、生麩など)1,760円、「せいろ」1,100円、「かけ」990円、「きつね」1,100円、「天ぷらそば」2,200円 と意外とリーズナブル

    メニューは、名物の「宝来そば」2,970円、「にしんそば」1,870円、「利休そば」(湯葉、生麩など)1,760円、「せいろ」1,100円、「かけ」990円、「きつね」1,100円、「天ぷらそば」2,200円 と意外とリーズナブル

  • 玄関入り口横にある茶室は、御用蕎麦師として茶の湯にも親しんでいたという名残りを表し、唯一庭園を見ながらの食事が出来る

    玄関入り口横にある茶室は、御用蕎麦師として茶の湯にも親しんでいたという名残りを表し、唯一庭園を見ながらの食事が出来る

  • 囲炉裏スペースもあり、店舗内は92席もある広さで、座敷や椅子席などゆったり空間が広がる

    囲炉裏スペースもあり、店舗内は92席もある広さで、座敷や椅子席などゆったり空間が広がる

  • 椅子席スペース

    椅子席スペース

  • 歴史があるだけに、調度品も凄いものばかり

    歴史があるだけに、調度品も凄いものばかり

  • 展示だけでも勿体ないので、一つずつ説明が欲しい

    展示だけでも勿体ないので、一つずつ説明が欲しい

  • 案内されたのは一番奥の椅子座敷スペースで、一番落ち着く部屋

    案内されたのは一番奥の椅子座敷スペースで、一番落ち着く部屋

  • 名物「宝来そば」<br />戦後からある名物そばで、5段の漆器に盛り付けられた蕎麦に、8種類の薬味が添えられている、かつて蕎麦が「宝来」と呼ばれていたことからの命名、薬味8種は、わさび、のり、ねぎ、ごま、紅葉おろし、錦糸卵、椎茸、海老あられ揚げ

    名物「宝来そば」
    戦後からある名物そばで、5段の漆器に盛り付けられた蕎麦に、8種類の薬味が添えられている、かつて蕎麦が「宝来」と呼ばれていたことからの命名、薬味8種は、わさび、のり、ねぎ、ごま、紅葉おろし、錦糸卵、椎茸、海老あられ揚げ

  • 「宝来」(ほうらい)<br />室町時代の金箔職人が、部屋に散った金箔を集めるために蕎麦粉を撒き、篩(ふるい)にかけて金箔だけを集めていたことから、金すなわち宝を集めるのは「縁起が良い」ということで、蕎麦は「宝来」と呼ばれるようになり、大晦日には蕎麦を食べる風習が広まったといわれ、尾張屋の「宝来そば」は、おめでたい食べ物として、戦後に先々代の十四代目が考案した(HPより)

    「宝来」(ほうらい)
    室町時代の金箔職人が、部屋に散った金箔を集めるために蕎麦粉を撒き、篩(ふるい)にかけて金箔だけを集めていたことから、金すなわち宝を集めるのは「縁起が良い」ということで、蕎麦は「宝来」と呼ばれるようになり、大晦日には蕎麦を食べる風習が広まったといわれ、尾張屋の「宝来そば」は、おめでたい食べ物として、戦後に先々代の十四代目が考案した(HPより)

  • (食べ方)1段ずつ分けて、好みの薬味をのせ、壷のお出汁をかけて食し、最後に急須の蕎麦湯を湯呑に注いで飲む

    (食べ方)1段ずつ分けて、好みの薬味をのせ、壷のお出汁をかけて食し、最後に急須の蕎麦湯を湯呑に注いで飲む

  • 蕎麦粉は、契約栽培の北海道産を使い、毎朝、比叡山水系の伏流水の地下水を使い蕎麦を打ち、注文が入ってから湯がいて、打ちたて・湯がきたての香りとコシが売りだが、何よりもこの歴史ある建物と風情が魅力

    蕎麦粉は、契約栽培の北海道産を使い、毎朝、比叡山水系の伏流水の地下水を使い蕎麦を打ち、注文が入ってから湯がいて、打ちたて・湯がきたての香りとコシが売りだが、何よりもこの歴史ある建物と風情が魅力

  • 外に出ると行列が長くなっている、誰かエンジェル投資家が現れないか、淡い期待を抱きながら店を出る

    外に出ると行列が長くなっている、誰かエンジェル投資家が現れないか、淡い期待を抱きながら店を出る

  • (押小路通)「じじばば木馬亭」<br />名前がユニークなのでマークしている店で、京都駅前にある居酒屋「酒肴屋じじばば」の支店

    (押小路通)「じじばば木馬亭」
    名前がユニークなのでマークしている店で、京都駅前にある居酒屋「酒肴屋じじばば」の支店

  • (押小路通)「品川亭」肉屋さん<br />町散歩はいろんな店があって楽しい、ここは肉よりもお惣菜の店、肉屋のコロッケ100円は魅力

    (押小路通)「品川亭」肉屋さん
    町散歩はいろんな店があって楽しい、ここは肉よりもお惣菜の店、肉屋のコロッケ100円は魅力

  • 「静鉄ホテルプレジオ」の前に石碑がある<br />「静鉄ホテルプレジオ」は、静岡鉄道(株)が運営するビジネスホテルチェーンで、静岡に3軒の他、県外に5軒ある(内京都2軒)

    「静鉄ホテルプレジオ」の前に石碑がある
    「静鉄ホテルプレジオ」は、静岡鉄道(株)が運営するビジネスホテルチェーンで、静岡に3軒の他、県外に5軒ある(内京都2軒)

  • 「石門心学発祥之地、此付近石田梅岩講舎跡」<br />石門心学(せきもんしんがく)とは、江戸時代中期の思想家である石田梅岩(いしだばいがん1685-1744)が創始した庶民のための生活哲学で、享保14年(1729)に自宅で講席を開き、石門心学の普及に尽力した

    「石門心学発祥之地、此付近石田梅岩講舎跡」
    石門心学(せきもんしんがく)とは、江戸時代中期の思想家である石田梅岩(いしだばいがん1685-1744)が創始した庶民のための生活哲学で、享保14年(1729)に自宅で講席を開き、石門心学の普及に尽力した

  • (駒札)「此付近石田梅岩講舎跡」この車屋町御池上る付近には、江戸時代、石門心学を説いた石田梅岩の講舎があった。丹波国(現在の亀岡市)に生まれた「石田梅岩」は、京都に出て呉服屋で奉公した後、享保14年(1729)に講席を開き、聴講料を一切取らず、だれでも自由に聴講できる形で講義を始めた。その講義の中で、正直・倹約・勤勉など道徳の中心に人が人として生きる道について、町人が日常的に実践できる形でわかりやすく説いており、そのわかりやすさが多くの町人の心をとらえ、石門心学として広まった。 の石田梅岩の教えは、とりわけ商人の間に広まり、三百五十年以上を隔てた今日においても、多くの京都商人の経営理念に取り入れられ、商人の職業道徳の基本となるとともに、現代の人権文化の発展にも大きな影響を与えている。 <br />(駒札)「石門心学発祥之地」石田梅岩先生(1685~1744)は、京都の呉服商に勤め、独学で神儒仏を学び、そして小栗了雲(おぐり りょううん)に出会って指導を受けた。45歳にこの塗師屋町(ぬしやちょう)でだれでも自由に聴講できる講義を始め、門弟に人と してのあるべき道を教えた。彼は受講者の身分、男女、年齢、宗教を向かず、心を知るための修養を生涯現き続けた。 彼の弟子が師の教義を「石門心学」と名付け、全国に百八十あまりの講舎を設立した。江戸時代における一大教化機関となり、明治以降の経済発展に大きな影響を与えた。開講290年に当たり、ここに記念碑を建立する。

    (駒札)「此付近石田梅岩講舎跡」この車屋町御池上る付近には、江戸時代、石門心学を説いた石田梅岩の講舎があった。丹波国(現在の亀岡市)に生まれた「石田梅岩」は、京都に出て呉服屋で奉公した後、享保14年(1729)に講席を開き、聴講料を一切取らず、だれでも自由に聴講できる形で講義を始めた。その講義の中で、正直・倹約・勤勉など道徳の中心に人が人として生きる道について、町人が日常的に実践できる形でわかりやすく説いており、そのわかりやすさが多くの町人の心をとらえ、石門心学として広まった。 の石田梅岩の教えは、とりわけ商人の間に広まり、三百五十年以上を隔てた今日においても、多くの京都商人の経営理念に取り入れられ、商人の職業道徳の基本となるとともに、現代の人権文化の発展にも大きな影響を与えている。
    (駒札)「石門心学発祥之地」石田梅岩先生(1685~1744)は、京都の呉服商に勤め、独学で神儒仏を学び、そして小栗了雲(おぐり りょううん)に出会って指導を受けた。45歳にこの塗師屋町(ぬしやちょう)でだれでも自由に聴講できる講義を始め、門弟に人と してのあるべき道を教えた。彼は受講者の身分、男女、年齢、宗教を向かず、心を知るための修養を生涯現き続けた。 彼の弟子が師の教義を「石門心学」と名付け、全国に百八十あまりの講舎を設立した。江戸時代における一大教化機関となり、明治以降の経済発展に大きな影響を与えた。開講290年に当たり、ここに記念碑を建立する。

  • (御池通)少し烏丸通側に「烏丸御池遺跡・平安京跡」石碑がある<br />この辺りは、発掘調査によって弥生時代の住居跡や古墳時代の遺物などが見つかっていることから、有史以前より集落が営まれていたことが推定され、平安京では二条大路と三条大路の間を通っていた「三条坊門小路」が現在の「御池通」に相当する

    (御池通)少し烏丸通側に「烏丸御池遺跡・平安京跡」石碑がある
    この辺りは、発掘調査によって弥生時代の住居跡や古墳時代の遺物などが見つかっていることから、有史以前より集落が営まれていたことが推定され、平安京では二条大路と三条大路の間を通っていた「三条坊門小路」が現在の「御池通」に相当する

  • (御池車屋町)

    (御池車屋町)

  • 御池通から少し進むと、行き止まりになり、ここで「車屋町通」は終了

    御池通から少し進むと、行き止まりになり、ここで「車屋町通」は終了

  • (姉小路通)突き当りは、2020年に「京都中央電話局」跡に出来たホテルで、左の壁は「御菓子司亀末廣」

    (姉小路通)突き当りは、2020年に「京都中央電話局」跡に出来たホテルで、左の壁は「御菓子司亀末廣」

  • 「御菓子司亀末廣」(おかしつかさかめすえひろ)<br />文化元年(1804)創業の「上菓子屋」(主に宮中や公家、社寺、茶道家元などに献上する高品質な和菓子)で、二条城や御所にも納める老舗、江戸時代からの対面販売を頑なに守り続け、支店も通販もなく、店頭でしか購入できないという老舗中の老舗

    「御菓子司亀末廣」(おかしつかさかめすえひろ)
    文化元年(1804)創業の「上菓子屋」(主に宮中や公家、社寺、茶道家元などに献上する高品質な和菓子)で、二条城や御所にも納める老舗、江戸時代からの対面販売を頑なに守り続け、支店も通販もなく、店頭でしか購入できないという老舗中の老舗

  • 「御菓子司亀末廣」の看板<br />注目は、間口の広い堂々とした店構えにひときわ目立つ看板で、江戸時代の創業当時からの歴史を受け継ぐ土蔵造りの建物に、横長の木彫看板がある。これは良く見ないと分からないが、看板を縁取っている木枠は、御所や二条城からの特別注文で一回だけ使って用済みとなってたくさん残っていた「干菓子の木型」で、そこには桔梗や牡丹、菖蒲、魚、鷹、鶴、海老など、細かい細工が施されていて、もうこれだけで立派な芸術品

    「御菓子司亀末廣」の看板
    注目は、間口の広い堂々とした店構えにひときわ目立つ看板で、江戸時代の創業当時からの歴史を受け継ぐ土蔵造りの建物に、横長の木彫看板がある。これは良く見ないと分からないが、看板を縁取っている木枠は、御所や二条城からの特別注文で一回だけ使って用済みとなってたくさん残っていた「干菓子の木型」で、そこには桔梗や牡丹、菖蒲、魚、鷹、鶴、海老など、細かい細工が施されていて、もうこれだけで立派な芸術品

  • 土蔵の白壁には、「末広がりの扇に亀」のデザイン<br />「亀末廣」は支店などがない代わりに、代々弟子の育成に努め、暖簾分けの店が多く、調べると、亀廣保(かめひろやす)1915年、亀廣永(かめひろなが)1936年、亀屋廣房(かめやひろふさ)1941年、亀廣脇(かめひろわき)1943年、亀廣宗(かめひろむね) 1952年、滋賀末富 (すえとみ)1893年、大阪亀広良(かめひろよし)1941年、名古屋亀末廣(かめすえひろ)1954年など多い、他にもこことは関係ないが、京都には亀や鶴のつく和菓子屋さんが多く、亀屋粟義(かめやあわよし)、亀屋伊織(かめやいおり)、亀屋圓月(かめやえんげつ)、亀屋清永(かめやきよなが)、亀屋重久(かめやしげひさ)、亀屋秋月(かめやしゆうげつ)、亀屋友永(かめやともなが)、亀屋良長(かめやよしなが)等々、それぞれの歴史を調べるとキリがない

    土蔵の白壁には、「末広がりの扇に亀」のデザイン
    「亀末廣」は支店などがない代わりに、代々弟子の育成に努め、暖簾分けの店が多く、調べると、亀廣保(かめひろやす)1915年、亀廣永(かめひろなが)1936年、亀屋廣房(かめやひろふさ)1941年、亀廣脇(かめひろわき)1943年、亀廣宗(かめひろむね) 1952年、滋賀末富 (すえとみ)1893年、大阪亀広良(かめひろよし)1941年、名古屋亀末廣(かめすえひろ)1954年など多い、他にもこことは関係ないが、京都には亀や鶴のつく和菓子屋さんが多く、亀屋粟義(かめやあわよし)、亀屋伊織(かめやいおり)、亀屋圓月(かめやえんげつ)、亀屋清永(かめやきよなが)、亀屋重久(かめやしげひさ)、亀屋秋月(かめやしゆうげつ)、亀屋友永(かめやともなが)、亀屋良長(かめやよしなが)等々、それぞれの歴史を調べるとキリがない

  • 「春芳堂」(しゅんぽうどう)<br />隣は、安政3年(1856)創業の表具店で、赤い文字の看板は、ここの表具を好んでいたという日本画の大家「竹内栖鳳」(たけうちせいほう1864-1942)の書、看板を見るのは楽しい

    「春芳堂」(しゅんぽうどう)
    隣は、安政3年(1856)創業の表具店で、赤い文字の看板は、ここの表具を好んでいたという日本画の大家「竹内栖鳳」(たけうちせいほう1864-1942)の書、看板を見るのは楽しい

  • 「三條東殿遺址」(さんじょうひがしどのいせき)<br />この辺りは、平安時代の天皇・皇族・貴族の高級住宅街であったエリアで、藤原道長の邸宅跡とされ、白河法皇、鳥羽上皇、後白河上皇の院御所としても使われ、院政期の政治・文化的な中心地の一つで、特に平清盛が源氏と戦い平氏政権になった「平治の乱」(1159)では、当時後白河上皇の院御所であったこの地を襲撃したのが発端となり、この辺りは地獄絵図となり、上皇はここから連れ出されて幽閉され、若き源頼朝は北条氏の韮山に流刑されて、1192年鎌倉幕府を興すことになる

    「三條東殿遺址」(さんじょうひがしどのいせき)
    この辺りは、平安時代の天皇・皇族・貴族の高級住宅街であったエリアで、藤原道長の邸宅跡とされ、白河法皇、鳥羽上皇、後白河上皇の院御所としても使われ、院政期の政治・文化的な中心地の一つで、特に平清盛が源氏と戦い平氏政権になった「平治の乱」(1159)では、当時後白河上皇の院御所であったこの地を襲撃したのが発端となり、この辺りは地獄絵図となり、上皇はここから連れ出されて幽閉され、若き源頼朝は北条氏の韮山に流刑されて、1192年鎌倉幕府を興すことになる

  • 「新風館」エースホテル京都<br />大正15年(1926)建立の「旧京都中央電話局」が、2001年、外観そのままに商業施設にリニューアルされたが、2016年に閉館し、2020年に電話局の一部を残した「保存棟」と、隈研吾さん監修による「新築棟」で構成された建物に再リニューアルされて、アジア初進出の「エースホテル京都」やミニシアターなど20店舗の複合施設となった *「エースホテル京都」は、アメリカを本拠地とし国内外8カ所でホテルを運営しているが、最近2025年9月西武プリンスが買収している

    「新風館」エースホテル京都
    大正15年(1926)建立の「旧京都中央電話局」が、2001年、外観そのままに商業施設にリニューアルされたが、2016年に閉館し、2020年に電話局の一部を残した「保存棟」と、隈研吾さん監修による「新築棟」で構成された建物に再リニューアルされて、アジア初進出の「エースホテル京都」やミニシアターなど20店舗の複合施設となった *「エースホテル京都」は、アメリカを本拠地とし国内外8カ所でホテルを運営しているが、最近2025年9月西武プリンスが買収している

  • 「近畿電気通信局管内自動式電話交換創始ゆかりの地」<br />この建物は、大正15年に建築された「京都中央電話局」で、電子交換の普及により遊休スペースとなり、現在の商業施設に生まれ変わった (説明板より)昭和3年、近畿における自動式電話交換が、京阪神地区の6局で開始されました。この工事は、大阪・神戸はH形方式 京都はA形方式で 大阪逓信局工務課を中心として関係部門職員の努力により同時期に完成させた、当時としては画期的な大工事でありました。近畿電気通信局管内の自動化完了の年にあたり、自動式電話交換開始50年を記念して設置します。

    「近畿電気通信局管内自動式電話交換創始ゆかりの地」
    この建物は、大正15年に建築された「京都中央電話局」で、電子交換の普及により遊休スペースとなり、現在の商業施設に生まれ変わった (説明板より)昭和3年、近畿における自動式電話交換が、京阪神地区の6局で開始されました。この工事は、大阪・神戸はH形方式 京都はA形方式で 大阪逓信局工務課を中心として関係部門職員の努力により同時期に完成させた、当時としては画期的な大工事でありました。近畿電気通信局管内の自動化完了の年にあたり、自動式電話交換開始50年を記念して設置します。

  • (姉小路通)から(高辻通)まで(烏丸通)に迂回する<br />京都通り唄で「まるたけえびすにおしおいけ(丸・竹・夷・二・押・御池)、あねさんろっかくたこにしき(姉・三・六角・蛸・錦)、しあやぶったかまつまんごじょう(四・綾・仏・高・松・万・五条)、せったちゃらちゃらうおのたな(雪駄・魚棚)、ろくじょうさんてつとおりすぎ(六条・三哲)、ひっちょうこえればはちくじょう(七条・八・九条)、じゅうじょうとうじでとどめさす(十条)の内、「まる」(丸太町)から「あね」(姉小路)までは「車屋町通」で、「たか」(高辻)から「さんてつ」(塩小路)までが「不明門通」になる

    (姉小路通)から(高辻通)まで(烏丸通)に迂回する
    京都通り唄で「まるたけえびすにおしおいけ(丸・竹・夷・二・押・御池)、あねさんろっかくたこにしき(姉・三・六角・蛸・錦)、しあやぶったかまつまんごじょう(四・綾・仏・高・松・万・五条)、せったちゃらちゃらうおのたな(雪駄・魚棚)、ろくじょうさんてつとおりすぎ(六条・三哲)、ひっちょうこえればはちくじょう(七条・八・九条)、じゅうじょうとうじでとどめさす(十条)の内、「まる」(丸太町)から「あね」(姉小路)までは「車屋町通」で、「たか」(高辻)から「さんてつ」(塩小路)までが「不明門通」になる

  • 「因幡堂 石灯篭」(いなばどう いしどうろう)<br />(姉小路通)から(烏丸通)を約1.5km南下して(高辻通)を過ぎた所に「石灯籠」がある

    「因幡堂 石灯篭」(いなばどう いしどうろう)
    (姉小路通)から(烏丸通)を約1.5km南下して(高辻通)を過ぎた所に「石灯籠」がある

  • この石灯篭は、安政4年(1857)に高島屋の創業者が寄進されたもので、初代飯田新七が天保2年(1831)に京都で始めた古着と木綿の店が、烏丸通向かい側の現在「京都銀行本店」の地にあり、ここが「高島屋発祥の地」で、因幡堂を信心した創業者がその17年後に建立し、明治25年(1892)に四代目が再建したもの

    この石灯篭は、安政4年(1857)に高島屋の創業者が寄進されたもので、初代飯田新七が天保2年(1831)に京都で始めた古着と木綿の店が、烏丸通向かい側の現在「京都銀行本店」の地にあり、ここが「高島屋発祥の地」で、因幡堂を信心した創業者がその17年後に建立し、明治25年(1892)に四代目が再建したもの

  • 「高島屋発祥の地」(烏丸通向かい側の京都銀行本店前)<br />「高島屋」の創業者は、越前敦賀で生まれ12歳で京都の呉服商へ奉公し、26歳で京都の米穀商「高島屋」飯田儀兵衛(滋賀高島出身)の長女の婿養子となり、その後分家独立して、1831年京都烏丸松原で古着・木綿商「たかしまや」として営業開始、1898年2代目が大阪店を開店、1900年日本橋店開店、1912年京都店を烏丸高辻に移転、1948年京都店を四条河原町に移転、2000年名古屋店開店 *儀兵衛で有名な八坂神社前の「八代目儀兵衛」は、江戸後期の1787年、京都七条で初代・橋本儀兵衛が創業した庄屋の名前

    「高島屋発祥の地」(烏丸通向かい側の京都銀行本店前)
    「高島屋」の創業者は、越前敦賀で生まれ12歳で京都の呉服商へ奉公し、26歳で京都の米穀商「高島屋」飯田儀兵衛(滋賀高島出身)の長女の婿養子となり、その後分家独立して、1831年京都烏丸松原で古着・木綿商「たかしまや」として営業開始、1898年2代目が大阪店を開店、1900年日本橋店開店、1912年京都店を烏丸高辻に移転、1948年京都店を四条河原町に移転、2000年名古屋店開店 *儀兵衛で有名な八坂神社前の「八代目儀兵衛」は、江戸後期の1787年、京都七条で初代・橋本儀兵衛が創業した庄屋の名前

  • 正面は「因幡薬師伝承館」(いなばやくしでんしょうかん)で、因幡堂に伝わる宝物や歴史資料を展示する、左は「MIMARUホテル」で、大和ハウスグループが運営する滞在型ホテル、全国に27店舗、京都に7店舗展開

    正面は「因幡薬師伝承館」(いなばやくしでんしょうかん)で、因幡堂に伝わる宝物や歴史資料を展示する、左は「MIMARUホテル」で、大和ハウスグループが運営する滞在型ホテル、全国に27店舗、京都に7店舗展開

  • 「因幡薬師」(いなばやくし)<br />平安時代の1003年に、因幡守の橘行平(たちばなの ゆきひら)により建立され、病気平癒・がん封じのご利益で歴代天皇から庶民まで多くの人々の信仰を集め、第66代一条天皇も信心され皇室の勅願所となり、1171年高倉天皇により「平等寺」(びょうどうじ)と命名されたが、一般的には「因幡堂」「因幡薬師」の愛称で呼ばれている

    「因幡薬師」(いなばやくし)
    平安時代の1003年に、因幡守の橘行平(たちばなの ゆきひら)により建立され、病気平癒・がん封じのご利益で歴代天皇から庶民まで多くの人々の信仰を集め、第66代一条天皇も信心され皇室の勅願所となり、1171年高倉天皇により「平等寺」(びょうどうじ)と命名されたが、一般的には「因幡堂」「因幡薬師」の愛称で呼ばれている

  • (駒札)長徳三年(997)、因幡(鳥取県)国司・橘行平(たちばなゆきひら)が、任を終えて帰京の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津(がるつ)の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来像が、行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保五年(1003)、行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられている。この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰を受け、承安元年(1171)には高倉天皇により「平等寺」と命名された。なお、この寺の起こりは「因幡堂」縁起(東京国立博物館蔵)に」詳しく書かれている。堂舎は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初年(1868)に再建された現本堂には、度重なる火災にもかかわらず伝えられてきた本尊薬師如来立像が安置されている。この薬師如来立像は藤原時代の一木造りの優品で、重要文化財に指定されている。嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つに数えられ、ことのほか信仰されている。

    (駒札)長徳三年(997)、因幡(鳥取県)国司・橘行平(たちばなゆきひら)が、任を終えて帰京の途中、夢のお告げに従って因幡賀留津(がるつ)の海中から引き揚げ、安置しておいた薬師如来像が、行平のあとを追って京都に飛来したといわれ、長保五年(1003)、行平は自宅を改造してこれを祀ったと伝えられている。この霊験談は広く親しまれ、歴代天皇をはじめ一般庶民の深い信仰を受け、承安元年(1171)には高倉天皇により「平等寺」と命名された。なお、この寺の起こりは「因幡堂」縁起(東京国立博物館蔵)に」詳しく書かれている。堂舎は度々火災に遭い、寺域も次第に小さくなったが、明治初年(1868)に再建された現本堂には、度重なる火災にもかかわらず伝えられてきた本尊薬師如来立像が安置されている。この薬師如来立像は藤原時代の一木造りの優品で、重要文化財に指定されている。嵯峨釈迦堂の釈迦如来、信濃善光寺の阿弥陀如来とともに日本三如来の一つに数えられ、ことのほか信仰されている。

  • 本尊「薬師如来像」(やくしにょらいぞう)<br />建物は度重なる火災に遭ったが、最後は1864年の蛤御門の変で焼失した後、再建されたもので、本尊の「薬師如来」は、医薬の仏として、古くから病を抱えた人たちの最後の拠り所として信仰を集めてきたが、近年は癌封じの仏様として知られ、嵯峨清涼寺、長野善光寺と並び「日本三如来」の一つで重要文化財(非公開)、特徴は、火災の多いのですぐに逃れられるよう、車輪付きの厨子に頭巾を被っていること

    本尊「薬師如来像」(やくしにょらいぞう)
    建物は度重なる火災に遭ったが、最後は1864年の蛤御門の変で焼失した後、再建されたもので、本尊の「薬師如来」は、医薬の仏として、古くから病を抱えた人たちの最後の拠り所として信仰を集めてきたが、近年は癌封じの仏様として知られ、嵯峨清涼寺、長野善光寺と並び「日本三如来」の一つで重要文化財(非公開)、特徴は、火災の多いのですぐに逃れられるよう、車輪付きの厨子に頭巾を被っていること

  • 「子授け地蔵様」<br />本尊の病気平癒の御利益だけでなく、子授けや水子供養の信仰も集めており、古くから「市のお堂」と呼ばれ、頂法寺(六角堂)や行願寺(革堂)などと同様、「町堂」(辻堂)として、市が催され、町の人々の生活文化の拠点として賑わっている

    「子授け地蔵様」
    本尊の病気平癒の御利益だけでなく、子授けや水子供養の信仰も集めており、古くから「市のお堂」と呼ばれ、頂法寺(六角堂)や行願寺(革堂)などと同様、「町堂」(辻堂)として、市が催され、町の人々の生活文化の拠点として賑わっている

  • 「馬頭観音」(ばとうかんのん)<br />頭上に馬の頭を載せている「馬頭観音」は、馬が草を食べるようにあらゆる煩悩や災いを食い尽くして人々を救う観音様で、交通安全、畜産、動物供養や膝・腰の痛みを和らげるご利益があることから、最近では犬や猫の供養に参拝する人も多い

    「馬頭観音」(ばとうかんのん)
    頭上に馬の頭を載せている「馬頭観音」は、馬が草を食べるようにあらゆる煩悩や災いを食い尽くして人々を救う観音様で、交通安全、畜産、動物供養や膝・腰の痛みを和らげるご利益があることから、最近では犬や猫の供養に参拝する人も多い

  • 「賓頭盧尊者」(びんずるそんじゃ)<br />奥に座す赤い「賓頭盧尊者」は、お釈迦様の弟子の中でも卓越した神通力を持つ16羅漢の一人で、自分の悪いところと同じ部分をなでると病気や痛みが治ると言われる「なで仏」で、ここに来ればなんでも病気が治りそう

    「賓頭盧尊者」(びんずるそんじゃ)
    奥に座す赤い「賓頭盧尊者」は、お釈迦様の弟子の中でも卓越した神通力を持つ16羅漢の一人で、自分の悪いところと同じ部分をなでると病気や痛みが治ると言われる「なで仏」で、ここに来ればなんでも病気が治りそう

  • 「因幡薬師」(平等寺)南参道の石灯籠<br />特異な形をした石灯籠が面白いが、これは太い笠と竿だけの「因幡薬師型灯籠」と呼ばれるらしい、また「因幡薬師」の文字が、「口」に「大」ではなく、「冂」に「太」となっているのも面白い

    「因幡薬師」(平等寺)南参道の石灯籠
    特異な形をした石灯籠が面白いが、これは太い笠と竿だけの「因幡薬師型灯籠」と呼ばれるらしい、また「因幡薬師」の文字が、「口」に「大」ではなく、「冂」に「太」となっているのも面白い

  • 「不明門通」(あけずのもんどおり)<br />前半の「車屋町通」の延長線上にあり、「因幡薬師」の門前から始まる通りを「不明門通」と呼ぶ、一般的には「あけずどおり」と呼ばれるが、因幡堂のすぐ南に高倉天皇の住まいの「東五条院」があったので、御所に遠慮して南門を開けなかったことに由来するというから、これも面白い

    「不明門通」(あけずのもんどおり)
    前半の「車屋町通」の延長線上にあり、「因幡薬師」の門前から始まる通りを「不明門通」と呼ぶ、一般的には「あけずどおり」と呼ばれるが、因幡堂のすぐ南に高倉天皇の住まいの「東五条院」があったので、御所に遠慮して南門を開けなかったことに由来するというから、これも面白い

  • (松原通)「川上雅宣堂」(かわかみがせんどう)<br />大正末期創業の、茶道具・古美術店で、裏千家流の月釜や、建仁寺、真如堂の茶会などの世話役も務める

    (松原通)「川上雅宣堂」(かわかみがせんどう)
    大正末期創業の、茶道具・古美術店で、裏千家流の月釜や、建仁寺、真如堂の茶会などの世話役も務める

  • 「吉水稲荷大明神」<br />町中のお地蔵さんではなく、小さな神社で、奇麗に手入れされているから、地域に根差していることが伺われる、「吉水」は東山の吉水草庵(安養寺)が連想されるが、この辺りの地名によるものと思われる

    「吉水稲荷大明神」
    町中のお地蔵さんではなく、小さな神社で、奇麗に手入れされているから、地域に根差していることが伺われる、「吉水」は東山の吉水草庵(安養寺)が連想されるが、この辺りの地名によるものと思われる

  • (万寿寺通)まんじゅじどおり<br />寺町通から佐井西通までの通りで、白河上皇の里内裏「万寿禅寺」があり、一時は京都五山に数えられるほどの盛況だったが、その後衰退し現在は東福寺の境内へ移されている

    (万寿寺通)まんじゅじどおり
    寺町通から佐井西通までの通りで、白河上皇の里内裏「万寿禅寺」があり、一時は京都五山に数えられるほどの盛況だったが、その後衰退し現在は東福寺の境内へ移されている

  • 「樂次」(らくじ)<br />地元の衣料品店、お土産店

    「樂次」(らくじ)
    地元の衣料品店、お土産店

  • 「京の文化の石だたみ」<br />史蹟となっているが、普通の石畳の路地(行き止まりだから「図子(辻子)」ではない)

    「京の文化の石だたみ」
    史蹟となっているが、普通の石畳の路地(行き止まりだから「図子(辻子)」ではない)

  • そば料理「よしむら」<br />2000年創業で嵐山に本店がある蕎麦屋さん

    そば料理「よしむら」
    2000年創業で嵐山に本店がある蕎麦屋さん

  • (五条通)<br />この通りにもビル型ホテルが増えた

    (五条通)
    この通りにもビル型ホテルが増えた

  • 「五条東洞院郵便局」<br />(五条通)から(不明門通)に入った所だが、郵便局は(東洞院)になっている

    「五条東洞院郵便局」
    (五条通)から(不明門通)に入った所だが、郵便局は(東洞院)になっている

  • (楊梅通)京町家風の歯科医院<br />京都通り唄の「せったちゃらちゃらうおのたな」の部分で、「せった」(雪駄)は今の「楊梅通」(ようばいどおり)、「ちゃらちゃら」は鍵の音で「鍵屋町通」を表し、「楊梅通」は、(東洞院通)から(堀川通)までの通りで、平安京で貴族の邸宅が建ち並び楊梅(やまもも)の木が植えられていたため、「楊梅小路」(やままももこうじ)と呼ばれ、江戸時代には多くの雪駄屋が軒を連ねていたため「雪駄屋町通」(せったやまちどおり)とも呼ばれていたが、現在は「楊梅通」と呼ぶ<br /><br />

    (楊梅通)京町家風の歯科医院
    京都通り唄の「せったちゃらちゃらうおのたな」の部分で、「せった」(雪駄)は今の「楊梅通」(ようばいどおり)、「ちゃらちゃら」は鍵の音で「鍵屋町通」を表し、「楊梅通」は、(東洞院通)から(堀川通)までの通りで、平安京で貴族の邸宅が建ち並び楊梅(やまもも)の木が植えられていたため、「楊梅小路」(やままももこうじ)と呼ばれ、江戸時代には多くの雪駄屋が軒を連ねていたため「雪駄屋町通」(せったやまちどおり)とも呼ばれていたが、現在は「楊梅通」と呼ぶ

  • (鍵屋町通)「プリマ」スイーツ店<br />「鍵屋町通」(かぎやまちどおり)は、(東洞院通)から(堀川通)手前の(新町通)までの通りで、名前の由来は不明だが、東本願寺建立時に各地から大工や建設業者が集まりこの一帯に住んだからと推察される

    (鍵屋町通)「プリマ」スイーツ店
    「鍵屋町通」(かぎやまちどおり)は、(東洞院通)から(堀川通)手前の(新町通)までの通りで、名前の由来は不明だが、東本願寺建立時に各地から大工や建設業者が集まりこの一帯に住んだからと推察される

  • (的場通)面白い彫り物の石柱があった<br />「的場通」(まとばどおり)は、(鍵屋町通)と同じく東洞院通から新町通までの通りで、もともと「銭屋町通」(ぜにやまちどおり)と呼ばれ、京都通り唄の「ちゃらちゃら」の銭の音を表しており、明治になってから「的場通」になったという、名前の由来は不明だが、弓矢の「的場」(まとば)があったことに由来かと推察

    (的場通)面白い彫り物の石柱があった
    「的場通」(まとばどおり)は、(鍵屋町通)と同じく東洞院通から新町通までの通りで、もともと「銭屋町通」(ぜにやまちどおり)と呼ばれ、京都通り唄の「ちゃらちゃら」の銭の音を表しており、明治になってから「的場通」になったという、名前の由来は不明だが、弓矢の「的場」(まとば)があったことに由来かと推察

  • 「福田人形福田匠庵」 (ふくだしょうあん)<br />昭和39年(1964)創業の人形店で、人形修理は年間500件あるという、HPによると、人形の顔のシミ、汚れ、ひび割れ3,000円~、髪の乱れ、髪の結い直し3,000円~、着物の着せ替え20,000円~、五月提灯の張り替え14,000円~とある

    「福田人形福田匠庵」 (ふくだしょうあん)
    昭和39年(1964)創業の人形店で、人形修理は年間500件あるという、HPによると、人形の顔のシミ、汚れ、ひび割れ3,000円~、髪の乱れ、髪の結い直し3,000円~、着物の着せ替え20,000円~、五月提灯の張り替え14,000円~とある

  • (六条通)菊姫稲荷大神(きくひめいなりおおかみ)<br />涙滴型(るいてきがた)のろうそく立てがお洒落で奇麗に手入れされているが、由緒不明

    (六条通)菊姫稲荷大神(きくひめいなりおおかみ)
    涙滴型(るいてきがた)のろうそく立てがお洒落で奇麗に手入れされているが、由緒不明

  • (花屋町通)東本願寺前郵便局<br />この辺りからは東本願寺が近づき、お寺や宿屋、仏具店などが続く、「花屋町通」(はなやちょうどおり)は、富小路通から天神川通までの通りで、途中この辺りの六条三筋町から移転した遊郭「島原」がある、通り名は東西本願寺に手向ける生花商の店が多かったことに由来する

    (花屋町通)東本願寺前郵便局
    この辺りからは東本願寺が近づき、お寺や宿屋、仏具店などが続く、「花屋町通」(はなやちょうどおり)は、富小路通から天神川通までの通りで、途中この辺りの六条三筋町から移転した遊郭「島原」がある、通り名は東西本願寺に手向ける生花商の店が多かったことに由来する

  • 「となみ詰所」<br />「東本願寺」は江戸後期から幕末にかけて4回も火事に遭い(最後は1864年の蛤御門の変)、そのつど全国の門徒衆が資材の調達や、再建費用を募り、京都へ集まって労力奉仕を続けてきたが、そのための宿舎として、東本願寺周辺には全国各地方の名を冠にした詰所が当時は70軒も存在していたという。「となみ(砺波)詰所」もその一つで、越中砺波地方から上京してきた人足奉仕団の寄宿舎として始まり、明治28年(1895)の再建完了後は本山(東本願寺)にお参りする御門徒のための宿泊所となり、現在では一般向けにもなっている

    「となみ詰所」
    「東本願寺」は江戸後期から幕末にかけて4回も火事に遭い(最後は1864年の蛤御門の変)、そのつど全国の門徒衆が資材の調達や、再建費用を募り、京都へ集まって労力奉仕を続けてきたが、そのための宿舎として、東本願寺周辺には全国各地方の名を冠にした詰所が当時は70軒も存在していたという。「となみ(砺波)詰所」もその一つで、越中砺波地方から上京してきた人足奉仕団の寄宿舎として始まり、明治28年(1895)の再建完了後は本山(東本願寺)にお参りする御門徒のための宿泊所となり、現在では一般向けにもなっている

  • 「唯勝寺」(ゆいしょうじ)<br />この辺りからは、真宗大谷派のお寺が続く

    「唯勝寺」(ゆいしょうじ)
    この辺りからは、真宗大谷派のお寺が続く

  • 「長安寺」(ちょうあんじ)

    「長安寺」(ちょうあんじ)

  • 「法寿寺」(ほうじゅじ)

    「法寿寺」(ほうじゅじ)

  • 旅館「だいや」別館<br />この先の下珠数屋町通の東洞院通角地に、昭和41年(1966)創業の昔ながらの本店があり、そこの「大弥食堂」の京風うどんが有名で懐かしい

    旅館「だいや」別館
    この先の下珠数屋町通の東洞院通角地に、昭和41年(1966)創業の昔ながらの本店があり、そこの「大弥食堂」の京風うどんが有名で懐かしい

  • 「福永念珠舗本店」(ふくながねんじゅほ)<br />寛政9年(1797)創業の念珠製造直売店で、江戸中期の小間物問屋から、念珠製造を生業とし現在九代目まで、代々御本山の御用を勤め、店内には約600点の念珠が陳列されている *一般的に「数珠」と書くが、「珠数」も「念珠」も同じで、「数珠」は念仏の回数を数え、「珠数」は珠を数え、「念珠」は念じるための珠という意味で、数珠の珠は煩悩数の108個、最近では携帯用に半分の54個や27個もある

    「福永念珠舗本店」(ふくながねんじゅほ)
    寛政9年(1797)創業の念珠製造直売店で、江戸中期の小間物問屋から、念珠製造を生業とし現在九代目まで、代々御本山の御用を勤め、店内には約600点の念珠が陳列されている *一般的に「数珠」と書くが、「珠数」も「念珠」も同じで、「数珠」は念仏の回数を数え、「珠数」は珠を数え、「念珠」は念じるための珠という意味で、数珠の珠は煩悩数の108個、最近では携帯用に半分の54個や27個もある

  • (不明門通)はこの先の(上珠数屋町通)で(烏丸通)と合体<br />「東本願寺」の東側「烏丸通」が真っ直ぐでなく、「不明門通」側に歪曲しているためで、これは明治45年(1912)の市電開業の際に、東本願寺の門前に全国から集まる門徒によって混雑すると危険であると判断し、東本願寺が東側の空き地を無償貸与し、市電を弓なりのルートにしたもので、1974年の市電廃止後もそのまま残っている

    (不明門通)はこの先の(上珠数屋町通)で(烏丸通)と合体
    「東本願寺」の東側「烏丸通」が真っ直ぐでなく、「不明門通」側に歪曲しているためで、これは明治45年(1912)の市電開業の際に、東本願寺の門前に全国から集まる門徒によって混雑すると危険であると判断し、東本願寺が東側の空き地を無償貸与し、市電を弓なりのルートにしたもので、1974年の市電廃止後もそのまま残っている

  • (上珠数屋町通)<br />「上珠数屋町通」(かみじゅずやまちどおり)は、(土手町通)から(烏丸通)までの通りで、「数珠」でなく「珠数」と書き、数珠などを売る仏具屋が並んでいることに由来、「渉成園」を挟んで北側が(上珠数屋町通)で、南側が(下珠数屋町通)

    (上珠数屋町通)
    「上珠数屋町通」(かみじゅずやまちどおり)は、(土手町通)から(烏丸通)までの通りで、「数珠」でなく「珠数」と書き、数珠などを売る仏具屋が並んでいることに由来、「渉成園」を挟んで北側が(上珠数屋町通)で、南側が(下珠数屋町通)

  • 「八木仏具店」看板は(ねんぶつぐ)<br />寛政2年(1790)創業の仏具店、素敵な店構えは、当初の2階建て商家を、明治45年に市電開通にともなう(烏丸通)拡幅を記念して、大正時代に木造3階建ての入母屋造り、赤壁塗りという特徴ある町家に改造したもので、その後平成18年にも改修がなされ幾重にも重なる屋根と赤い壁が特徴的な外観となっている

    「八木仏具店」看板は(ねんぶつぐ)
    寛政2年(1790)創業の仏具店、素敵な店構えは、当初の2階建て商家を、明治45年に市電開通にともなう(烏丸通)拡幅を記念して、大正時代に木造3階建ての入母屋造り、赤壁塗りという特徴ある町家に改造したもので、その後平成18年にも改修がなされ幾重にも重なる屋根と赤い壁が特徴的な外観となっている

  • 「Nazuna京都東本願寺」<br />かつて東本願寺の詰所としてあった「御宿 にわ」という築100年以上の京町家旅館を再生し、2024年11月1日(金)にオープンした旅館で、京都に4つの旅館と8つの一棟貸しの宿を展開する、同様の町家再生のホテルは、夷川通に「ワコール」が運営する「京の温所」(現在7件)というブランドがあったが、「株式会社NAZUNA」のことを調べると、創業者は滋賀県出身の現在37歳、大学3年で居酒屋を立ち上げ、卒業後商社へ就職し、2014年にインバウンドの旅行事業を開始、2015年に旅館業を開始し、2018年に現在の会社を設立、恐るべしヤングパワー!<br />

    「Nazuna京都東本願寺」
    かつて東本願寺の詰所としてあった「御宿 にわ」という築100年以上の京町家旅館を再生し、2024年11月1日(金)にオープンした旅館で、京都に4つの旅館と8つの一棟貸しの宿を展開する、同様の町家再生のホテルは、夷川通に「ワコール」が運営する「京の温所」(現在7件)というブランドがあったが、「株式会社NAZUNA」のことを調べると、創業者は滋賀県出身の現在37歳、大学3年で居酒屋を立ち上げ、卒業後商社へ就職し、2014年にインバウンドの旅行事業を開始、2015年に旅館業を開始し、2018年に現在の会社を設立、恐るべしヤングパワー!

  • 「山田屋旅館」<br />隣は明治44年(1911)創業の伝統的旅館、慶長7年(1602)東本願寺の造営に伴い門前に旅館などが立ち並ぶようになり、明治10年(1877)京都駅の開設に伴いホテルや旅館が続々と営業を始め、旅館街を形成した

    「山田屋旅館」
    隣は明治44年(1911)創業の伝統的旅館、慶長7年(1602)東本願寺の造営に伴い門前に旅館などが立ち並ぶようになり、明治10年(1877)京都駅の開設に伴いホテルや旅館が続々と営業を始め、旅館街を形成した

  • 「柴田法衣店」(しばたほういてん)<br />明治34年(1901)創業の、真宗大谷派法衣の専門店

    「柴田法衣店」(しばたほういてん)
    明治34年(1901)創業の、真宗大谷派法衣の専門店

  • 「バーミリオン・ステーション」Vermillion - station<br />最近ニュースで知った、2025年9月オープンのカフェ・京みやげなどの複合施設で、築100年の古民家をリノベーションして、伏見稲荷の稲荷山にある「薬力社」前で、代々お茶屋「薬力亭」を営む、9代目夫婦が手掛けたという

    「バーミリオン・ステーション」Vermillion - station
    最近ニュースで知った、2025年9月オープンのカフェ・京みやげなどの複合施設で、築100年の古民家をリノベーションして、伏見稲荷の稲荷山にある「薬力社」前で、代々お茶屋「薬力亭」を営む、9代目夫婦が手掛けたという

  • (正面通)「法蔵館」(ほうぞうかん)<br />(不明門通正面上ル)の「仁丹町名表示板」の先にあるオレンジの建物は「法蔵館」で、慶長年間(1600年頃)創業の仏教系出版社、「正面通」(しょうめんどおり)は、(大和大路通)の「豊国神社」(方広寺)から(千本通)まで、「渉成園」と「東本願寺」、「西本願寺」で中断する通りで、豊臣秀吉が造営した方広寺の大仏の正面につながることに由来、「渉成園」の南北を走る(上珠数屋町通)と(下珠数屋町通)の真ん中を通ることから「中珠数屋町通」(なかじゅずやまちどおり)とも呼ばれる

    (正面通)「法蔵館」(ほうぞうかん)
    (不明門通正面上ル)の「仁丹町名表示板」の先にあるオレンジの建物は「法蔵館」で、慶長年間(1600年頃)創業の仏教系出版社、「正面通」(しょうめんどおり)は、(大和大路通)の「豊国神社」(方広寺)から(千本通)まで、「渉成園」と「東本願寺」、「西本願寺」で中断する通りで、豊臣秀吉が造営した方広寺の大仏の正面につながることに由来、「渉成園」の南北を走る(上珠数屋町通)と(下珠数屋町通)の真ん中を通ることから「中珠数屋町通」(なかじゅずやまちどおり)とも呼ばれる

  • 「渉成園」(しょうせいえん)<br />正面通を東へ進むと約100mで(間之町通)の「渉成園」入り口に突き当たる。「渉成園」は、東本願寺の飛地境内の庭園で、3代将軍「徳川家光」が土地を寄進し、石川丈山らとともに作庭した庭園で、源氏物語のモデルと言われている源融(みなもとのとおる)の邸宅跡に、陸奥の塩竃の風景を模し、難波から海水を運んで塩焼きを行ったという風流な遊びを連想できる

    「渉成園」(しょうせいえん)
    正面通を東へ進むと約100mで(間之町通)の「渉成園」入り口に突き当たる。「渉成園」は、東本願寺の飛地境内の庭園で、3代将軍「徳川家光」が土地を寄進し、石川丈山らとともに作庭した庭園で、源氏物語のモデルと言われている源融(みなもとのとおる)の邸宅跡に、陸奥の塩竃の風景を模し、難波から海水を運んで塩焼きを行ったという風流な遊びを連想できる

  • 「平安法衣店」(へいあんほういてん)<br />明治時代創業(未確認)の寺院用具や法衣を製造・販売する老舗の専門店

    「平安法衣店」(へいあんほういてん)
    明治時代創業(未確認)の寺院用具や法衣を製造・販売する老舗の専門店

  • 東本願寺前「お東さん広場」<br />東本願寺「御影堂門」(ごえいどうもん)前の、弓なりに曲がった車道の間に出来たエリアは、緑あふれる広々とした「東本願寺前市民緑地」として整備され、憩いの場・交流の場として芝生広場と噴水広場となり、災害時の拠点としても活用される<br />

    東本願寺前「お東さん広場」
    東本願寺「御影堂門」(ごえいどうもん)前の、弓なりに曲がった車道の間に出来たエリアは、緑あふれる広々とした「東本願寺前市民緑地」として整備され、憩いの場・交流の場として芝生広場と噴水広場となり、災害時の拠点としても活用される

  • ホテル「是空」ZEQUU<br />大阪に本社を置くホテル運営、再生を行う(株)ホワイトベアーホテルズが、2024年5月にオープンしたホテル

    ホテル「是空」ZEQUU
    大阪に本社を置くホテル運営、再生を行う(株)ホワイトベアーホテルズが、2024年5月にオープンしたホテル

  • 「リーガル京都東本願寺」<br />リーガロイヤルホテルと紛らわしいが、これは1LDKタイプの分譲賃貸マンション

    「リーガル京都東本願寺」
    リーガロイヤルホテルと紛らわしいが、これは1LDKタイプの分譲賃貸マンション

  • 「京の宿北海館 お花坊 京都駅」<br />「京の宿北海館お花坊」は、かつては北海道からの参拝者のためにつくられた宿坊を改築した老舗旅館で、建物は大正4年(1915)建てられた木造建築

    「京の宿北海館 お花坊 京都駅」
    「京の宿北海館お花坊」は、かつては北海道からの参拝者のためにつくられた宿坊を改築した老舗旅館で、建物は大正4年(1915)建てられた木造建築

  • (下珠数屋町通)「特撰仏具 礒村」(とくせんぶつぐ いそむら)<br />明治38年(1905)創業の仏具店で、仏壇、位牌、仏像、数珠、線香等販売

    (下珠数屋町通)「特撰仏具 礒村」(とくせんぶつぐ いそむら)
    明治38年(1905)創業の仏具店で、仏壇、位牌、仏像、数珠、線香等販売

  • 再び(烏丸通)と(不明門通)が分離

    再び(烏丸通)と(不明門通)が分離

  • (不明門通)「森信三郎商舗」<br />明治15年(1882)創業の仏具店<br />

    (不明門通)「森信三郎商舗」
    明治15年(1882)創業の仏具店

  • 「伊香詰所」(いかつめしょ)<br />ここも「となみ(砺波)詰所」と同じ、東本願寺再建のため1880年頃から集まってきた真宗大谷派の門徒が寝泊まりしていた、滋賀県伊香郡(長浜市)の詰所で、2006年に鉄筋コンクリート4階建てに建替えられ、賃貸住宅併設の「旅館伊香詰所」となった、一時70もあった「詰所」は現在残るのは、砺波、伊香の他、東浅井(長浜市)、飛騨、富山の5ヶ所のみ

    「伊香詰所」(いかつめしょ)
    ここも「となみ(砺波)詰所」と同じ、東本願寺再建のため1880年頃から集まってきた真宗大谷派の門徒が寝泊まりしていた、滋賀県伊香郡(長浜市)の詰所で、2006年に鉄筋コンクリート4階建てに建替えられ、賃貸住宅併設の「旅館伊香詰所」となった、一時70もあった「詰所」は現在残るのは、砺波、伊香の他、東浅井(長浜市)、飛騨、富山の5ヶ所のみ

  • 「東光寺」(とうこうじ) 真宗大谷派<br />「自分の思いに執着せずに 事実(のとおり)に生きましょう」

    「東光寺」(とうこうじ) 真宗大谷派
    「自分の思いに執着せずに 事実(のとおり)に生きましょう」

  • 「旅館京らく」<br />大正10年(1925)創業の和風旅館

    「旅館京らく」
    大正10年(1925)創業の和風旅館

  • 「京都花宿」Kyoto Hana Hostel<br />2002年に開業した京都ゲストハウスで、「ジェイホッパーズ」という会社が運営、現在、滋賀、京都、大阪、和歌山、広島、福岡、大分などで12店舗展開 *「ゲストハウス、ホステル、ドミトリー」の違いがよく分からないが、「ゲストハウス」は小規模でアットホームな宿、「ホステル」(ユースホステル)は共用スペースがある、「ドミトリー」は、複数人で一つの部屋を共有する相部屋

    「京都花宿」Kyoto Hana Hostel
    2002年に開業した京都ゲストハウスで、「ジェイホッパーズ」という会社が運営、現在、滋賀、京都、大阪、和歌山、広島、福岡、大分などで12店舗展開 *「ゲストハウス、ホステル、ドミトリー」の違いがよく分からないが、「ゲストハウス」は小規模でアットホームな宿、「ホステル」(ユースホステル)は共用スペースがある、「ドミトリー」は、複数人で一つの部屋を共有する相部屋

  • (七条通)「ビックディッパー京都駅前店」(パチンコ店)<br />14時から開いてる隣の「立呑み屋」にいつも外国人観光客が溜まっている

    (七条通)「ビックディッパー京都駅前店」(パチンコ店)
    14時から開いてる隣の「立呑み屋」にいつも外国人観光客が溜まっている

  • (七条通)から(塩小路通)へ抜ける狭い(不明門通)を進む

    (七条通)から(塩小路通)へ抜ける狭い(不明門通)を進む

  • 「旅館銀閣」RYOKAN GINKAKU<br />1952年創業の老舗旅館が老朽化のため2019年に閉店したが、2023年全館リニューアルオープンし、これまでの修学旅行生も一般客も対応する旅館に生まれ変わった

    「旅館銀閣」RYOKAN GINKAKU
    1952年創業の老舗旅館が老朽化のため2019年に閉店したが、2023年全館リニューアルオープンし、これまでの修学旅行生も一般客も対応する旅館に生まれ変わった

  • 「藤家旅館」<br />昭和32年(1957)開業の和風旅館で、昔は愛知県の門徒向けの「詰所」だったという

    「藤家旅館」
    昭和32年(1957)開業の和風旅館で、昔は愛知県の門徒向けの「詰所」だったという

  • 井上六郎商店「升六商店」<br />文政元年(1818)創業の老舗宇治茶専門店で現在七代目、昔から本願寺の参拝客が多かった

    井上六郎商店「升六商店」
    文政元年(1818)創業の老舗宇治茶専門店で現在七代目、昔から本願寺の参拝客が多かった

  • 「京の旅館通り」<br />(不明門通)は、慶長7年(1602)の「東本願寺」創建から門前に旅館が立ち並び、明治10年(1877)には「京都駅」の開設に伴いホテルや旅館が続々と出來て、旅館が多く立ち並ぶ「京の旅館通り」と呼ばれる

    「京の旅館通り」
    (不明門通)は、慶長7年(1602)の「東本願寺」創建から門前に旅館が立ち並び、明治10年(1877)には「京都駅」の開設に伴いホテルや旅館が続々と出來て、旅館が多く立ち並ぶ「京の旅館通り」と呼ばれる

  • (塩小路通)「京都駅」烏丸口<br />「塩小路通」(しおこうじどおり)は、東大路通から大宮通までで、かつては三哲(算哲)と呼ばれた渋川春海の邸宅があったことから「三哲通」(さんてつどおり) と呼ばれ、京都通り唄で「ろくじょうさんてつとおりすぎ」(六条・三哲)と唄われる、ここまでが「不明門通」になる

    (塩小路通)「京都駅」烏丸口
    「塩小路通」(しおこうじどおり)は、東大路通から大宮通までで、かつては三哲(算哲)と呼ばれた渋川春海の邸宅があったことから「三哲通」(さんてつどおり) と呼ばれ、京都通り唄で「ろくじょうさんてつとおりすぎ」(六条・三哲)と唄われる、ここまでが「不明門通」になる

  • 「ナチュラルカフェ」Natural cafe <br />2025年3月にオープンした、明るく開放的な新店

    「ナチュラルカフェ」Natural cafe
    2025年3月にオープンした、明るく開放的な新店

  • 看板メニューの「ふわとろ生ドーナッツ」で疲れを癒し、今月の南北散歩は終了

    看板メニューの「ふわとろ生ドーナッツ」で疲れを癒し、今月の南北散歩は終了

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