2026/05/02 - 2026/05/02
1337位(同エリア3621件中)
Bachさん
今月の月一京町散歩は、「壬生狂言」(みぶきょうげん)見たさに「壬生川通」と「坊城通」(ぼうじょうどおり)の両通りを歩きます。
「壬生狂言」は、「三大念仏狂言」として鎌倉時代から続く貴重な重要無形民俗文化財で、限られた期間しか見れませんが、以前千本通を歩いた時に「千本ゑんま堂」で見て非常に面白かったので、また通常非公開の「壬生寺庭園」も公開されるので、今回の京町散歩に入れました。
「壬生寺」は、平安京の「坊城小路」にあたる「坊城通」にありますが、すぐ隣を並行する「壬生大路」の「壬生川通」も、一挙両方を歩くことにしたので、コース取りは難しかったですが、ポイントだけ抑えて歩いています。
ポイントは、①壬生寺狂言と庭園、②平安京四条後院跡地(京都市電と後院通)、③京都市電壬生車庫跡地(市バス操車場と壬生坊城団地)、④祇園社(八坂神社)創建前の仮神社(元祇園梛木神社)、⑤日本専売公社京都工場跡地(京都産業大付属中高)、⑥島原歌舞練場跡地(デイサービスセンター)、⑦遊郭島原跡地(島原大門と輪違屋)、⑧JR梅小路貨物ヤード跡地(梅小路公園)、⑨大通寺(だいつうじ)跡地(六孫王神社)、⑩東寺綜藝種智院跡地(洛南中高)、⑪東寺(外堀) などですが、今回も平安の昔から続く歴史深い痕跡をたくさん見ることが出来ました。
1,000年の時の流れは短いものだと、つくづく思います。
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「壬生川通」(みぶがわどおり)は平安京の「壬生大路」、「坊城通」(ぼうじょうどおり)は「坊城小路」で、二条城南側の「朱雀大路」(千本通)と「大宮大路」の間にあり、平安京の大内裏(平安宮)の美福門に繋がっていたことから、「美(み)」と「生(ぶ)」になったとも、周りが水が湧きやすく湿地帯だったことに由来するとも言われ、「坊城」とは、区画した「坊」ごとに周囲を囲む塀のことで、朱雀大路に面する左京・右京の一坊のみにだけ「坊城」が設けられていたというが、やがて朱雀大路の衰退で荒廃し、現在の通りは明治以降に新しく作られた通りで、「壬生川通」は、後院通の壬生車庫からJR線で中断して九条通まで3km、「坊城通」は三条通から旧専売公社京都工場跡地で分断され、遊郭「島原」を経由し七条通まで2kmの通りで、平安時代には和気氏の「弘文院」、藤原氏の「勧学院」、在原氏の「奨学院」など公家の子弟の教育施設や役所が集まり、中世以後には「壬生寺」が建立され門前町が形成され、幕末には新選組の拠点となり、明治以降は市電の車庫や住宅地として発展した。また「壬生寺」の西側は、戦前までは田畑が多く残り「壬生菜」の産地として知られていたが、現在は郊外の畑でしか栽培されてない
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11:00千本三条朱雀立命館前(三条会商店街)~スーパーフレスコ三条店(坊城通スタート)~(後院通六角通)朱雀第1小~(後院通壬生車庫前)京都市交通局壬生操車場~中京警察署(壬生川通スタート)~壬生坊城第2団地~(壬生川通四条)~(坊城通)~元祇園梛木神社~(京福嵐山本線)~前川家~(綾小路通)~八木家、新徳寺、旧神先家住宅~1.0km13:00壬生寺14:00~(仏光寺通)(高辻通)(松原通)京都産業大付属中高~(光徳公園から万寿寺通、壬生川通)~ヤサカ自動車~(五条通)~(坊城通へ)~中堂寺児童公園~島原歌舞練場跡碑~輪違屋~小坂児童公園~島原大門~(正面通)~豆之子稲荷~(北小路通)夷馬場町地蔵尊~(壬生川通へ)ランチ「メゾン・ドゥ・イッテーサロン」~(坊城通へ)~1.5km15:30七条通(坊城通終点)~(七条壬生川通へ)~梅小路小学校~(木津屋橋通)梅小路ホテル~梅小路横丁(水族館通用口)~梅小路公園~(大宮通迂回)~JR~(南梅小路通)~八条公園~(壬生通)~六尊王神社~(八条通)~洛南高校~東寺蓮華門~1.5km京阪国道口(九条通)16:00(計4.0km)
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11:00「千本三条朱雀立命館前」からスタート
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「三条会商店街」
千本三条~堀川三条の東西800mにもおよぶ西日本最大級の商店街 -
東西800mにも及ぶアーケード街は、雨の日の練習場所として、当時京都実業団にいた五輪女子マラソン金メダリストの野口みずき選手が走っていたという
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「坊城通」(ぼうじょうどおり)スタート地点
三条会商店街の「スーパーフレスコ三条店」から南下し、七条通に至る約2km -
和菓子店「京の彩たなかや」(いろどり)
昭和9年創業の老舗京菓子香煎茶問屋さん -
(後院通・六角通)「朱雀第一小学校」
「後院通」(こういんどおり)は、碁盤の目を無視して斜めに作られた、京都市内でも珍しい通りで、明治45年(1912)市電を千本通をまっすぐ四条通まで通す計画だったが、当時勢いのあった千本通沿いの銘木店の反発にあい、四条大宮へ斜めの道が作られ、はじめは「車庫前通」と呼ばれていたが、平安時代この辺りに平安宮の事務局的な役割を担った「四条後院」という敷地があったことから、後に「後院通」となった -
(後院通)「京都市バス壬生操車場」
ここは京都市電の電車が集まる壬生車庫があった所で、現在は、中京警察署と壬生坊城第2団地、京都市バスみぶ操車場があり、敷地にはレールが露出している部分が見える *(明治28年)第4回内国勧業博覧会の年に我が国最初の路面電車開始、(明治45年)市営電車開業と同時に「壬生車庫」開設、(昭和3年)市電の補助機関としてバス路線開業、(昭和47年)市電の路線廃止・車庫閉鎖に伴い、バス専用の「みぶ操車場」開設、(昭和53年)市電全線廃止、(昭和56年)地下鉄烏丸線開業、(平成20年)京都市交通局移転に伴い中京警察署、バス操車場開設
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「壬生川通」(みぶがわどおり)スタート地点
壬生川車庫前の「中京警察署」から南下し、九条通に至る約3km *「中京警察署」は、平成24年(2012)京都府警察の再編に基づき京都市交通局の壬生庁舎跡地に建設 -
「壬生坊城(みぶぼうじょう)第2団地」
「壬生車庫」跡地に、昭和39年住宅公団「壬生坊城アパート」(四条通側)が建設され、昭和42年から「壬生坊城第2団地」の建設が始まり、昭和51年(1976)11階建て4棟、総戸数960戸の大規模団地となった -
「壬生坊城第2団地」は、以外にも、かの有名な「村野藤吾氏」の設計による団地として誕生し、緑豊かな中庭や公園、老人福祉センター、保育園などが整備されている *「村野藤吾」(むらのとうご1891-1984)代表作は、プリンス 箱根芦ノ湖、(東京)日生劇場、(広島)世界平和記念聖堂、旧大阪新歌舞伎座、 横浜市旧市庁舎、 (京都)都ホテル佳水園、旧赤坂離宮迎賓館、(長野)八ヶ岳美術館、関西大学博物館、読売会館(現 ビックカメラ)、甲南女子大学、カトリック宝塚教会、新高輪プリンスホテル、(京都)宝ヶ池プリンスホテル、都ホテル大阪
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「坊城児童公園」
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(坊城通・四条)洋食「アンブリュス」
ランチの予定だったが、人気店で只今満席の看板があり、断念! -
(2023/07/12撮影)洋食「アンブリュス」は、祇園の名店「萬養軒」で料理長だったシェフが2017年オープンした店で、本格的な洋食料理は人気だが、以前たまたま見つけて入った際のビーフカレーは絶品だった!
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坊城通を挟んだ向かい側には神社
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「元祇園梛木神社」(もとぎおんなぎじんじゃ)
平安前期の869年、疫病流行により疫神の「牛頭天王」(ごずてんのう)を勧請して、神泉苑で御霊会が行われた際、牛頭天王(素戔嗚尊)の神霊をのせた神輿を梛(なぎ)の林中に置いて祀ったのがこの神社の始まりと伝わる -
その後876年、牛頭天王(素戔嗚尊)を八坂に祀って「祇園社」(八坂神社)を創建する前に、一旦この地に仮祭祀し、後に八坂神社に遷祀したため「元祇園」と呼ばれ、その際住民が花飾りの風流傘(ふうりゅうがさ)を立て、鉾を振って音楽を奏しながら神輿を八坂に送ったことから「祇園会傘鉾」の起源であるとされ、現在も「綾傘鉾」の囃子方として奉仕している
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「御供石」(ごくいし)
祇園祭の山鉾巡行のとき、御旅所があった旧地のこの石の上に神饌(しんせん)を置き神にそなえたもので、元は下京区御供石町(ごくいしちょう)にあったが昭和7年(1932)にここに移された -
「梛」(なぎ)の木は、葉脈が縦に走り切れにくいことから、男女の縁だけでなく全ての縁が開け、道中安全や子の安全や成長を守る神木とされる
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「梛神社」(なぎじんじゃ)と右「隼神社」(はやぶさじんじゃ)
境内に本殿が二つ存在する珍しい神社で、「梛神社」のご祭神は牛頭天王と同一視されてきた「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)、「隼神社」のご祭神は建甕槌神(たけみかづちのかみ)、「梛神社」は明治7年(1874)に復興、「隼神社」は大正7年(1918)に蛸薬師坊城からこの地に遷座され、昭和4年(1929)に現在の社殿が建造された -
「京福嵐山本線」
四条大宮から嵐山までで、北野白梅町から帷子ノ辻(かたびらのつじ)までの北野線と共に、通称「嵐電」(らんでん)と呼ばれる、1910年(明治43年)開業 -
和菓子屋「幸福堂」(こうふくどう)
明治元年(1868)創業の「幸福堂」本家(五条松原通)の分家が、壬生寺参拝客の休み処として創業したのがはじまりで、名物の「金つば」は、江戸時代に清水参道で刀の鍔(つば)に似せて売り出されたものが、後に江戸に伝わり「銀より金の方がいい」となり「きんつば」になったという -
「前川邸」(まえかわてい)
掛屋(江戸時代の金融業者)として御所や幕府の資金運用の仕事など色々な公職を兼ねていたため、奉行所や所司代との密接なつながりがあり、上洛する浪士組の宿舎を選定するにあたり、市中情勢にも詳しく役人の信頼も厚かったことから宿舎選定を任され、「壬生」の地が京の町はずれにあり二条城に近いことから、「前川邸」を中心に「八木邸」「新徳禅寺」等に分宿した -
(綾小路通)
寺町通から天神川通の二筋西までで、「綾小路」(あやのこうじどおり)の名前は、「綾」(絹織物のあや)を織る職人や商人が多く住んでいたことに由来 -
和菓子屋「京都鶴屋 鶴壽庵」(かくじゅあん)
壬生屯所旧跡「八木家」の現在のご当主の父が老舗和菓子店「鶴屋八幡」で10年間修行された後、1967年に創業し、最近100年近い建物の雰囲気はそのままにリニューアルしている -
(2023/07/12撮影)名物「屯所餅」と抹茶
名物は、南蛮菓子の鶏卵素麺、壬生狂言の「炮烙(ほうらく)割」に因んだ壬生炮烙や各種羊羹、おぜんざい、上生菓子 *「屯所餅」の中には壬生菜がはいっている -
「八木家」(やぎけ)
江戸時代には村の経営や壬生狂言に携わり、代々村の行司役も勤め、壬生村と京都守護職や所司代とも大変深い関わりがあり、14代将軍家茂上洛にあたりその警護の為に近藤勇をはじめとする後の「新選組」13名は、1863年「八木邸」を屯所(宿舎)とした *後に隊士の数が増え、西本願寺(1865)、不動堂村屯所(1867)へ移転し、この間大政奉還があり、さらに伏見奉行所(1867)へ移った -
(2023/07/12撮影)「八木家」拝観(ココから先は撮影禁止)
奥座敷は「芹澤鴨」暗殺の場で、文久3年(1863)芹澤鴨、平山五郎ら4人が暗殺された刀傷がある、芹澤は剣は立つが酒癖が悪くさまざまな騒動を起こしており、これを野放しにしておけば新選組そのものが無頼漢の集まりだと思われてしまうと思い、近藤勇と土方は芹沢暗殺を決意し、近くの島原で宴会をした後、八木家に帰り更に酒を勧めぐでんぐでんに酩酊した芹沢らを床につかせ、深夜熟睡しているところを襲った *壬生は湧水の出ずるところで、水質にも大変恵まれ、壬生菜、菜種、藍などの産地でもあり、その藍で染めた水色は壬生の色でもあり、壬生狂言に使用する手拭いの色や、新選組が使っている羽織の段だら模様の水色にも使われている -
「新徳禅寺(しんとくぜんじ)」(新徳寺)
将軍家茂警護のために集まった「浪士組」から「新選組」が分離した因縁の場所で、尊皇攘夷の志をもつ山形鶴岡出身の清河八郎は将軍家茂上洛の警護のため「浪士組」230名余を率いて京都にのぼるが、新徳禅寺に集合した面々に対し「我々が真に為すべきは(将軍の警護ではなく)江戸に戻って攘夷運動に身を投ずることである」と熱弁し、これに反発した芹沢鴨、近藤勇、土方歳三ら24名は新たに壬生浪士組を結成し、のちの新選組となった -
「神先家」(かんざきけ)
壬生の郷士「神先家」の、江戸時代1820年建築の武家屋敷で、現在は根付(江戸時代の留め具)の専門美術館「京都清宗根付館」となっている。その祖先は円覚上人と供に壬生狂言をはじめた一人といわれ、新選組の直接的な屯所ではなかったが、幕府の警護や壬生寺の運営に関わる家柄であった、現在は、佐川印刷株式会社が所有し、「根付」(ねつけ)の美術館として約6,000点を収蔵し、常時400点を展示している -
(COPY)根付美術館「京都清宗根付館」(せいしゅうねつけかん)
「根付」は、世界中で「Netsuke」と呼ばれる我が国固有の芸術品として、浮世絵や刀と並び非常に高い人気を誇っているもので、江戸時代に印籠や煙草入れ、巾着などを携帯する際の紛失や盗難を防ぐ留め具として生まれ、人物・動植物・故事、習俗、能や歌舞伎、さらに霊獣・妖怪など多種多様な「カタチ」を楽しむようになり、脈々と続く日本独自の美意識と工芸技術が結集した伝統を受け継ぎ、現在でも、百数十名の作家たちが新時代の作品を次々と生み出しているという -
13:00「壬生寺」(みぶでら)
平安時代の991年、園城寺(三井寺)の快賢(かいけん)が母の供養のために創建し、鎌倉時代に融通念仏の円覚(えんかく)が中興、幕末の1863年から3年間、壬生に屯所を置いた新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司らが、壬生寺の広い境内を武芸や大砲の訓練場として使用し、新選組ゆかりの寺として壬生塚に新選組隊士11名を祀っている -
「壬生寺特別公開」(4.25~5.5)、「壬生狂言」(4.29-5.5)13:00-17:30、開場12:30より、鑑賞料:大人1,000円、400名限り
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正面に「本堂」と「千体仏塔」(せんたいぶつとう)
「本堂」は、何度か火災に見舞われ、昭和37年(1962)にも放火により全焼したが、昭和45年(1970)鉄筋コンクリート造で再建されたもので、隣のミャンマーのパゴタ(仏塔)を模した「千体仏塔」も、平成元年(1988)に創建1000年を記念して建てられ、京都市内から集められた阿弥陀如来像や地蔵菩薩像など3,000体以上の内の1,000体を安置し、8月に市内各地で行われる「地蔵盆」には、レンタル地蔵として貸し出されるという -
「宝篋印塔」(ほうきょういんとう)
開山の快賢、円覚を祀る供養塔で、鎌倉時代後期の貴重な石造遺物 -
右手奥に「大念仏堂」(狂言堂)
江戸時代後期の1788年に本堂が焼失し、これまで本堂で行われていた「壬生大念仏狂言」を続けるために新たに建立し、さらに昭和の中期1856年に再建した、「狂言堂」とも呼ばれ本舞台、橋掛かり以外に能舞台には見られない舞台下に隠れる「飛び込み」や動物役などが登場する「獣台」(けものだい)などの特異な構造をもつ -
「壬生狂言」(入場券代わり)
定期公演として、2月節分の前日と当日の2日間、春(4月29日~5月5日)、秋(10月の体育の日を含む3日間)の年間3回公演している -
「壬生三面」(みぶさんめん)
「壬生狂言」で用いられる最も古い室町時代の3つの能面(狂言面)で、多数の仮面の内でも江戸時代より特に重要視され、貴重な文化財として特別扱いされ、舞台では使用されない、左から「猿」(日永 作)は山王大権現、「翁」(赤鶴 作)は住吉大明神、「狐」(竜右衛門 作)は稲荷大明神 -
「壬生狂言の面(おもて)」
壬生寺が所蔵する壬生狂言の面(おもて)の数は、190点余りで、特に古い室町時代の「壬生三面」は、通常非公開 *「千本えんま堂」では50点と聞いていたので規模が大きい -
「壬生狂言」詳説
正しくは、「壬生大念仏狂言」と言い、「壬生さんのカンデンデン」という愛称と共に、庶民大衆に親しまれてきた。鎌倉時代、中興の祖・円覚上人が悪疫駆除のために行った法要が起源で、仏の教えを庶民に分かり易く説くために「壬生さんのカンデンデン」というリズムと共に、身ぶり手ぶりのパントマイム(無言劇)に仕組んだ念仏で、一般の能狂言とは異なり、かね・太鼓・笛の囃子に合わせすべての演者が仮面をつけ一切「せりふ」を用いず無言で演じられ、娯楽的な演目の中にも勧善懲悪、因果応報の理を教える宗教劇としての性格を持つ、現在上演される30曲を解説している -
京都の「三大念仏狂言」
円覚上人(えんがくしょうにん1223-1311)は、平安時代からあった「融通念仏」を洛中48か所の道場で広め、人が集まり過ぎて群衆に声が届かないので、身ぶり手ぶりの無言劇にした「持斎(じさい)融通念佛」を考案したのが始まりとされ、現在「壬生」(壬生寺)、「嵯峨釈迦堂」(清凉寺)、「千本ゑんま堂」(引接寺)の「三大念仏狂言」の他、「神泉苑」(11月)でも行われる -
(2024/05/04撮影)「千本えんま堂大念仏狂言」
「千本通」を歩いた時の「千本えんま堂」の狂言で、ここだけは無言でなく、台詞がある「有言」で、「能狂言」に一番近く、分かりやすかった、ここは無料で写真撮影もokだが、壬生は1,000円 *「能狂言」は、能楽の能の合間に演じられる滑稽な喜劇で、面をつけないで台詞があり、「念仏狂言」は、信者を増やすための宗教劇で面をつけて無言が主体 -
「壬生大念仏狂言」30曲の内、16曲の紹介板
「壬生」演目の目玉は、毎回最初に演じられる「炮烙割」(ほうらくわり)で、節分に奉納された素焼きの皿「炮烙」を舞台から落として割ると厄除開運になるというあらすじで、舞台に並べられた約1,000枚の皿が割れるシーンは迫力がある。他にも、2番目に見た「愛宕参」(あたごまいり)では、土器投(かわらけなげ)の代わりに餅が投げられ、これを食べると厄除けになる -
「壬生寺(みぶでら)本堂」
奈良・唐招提寺を総本山とする京都では珍しい律宗寺院、「地蔵院」の勅号も賜り通称「壬生地蔵」で、平安中期991年快賢(かいけん)により創建され、何度かの焼失再建を繰り返し、1811年本堂再建、1962年不審火により本堂と本尊地蔵菩薩像を含む多数の寺宝を失うが、1967年再建され、新たに延命地蔵菩薩立像(重文)が総本山唐招提寺から遷され本尊とした -
(内部は撮影禁止のためパンフレット)本尊は平安後期「定朝」(じょうちょう)作の「延命地蔵菩薩立像」(170㎝)で、安産・健康・長寿・金運など十益(じゅうえき)の御利益があり、脇侍には赤い「掌悪童子像」と白い「掌善童子像」、周りの「障壁画と襖絵」は、薬師如来や阿弥陀如来、日光・月光菩薩など現世や極楽浄土が表現され、その「鴨居上部」には南無阿弥陀仏の全文があり、「天井絵」は壬生狂言の衣装の柄から採られたもので、豪華絢爛
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本堂奥の「庭園」へ
本堂西側の書院前にある「壬生寺庭園」は、通常非公開だが、「壬生狂言」公開の時期に合わせて特別公開される が、狂言でも1,000円、本堂・庭園でも1,000円の拝観料は取り過ぎ -
「壬生寺庭園」
作者は不明であるが、1735年頃に北村援琴(きたむらえんきん)が著わした「築山庭造伝」には「緻密閑艶体、細やかに心をつけてしとやかにみゆえるすがた」と記され、この庭園が当時から名園として知られていたことが分かる。庭園の南北に長い枯池を中心とし、半周を築山で囲まれている、右手奥の築山斜面枯滝石組は、やや大ぶりのチャートを中心とする石で組まれており、この手前の切石の橋は、長さ4mに及ぶ。1788年天明の大火で本堂とともに焼失したが、1811年本堂再建の際、整備された。 -
江戸中期の「築山庭造伝」では、本堂側から西側を向いて眺める庭園だったが、1788年天明の大火や昭和の火災を経て、現在は北側から南へ向けて鑑賞する形になっている
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庭園の南北に長い枯池を中心に、築山で囲まれている
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現在は枯池になっているが、かつては池泉鑑賞式庭園だったと思われ、庭園内を散策してみたくなる、先日の大雨では結構水が溜まったらしく、水面に映る美しい青もみじが想像できる
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奥の築山斜面の枯滝石組は、やや大ぶりのチャート(堆積岩)を中心に組まれており、青い岩で滝を表し、手前の縦長い石で登り鯉を表していると思われ、手前に約4mもの切石橋を架けている
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手前の飛び石の先にある茶室は、最近のものと思われる
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池泉を囲むモミジは、新緑でも美しいが、紅葉の時期にも見てみたい
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「水掛地蔵堂」と「弁天堂」、「阿弥陀堂」
「水掛地蔵堂」は、江戸時代中期の地蔵菩薩(石仏)を祀り、水を掛けて祈ると、一つだけ願いが叶い、別名「一言地蔵」と言われる、「弁天堂」は、清水寺の延命院より移されたもので、子孫繁栄 ・金運上昇のご利益がある、「阿弥陀堂」は、鎌倉時代に創建され平成14年に再建、阿弥陀如来三尊像を安置する、この奥に「壬生塚」がある -
「壬生塚」(みぶづか)
神秘的な「龍神像」のある放生池の中の島に「壬生塚」があり、幕末の新選組局長・近藤勇の胸像や遺髪塔、屯所で暗殺された芹澤鴨の墓など11名の新選組隊士が眠っており、毎年7月16日(池田屋騒動の日)には新選組隊士の慰霊法要が営まれる -
(仏光寺通)
鴨川右岸から仏光寺、壬生寺を経由し、佐井西通までで、平安京の五条坊門小路にあたる(現在の五条通は六条坊門小路) -
「壬生湯」
昭和11年(1936)創業の現役銭湯 -
新しい家が続く
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(高辻通)ライオンズマンション
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カフェ「リッコローズ」
思わず入って見たくなりそうな喫茶店だったが、スルー -
(松原通)京都産業大付属中高
かつて日本専売公社の京都工場跡地であった所を、2009年に取得し移転している -
「光徳公園」へ迂回
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(万寿寺通)「京都産業大付属中高」正門
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(坊城通)をスルーして(壬生川通)へ「壬生川団地」
昭和50年(1975)築で、11階建、総戸数301戸の大型分譲マンション(壬生坊城第2団地は昭和42年建設) -
(壬生川通)「ヤサカ自動車」
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「彌栄ヤサカ自動車」本社
大正5年(1916)京阪伏見桃山で明治天皇御陵までの乗合バス営業を開始したのに始まり、現在京都一の老舗タクシー会社で、全国グループ16社で1,500台の営業車両を持つ、「三つ葉のクローバー」をシンボルマークとし、2002年から流し専門のタクシー4台だけが「四つ葉」になっており、乗車すると「記念乗車証」をもらえる -
(五条壬生川)
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(五条通)を(壬生川通)から再び隣の(坊城通)へ
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(坊城通)「京都中堂寺坊城郵便局」
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「中堂寺児童公園」
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「京都市中央卸売市場 第一市場 青果部」
外壁沿いにある「中堂寺坊城町地蔵尊」 -
「京都市中央卸売市場 第一市場 青果部」は、昭和2年(1927)日本で最初に開設された
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「関西ガスメータ」
1906年創業の都市ガス用ガスメーターで、2021年から国内トップシェアの矢崎グループ傘下に入って、西日本エリアの都市ガス向け事業拡大 -
「京都市島原老人デイサービスセンター」
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「島原歌舞練場跡碑」
当初は島原女紅場といい、芸娼妓に刺繍・裁縫などを教え、遊里を離れても仕事ができることを目指して、明治6年(1873)に設立された教育・勧業施設である。その後、昭和2年(1927)にこの地に新築・移転し、本格的な劇場施設となった。歌舞練場では温習会や餅搗きなどの行事が行われていたが、平成8年(1996)に解体された。(石碑)島原歌舞練場は、明治6年(1873)上之町に島原女紅場(ニヨコウバ)として開設され、青柳踊や温習会が上演されていたが、同14年頃には衰微を極め、青柳踊等も頓挫した。その後景気の回復により、太夫道中が再興され、歌舞練場が常にその巡行の拠点としての役割を果していた。しかし、当初の歌舞練場は狭隘にして、かつ貸座敷組合事務所との共用であったため、昭和2年(1927)に中之町の現在地に移転し、本格的な劇場施設として新築された。それ以来、この歌舞練場は、歌舞会にあたる養柳会が運営にあたり、歌舞音曲の練習発表の場として毎年温習会が開催された。戦後の同22年以後は島原貸席お茶屋業組合の事務所としても使用されてきたが、平成8年(1996)同組合の解散に伴い、歌舞練場を解体し、歌舞練場120余年の歴史を閉じることとなった。また天保年間の島原鳥瞰図によると、当地はもと稲荷社が鎮座していたことから、この大榎(オオエノキ)には、歌舞練場解体時までその根元に祠が祀られていた。約200年の樹齢を誇るがごとく、樹高は15m幹周りも2mとなり、今なお神木としての威厳を留めている。ここに記念碑を建立し、花街の象徴であった歌舞練場と古木の由来を刻するものである。平成13年11月吉日島原伝統保存会 「宝暦の むかしの夢は見は見つれ 夜半の投節 聴くよしもなし」吉井勇(歌人1886-1960) -
「法華寺」(ほっけじ)
日蓮宗寺院で、洛陽十二支妙見の霊場 *「洛陽十二支妙見」は、京都御所の紫宸殿を中心に京都市内の十二支の方角の寺院に祀られた妙見大菩薩、本満寺、霊鑑寺、本教寺、常寂光寺など12寺をめぐり、開運・厄除を祈願する -
「輪違屋」(わちがいや)
江戸時代初期1688年創業の「置屋」(おきや)で、現在の建物は1857年再建、伊藤博文の寵愛を受けた桜木太夫が有名で、今でも唯一現役のお茶屋として数名の太夫をかかえるが一見さんお断りで非公開 *「置屋」は太夫や芸妓を抱えて、料亭・茶屋などの求めに応じて差し向けるところ、近くの「角屋」(すみや)は「揚屋」(あげや)で、大規模の宴席にも対応できる料亭として置屋から呼んで客人を揚げる、現在は美術館 -
「小坂児童公園」
(坊城通)と(壬生川通)の間にある -
(花屋町通)「島原」
島原は、幕府公認の遊郭として1585年「二条柳町」から1602年「六条三筋町」を経て1641年に移転し、急な移転騒動が1637年の九州島原の乱を連想させたことから「島原」と呼ばれるようになり、幕末の1867年に現在の門が建てられ、八つ時(午後二時頃)に大門を開くことから「八門」(やつもん)といわれた *京都六花街は、上七軒、祇園甲部、先斗町、祇園東、宮川町、島原から、昭和52年からは島原を除けた5花街になっている -
「島原大門」(しまばらおおもん)
島原は、周囲を堀で囲んで外部と隔離し、門前には遊郭を訪れる客に顔を隠すための編み笠を貸す「編み笠茶屋」があり、入ったところには客を待たせて「揚屋」まで送っていく「出口の茶屋」があり、石畳の通りの左右には50軒の「置屋」と20軒の「揚屋」が並んでいたという -
「二人司町」(ににんつかさちょう)
周辺にあった遊廓で亡くなった身寄りのない遊女たちを葬った無縁塚「二人塚」の呼び名が「二人司町」となったされ、郭(くるわ)を逃げようとして処罰されたり、病死した名もない遊女が葬られた悲しい歴史がある -
(正面通)大和大路通の方広寺から、途中で渉成園(枳殻邸)や東本願寺、西本願寺、山陰本線、中央卸売市場などで中断するが、島原南側を通って天神川通手前まで続く、この通り沿いには西本願寺の幹部住宅が多いらしい
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(坊城通)は途中クランクして進む
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「豆之子稲荷」(まめのこいなり)
路地に沿って立派な「稲荷神社」が建っている、こういう住宅地の中に溶け込んでいる風景はよく見かけるが、まず神社ありき、地蔵尊ありきで、周囲と一体化した歴史的な町並みは京都らしい -
まだ真新しそうな、すぐ横の民家は「社務所」になっており、本殿には「豆之子稲荷大明神」の提灯がぶら下がっている、「豆之子」という面白い名前の由来は分からないが、地域の平安や豊穣を願うものと思われる
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向かいにも、民家に食い込んだ「豆之子稲荷前地蔵尊」(天道大日如来)があり、住民の信仰心は徹底している
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すぐ近くの(北小路通)にも「夷馬場町地蔵尊」(えびすのばんばちょう)、かつてこの辺りには「夷神社」と、乗馬の練習などを行う「馬場」があったという
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(坊城通)から(北小路通)を(夷川通)へ
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(夷川通)フランス国旗の素敵な店構えのカフェを発見!
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向かい側には「古民家まぜそばラーメン」
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ランチを食べ損ねて、口はラーメンだったが、お洒落な店構えに惹かれて、フレンチカフェに入って見る、店頭にはテラス席もあり、アジサイなど四季折々の花々を見ながら、お茶すると気持ち良さそう
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「メゾン・ドゥ・イッテーサロン」
2023年オープンの高級チョコレート販売と、店内でも食べられるサロンで、店名はフランス語で「Maison」は家、「it」は大切な人へ贈る「極上の逸品」という意味が込められているという、歩かないとまず見つけられない!超隠れ家的な店 -
ショーケースには高級ショコラがずらりと並び、販売されており、値段もそれなりに高級!
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店内は、高級アンティークな雰囲気が漂い、パリを彷彿とさせるお洒落なサロンの空間が広がる
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パリを演出する絵画は、トイレの絵画まで素晴らしい!
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全ての調度品が素晴らしいので、店員さんに聞いたら、納得!
「Maison d' it」(メゾン・ドゥ・イッテー)は、「先斗町 禊川(みそぎがわ)」のオーナーシェフが手掛けるオリジナルショコラブランドで、その姉妹店として、オーナーの自宅お庭を改装して作り、調度品は全てオーナーのコレクションだった! -
(パンフレットより)「先斗町 禊川(みそぎがわ)」は、名前は知っていたが、ランチで15,000円~、ディナーで30,000円~でまず行くことはない、がここではそこで出されるケーキプレートが食べられる
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オーナーシェフを調べてみると、1947年生まれ、1964年東京曾舘に入社しクラシックフレンチを学び、1981年フランス会席「先斗町 禊川」を開業、お箸で食べる独創的なフレンチを提供し、ミシュランガイド一つ星の実績もある
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メニューは、「キッシュ、サンドウィッチ、サラダ、スープ」と、「グラタン、サラダ、スープ」の2種類で、グラタンを注文、スープが絶品だった!
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「禊川」で出しているケーキプレートをサービスしてくれたので、コーヒーも追加注文、トリュフオーショコラとかガトーショコラとか説明してくれたが、さっぱり理解不能、全てが高級感溢れる味わいで、パリの雰囲気に浸ってしまう
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「さんさん教育」と「名入れ屋忠兵衛」の看板に惹かれる!
今もやってるかどうか分からないが、「さんさん教育」は、そろばん塾みたいなものか、「名入れ屋」は江戸時代の歌舞伎役者が手ぬぐいに名入れした時代からあったらしいから、昔からの名入れ専門の店かもしれない -
(坊城通)へ「京都トヨペット本社」
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15:30(坊城通)はここ(七条通)で終了
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(坊城通)から(七条通)を(壬生川通)へ
行列の出来る美味しいミンチカツの老舗肉屋さん「今村総業」(昭和12年創業) -
野菜も売ってる文具店、昭和15年創業の老舗「マエダ文具店」
昔からの文房具屋さんが駄菓子屋雑貨品も取り揃え、さらに野菜まで売り出して、親子連れに大人気だという -
手書きの「チョークアートの看板」
野菜を売り出した理由を調べると納得! もともと近くの「中央卸売市場」に、伝票や封筒、ハンコなどの事務用品を配達していて、知り合いの仲買さんから「廃棄処分される野菜を売らないか」と言われて始めたらお客さんにも喜ばれたという -
(七条通)「七条壬生」(壬生川)
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正面突き当りは(木津屋橋通)の「梅小路ホテル」
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「京都市立梅小路小学校」
平成8年(1996)少子化に伴う統廃合で「大内小学校」跡地に開校、「大内小学校」は明治5年東寺の境内で開校した「東寺廻村(まわりむら)小学校」で、もう一つの「安寧(あんねい)小学校」は明治の番組小学校 -
「大内小学校の碑」
平成8年(1996)、大内小学校と安寧小学校の統合で閉校したことを記念して建立、右側に学校沿革史、左側に校歌の歌詞が刻まれている、1872年(明治5年)葛野郡第三区東寺廻村小学として開校、1886年(明治19年)現在地(大内エリア)へ移転、1913年(大正2年)大内尋常小学校へ改称、1996年(平成8年)安寧小学校と統合し閉校 -
(木津屋橋通)「梅小路ホテル」
(壬生川通)はここで中断し、梅小路公園から大宮通を迂回して山陰本線(嵯峨野線)、東海道線を横切り、(壬生通)と名前が変わって南下する -
「梅小路ポテル」入り口
「ホテル」ではなく「ポテル」、ホテルグランビアなどを展開するJR西日本グループが2020年オープンした新ブランドホテル「Potel(ポテル)」の第1号店で、出入り口を意味する「port」と「hotel」の造語 -
「梅小路横丁」
(木津屋橋通)から梅小路公園に入る小路に、ホテルと同時にオープンし、梅小路公園の北側入り口になる -
横丁には、牛乳石鹸をパートナーにした銭湯や、麹室(こうじむろ)を併設し立ち飲みや甘酒などの飲酒も出来る「梅小路醗酵所」、カフェや休憩スペースなどある
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横丁出口
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ホテル公園側入り口
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「チンチン広場」
引退した市電を利用した「市電カフェ」や休憩スペースがあり、実際に「すざくゆめ広場」までの210mを走る -
「市電カフェ」
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「美山牛乳ソフトクリーム」が人気
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「芝生広場」は憩いの広場
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「京都水族館」
1995年「梅小路公園」の後、2012年「京都水族館」、2016年「鉄道博物館」開業 -
日本初の完全人工海水を利用した国内最大級の内陸型水族館で、鴨川に生息するオオサンショウウオや、西日本最多級の30種5000匹のクラゲ、イルカのパフォーマンス、59羽のペンギンたちの個性や恋愛関係などまとめた「ペンギン相関図」が人気
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(大宮通)側出入口
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「山陰本線」(嵯峨野線)と「東海道線」、その先に新幹線、左手が京都駅
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(南梅小路通)を西へ進む
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「八条公園」
梅小路公園で遮断されていた(壬生川通)は、ここから(壬生通)として南下する -
「兒水不動明王堂」(ちごのみずふどうみょうおうどう)
源実朝の妻坊門姫(西八条禅院)が実朝の菩提を弔うために創建した「大通寺」の境内にあり、明治45年(1912)の東海道線工事により西九条へ移転したが、不動明王堂は元の場所に残されたもの *「大通寺」(だいつうじ)は、「六孫王神社」を鎮守社とし、広大な寺領を誇っていたが、明治の神仏分離令で「六孫王神社」と離され、東海道線工事で、「兒水」と「六孫王神社」を残し九条大宮に移転した -
「六孫王神社」(ろくそんのおうじんじゃ)
平安中期の963年、清和源氏の祖「源経基」(つねもと)の嫡男「源満仲」(みつなか)が、経基邸宅跡に霊廟を建てたことに始まり、「経基王」は清和天皇第6皇子の子「六孫王」と呼ばれたため「六孫王神社」と命名され、境内には経基の墓とされる石塔があり、「清和源氏発祥の宮」として源氏の聖地となっている -
(2023/11/05撮影)参道から「唐門」「拝殿」「本殿」
「六孫王神社」は、室町時代に焼失後、3代将軍・足利義満(1358-1408)により再建され、さらに応仁の乱(1467-1477)焼失後、清和源氏の末裔を自認する徳川将軍家の援助によって現在の社殿も再建され、明治になって境内の大部分は接収され、大正元年(1912)に境内に国鉄線路が敷設され、昭和39年(1964)には新幹線の敷設でさらに縮小され、新幹線に押された形で存在している -
「六孫王神社」は、平安末期には一時平清盛(1118-81)邸宅「西八条殿」の一部となったが、平家の没落後源頼朝に与えられた所で、奇しくも源平隣り合わせの場所となっている
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「源氏」の歴史
清和天皇の孫にあたる「経基」(つねもと894-961)は皇族を離れて「源」姓を賜り、平将門の鎮圧に功を立て武将としての名声を得、その子「満仲」(みつなか912-997)の3人の子は「頼光」(よりみつ)が摂津国、「頼親」(よりちか)が大和国、「頼信」(よりのぶ)が河内国をそれぞれ拠点として繁栄、特に「頼信」の孫「義家」(よしいえ1039-1106)は石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」と呼ばれ、東国における源氏勢力の基盤をつくり「清和源氏」の地位を確立した、その後「平家」勢力に押されたが、1180年の源平合戦で「源頼朝」(よりとも1147-1199)は、弟の牛若丸「義経」(よしつね1159-1189)らと共に平氏を滅ぼし、1192年鎌倉幕府を開いた、その後も「清和源氏」からは「足利尊氏」「徳川家康」など輩出している -
(八条通)八条壬生
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(針小路通)「学校法人真言宗洛南学園・洛南高等学校・附属中学校」
「針小路通」は、鴨川西岸から御前通手前まで -
「学校法人真言宗洛南学園」
弘法大師空海が平安時代に創設した日本最古の私立学校と言われる「綜藝種智院」(しゅげいしゅちいん)をルーツとし、明治初期の1881年に僧侶育成のために設立した「総黌」(そうこう)を母体に、東寺境内に1962年洛南高校設立、1985年附属中学校を開設、1997年男女共学化、2014年附属小学校(向日市)を開設し、小中高一貫体制となる -
「東寺」(壬生通)側の築地塀(ついじべい)
東寺入り口の門は、南側正門「南大門」(国指定重要文化財)、東側拝観のメイン入口「慶賀門」(国指定重要文化財)、東側(不開門)「東大門」、北側観智院に近い「北大門」(国指定重要文化財)、西側(不開門)「蓮華門」(国宝) -
「蓮華門」(れんげもん)
弘法大師空海ゆかりの「不開門(あかずのもん)」として知られ、空海が晩年、死を悟り高野山で隠棲するため東寺を旅立った際、見送りに現れた不動明王の足下に蓮花が咲いたといわれることから「蓮花門」と呼ばれる -
(九条通)京阪国道口(国道1号線)
(壬生通)はここで、国道1号(京阪国道)につながり、大阪方面へ南下する -
「東寺」南側の堀
「東寺」の周囲は堀に囲まれ、まるで城塞のような寺院になっている、近くの「西本願寺」も「東本願寺」も同様に堀があるが、これには深い歴史があるようで興味深い -
「東寺」は、平安京を保護するという意味で「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)とも呼ばれ、朝廷の官寺として、796年羅城門の東西に「西寺」と共に建立され、その後823年、弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えたが、国家を護る「官寺」(かんじ)として重要視され、周りを取囲む築地塀と堀は、「平安京の南端の境界」として、あるいは「聖域」を示すため、さらに室町時代には、頻発した「土一揆」から伽藍を守るために整備された
-
(宮元健次著「建築家秀吉」資料)
その後「外堀」は、戦乱の際には寺院を守るための防衛拠点となり、織田信長が陣を構えたこともあり、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、荒廃した京都の都市改造の一環として「御土居」(おどい)を築いた際には、「堀」が境界線となり、また度々の火災から守る防火・防災の役割もあった *「西本願寺」と「東本願寺」も、火災防御は最大の理由で、特に戦乱の時代にはスポンサーである秀吉と家康の「城塞」としての役割が大きい -
東寺南側正門「南大門」
東寺は南北515m、東西255mで京都御所の南北450m、東西250mよりも広大、「南大門」は、5つある入り口門の中で最も大きい八脚門(やつあしもん)で、当初、運慶湛慶作の金剛力士2像を安置していたので「二王門」と呼ばれたが、明治元年に焼失し、明治28年(1895)に京都国立博物館を造るのに「三十三間堂西門」(1601年建立)が邪魔になって譲りたいという話があって移築された *東寺の広さ8.5haに対し、西本願寺10.9ha、東本願寺9.2ha -
「東寺五重塔」(国宝)
木造の塔としては日本一の高さ54.8mで、826年弘法大師空海が金堂に続いて創建したが、何度か焼失し、現在の塔は1644年に徳川家光再建のもの、初代の塔は、伏見の稲荷山から用材を伐りだした際に、誤ってご神木まで伐ってしまい、神の祟りで淳和天皇が病気になったので、これまで秦氏の私社だった稲荷大神に神階を授け、以後伏見稲荷大社と東寺は深く結びつき、今でも伏見稲荷大社の「還幸祭」では東寺に立ち寄るという -
「東寺」と「西寺」
796年羅城門の東西に「東寺・西寺」という二つの官寺が建立され、その後823年、東寺は空海、西寺は守敏(しゅびん)に下賜されたが、「東寺」は、真言密教の根本道場として弘法大師信仰の寺院として栄えたのに対し、「西寺」は、官寺のまま衰退し廃寺となった、その理由は、西側の右京エリアは湿地帯で環境が悪く発展しなかったことに加え、空海と守敏がことごとく対立して評判を落とし、朝廷の支援を受けられなくなったと推測されている -
「東寺のアオサギ」
南大門の石碑の前には、いつ行っても「アオサギ」が両サイド同じ場所に対で、まるで狛犬ならぬ「狛サギ」のようにいる -
(2023/12/02 撮影)3年前のアオサギ、アオサギの寿命は3年~20年というから、同一かどうかは分からないが、常に左右に1羽ずついるから、縄張りとか代替わりとか、どうなっているのか、東寺の人に聞いてみたい!
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16:00「メゾン・ドゥ・イッテーサロン」の高級チョコレートを持って帰宅
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