2025/06/04 - 2025/06/04
1212位(同エリア3571件中)
Bachさん
ゴールデンウイーク明けの今月は、天皇退位後の居所である「洞院」(高陽院、花山院、高倉院など)が多くあった東西の通りの内、東側の「東洞院通」を歩きます。
当初は丸太町通からのスタートを考えてましたが、調べると平安京の「東洞院大路」は、現在の「京都御苑」の中を通っていたことが分かり、ついでに、かねてから行きたいと思っていた、あの「桂離宮」を造営した「桂宮」の本宅である「桂宮邸」の庭園が最近公開されているので行きましたが、久しぶりに「京都御苑」を歩くと、今まで通り過ぎていた神社や史跡など、新しい情報がどんどん出て来て、これほど「京都御苑」を真面目に細かく見たことはなかったので、結局これだけで1日が終わってしまい、現在の丸太町通からの「東洞院通」は翌月にまわすことになり、2ヶ月がかりの散歩となりました。
この通りは内裏や貴族の集まる道幅の広い通りでしたが、秀吉の都市改造からは狭くなり、江戸時代には「竹田街道」へ繋がる交通の要衝になったため、日本初の「一方通行」が始まり、また明治時代には、京都市電の「路面電車」が日本で初めて走って、昔から賑やかな通りですが、最近も「大丸」のある四条通界隈を中心に、多くの歴史が埋もれながらも、新しいビルや店舗が建ち並ぶ活気のある通りになっていて、ここでも歩いてからこそ出てくる新発見が盛沢山の南北散歩になりました。
おりしも翌日の5月15日は「葵祭 」(あおいまつり)で、京都御苑ではその準備の真っ最中でしたが、来月はまた「祇園祭」が始まって、京都の町は暑さを吹っ飛ばさんばかりの、盛り上がりを見せます。
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「東洞院通」(ひがしのとういんどおり)は、平安京の「東洞院大路」にあたり、天皇退位後の居所である「洞院」が多くある東側の通りで、西側には「西洞院大路」もあり、内裏や里内裏、女院など数多くの皇族の邸宅があるが、中でも藤原氏全盛期の藤原道長の「土御門東洞院殿」は、東洞院通から寺町通に到る広大な規模で、現在の京都御所の原型となっており、大路は今の京都御苑内の一条大路辺りから、道幅25mもある大きな通りだったが、丸太町通までは1708年の「宝永の大火」をきっかけに御所に取り込まれ消滅し、さらに秀吉の再開発で狭い通りになり、江戸時代には八条通から伏見へ至る「竹田街道」に通じて交通の要衝となり、物資を運ぶ牛車など交通渋滞が起こるほどだったので、この通りを「北行き一方通行」とし日本で最も早い「一方通行」が始まった。また明治に入るとこの竹田街道沿いに明治28年(1895)から昭和45年(1970)にかけて、日本初の路面電車である京都市電の中書島まで伏見線、七条まで東洞院線が走ったが、現在の「東洞院通」は、丸太町通から九条通まで約4.0kmで、九条通から先は竹田街道に接続する
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(5.14)11:30今出川駅~鳳舞楼(ほうまいろう)~0.7km(京都御苑)今出川御門~桂宮邸跡~閑院宮邸跡~間之町口~(2.0km)15:00丸太町通
(6.19)11:00丸太町駅~東洞院通~0.1km(竹屋町通)竹間公園・吉益東洞宅跡~京都市子供未来館~0.2km(夷川通)~0.1km(二条通)~0.3km(押小路通)~嶋臺~0.1km(御池通)~0.1km(姉小路通)~高倉宮跡・こども相談センター~中央郵便局、曇華院跡~0.1km(三条通)~0.2km(六角通)~京都市男女共同参画センター~御射山公園ラジオ塔~(蛸薬師通)~0.3km(錦小路通)~(2.0km)12:30(ランチ米福)~薩摩屋敷跡・大丸~0.2km(四条通)~0.1km四条東洞院内裏跡~0.1km(綾小路通)~0.1km(仏光寺通)~0.1km(高辻通)~保昌山会所~0.1km(松原通)~0.3km(五条通)~(シアトルズコ-ヒー休憩)~1.1km(2.0km)15:00京都駅 (全行程4.0km) -
「京都御苑」案内図
平安京の「東洞院大路」は「京都御苑」内から始まり、最近2022年から公開が始った「桂宮邸庭園」にも行きたかったので、「京都御苑」内からスタートする (ルート)今出川御門~桂宮邸跡~猿ヶ辻~近衛邸跡~一条邸跡~乾御門~皇后門~縣井(昭憲皇太后産湯の井戸)~東洞院大路北限~清所門~中立売休憩所~京都御苑情報館~車返桜~中立売御門~宣秋門~蛤御門~清水谷家の椋~桃林~枇杷殿跡・梅林~西園寺邸跡(立命館創設の地)~皇宮警察本部~白雲神社~出水口~出水広場・出水の小川~賀陽宮邸跡~下立売御門~椹木口~宗像神社・花山院邸跡~閑院宮邸跡~間之町口まで約 2km -
(5.14) 11:30 地下鉄・今出川駅スタート
地下鉄から地上に出て、1階にコメダ珈琲があるビル5階に直行してランチ -
ランチ「鳳舞楼」(ほうまいろう)
ビル 5階にある中華料理店で、あっさり目の京中華の元祖と呼ばれた老舗の中華料理店「鳳舞」が2009年に閉店し、その弟子が2015年にその味を受け継いで開店していて、テレビでも紹介されていたので一度行って見たいと思っていたが、昨年2024年から今の場所に移転したという -
名物は「辛しソバ」
辛しと酢醤油の絶妙な味が、あんかけの豚肉、レタス、筍、キクラゲ等の野菜の甘味と微妙に絡まって、普通のあんかけ焼きそばに自分で酢やカラシを入れた時とは全然違う、京都の上品な中華料理という感じ -
「辛しソバ」1,200円と、焼売700円を注文
追加のカラシもあったが、食べるうちにだんだんカラシのツーンがやってきて、ちょうどいい辛さ、シュウマイも薄皮でジューシーで美味い -
今出川通を東へ進むと、同志社キャンパスに挟まれた「冷然家住宅」
「冷然家」は、公家屋敷が取り壊されて「京都御苑」として整備された時に、現在の御苑外にあったため残された、唯一京都に残る公家屋敷(屋敷は江戸中期の1790年頃に再建されたもの)、鎌倉時代の歌人「藤原俊成・定家」の子孫で、国宝の「古今和歌集」などが保存され、毎年1月には歌道宗家・冷泉家の伝統行事「歌会始」がここで開催される -
その先に「今出川御門」
京都御苑には「外周御門」として9つの御門と、「御所門」として6つの御門がある、また、外周御門の他に門のない「切り通し」(小口)と呼ばれる入り口が5つある -
「桂宮邸」の勅使門と表門と築地塀
「今出川御門」を入って直ぐのところに、「桂宮邸」の2つの門と、5本線の「筋塀」(すじべい)が見える *「筋塀」は、格式を表す(3~5本の)白い線が引かれた「築地塀」で、御所や二条城の他、門跡寺院や東本願寺、西本願寺も5本線 -
「桂宮邸」(かつらのみやてい) 勅使門
「桂宮邸」は、桃山時代から江戸初期の「智仁(としひと)親王」を初代として創立された邸宅で、幕末には皇女・和宮(当時15歳)がこの場所から14代将軍徳川家茂の元へ江戸へ嫁いで行った、そして明治になって断絶以来、建物は二条城の本丸御殿として移築され、跡地はしばらく宮内庁職員の宿舎に使われていたが、最近の2022年から一般公開された -
入口は「表門」でなく、敷地の南側の林の中にあり、分かりにくい
「智仁親王」(1579-1629)は、豊臣秀吉の猶子になったが、鶴松が誕生(この時秀吉52歳)したため解消になり、代わりに1590年宮家を創立し、主な所領が八条通沿いの桂周辺にあったことから、当初は「八条宮」と称したが、後に別邸として「桂離宮」を造営したことから「桂宮」と呼ばれる -
「桂宮邸」入り口
1590年創立の「桂宮邸」は、江戸時代1854年の大火で炎上した、新内裏が完成するまでの約1年半一時仮御所にもなったが、1881年(明治14年)断絶以来、1893年(明治26年)に玄関、御所院、台所、雁の間、御常御殿の4棟が「二条城」本丸御殿として移築され、書院、客殿は近くの菩提寺・相国寺塔頭の「慈照院」に移されている -
中に入ると、建物は全部移築された跡の、広大な敷地が拡がり、右手の南側築地沿いには、幕末の1854年に京都御所が火災にあって一時的に孝明天皇の仮御所となった際に作庭された庭園が残っている
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敷地は何もないタダの広っぱで、邸宅の間取りが分かるように、地面に白線が引かれ、部屋名のプレートがある、「桂宮総図」という資料によると、表門を入った所に 御車寄、使者の間、殿上の間があり、その奥に鴈の間、中書院、小書院、表御居間、常御殿 が並び、北側に台所、諸大夫詰所、局などがあり、この殆どが現在二条城に残っている
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「桂宮邸庭園」
建物がないので、ここでの見所は南側にある「池泉庭園」だが、注目は、日本庭園の傑作と言われている「桂離宮」を別邸として造営した「智仁親王」の本邸であることで、この「桂宮邸」の庭園が、造庭の才にも優れていたと言われる「智仁親王」の趣がでているかどうか、興味深い -
(2009/12/22撮影)「桂離宮」
「桂離宮」は専門家の間でも「日本的な美しさで最高の水準」と言われ、ドイツ人建築家ブルーノ・タウトに「泣きたくなるほど美しい」と言わしめた日本庭園で、1590年創立の「桂宮邸」初代・智仁親王(1579-1629)が1620年から家領の桂に別荘を造営し、その子・智忠親王(1619-1662)が受け継いで完成させた、「智仁親王」は、家康に冷遇されたために、徳川幕府に対抗する王朝文化の再興をめざして、自分の半生を捧げ「桂宮邸」を造ったという -
「桂離宮」のイメージがあったので、期待したが、現実は荒れ放題の状態で、公開するならもう少し整備してからにして欲しい感じだが、一時取り壊しの危機もあったそうだから、こういうものがあったという痕跡だけでも残してくれて有難い
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枯山水ではなく、池泉庭園だが、水は張られておらず、むき出しの築山や傾いた石橋、崩れたような石組など、長らく放置されていたのがやっとここまで整備されたという状態で、もう少し増しな状態になるのだろうか
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木の根っこがはみだし、水路や大小の石、灯篭などもあって、立派な池泉庭園の片鱗は見えるが、この庭園は京都御所の火災で一時的に仮御所となった際の1854年に作庭されたらしいから、元々あったと思われる「智仁親王」時代の庭園がどれだけ残されているかは不明
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様々な石があるので面白いが、中央手前は灯篭みたいで、背後の縦長は「手水鉢」のようにも見える、この近辺には茶室があったのかもしれない
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沢山の自然石に囲まれて、小川と石橋が目立ち、池泉回遊式庭園の面影が十分残っている、この石橋を進むと裏の入り口に出る
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庭園としてはかなり広い
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水路か、側溝が見える
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東側の入り口からの風景、奇麗に手入れされているが、庭園としての整備はこれからか?
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東側入り口
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「今出川御門」正面にある御所門の一つ「朔平門」(さくへいもん)
「朔」は北方の意味で、平安宮内裏の北正面にある門 -
京都御所の築地塀に沿って、東側に進んだ東北の角だけ欠き込んだ形になっている、これは、北東は「鬼門」といわれ、鬼が出入りし縁起が悪いので、建物の北東の角を凹ませて、鬼門をつくらないことで、角=ツノをとって鬼を封じる狙いがある
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「猿ヶ辻」(さるがつじ)駒札
御所の築地塀が折れ曲がった部分の屋根裏に、一匹の木彫りの猿が見られます。烏帽子をかぶり御幣をかついだこの猿は、御所の鬼門を守る日吉山王神社の使者ですが、夜になると付近をうろつき、いたずらをしたため、金網を張って閉じ込められたといわれています。開国派とその反対派がせめぎあう幕末さなかの1863(文久3)年5月、公家で攘夷派の急先鋒の1人であった姉小路公知(あねこうじきんとも)がこの付近で殺されたと伝えられています(猿ヶ辻の変) -
「金網の中に猿」
ぱっと見では分からないが、軒下には「猿ヶ辻」の名前の由来となる、烏帽子を被り御幣を持った右向きの「猿」がいる、この猿は神の使いで、十二支の丑寅と反対の方角は裏鬼門になり、その方向にある赤山禅院や比叡山延暦寺、日吉神社などは、その方角の干支である「猿」(申)を守護神としているので、この「猿」は日吉大社より遣わされてきた、また金網の中に入っているのは、この「猿」が夜な夜な遊びに出てしまうからと伝わる -
「近衛邸跡」(このえていあと)
「近衛家」の屋敷があった跡で、今は「近衛池」という小さな池が残っているのみ、「近衛家」は藤原道長の5代後の忠通の子・基実(もとざね)を祖先とし、邸宅が近衛大路(現在の出水通)に面していたことに由来する -
「近衛邸跡」(駒札)
このあたりが近衛家の屋敷のあったところです。近衛家は、「五摂家」の一つで、江戸時代末までに多くの人が摂政や関白になっています。かつては、この庭園の池の西側に大きな屋敷があり、御所炎上の際には仮の皇居にもなりました。池のほとりは、昔から糸桜の名所で、孝明天皇も次の歌を詠まれています。「昔より 名にはきけども 今日みれば むべめかれせぬ 糸さくらかな」 -
(2016/3/30撮影)「近衛の糸桜」
桜の(説明板)によると、御苑には「ヤマザクラ」や八重の「サトザクラ」があるが、この辺りは「シダレザクラ」(イトザクラ)が多く、孝明天皇の歌にもあるように江戸時代から有名だったという -
近衞邸跡休憩所「笹屋伊織イオリカフェ」
今まで気付かなかったが、これも「桂宮」公開と同じ2022年に開店したらしい -
「乾御門」(いぬいごもん)
烏丸通に面する4つの御門のうち、一番北にあり、御所の「乾」(西北)の方角にあることからの命名 -
「一条邸跡」(いちじょうていあと)オオイチョウ
樹齢300年以上の大銀杏の辺りに「一条邸」があった、「一条家」は「九条家」の分流で、序列としては、「近衛家」を筆頭に「九条家」と「一条家」、その下に九条家から分かれた「二条家」と近衛家から分かれた「鷹司家」(たかつかさけ)があり、これを「五摂家」と呼んで、この5つの家から公家の最高位である摂政や関白になってきた -
「宮家」と「公家」
京都御苑内には、桂宮邸などの「宮家」と、近衛邸などの「公家」が混在し、両方合わせて「公家」とも言えるが、「宮家」は皇族の家系を指し、「公家」は天皇を頂点とする朝廷に仕える貴族全般を指し、「藤原鎌足」を開祖とする藤原氏の嫡流で、摂政・関白になることを世襲した5つの家柄のことを「五摂家」(ごせっけ)と呼び、現在では近衛家が伊勢神宮、九条家が明治神宮の宮司を務めるなど活動している、また「世襲宮家」から誕生した「伏見宮」、「桂宮」(八条宮)、「有栖川宮」(高松宮)、「閑院宮」を「四親王家」(ししんのうけ)と呼び、現在残る宮家は、秋篠宮家、常陸宮家、三笠宮家、高円宮家の4つのみ *細川護熙元首相は、近衛家の第30代当主 -
「京都御苑」(環境省HPより)
現在の京都御所は、里内裏のひとつであった「東洞院土御門殿」に1331年光厳天皇がここを「御所」として即位されたのに始まり、明治に至るまで500年の間天皇の住まいとなり、周辺には宮家や公家たちの屋敷が集められ約200軒の屋敷が建ち並んだが、明治2年の東京遷幸で多くの公家達も東京に移住していき、明治10年に京都に還幸された明治天皇はその荒廃を深く哀しまれ、京都府に御所保存・旧観維持を命じられ、大正4年にほぼ現在の姿が整い、昭和22年には新宿御苑、皇居外苑とともに国民公園となり、環境省の管理のもと国民庭園として、従来からの御所の前庭としての景観維持や都市公園的な役割に加え、大都市の中の広大な緑地としての自然環境を保全し、自然とのふれあいを推進していくことになった *公家屋敷跡としては「桂宮」の他、有栖川宮(ありすがわのみや)、賀陽宮(かやのみや)、閑院宮(かんいんのみや)、近衛殿、一条殿、九条殿、鷹司殿がある -
「皇后門」(こうごうもん)
御所を取り囲む門は、西側だけ3ヶ所あり、ここは皇后御常御殿の通用門となる、6つの門はそれぞれ使用できる門が定められ、南側正面の「建礼門」は天皇のみ、東側「建春門」は皇后、北側「朔平門」は皇后宮御殿の正門、西側「宣秋門」は親王や公家の通用門、「清所門」は日常的な通用門で、一般参観はここを使う -
「宮内庁京都事務所」
京都市内の宮内庁所管の施設を管理し、大宮御所や仙洞御所、桂離宮、修学院離宮などの参観受付もしている -
「縣井」(あがたい)
殆ど気づかない事務所の西側にあり、初めて知ったが、「昭憲皇太后産湯の井戸」とある、京都三名水の一つ(他は染井、左女牛井(さめがい))で、この付近は一条家の屋敷地内となっており、明治天皇の皇后となった昭憲皇太后の産湯に使われたという、(駒札)によると、「昔この井戸のそばに縣宮という社があり、地方官吏として出世を願う者は、井戸の水で身を清めて祈願し、宮中にのぼった」という -
「東洞院大路北限」
標識はないが、ちょうど烏丸通を挟んだ「一条通」の延長線上にあるこの辺りが「東洞院大路」の北限地点になる、「洞院」とは天皇退位後の居所の意で、「京都御所」の原型になった「土御門東洞院殿」もこの辺りの「東洞院大路」沿いにあったが、江戸時代中期の「宝永の大火」をきっかけに、公家の邸宅が集められた「公家町」が丸太町通まで拡大し、大路は御所に取り込まれて消滅し、現在の「東洞院大路」は丸太町通が北限になった -
「清所門」(せいしょもん)
御台所御門と呼ばれ御所の勝手口として使用された日常的な通用門で、一般参観はここを使う -
「中立売休憩所」(なかだちうり)
京都御苑内整備の一環として、「桂宮邸跡」などの整備に先行して、2019年「中立売休憩所」がリニューアルされ、非常にきれいになった、2022年からは「京都御苑情報館」「近衞邸跡休憩所」「清和院休憩所」と「近衛池庭園」も整備された -
「京都御苑情報館」
2022年から新設された施設で、京都御苑の施設や自然を分かりやすく紹介している -
「中立売御門」(なかだちうりごもん)
烏丸通を挟んだ「中立売通」の延長上にあり、京都御苑の西側・烏丸通側の駐車場に入れる、東側は寺町通側の「清和院御門」 -
「車返桜」(くるまがえしさくら)
中立売御門から御所に突き当たる手前に、竹垣を巡らせた中に桜があり、(説明板)では、「車返桜」はサトザクラの一品種の「御所御車返し」(ごしょみくるまがえし)で、花は八重咲で、よく混同される「御車返し」(みくるまがえし)は、「桐ヶ谷」(きりがや)とも言われる別品種になる、「車返桜」は、御水天皇が外出された時に、あまりの美しさに御車を返され鑑賞されたことから、この名が付けられたとされる -
「宜秋門」(ぎしゅうもん)
公家や将軍など、位の高い人だけが使用できる門で、門の前で牛車や輿から降りて徒歩で入る、少し屋根が見える清涼殿の右手に御所があり、その正面に朱塗りの「承明門」があり「建礼門」がある -
「清水谷家の椋」(しみずたにけのむく)(駒札)
この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれてます。樹齢は約三百年といわれ、苑内でも数少ないムクの大木です。1864(元治元) 年の禁門の変の時、長州藩士で遊撃隊(長州尊皇攘夷激派の一つ) の総督だった来島又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝え られています *「清水谷家」は、藤原北家閑院流西園寺家の支流にあたる公家で、転居前の吉田神社の屋根に生えていた椋を神木として移植したという -
東側は、大文字も見える「東山連峰」
手前の「建礼門」の先には、ちょうど翌日は5月15日の「葵祭」 (あおいまつり)で、スタート地点にあたる通りに観客席の準備をしていた *京都三大祭(祇園祭、時代祭)の中でも一番古い「葵祭」は、斎王代を始めとする行列が「京都御所」から下鴨神社、上賀茂神社へ向かう -
反対側は「蛤御門」(はまぐりごもん)
元は「新在家門」といって門は常に閉じていたが、天明大火(1788)の時開放されたので、焼けて口開く蛤にたとえられ「蛤御門」と呼ばれるようになった -
「蛤御門」(駒札)
江戸時代末期の1864年、この門の周辺で(尊攘派の)長州藩と、御所の護衛に当たっていた(公武合体派)の会津、薩摩、桑名藩との間で激戦が行われました。この戦いが「禁門の変」(蛤御門の変)で、門の梁にはその時の鉄砲の弾傷らしい跡が残っています。 -
「蛤御門の弾痕」
禁裏(京都御所)の門で争われたことから「禁門の変」とも呼ばれ、この後、長州藩は「朝敵」となり長州征討が行われたが、坂本龍馬の仲介で西郷隆盛と桂小五郎により薩長同盟(1866年)が結ばれ、倒幕運動は加速していった -
「桃林」
約70本の桃が植えられており、花の時期には甘酸っぱい香りに満たされる -
(2016/3/30撮影)
桃の見頃は、梅と桜の狭間になるので、ちょうど両方見れる頃が一番の見所 -
「梅林」
紅白合わせて約200本の梅があり、主に昭和20年代に京都各地の神社から譲り受けたものだというから古木が多い、1本の木から紅白の花を咲かせる「思いのまま」という梅が好き -
「枇杷殿跡」(びわどのあと)
平安初期の藤原北家・藤原冬嗣の長男藤原長良の屋敷で、その後代々藤原基経や藤原仲平、藤原道長らが所有し、果物が多く植えられていたので「枇杷殿」と呼ばれていた、(駒札)には、「長保4年(1002)以降、藤原道長と二女妍子(けんし)の里邸として整備され、御所の内裏炎上の折は里内裏ともなり、寛弘6年(1009)には一条天皇が遷り、紫式部や清少納言が当邸で仕えたといわれます。長和3年(1014)、再び内裏が炎上し、その後、三条天皇はこの邸で後一条天皇に譲位したといいます」とある -
「西園寺邸跡」(さいおんじていあと)
西園寺家は藤原北家の流れをくむ公家で、今の金閣寺の場所にあった別荘に建立された「西園寺」という寺の名前に由来している(金閣寺は、足利義満がこの場所を気にいって西園寺家から譲り受けて自分の別荘にしたもの)、そして内閣総理大臣までなった「西園寺公望」(さいおんじきんもち1849-1940)は、フランスソルボンヌ大学に留学し、「自由主義的な政治家」として政界に大きな功績と影響力を持ち、私塾「立命館」を設立した -
「西園寺邸跡」(駒札)
西園寺家は琵琶の宗家でもあり、鎌倉時代の公卿・西園寺公経(さいおんじきんつね)が今の金閣寺の地に別荘「北山堂」を造った際、妙音天あるいは妙音弁財天といわれる音楽神を祀る「妙音堂」も建てられたといわれています。この地へは1769年(明和6年)に移されたといわれ、明治になり西園寺家が東京へと移った後は、1878年(明治11年)、以前の神仏混交の作法を改め、地名の白雲村に因み、白雲神社となりました。旧邸内は、西園寺公望(さいおんじきんもち)が、私塾「立命館」を開設した地でもあります -
「白雲神社」(しらくもじんじゃ)
西園寺家の鎮守社で、1224年に西園寺公経が現在の金閣寺に造営した別荘「北山堂」に建てた音楽の神様をお祀りする「妙音堂」が「西園寺邸」と共に移転し、東京に移った後も、地元有志の尽力で存続され、この地の白雲村に因み命名された -
「本殿」
琵琶の宗家であることから御祭神は琵琶を弾く姿の「妙音弁財天」で、今年のヘビ年で初詣した出町柳にある「妙音弁財天堂」は姉妹関係にあるという -
「絵馬堂」
「妙音弁財天図」や「明治時代の消防団員」などの絵馬を飾る -
「薬師石」
別名「御所のへそ石」と呼ばれ、手で撫でた後に患部をさするとけがや病気の治癒に効験が有ると言われており、前面の凹凸がが人面のように見えるので、古くから神が宿るとされる「磐座」(いわくら)として大切にされているという -
境内社の「福寿稲荷神社」(ふくじゅいなりじんじゃ)
全国どこにでもある稲荷神社は、伏見稲荷か豊川稲荷だけかと思っていたが、「福寿稲荷神社」という福徳円満や長寿のご利益があるとされる神社もあるらしい -
「皇宮警察本部 京都護衛署」
天皇・皇后、上皇・上皇后や皇族の護衛および皇居、赤坂御用地、御用邸などの警備を専門に行う警察組織で、京都では、京都御所、修学院離宮、桂離宮、正倉院にも常駐し、皇宮警察学校で、護衛のスキルだけでなく、乗馬・スキー・テニス・外国語など幅広い素養を学び、外国元首や駐日大使・公使の皇居参内時には、騎馬やサイドカーで護衛にあたり、園遊会を始めとする皇室行事で演奏する音楽隊もある -
「出水口」
京都御苑には6つの「御所門」と、9つの「外周御門」の他に、門のない「切り通し」(小口)と呼ばれる入り口が5つあり、ここは「出水通」の延長上にある「出水口」 -
「出水広場」
京都御苑には市民に開放している公園やグラウンドがあり、野球、テニス、ゲートボールなどの他、この辺りは幼児が遊べる広場になっている -
「出水の小川」(でみずのおがわ)
昔の「琵琶湖疎水」から引いた防火水路の閉鎖に伴い造られた小川で、子供たちの水遊びにもなり、庭園のように御苑に溶け込んで、美しい -
「出水の小川」(駒札)
最近まで御所には防火等のための「御所水道」が引かれていました。明治に開かれた琵琶湖疎水を三条蹴上で分水した専用水路です。981(昭和56)年、そのうち御所周りの流路「御溝水」(みかわみず)から導水して作ったのが「出水の小川」です。長さ約110m深さ約20cm。川底は苑路と同じ琵琶湖安曇川産の石を敷いています。1992(平成4)年の御所水道閉鎖により今は井戸からの地下水を循環濾過して流れを維持しています。 -
「琵琶湖疎水の水路」
明治23年(1890)完成した琵琶湖疎水は、水道や農水用だけでなく、発電所や庭園、御所や東本願寺の防火用水にまで利用されており、当時の明治人の発想に改めて驚愕させられる、完成3年後の明治26年には円山公園、明治28年博覧会、平安神宮、明治30年動物園、都ホテル、無鄰菴、何有荘(かいうそう)、對龍山荘などに水路を作り、東本願寺へは明治30年、京都御所には明治45年に導水管を引いて、大屋根へ一斉に放水するシステムが作られている -
「賀陽宮邸跡」(かやのみやていあと)
幕末に創設された宮家のひとつで、伏見宮19代当主・伏見宮貞敬親王(ふしみのみやさだよししんのう)の第4王子「朝彦親王」(1824-1891)の邸宅跡、孝明天皇の信任が厚く、親幕派として会津藩、鹿児島藩と協力し、尊王攘夷派の長州藩を追放し、明治維新に大きな影響を与えた、一乗院門跡、青蓮院門跡から還俗して中川宮、賀陽宮、久邇宮(くにのみや)と変遷、終戦処理内閣として内閣総理大臣になった「東久邇宮稔彦王」(ひがしくにのみやなるひこおう)は、朝彦親王の第9王子 -
「賀陽宮邸跡」(駒札)
烏丸通りからこのあたり一帯にかけて、伏見宮邦家親王第4王子朝彦親王(あさひこしんのう)の屋敷がありました。朝彦親王は青蓮院門跡・天台座主をつとめましたが、孝明天皇の信任が厚く、還俗(げんぞく)し中川宮と称して天皇を助けました。その後、邸宅の庭にあった榧(かや)の巨木にちなみ賀陽宮(かやのみや)と称しました。その公武合体政策は、尊王攘夷派からは敵視され、明治維新後は広島に移されました。 -
「胎範碑」(いはんひ)
「胎範」とは「模範を残す」という意味で、朝彦親王が国事・維新事業に貢献したことを称え、没後40年の1931年に邸宅跡に立てられた、建設に名を連ねる梨本宮守正王(なしもとのみやもりまさおう)は朝彦親王の第4王子 -
「出水の糸桜」
御苑内でも、最も早咲きで、近衛邸跡の糸桜と違い、周りに桜がないためその美しさが際立ち人気を集める -
「下立売御門」(しもだちうりごもん)
「烏丸通」越しに、菅原道真公の生誕地で、産湯の井戸がある「菅原院天満宮神社」が見える -
「宗像神社」(むなかたじんじゃ)
京都御苑に3つある神社(西園寺邸跡の白雲神社、九条邸跡の厳島神社)の一つで、平安遷都翌年の795年に、北家藤原氏の祖・藤原冬嗣が桓武天皇の命により平安京の守護神として筑前国の宗像神社を勧請して自分の邸宅に創建(清和源氏の祖・清和天皇はこの地で誕生した)、その後その子孫の家忠がこの地に開いた花山院家が宗像神社の別当となり、明治になって花山院が廃された後も現在地に残されている -
「豊栄の庭」(とよさかのにわ)
正面突き当りにあり、神事に巫女さんが舞う「豊栄の舞」(とよさかのまい)に因み、2016年「井上修造園」作庭とある -
「拝殿」があり、左に進むと「本殿」がある
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「拝殿の「ご神木の樹皮」
樹齢600年とも800年とも言われる楠木は、京都御苑内で最長老とされており、このご神木の樹皮が飾られ、「この樹皮にも神様は宿ると考えています」と書かれている -
宗像神社「本殿」
宗像神社から勧請された「宗像三女神」が祀られている、この三柱の女神は、スサノオの剣から生まれた「多紀理毘売命」(タキリビメ)「市寸島比売命」(イチキシマヒメ=妙音弁財天)「多岐都比売命」(タギツヒメ)で、まとめて「道主貴」(みちぬしのむち)ともいい、すべての道をつかさどる神様 -
境内社「少将井神社」「繁盛神社」「琴平神社」
「少将井神社」:祭神は櫛稲田姫神(スサノオの妻)で、豊臣秀吉が祇園祭御旅所を現在の四条京極に統合した際に「少将井御旅所」から遷祀した、祇園祭には八坂神社より神前に供える幣帛(へいはく)を供与される
「繁盛神社」:命婦稲荷神(みょうぶいなりがみ)を祀り、稲荷神の狐の中でも、特に位の高い狐を指し、特定の神社に祀られる
「琴平神社」:丸亀藩主が金比羅宮を京都に祀り、国や藩民の泰平無事を祈願され、旅行の安全、海産物関連の料理店や旅館の守り神とした -
「手水舎」
北側に「紫宸殿の左近の桜」を拝領したとされる桜の木がある -
境内社「花山稲荷神社」(花山院家邸内社)
社伝によれば、衣食住の守護神として「伏見稲荷大社」から勧請され、藤原北家花山院家の邸宅内に祀られ、「全国の狐は花山院家に陪従し、京の都は幾たびも大火に見舞われたのに、花山院家は焼けることがないのは花山稲荷の守護によるもの」とも伝わり、御所を外からの侵入者を防ぐ火伏せ・方除けの神として、「花山稲荷」(かざんいなり)とか「花山さん」とも呼ばれ、火防せの神様として篤い信仰を集めた -
境内社「観光神社」(名前がユニーク)
昭和43年(1968)、恵まれた観光京都に感謝の念を表するために建立された神社で、猿田彦大神を守護神として敬信崇祖の念を発揚することにより 業者並びに市民の家運隆昌に資する目的を持って建立すると書かれている -
南側「正門」
烏丸側から入ったが、出口となったコチラが正門になる -
「椹木口」(さわらぎぐち)
椹木町通の延長上にある「切り通し」(小口)、この通りに「椹」(さわら)の木材を扱うお店が多くあったことに由来 -
「閑院宮邸跡」(かんいんのみやていあと)
(駒札より)江戸時代から続いた「閑院宮家」の屋敷跡です。京都御苑は、御所を中心に200もの宮家や公家の邸宅が建ち並ぶ公家町でしたが、明治初期の大内保存事業で、これら邸宅は取り壊されました。その中で「閑院宮邸跡」は創建以来の場所にあって、当時の建物や庭園の面影を今に伝えています。 -
「閑院宮邸跡」図面(駒札より)
「閑院宮家」は伏見宮、桂宮、有栖川宮家と並ぶ「四親王家」の一つで、東山天皇の皇子直仁親王を始祖として1710年に創立されました。(創建当初の建物は天明の大火(1788年)で焼失し、その後再建され)この場所が「閑院宮家」の邸宅として使用されたのは、同宮家が東京に移る明治10年までで、その後は華族会館や裁判所に使用され、明治16年に宮内省京都支庁となり、建て替えられますが、一部に旧「閑院宮邸」の資材が利用されたと推察されます。明治25年に、旧「閑院宮邸」の西側に宮内省京都支庁の所長官舎が建てられ、明治から大正期の趣を残した庭園が遺されています。平成15~17年度に、閑院宮邸跡に遺された建物や長屋門などの歴史的価値の高い建築物を再整備し、庭園では池が復元され、平成24~25年度には宮内省所長官舎跡地の庭園の復元整備が行われました。これによって、江戸、明治、大正時代の庭園を一体のものとして鑑賞することができるようになりました。 -
「閑院宮邸東棟玄関」
「四親王家」(ししんのうけ)とは、鎌倉から室町時代にかけて邸宅や所領等を繼承した「世襲宮家」が誕生し、戦国時代を経て「伏見宮」のみ生き残り、その後秀吉の時に創設された八条宮「桂宮」、江戸時代の高松宮「有栖川宮」と「閑院宮」と共に「四親王家」と呼ばれ、皇統の備えとして朝廷・幕府から歴代の継承を認可され幕末に至ったが、明治以降殆どの親王家は皇室を離れ、現在皇室に残っているのは、秋篠宮家、常陸宮家、三笠宮家、高円宮家の4宮家で、この中で皇族男子は一人のみであることから、元々皇位継承資格者を確保するという目的で始まった「世襲宮家」がなくなったことで難題が持ち上がっている -
「閑院宮邸南棟」
この邸宅跡の建物は、ほぼ完全な形で現存する唯一の江戸時代の公家住宅で、当時の敷地は約500坪もあり、東は九条家の池のすぐ隣まであったという -
「閑院宮邸跡収納展示館」
第2次世界大戦後の昭和24年、京都御苑が国民公園となってからは、厚生省、のちに環境庁の京都御苑管理事務所に使用され、平成18年(2006)に改修工事を終え、京都御苑の自然と歴史についての写真・絵図・展示品・解説を備えた「収納展示室」と「庭園」などを開放している -
玄関正面は「中庭」
靴を脱いで玄関を上がると、正面は「中庭」と「西棟」 -
玄関に葵祭の「フタバアオイ」
毎年5月15日の「葵祭」では、行列の牛車や勅使、供奉者の装束などに上賀茂神社と下鴨神社の神紋である「フタバアオイ」を飾るので、元々「賀茂祭」と呼ばれていたが、江戸時代から「葵祭」と呼ばれるようになった、葵祭には約1万6000のフタバアオイを使うそうで、昔は神社周囲の山などで採っていたが、最近は採れないので、学校や会社、個人で育てる「葵プロジェクト」を立ち上げているという -
「京都御苑」の四季を通じての行事や、草花の開花情報や、鳥、昆虫など、自然の旬な情報まで盛沢山に展示している
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京都御苑の成り立ちや歴史など紹介しているので、ここで予備知識を持って御苑内を周った方が分かりやすいと思った
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「南棟」縁側からの庭園
縁側から南側に広がる庭を眺められる、後で外に出てゆっくり鑑賞するが、地上からの眺めとまた一味違う -
南棟「蛙股」(かえるまた)
(説明板)には、「この部屋は、唯一天井に虹梁(こうりょう:化粧ばり)を渡し、蛙股(かえるまた)を置き、化粧屋根裏天井となっており、南棟の中でも最も立派な造りになっています」とある -
「中庭」を見ながら回廊を「西棟」へ進む
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官舎跡側に見える「土蔵」が歴史を感じさせる
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「VRシアター」で、江戸末期の公家町や公家の生活の様子を見れる
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一通り展示を見て、いよいよ庭園鑑賞に進む
2005年の整備事業で、南側に「旧閑院宮の庭園」が復元され、2014年には西側に「旧宮内省所長官舎跡の庭園」が再現されている -
「旧閑院宮の庭園」
正面にある大きな池は、2003年から行われた発掘調査で、江戸時代中期ごろに作庭された遺構が発見され、これを保存したうえで、2005年当時の庭を復元したもの -
「中島と州浜のある池泉庭園」
発掘調査の結果、池に「州浜」(すはま)状の石敷などが確認され、御所や桂離宮でも見られる宮家や公家が好む庭園様式を取り入れていることが分かり、江戸時代の「州浜」の遺構は残したまま保存して、その上に同じ形で復元して当時の雰囲気を醸し出すようにしたという -
「池と州浜」(説明板)
庭園の造営時期や当初の池の位置など詳しいことはわかっていませんでしたが、発掘調査の結果、新旧2つの池底や州浜状の礫敷が確認され、18世紀中頃に作庭されたものが、度重なる改修を経て現在の形になったと考えられます。現在の池は、平成15~17年に行われた閑院宮邸跡の全面的な整備で復元されたもので、発掘された作庭当時の遺構は保存のために埋め戻され、その上に緩やかな玉石の州浜を設けて当時の池の意匠を再現しました。州浜は、海辺の景色を表現する手法で、京都御所、仙洞御所、桂離宮などの宮廷庭園で見られるものです。州浜が閑院宮邸跡でも見られることは注目されます。 -
再現された「州浜」(すはま)
江戸時代中期の作庭以来、池の水位上昇により何度も改修された跡があり、さらに、大正天皇即位に伴う整備により、園池の一部が分断され形も変わっていたので、作庭当初の遺構は土を被せて保存し、その上に作庭当初の玉石の「州浜」を復元している -
「南棟苑路」
池の奥には、新たに散策路が出来ており、明治25年(1892)に建造された「宮内庁京都所長官舎」跡と2014年に再現された「池泉回遊式庭園」(公家風庭園)へと進む -
古い「井戸」跡の先に見えるのは「土蔵」
「閑院宮邸」の南側に広がる芝庭の間を「土蔵」の方に進むと、「宮内省京都事務所長官舎の庭園」として、大正時代に作られたと伝えられる大きな樹木に囲まれた「池泉庭園」がある -
「遣水」(やりみず)
少し進むと、苑路を横切って流れる小川があり、寝殿造りの庭園に見られる「遣水」(やりみず)の手法が使われ、庭園に水を導いて自然の小川を作り、水の音や涼を楽しむという、まさに平安貴族の庭園になっている、しかもこの水が、「出水の小川」と同様「琵琶湖疏水」から延長した「御所水道」の水を使っている、というから恐れ入る -
「遣水と園池」(説明板)
遣水は、庭園内に水を導き流れるようにする伝統的手法で、起点には矢跡の残る白川石が立てられ、流れは緩やかに屈曲して小さな滝となって池に注ぎます。庭園内には京都の伝統的な庭石であるチャート、砂岩、頁岩(けつがん)とともに鞍馬石、貴船石、緑色片岩などの名石が配されています。また州浜意匠や船遊びを象徴する切石護岸など、本庭園は江戸時代の公家が好んだ庭園意匠を踏襲し、小規模ながら貴品ある趣を醸し出しています。 *「チャート」は生き物の殻がたまってできた堆積岩で、頁岩(けつがん)も堆積岩で泥や砂などが固まってできた岩石 -
「矢跡の残る白川石」から奇麗な水が緩やかに流れる
「御所水道」は平成4年(1992)に閉鎖されているから、現在は井戸からの地下水を利用していると推察 -
途中「沢飛石」(さわとびいし)を経由して、池に向かう
庭園の通路にある「飛石」や池に架かる「石橋」と並び、「遣水」に架かる「沢飛石」の庭園石は美しい -
池には「切石護岸」と「州浜」
「池」入り口の右側には「切石護岸」があり、灯篭の左側は「州浜意匠」になっている *「切石護岸」は、川岸や堤防を保護するために切石を積み上げた護岸 -
「灯篭」好きにはたまらん!
雪見灯篭、葛屋型(くずやがた)、層塔型などの灯篭があり、特に私好みは「葛屋型灯篭」で、宝珠や竿がなく、四角形の火袋の上に草屋のような屋根形の笠をした家の形が小じんまりとして可愛く、御所や桂離宮などにもあるように、どこか気品がある -
「石」好きにもたまらん!
庭園内には京都の伝統的な庭石が、ふんだんに使われ、自然の形と色の組み合わせが面白い -
「私室棟主室からの眺め」(説明板)
ここは来客棟より庭の方へ張り出して建てられている私室棟の先端の座敷で、来客棟の客座敷よりは簡素ですが、十畳の広さの一隅に押入れを設け、南から東へ庭を見晴らせるように縁から庭へ開放的に構成されています。部屋からは矢跡の残る白川石を起点に遣水(やりみず)が池に注ぐ庭園の全景を眺めることができます。庭園内には形の異なる5つの灯篭が配され、流れと池の周囲には鞍馬石や緑色片岩などの名石が据えられています。また沓脱石(くつぬぎいし)から庭の近くに降りることができます。 -
「縁先手水鉢」(えんさきちょうずばち)
手前邸宅南側の「縁側」から庭園を眺められるようになっており、縁側から降りたところに、「沓脱石」(くつぬぎいし)と、立ったまま手を洗うことができる円筒形の「縁先手水鉢」が据えられている -
「縁側」の表示板
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「宮内省所長官舎跡」(説明板)
この敷地はかつて閑院宮家の邸宅の一部でしたが、明治期に宮内省の所管となり、明治25年に宮内省京都支庁の所長官舎が建てられました。正面中央に玄関棟を構え、東に来客棟、中庭を囲んで西に私室棟をコの字形に配置した左右対称的な平屋で、当時の官舎の特色を示しています。南へ張り出した居間から客座敷の二方へ縁がめぐり、四季の庭の風情を楽しませる造りでした。庭園の整備にあたり、かつての建物や室内からの庭園の眺めを再現するため、古写真、考古学的調査からおよその位置を特定し、縁側、居室、廊下、中庭、玄関など官舎の特徴的な部分の間取りを表示しています。 -
「宮内省所長官舎」間取り
建物は東側の「来客棟」と西側の「私室棟」に分かれ、玄関を入ると「来客棟」の次間、床、床脇、8畳の客座敷、「私室棟」は10畳の主室、6畳、4畳半、板間、台所などがあった *宮内省所長の貴族並み待遇に驚愕! -
間取りの表示線と表示版
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「環境省京都御苑管理事務所」
京都御苑の管理は環境省、京都御所、京都仙洞御所、桂離宮、修学院離宮は宮内庁の管理 -
長屋門(北門) 椹木口側
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「間ノ町口」(あいのまちぐち)
正面は「大原重徳邸跡」(おおはらしげとみていあと)で、5、6本の「百日紅」(サルスベリ)の小森になっていて、夏になると美しい、「大原重徳」(1801-1879)は、明治維新期の尊攘派公卿で、孝明天皇に重用され、日米修好通商条約に強く反対し、維新後も刑法官知事や集議院長官を歴任した -
(2024.9.12撮影)「間ノ町口」(あいのまちぐち)の百日紅
「間ノ町通」は「高倉通」と「東洞院通」の間に挟まれた通り -
(5.14)15:00 喫茶休憩「前田珈琲」
丸太町烏丸交差点のホテル「ノク京都」1階 -
ホテル「ノク京都」は、シンガポールの不動産企業で、シンガポールやタイ、豪州でホテルを所有、2015年日本で初めてのホテルを京都で開始
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なかなかの高級感
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真向かいに「京都御苑」を見ながら一服
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(6.19)10:30「丸太町通」から「東洞院通」に進む
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「東洞院通」(ひがしのとういんどうり)
平安京当時は道幅25mの広い通りだったが、秀吉の時代から狭い通りになってしまい、江戸時代には竹田街道へ連なる幹線道路となり、物資を運ぶ牛車など交通渋滞が起こるほどだったので、京都町奉行所はこの通りを「北行き一方通行」とし、日本で最も早い「一方通行規制」が始まったというイワクつきの通り -
(竹屋町通)「竹間公園」
「竹屋町通」は、平安神宮西端から千本通まで、堀川近辺に竹細工を扱う竹屋が多かったことに因む -
「吉益東洞宅蹟」(よしますとうどうたくあと)
医者として実験医学の道を切り開いた「吉益東洞」(1702-1773)宅の跡地で、東洞は東洞院通沿いに住んでいたことに因む -
京都市子育て支援総合センター 「こどもみらい館」
乳幼児期の子育てに関する相談や、研修、講座開催、こども元気ランド、子育て図書館、研修室などがある京都市の施設 -
(夷川通)
鴨川西岸から堀川通までで、かつて「夷川」が流れていたことに因む、寺町通から烏丸通の間は、家具屋や建具屋が集まる「家具の街」として知られる -
(二条通)
平安京の二条大路は、大内裏の南限にあり一般から隔絶するため朱雀大路に次ぐ広い通りだったが、秀吉の時から道は狭められ、家康が二条城を造ると堀川通で寸断され、現在は鴨川の東まで延伸されて、白川通から二条城正面まで -
泉龍寺「お寺掲示板」
町歩きでは、「ホーロー仁丹町名表示板」と「お寺の掲示板」を見るのが楽しい 「賜わる」今は私の働き 鈍ってきたが 朝日夕日がさす いちいちにちを 如来より賜わる *そういえば、「賜わる」は、「もらう」の謙譲語と、「与える」の尊敬語の両方を表す -
「足立病院」
100年以上の歴史を持つ産婦人科病院で、京都市の5人に1人が足立病院で生まれたという、人気の産婦人科ということを、テレビで見たことがある -
(押小路通)
木屋町通から堀川通までで、御所に近いことから公家の邸宅、宮殿の造営・修理や、朝廷の食料庫を司どる役所などがあった -
この辺りのマンションは気品も値段も高そう
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「遺蹟発掘調査」をやっていた
(仮称)船屋町計画埋蔵文化財発掘調査(平安京跡)、令和7年5月19日~11月30日「安西工業株式会社」(昭和63年創業以来、埋蔵文化財発掘調査) -
(掲示板)には、当地は平安京の三条四坊二町跡にあたり、中宮藤原定子の里第である「竹三条宮」が存在したとされる・11世紀半ばまでは1町規模の邸宅であったが、藤原頼道が北側の四坊一町に「二条殿」を建造した際に当町を合わせて二町の邸宅にしたとされる。また1198年に後鳥羽上皇が北隣の町に新造した御所は、当町の北半分を合わせた一町半の規模であったとされる。このように当地は鎌倉時代まで邸宅建造が営まれた土地であった。
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「嶋臺」(しまだい)
慶長13年(1608)、幕府が特定した輸入生糸商糸割符商(いとわっぷ)として創業し、江戸中期からは酒店で清酒「嶋臺」の販売を始め繁盛、幕末の兵火で焼失後、明治16年(1883)に再建され、東洞院通から車屋町通までに及ぶ大規模な敷地に、本宅、絲店(生糸・白生地等)、酒店、土蔵7棟、大台所棟などの建物があったが、昭和30年(1955) に西半分が取り壊され、絲店、酒店、土蔵2棟、書院(古硯堂)の現在の姿になり、京都の大店の構えを現在に伝える明治前期の町家として、御池通沿いに歴史的な景観を残しており、現在「しまだいギャラリー」として利用されているが、一般公開はないので何かのイベントの時しか見れない -
(御池通)
「神泉苑」に通じることに由来し、鴨川東岸から堀川通まで -
(姉小路通)
藤原氏の支流になる「姉小路家」があったことに由来し、木屋町通から佐井通まで -
「高倉宮跡」
後白河天皇の皇子・以仁王(もちひとおう1151~80)の邸跡で、邸宅が三条高倉にあったことから「三条宮」とも呼ばれた、1180年、源頼政の申し入れを受けて、源頼朝をはじめとする全国の源氏に平家討伐の令旨を発したが、南山城の平氏家人に討たれた -
「こども相談センターパトナ」
いじめや不登校など子どもたちの課題解決を図るため、平成15年(2003)に設立した京都市の施設 -
「翔びたとう初音記念碑」
京都市立初音中学校が平成5年(1993)に閉校した際に、建てられた記念碑 -
「新風館」(しんぷうかん)
大正15年(1926)に建てられた、レンガ造りの「京都中央電話局」の建物を、2001年改築し商業施設として営業し、さらに2020年リニューアルされ、ホテル、店舗、映画館などが入る複合施設として開業した、運営はNTT都市開発で、大正時代の建物は、「東京中央郵便局」や「大阪中央郵便局」も設計した近代モダニズムの先駆者と呼ばれる吉田鉄郎 -
「京都電信電話発祥の地」
三条通側にある碑は、平成9年(1997)に京都電話百年記念として新設された「ToKiよ翔べ」の碑で、当時の世相を伝える品物が入れられたタイムカプセルを埋めていて、「埋設1997年7月14日-開封2017年」とあるから既に開封済み -
「中京郵便局」
明治35年(1902)に建設されたネオルネサンス様式、赤レンガ造りの「旧京都郵便局」で、昭和53年(1978)に一旦は建物の取壊しが決まっていたが、反対運動があり、外壁を残したままで内部のみを新築するファサード保存の方法で改築され、日本で最初の実施例となり、平成24年(2012)からは中京郵便局として運営、 -
郵便局の壁に「平安京東洞院大路・曇華院跡」(説明板)がある
この地は、平安時代には「以仁王」の「高倉宮」、室町時代から明治初年にかけての約500年間は、禅宗の尼寺「通玄寺」(つうげんじ)が統合された「曇華院」(どんげいん)があった。昭和50年、中京郵便局の新築に際して発掘調査が行われ、「曇華院」のものと推定される柱穴や、多数の瓦・土器などとともに、平安京の東洞院大路の側溝と認められる溝が発見された。溝は互いに接して3本が確認されているが、そのうち最も残りの良いものは、ほぼ真北方向に向き、発掘地全体に約50mの長さで延びていて、これほどの長さで発見された例は稀で極めて貴重で、現在の京都の街並みが平安京の条坊のおもかげを良くとどめていることが理解される。 *「通玄寺」は、南北朝時代の1380年に足利義満の祖母「智泉尼」により開創され、5年後に「通玄寺」内に庵室「曇華庵」を建てて隠居し、「応仁・文明の乱」で焼失してから「曇華院」に統一され、江戸時代1864年の「蛤御門の変」で焼失した以降は再興はされず、明治4年(1871)に嵯峨に移されている -
(六角通)
烏丸通側にある「六角堂」に由来し、新京極通から佐井西通まで -
「日彰自治会館」
日彰学区は、明治2年下京第四番組小学校として東洞院三条に開校した日彰小学校の地域で、校名は書経の「徳が日に彰かになる」に因む、近くの「聖徳太子ゆかりの地」である「六角堂」の境内には「日彰稲荷社」があり、毎年学区民と子どもたちの安寧・繁栄を祈願している -
「ウイングス京都」
1994年に「女性の自立と社会参加を支援する」ことを目的に京都市によって開設され、鳥の左右の翼のように女性と男性が協力しあって住みよい平等な社会を目指そうと「ウィングス(翼)京都」と名付けられ、現在は「京都市男女共同参画センター」と名称が改められた -
「ウイングス京都」建物
明治末期に建てられた京都商工銀行の外壁を再利用し、明治と現代を融合したもので、外壁にイオニア式石柱が立ち並び、軒には緑色の三角破風をあしらい、どっしりした重量感と華やかな雰囲気を出している -
「御射山公園」(みさやま)
「御射山」という珍しい名前は、信州の諏訪大社の末社である「御射山神社」に由来し、この辺りに、かつて信州から移り住んだ諏訪氏が居住していて、「諏訪社」が祀られていたことに因む -
「御射山公園ラジオ塔」
「ラジオ塔」とは、全く分からなかったが、後で調べて納得! ラジオ放送が日本でスタートしたのは大正14年(1925)で、当初は高価で一般家庭に普及していなかったので、昭和5年(1930)にNHK大阪放送局が、人々が集まってラジオ放送を聴く場所として天王寺公園に初めて設置し、特に昭和3年(1928)に始まった「ラジオ体操」が人気となって、全国に広がったが、ラジオの普及に伴い徐々に減少し、多くは撤去されたが一部は文化財として保存され、全国に460基あって39ヵ所残る中で、京都には最も多い 8基が残されているという、この公園のラジオ塔は、昭和初期に「日彰小学校」に設置され、学校の改築に伴いこの公園に移設、2010年頃公園が整備された時に、「復元型ラジオ塔」が造られ、以前はライオンの口から水が出て魚も泳いでいたが、現在はオブジェとして公園に溶け込んでいる *京都の他の場所は、円山公園、船岡山公園、小松原公園、紫野柳公園、橘公園、萩児童公園、ケーブル八瀬駅にあるが、説明がないと分からないと思う -
「画家呉春宅址」(ごしゅんたくあと)
「呉春」(1752-1811)は、京都金座役人の家に生まれ、与謝蕪村や円山応挙に学び、四条派として京都画壇を牽引し、竹内栖鳳、上村松園、堂本印象、上村松篁らに繋がっている -
(錦小路通)
京極通の錦天満宮正面から壬生川通までで、特に高倉通までの400mの区間は約130の店舗が並ぶ「錦市場」で賑わう、平安時代には武具や装飾品を扱う店が並んでいたため「具足小路」という名前だったが、「糞小路」とも呼ばれていたので、天皇が隣の小路の「綾小路」に倣い「錦小路」に改名させたという話は有名 -
12:30 ランチ「米福」
天ぷらや寿司、丼など何でもあり、いつも前を通るだけで、いつか入りたいと思っていたが、やっとランチで実現 -
海鮮丼や、天ぷら寿司定食、すき焼き定食、出雲そばと鰻ひつまぶし定食など、メニュー豊富で、食欲をそそる
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迷った末に、インパクトのある「大海老天丼」に半熟たまごをトッピング、相方は「天ぷら・刺身定食」を注文
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「大丸」デパート
「高島屋」と並び、京都発祥の二大百貨店で、両方とも現在本社は大阪にあるが、「大丸」は享保2年(1717)京都伏見の呉服商「大文字屋」、「高島屋」は天保2年(1831)京都松原の木綿商「たかしまや」が原点で、「大丸」は1912年東洞院船屋町から四条高倉に、「高島屋」は1948年に烏丸高辻から四条河原町に移転した -
「薩摩屋敷之跡」(説明板)
江戸時代の諸国大名は、江戸とともに京都の市中にも藩の出先機関として藩邸を構えていた。薩摩藩邸もそうした松平(島津)薩摩守の京屋敷であった。この場所に大名の屋敷が設けられたのは16世紀末か17世記初頭からと考えられる。江戸時代に多数出版され「京絵図」の類からその変遷をみると、まず最初は山城守松平忠国の屋敷であったが、17世紀末の一時期は松平下総守の屋敷になり、その後18世紀初頭からは約160年間にわたり代々の薩摩(島津氏)の京屋敷となっている。薩摩藩邸の入口は当初錦小路通にあったが、後には東洞院通にも拡張されている。薩摩藩邸は18世紀の「宝永の大火」「天明の大火」で類焼したが、その都度再興されてきた。しかし、幕末に京都市街の大半を焼いた「蛤御門の変」(1864年)による兵火で焼亡した後は、明治3年(1870)に他の諸藩の京屋敷と同様に廃邸となった。 *今出川の「同志社大学西門前」にも「薩摩藩邸跡」があり、はじめに置かれたのは錦東洞院であるが、そこが手狭なため、文久2年(1862)に移転したとある -
「大丸」玄関の「四条東洞院内裏跡」(説明板)
意識しないとほぼ通り過ぎてしまうが、この地が「四条東洞院内裏跡」であったという(説明板)があり、この地は、平安時代には近衛天皇の里内裏にもなった「四条東洞院第」の跡で、室町時代には将軍足利義満が祇園会に世阿弥とともに祭りを見物し、江戸時代には松平山城守の屋敷が構えられ、後に松平(島津)薩摩守の京邸となり、明治初年まで薩摩藩邸が営まれ、明治以降は米穀や株式を扱う取引所が開設され、明治43年(1910)に大丸百貨店前身の大丸呉服店がこの地に移ってきた、とある -
「四条東洞院内裏跡」(説明板)
四条東洞院内裏跡は近衛天皇(1141~1155年の)内裏跡であって、南は四條大路、北は錦小路、東は高倉小路、西は東洞院大路によって画された方一町(121米四方)の敷地を占めていたが、現在その大部分は株式會社大丸京都店の敷地となっている。平安時代後期の初め、ここは鳥羽天皇の臨時の御所であったが久安四年(1148年)六月近衛天皇はここに遷り里内裏とされた。「二代の后(きさい)」の名で知られる皇后藤原多(まさる)子も天皇と共にここにおられた、しかし仁平元年(1151年)六月この御所は炎上し、天皇は小六條殿に遷幸された。その後この地は参議藤原惟方の所有に歸した、間もなく惟方は皇太子守仁親王(後の二條天皇)の御所にこの邸宅を提供した。久壽二年(1155年)十二月 皇太子はここに遷御され、翌年三月妹(よし)子内親王との婚儀もここで行われた。東宮は 保元二年(1157年)六月まで この四條東洞院第を御所とされていた。この地が里内裏、ついで東宮御所となっていたのは「保元の乱」(1156年)前後の政情不安の時期であったが、さまざまな政治的な葛藤がここを舞台として起こったと言う意味で、四條東洞院内裏の存在は 日本歴史の上で忘れ難いのである。昭和51年11月 平安博物館 -
「悪王子社」(あくおうじしゃ)
「悪王子社」は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の荒魂を祀り、現在「八坂神社」に祀られるが、元々は平安時代974年に八坂神社の摂社としてこの地に建立され、安土桃山時代1590年に烏丸通五条に移転した後、1596年に秀吉の命により四条通の祇園御旅所に移され、さらに明治10年(1877)に八坂神社境内に移転した、このお社は平成10年(1998)に八坂神社の「悪王子社」の分霊を祀り建立されたもので、この辺りの地名は「元悪王子町」と呼ばれ、移転先の烏丸通五条辺りが「悪王子町」となる *「悪」は強いという意 -
(綾小路通)あやのこうじどおり
寺町通から佐井西通までで、宇多源氏の流れをくむ「綾小路家」があったことに因む -
「森田和紙」
昭和2年(1927)和紙問屋として創業、現在全国の様々な和紙や、和紙で出来た小物製品、葉書、便箋等を販売している -
「廣田紬」(ひろたつむぎ)「幻想庵」(げんそうあん)
昭和21年(1946)本場結城紬(茨木)を専門に扱う問屋として創業し、現在も本場大島紬をはじめ、日本各地の伝統工芸織物を扱う専門商社であるが、建物は明治期に建てられたもので、最も古い座敷と茶室は築130年以上の歴史をもつ典型的な京町家建築で、昭和に増築された社屋と一体化して、2017年からギャラリー、お茶会などのイベントスペースの「玄想庵」としてオープンした、イベントでないと中には入れないが、京町家の美しい庭園があるらしいから、ぜひ機会があれば訪問したい -
(仏光寺通)
鴨川右岸堤防から佐井西通まで、「仏光寺」の北側を通ることに因む -
「久保田美簾堂」(くぼたびれんどう)
明治16年(1883)創業の老舗すだれ専門店で、140年間同じ場所で営業を続け、一般家庭用から神社仏閣用の御翠簾まで幅広くオーダーメイドのすだれを製作する -
「八清」(はちせ)
個人的に注目している会社で、昭和31年(1956)設立の不動産会社だが、平成12年(2000)頃から、京町家の再生販売事業に力を入れ、町歩きをしていると何度かこの会社の名前を聞く、SDGsや町並み景観なども考えた企業運営をしているので、こういう会社にはもっともっと頑張って欲しい -
「藤井松華堂」(本家御表具刷毛師)
江戸後期の創業以来200年以上、現在の場所で表具用の「打刷毛」(うちばけ)を製造している老舗で、現在4代目の藤井源次郎氏は昭和26年生の74歳、「打刷毛」とは、国宝・重要文化財の書画修復に国内だけでなく、大英博物館やボストン美術館でも使用され、また大正天皇の結婚の際に献納された化粧筆も扱い「化粧筆 元祖 ふじや」として店舗販売している -
「ホテル日航プリンセス京都」
1994年「ホテルプリンセス京都」として開業し、2004年「ホテル日航プリンセス京都」に名称変更し、2010年日本航空の会社更生手続きの一環で、ホテルオークラに売却されたが、ブランドは継続している -
(高辻通)
鴨川西岸から梅津街道までで、「仏光寺」の南側を通る、醒ヶ井通との交差点付近が洛中で一番高い所であったことからの命名 -
「保昌山保存会会所」(ほうしょうやま)
祇園祭の山鉾の中では最東端の「東洞院通」で、最南端の「高辻通」と「松原通」間にあり、神体は和泉式部の夫「平井保昌」が紫宸殿の紅梅を折ってささげる姿を表す -
「上羽絵惣」(うえばえそう)
宝暦元年(1751)創業の日本最古の絵具屋、日本画用絵具の専門店で、日本画の顔料「胡粉」(ごふん)を活用した「胡粉ネイル」が爪に優しい水性ネイルとして人気、「白狐」がトレードマークで現在11代目 -
「プロタッグ・パートナーズ」
京都らしい町屋の税理士法人 -
(松原通)
平安京の「五条大路」にあたり、清水寺への表参道だったが、秀吉により伏見城下と直結する五条通にとって代られ、松並木がきれいなことから「松原通」となった、清水寺から新撰組ゆかりの壬生を通り佐井西通まで -
(五条通)
秀吉により「五条橋」が移され五条通ができたが、今では国道1号、国道9号に通じる幹線道路になっている -
「赤松小三郎先生記念碑」(あかまつこさぶろう)
赤松小三郎(1831-1867)は信州上田藩士で、蘭学や西洋砲術を学び、勝海舟(1823-1899)とともに長崎の海軍伝習所に赴任した後、京都で私塾宇宙堂を開いたが、公武合体論を唱えたため、この地で薩摩藩士に暗殺された -
(六条通)
平安京の「六条大路」にあたり、河原町通から堀川通までで、東西両本願寺とその寺内町を結ぶ -
「たき川旅館」
昭和5年(1930)創業の老舗旅館で、映画村の役者さんや修学旅行の学生などに多く利用されてきたらしい -
「正行寺関西道場」
浄土真宗の教えを学ぶ念仏道場 -
(上珠数屋町通)
「東本願寺」門前町を、鴨川西の土手町通から「渉成園」の北側を通り烏丸通まで、角にある仏具店「大塚」の先は東本願寺 -
「京扇堂」(きょうせんどう)
天保3年(1832)創業の京扇子の老舗で、寺社仏閣向けの儀式用扇子から、飾り扇、舞扇、夏扇など、あらゆる扇子を取り扱う -
京とうふ「並河商店」
大正14年(1925)創業の京都伝統のお豆腐屋さん、京都には豆腐屋が多く、最も古い店は文政12年(1829)の「入山とうふ店」 -
(正面通)
大和大路通「方広寺」から、写真正面の「渉成園」(枳殻邸)、東本願寺、西本願寺などで中断して千本通まで -
(下珠数屋町通)
「渉成園」を挟んで、北側に「上珠数」、南側に「下珠数」、真ん中が「正面」になる、文字通り仏具に由来し、漢字は「珠数」と書き「数珠」ではないが、一般的には「数珠」が正解か? -
「旅館だいや」(大弥)
この辺りは仏具店が多いが、全国から集まる門徒さんや修学旅行の旅館も多い、この「旅館だいや」は、昭和30年(1955)創業で、先代のおばあちゃんが90過ぎまでやってきた併設の「昔ながらのうどん店」が評判で、わざわざ行ったことがあるが、残念ながら2015年に閉店、今回様子を見るためにHPを見ると、何と「2025年6月30日に閉店」のお知らせがあった、時の流れは速い! -
(七条通)
平安京の「七条大路」にあたり、東山七条から桂大橋まで -
「APA HOTEL」シアトルズベストコーヒー
「アパホテル」は全国に919軒、京都市内だけで7軒もある。大きくなったもんだ、「シアトルズコーヒー」は、全国に43軒、京都市には2軒しかない *京都市内のコーヒーチェーン店舗数(2023年8月時点)の情報があったので掲載すると、スターバックス 33、前田(地元)20、ホリーズ(地元)15、タリーズ 13、コメダ 12、ドトール 11、小川(地元)7、イノダ(地元)5、星乃 5、サンマルク 4、上島 4 -
「シアトルズベストコーヒー」はスタバ、タリーズと同じシアトル発祥だが、店舗数は最近減少気味
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京都駅に到着
せっかくだから「羅城門」と京都タワーの記念写真、京都市はもう少し観光税をしっかり集めて、「朱雀門」と「羅城門」と「西寺」の復元モデルを造って欲しい -
6月になると、ますます増えるインバウンドと修学旅行が重なってごった返す中を帰路についた
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月一平安京散歩(2)
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