2026/06/30 - 2026/06/30
1147位(同エリア3630件中)
Bachさん
今月の月一京町散歩は、祇園祭で賑わう「烏丸通」で、その(前半)として、「夏越の祓」で暑気払いをすることにします。
「烏丸通」は、平安京の朱雀大路であった千本通に代わって、今や京都のメインストリートとなって、四条烏丸周辺には多くの銀行や企業が集まり、7月はいよいよ祇園祭りの山鉾がこの辺りに集中し、一挙に賑やかになってきます。
そこで今回は南北に長い「烏丸通」を2回に分けて、前半は毎年祇園祭の始まる前の京都では、6月30日に「夏越の祓」で茅の輪をくぐり、「水無月」を食べると、今年前半の汚れを祓い清め、夏バテしないという風習があるので、通り沿いにある「護王神社」の神事に参加し、近くにある「とらや」創業の地で「水無月」を食べることにします。
さらに加えて、当日のランチは、「日本一の鰻」をブランドに持つ「京極かねよ」の名物「きんし丼」を食べて、これまで実現しなかったことを全部いっぺんにやってしまったので、これで今年の酷暑は乗り切れること間違いありません。
勿論、散歩の道中では、足利時代の遺跡や幕末の痕跡に、平安京を造った和気清麻呂が猪に助けられたという話や、菅原道真の産湯が京都に3ヶ所もあるという謎があったりして、歴史の発見には限りがありません。
今回は暑気払いを終えて、次回はいよいよ祇園祭真っただ中の烏丸通を、頑張って歩きます。
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「烏丸通」は、平安京の「烏丸小路」にあたり、今宮通から京都駅まで7.0km、久世橋通までは9.0kmで、小路名は「からすまる」と読み、かつてこの通りに沿って流れていた川の、河原の洲の間(かわらのすのま)が縮まって「からすま」になったとも言われ、一条、二条、三条大路にかけては藤原氏一族の豪邸が並ぶ藤原ストリートで、たびたび臨時の内裏・里内裏になり、中世に入ると京都御所として定着したが、応仁の乱で壊滅状態になり、秀吉の洛中改造で、烏丸通の今出川~丸太町間には公家屋敷や町家が並び、家康になってからも、東本願寺と寺内町の寺地を烏丸六条の地に与え、五条までであった烏丸通を七条迄延ばし、さらに18世紀宝永の大火で、御所と公家町を拡大し、そこにあった多数の町家と寺院を疎開させ、その街路に沿って丸太町以南には、多くの商店街が形成された。そして明治10年の京都駅建設で、七条通以南にも道路が開通し、更に北への延伸と道路拡張が行われると、近代都市の基幹道路となり、明治45年には市電が丸太町、京都駅間を走り、大正天皇、昭和天皇の即位大礼ではここを行進し、昭和56年(1981)北大路駅~京都駅間に地下鉄が開通し、平成9年(1997)には現在の全線(国際会館~竹田)が開通し、京都市内の幹線ストリートとして発展し続けている
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11:30京極かねよ~(バス)北大路~13:00(今宮通)賀茂川教会~(北大路通)大谷大学~(紫明通)~(鞍馬口通)~(上御領前通)上御領神社~慈照院~烏丸中学校~(寺之内通)~烏丸キャンパス志高館~室町小学校~相国寺~室町殿石敷遺構~同志社寒梅館~大聖寺~薩摩藩邸跡~(烏丸今出川)~乾御門~(一条通)とらや~金剛能楽堂~アルティ~平安ホテル~(上長者町通)~KBS京都~ガーデンパレス~蛤御門~15:00護王神社~とらや茶菓寮~ワタベウエディング~ウイリアムス神学館~有栖川宮旧邸~聖アグネス教会・平安女学院~菅原院天満宮~大丸ヴィラ(丸太町通)16:30(3.0km)
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11:30 「京極かねよ」
新京極商店街の六角通りに入るとすぐ目につく、芝居小屋のような大正レトロの建物 -
ブランドは「日本一の鰻」
「京極かねよ」は、明治5年創業の滋賀「逢坂山かねよ」が元祖で、明治45年(1912)に暖簾分けした創業100年以上の店 *「逢坂山かねよ」は、江戸時代に交通の要衝で茶屋などが並んだ逢坂山に、詩人の野口雨情が訪れ感動し「鰻料理は 逢坂山の ひびくかねよか 日本一」と詠んだことに由来するという -
大正レトロな建物の「京極かねよ」
大正初期に移転した築100年を超える建物は、2階は座敷席、1階はテーブル席で、涼し気な池を見ながら食事出来る -
美味しさの決め手は京都の「井戸水」
池の水は、創業からずっと使っている地下から汲み上げた井戸水で、これを生けすに使うと、うなぎの身を引き締め臭みが取れて美味しくなるという、これに百年継ぎ足しで守り続けられているタレがあって、伝統を守る続ける「うなぎ」がまずいわけない -
名物は「きんし丼」
うなぎは、背開きにして一度蒸してから焼く江戸焼で、これと京風だし巻きをコラボした「きんし丼」が名物 *関西焼は腹開きで蒸さずにそのまま焼く -
「きんし丼」と「うな丼」を注文
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名物の「きんし丼」
京風だし巻きが椀からはみ出しており、開けて見る楽しみが、食欲をそそる -
逢坂山かねよの「きんし丼」
「きんし丼」は、「逢坂山かねよ」が発祥で、登録商標されており、元々「錦糸卵」を乗せていたが店が忙しく卵を細かく切る時間がなかったので、そのまま乗せて出したことから生まれたという -
京極かねよの「きんし丼」
「京極かねよ」は、「逢坂山かねよ」の、だし巻き卵を横並びに乗せているのを進化させて、大きな薄焼き卵を丼からはみ出すように乗せている、京都でも何軒か似たようなものを出している店があるが、このスタイルは見たことない -
新京極からバスで北大路へ移動
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12:30北大路駅バスターミナルに到着
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北大路駅北口から(今宮通)に出るとすぐに「加茂街道」
「加茂」と「賀茂」と「鴨」は、日本最古の氏族「鴨氏」の一部が京都へ移り住んだ「賀茂氏」由来で、通称として、上流は「上賀茂神社」「賀茂川」、下流は「下鴨神社」「鴨川」とされ、「加茂街道」は大正時代に命名する時に全国的な地名として使われていた「加茂」になったらしい -
「烏丸通」は、「今宮通」から南下する
「賀茂川教会」とお洒落なつまみ寿司(てまり寿司)「花梓侘」(かしわい)がスタート地点、「賀茂川教会」の建物は1954年ヴォーリズにより、ノアの箱舟をイメージして建築されたもの -
「京都からすま病院」
京都警察病院を前身とする、病床数 99床の地場密着の総合病院 -
「烏丸北大路」
(北大路通)は、白川通から西大路通につながる -
「大谷大学」
1665年東本願寺に開創された学寮に始まり、明治になってから1875年小教校開校(中高の前身)、1896年真宗大学、1901年東京巣鴨に移転、1913年京都現在地に移転、1997年中学、2000年高校男女共学体制となる -
「真宗大谷学園」系列
大谷大学、大谷短期大学(福岡)、大谷中高幼稚園(東山区)、大学の学生数は 3,100人で、京都市内では小規模 -
「真宗大谷派東本願寺」系列(真宗大谷派学校連合会)
親鸞聖人の教えに基づく真宗大谷派(東本願寺)関係の学校は、大学から小学校まで大阪大谷大学(富田林市)、京都光華女子大学、同朋大学(名古屋市)、名古屋造形大学、東大谷高等学校(和泉市)など38校もあるという -
「烏丸紫明」(からすましめい)
(紫明通)は加茂街道から堀川通へと至る東西の通りで、江戸時代の儒学者・頼山陽が京都の美しい自然を「山紫水明」と表現したことからの命名 -
「紫明せせらぎ第三公園」
(紫明通)の中央分離帯は、水路や遊歩道がある公園で、紫明通沿いに賀茂川から堀川通まで第1から第7まで7つの公園があり、遊具は置かず、のんびり散策したり休憩したり市民の憩いの場になっている -
「堀川水辺環境整備事業」(平成9年~平成20年)
京都市が(紫明通から堀川通)の4.4kmを「憩いとやすらぎの水辺空間の創出」を目的に18億円をかけて整備した事業で、「琵琶湖疎水」の水を、蹴上から「賀茂川サイフォン」で紫明通から堀川通まで通し、二条城付近からトンネルになって上鳥羽口付近で鴨川に注ぐ水路を造り、やすらぎの公園だけでなく、災害時の消火用水や生活用水としても活用する -
「烏丸鞍馬口」
(鞍馬口通)は、下鴨神社西門から出雲路橋を超えて金閣寺門前までで、豊臣秀吉の御土居建設のとき、出雲路橋西詰付近に御土居の出入口(京の七口)の鞍馬口が設けられ、江戸時代にはこの通りが洛中と洛外の境界だった -
気になる「男のお洒落洋品店」
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「北原精華堂」
明治41年(1908)創業の四代続く尺八制作工房で、尺八の制作・修理と音楽教室も開講している -
「にんじんと豆の木」
地元のオーガニック野菜を売りにしたお惣菜お弁当屋さん -
「上御領前通り」(かみごりょうまえどおり)
加茂街道から御霊神社(上御霊神社)の門前を通り智恵光院通までで、 新町通から大宮通にかけては、寺之内の一角で寺院が集中する -
「御霊神社(上御霊神社)」(かみごりょうじんじゃ)
正式名称は「御霊神社」で、下御霊神社(御所の東南)と区別するために通称「上御霊神社」と呼ばれ、どちらも平安時代に疫病や天災が続いた際、政治的な陰謀などで亡くなった貴族や皇族の御霊をなだめるために863年に創建、 上御霊は崇道天皇(早良親王)、伊予親王など8柱、下御霊は崇道天皇、吉備真備など8柱、また室町時代に応仁の乱(1467-1477)の前哨戦となった戦いが勃発したことから「応仁の乱発祥の地」とされる -
「京都音盤研究所・昭和カフェ鞍馬口・朗読のおうち」など様々
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「キリスト教科学京都小教会」
町家を利用した教会は京都らしい -
「光明定院墓以下三墓」(こうみょうじょういん)
江戸前期第113代東山天皇皇女「光明定院」と第112代霊元天皇皇曾孫女「真珠光院」(しんじゅこういん)、霊元天皇皇曾孫女「得菩提院」(とくぼだいいん)の三名のお墓 -
「龍村美術織物工場」
明治27年(1894)創業の美術織物の名門で、御園座、国立劇場、明治座、歌舞伎座などの「緞帳」、薬師寺、東大寺などの貴重な裂地の復元制作や祇園祭の懸装品(けそうひん)の制作などにも取り組む(本社は西院) -
「相国寺虚白院(きょはくいん)新築工事」
相国寺の塔頭は、境外に鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、真如寺の3寺と、境内に13寺あるが、その内の一つ「虚白院」の跡地にある「相国会本部」となる建物の再建中らしい、またここは相国寺管長が理事長を務め、京都府内の約1,100の寺院が加盟している「京都仏教会教会」の事務局にもなっている -
「相国寺の土塀」
相国寺(しょうこくじ)の土塀は、足利義満建立の格式の高い5本筋の「筋塀」(すじべい)で、瓦を並べて漆喰(しっくい)で塗り固めた美しい「瓦土塀」が特徴 -
「慈照院」(じしょういん)通常非公開
相国寺塔頭で、「慈照寺」は足利8代将軍義政の東山山荘で、「慈照院」は義政の没後に菩提所となった寺院、室町時代1405年頃、相国寺13世が創建し、1490年足利義政没後、義政の菩提所となった、また江戸初期から桂宮智仁親王と親交があり、近代桂宮家菩提所になった -
「京都市立烏丸中学校」
昭和22年(1947)出雲路青年学校が新制出雲路中学校、1951京都市立烏丸中学校に改称され紫野中学校を統合し、かつて私立京都烏丸学園があった現在地に移転、1955年新校舎竣工 -
「みやこ食堂」「CASA NANA(カサ ナナ)」
片や、昭和の頃から繁盛している昔ながらの町の大衆食堂、片や、スペインとフランスの間にあるバスク地方の郷土料理で、どちらも地元の素材を活かした素朴な家庭料理 *バスク料理は、海と山に囲まれた魚介類や肉をシンプルに調理し、多彩なソースを使うのが特徴で、パンの上に生ハムや魚、オリーブなどを乗せ串で刺した「ピンチョス」や、「バスクチーズケーキ」は聞いたことがある -
「玄武」という名前と町家に惹かれるが、寺社の借地管理や不動産の売買、分譲、建設リフォーム事業で、地域の歴史を継承する街づくりに貢献していると紹介されている
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「寺之内通」(てらのうちどおり)
烏丸通から御前通までで、秀吉の洛中改造で点在していた80もの寺院を、寺町通や寺之内通に集め、空いた土地に家や店を造って町をきれいにし、同時に外敵の防御にもなり、寺院の勢力を抑制する狙いもあった -
同志社大学烏丸キャンパス「志高館」(しこうかん)
この辺りは「産業技術研究所繊維技術センター」があった所で、2010年京都リサーチパークに移転した跡地を京都市から譲り受け、2012年に開校した -
「室町児童館」
1997年、京都市内で初めて小学校の敷地内に作られた児童館で、午前中は乳幼児の親子、午後は小学生の学童クラブとして活用されている -
「室町小学校」
明治2年(1869)京都で開校した64の番組小学校のうち3つの小学校を、明治26年(1893)に統合して設立され、昭和22年(1947)室町小学校、昭和23年室町中学校を併設、昭和26年烏丸中学校として現在地に移転、平成4年(1992)現校舎(3代目校舎)竣工 -
「学校グリーンベルト」
京都市教育委員会が1996年から市内の小中学校で、学校のまわりの古いブロック塀を撤去し、生垣や花壇に置き換える事業を推進し、通学路の安全を守るグリーンベルト(通学路)化と、地域の人々やボランティアと一体となった景観・環境美化を進めている -
自由にご使用ください「ちょっと一息しませんか」
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京菓子司「俵屋吉富烏丸店」(裏の室町通側に本店)
1755年創業、大正13年に継承後、昭和8年に「花の御所」のあった室町の現在の地に移転し、禁裏菓子御用司としてつとめる、相国寺が所蔵する「雲龍図」を表現した銘菓「雲龍」が有名 -
「俵屋吉富京菓子資料館」(当日休館)
敷地内に平成13年に京菓子資料館「龍宝館」を設け、和菓子の歴史を学べる展示室や、菓子つくり体験、抹茶と和菓子を味わえる茶室などがある -
「藤井右門宅跡」(ふじいうもんたくあと)
藤井右門(1720-67)は、江戸中期の尊王論者で、皇学所教授となって公家に尊王論を説き、幕府の弾圧で48歳で処刑されたが、その後多くの志士の心をとらえ、明治維新の思想の主流となり、近くに薩摩藩邸(現同志社大学の地)があったので志士たちの会議連絡場所として活用された -
「上立売通」(かみだちうりどおり)
寺町通から立命館大学近くの馬代通(ばだいどおり)までで、かつて立売の行商人が集まっていた「立売の辻」があったことに因み、途中相国寺境内や西陣の街並みなど風情あるルートが特徴 -
正面が「相国寺・西門」で、右手が「同志社大学博遠館」(はくえんかん)
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「相国寺・西門」
同志社大学は、かつての相国寺の広大な境内跡地を利用しており、すぐ北側には「相国寺」の法堂、方丈や塔頭が並び、レンガ造りの同志社校舎と歴史ある寺院建築が混ざり合う独特の景観を形成している -
「相国寺」(しょうこくじ)境内
「相国寺」は、室町幕府3代将軍・足利義満(1358-1408)が花の御所の隣接地に創建し、開山はすでに没していた夢窓疎石とする臨済宗相国寺派の大本山で、京都五山の第2位(別格南禅寺、1天龍寺、2相国寺、3建仁寺、4東福寺、5万寿寺)として、境外に鹿苑寺(金閣寺)や慈照寺(銀閣寺)、眞如寺、境内に13の塔頭を従え、伊藤若冲ゆかりの寺宝、日本最古の法堂建築、手を叩くと反響する「鳴き龍」で有名 -
塔頭「瑞春院」(ずいしゅんいん)
西門直ぐのところにあり、室町時代に創建され、江戸時代まで焼失、再建を繰り返し、近代1898年に再興され「瑞春院」となった、通常非公開だが、室町期の禅院風の枯山水「雲頂庭」(うんちょうてい)と、夢窓国師の作風をとりいれて作庭した池泉回遊式の心字池がある「雲泉庭」(うんせんてい)が見所 -
「雁の寺」(がんのてら)
福井の若狭生まれの作家・水上勉(1919-2004)が、9~13歳までここで修行し、その体験をもとに著した小説「雁の寺」が、昭和37年(1962)直木賞を受賞したことから「雁の寺」として有名で、水上勉は小5で室町尋常小学校へ転校したが、中2の時に脱走し、連れ戻されたがその後還俗し、1946年作家デビュー、1961年「雁の寺」を著した -
同志社大学 キャンパス
現在の今出川キャンパス周辺は、かつては相国寺の境内で、幕末に薩摩藩が相国寺から土地を借りて薩摩藩の屋敷となり、明治時代に京都府に接収され、山本八重の兄・覚馬がこの土地を手に入れ、兄を探して京都にやってきた八重がたまたま結婚していた、新島襄のキリスト教学校設立の考えに共鳴して新島襄に格安で譲り、1875年に同志社英学校が開学され現在の同志社大学となった -
「寒梅館」(かんばいかん)
2004年に竣工した新しい同志社の大学会館を建て替え工事中に、現在殆ど残っていなかった室町時代の「花の御所」の遺構が発見された -
花の御所「室町殿・石敷遺構」(むろまちどの)
寒梅館の上立売通側に発掘調査で出土した石敷き遺構が保存されており、「花の御所」とも呼ばれ、足利義満以来多くの室町幕府将軍の屋敷となった「室町殿」は、洛中洛外図屏風や古文書などで、この辺りにあったとされてきたが、これが証明されることになった -
「花の御所」は、1378年に室町幕府3代将軍足利義満(1358-1408)が造営した足利家の邸宅で、室町小路に正門を設けたことから「室町殿」と呼ばれ、庭内に鴨川から水を引き入れ四季折々の花木があったことから「花の御所」とも呼ばれ、敷地は、烏丸通~室町通、今出川通~上立売通という広大なエリアで、1382年には近くに足利氏の菩提寺として「相国寺」が創建され、義満はここで政治を行った後、1394年将軍職を譲ると北山第(金閣寺)へ移った。その後1476年応仁の乱で焼失し、戦乱の時代が終わると公家たちが戻り公家町が形成され、室町殿の当時の建物は残っていないが、唯一邸内に建てられた尼門跡寺院の「大聖寺」だけがほぼ当時の場所に残っている
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「石組水路跡」
石組み遺構は、一緒に出た土器から第12代将軍足利義晴(1511-1550)が再築した「室町殿」の社と庭園跡と推定され、滝を意識した8個の大きな石や、池の一部は、将軍家がまだ相当の力を持っていたことを示しているという -
「同志社大学 寒梅館」
お洒落なカフェ・レストラン、ラウンジやホールやなどは、世代を問わず多くの人が集うコミュニティースペースとして一般開放しており、懐が深い -
隣接して「花の御所」跡地の一部を占める「大聖寺」がある
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「大聖寺」(だいしょうじ)
足利義満が1368年、正室の叔母・日野宣子に「花の御所」内の岡松殿を与えて住まわせ、没後寺に改めた尼門跡寺院で、内に「花の御所・石碑」がある -
「同志社大学 良心館」(りょうしんかん)
「良心」という言葉は、新島襄が「一国の良心とも謂ふべき人々を養成せん」と同志社建学の精神を表す最も重みのあるもので、各学校に新島の想いを伝える「良心碑」がある -
「相国寺の遺構復元」
2010~2012年「同志社大学良心館」建設時の発掘調査で相国寺の遺構が見つかり、出土した石垣の一部が「相国寺水路の石垣」「相国寺西辺の石敷道路」として、そのままの形で移築・復元され、当時の人たちが実際に歩いていた景観を今に伝える -
「薩摩藩邸跡」(二本松屋敷)
1862年薩摩藩が相国寺から土地を借りて藩邸を造営したもので、同志社大学の今出川キャンパスの約3分の2を占めていた。幕末の薩摩藩は公武合体派を推進し、市内数カ所に京屋敷があったが、本部は錦小路通東洞院にあり、1862年尊攘過激派らを制圧した寺田屋事件は伏見、1864年長州藩を中心とする尊攘勢力一掃した禁門の変の後、1866年薩長同盟はこの地で話し合い合意した -
「彰栄館」(しょうえいかん)(重要文化財)
同志社の煉瓦建築群の中で最古、京都市内現存でも最古の1884年竣工で、新島襄に理解を示したアメリカン・ボードの寄付により牧師で建築家のD.C.グリーンが設計した -
大学と一体となった「地下鉄今出川駅」
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「烏丸今出川」(からすまいまでがわ)
向かいは「京都御苑」、(今出川通)は銀閣寺から等持院までで、大正6年(1917)京都市電開設で埋め立てられた「今出川」という川に因む -
「京都御苑」沿いに南下
「京都御苑」は、東西 1km、南北 1.5km -
「乾御門」(いぬいごもん)
西側・烏丸通沿いには4つの門、東側・寺町通沿いには3つの門がある -
「とらや」創業の地
「とらや」は、室町時代後期にこの地で創業し、明治2年(1869)東京遷都に伴い、明治天皇にお供して東京に移転した -
「とらや」京都一条店
1586年後陽成天皇在位中から御所の御用を勤めて以降、皇室御用達の和菓子店として発展し、現在、直営店10店(東京6、御殿場1、京都2、パリ1)を含み販売店数80で、売上高約200億円 -
(一条通)
烏丸通から嵯峨野の清凉寺までで、平安京では京の北端の道として「一条大路」と呼ばれる広い通りだったが、郊外へ拡大をはじめると、防衛の意味も無くなり、道幅は狭まくなり、応仁の乱で荒廃した以降の洛中改造で再開したが、道幅はかなり狭まり、さらに御所造営で、烏丸通以東は分断された -
「金剛能楽堂」(こんごうのうがくどう)
能楽の流派の一つである金剛流(こんごうりゅう)の拠点となる能楽堂で、京都には観世流(かんぜりゅう)の「京都観世会館」、観世流最古の能楽堂「大江能楽堂」、同じく観世流の「河村能舞台」などある *能楽の流派は五流(観世・宝生・金春・金剛・喜多) -
「能」「狂言」「歌舞伎」の違い
「能」は、仮面をつけて、そうろう調のセリフで、囃子に合わせて舞う古典劇で、室町時代に観阿弥・世阿弥によって大成された、「狂言」は、能の合間の幕間劇として発展し、面をつけないことが多く、分かりやすいセリフで庶民の日常生活や、間抜けな神様などを面白おかしく描いた喜劇、「歌舞伎」は、安土桃山時代に出雲阿国が始めた踊りがルーツとし、江戸時代に大衆演劇として発展し、派手な衣装や化粧、舞台装置や音楽を駆使したミュージカルのようなもの -
京都府民ホール「アルティ」
昭和63年(1988)京都府知事公舎跡に開設された最大560席のホール、そろそろリニューアル時 -
「中立売御門」
西側の駐車場入り口 -
日本ナザレン教団「上京教会」
1908年(明41)日本宣教が始まったロサンゼルスを拠点とする教団 -
「京都平安ホテル」
1980年(昭和55)道府県職員の福利厚生施設として開設されたが、コロナ禍で経営が悪化して2023年に閉鎖されたままだったが、映画「国宝」の撮影でも使われた小川治平作庭の日本庭園があり、存続の声が高かったため、最近の(2026/05/28読売新聞)によると、跡地は京都府が約48億円で取得し、庭園は存続し、当面は民間に活用してもらう方向で検討を進めるという、うまく活用して庭園もオープンにして欲しい -
「KBS京都」
1951年(昭和26)ラジオ局として開局、1969年テレビ局を開局し、系列局には属さず地元独自の番組編成を行う、近畿地方における唯一のテレビ・ラジオ兼営民放局 -
「京都ガーデンパレス」
1996年(平成8)創業の私学事業団が運営するホテルで、全国にホテルを8ヶ所、保養所を8か所運営し、京都では「白河院」もこれに入る -
「土御門内裏跡」(つちみかどだいりあと)石碑
この辺りは、平安時代に紫式部も仕えていた具平親王(ともひら)の曽孫・源師時(もろとき1077-1136)の邸宅「土御門邸」があった所で、その後鳥羽・崇徳・近衛三代の天皇が「里内裏」(さとだいり)として使われ、江戸時代に水戸藩の屋敷が置かれたが、1864年「蛤御門の変」で全焼した -
「蛤御門」(はまぐりごもん)
御所の火災の際、滅多に開くことのなかった門がこの時だけは開いたため、ハマグリになぞらえて「蛤御門」という俗称が付けられ、1864年「蛤御門の変」では、尊王攘夷派の長州藩と、京都を守護する会津藩・薩摩藩など幕府側との激戦地となり、門柱にはその時の弾痕が残る -
「水戸藩邸跡」
尾張、紀伊とともに徳川御三家の水戸藩主第2代「徳川光圀」(水戸黄門1628-1701)は、「大日本史」の編纂を始め、資料収集のために全国に学者を派遣し、京都にも多くの学者が派遣され、この藩邸が拠点になり、250年かけて1906年に完成した。また幕末には第15代藩主一橋慶喜(1837-1913)を推す公武合体派として幕府主流と対立し、1858安政の大獄、1860井伊直弼暗殺、1864天狗党の乱など引き起こされる中で、この地も政治活動の重要な拠点になり、1864蛤御門の変で焼失するまで続いた -
「護王神社」下長者町通側
護王神社が、京都御苑に近いこの地にあるのは、明治の東京遷都後に建てられた「平安神宮」は、当初第4回博覧会1895の開催地として挙がった京都御苑内に計画され、これを東西から守るための神社として、梨木神社と護王神社が先行して創建されたが、後に平安神宮は現在の岡崎に建てられることになり、結果的に二つの神社は現在地に残され、御苑を東西から守る形になったという -
「いのしし神社」由縁
奈良時代聖武天皇の娘・称徳天皇(しょうとくてんのう718-770)の時代に、「和気清麻呂」が九州へ配流された際、刺客に襲われ両足を切られ立てなくなってしまい、宇佐八幡へ立ち寄ろうとしたところ、どこからか300頭ものイノシシが現れ、宇佐八幡まで案内してくれて、参拝を終えると不思議なことに、清麻呂公の足の痛みは治り、再び歩けるようになっていた、ということからイノシシは足腰を守護する神の使い(霊猪)として崇められるようになった。また和気清麻呂の姉の「広虫姫」は、宮中の女官として5代の天皇に仕え熱く信頼され、慈愛の心が厚く戦乱で生じた多くの孤児たちを養子として育てられたことから、子育て、保育の祖神として信仰され、時代祭の列にも子供たちを連れて登場する -
「和気清麻呂銅像」(わけのきよまろ733-799)
1998年「和気清麻呂公1200年祭」を記念して立てられた。「和気清麻呂」は、奈良時代に備前・美作の郡司として栄えた家に生まれ、女帝・称徳天皇の寵愛を受け、769年の道鏡事件の後、770年光仁天皇即位に伴い召還され、781年光仁天皇の勅命により高雄山寺創建、783年桓武天皇により摂津職の長官に任じられ、784年長岡京遷都に関わり、793年平安京遷都を桓武天皇に上奏し平安京造宮大夫、794年平安京完成、796年民部卿兼造宮大夫、799年死去享年67歳、同年姉の広虫も70歳で死去、没後高雄山寺に葬られて以来和気氏の氏寺となり、子孫たちが清麻呂や広虫の法要に最澄や空海を招いてからは、真言密教の重要な根本道場となり、後に824年「神護寺」と改称された *和気清麻呂は足を治してくれたお礼として、男山八幡山に「足立寺」というお寺を建て、現在は鎮守社の「和気神社」のみが残る(この辺りの町名は西山和気、隣の町名は西山足立という) -
初めて「日本銀行兌換(だかん)銀券」が発行されたのは明治18年(1885)で、神功皇后、菅原道真、藤原鎌足、聖徳太子などいる中、明治23年(1890)から昭和20年(1945)までの10円札は一貫して「和気清麻呂」と「護王神社」と「いのしし」が描かれていた
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「護王神社」(ごおうじんじゃ)烏丸通側
平安京建都に貢献した「和気清麻呂」と、その姉である和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと)を主祭神として祀り、幕末に孝明天皇(1831-1867)が清麻呂の功績を讃え「正一位護王大明神」の神号を授け、明治になって明治7年(1874)「護王神社」と改称され、明治19年(1886)和気氏ゆかりの高雄山神護寺に葬られていた清麻呂公霊社を現在地の公家邸宅跡に遷座し、御所守護の社になった -
「夏越の祓」(なごしのはらえ)
今日の目的は、これから本格的な暑い夏を迎えるにあたり、今年前半を祓い清め、後半の無病息災を祈願する「夏越の祓」で、「護王神社」の説明では、「大祓は、日頃無意識のうちに身についた罪や穢れを祓い清めて、心身共に清々しくする大変意義深い神事で、特に夏越大祓は疫病の災いから免れるよう祈りを込めて茅の輪をくぐる習しがあります。大祓式の後、茅の輪くぐりの神事を執り行いますのでぜひご参列下さい」とあるので、早速行って見ます *「夏越の祓」は、12月の大晦日の「年越の祓」と対になる神事で、両方を合わせて「大祓」(おおはらえ)という -
「護王神社・夏越の大祓」(なごしのおおはらえ)
「夏越の祓」は、毎年6月の晦(30日)を中心に全国の神社で行われるが、京都でも祇園祭に入る前の行事として各神社で行われ、「護王神社」のお知らせでは、6月30日午後3時より、恒例の夏越大祓の神事を執り行います。境内の茅の輪は6月20日より7月5日までご自由におくぐりいただけます 「水無月(6月)の夏越の祓する人は 千歳の命 のぶといふなり」とある -
「夏越の祓」の起源
「夏越の祓」は、奈良時代以前からの心身の罪や穢れを水で祓い清める習慣が、平安時代に貴族たちの間で宮中行事や神社の神事として行われ、これが江戸時代に庶民の間にも定着し、明治以降には伝統的な初夏の風習となって全国の神社で行われるようになったという -
「茅の輪くぐり」(ちのわくぐり)
「夏越の祓」の一大イベントは、茅(かや)で作った大きな輪を潜って参拝し、疫病除けのご利益を授かるという「茅の輪くぐり」で、各神社で競って工夫した「茅の輪」があるが、中でも「護王神社の茅の輪」は姿カタチが良い -
「茅の輪くぐり」の起源
「茅の輪くぐり」は、茅(かや)で作った輪を腰につけると疫病から免れたとされる「蘇民将来」(そみんしょうらい)の神話に由来し、最初は腰につけていた輪が、江戸時代になって「人がくぐれる大きな輪」の形に変わったといわれる -
「蘇民将来」(そみんしょうらい)の神話
昔、蘇民将来という男の家に、旅人に身をやつした牛頭天王(ごずてんのう;スサノオノミコト)が訪ねてきて、一夜の宿を求めたところ、貧しかったにも拘わらず温かくもてなし、感謝した牛頭天王はそのお礼に「今後お前の子孫は末代まで私が護ってやろう。目印に腰に茅の輪をつけていなさい」と言い残して去っていき、そのお陰で一族が疫病にかかることはなかったという -
(2022/07/15撮影)八坂神社「疫神社」(えきじんじゃ)
蘇民将来(そみんしょうらい)は、祇園祭の粽(ちまき)に張られた札にも出てくる名前で、「蘇民将来之子孫也」と書かれた札を玄関に飾っておくと、「蘇民将来の子孫」として疫病から免れる、また牛頭天王(ごずてんのう)を祀る「八坂神社」には蘇民将来を祀る「疫神社」という摂社があり、祇園祭の最終日7.31に茅の輪(ちのわ)が用意され、厄を払う「疫神社夏越祭」(なごしさい)が行われる -
「茅の輪くぐり」の作法
正面で一礼して「左回り・右回り・左回り」と8の字に3度くぐり、最後に本殿へ参拝すると、半年間の穢れが祓われ、無病息災が祈願される -
護王神社の「夏越大祓式」
6月30日の午後3時より斎行し、神事後に参列者全員で茅の輪くぐりを行う -
「百度祓」(ひゃくどはらえ)
最初に行われる神事で、太鼓を打ち鳴らしながら参列者全員で、「大祓詞」(おおはらえことば)というお祓いの祝詞を唱和し、日々の生活で溜まった罪や穢れを祓い清める -
境内には狛猪や猪の手水舎や全国から奉納されたイノシシのコレクションなどがあふれる
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「水無月(みなづき)」を食べる
「夏越の祓」に欠かせないもう一つの一大イベントは「水無月」を食べることで、京都では6月30日に「夏越の祓」で茅の輪をくぐり、「水無月」を食べると夏バテしないという風習がある *「水無月」は6月の和風月名で、田んぼに水を張る「水の月」という意味 -
「とらや」
少し一条通まで戻るが、室町時代創業の老舗和菓子屋「とらや」菓寮へ -
「とらや」はブランド名で、企業名は「株式会社虎屋」、室町時代後期に京都で創業し1586年から御所御用を始めるとあり、以降皇室御用達の製菓業となり、少なくとも1635年には名物の「羊羹」(ようかん)が出来て、江戸初期には天皇や将軍家に羊羹を納め広く知られるようになり、そして明治2年(1869)東京遷都に伴い京都店はそのままに東京に移転し、現当主は18代目に当たる
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「とらや」の創業地で、工場と店舗があった一条通に、平成21年(2009)新たにギャラリーも併設した虎屋菓寮が出来た
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庭園を見ながら高級和菓子を楽しめるのは、素晴らしい
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「水無月」(みなづき)
とらやの「虎屋黒川家記録」では、1725年に「水無月蒸餅」というお菓子を御所に納めていたことが記されており、これが「水無月」のルーツであると言われ、ここから幕末に至るまで、毎年6月30日に蒸餅を御所に納めたという、大変歴史のある高級菓子を創業の地で頂けるのは有難い! -
「水無月」(みなづき)の由緒
「水無月」というお菓子は、三角形に切り分けた白い外郎(ういろう)の上に小豆が乗った伝統菓子で、起源は平安時代まで遡り、宮中では毎年6月1日の「氷室の節会」(ひむろのせちえ)に「氷室」と呼ばれる氷の貯蔵庫から出された氷を食べ、6月30日の「夏越の祓」には小麦の餅を食べて暑気払いをしするという風習があり、庶民の間では氷は簡単には手に入らないので、氷の代わりに「氷室」と呼ばれる固い餅を食べていたが、御用達の虎屋が1725年に、水無月祓とも言われた御所の「夏越の祓」の小麦の餅の代わりに、小豆をのせた蒸し餅を「水無月蒸餅」という名前で、納めたのが始まりで、その後、京都のいくつかの和菓子屋さんが、氷室の節会の「氷室」と夏越の祓の「水無月蒸餅」を合体し、氷室を表した三角形の土台に魔除けの小豆を乗せた「水無月」を考案し、6月になると京都のほぼすべての和菓子店で販売されるようになった -
(2018/05/25撮影)「氷室神社」(京都一周トレイル北山・西コース)
洛北の雲ケ畑街道から氷室峠への途中に「氷の神様」という珍しい神社があり、元々宮中に献上する氷は、平城京から運ばれていたが、あまりにも遠いので京の近辺にも氷室が設けられ、奈良の春日大社近くにある氷室神社と同じく、氷室の守護神として建立された -
「水無月」は京都限定の行事菓子
「水無月」の土台は「外郎」(ういろう)だが、「とらや」に「外郎」の販売はなく、殆どの京都の老舗和菓子屋さんでは6月限定で「水無月」を販売している、京都菓子工業組合で商標登録されていて京都しか作れないらしく、京都以外での販売はないが、「とらや」の東京だけは販売し、最近ではデパートにいけば何でも手に入る -
「水無月」と「外郎」(ういろう)の起源
「水無月」は、虎屋が江戸時代に始めた蒸し餅がルーツだが、土台となった「外郎」の起源を調べると、もっと古い室町時代に中国から渡来した医者(外郎家)が、足利義満に薬の口直しとして献上したのが始まりとされ、「外郎」と言えば名古屋のイメージが強いが、京都が発祥で、1855年建仁寺近くで参詣客向けに創業した「五建ういろ」が有名だが、殆どの老舗は「水無月」しかやってない、名古屋で有名な「青柳」は、名古屋駅で立ち売りを始め新幹線の車内販売で全国的に知られるようになったらしい -
とらやの「羊羹」(ようかん)の起源
とらやの「羊羹」は「水無月」よりも早い、室町時代後期の創業当初から作られ、当時、寺院から貴族や武家の間に伝わり、茶席にも使われていた「羊羹」を宮中や公家、将軍家などに献上し、格式高い高級菓子として定着していった *「羊羹」は「外郎」よりも早い鎌倉から室町時代に中国から「羊の羹」(あつもの汁物)として伝わり、肉食が禁じられていた禅僧が、小豆を羊肉に見立てた精進料理の汁物とし、これに甘みを加えて茶席などで使われた。「羊羹」は小豆と砂糖を寒天で煮詰めて冷やし固めたもので、「外郎」は米粉や小麦粉などに砂糖と水を練り合わせ蒸したもの -
(再び下長者町通に戻る)「ワタベウエディング」
1953年創業の衣装店から発展したブライダル企業で、リゾート挙式のパイオニアとして発展し、目黒雅叙園や日本郵政のメルパルクを子会社化したが、コロナ禍で経営不振に陥り、2021年ホテル事業も手がける興和の完全子会社となり再建中、目黒雅叙園は、2025年カナダの投資会社に買収され、ヒルトンのラグジュアリーブランドとして運営されるという -
山川友一装束店(やまかわしょうぞくてん)閉業中
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「CCS(シーシーエス)株式会社」1993年設立
画像処理用LED照明のリーディングカンパニーとして、電子・半導体、食品・医薬品・化粧品、自動車業界などの自動検査や、顕微鏡光源、植物育成、美術館・博物館などのLED応用照明の開発、製造、販売を行う企業の本社 -
「日本聖公会京都教区・ウイリアムス神学館」
日本聖公会の聖職者を養成する京都教区神学校で、イングランド国教会をルーツに持ち、カトリックとプロテスタント双方の伝統を受け継ぎ、全国11教区、300の教会・礼拝堂・伝道所に約3万人の信徒をもつ -
「シ・エム・ウイリアムス師旧邸」
C・M・ウイリアムス(1829-1908)は、米国から来日した宣教師で、日本聖公会初代監督に就任し、昭和11年(1936)から、この地の京都教区教務所構内に居住し、現在は京都教区主教邸として使用されている *1859年に来日し、高杉晋作や大隈重信、前島密らに英学を教えるなど、日本の近代化、国際化に貢献、1874年私塾「立教学校」を開き、日本聖公会の初代主教となり、1883年ミッションスクール第一号として「立教大学」「立教女学院」を創設、1890年後に聖路加病院となる病院を設立、1895年再び来日し京都に住まい、京都聖ヨハネ教会など3つの教会を管理し、「平安女学院」を開校した -
「パレスサイドホテル」跡地「クラッシーハウス京都御苑ザ・テラス」
1967年建設で2022年閉鎖の「ザ・パレスサイドホテル」跡地に、2026年5月住友商事の新築分譲マンション(46邸)が完成、3LDK 1億2700万円よりとある -
「旧有栖川宮家邸・青天門」(国登録有形文化財)
「有栖川宮」(ありすがわのみや)は、江戸時代に創設された、伏見宮、桂宮、閑院宮とならぶ世襲「四親王家」の一つで、江戸時代には京都御所の猿ヶ辻あたりにあったが、明治初期に京都御所建礼門前に新築された後、東京移転に伴い、1891年に現在地へ移築され、京都裁判所の仮庁舎を経て、2007年まで裁判所の所長官舎として使われ、2008年に平安女学院の所有になったが、この「青天門」は、三井財閥の三井高保邸宅の1912年建立の門を裁判所が購入して1952年に移築したもので、命名は歌人・吉井勇 -
「有栖川宮家邸・長屋門」(国登録有形文化財)
「世襲親王家」については、最近ホットな話題になっているので調べてみると、江戸時代には「四親王家」(伏見宮・ 桂宮・ 有栖川宮・ 閑院宮) だけが継承を認められ、跡継ぎがない場合は、これらの宮家から養子を迎えたり、皇位を継承したりすることで皇統を維持してきたが、明治以降は廃止され「永世皇族制」になり、四親王家についても、男子に恵まれない場合は断絶することとされ、桂宮は明治14年(1881)、有栖川宮は大正2年(1913)に断絶し、伏見宮・閑院宮も戦後皇籍離脱しており、現在の皇位継承とされる「宮家」は、秋篠宮家、常陸宮家、三笠宮家、高円宮家で、この内男性皇族は、秋篠宮家(秋篠宮文仁親王・悠仁親王)と常陸宮家(常陸宮正仁親王)の2宮家だけで、将来の皇位継承者確保のため、女性皇族が結婚後も皇族に残り、戦後離脱した旧11宮家の男系男子をこの4宮家の養子として迎える制度が2026年7月新設された *「11宮家」は、伏見、閑院(かんいん)、山階、北白川、梨本、久邇(くに)、賀陽(かや)、東伏見、朝香、竹田、東久邇(ひがしくに)、「天皇陛下4宮家」は、秋篠宮、常陸宮、三笠宮、高円宮 -
「平安女学院 有栖館」(ありすかん)
平安女学院は、2008年に隣接する「有栖川宮旧邸」を取得し、京都文化の研究・教育の発信拠点として活用し、通常非公開だが例年春と秋に特別公開していたが、厳しい経営環境が続く中で、2024年森トラストが購入し、現在も手つかずだが、そんな活用になるかは分からない、ビル、マンションだけはやめてもらいたい、売却額は数十億円と言われる -
(2016/07/24有栖川宮邸特別公開)「主屋」
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(2016/07/24有栖川宮邸特別公開)「日本初のセーラー服(1920年)」
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(2016/07/24有栖川宮邸特別公開)「庭園」
主屋から眺める枯山水庭園と中庭は、作庭家・小川治兵衛の11代目小川雅史によって2009年作庭された「平成の植治の庭」 -
「聖アグネス教会」(京都市有形文化財)
日本聖公会の京都教区の大聖堂として1898年(明治31)に建てられ、地域の教会と、平安女学院の礼拝堂(チャペル)を兼ね備えた教会として聖三一大聖堂と命名され、後に1923年から平安女学院の守護聖人・聖アグネスに因み「聖アグネス教会」となった、設計は立教学院初代校長も務めたアメリカ人建築家で宣教師のジェームズ・マクドナルド・ガーディナー -
「ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー」(1857-1925)
C・M・ウイリアムスの妖精により、1880年米国聖公会から日本に派遣され、1881年から立教学校、立教女学校を建設し、1883年立教大学校設立で校長に就任、立教大学の創生期において建築士としても活躍し、1892年校長退任後、本格的に建築家を専業とし、1897年福井小浜聖ルカ教会、1893年京都聖アグネス教会、1907年京都聖ヨハネ教会(明治村に移設保存)、1909年京都長楽館など多数手掛けた -
「米国聖公会」は、1859年(安政6)から、C・M・ウイリアムスを中心に宣教を進め、1887(明治20)年に「日本聖公会」を設立し、教育機関として立教大学、桃山学院大学、平安女学院などの学校を創設、医療ではハンセン病患者の救済、聖ルカ国際病院・聖バルナバ病院などを創り、福祉事業として日本で最初の知的障害児施設滝乃川学園、児童養護施設の博愛社や、保育所など多くの施設を設立している
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「平安女学院」(へいあんじょがくいん)
米国聖公会によって開かれた日本聖公会系のミッションスクールで、立教大学と桃山学院大学は姉妹校で、1895年平安女学院開校、1898年聖アグネス教会完成、1920年日本で初めてセーラー服を採用、1947年中学校を開校、1948年高等学校を開校、1950年短期大学を開校、1987年短期大学と幼稚園を高槻市へ移転、2000年大学を滋賀守山市に開学、2005年大学を大阪高槻市に移転し、守山の建物・土地を立命館へ譲渡 -
現在の学生数は、大学400名、高校500名、中学140名、全体で約1,000名規模の学校だが、有形文化財にも指定されているレンガ造りで重厚な建物に囲まれ、キャンパスは室町幕府後期の将軍御所が置かれた場所で、将軍足利が幕府を運営していた二条御所(旧二条城)があり、幕府の管領である斯波氏(しばし)邸宅跡もあり、歴史に囲まれた絶好の学習環境の場で、羨ましい!
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「菅原院天満宮神社」(すがわらいんてんまんぐうじんじゃ)
道真の祖父・菅原清公(770-842)から父・是善(812-880)、道真(845-903)の孫子三代の邸宅「菅原院」があった場所で、道真生誕の地とも伝えられる -
「菅家(菅原氏)邸址」
当時の菅原家は桓武天皇からも厚い信頼を得た学者の名家で、道真は父の勤務先に近いここ「菅原院」で生まれ、神童として育ったと言われ、903年道真の死後、菅家の菩提を弔うために「菅原院跡地」に歓喜寺が創建され、その後、歓喜寺は1003年源融の旧邸・六条河原院の跡地に移転したので、残された殿舎を利用して新たに社殿を造営して道真を祀り、父是善(これよし)と祖父清公(きよきみ)も祀ったと言われる、なお、六条河原院に新たに作られた天満宮は後の新京極の錦天満宮になり、歓喜寺は時宗の善導寺に合併されて六条道場・歓喜光寺となっている -
「菅原院天満宮神社」由緒書(原文)
当、菅原院天満宮神社は、従四位、下治部卿菅原古人朝臣。次は従三位、清公卿。次は参議是善卿の三世、子々相傳へて棲み給ひし邸宅の跡にて。やがて是善卿の御子道眞公の誕生し給ひし霊地なり。古人朝臣は桓武天皇に仕へて侍讀となり。?公卿は嵯峨。淳和、仁明の三帝に歴仕し是善卿は文徳、?和の二帝に奉仕して倶に侍讀の榮職におはせしかば此邸宅をも受継ぎ住み給ひしより世には菅原院と呼びたりとぞ。拾芥抄を案ずるに菅原院は勘解由小路(下立賣通)烏丸の西一町(室町迄)菅贈太政大臣の御所、或は云く参議是善卿の家なりと。当時歡喜光寺と号し、北野祭の日神氏此所に来りて枇杷を取りて神に供すと。又京城の古圖には烏丸、西室町、下立賣、南椹木町の間を菅原院と記せり。蓋し往古は境域の広大なりしを知る可きなり。又枕草子国宝北野縁起(藤原信実朝臣筆)菅氏録に據れば、菅原院は是善卿の旧邸地にして菅公は此の處に於いて御誕生あらせられし爾来菅公亦襲ひて邸宅とし給ひついで菅家のために、此地に歡喜光寺を創建せられしが後故ありて六條道場に移せし由見えたり。然ればそのかみ此地に社殿を存し菅原道眞公を本座とし相殿に御父是善卿を奉祀して古より断ゆること無く今に至れり實に是れ菅原公御発祥の靈地にして聖蹟廿五拝の第一にして今も尚産湯の井及び天満宮御遺愛の石燈籠一基を存せり。 菅原天満宮神社 社務所 -
「菅原道真公(菅公)産湯の井戸」
社務所の奥に「道真公産湯の井戸」があり、平安時代のままの姿をとどめ、錆びついたつるべも残されている -
「産湯の井戸」名水の復活
長年枯れていたが、2010年に新たに掘削し水が湧きだし、水質検査でミネラル分が多く円やかな口当たりで飲用が可能と分かり、学問の神様道真公ゆかりの「ご神水」として自由に飲むことができる -
「菅原道真産湯の井戸」は3か所存在
ややこしいことに、菅原道真邸宅や産湯の井戸は、京都に3か所も存在し、菅原院天満宮の他、仏光寺新町の「菅大臣神社」(かんだいじんじんじゃ)と京都市南区の「吉祥院天満宮」(きっしょういんてんまんぐう)にも石碑がある -
「菅原邸3か所の推論」
これまでの情報から判断するに、私なりの推論は「平安遷都の際、桓武天皇から厚い信頼を得ていた菅家が奈良から都に入った際に領地として賜った「吉祥院」に邸宅を構え、そこで845年に道真公が生まれ、その後、文章(もんじょう)博士など
学者・文人として御所勤めをしていた祖父清公や父是善の勤務先に近い「菅原院」に引っ越し、さらに仏光寺新町にも邸宅を持ち、ここに祖父が開いた菅家廊下(かんけろうか)という私塾で多くの有能な人材を育成する中で、道真もどんどん頭角を表していった」というストーリーになり、従って「菅原院」と「菅大臣」の井戸は普段使いの井戸で、産湯の井戸ではないことになる -
(2025/1/1撮影)平安京南北散歩「御前通」
「吉祥院天満宮」(きっしょういんてんまんぐう)は、「北野天満宮」から真っ直ぐ南下する現在の「御前通」の南端にあり、「北野天満宮」創立前にあった「右近の馬場」という馬場に、道真はこの邸宅から良く通っていたと言われる所で、菅家の氏寺「吉祥院」があったことから「吉祥院天満宮」と呼ばれ、903年道真死後、北野天満宮の947年よりも早い934年に創建された「最初の天満宮」になる -
(2025/1/1撮影)吉祥院天満宮「産湯の井」跡
この地は平安遷都の際、桓武天皇からの厚い信頼を得ていた道真公の曽祖父と祖父がお供して都に入った際に領地として賜り、邸宅を構えた所で、後に氏を「菅原」と変え、845年道真公が生まれ、境内には「産湯の井戸」や道真公のへその緒を埋めた「胞衣(えな)塚」、少年時代に習字に使用した「硯の水」などがある -
(2025/1/1撮影)吉祥院天満宮「菅公胞衣塚」(えなづか)
道真公生誕の地の証明として「産湯の井」だけでなく、道真公の「へその緒」が埋められており、お宮参りで赤ちゃんの鼻をつまみ元気な声を上げさせて子供の無事成長を祈る -
(2025/07/14撮影)平安京南北散歩「西洞院通」
「菅大臣神社」(かんだいじんじんじゃ)は、菅原院天満宮から烏丸通を南下し、仏光寺通を西に曲がった2.5km地点にあり、ここにも菅原家の邸宅と、祖父清公が自宅内に開いた「菅家廊下」という私塾があり、この私塾から多数の有能な人材を輩出し、道真もここで英才教育を受け、祖父、父につづき33才の若さで文章博士になった所で、道真没後間もなくこの地に創建された -
「紅梅殿」(こうばいでん)説明版
西洞院通「綾西(あやせ)公園」の辺りは、「菅原道真」の邸宅があったところで、邸宅内に「紅梅殿」と「白梅殿」があり、菅公が大宰府へ左遷に当り「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠んだとされる「飛梅」の地と言われている -
「菅公聖蹟二十五拝」(かんこうせいせきにじゅうごはい)
京都から太宰府まで菅原道真を祀る由緒深い25社を順拝する風習では、スタートが「菅原院天満宮」で、以降「錦天満宮」「菅大臣神社」「吉祥院天満宮」「長岡天満宮」から23番目「太宰府天満宮」で折り返し、大阪「上宮天満宮」から最後に「北野天満宮」になり、京都だけの「洛陽天満宮二十五社」では、スタートが「菅大臣神社」で、5番「吉祥院天満宮」、7番「菅原院天満宮」、24番「錦天満宮」、25番「北野天満宮」になっているが、時代によって選定は変る -
「大丸ヴィラ」(国重要文化財)通常非公開
昭和7年(1932)大丸創業家11代当主下村正太郎の邸宅として建てられた「ヴォーリズ」建築で、我が国屈指のイギリスチューダー様式の邸宅 -
「烏丸丸太町」に到着
「烏丸通散歩」前半はここで終了
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旅行記グループ
月一京町散歩(2)
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新年蛇年の京都「初詣」と初庭園「對龍山荘」に初喰いの「わらじや」
2025/01/16~
東山・祇園・北白川
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「京の冬の旅」特別公開・「西来院」と「祇園甲部歌舞練場」の庭園
2025/02/13~
東山・祇園・北白川
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月一京町散歩(2月)平安京南北散歩「衣棚通・了頓図子」
2025/02/21~
二条・烏丸・河原町
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早春の「京都植物園」と「天壇」の焼肉と「茂庵」のアールグレー
2025/03/05~
今出川・北大路・北野
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月一京町散歩(4月)平安京南北散歩「七本松通」と「重森美玲庭園」で砂紋引体験
2025/04/26~
今出川・北大路・北野
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月一京町散歩(5、6月)平安京南北散歩「東洞院通」と「京都御苑」
2025/06/04~
今出川・北大路・北野
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月一京町散歩(7月)平安京南北散歩「西洞院通」
2025/07/14~
二条・烏丸・河原町
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雨の「祇園祭前祭山鉾巡行」と雨上がりの「神幸祭」 2025
2025/07/17~
二条・烏丸・河原町
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「瓢亭の朝粥」と「南禅寺界隈別荘庭園群」散策
2025/08/13~
東山・祇園・北白川
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月一京町散歩(9月)平安京南北散歩「富小路通」と「陶版名画の庭」
2025/09/14~
二条・烏丸・河原町
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月一京町散歩(11月)平安京南北散歩「車屋町通」「不明門通」と「本家尾張屋」で食べ納め
2025/11/06~
二条・烏丸・河原町
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月一京町散歩(12月)「並河靖之七宝記念館」と「鴨川東・仁王門通周辺エリア」
2025/12/13~
下鴨・宝ヶ池・平安神宮
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月一京町散歩2026(1月)は午年初詣・藤森神社~下鴨神社~上賀茂神社
2026/01/14~
今出川・北大路・北野
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月一京町散歩2026(2月)「梅の京都御苑」と「柳馬場通」
2026/02/17~
二条・烏丸・河原町
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月一京町散歩2026(3月)「早咲き桜の京都御苑」と「御幸町通」
2026/03/19~
二条・烏丸・河原町
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月一京町散歩2026(4月)「桜の京都御苑」と「間之町通」
2026/04/03~
二条・烏丸・河原町
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月一京町散歩2026(5月)「壬生川通、坊城通」と「壬生狂言」
2026/05/02~
今出川・北大路・北野
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月一京町散歩2026(6月)京都国立博物館特別展「北野天神」と周辺歴史散歩
2026/06/06~
東山・祇園・北白川
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月一京町散歩2026(7月)「烏丸通」(前半)「夏越の祓」で暑気払い
2026/06/30~
今出川・北大路・北野
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