2026/06/06 - 2026/06/06
2139位(同エリア7037件中)
Bachさん
6月の月一京町散歩は、京都国立博物館の特別展「北野天神」と、ついでに周辺の歴史散歩です。
特別展「北野天神」は、菅原道真の死から1125年目の式年大祭を機に、全国に秘蔵されている天神信仰ゆかりの品々を一挙公開するもので、よくぞこれだけ集めたものだと驚愕するほどのものが一堂に見れる貴重な内容です。またこの機会に見ることにした博物館の建物や庭園も、今までスルーしていた所でしたが、見どころ一杯で一度は見ておきたいところです。
庭園には大仏殿の礎石などこの辺りで出土した国宝級の石造品などが並べられており、今博物館のある場所が、歴史にまみれたエリアであることがよく分かりますが、今までも周辺を部分的には見てきたものの一挙に見たことはなかったので、頑張って周って見ると、平安の昔の藤原家から後白河上皇、平清盛、親鸞、秀吉、家康、大石内蔵助、坂本龍馬など、全部がつながっているのが良く分かり、そのつながりを拡げていくと、まさに歴史のドツボにはまってしまって、キリがありません。
また今回は、これも前から行きたいと思っていた東山山頂の「豊国廟」まで500段の石段を上がって、京都を舞台にした秀吉と家康の争いや、幕府を倒した明治政府の思惑やらが絡まり、これらに影響を受けながら変貌を遂げてきたんだなと思いながら京都の町を見ると、また面白い見方が出来ます。
最後は、観光客で賑わう三十三間堂まで戻り、800年昔の建物の前にある築50年の建物が老朽化して取り壊される現場を見て、昔の日本の建築技術の素晴らしさに感嘆しつつ、もうすぐ無くなるホテルを懐かしみながらお茶して帰路につきましたが、いつもの平地の京都市街と違って、今回は阿弥陀ヶ峰山頂までの標高差150mを上り下りし、実質2万歩のハードな散歩になり、自分の老朽化をひしひしと感ずる散歩となりました。
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(散歩ルート)11:00京都駅ランチ「寿司魚がし日本一」~(バス)11:50国立博物館14:00~0.5km豊国神社~(正面通)耳塚~0.5km(渋谷通)東大路通馬町~0.5km妙法院~東山七条(女坂)~0.2km新日吉神宮~京都女子大~0.8km15:00豊国廟(阿弥陀ヶ峯)~1.0km(日吉街道)~1.0km新熊野神社~0.5km三十三間堂南大門~法住寺、養源院~0.5km(七条通)~16:30カフェ休憩ハイアットリージェンシー(5.5km)
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11:00 京都駅からスタート
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まずランチ「寿司魚がし日本一」
東京・新橋でたびたび利用したことのある「立ち食い寿司屋」が、昨年2025年6月に京都初出店したと聞いていたので行ってみた -
「寿司魚がし日本一」は、東京・新橋で1989年に創業、職人が目の前で握る江戸前寿司を立ち食いスタイルで提供し、東京を中心に全国30店舗以上展開、関西では梅田阪神、新大阪駅、伊丹空港と京都にある
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リーズナブルに江戸前寿司が食べれて、新橋ではよく通った懐かしい味だったが、店舗展開し過ぎなのか、思い出の味ではなかった
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値段も昔ほどではない
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寿司ランチ「牡丹」を注文
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11:50 市バスで「東山七条」へ移動
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「国立博物館」に到着
現在、特別展「北野天神」(4/18~6/14)が開催されているので久しぶりに訪問 -
「恭明宮」(きょうめいぐう)跡地
中央庭園を挟んで、右手に明治期開館当初の姿をとどめる「明治古都館」、正面に平成に出来た「平成知新館」があるが、この地は元々「恭明宮」という建物があった所で、明治4年(1871)天皇や皇族の位牌や念持仏などを保管し、東京遷都で京都に残った宮中女官の住居として造られたが、1873年には廃止になり位牌・念持仏は泉涌寺に移され、建物は小学校などとして利用されていた -
本館「明治古都館」
明治30年(1897)に、明治維新以降に危機に瀕した寺社などの古美術品を保護保存する目的で、奈良に次ぐ3番目の国立博物館として「旧帝国京都博物館」が建てられた、通常非公開で、通常の展示は新しく出来た「平成知新館」で行われる *2026年7月11~20日に「明治古都館・技術資料参考館 特別公開」が開催される -
「明治古都館」は、奈良国立博物館(明治27年)、東京国立博物館表慶館(明治41年)や赤坂離宮など手掛けた、宮廷建築家「片山東熊」(とうくま1854-1917)の設計で、左右対称の明るく開放的なルネサンス様式と、天に昇るようなゴシック様式を融合した「フレンチルネサンス」という様式を基調にしているという *国が運営する国立博物館は、東京・京都・奈良・福岡の4つ、美術館は東京・京都・大阪・金沢に計7つ
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「本館」の背後は東山、正面西側には、京都市街が拡がる
中央庭園の噴水の先に、本館とともに開館当初の姿をとどめる「正門」がある -
「平成知新館」
免震構造や最新の映像設備を備えた新館として、平成26年(2014)に開館、国宝、重要文化財、寄託品を含む1万4千点の収蔵品から、随時展示替が行われ、年数回の特別展覧会も開催される -
21世紀の新館「平成知新館」
左右対称の重厚な煉瓦造りの明治の宮廷建築の「明治古都館」に対して、高さを合わせ、直線を基調とした開放的でモダンな現代建築に、格子やひさし、すだれなど日本の伝統的な要素も取り入れ、和風な雰囲気も出している -
特別展入り口「北野天神」
「北野天満宮」の祭神「菅原道真」(845-903)の死後から、来年令和9年(2027)に、1125年目の式年大祭「半萬燈祭」(はんまんとうさい;菅公の御神霊を慰めるために25年に一度斎行される)が行われるのを機に、北野天満宮に伝わる国宝、重要文化財50件を中心に、全国各地の天満宮・天神社などに伝わる秘蔵品も一堂に集め、全140件の作品を公開する -
国宝「北野天神縁起絵巻」(美術展ナビよりCOPY)
中でも最大の目玉は、史上初の国宝「北野天神縁起絵巻」全9巻全面公開(会期中5回巻替えあり)で、菅原道真の生涯と死後に神として祀られる様子を描き、北野天満宮の根本縁起として最重要の社宝で、数ある北野天神縁起絵巻の中で最古のもの、内容もさることながら、縦52cm(一般的に30cm)、全長80m(10m)という日本最大級の絵巻にビックリする、これだけでも見る価値充分 -
もうひとつの目玉は「刀剣」(撮影可)
北野天満宮は「刀剣の神様」(武道の神)でもあり、多くの武将や皇室から奉納された刀剣が展示されており、このエリアだけは撮影可になっていて有難い *天神信仰は、時代によって変容し、文学や学問の神から、和歌の神、そして、歌舞伎の出雲阿国が初めて活動拠点にしたことから歌舞伎の発信地ともされる -
文武両道の「菅原道真」
菅公は、学問の神様だけでなく、中世以降は「武道の神」としての側面も持つようになり、多くの武将が甲冑類や刀剣を北野天満宮に奉納したため、国宝や重要文化財を含む約100の名刀を所蔵するという -
「天神信仰と武家文化の結びつき」
多くの刀剣の所蔵は意外であるが、怨霊鎮護や学問の神として祀られた菅原道真は、「武神」としての信仰へと転化し、権威や権力の正当性を得るために足利将軍家の庇護を受け、秀吉は現在の本殿を造営し、北野大茶湯を催すなど武家の文化イベントの場としても活用し、和歌や連歌などは公家文化に通じる武家文化となり、道真公が体現した「和魂漢才」(日本の精神と中国の学問の融合)は、後の家康をはじめとする江戸幕府の政策や武士の教育理念に大きな影響を与えた -
特に、源氏の重宝で「兄弟刀」として知られる(北野天満宮蔵の)「鬼切丸(髭切)」と(大覚寺蔵の)「薄緑(膝丸)」が同一ケースで並んでいるのは超貴重で重要文化財
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「羅城門絵巻」(らじょうもんえまき)江戸時代17世紀
有名な源頼光の鬼(酒呑童子)退治の後日談を描いた絵巻で、頼光に仕えた四天王の一人・渡辺綱が、羅城門に住む大江山の鬼を「膝丸」で、頼光を病にした牛鬼を「髭切」で退治し、それぞれの刀は「鬼丸」「鬼切」と名が改められたという、清和源氏ゆかりの名刀の由来が武勇伝の中で語られている -
羅城門の鬼と「膝丸」で対決(大覚寺蔵)
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「髭切」で牛鬼の手を斬り落とす(北野天満宮蔵)
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「薄緑太刀傳来記」(うすみどりたちでんらいき)(大覚寺蔵)
清和源氏の重宝「薄緑(膝丸)」の由来や歴代の所有者、数奇な伝説を記した由緒書で、源満仲から源義経、曾我兄弟などへの継承物語がまとめられている。平安時代、源満仲が名工に命じて打たせた二振りの太刀のうちの一つ(他は「髭切」)で、罪人を斬った際に膝まで届いたことから「膝丸」と名付けられ、源頼光の代には「蜘蛛切」(くもきり)、源義経の代には、熊野で祈願した際に春の山が芽吹く様子から「薄緑」と改名され、義経から箱根権現に奉納されたのち、源頼朝、曽我兄弟を経て、最終的に旧嵯峨御所である大覚寺に伝来した -
開放的なロビー
正門方面と、その向こうに京都タワーが見える -
「刀剣乱舞ONLINE」という人気のゲームとのコラボレーション
名刀が戦士となった「刀剣男士」に髭切や膝丸などをあしらい、これらを育成して戦うというシミュレーションゲームがあるらしい -
ロビーから正面庭園の噴水と正門
細い柱と雪見障子のようなガラスの窓は、直線的で和モダンな風情で、平成の新館ロビーと、外の明治の煉瓦造りの重厚な建物との対象が素晴らしい -
ロビーから「本館」方面
左手水盤の中に、この建物の工事中に出土した「方広寺」の回廊の礎石跡を示す金属の輪がある -
ロビーから外に出ると、自然石の石垣があるが、これはかつての「方広寺」の石積みの痕跡を再現したものだという
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「馬町十三重石塔」
東大路通馬町から北側一帯の鳥部野(とりべの)と呼ばれた広大な墓地にあった石塔を移築展示したもので、鎌倉時代後期の1295年完成の刻印があり、源義経の家来だった佐藤継信・忠信兄弟の墓と伝えられる -
西側「正門」内側
本館と同時期の明治30年(1897)に建てられ、本館の明治古都館と正門、札売場、袖塀は、国の重要文化財に指定されている -
「正門」外側
本館と意匠を合わせた煉瓦造りで、下部と上部は花崗岩、脇門の左右には銅板製の円形ドームを乗せ、鉄製の門扉がある -
「正門」全体
門柱、門衛所、札売場と左右に伸びる袖塀が一直線に並び、左右対称の安定した中に、尖塔も取り入れた大聖堂的なゴシック様式を融合し、華麗・優美で気品のある風格を醸し出して、素晴らしい -
正門横の石垣は「方広寺」(ほうこうじ)の痕跡
この辺りは、秀吉が1586年に発願した「方広寺大仏殿」の南限にあたり、寺院を取り囲んでいた塀の石垣が残っている -
「方広寺大仏殿復元図」(国立博物館説明パネルより)
ピンクの四角が方広寺境内で、ちょうど「平成知新館」の入り口辺りに「南之門」があり、水盤辺りに「回廊」があった *歴史的経緯を整理すると、1586秀吉が京の大仏発願、1588佛光寺を移転させ、五条大橋を六条坊門に移転、1595方広寺大仏殿建立(初代)、1596大地震で倒壊、1598秀吉死亡、1602秀頼再建中に出火で全焼、1614大仏・大仏殿・梵鐘が完成(2代目)したが鐘銘事件、大坂の陣、1615豊臣家滅亡、1662地震で崩壊、1667江戸幕府により再建(3代目)、1798落雷で全焼、1843妙法院の尽力で再建(4代目)、1870方広寺境内が明治政府に収公される、1871恭明宮建設、1873恭明宮廃止、1895帝国京都博物館開館、1952京都国立博物館に改称、1973大仏火災で焼失、1998発掘調査で法住寺殿、方広寺遺構発見、2014平成知新館開館 -
「洛中洛外図屏風」(国立博物館庭園ガイドより)
安土桃山時代の狩野永徳らが描いたものが100件以上あるが、その内の京都国立博物館所蔵の絵には、「方広寺大仏殿」と「三十三間堂」と、左下に「五条大橋」があり、現在の「国立博物館」はその中間に造られた -
正面には噴水のある「庭園」と本館「明治古都館」
中央「庭園」は、7代目小川治兵衛(1860-1933)の作庭で、美しい芝生と噴水が「明治古都館」を引き立てる *関口鍈太郎(1896-1981)設計との記録もあるから、後日手を入れたと思われる -
中央の円形大噴水は、当初琵琶湖疏水から引いて噴水を設ける計画だったが実現しなかった、現在の噴水は昭和43年(1968)松下電器産業から寄贈されたもの
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「ロダンの考える人」ブロンズ像(本物)
本物は現在世界中に21体あり、そのうち4体が我が国にある(上野、静岡、名古屋、京都)内の1体で、1955年に寄託を受けたもの、寄託の経緯を調べると、(昭和2年)横浜の左右田(そうだ)銀行頭取・左右田金作氏が購入、(昭和10年)生糸相場で巨額の富を得た神戸の松浦卓氏が購入し(昭和30年)京都博物館への寄託 *この時の裏話として宝酒造副会長・大宮正さんの話によると、昭和27年松浦氏は京都博物館に寄託することにし、像の買い取りを求めたが予算が付かず、昭和30年やっと5百万円だけ予算がついたが、希望金額の7百万円には及ばず、その不足分を払ったのが、大宮正さんの祖父「大宮庫吉」(宝酒造を日本有数の酒造会社にした中興の祖)で、この話が漏れて関西大学が1千万円、神戸財界も8百万円を提示してきたが、どうしても京都に残したいとして断ったという -
「国立博物館」庭園
今まで見落としていたが、「西の庭」と「東の庭」と「茶室」も見所の一つ -
「西の庭」は、この辺りで出土した国宝級の石造品や、かつての五条大橋の橋脚や橋桁、石仏などが野外展示されている
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石灯篭(鎌倉時代)舞鶴城址伝来
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キリシタン墓碑(桃山時代)成願寺(右)、安養院(左)で発見
日本のキリスト教徒の迫害が始まった慶長時代(1596-1615)の日付と十字架、洗礼名が刻まれている、江戸時代にほとんどが破壊されたので貴重 -
大日如来像(平安時代)行願寺(革堂)伝来
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「阿弥陀三尊像」(平安時代)伏見で出土、安楽寿院蔵
平安時代の石仏は少なく貴重 -
五条大橋・橋脚と橋桁
天正17年(1589)、豊臣秀吉が方広寺大仏殿に行きやすいように、鴨川の五条に架けた大橋の橋脚、表面に刻まれている「津国御影」の文字から、摂津の御影(現神戸市)から運ばれてきたことが分かる -
三条大橋・橋脚
天正18年(1590)、秀吉の命で日本最初の本格的な石柱橋が出来た -
礎石
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礎石(奈良時代)奈良市出土
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不動明王立像(室町時代)
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家形石棺(古墳時代)瀬戸内市出土
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地蔵菩薩坐像(鎌倉時代)
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方広寺大仏殿・所用鉄輪(江戸時代)
大仏殿は何度か地震や火災で倒壊焼失したが、この鉄輪は江戸時代に再建された時の建築部材で、巨大な建物を支えた太い柱を固定していた -
方広寺大仏殿・敷石(桃山時代)
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東海道・車石
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平安京所用石材(平安時代)丸太町付近出土
建物の基壇などに使われた -
石碑(室町時代)京都市出水付近出土
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複製・金堂八角燈篭(平成時代)
奈良東大寺大仏殿の大仏開眼にあたり752年に造立された国宝・金堂八角燈篭の実物大複製品 -
山城・丹波国境標識示石柱(江戸時代)
京都の西の出入口・老ノ坂峠に置かれ、丹波国亀山(現亀岡)から京都に向かう道路標識 -
「東の庭」へ向かう途中の本館裏建物「文化財保存修理所」
昭和26年(1951)に開設された、博物館だけでなく外部も含めた重要な絵画や書道、彫刻、織物など文化財の保護、修復、複製のための専門的な作業所で、その後X線室や科学的治療スペース、燻蒸室など専門的な設備を備えた修理専用の建物が1980年に新築された -
「技術資料参考館」(登録有形文化財)
昭和5年(1930)、旧恩賜京都博物館陳列品収納用倉庫として、湿度対策のため高台に建てられ、昭和41年(1966)に本館西側に新館が竣工するまで使用された収蔵庫で、現在は通常非公開で、ウェディングフォトや各種イベント・撮影などに貸し出し利用されている -
「方広寺石垣の裏込め」(うらごめ)
石塔や石仏が無造作に並べられているのは、博物館建設時に、石垣の裏側から出土(しゅつど)したもので、方広寺の石垣に「裏込」(うらごめ)という、石不足を補うために周辺の寺院や墓地から集めた墓石や石仏を使ったことを示し、宗教的権威を打ち破るためや、呪い・魔除けの目的もあるようだが、特に信長の築城には多くあるらしく、トランプじゃないが、何でもありの権力者像が垣間見られる -
「東の庭」は、小高い丘の上にあり
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左手に茶室「堪庵」がある
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茶室「堪庵」(たんあん)
昭和32年(1957)の開館60年を記念し翌年、繊維業を営む実業家で茶の湯も好む数寄者「上田堪一郎」(号は堪庵)により寄贈された -
「上田堪一郎」(1906-1994 うえだたんいちろう)
京都南禅寺にある湯豆腐の老舗「南禅寺順正」の創業者で、古美術収集家や茶人、数寄者として知られる、戦後繊維業から転じ、荒廃していた南禅寺境内の建物「順正書院」(1839年江戸末期の蘭学者・医師の「新宮凉庭」が建立)を昭和21年(1946)に購入し、1958年に寄贈、昭和37年(1962)に湯豆腐料理「順正」を開業した *「順正」の関連施設は、清水順正おかべ家、祇園円山かがり火、夢二カフェ五龍閣(大正12年建立の清水焼窯元「松風嘉定」邸宅)などどれも魅力的 -
茶室は、江戸時代初期の京都における公家文化の伝統を受け継いだ「数奇屋造り」の建物で玄関から八畳の広間に入り、正面に広縁、裏に水屋があり、その奥に土間から上がる茶室「堪庵」
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「堪庵」は、大徳寺真珠庵の「庭玉軒」を模したとされ、狭い三畳の茶室ながらゆったりとした空間に感じられる
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前庭は、特に目新しいものはないが、新緑が美しく爽やかな気分になれる
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「堪庵」を出ると「東の庭」が拡がる
江戸時代にあたる朝鮮(李朝)時代(1392-1910)後期に、朝鮮半島の墓地を飾った石人(せきじん)や石獣(せきじゅう)が置かれている -
「李朝墳墓表飾石造遺物」(ふんぼひょうしょくせきぞういぶつ)
(説明板では)朝鮮半島において、墳墓の周辺を石彫品で飾ることは、新羅第三十三代聖徳王(702-736)の時に確立したといわれる。これは中国唐時代の墓制にならったものだが、約百年近く行われたのち、この風習は一旦おとろえ、やがて高麗時代に復活し、李朝時代へとつづいた。石人には文官と武官があって、参道の左右に向かいあって立てられ、時には童子が侍立することもあった。正面に石燈籠、その奥、墳丘に接して魂遊石と呼ばれる方台、墳丘のまわりに玉垣、その外側に虎、羊などがそれぞれ配された。また、左右に立てられた石幢(せきどう)は聖域の標識の意味を示している。この庭園の石造遺品は、李朝時代(1392-1910)の貴人たちの墳墓を飾っていたと思われるもので、広く各地から集められたもののようである。大正初年、大阪山本家の日本式庭園の要所に巧みに配置されていたが、昭和50(1975)年10月同園の廃滅に際し、石幢二対を柱に利用した亭(ちん)とともに同家より一括して当館へ寄贈され、その後も数点の遺品が追加して寄贈された。古くより石彫の本質をよく理解し、また石を深く愛した民族の心を、これらの遺物から読みとることができよう。内容 石人13体、石羊2頭、石燈籠2基、石造六角基台1基、石造方台(魂遊石)8基、石幢2対 山本あや氏寄贈 -
「山本あや氏」とは
大阪の実業家・山本藤助3代目(1903-1964)の長女で、初代は、1896年海運業を開始し、2代目が第一次世界大戦で巨利を得、帝塚山エリアの宅地開発の一環として、1917年帝塚山学院を創立し、衆議院議員にも当選、3代目は同志社を卒業し家業を継ぎ、現在4代目。大阪山本家の邸宅庭園には、大正初年から各地にある墳墓石造物が収集され置かれていたが、昭和50年(1975)に寄贈され、庭園跡地は大阪市に寄贈されて「晴明丘中央公園」となっている -
「石人」(せきじん)は、陵墓の守護や儀礼のために配置された、文人や武人をかたどった石像彫刻で、かぶっている冠(帽子)や衣の模様は役人の官位をあらわすという
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「石獣」(せきじゅう)は、牛、馬、虎など、墓を邪悪なものから守る目的で配置され、とくに「羊」は「祥」(めでたい)に通じるため縁起の良い動物とされ、墓域の外側を守るように置かれる
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「童子石」(侍童)もあり、頭に2つの髷を結い、君主に侍(はべ)る子供や若者の姿をしている
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四角い石の台座は「魂遊石」(こんゆうせき)と呼ばれ、死者の魂がこの石の上で遊ぶという意味を持ち、祭礼の際に供え物を置く台として使われた
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見ごたえのある「北野天神」と、今まで見る機会のなかった東西の「庭園」を堪能、次回の特別展は「源氏物語」10.6~11.29 で、これも面白そう
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博物館を出て、歴史深そうなこの周辺エリアを探索するために、豊国神社・方広寺方面へ
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近くには、豊臣秀吉も立ち寄ったという「わらじや」
江戸初期の1624年創業で、秀吉が方広寺の大仏殿建立の様子を見に来るごとに、いつもこの家で草履を履き替えたという -
(2015/1/16撮影)名物は「うぞうすい」(鰻雑炊)
白焼きの鰻と、牛蒡や人参、椎茸、餅など入って、いろんな味が混ざって微妙な味 -
「甘春堂」(かんしゅんどう)
幕末期1865年創業の老舗和菓子店で、方広寺大仏造営の頃に豊臣秀吉が庭前の古藤を鑑賞されたと伝えられ、「豊国神社」や「旧六条御所」等の御用達でもあった -
左「豊国神社へ是より一丁」(約100m)、右「豊国廟参道口へ是より一丁」
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「太閤石垣」(たいこういしがき)
博物館の正門側、大和大路通に沿って豊国神社、方広寺大仏殿へ、大きな石垣だけが残されている、大仏造営するにあたり諸大名が競い合って自慢の石を持ち寄ったという -
「大仏殿石垣」は、往時の権威を示し派手好みの秀吉らしい巨石で、奥行きは浅いが大きな面を表面にそろえて、さらに大きく見せるようにして見栄え重視なのだが、大仏殿が崩壊してもこれだけは残っているのは凄い!
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五輪塔「耳塚(鼻塚)」(みみづか・はなづか)
豊臣秀吉による「朝鮮出兵」(文禄・慶長の役)で、老若男女問わず虐殺し、戦功の証に被害者達の耳や鼻をそぎ落とし、持ち帰ってこの地に埋め供養されたが、江戸時代になって五輪塔が建てられ、1898年の秀吉三百年忌に「耳塚供養碑」が建立され、さらに1915年、歌舞伎役者の片岡仁左衛門や著名な芸能人たちの寄付により現在の石柵などが整備された *当初は「鼻塚」と呼ばれたが、あまりにもムゴいため「耳塚」に改められたという -
「朝鮮出兵」文禄・慶長の役(1592-1598)
これは、秀吉の功罪と、今に引きずる日韓関係に影響する出来事として象徴となる歴史的遺産で、秀吉の強権政治は太閤検地や洛中改造など天下統一の功績はある一方で、過度な粛清や無謀な海外進出を企てた朝鮮出兵があり、晩年には嫡男・鶴松の急逝もあって、野望むき出しの悲惨な生涯で終わった、また古代「神功皇后の三韓征伐」と「秀吉の朝鮮征伐」は、その後1910年から続いた「日韓併合」の一因ともなり、1965年の「日韓基本条約」締結でもいまだにわだかまりが残ったままになっているのは、この「耳塚(鼻塚)」が原因かもしれない *一方で、この戦争は「やきもの戦争」とも言われ、多くの陶工が日本に連れて来られ、沈寿官の薩摩焼、李参平の有田焼や唐津焼、萩焼などの陶工技術や朱子学など技術、文化の発展をもたらすという側面もあった -
「豊国神社」(とよくにじんじゃ)通称ほうこくじんじゃ
豊臣秀吉(1536-1598)は、1582年信長の死、1583年大阪城築城、1585年関白就任、1586年方広寺大仏殿発願、1587年聚楽第構築、1591年太閤宣言、嫡男・鶴松急逝、1592朝鮮出兵、1594年伏見城築城、1596年聚楽第破壊、1597年二度目の朝鮮出兵、1598年死亡、翌年1599年阿弥陀ヶ峰に「豊国廟、豊国神社」が創建され、その後家康の命で幕府に没収されそのまま放置されるが、明治になって1880年現在の方広寺境内であった場所に再建された -
「大仏正面通」
大和大路通に沿って建つ鳥居の前から西へ真っ直ぐ伸びているのが「正面通」で、これは「方広寺大仏殿」正面から、同時期に建てられた西本願寺の阿弥陀堂・御影堂も鴨川を挟み一直線上になっている、しかし、その後徳川家康は1602年に東本願寺を建て、1614年方広寺、1615年祥雲禅寺(後の智積院)、1619年豊国廟・豊国神社を次々と破却し、1641年には渉成苑を造り、現在の「正面通」は渉成園、東本願寺、西本願寺の広大な境内で寸断されている -
「豊国神社」(とよくにじんじゃ)
1598年秀吉が61歳で亡くなり、東山の阿弥陀ヶ峰の山頂に葬られ、その中腹に秀吉を神様として祀る神社が創建されたが、その時2度目の朝鮮出兵中で秀吉の死は伏せられていたため、当初は大仏の鎮守社と呼ばれ、死が明らかになって「新八幡社」と呼ばれ、後陽成天皇から豊国大明神の神号が与えられ「豊国神社」となった -
「豊国神社」の再興は当初、大坂城に予定されていたが、京都市民の熱心な訴えがあって、京都に本社、大阪には別社が建てられることになり、秀吉に縁のある名古屋、長浜も含め「豊国四社」と呼ばれる *秀吉を神様として祀る神社であり、応仁の乱以来荒れ果てた都を天正地割(てんしょうじわり)や御土居(おどい)など「洛中大改造」で再生した実行力は凄いと思うが、一方でその強引なやり方については、今の京都住民には賛否両論ある
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「豊国神社」の社殿は家康により取り壊され、明治13年(1880)に再興されたものだが、「唐門」(からもん)は、1619年廃城になった伏見城の遺構で(廃城になってから二条城に移築され、さらに金地院に移築されていたものを移築)、西本願寺、大徳寺の唐門とともに「国宝三唐門」の一つ
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隣接する「方広寺」(ほうこうじ)
現在「豊国神社」がある場所は、秀吉が大仏を安置する寺として創建した「方広寺」の境内で、1586年に焼損した東大寺大仏に代わる大仏を造るために、親鸞創建の「仏光寺」があった広大な敷地(現在の場所から三十三間堂まで)に、1588年から1595年までに完成した、当時は「大仏殿」と呼ばれ、横幅は奈良の58mに対して88m、大仏の高さは15mに対して19mという圧倒的な大きさだった(鎌倉大仏の高さは11m) -
「方広寺の鐘楼」(本殿は右手)
「方広寺大仏殿」は完成翌年の1596年、大地震によって倒壊、秀吉は再建を行わないまま1598年に死去し、息子の秀頼が再建し、完成の落慶供養が1614年に行われる予定だったが、「鐘銘事件」で徳川方から横やりが入って中止、1615年大坂夏の陣で豊臣家滅亡し神社は幕府に没収された -
豊臣家を滅ぼした「方広寺鐘銘事件」
梵鐘は、日本三大名鐘の一つと言われる重要文化財で、知恩院70トン、東大寺26トンに比べても83トンと日本最大級の大きさを誇り、豊臣家滅亡の引き金になったことで有名で、鐘に刻まれた銘文が、「国家安康・君臣豊楽」(こっかあんこう・くんしんほうらく)と刻まれており、これを「家康」の2文字を分断したことが徳川家の滅亡を表し、「豊臣」を「君」(君主)とすれば「楽」しいという意味にとり、家康は憤慨し、これを許す代わりに豊臣家が徳川家に臣従するよう、秀頼を江戸に参勤させるか、淀殿(茶々)を人質にするか、秀頼が大坂城を退去するかのどれかを選ぶよう提案したがこれを拒絶し、1614年大坂冬の陣が勃発し、1615年豊臣家は滅亡した -
「大仏殿跡緑地公園」(だいぶつでんあと)
平成12年(2000)の発掘調査で、台座や柱跡などの遺構が見つかり「大仏殿」の正確な位置が判明し、大仏殿跡の遺構は地下に保存され、ここは緑地公園となった (駒札)1585年関白に就任した秀吉は奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東福寺の近くで工事を始めたが途中で六波羅のこの地に変更し1595年完成したが、翌年の大地震で大破し1598年には秀吉死亡、その後秀頼が木製から金銅に変えて大仏の復興を行い1612年完成、しかしその後梵鐘の銘文が徳川家を呪詛(じゅそ)するものとして家康が怒り大坂の陣が起こり豊臣家が滅亡したが、その後の徳川家でも大仏殿は維持され1798年落雷で炎上するまで「京の大仏つぁん」として親しまれた -
「方広寺石垣の裏込め」
石垣に沿って進んでいくと、「方広寺」の北限と思われる石垣と民家の間に狭い路地があり、石垣の中に「裏込め」らしき石仏が祀られている -
(東大路通・渋谷通)「馬町」(うままち)
「東大路通」は東山を通る主要幹線、「渋谷通」は、古くから平安京と東国を結ぶ重要な幹線道路として利用された「渋谷街道」(しぶたにかいどう)で、特に鎌倉幕府の六波羅探題が設置されてから重要性が高まり、源頼朝や義経も往来したとされ、この交差点の「馬町」は、鎌倉に行く馬の駐留場所が置かれたことに由来しているという -
「フォーシーズンズホテル京都」
平安時代の数少ない池泉回遊式の名庭「積翠園」(しゃくすいえん)を持つホテルで、平清盛の長男・平重盛(1138-1179)の邸宅「小松殿」の跡地が、平家都落ちで焼き払われ、江戸時代に「妙法院」の境内となり、明治の廃仏毀釈から衰微し庭園積翆園の大部分を売却し、昭和29年(1954)に日本専売公社がこの地を買収し「京都専売病院」になり、平成17年(2005)「武田病院」を経て平成28年(2016)に「フォーシーズンホテル」に売却された *平安時代の数少ない庭園は、宇治・平等院、平泉・毛越寺(もうつうじ)、木津川・浄瑠璃寺、大覚寺大沢池・名古曽滝 -
「妙法院門跡」(みょうほういんもんぜき)左手がホテル
あまり知名度は高くはないが、天台宗の代表的な門跡寺院で、方広寺や三十三間堂を管轄下に持ち、国宝や国重要文化財を多数保有する -
「妙法院門跡」通用門
平安末期の1160年、後白河法皇が「法住寺殿」で院政を始めるにあたり御所の鎮守社として「新日吉神宮」(いまひえじんぐう)を勧請した際に、比叡山延暦寺の里坊であった妙法院の僧を任命し移転させたのが始まり -
「妙法院寺務所」
歴代門主は、後白河法皇はじめ皇族が出家して住職になった「法親王」(ほっしんのう)が続き、鎌倉時代には青蓮院、三千院と共に、最澄が建てた比叡山延暦寺の門跡寺院の中でも特に格式が高いとされる天台三門跡の一つになったが、応仁の乱で全焼した後、秀吉により復興され、豊臣家滅亡後は、家康により方広寺大仏殿、三十三間堂、新日吉神社を直轄する寺院となった -
秀吉が1595年方広寺大仏殿を造営する際、経典を保管する経堂(きょうどう)として大仏殿境内に再興され、桃山期らしいスケールの大きな建物が建ち並ぶ、通常非公開だが通用門が開いていたので、工事中の「庫裏」や、「玄関」「唐門」「宸殿」「本堂」「庭園」「七卿落碑」の外観だけは見ることが出来た
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「庫裡(くり)」国宝
建物の中でも一際目を引くのは「表門」正面の巨大建築物で、秀吉が方広寺大仏の開眼と、自身の祖父母を供養するために千僧供養を催した際に、千人分の僧侶たちの食事を作るための台所として建てられた -
「庫裏」の煙出し
寺の台所でありながら唐破風(からはふ)の玄関があり、屋根の上には排煙口としての小屋根が乗って、火の見櫓と監視用も兼ね、まるで要塞のような造りをしている -
現在、改修補強工事中(令和2年から来年の令和9年まで)
1595年の建立で400年の年月を経て、前回の大規模修理から100年余りたち老朽化が目立ってきたため、2020年から7年がかりの半解体修理に取り組んでおり、内部は見れないが、千人の僧侶を迎え入れる為に約80畳の広間には柱が一本もなく、豪華な入母屋造の巨大な屋根を支えるため、内部には太い梁が縦横に組まれている吹き抜けのこの大建築は、桃山時代の豪快な雰囲気を今に伝えているという -
この「妙法院の庫裏」は、数ある京都の庫裏の中でも二条城二の丸御殿と大徳寺の庫裏に次いで規模の大きいもので、宮城の瑞巖寺(ずいがんじ)と共に日本で2つだけの国宝になっており、つい最近の2022年には地中から「竈」(かまど)の跡が見つかっている
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「修理工事の流れ」の説明写真と、下の方には改修で撤去された大きな梁がある
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「大玄関」
1620年、後水尾天皇の中宮で、徳川2代将軍秀忠の娘・東福門院和子(とうふくもんいんまさこ)が入内時に、京都御所に造営された殿舎を移築したもので、唐破風(からはふ)屋根が設けられ、狩野派の絵師が描いた障壁画もあり、重要文化財に指定されている -
「唐門」
1730年建立の、桜町天皇下賜と伝わる勅使門で、何故か「唐門」様式ではなく、切妻造、桧葺の「平入り四脚門(しきゃくもん)」となっているが、格式が高いことに違いはない -
東大路通沿いからの「唐門」
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庭園入り口
庫裏、玄関の前を過ぎると庭園に入る -
「七卿落碑」(しちきょうおちひ)
「妙法院」に残るもう一つの歴史は、幕末の1863年、会津・薩摩両藩士の公武合体派と対立する尊皇攘夷派の三条実美(さねとみ)ら公卿7名(七公卿)が、妙法院で対応を協議し、再起を図るため長州藩兵とともに一旦長州に逃れた「七卿落ち」の舞台となった場所で、この碑は大正時代に建立されている。この3年後の1866年に薩長連合が成立し、その翌年に大政奉還が行なわれたが、のちに三条実美は赦免、復権が認められ、明治政府の太政大臣まで勤めている -
「宸殿」(しんでん)
門跡寺院の建物の中でも、重要行事を執り行う中心的な堂宇で、宸殿の中央には、阿弥陀如来像がお祀りされ、仏間には鎌倉時代からの歴代天皇・皇后・中宮の位牌が祀られ、いかに皇族と結びつきが強かったかを示す、現在の宸殿は明治31年(1898)に再建された建物で、七公卿会議は再建前の建物で開かれた -
「大書院」は、この裏手にあり、1619年に後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の中宮・東福門院(とうふくもんいん)の御殿を移築した建物で、狩野光信作と伝わる「唐美人図」や「四季花鳥図」が描かれた豪華絢爛な襖絵で彩られた豪華絢爛な空間が広がっている
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本堂「普賢堂」(ふげんどう)
平安後期の1799年に建立されたと言われ、二層の宝形造(ほうぎょうづくり)の屋根と、扉の左右に花頭窓(かとうまど)があるコンパクトな建物はあか抜けて洒落た感じで、内部は見れないが、注目の象の上に乗った本尊「普賢菩薩騎象像」(ふげんぼさつきぞうぞう)と、その頭上に描かれている龍の眼差しの構図は素晴らしいと言うので、是非見てみたい -
「庭園」は、内に入れないので、部分的にしか見れないが、桃山時代に作られたとされる池泉庭園が南北に細長く続き、白書院の前には枯山水の庭園もあり、奥書院(御座之間)の奥庭は、現在は隣のホテルに隣接していた名勝「積翠園」の名残りと思われる
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伏見城からそのまま移したと伝わる庭園で、ここからは分からないが、池の形は千成瓢箪の形になっているという
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帰り口にあった存在感ある「蘇鉄」は、「日泰寺造営記念樹 」で、(駒札)には「タイ国王から贈られたお釈迦様の遺骨が当院に奉祠の後、安置するため、明治36年(1903)に日泰寺が創建されたのを記念して、超宗派の宗教振興の象徴として植樹された」と書かれてある
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東山七条「女坂」(おんなざか)
国立博物館の東大路通側から、妙法院と智積院の間を東山阿弥陀ヶ峰へ延びていく坂道で、いつから「女坂」と呼ばれるようになったかは不明だが、京都女子学園の創立70周年(1969年)には、この名前が現れているという -
「京都女子学園」は、幼稚園から小・中・高・大学・院まで揃った法人学園で、職員も含めて1万人規模の学生数になり、毎日この坂道が通学路になっている、背後は5本線の入った門跡寺院「妙法院」の築地塀
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「鳥辺野」(とりべの)
(説明板)「阿弥陀ヶ峰(鳥辺山)東山山麓から鴨川にかけて五条坂付近から今熊野付近までのエリアで、多くの皇族・貴族が、源氏物語では夕顔や葵上もここで荼毘に付されており、近年の発掘調査では、五条通北側で平安中期の石製笠塔婆が出土した」*京都には嵐山の化野(あだしの)、船岡山の紫野(むらさきの)を入れた「三大葬送地」があり、「化野」は一般庶民、「鳥辺野」は裕福な人たちの風葬地、「紫野」は皇族の葬送地となっていて、千本通り沿道には数多くの卒塔婆が並んでいた。また旧五条通の松原通は鳥辺野への幹線道路で、「六道の辻」は鳥辺野の入り口にあたり、この辻より北が現世、南があの世(鳥辺野)とされ、「六道珍皇寺」には小野篁が冥土に通ったという伝説の井戸がある -
「豊国廟」(ほうこくびょう)参道
豊臣秀吉の死後作られた「豊国廟」は、正面に見える「一の鳥居」の先にある「太閤坦」(たいこうだいら)にあったが、家康によって破却された後、明治8年(1898)阿弥陀ヶ峰麓に再興された、参道石標は明治34年(1901)建立のもの -
坂道を挟んで右側に「智積院」北門がある
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「智積院」(ちしゃくいん)
豊臣秀吉が53歳にして初めて茶々(淀君)の間に「鶴松」が誕生し、待望の後継者だったが 3歳で亡くなり、菩提寺として1593年建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ)を、家康は1600年関ヶ原の戦い後没収し、紀州の根来寺(ねごろじ)に与え、同時に破却した豊国神社跡地に「智積院」を建立し、1615年豊臣家滅亡後には寺域も拡充し、学僧が仏教を学ぶ教学道場として、全国3000余の末寺を有する真言宗智山派の総本山となった -
工事中の「京都女子中学校・高校」正門
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「豊国廟一の鳥居」
女坂を上りきった所にあり、明治になってから豊国廟再建にともない、明治31年(1898)塞がっていた参道を開けるために、新日吉神社は参道南の現在地に移転され、新たにこの鳥居が建てられた、参道背後には豊国廟のある「阿弥陀ケ峯」が見える、石燈籠の火袋に豊臣家の家紋・五七桐の家紋がある(新日吉神宮の神紋は、皇室の「菊」と徳川家の「葵」が組み合わさったデザイン) -
その右手に「新日吉神宮」
幟を見ると(いまひえじんぐう)のフリガナがある、これは「日吉(ひえ)の神」を祀る「日吉大社」より勧請したことから、「新しい日吉」という意味で(いまひえ)という読みになったそうで、同時に創建した「新熊野神社」も新しい熊野で(いまくまの)と呼ばれる *「日吉大社」は、日吉神社(ひえじんじゃ)、日枝山(ひえのやま)、山王(さんのう)さんとも呼ばれ、全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮 -
新日吉神宮「鳥居」
新日吉神宮は、当初は法住寺内の智積院南側に創建されたが、江戸時代に廃絶された豊国社と豊国廟の参道を塞ぐ形で参道上に再建され、明治になって1897年豊国廟再興の際に整備され、参道上から現在の「豊国廟一の鳥居」の横に移転した -
新日吉神宮「楼門」
「新日吉」の扁額と「後白河天皇日吉山王七社合祀 新日吉神宮」が掲げられ、両翼に青緑の連子窓が連なり、阿吽の随身像も安置される色鮮やかな八脚門は、さすがの気品と風格を醸し出しており、銭形平次のロケなどにもたびたび使われたという -
新日吉神宮「拝殿」
新日吉神宮は1160年、後白河法皇(1127-1192)が院の御所「法住寺殿」の鎮守社として「今熊野神社」とともに、比叡山を守る「日吉大社」の「日吉の神」日吉山王七神を勧請したのが始まりで、法皇もたびたび参詣したという -
現在の社殿群は、江戸時代以降に整備され、楼門、拝殿、本殿と、境内社の樹下社、愛宕秋葉社、飛梅天満宮が建つ
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狛犬ならぬ「狛猿」(こまざる)
日吉大社の神使(しんし)は「猿」で、狛犬の代わりに「狛猿」を置いているところも少なくなく、新日吉神宮も阿吽の「狛猿」が社を守っており、向かって右が口を開いた阿形(あぎょう)の狛猿で、烏帽子をかぶり鈴と扇を持ち、左は口を閉じた吽行(うんぎょう)で、御幣を抱えている、また金網で囲まれているのは、夜に猿が動き出したことがあったので封じ込めているらしい *烏帽子は格式高い姿、鈴と扇は神楽の道具、御幣は邪気を祓う道具で、神事や祈祷を行う姿を表している -
新日吉神宮「本殿」
主祭神は、日吉山王七神と後白河法皇で、社殿は、江戸時代の1615年豊臣家滅亡後、豊国廟の参道を塞ぐ形で移転再興され、1868年明治の神仏分離令にしたがい妙法院から独立し、1897年豊国廟再建にともない、参道上から現在の場所に移転した、「本殿」は、江戸後期1835年改造したもので、その後1959年、祭神に後白河法皇の神霊が法住寺陵より遷し合祀されたことで、社名が「新日吉神社」から「新日吉神宮」になった -
来年2027年令和9年は、後白河天皇ご生誕900年祭、令和10年は、後白河天皇合祀70年祭、令和11年は、新日吉神宮ご創建870年祭 になるという
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「大黒様と真猿」(まさる)
「大黒様」は、国造りを行った神として出雲大社の主祭神で、大己貴命(おおなむちのみこと)、 大国主神(おおくにぬしのかみ)とも呼ばれ、縁結び、商売繁盛の神様、「真猿」は、神の使者で、悪気・災厄を去る(猿)力があり、「魔が去る」や「勝る(まさる)」に通じることから、魔除けや勝運のご利益があるが、何故かこれも檻に入っている
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本殿上部にも「真猿」(まさる)
本殿欄間に、鈴と御幣を持つ猿が彫られていて、これを見るための望遠鏡も備えられている *京都御所の北東角の築地塀は「猿が辻」と言われ、鬼門にあたるため、日吉山王社の神のお使いの猿を祀っている -
望遠鏡で見たが、よく分らなかった
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この先に、二つの境内社と「ご神木」がある
左が「樹下社」で現在は豊国神社と改称、右が「愛宕秋葉社」 -
「樹下社」(このもとのやしろ)現在は豊国神社
秀吉をひそかに祀る社として1785年に創建され、陰の「豊国神社」となっており、(説明文では)「このもと(樹下大神)を木下藤吉郎の姓に通じさせて豊臣秀吉公を江戸期より祀り続けております。江戸幕府に廃祀された豊国大明神の御霊代を護る為に創始された神社」で、1598年秀吉の死後、遺体は阿弥陀ヶ峰「豊国廟社」に埋葬されたが、1615年豊臣家滅亡後、家康の命で廟社が破壊されてからは妙法院で密かに祀られた後、江戸時代の中頃からは新日吉社で祀られ、1785年に新たに日吉大社の樹下宮(じゅげぐう)より樹下大神を勧請し「樹下社」が創建された -
「愛宕秋葉社」
火乃用心のため、1160年に後白河上皇により創建され、火の神・迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を祀る -
「ご神木・スダジイ」
シイの実がなるブナ科の常緑広葉樹で、江戸時代以前からここにあり樹齢500年~800年といわれている -
本殿左の境内社「飛梅天満宮」(とびうめ)
愛宕秋葉社と同様、1160年に後白河上皇が、菅原道真と飛梅の霊を祀り創建、学業成就のご利益がある -
楼門手前の境内社「山口稲荷神社」
江戸時代の創建で、ご祭神は 素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子供・宇迦之御霊神(うかのみたまのかみ)で、商売繁盛のご利益がある -
「京都市午砲(ごほう)跡」
境内には、明治初期から毎日、空砲で正午を知らせていた歴史遺産が残されている、「午砲」とは、市民に正確な時間を知らせるために撃たれた大砲のことで、明治3年(1870)に全国各地で導入され、京都市内ではココ新日吉神宮境内に設置され、市民はこれを聞いて時計の針を合わせていた -
「京都女子学園」
幼稚園から大学院まで、約1万人の学生数を有する西本願寺系の女子校で、西本願寺の教育機関から1639年創立した龍谷大学をはじめとする龍谷学園に入る *東本願寺系は大谷大学、知恩院系は佛教大学、妙心寺系は花園大学 -
京都女子学園建学記念館「錦華殿」(きんかでん)
明治31年(1898)、西本願寺第22代門主・大谷光瑞(おおたに こうずい 1876-1948)の婚礼に伴う新居として建てられたフランス様式の洋館で、大正9年(1920)に京都女子学園に移築されたが、昭和56年(1981)老朽化のため解体され、平成12年(2000)創立90周年建学記念館として復元再建された -
「京都女子大学」
明治32年(1899)に西本願寺門前の小さな私塾からスタートし、1910年京都高等女学校として旧本圀寺内に移転、1914年本部がある現在地に移転し、1920年京都女子高等専門学校、1947・48年中高開校、1949年(昭和24年)京都女子大学に昇格にあたり現在地周辺の松林を取得して新校舎を建設し、1957年小学校開校を経て敷地整備が進み、2010年から大規模なキャンパス整備計画が始動し、現在も進行中 -
「京女」の先に、豊国廟(ほうこくびょう)の鳥居と石段がある
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「豊国廟・二の鳥居」
「豊国廟」は1598年豊臣秀吉の死後、阿弥陀ヶ峰「豊国廟社」に埋葬され、1615年豊臣家滅亡後に破壊されてからは妙法院で密かに祀られ、江戸時代の中頃からは新日吉社の「樹下社」で祀られていたが、明治になって1898年秀吉没後300年忌に合わせて整備され、一の鳥居とともに建立された -
「太閤坦」(たいこうだいら)
1598年に亡くなった秀吉は、遺言により阿弥陀ヶ峰の山頂に埋葬され、秀吉を祀る「豊国社」を作るため、中腹に「太閤坦」と呼ばれる平地を切り開き、豪華な社殿や廟所を建立し、かつて、ここには「豊国廟」の他に秀吉を祀る壮麗な「豊国社」もあった -
正面が「拝殿」
秀吉の死は当初、2度目の朝鮮出兵中であったため伏せられていたので「大仏の鎮守社」とされていたが、翌1599年遺言によって阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、豊臣秀頼が社領4万石を寄進して境内の整備を進め、家康も一万石の社領を寄進し、当時の敷地は山上から山腹、現在の智積院や妙法院の境内まで及んだという -
「豊国社の創建」(拝殿と手前は社務所)
1600年太閤坦に社殿が完成し、秀吉に「豊国乃大明神」の神号が授けられ「豊国社」が創建され、遷宮の儀には徳川家康や毛利輝元も参詣、その後も、勅使や諸大名の参詣が絶えず、関ヶ原の戦いで西軍が敗北しても秀吉の七回忌祭では見物人の列が三条大橋、五条大橋まで連なったといわれる -
「豊国廟と豊国社の破却」
しかし、1615年大坂の陣で豊臣家が滅びると、徳川幕府は参道に新日吉神宮を移築し参拝できないようにし、豊国廟と豊国社は破却されることになり、豊国大明神の神号は奪われ、放置され続けた -
「豊国神社の復興と太閤坦の整備」
徳川幕府が倒れ明治になると、政府は天皇を尊崇しながら幕府を開かなかった秀吉を、天皇中心の中央集権国家の正当性を強調するために高く評価し、1868年新日吉神社の神楽殿を仮社殿として豊国社を再建し、1880年方広寺大仏殿旧地に豊国神社が創建され、1890年(明治23年)秀吉配下の子孫らによって豊国会が結成され、太閤坦に豊国廟の修復整備が進められた -
「豊国廟の再建」
1898年秀吉300年忌を記念して、豊国会を中心に全国有志からの寄付金により、阿弥陀ヶ峰山頂に巨大な石造五輪塔が建てられ廟宇が再建された、拝殿の南に「豊太閤三百年祭記念碑」があり、「現在世界の列国は武を競い民の奮起が必要で、このために秀吉公の偉勲を顕彰する」というような内容が書かれているらしく、当時の日本の置かれた情勢が分かる -
「豊国廟」(ほうこくびょう) 駒札
豊臣秀吉の廟所である。天下統一を果たした秀吉は、慶長3年(1598)8月18日、伏見城で63歳の生涯を閉じ、遺骸は遺命により、ここ阿弥陀ヶ峰に葬られた。翌年4月18日、秀吉は後陽成天皇から正一位豊国大明神の神位・神号を賜り、山腹には境内域三十万坪、社領一万石を誇る壮麗な豊国社が創建された。以後、毎年4月と8月の18日には勅使や北政所、豊臣秀頼の名代を迎え、盛大な祭礼(豊国祭)が執り行われたが、慶長20年(1615)豊臣家が滅びると、幕府は豊国社の廃祀を命じ、以後は墓参する人もなくなった。現在の廟は明治31年(1898)、豊太閤三百年祭に際し、豊国会により全国からの募金で整備されたもので、そのとき墳上に高さ約十メートルの巨大な五輪石塔(伊東忠太設計)が建てられた。なお、豊国神社は明治13年(1880)、方広寺大仏殿跡の地に豊国神社として再興されている。京都市 -
「豊臣秀頼の子・国松丸と、秀吉側室・松丸殿の五輪塔」
左の小さい方が大坂夏の陣でわずか8歳で処刑された秀頼の次男・国松丸の五輪塔、右が秀吉の側室・松丸殿の五輪塔で、松丸殿は京極高吉の娘で誓願寺を菩提寺としていたため、明治37年(1904)誓願寺から豊国廟に遷された、 -
「豊国廟登拝券」(重複するが説明文は)
豊国廟は慶長3年(1598)伏見城にて死去された太閤秀吉公の墓所です。御遺骸は遺命によりこの阿弥陀ケ峰に葬られ、山腹には正一位豊国大明神として秀吉公を祀る壮麗壮大な豊国社が創建されました。しかし豊臣家滅亡後、幕府の命により豊国社廃祀され、御廟も虚しく叢(そう)に埋もれてしまいました。幕府崩壊後、明治天皇のご沙汰で方広寺大仏殿跡地に神社は再興されました。現在の御廟は明治31年豊太閤300年祭にあたり、豊国会の手により全国の浄財を集めて造営されたものです。正面の階段489段、五輪塔(御墳墓)高さ10m 豊国神社社務所 -
「豊国廟まで500段」
阿弥陀ヶ峰山頂の「豊国廟」の標高は196m、「太閤坦」から約100mの標高差を489段の石段で上り下りする *ちなみに「金刀比さん」の本宮までの石段は785段、標高差180m -
「最初の踊り場」
拝殿からは489段だが、二の鳥居下からは563段あり、ここは最初の62段目の踊り場で、既に息切れ状態 -
「62段ごとの踊り場は豊臣秀吉の享年と同じ数」
途中までの踊り場は62段ごとに5ヶ所あり、これは豊臣秀吉(1537-1598)が生涯を終えた年齢の享年62歳に因むとのこと -
「313段目に中門の広場」
313段上ったところの5つ目の踊り場は、広い平地になっており、ちょうど中間地点の目安となる地点に中門がある -
「中門」(唐門)
優美な唐破風(からはふ)の屋根を持つ豪華な門で、静寂な森の中には異様な光景だが、神秘な空気を漂わす、当初はこの辺りに秀吉の墓があったという説もある -
「門扉には豊臣家の家紋」
門扉には、秀吉が天皇から賜り自らの権力の象徴として使用した「五七の桐」が見える、その先には、ちょうど光明が見えて、天国への階段のようにも見える -
「頂上まで172段」
「中門」から先には、まだ172段の石段が続く -
「間もなく山頂」
振り返ると、唐門がかすかに見えるが、前の313段の階段と比べると、明らかに勾配が急で、階段の幅が狭く、段差も高いので、高齢者にはキツ過ぎる -
「山頂でカラスがお出迎え」
拝殿から313段、中門4段、山頂まで172段、合計489段を15分で登り切った! そこには何と、秀吉の化身のごとく、カラスが待ち受けていた
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「豊国廟五輪塔」
明治30年(1897)豊太閤三百年祭に建てられたもので、高さ10m、総重量47トンの立派な五輪塔は、日本最大の五輪塔らしい -
「設計は日本建築の第一人者・伊東忠太」氏
「伊東忠太」(いとうちゅうた1867-1954) は、明治から昭和期の建築家で、橿原神宮1890、平安神宮1895、明治神宮1920、祇園閣1927、靖国神社1930、築地本願寺1934、湯島聖堂1934などの設計者として知られる -
「豊国廟五輪塔」(南側)
五輪塔工事の際、土中から直径約1mの素焼きの壷に入った、秀吉のものと思われるミイラ化した遺骸が発見され、丁重に再埋葬され、1本の歯だけが豊国神社の宝物館に残されているという -
「豊国廟五輪塔」(東側)
秀吉は今なお阿弥陀ヶ峰山頂から京都の町を見守っていることになるが、豊臣家と徳川家との対立や、それをまた封じ込めた明治政府の思惑が残っていて、京都で繰り返された歴史の変遷が見えて面白い -
「京都市街が見える絶景スポット」
北側だけが開いて絶景が広がっていて、京都の現在の姿が見える -
「清水寺と三重塔」
清水の舞台にはたくさんの観光客がいるのが見える、清水寺の創建は778年、堂宇は坂上田村麻呂の建立で、現在の建物は1633年徳川3代家光により再建された、徳川時代に再建された仏閣は、知恩院、東寺、二条城、南禅寺など多い -
下りはゆっくり10分足らずで下りたが、久しぶりの階段はキツかった!
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再び「京女」に戻り、新日吉神宮の裏手との間を左折して南下する
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「安養院墓地」
この辺りは「鳥辺野」だけに、墓地が多い -
地蔵山墓地のところに「陶芸塚」
(碑文によると)この辺りは鳥辺郷と称したが、1160年後白河院が平清盛に命じて造った新熊野神社に因み新熊野村(現今熊野)と呼ばれた。平安京造営時には瓦が焼かれ、東本願寺の明治大改修では瓦を拭く粘土を産出する等、古来から焼物の村でもあった。大正2年、京式登り窯が築かれ、現在の陶業の礎となった。以来数多くの陶工やこれを支えた人々の誇りと情熱で魂を吹き込まれ生命を与えられた数限りない京焼・清水焼、その先人の足跡とこの地の発展を願い、この碑を建立するものである。 -
智積院沿いの「日吉街道」(日吉南通)
東大路通から智積院境内の南側に沿って今熊野日吉エリアを東へ向かい、途中で「滑石街道」(すべりいしかいどう)と合流し、大石神社のある山科方面へ山越えする -
東海道線沿いの通りを歩いてくると、東大路通に出る
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「滑石街道」(すべりいしかいどう)
1本南側の通りは、東大路通・今熊野交差点から東へ向かい、途中で「日吉街道」と合流して、山越えして山科方面へ向かう「滑石街道」で、滑石(すべりいし)とは、山科の「大石神社」辺りに閉居していた大石内蔵助が、山科から祇園に通う際に足を滑らしたと伝わる石があることに由来するという -
「今熊野」と「新熊野」
「新熊野神社」は、京の新しい、今の熊野という意味で「新熊野」と書き、当初より「新熊野」と「今熊野」の両方が混在したというが、1871年の「今熊野村」の成立から、境内周辺の地名は「今熊野」と統一されているという -
「新熊野神社」(いまくまのじんじゃ)
後白河上皇が「法住寺殿」を設けて院政を始めたとき、御所の鎮守社として「新日吉神社」(いまひえ)と共に、紀州熊野の神を勧請して創建し、同時に紀州まで行かずとも「熊野三山」詣が出来るように、これを本宮大社とし、「熊野若王子神社」を那智大社、「熊野神社」(下御霊神社)を速玉大社とする「京都三熊野」(みくまの)を具現化した -
(2024/01/18撮影)「京の熊野古道」熊野三山御利益巡り
本殿の裏に「京の熊野古道」があり、紀州の熊野三山を参拝したのと同じご利益を、わずか10分で得られる。「熊野三山巡り」は、「熊野十二所権現」と言われる熊野の神々詣を、「熊野九十九王子」と呼ばれる神のお使いに導かれながら巡礼することで、この全ての要素をコンパクトにまとめているので分かり易い *ちなみに2024/01/にココを見た後、2025/03に実際の世界遺産「熊野古道」に行ったのでご参考まで→https://4travel.jp/travelogue/11968555 -
(2024/01/18撮影)「熊野曼荼羅」(くまのまんだら)
熊野の「熊野本宮八葉曼荼羅」を基に作成されたもので、四角の外枠を俗世界とを分ける結界(けっかい)とする「神の世界」を描き、中央に熊野本宮の主神がいて、その周辺に「熊野十二所権現」と呼ばれる主神を含む三柱の神、五柱の王子神、四柱の明神や、熊野諸王子などがいて、これを空中に浮かせて神が空間を超えて存在していることを示し、前から覗けば「永遠の過去」が、後ろから覗けば「永久の未来」が見通せるようになっている、というがよく分らん -
「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)
熊野は「神仏習合」の発祥の地で、姿形のない神に仏を当てはめて、仏で神の世界を描くことができるようにし、熊野本宮大社の主神はスサノオノミコト・本地仏は阿弥陀如来(来世の救済)、熊野那智大社はイザナミノミコト・千手観音菩薩(現世の利益)、熊野速玉大社はイザナギノミコト・薬師如来(過去の救済)にすることで、過去・現在・未来にわたる「人生の安寧」と、新たな一歩を踏み出す「蘇り」の御利益を授かれるようにした、また姿形のある神は「神のお使い」で「熊野九十九王子」と呼ばれ、熊野詣道中に地元民が立てた100ヶ所以上の社に祀られている -
「今熊野橋」から三十三間堂方面へ
JR東海道線の上に架かる橋は、大正10年(1921)構築で老朽化しているので現在架け替え工事中(2021年から始まり2027年完了予定) -
(塩小路通)を左折
「塩小路通」は、この東大路通から京都タワーと京都駅の間を通り大宮通までで、平安京の「八条坊門小路」にあたり、名前の由来は、源融の河原院に塩焼のための海水を運んだ通りからで、 江戸時代には天文学者の渋川算哲の邸宅があったことから「三哲通」(さんてつどおり)と呼ばれていた -
「大仏(方広寺)旧境内南限」
方広寺大仏殿の敷地はここまであったことを示し、(説明板)では、塩小路通は「大仏南門通」とも呼ばれ、幕末期には坂本龍馬ら土佐出身の志士が住み、龍馬は母と賄(まかない)をしていたお龍と出会い、1864年6月池田屋事件で役人に踏み込まれ、その後8月に内祝言を挙げた、と書かれている -
「池田屋事件・もうひとつの舞台地」
此付近は土佐藩士の潜伏拠点で、坂本龍馬・北添佶摩など土佐藩士の寓居跡になり、池田屋事件の夜、ここにも役人が踏み込んだが 坂本龍馬 は不在で難を逃れ、龍馬の妻となるお龍の家族がその場にいたがすぐに釈放されている *北添佶摩(きたぞえきつま1833-1864)は、海援隊の一員として龍馬(1836-1867)とともに活動し、龍馬暗殺の3年後に同じ31歳の若さで亡くなった -
「三十三間堂・南大門と太閤塀」
秀吉が1595年「方広寺大仏殿」を造営した時に、三十三間堂も方広寺の境内に取り込まれ、その南限に南門として造られた桃山時代を代表する大規模な門の遺構で、豊臣秀頼により1600年に建造され、周囲の土塀や門なども整備され、門から西に伸びる築地塀は太閤桐の瓦があることから「太閤塀」と呼ばれ、南大門の鬼瓦には強力な魔除けになる「五芒星」(ごぼうせい)を額に戴く鬼も居て、太閤秀吉の威厳が現れている *同時に西側にあった「西門」は、国立博物館を造る際に明治28年(1895)東寺の「南大門」として移築された -
「重要文化財・蓮華王院南大門」普通自動車通行OK
桃山時代の重要文化財の下を、自動車が普通に通り抜けていく、京都の日常の風景 -
元「法住寺殿境内」
この辺りは後白河法皇が院の御所として造られた「法住寺殿」の境内だったので、平安時代と荒廃後の太閤秀吉の痕跡が混在している -
「法住寺殿復元図」
三十三間堂内の境内に、法住寺殿復元パネルがある -
「法住寺殿」(ほうじゅうじどの)跡・「旧御陵正門」
「法住寺殿」は、第77代後白河天皇(1127-1192)が、3年の在位のあと出家して1161年から、院御所として造営し、30余年の長い院政を行ったところで、1192年崩御後は、法皇の御陵をまもる寺として江戸時代まで存続し、明治時代に御陵と寺が分離され、竜宮城のような山門は後白河天皇陵(法華堂)の正門として作られたもので、かってはこの門から境内を通って御陵への参詣道があった -
「法住寺」(ほうじゅうじ)表門
「法住寺」は、989年に藤原為光(942-992 道長の父兼家の弟)が夫人と娘を弔うために創建した寺で、その跡地に1161年後白河天皇が院御所として「法住寺殿」を造営し院政を行ったところで、1192年崩御後は、法皇の御陵をまもる寺となり、明治以降は御陵と寺が分離され、隣接する法華堂にある御陵は宮内庁が管理している -
「本堂」(不動堂)
本堂にあたる不動堂は、2007年に建立されたお堂で、「身代不動明王像」と呼ばれる「不動明王像」や、「そば喰いのお像」と呼ばれる「親鸞上人像」、大石内蔵助が参拝したとされる「赤穂四十七士木像」がある -
(本堂前十三重塔)「法住寺履歴(HPより)」
後白河上皇は、1160年に日吉と熊野の神々を勧請し、新日吉・新熊野神社を創立、1164年に蓮華王院(三十三間堂)を造営、1167年には上皇御所、新御堂・不動堂も造営し、1169年に比叡山の妙法院を京都に移し、法住寺・新日吉神社を付託し門跡寺院としたが、1192年66歳で崩御し法住寺殿の法華堂に葬られ、豊臣政権下では、法住寺や蓮華王院エリアは方広寺大仏殿の寺域に含まれ、徳川政権では、法住寺は妙法院と一体視され妙法院門跡の「院家」とされ、明治になると、後白河天皇陵と妙法院門跡法親王墓所が寺域から分離されて宮内省の管轄になり、法住寺は「大興徳院」と改称されたが、1955年再び法住寺に戻った -
(本堂前石庭)「身代不動明王像」(みがわりふどうみょうおう)
本堂に安置されている「不動明王像」は、平安時代の慈覚大師(794-864)作で、1184年の「法住寺合戦」で木曽の義仲が院の御所に攻め入ったとき、法皇さまが危うく命を落とされるところを、難をのがれた際、「お不動さまが我が身代りとなってくれた」と涙をこぼされたことから「身代不動明王像」と言われる *「法住寺合戦」は、木曾義仲が院御所を襲撃して北面武士や僧兵勢力と戦い、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉し政権を掌握したが、その後わずか2ヶ月で、鎌倉の源頼朝義経軍に敗北して滅亡した -
(本堂前百度石)「親鸞上人そば喰い御木像」
本堂に連なる阿弥陀堂に、浄土真宗の開祖である親鸞上人が自ら刻んだという阿弥陀如来像と、親鸞聖人そば喰いの御像が祀られている、 「そば喰い御像」は、親鸞上人が禁制を破って比叡山を下りて六角堂に通い詰めていた頃、比叡山で「そば」の振舞を受け、そこにいるはずのない親鸞が彫った木像が代わりに平らげ、翌朝木像の口元に青ネギがついていたことで、身代わりだったことが発覚したという伝説による -
(本堂前鎮守社)「赤穂四十七士木像」
赤穂浪士リーダー大石内蔵助(1659-1703)が、山科に閉居していた時、この本堂の不動明王を参拝していたとされるいたことから、赤穂47士の木造をお祀りする、全員が揃った木像は珍しいといわれ、討ち入りの日の12月14日には義士会法要が行われる -
(本堂前)「地蔵堂 水子地蔵」
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(本堂前)「書院玄関」
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法住寺の北隣に、現在の「後白河天皇法住寺陵」の入口がある
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「後白河天皇・法住寺陵」(通常非公開)
1864年の発掘調査で、骨が入った石櫃が発見され、埋葬時から管理されて近世まで伝えられてきた非常に珍しい陵墓といわれる -
(2023/10/19撮影)
「後白河法皇」(1127-1192)は、1155年(29歳)に第77代天皇に即位したが、わずか3年の在位で二条天皇に譲位し、以後、二条、高倉、安徳、後鳥羽天皇の5代30余年にわたり、源平の争いの中で巧みな老獪さで王朝権力を維持し、院政を行った -
「養源院」(ようげんいん)(通常非公開)
1594年秀吉の側室・淀殿(茶々)が父浅井長政の21回忌に秀吉に願い、菩提を弔うために建立、その後焼失したが1621年妹の(江)が夫の徳川2代将軍・秀忠に願い、伏見城の遺構を移して再建、寺名は浅井長政の法名からとられた *注目は伏見城の遺構の「血天井」で、秀忠の正室(江)は、徳川方に忠義を尽くした家臣の血糊が残る床板を天井にして供養すれば、豊臣にまつわる寺院再建の大義名分になると考え、この条件付きで再建したという -
(2023/10/19撮影)「徳川家の三つ葉葵の紋」
信長の妹(市)が浅井長政に嫁ぎ、生まれた娘(茶々)が豊臣家の側室になり、父親の菩提寺として創建し、徳川家に嫁いだ妹(江)が再建するという、織田家・豊臣家・徳川家の血縁が合流した奇妙に複雑な寺院で、途中から徳川家歴代の位牌所ともなり、特に(江)と徳川秀忠の位牌には天皇家の「菊」と徳川家の「葵」と豊臣家の「桐」の3つの紋があり、ここだけでしか見れない、天皇家との関係は、秀忠とお江の五女・和子(まさこ)が後水尾天皇に嫁いだことからで、500年昔の複雑な関係が明確に分かるのは面白い -
「三十三間堂(蓮華王院)東大門」(国宝)
「三十三間堂」は、本堂が三十三間(柱間が33)、「蓮華王院」は千手観音の別称「蓮華王」に由来し、本堂の長さは120m、敷地は200mある。本堂は平清盛が1165年建立後、1249年焼失し、1266年後嵯峨上皇によって再建され、南大門と太閤塀は1595年秀吉の方広寺大仏殿造営時に造られたが、「東大門」は新しく昭和36年(1961)に回廊と中根金作作庭の池泉回遊式庭園と共に建立された -
「赤十字血液センター跡地」
隣は「赤十字血液センター」が2018年に伏見へ移転してからは空き地になっていた所で、最近工事中になっており、七条通側入り口には「親鸞上人そば喰い御木像」の石(木)標がある -
「ハイアットリージェンシー京都」跡地再開発
(建築表示板)を見ると、東山七条ホテル(仮称)、事業者オリックス不動産、設計者日建設計、完了時期未定と書いてある、調べると、隣の「ハイアットリージェンシー京都」が老朽化で、2027年5月に営業終了し、解体してその跡地に赤十字血液センター跡地も一体化した大型ホテルに建替えするという、「ハイアットリージェンシー京都」は、1971年開業の「京都パークホテル」を2006年にリニューアルオープンし、2012年にオリックスが取得している、新ホテルのオープンがいつになるか分からないが、期待したい -
「ハイアットリージェンシー京都」
そこで、少し想い出のあるホテルが取り壊される前に、入って見ることにした -
16:30イタリアンレストラン「トラットリアセッテ」
通常はイタリアンのカジュアルレストランだが、17:00までは飲み物だけでもokだったので、入れてもらった -
オープンキッチンで作るピッツァやパスタが人気だが、中途半端な時間になるので、コーヒーだけのカフェ休憩にしたが、無料の水が美味しすぎた!
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標高200mの「豊国廟」まで500段の石段を登り、2万歩のウォーキングになったので、久しぶりに筋肉痛が残って老化を実感することになったが、最後は高級ホテルの高級カフェで疲れを癒された
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