2025/07/14 - 2025/07/14
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Bachさん
先月の「東洞院通」に続いて、今月は「西洞院通」を歩きます。
「一条通」から一筋北の「武者小路通」から京都駅を越えて十条通まで約6kmあるので、この酷暑の中では無理だと思って、2回に分けて歩きますが、折しも今月は「祇園祭」にあたり、西洞院四条辺りでは山鉾が見れる「宵山」の日を狙っての散歩になりました。
「西洞院通」のポイントは、「武者小路千家」や都七名水の1つ「滋野井の井桁」、生麩の老舗「麩嘉」の「滋野井」、茶懐石出張専門の老舗「柿傳」、竹野紹鴎、千利休らも使い着物の黒染めにも使われた「柳の水」、「千家十職」の「御釜師・大西清右衛門美術館」、千利休は兄弟弟子になる「藪内家茶亭」、小野小町別荘跡の「化粧水」など、京都の名水に絡む史蹟、釜師が集まる地域で金属鉱物の守り神を祀り、江戸幕府の「金座」「銀座」があって、お金にまつわる願い事にご利益がある「御金神社」、「京都守護職屋敷址」や「新選組最後の洛中屋敷跡」など幕末期の史蹟、794年桓武天皇の命で空海が創立した洛中最古の神社で「天使突抜通」が境内を突き抜けた「五條天神宮」、菅原道真の邸宅があり「東風吹かばの飛梅」がある「菅大臣神社」、そして「祇園祭」の山鉾が見れる山鉾保存所です。
今回も、平安時代から信長、秀吉、家康、幕末、明治まで、一つの通りを歩くだけで、多くの日本の歴史に遭遇するウォーキングになりましたが、この日の7/14は祇園祭の宵山が始まったばかりで、山鉾の「懸装品」は一部しか見れなかったので、この後、出来れば7/17の本番にも出かけることにしたいと思います。
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「西洞院通」(にしのとういんどおり)は、平安京の「西洞院大路」にあたり、道幅24mの大路だったが、現在は武者小路通から京都駅で途切れて十条通まで約6km、狭い道が続いている。「東洞院大路」と同様、天皇退位後の居所である「洞院」などが多くある西側の通りで、二条通を境に北は藤原家の「高陽殿」「東三条殿」や光源氏の二条院に想定された「陽成院」などがあり、南は商人町として発展した。またこの通りの北限には「三千家」の武者小路千家があり、通りに沿って流れていた清冽な西洞院川の水を利用した染色業や紙すきが発展し、今でも染物業者が多く、三条通近くの崇徳院の御所があった「柳の水」の辺りには、飲むに良し、茶に良し、黒染めにも良しのまろやかな水が湧き出していたため、お茶の祖・村田珠光や千利休と織田信長の次男・信雄、加藤清正らがお茶に利用したとされ、現在はこの水を使って「京の黒染屋」が営まれており、五条坊門小路(仏光寺通)には菅原家の邸宅、紅梅殿、白梅殿があり、ここで「東風吹かば~」の和歌が詠まれた跡地に「菅大臣神社」があって、少し南の松原通には、「天使突抜通」が生まれた「五条天神社」もある。さらにこの通りは室町通や新町通に近く、鉾町にもなっていて、祇園祭宵山には普段は目立たない山鉾保存会が存在感を示している。
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7/9(水)10:30地下鉄今出川駅~0.5km10分(武者小路通)官休庵~0.1km大峰寺跡~(一条通)西洞院北限・元真如堂町~(中立売通)京都林務事務所~京都婦人相談所~0.5km長徳寺~(上長者町通)~(下長者町通)<クランク>京都府庁(下立売通)~0.6km京都守護職屋敷~京都まなびの街生き方探究館~滋野井の井桁~小篠長兵衛旧宅跡碑~0.2km麩嘉・新滋野井~(椹木町通)~0.1km柿傳~(丸太町通)~0.2km(2.2km)12:00ランチ「やまびこ」~(竹屋町通)~0.3km(夷川通)夷川児童公園・二条院候補地(陽成院跡)~<クランク>(二条通)~(押小路通)~0.3km御金神社~(御池通)~0.4km丸久小山園~(姉小路通)~(三条通)~0.5km大西清右衛門美術館~0.1km柳の水~(六角通)~(蛸薬師通)~(錦小路通)~0.5km蟷螂山会所~0.1km(2.2km/4.4km)15:00(四条通)
7/14(月)10:30地下鉄四条烏丸駅~0.5km蟷螂山会所~0.1km化粧水小野小町別荘跡~三井ガーデンホテル~0.3km(綾小路通)杉本家住宅・伯牙山~芦刈山保存会0.3km~(仏光寺通)木賊山保存会~綾西公園・紅梅殿~0.1km菅家邸跡・菅大臣神社~(高辻通)~あなご料理大金~0.1km(松原通)五条天神宮~0.6km(2.0km)12:00ランチ「鰻の成瀬」~1.0km(五条通)~0.2km(六条通)~0.3km植松公園~藪内家茶亭~0.3km(七条通)近江屋ロープ~0.3km(塩小路通)新選組最後の洛中屋敷跡~0.1km東塩小路公園~(2.2km/4.2km)15:00京都駅(以降0.6km都ホテル~0.6km九条通~0.2km京都テルサ~0.5km十条通まで2.0km続く) -
7/9(水)10:30 地下鉄今出川駅~0.5km10分(武者小路通)を進む
歴史のありそうな京町家建物は、ふさとひも「宮本株式会社」で、明治30年創業の日本伝統の甲冑用ふさ紐や、刀剣用柄糸、祇園祭など祭事用ふさ紐、簾(すだれ)、風鎮の装飾用ふさ紐などを作る会社 -
「官休庵」(かんきゅうあん)
西側隣の「小川通」は「茶の湯通り」と呼ばれ、「寺之内通」北側には千利休の孫・宗旦から引き継いだ3男宗左の表千家、4男宗室の裏千家があり、少し離れたこの地には、2男の宗守が1667年武者小路千家を設立し「三千家」が成立している *長男は勘当され江戸で浪人暮らしと伝えられる -
「官休庵」という名前は、家元の宗守が高松藩の茶頭を辞したところから名付けられ、建物は非公開で見れないが、大正15年(1926)の再建で、創立当時の形式がそのまま踏襲され、官休庵の他、いくつかの茶室を飛石でつないだ素晴らしい露地庭園は是非見てみたい
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「官休庵」の前から南下している「西洞院通」は狭い
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「西無車小路町」(にしむしゃこうじちょう)
かつて武士が往来した小路で、当初は「武者」と記されたが、後に「無車」になったという -
「大峰寺跡」(駒札)
一条戻橋に近いこの地は、古くは大峰野(おおみねの)と呼ばれ、平安時代には「大峰寺」と称する寺院があったところである。 「大峰寺」は、「大峰殿」とも呼ばれ、大和国吉野の大峰山の名をとった山伏修験者の道場で、当時は、広い寺域に幾つかの坊舎が建てられ、多くの修験者で賑わったと伝えられている。しかし、その後、寺は荒廃し、現在では、石塔を残すのみとなっている。この石塔は、花崗岩製の高さ2m余りある巨大な宝塔で、役行者(えんのぎょうじゃ)の塚、又は、その法孫日円(にちえん)の塚ともいわれている。また、一説には、三条天皇の中宮藤原妍子(ふじわらのけんし)が、万寿4年(1027)に没し、当寺の前野(まえの)で火葬されたことから、その供養のため建てられた火葬塚とも伝えられている。藤原妍子は藤原道長の娘で、一条天皇の中宮となった彰子とは姉妹にあたり、道長の娘で入内した三人の中宮の一人であるが、三十四歳の若さで亡くなり、父を悲しませた伝わる。なお、この付近は、現在「大峰図子(おおみねずし)町」と呼ばれ、当寺の由緒を今に伝えている。 -
(一条通)
この辺りは特に標識はないが、「西洞院大路北限」になっており、町名は「元真如堂町」で、「応仁の乱」の兵火で荒廃した「真如堂」が京都を転々とした名残の地域 -
「真如堂縁起絵巻」に見る応仁の乱
「真如堂」(真正極楽寺)は、吉田山に創建されるが、「応仁の乱」(1467-1477)で焼失すると一時、現在の上京税務署周辺に移り、江戸時代には再び吉田山に戻り、現在は「元真如堂町」の町名が残るこの地に案内板が設置された。(2024.6)案内板には、応仁の乱で寺域に侵入して略奪を繰り返す武士や足軽の姿を描いた縁起絵巻(国重文)と、同志社女子大の山田邦和特任教授が作成した「戦国期上京復元図」を添え、寺の波乱の歴史を紹介する。室町時代に起きた応仁の乱では、堀川の北西に屋敷を構える有力大名「山名宗全」と、室町幕府の重鎮「細川勝元」が対立し、山名が率いた「西陣」が織物産地として名が残ったのに対し、「東陣」(ひがしじん)の存在感は薄く、今はほとんど知られていない。このため地元有志がプロジェクトを立ち上げ、「東陣」の存在をPRしようと平成27年から活動を続け、現在4か所に設置 -
「京都美山高等学校」
不登校・ひきこもり支援を目指し、2003年日本初の本格的オンライン教育システムを導入した私立の通信制高校で、通わなくてよい「在宅コース」と、月5日まで通学する「通学コース」から学習スタイルを選ぶことができる、京都には歴史のある学校も多いが、こういう時代に応じて出来た学校もある -
(中立売通)「京都林務事務所」
京都府内の森林の保全・管理や、林業の振興、木材の利用促進、野生鳥獣との共生、狩猟に関する業務などを行っている、(中立売通)は、道端で商品を売る「立売」商人が多く、特に西陣地区では、呉服や絹を扱う立売商人が多かったことに因み、京都御苑の中立売御門から七本松通で一条通と合流する -
「京都府婦人相談所」
京都府内の女性が抱える悩み、特に配偶者からの暴力(DV)や家庭内の問題、ストーカー被害など、様々な問題に関する相談を受け、解決を支援している -
「長徳寺」(ちょうとくじ)
1575年創建の真宗大谷派寺院で、門前に「茶家山田宗徧出生之地」、「会津藩洋学所跡」の2つの石標が立つ。「山田宗徧」(やまだそうへん1627-1708)は、江戸前期の茶人で、長徳寺に生まれ寺を継いだが、茶道を志し還俗、1644年18歳で千宗旦に弟子入りし茶人となった。「会津藩洋学所」は、江戸後期の会津藩士・山本覚馬(1828-1892 妹の八重は新島襄の妻)が、22歳で佐久間象山の塾に入り、京都守護職の藩主・松平に従い上洛し、西洋式軍隊の調練に当たる洋学所を開いた -
(上長者町通)
烏丸通から千本通までで、平安京では土御門大路や上東門(じょうとうもん)通と呼ばれた大内裏の上東門から東へ伸びる大通りだったが、江戸期にはこの通りに豪商の邸宅があったことから通りの名が生まれた -
「頭町」(かしらちょう)
京都の町名は、寺社や、人物、故事、職業などに因んだ町名が多く、これだけ見ても面白いが、西洞院頭町、室町頭町、油小路頭町など、通りの端や角に位置することから「頭」と呼ばれるような通りに関する町名も多い -
「法光寺」寺看板もまた良し
「今日もよし 明日もまたよし あさっても よし よし よし」 -
(下長者町通)でクランク
正面の京都府庁で右折し左折して府庁建物沿いに進む -
「近畿農政局」と「京都府庁」間の狭い通りを進む
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「近畿農政局」(きんきのうせいきょく)
農林水産省の近畿地区支部局で、滋賀、京都、大阪、兵庫、奈良、和歌山を管轄している -
「京都府庁西別館」
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京都府庁通用門があったので、入って見る
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「京都府庁」旧本館
明治37年(1904)建設のレンガ造り後期ルネサンス様式の西洋建築で、正面に一段高くなった屋根とバルコニーがあり、国の重要文化財、正面に政庁、知事室、議長室、参事会室、貴賓応接室など大小55室が、ロの字形に七代目小川治兵衞作庭の中庭を囲んでいる -
本館前にある「京都慶應義塾跡」「独立自尊」石碑
慶應義塾の分校として、明治7年(1874)2月、福沢諭吉(1835-1901)により、親交のあった第二代京都府知事・槇村正直の斡旋で開校されたが、京都中学校との確執があり十分に学生を集めることができず、費用や手間、教員の問題もあって、同年9月廃校となった -
正門横の「京都守護職屋敷址」
「京都守護職」(しゅごしょく)は、幕末の1862年、当時尊王攘夷思想などによって悪化していた京都市中の治安維持を目的とし、京都所司代・京都町奉行、京都見廻役などの上位に置かれた役職で、会津藩主松平容保(かたもり)が初代守護職に就き、約千人の会津藩兵を率いて上洛し「金戒光明寺」に拠点を設けた後、1864年この辺りに約3万坪の敷地を買収して「京都守護職屋敷」を新たに造営したが、1867年薩長によるクーデター「王政復古の大号令」により廃止され、その跡地が1868年陸軍局となり、1869年(明治2年)京都府庁となった -
「天に星 地に花 人に愛」
2023年に設置された石碑でまだ新しく、京都ロータリークラブ50周年記念事業として寄贈されたもので、自然と人間社会の調和を詠った言葉は、武者小路実篤の言葉らしいが、西郷隆盛の「敬天人愛」と似ている -
(下立売通)京都府庁正門
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「京都まなびの街 生き方探究館」
京都市教育委員会が運営する、小中学生が体験学習を通して「生きる力」を育むことを目的とした施設で、産学公連携で子どもたちに勤労観、職業観を育む目的で平成19年(2007)元滋野中学校の跡地に開設され、多くの地元企業が参加している *オムロン、京セラ、島津製作所、ローム(半導体)、ユアサ(電池)、堀場製作所、村田製作所、イシダ(はかり)、カワシマ(織物)、ニチコン(コンデンサ)、スクリーン(製造装置)、ニッシャ(印刷)、ニデック(モーター)、日本新薬、ワコール(下着) -
(下立売通)でクランクして、(釜座通)と(小川通)の間を進む
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「滋野井の井桁」(しげのいのいげた)
(駒札)この地は、平安初期公卿滋野貞主(しげのさだぬし785-852)の邸宅跡である。敷地内の清泉は都七名水の1つとして知られ「滋野井」と呼ばれた。貞主は、漢詩人として漢詩集「経国集」や「秘府略」(百科事典)を編纂した人物で、温雅で度量広く、仁明天皇の信任も厚かった。その後この邸宅は、「蹴聖」と称された蹴鞠の達人大納言藤原成通(なりみち1097-没年未詳)のものとなる。「成通卿口伝日記」によると、成通が蹴鞠上達を願って千日間の練習を誓うと、その満願日に鞠の精が三匹の人面猿身の姿となって現れ、蹴鞠の法を伝授したと記される。後に、後鳥羽上皇はこの鞠の精を「精大明神」として祀り、滋野井のほとりに祠をつくったと言われる。現在も、精大明神は蹴鞠の宗家である飛鳥井家跡に建つ白峯神宮に地主社として祀られている。 この井桁は滋野井として伝承された井戸の井戸枠で、江戸時代に作られたものと思われる。 この地の元滋野中学校の校歌に「滋野井の泉のほとり集いよる」と謳われるなど、地域の貴重な遺産として受け継がれてきた。滋野井の井桁は、地域住民の尽力によってここに保存された。 -
「小篠長兵衛旧宅跡碑」(おざさちょうべえきゅうたくあと)
小篠長兵衛は初代から五代までは伏見下鳥羽で染物業を営なんでいたが、六代目が1849年に、この場所で三味線などの弦製造を始め、明治になって七代目が屋号を「鳥羽屋」と改め、八代目の小篠長兵衛が現在の油小路に「鳥羽屋」を開設した、戦前には京都に10軒程の同業者が有ったが今は1軒しかないという -
「麩嘉」(ふうか)
目、鼻、口が「ふ」の字になっているおたふくさんの暖簾があり、初代は御所に生麩を献上したという200年以上の老舗生麩の専門店、名物の「麩まんじゅう」は明治天皇のために考案されたという -
「新・滋野井」
生麩づくりには大量の水を使い、まろやかな軟水で一年を通して水温が一定の名水「滋野井」(しげのい)を、今でも敷地内に掘った70mの井戸から汲み上げて使っており、地域の人にも開放しているという -
(椹木町通)「東魚屋町」(ひがしうおやまち)
かつてこの通りに椹(サワラ)の木材を扱う店が多くあったことに因み、烏丸通から西へ千本通までで、この通り沿いには魚問屋や八百屋などが並んでいたことから「東魚の棚」とも呼ばれて、古くから市場町として賑わっていた -
「柿傳」(かきでん)
享保5年(1720)創業の茶懐石料理の出張専門の老舗で、屋号は柿屋傳右衛門の略称で現在9代目、明治になってから表千家、武者小路千家の出入りが許され茶事の料理を担当し、家元の初釜では 1日200~300人分の料理を用意したり、正月のおせち料理や弁当は有名、店は調理場があるのみで食事を提供するような場所はないが、2代目・安田善一と川端康成の交友から1969年に新宿に店舗を構えている -
「ラジオ体操」や「夏祭り」の張り紙は多くの町内でよく見かける
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(丸太町通)12:00ランチ「やまびこ」
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「すじカレーうどん」が有名
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「すじカレーうどん」にエビをトッピングして注文1,400円
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高級染夜具地「北川商店」
大正10年(1921)創業の寝具専門の染加工創作店で、ふとんの西川と協業 -
(竹屋町通)ホーロー町名看板
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「長池昆布」
慶応元年(1864)創業の昆布専門店で、出汁昆布の説明から美味しい出汁のとり方、良い昆布の選び方、保管方法など「出汁講座」を開催したりしている -
テントに「ブティック」とあり、空き店舗も多く見受けられる
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近代的な建物で繁盛していそうな「松永医院」
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「毘沙門町」(びしゃもんちょう)
京都にはいくつか「毘沙門町」の町名があるが、現在は山科にある「毘沙門堂」が転々としているので、これに由来していると思われる -
(夷川通)「夷川児童公園」
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「二条院候補地」陽成院(ようぜいいん)跡
公園の中にある「陽成院跡」は、陽成上皇(869-949)の御所で、この夷川公園一帯には、南北二町に及ぶ陽成院と呼ぶ邸宅があり、元慶8年(884)譲位した陽成上皇が、内裏からこの邸に母の皇太后藤原高子と共に遷幸して御所とした。上皇の崩御後、紫式部は「源氏物語」でこの地を光源氏の二条院に想定し、藤壺の姪にあたる紫上を迎え入れている -
「美濃商事株式会社」建物が面白い
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正面の(二条通)でクランク、左折して右折
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「二条離宮」3つ星ホテル
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(押小路通)
二条通と御池通の間の、木屋町通から千本通までの通り、平安京の二条大路の一筋南の小路が「押小路」と呼ばれて、大内裏に最も近い通りであったため、多くの邸宅があった -
「御金神社」(みかねじんじゃ)
この辺りは、平安時代より鋳物職人である釜師が集まり、茶釜の鋳造を行っていた地域で、金属と鉱物の守り神である「金山毘古命」(かなやまひこのみこと)を祀っており、さらにこの一帯は、かつて徳川家康により設けられた「金座」と「銀座」があり、江戸幕府の金貨鋳造を担い、各地の金銀細工業者がこの地に集められていたので、時代と共に、お金にまつわる願い事にご利益がある神社になったという -
「金色のイチョウの葉の絵馬」
参詣者も多く、境内には御神木であるイチョウの葉の形をした金色の絵馬が、数多く奉納され、金運上昇、商売繁盛を願っている -
(御池通)
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「丸久小山園」(マルキュウコヤマエン)
江戸元禄年間(1700年頃)、宇治小倉で創業し、宇治茶の伝統を代々引き継ぎ現在8代目、宇治茶の老舗は多くあるが最も古いのは平安時代から続く日本最古の「通圓」(つうえん)、室町時代の「三星園上林三入」、江戸元禄の「丸久小山園」、江戸享保の「一保堂」、江戸寛政「福寿園」、江戸天保の「伊藤久右衛門」、明治の「中村藤吉」などで、宇治茶が有名になったのは、秀吉が宇治茶を気に入り、宇治独自の製法を庇護したためだと言われる -
(姉小路通)「樋口清栄門」
1930年創業の和菓子屋で砂糖卸問屋 -
「後藤三郎商店」
昭和50年創業の暖簾、風呂敷の専門店 -
(三条通)「西洞院三条郵便局」
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「大西清右衛門美術館」(おおにしせいえもん)
この辺りは釜座(かまんざ)と呼ばれ、平安期から鋳物町として賑わってきたエリアで、武家茶人の茶の湯釜の伝統と技を受け継ぎ、「千家十職」の一つとして茶道千家出入りの職人である「御釜師・大西家」歴代による茶の湯釜を中心に茶道具約800点を所蔵し、公開しており、現在も工房で茶の湯釜が生み出されている -
「祇園祭」限定の枝豆がある
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京の黒染屋「馬場染工業」(ばんばせんこうぎょう)
明治3年(1870)創業の黒染屋で、「京黒紋付染」の中核となる「黒染め」を専門とした黒紋付や染め替え、家紋グッズなどの染色事業を行い、初代「柊屋新七」から現在五代目 *「京黒紋付染」(きょうくろもんつきぞめ)とは、婚礼衣装の黒留袖や喪服など、慶弔時に着用する着物を黒く染める京都の伝統的な染色技術で、深みのある黒色と、白く染め抜かれた紋のコントラストは、国の伝統的工芸品に指定されている -
「京の黒染屋」
自然黒と秀明黒(しゅうめいぐろ)の染め、「秀明黒」とは、馬場染工業が開発した「カラスの濡れ羽色」と称されるカラスの濡れた羽のように見える究極の黒色で、昔は着物だけだったが、現在は洋服、小物など様々な黒染め直しを行う -
「京黒紋付染と水」
「京黒紋付染」では、染色で水を使用するため、黒色の深みや風合いを大きく左右する重要な要素で、特に鉄分を適度に含み、黒染めに最適な地下水が豊富に湧き出るこの辺りは、京黒紋付染の伝統を支えてきており、「馬場染工業」も創業以来、地下100mから汲み上げる井戸水を染料や飲料水として使用している -
「柳の水」
この水は、千利休がお茶に使った「天下の3名水」、佐女牛井(さめがい;西本願寺)、三ノ間(さんのま;宇治)と並ぶ「柳の水」で、軟水でまろやかなこの水は、飲んでも、お茶でも、豆腐や湯葉にも、お酒にも、和菓子にも、そして黒染めにもよく、昔から京の産業を支えている -
「柳水町」(りゅうすいちょう)
この地は平安時代末期に崇徳院(1119-1164)の御所があった所で、近くには織田信長が泊まっていた本能寺があり、ここで営まれた信長の茶会では千利休が茶湯に愛用したとされる清泉があって、水に直接に日が差すのを避けて柳の木が植えられたと伝えられる、また近世初期には、信長の子・織田信雄(常貞)の屋敷になり、その後、加藤清正の子・忠広の宅地から、紀州徳川氏の京屋敷になった -
「茶人珠光・織田信長・加藤清正・紀州藩邸」古跡
室町時代の茶人「村田珠光」(むらたじゅこう1422-1502)もこの名水を茶の湯に使ったのではと思われる(村田珠光は茶道の祖で、千利休(1522-1591)は珠光の孫弟子である武野紹鴎(たけのじょうおう1502-1555)からその教えを受け継いだ)、「織田信雄」(おだのぶかつ1558-1630)は信長の次男でこの地に住い、のち「加藤清正」(1562- 1611)の屋敷となり、江戸貞享年間(1684-1687)から明治3年(1870)まで徳川御三家の「紀州藩邸」となった -
(六角通)
木屋町通から佐井西通までの途中、東洞院通と烏丸通との間にある「六角堂」(頂法寺)に由来 -
(蛸薬師通)ここから道幅が広くなる
木屋町通から佐井西通まで、蛸薬師如来を祀る「蛸薬師堂」(永福寺)への参道であったことに由来 -
「井沢刷毛所」
創業300有余年の刷毛(はけ)メーカーで、江戸・明治期には、友禅・表具等に染色・糊刷毛を、大正以後には、建築用や、家具用、染色用、漆塗り用など様々な種類の刷毛を製造している -
(錦小路通)
新京極通から壬生川通まで、途中新京極通と高倉通の間は「京の台所」とも呼ばれる「錦市場」で、平安京の錦小路が、豊臣秀吉によって再開発され、江戸時代には六角通から生魚市場が移されて、魚介類や野菜などが売られるようになり、現在の錦市場の原型となった -
株式会社「ニッコー」
町家と一体の会社建物が素晴らしい、が企業内容は不明 -
「蟷螂山」(とうろうやま)会所 7/9
7/17 の「祇園祭」本番を待つ、「蟷螂山」は、カマキリが象徴で、弱いものが強大な相手に立ち向かうという中国の故事「蟷螂の斧」(とうろうのおの)に由来している -
祇園祭「山第五番」
「祇園祭」山鉾巡行の順番は 7月2日の「くじ取り式」で決まり、「蟷螂山」は「山第五番」に決まったという八坂神社の証書。「くじ取り式」は祇園祭が始まった 869年から600年後の室町時代の1500年に先陣争いを防ぐ為に行われたのが始まりで、かつては六角堂で行われていたが、今は京都市役所で行われる *7/17 の「前祭」では23基の山鉾が巡行するが、先頭の「長刀鉾」を始め、今までの慣習で順番が決まっている「くじ取らず」が4基あり、残る19基がくじで決まり、今年は山一番「占出山」、山二番「霰天神山」、山三番「山伏山」、くじ取らず「函谷鉾」、山四番「油天神山」、傘一番「綾傘鉾」、山五番「蟷螂山」、鉾一番「菊水鉾」になり、8番目に巡行する(山は真松、鉾は真木の上にシンボルとなる鉾頭が飾られる) -
(四条通)「四条西洞院」7/9 の「西洞院通」前半はここで終了
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7/14 10:30「西洞院通」後半スタート
地下鉄「四条烏丸」を上がると、早速「祇園祭」の「函谷鉾」が見える -
「祇園祭」
「前祭」(さきまつり)7/9~14山鉾建て、7/14~16宵山 7/17山鉾巡行、神幸祭 「後祭」7/18~21山鉾建て、7/21~23宵山、7/24山鉾巡行、還幸祭 -
「前祭」山鉾マップ
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(四条通)「函谷鉾」(かんこぼこ)くじ取らず
中国秦の孟嘗君(もうしょうくん)の逸話「鶏鳴狗盗」(けいめいくとう)に因み、鉾頭に三日月、真木に孟嘗君と鶏が取り付けられている -
(室町通)「菊水鉾」(きくすいぼこ)
室町時代末の町内にあった千利休の師、武野紹鴎(たけのしょうおう)の邸内の「菊水井」(きくすいい)に因み、鉾頭に金色の菊花を付けている -
(四条通)「月鉾」(つきほこ)
山鉾の中で一番大きく(高さが26m)、一番重く(12トン)、一番豪華絢爛で、応仁の乱以前から存在すると言われており、鉾頭に三日月、真木に月読尊(ツクヨミノミコト)が祀られている -
(新町通)「放下鉾」(ほうかほこ)
放下僧(ほうかぞう)という街角などで芸を演じて仏法を説いた僧に因み、 鉾頭に日・月・星の三光が下界を照らし、真木に放下僧の像を祀っている -
(四条通)「郭巨山」(かっきょやま)
中国の故事で、郭巨(かっきょ)は貧困で老いた母と幼い子を養えず、子を山に埋めようと穴を掘ったところ、地中から黄金の釜が出てきたという話に因み、山に御神体の郭巨と童子が飾られている -
(西洞院通)株式会社「ニッコー」の前は、先日7/9 歩いた時とは様変わり!
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「蟷螂山保存会」
会所前で、弱いものが強大な相手に立ち向かうという、象徴の「カマキリ」グッズが売られていて行列が出来ている -
「蟷螂山」(とうろうやま)
中国の故事「蟷螂の斧」に因み、小さなカマキリが大きな車に立ち向かう様子を表しており、応仁の乱以前からの古い歴史を持つ -
唯一の「からくり」
祇園祭の山鉾の中で唯一、屋根上のカマキリと御所車の車輪が動く -
「化粧水(けしょうのみず)小野小町別荘跡」
四条西洞院の信号を渡って、いつもは見過ごしてしまいそうなところに、「化粧水」の石標と駒札があり、平安前期、絶世の美人として知られる歌人「小野小町」の別荘と、小町が使ったとされる井戸跡があったとされ、三条寄りの「柳の水」にもあったように、この地がかつて染色業で栄えたこととも関連付けられている。京都だけでなく全国各地にゆかりの地が出てくる「小野小町」(825-900頃)だが、もともと滋賀県小野の豪族から京都の山科へ勢力を広げ、京都北部にも小野郷(おのごう)と呼ばれる領地があり、飛鳥時代の遣隋使・小野妹子から朝廷に仕えた一族で、平安時代になって閻魔庁で働いていたとされる「小野篁」(802-853)は祖父にあたり、六歌仙唯一の女流歌人として朝廷の近くで活躍し、晩年は山科「随心院」に暮らしたと思われる -
「三井ガーデンホテル」
京都には、三条、四条、新町、河原町、京都駅前に5つある -
(綾小路通)あやのこうじどおり
寺町通から新撰組ゆかりの壬生地区を経て天神川通まで、平安京の綾小路には古くから富裕な商人たちの住いが多かった -
東へ進むと「杉本家住宅」と「伯牙山」
江戸期1743年創業の呉服商「杉本家住宅」は、「伯牙山」のお飾所として今日から屏風や美術品などを公開する「屏風祭り」も始まるが、山鉾の「伯牙山」もまだ準備中 -
(2008/7撮影)「伯牙山」(はくがやま)
中国の琴の名手「伯牙」が友人の死を聞き「自分の琴を真に理解してくれる人はもういない」と嘆き、琴を弾くことをやめてしまったという故事に因み、琴を斧で割ろうとする御神体が飾られている、「伯牙山」は、元々は「舁山」(かきやま)だったが、明治になって「曳山」(ひきやま)の要素を取り入れ、現在は舁山と曳山の両方の特徴を持つ山として、山鉾の歴史的な変遷を知る上で興味深い存在になっている *祇園祭の歴史は、疫病退散を祈願して平安時代の869年に神泉苑で長さ二丈(約6m)ほどの矛66本を立てたことに始まり、 その100年後に現在の山の起源とされる山が登場し、室町時代には現在の山鉾の形が整えられたが、応仁の乱で一時中断した後も、町衆の力で再興され豪華絢爛な山鉾巡行へ発展した。「山鉾」には、舁山、曳山、鉾の3種類があり、屋根の上に松の木が飾られているが「山」で、鉾頭に刀や月などの真木が立っているのが「鉾」、さらに車で曳くのが「曳山」で、人が担ぐのが「舁山」になる -
西へ進むと「芦刈山」
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「芦刈山」(あしかりやま)
夫婦が貧しさのために離れ離れになって、妻は都で裕福になり夫を探しに戻ったら、再会した夫は落ちぶれて芦刈となって自分の身の上を恥じていたが、妻の説得で夫婦は再び絆を結ぶ、という謡曲「芦刈」に因み、鎌芦とを持った老翁を御神体にしている -
「芦刈山」会所
7/14から7/17の巡行本番まで、会所飾りの公開をしている -
「芦刈山の縣装品」(けそうひん)
祇園祭の魅力の一つは、「歩く美術館」とも言われる、山鉾を飾る「縣装品」という豪華な装飾品で、歴史的な著名作家や伝統技術を凝らした重要文化財も多く、巡行前に会所へ行くと殆ど無料で見れるので楽しい -
「懸装品」には、山鉾の胴体部分を飾る「胴懸」 (どうかけ)、正面の「前懸」 (まえかけ)、後部の「見送」 (みおくり)、上部を飾る「水引 」(みずひき)や、欄縁 (らんぶち) や、鉾頭 (ほこがしら) などあり、これらは西陣織、ペルシャ絨毯、刺繍など様々な織物や刺繍、彫刻、金工品などで作られており、京都の絵師や染織家が手掛けた作品も多く、祭りの華やかさを演出するだけでなく、地域の文化や歴史を伝える重要な役割も担っている、手前は、山車上に飾られる穂花のついた「芦の造花」と、茶道具を収納した二台の木箱「荷茶屋」(にないちゃや)
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側面の「胴懸」(どうかけ)は、「豊公獅噛鳥獣文様」(ほうこうしかみちょうじゅうもんよう)錦織で、豊臣秀吉が使用したと伝わる陣羽織に用いられた獅子が獲物を捕らえる様子の織物
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旧胴懸の「燕子花(かきつばた)図」は、尾形光琳の名作を下絵にした綴織
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後部の「見送」 (みおくり)「鶴図」、「唐子嬉遊図」
「鶴図」は、戦後活躍した日本画家・山口華楊画の綴織、「唐子嬉遊図」は、中国の子供の様々な遊びを描いた狩野派の流れを汲む絵師による作品 -
「御神体の御頭」は2種類あり、鎌倉時代に活躍した仏師・運慶の子とされる康運作の銘がある本頭(ほんがしら)と、江戸期に作られた写頭(うつしがしら)があり、巡行には写頭が使われ、本頭は宵山のお飾りだけ見学出来る貴重なもの
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「御神体」は、鎌倉時代天文6年(1537)の御頭と、衣装も天正17年(1589)の銘があり、祇園祭山鉾の中で最古のもので重要文化財に指定されている
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「木賊山」(とくさやま)
一筋南の(仏光寺通)には「木賊山」の山鉾が建つ、「木賊山」は、我が子を人にさらわれて、我が子を思い「木賊」を刈りながら息子の無事を祈るという謡曲「木賊」に因み、御神体は、翁が腰に蓑をつけ鎌と木賊を持つ老翁像で、「木賊」は砥石になるシダ類の植物で、山は人が担ぐ「舁山」(かきやま) -
「木賊山」(とくさやま)の会所は、「鈴木内科医院」の病院の待合室にあり、現在会所飾りの真っ最中
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病院の内を見たが、御神体らしきものが僅かに見えた、そもそもこの病院の先代が西陣織の職人さんだったらしい
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山飾りを引っ越しトラックで運んでいたので、保管場所にも苦労しているのが伺える *この(仏光寺通)から南下する(東中筋通)は、細い石畳の図子(ずし)になっており、その先(松原通)から(六条通)までは、「天子様」と呼ばれる「五条天神社」の境内を貫通する「天使突抜通」(てんしつきぬけ)へと続く
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西洞院通に戻ると「綾西公園」がある、この辺りは「菅原道真」の邸宅があったところで、邸宅内の「紅梅殿」と「白梅殿」があった
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「紅梅殿」(こうばいでん)説明版
菅原道真が大宰府に赴任する際に、梅との別れを惜しむ歌を詠んだという曰くつきの地だが、近隣の発掘調査では、平安時代前期にさかのぼる邸宅の跡は確認できておらず、今後「紅梅殿」の遺構発見への期待が高まる。と書かれている -
(仏光寺通)を東に進むと「菅家邸跡」
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公園側に進むと「紅梅殿」
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「菅大臣神社」(かんだいじんじんじゃ)
菅原道真の邸宅跡の北側に「紅梅殿」、南側に「白梅殿」があり、不遇の死を遂げた後、道真を祀る天満宮が各地に建てられると、邸宅跡のこの地にもこの社が創建された -
「天満宮降誕之地」の碑
菅原道真(845-903)の生誕地は複数言われ、道真「産湯の井戸」は京都御苑西側の「菅原院天満宮神社」、奈良菅原町の「菅原天満宮」、京都「吉祥院天満宮」などあるからややこしい -
「手水舎」と末社「三玉春咲稲荷社」
稲荷社の狐は巻物と宝玉を口にくわえている -
「鳥居」
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「拝殿と本殿」
公没後(903年)まもなく創立され、応仁の乱後慶長19年(1614)に、菅家ゆかりの北野天満宮別当を兼ねていた曼殊院門主・良恕法親王により再興され、その後何度か大火で焼失し、現在の本殿は天保6年(1835)造立の下鴨神社旧殿を、明治2年(1869)に移築したもの -
「祭神」は、菅原道真、尼神(あまがみ)、大己貴命(おおなむちのみこと)で、御利益は、学業成就、合格祈願
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「飛梅」の地
「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」と詠まれた -
菅大臣神社の「なで牛」
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(高辻通)
鴨川の西岸から梅津街道までで、通り名は堀川通手前の醒ヶ井通付近が洛中で最も高い場所であったことに由来 -
あなご料理「大金」(おおがね)
京都では珍しいあなご料理店、美味しそうだったが、今日はウナギを食べるので、また次の機会に -
「五條天神宮」 (天使の宮)
794年、桓武天皇の命により空海(弘法大師)が大和国から天神(あまつかみ)を勧請した洛中で最古の神社で、少彦名命(すくなひこのみこと)、天照大神、大巳貴命(おおなむちのみこと=大国主神)を祀り、古くから農耕、医薬の神として信仰された -
「義経記」では源義経が弁慶と出会った場所となっており、一筋隣の(仏光寺通)から南下する(東中筋通)は、かつての広大な「五条天神社」の境内を貫通したため、「天使突抜通」(てんしつきぬけどおり)と呼ばれる
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「親鸞聖人御入滅の地」光圓寺(こうえんじ)
親鸞聖人(1173-1263)が晩年過ごされたところで、この地で入滅され、ご遺体は事情があって三井寺善法院に移されたという -
「ランチはウナギで夏バテ解消」
土用の丑の日は、7月19日でまだ先になるが、あまりに暑いので今日のランチはウナギにして、(松原通)沿いにある鰻屋さんへ *「土用の丑の日」は、平賀源内(1728-1780)が夏の売上が落ち込む鰻屋のために発案したことに始まり、また季節の変わり目には、ウドン、梅干しなど「う」の付くものを食べると健康に良いという風習もあって、鰻を食べる習慣が出来た -
「鰻の成瀬」
リーズナブルな価格で本格的なうなぎ料理を提供し、2022年オープンから全国に300店舗以上を展開しているウナギ屋さんで、京都にも4店舗ほどあるというので、試しに行ってみた -
「上うな重」の一番小さい梅1,900円を注文、半分程度の値段で味もそん色なく、店内も洋食店のような雰囲気で、スタッフの対応も良く、美味しくいただきました
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(五条通)
(松原通)を(西洞院通)に戻って、「五条西洞院」 -
(六条通)カラーロード
特徴的な赤レンガですぐ分かる(六条通)は、河原町通から堀川通までで、特に(堀川通)から(新町通)までの「六条商店街」は、かつて魚市があったことから「魚棚通」(うおのたなどおり)と呼ばれて、途中カラーロードになっていて昔の賑やかな往来が偲ばれる -
(新花屋町通)
東本願寺、西本願寺の北側を東西に通る(花屋町通)が、明治時代に東本願寺が拡張した際に、新町通を境に分断され、新町通から堀川通までを新花屋町通と呼ばれるようになった、通り名は、数珠や仏具、法衣、仏教書を扱う老舗が軒を並べ、花を売る店も多かったことに由来 -
「竹重装束店」
寛永16年(1639)創業の装束店で、竹製品や御翠簾(すだれ)等を西本願寺へ納める職人から始まり、祭礼に用いる装束や祭具を取り扱っている -
「神輿」のディスプレーが歴史を物語る
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吟醸らーめん「久保田」 本店
いつも行列が出来ている有名店だが、酷暑の中、そこまで並ぶ価値があるかは不明 -
(旧花屋町通)
東本願寺が拡張した際に南北に分断され、新町通から堀川通まで、(旧花屋町通)と(新花屋町通)が東西に並行して走る -
「植松公園」
この辺り一帯は「植柳小学校」の2009年閉校の跡地で、跡地活用事業者になった安田不動産株式会社が、ホテルを建設すると共に、児童公園を整備し、2024年6月に完成したばかりの新しい公園 -
「藪内家・燕庵」(やぶのうちけ・えんなん)
藪内家は初代「藪内剣仲紹智」(やぶのうちけんちゅうじょうち1536-1627)を流祖として現在まで14代続く茶道家で、剣仲は「武野紹鴎」(たけのじょうおう)の弟子で、千利休は兄弟弟子にあたり、利休の媒酌で古田織部の妹・せんを妻とし、織部から茶室「燕庵」(えんなん)を譲られたという、その後、2代目は西本願寺の庇護を受け、寺領の一部を与えられ、1640年現在の西本願寺門前町の一角に「燕庵」を移した、内に立派な茶室と路地があるが、何かの特別な機会でもないと見れないのが残念! -
「貝と白ワインのバル KAKIMARU」
牡蠣好きとしては、是非行って見たいお店 -
(七条通)
智積院(ちしゃくいん)門前の(東大路通)から桂大橋までで、山陰街道につながる、平安時代はこの大路に官設市場の東西市があり商工業の中心として栄え、明治から昭和には京都市電も走り、京都駅付近を中心に鴻池銀行や村井銀行などの支店が並ぶ金融街だったこともあって、多くの近代建築が残る面白い通りになっている -
「近江屋ロープ」本社
江戸時代の1805年、麻や綱、糸を商う「つな屋」を創業して以来、麻ロープ・綿ロープの製造販売を営み、綱・ロープを原点とした各種産業資材から、ワイヤロープを使用した林業用架線索道やチェンソー・刈払機、獣害防止柵まで販売し、身近には教材用なわとびや、清水寺の鐘の緒、東大寺大仏殿大修理に使った天井走行クレーンまで活躍している -
(塩小路通)
七条通と東海道本線の間を、東大路通から大宮通までで、京都駅周辺は交通量が多い、通り名は、光源氏のモデルと言われる源融(みなものとのとおる)が、現在「渉成園」になっている辺りに奥州塩竈の風景を模して難波から海水を運ばせた「六条河原院苑池」を造営した際に、その塩竃に難波から海水を運ぶ道であったことに由来している -
「新選組最後の洛中屋敷跡」
新選組は、1863年結成してから屯所を壬生の「八木邸」から、1865年「西本願寺」に移し、1867年6か月間だけこの辺りの「不動堂村」という所に居て、1868年に伏見奉行所に移り、その半年後には「鳥羽・伏見の戦い」で敗れているが、一筋隣の(油小路通)にも「新選組まぼろしの屯所」と書かれている「不動堂明王院」があるので、屯所の正確な位置は分からないという -
温泉のあるホテル「ハトヤ瑞鳳閣」
静岡伊東の「ハトヤ」は昭和22年(1947)創業で、京都も昭和25年(1950)開業と意外と古く、2014年京都の天然温泉宿としてリニューアルした -
「キャンパスプラザ京都」
平成12年(2000)に「大学のまち・京都」のシンボル施設として、大学間の交流促進や産業界、地域社会などとの連携、交流促進を目的として開設した京都市の施設 -
「東塩小路公園」
西洞院は、京都駅を越えて(十条通)まで続くが、南北散歩はここで終了 -
暑すぎるので、涼を求めて「京都駅前ポルタ」地下に入る
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「小川珈琲」で休憩
イノダ(1940年)、前田(1971年)と並ぶ、1952年創業の京都老舗コーヒーショップで、11店舗を展開する *純喫茶としては、河原町のフランソア(1934年)、ソワレ(1948年)、築地(1934年)が有名 -
15:00 「西洞院通」は、京都駅で中断され、八条口を出て、都ホテル横の筋から~0.6km九条通~0.2km京都テルサ~0.5km十条通まで、約2.0km続くが、後半はここまでの4.2km、前半の4.4kmと併せて8.6kmを歩いた
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