2026/07/14 - 2026/07/14
1837位(同エリア4438件中)
Bachさん
今月の月一京町散歩は、「烏丸通」(前半)の暑気払いに続き、(後半)は「祇園祭」真っただ中で、あえて猛暑・酷暑に挑戦して暑気迎えをすることにします。
連日の酷暑の中では、流石に体力を消耗するので、混雑を避けて宵々々山の祇園祭にしましたが、それでもいつもの観光客に地元の常連客も加わって、大変な盛り上がりの中、烏丸通沿いの山鉾は、「占出山」「孟宗山」「函谷鉾」「長刀鉾」の4つで、会所飾りの豪華な「懸装品」は、ほんの一部しか見ていませんが、その制作の経緯や作者、入手ルートなど、それぞれに深い歴史があり、これを景気が悪いと言いながらも、継承し続けている地元商店や企業、億万長者の皆様には、全く頭が下がるばかりです。
そして今回は初めて「函谷鉾」に上る体験が出来、山鉾巡行しているような気分を味わいましたが、今年新調された天井幕の「阿吽亀」(あうんがめ)を真近かに見て、長寿、良縁を表現し、函谷鉾の縁が長く続くようにという意味が込められていると聞き、我が人生にも欲しい貴重なご縁になりました。
他にも、今回の初体験は、今まで行けなかった「マンガミュージアム」と、「京都タワー」があって、いつでも行けるような所にはなかなか行かないので、こういう所を一つずつ潰していくのも、この月一京町散歩の楽しみです。
-
「烏丸通」は、江戸時代の東本願寺の創建以降、五条通から七条通迄延び、明治になって明治10年京都駅が建立されると七条通以南にも道路が開通して、近代都市の基幹道路となり、明治45年には市電が丸太町~京都駅間を走り、大正天皇、昭和天皇が即位大礼でここを行進し、昭和になって昭和39年東海道新幹線と東京オリンピックに合わせて京都タワーが完成し、昭和56年には北大路駅~京都駅間に地下鉄が開通、平成になると平成9年(1997)国際会館~竹田間の全線が開通し、京都市内の幹線ストリートとして発展し続けている
-
10:00(丸太町通)~日経新聞社(竹屋町通)~京都新聞(小少尉跡)~薫習館~(二条通)~マンガミュージアム~1.0km(御池通)~NHK京都~三条東殿遺跡(姉小路通)~NTT新風館~京都伝統工芸館~旧第一勧銀(三条通)三条西殿、三条大路跡~千總ギャラリー~(みずほ銀行)三条南殿遺跡~池坊・六角堂~(錦小路通)「占出山」~11:30ランチ凪(なぎ)12:30~「孟宗山」~「函谷鉾」~「長刀鉾」~1.0km四条烏丸~西陣織あさぎ美術館~大政所御旅所(ダイワロイネットホテル)~勾天神(京都銀行本店東館)~因幡堂石灯篭~京都銀行本店・高島屋跡~(松原通)~俊成社(ヒルトンガーデンホテル)~1.0km(五条通)サン・クロレラ~(花屋町通)~(六条通)~東本願寺・お東さん広場~(七条通)~ゴマファザラシ~ヨドバシカメラ~15:00京都タワー展望台~1.0km京都駅(合計4.0km)
-
10:00(丸太町通)地下鉄丸太町駅よりスタート
(丸太町通)は、鹿ヶ谷通から嵐山まで、江戸時代には堀川を利用して丸太を筏で運んでいた材木商が多く集まっていたことに因む -
「京都府総合社会福祉会館」(ハートピア京都)
京都府民の社会福祉活動の推進や社会活動の拠点で、イベントホールや貸会議室のほか、高齢者相談センターやシルバー人材センター、社会福祉法人など各種福祉関連団体が入居する -
(竹屋町通)
平安神宮西端から鴨川を挟み千本通まで、江戸時代に竹材を商う職人や問屋が多く住んでいだことに因み、御所や二条城の御用を務める宮大工などの職人も多く住んでいた -
「京都新聞ビル再開発」(KNP計画)Kyoto Newspaper
旧京都新聞本社ビル跡地の大規模複合開発で、新社屋を旧本社の北側に新設し、高級ホテルを2029年度内に開業する、ホテルは日本初進出となる高級ホテル「アヴァニ京都」(タイ・バンコクを拠点に40のホテルを展開)で、一部は地域のランドマークだった1975年建設の外観を残すらしいから、歴史と伝統を継承する姿勢は流石!地元企業 -
(2025/11/06撮影)「少将井旧跡」(しょうしょういきゅうせき)
この辺りは、「車屋町通夷川上る少将井御旅町」という地名になり、以前歩いた時は跡地の史蹟があったが、平安中期の歌人「少将井尼」(しょうしょうのいのあま)と呼ばれた歌人の邸宅があった場所で、祇園祭の山鉾巡行の御旅所が、秀吉により現在の四条寺町の御旅所に統合されるまで、東御座(ひがしござ)の櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)を祀る神輿が安置された *この先の烏丸仏光寺通に、中御座(なかござ)素戔嗚尊(スサノオノミコト)と、西御座(にしござ)八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)が安置される「大政所御旅所」があった -
「セレマ烏丸ビル計画新築工事」
こちらは冠婚葬祭の「株式会社セレマ」が建設するオフィスビルで、2026年8月竣工予定 *「セレマ」は、京都西大路に1959年創業し、京都を中心に玉姫殿、シティホールなど葬儀場94と結婚式場13を展開 -
「松栄堂」(しょうえいどう)
1705年(宝永2年)創業の老舗香メーカーで、お線香や茶の湯の香木、匂い袋など、幅広い香製品を製造・販売 -
「常香盤」(じょうこうばん)
粉末状の香を使った「香時計」で密教用具として普及した。香の燃え進んだ長さによって時の経過を知るという珍しい時計で、寺院の儀式に、良い香りを出しながら、僧侶が勤行の時間を知るために使用され、かつては花街などで芸妓の滞在時間を計るためにも使われていた。現在でも使われており、寺院用仏具店で購入できるという -
「薫習館」(くんじゅうかん)
松栄堂が香文化の情報発信拠点として2018年に開館、香料の生産や文化に関する展示を行い、香りの体験が出来る -
「わやくや」(千坂漢方薬局)
(二条通)は「二条のきぐすりや」と言われ、江戸幕府公認の薬種街として100軒以上の薬問屋が軒を連ねた通りで、「千坂わやくや」は1870年頃創業し2014年に5代目店主が引き継いだが、有名な話は、「北大路魯山人」(きたおおじろさんじん1883-1959) が当時10歳から3年ほど住み込みの丁稚奉公をしていたことで、陶芸家、画家、美食家、等様々な芸術に目覚める基礎となった所だが、25歳で結婚以来5度の結婚・離婚を繰り返している人生は想像を絶する -
烏丸二条通で、いつも気になっているレンガ造りの建物だが、正体不明
-
「藤田医院」とあるが、開業中かどうかは不明
-
「放光堂」
明治時代創業で、現在五代目の日本画財専門店 -
「とり安」
1890年創業の鶏やさんで、行列の出来る人気店 -
「京都国際マンガミュージアム」
日本初の総合的な漫画ミュージアムとして、廃校となった小学校の跡地を利用し2006年開館し、「マンガの聖地」と言われる、国内外からファンが訪れるが、当日は半分くらいが外国人で賑わっていた *2024年 年間来館者数30万人、累計入館者数450万人突破 -
「開設の経緯」
1995年に京都市立龍池小学校が周辺の4小学校と統廃合した跡地利用で、2003年京都精華大学から京都市にマンガミュージアム構想の提案があり、跡地を京都市が提供し、大学側が管理・運営するという公民協働(PPP・Public Private Partnership)が実現し、市と大学で組織される運営委員会の下、大学が管理・運営している -
「京都市立龍池(たついけ)小学校」は、明治2年(1869)に日本最初の学区制小学校として地元有志の寄付で創設された64の「番組小学校」の一つで、 校名は二条御池殿にあった龍躍池(たつやくいけ)に因み、一時800人を超える児童数があったが110人まで減少し、平成7年(1995)に統廃合されたが、校舎や正門は昭和初期の貴重な建築物として2008年に国の登録有形文化財に登録された
-
「京都精華大学」
同志社教授で1966年京都市長選にも社会党の推薦で立候補した岡本清一氏が、1968年短大を設立し、1979年4年制大学へ移行し、2006年に日本初の「マンガ学部」を開設し、マンガ教育・研究のパイオニアとして、高い専門性と研究ノウハウを活かすため京都市と共同でミュージアムを設立した、学生数は約4,000人、内30%が留学生の国際色豊か -
「火の鳥」の巨大な木彫オブジェ
「マンガミュージアム」が京都にある理由は、日本最古のマンガと言われる高山寺の絵巻物「鳥獣戯画」があることから、京都はマンガ文化の源流とされ、日本で初めて「マンガ学部」を開設した京都精華大学と共同で、京都から日本のマンガ文化を発信したいという思いがある -
「マンガの壁」
総延長約200メートルの壁に、1970年代以降の作品が約5万冊並ぶ -
館内のベンチや芝生エリアで「読み放題」
1F 少年マンガ、2F 少女マンガ、3F 青年マンガが並ぶ -
「大マンガラクタ館」
展示されているのは5万冊だが、地下の収蔵庫には25万冊もあるので、眠ったままのマンガを少しずつ並べて、見てもらうためのコーナー -
「紙芝居小屋」
マンガの歴史や文化を学べる展示や、マンガ制作のワークショップや、紙芝居も楽しめる -
校長室「龍池歴史記念館」
現在のマンガミュージアムの館長は、初代・養老孟司(ようろう たけし1937-:医学者、解剖学者。東京大学名誉教授)、2017年から2代目館長・荒俣宏(あらまた ひろし1947-:博物学者、小説家、妖怪評論家、翻訳家、タレント作家) -
(烏丸御池)からすまおいけ
地下鉄「烏丸線」(1981年開通)と、「東西線」(1997年)が交差する京都の中心地 -
「NHK京都放送局」
1925年大阪放送局京都出張所開設(四条河原町)、1932年京都放送局開局(二条公園北側)、2014年新京都放送会館竣工(烏丸通御池) -
涼場を求めてチェックイン
-
祇園祭の期間中、山鉾などの展示イベントをやっており、事前勉強になる
-
ミニチュアの山鉾MAPが、分かり易い
-
これから見る予定の、烏丸通沿いの山鉾は、占出山と孟宗山、函谷鉾、長刀鉾
-
祇園祭「前祭」(さきまつり)巡行は7/17、23基、「後祭」(あとまつり)は7/24、11基
-
(姉小路通)あねやこうじどおり「鈴鹿山会所」
(姉小路通)は、木屋町通から佐井通までで、平安時代にこの地に住む公家・藤原済時(なりとき)一族が「姉小路氏」を名乗ったのが由来とされる -
「鈴鹿山」(すずかやま)会所
後祭に巡行される山で、この辺りは、「場之町」(ばのちょう)と言って、かつて米の通関所があり、人馬が盛んに行き交い、交易の中心地であったことから、三関の一つの鈴鹿山が選ばれたという -
(2016/7/24後祭巡行)「鈴鹿山」(すずかやま)
伊勢の国の鈴鹿山で人々を苦しめた悪鬼(あっき)を「鈴鹿権現」(すずかごんげん)が退治したという伝説を表し、御神体は、祇園祭の御神体の中では数少ない女性の神様で、伸長176cmのスーパーモデル並み美人の「瀬織津姫命」(せおりつひめのみこと)が、金の烏帽子をかぶり手に大長刀を持ち、前懸はラクダをモチーフにしたシルクロードの綴織で、この界隈が交易の町として栄えたことに因む -
「三條東殿遺址」(さんじょうひがしどのいせき)
(姉小路通)のこの辺りは、平安時代の天皇・皇族・貴族の高級住宅街ストリート、藤原道長の邸宅で、白河法皇、鳥羽上皇、後白河上皇の院御所としても使われた「三條東殿」があり、平清盛が源氏と戦い平氏政権になった「平治の乱」(1159)で、当時後白河上皇の院御所であったこの地を襲撃し、上皇はここから連れ出されて幽閉され、若き源頼朝は北条氏の韮山(にらやま)に流刑されて、その後1192年鎌倉幕府を興すことになる -
「近畿電気通信局管内自動式電話交換創始ゆかりの地」
この建物は、大正15年に建築された「京都中央電話局」で、昭和3年、自動式電話交換が京阪神地区の6局で開始されたが、電子交換の普及により遊休スペースとなり、現在の商業施設に生まれ変わった -
「新風館」(しんぷうかん)
1926年(大正15年)に近代建築のパイオニアである吉田鉄郎が設計した歴史的建造物で、京都市の指定・登録文化財第1号に登録された「京都中央電話局」を、2001年、外観そのままに商業施設にリニューアルしたが、2016年に一時閉館され、2020年に建築家・隈研吾氏による、木組みを取り入れた現代的な「新築棟」と、電話局の一部を残した大正時代のレトロなレンガ造りの「保存棟」で構成された建物に再リニューアルされた -
「新風館」は、ホテル、映画館、ショップなどが入る複合施設
館内にはアジア初上陸の「エースホテル京都」やコンパクトな全44席のミニシアター「アップリンク京都」と、アパレル、雑貨、カフェ、レストランなど20店舗が入居している *「エースホテル」は、アメリカを本拠に国内外8カ所でホテルを運営しているが、最近2025年9月西武プリンスが買収している -
「京都伝統工芸館」
京都が世界に誇る伝統工芸品の仏像、陶器などを国内外に発信するために、2003年一般財団法人京都伝統工芸産業支援センターにより設立された -
「京都伝統工芸館」(当日休館)
陶磁器や漆工、竹工、木工、仏像彫刻、和紙工芸などの作家作品や学生の作品を展示し、日替わりで若手職人や学生による伝統工芸の技を間近で見学できる -
(三条通)「スタバ三条烏丸店」
(三条通)は、山科から嵐山渡月橋まで、三条大橋は東海道五十三次の西の起点で、明治時代はメインストリートだったので、現在もレトロな近代建築が残り、現代のショップが混在した繁華街になっている -
「三条西殿・三条大路跡」
三条大路(三条通)・姉小路(姉小路通)と、烏丸小路(烏丸通)・室町小路(室町通)に囲まれた一画は、平安時代後期には皇族や有力貴族の高級邸宅街で、白河法皇、鳥羽上皇、待賢門院璋子(たいけんもんいん1101-1145)の御所として、院政時代の政治の中心となった「三条西殿」の遺跡で、白河法皇は三条東殿と三条西殿を行き来し、待賢門院はここで崇徳天皇、通仁親王を産み、白河法皇は1129年ここで亡くなっている -
「旧第一勧業銀行京都支店」(京都銀行三条支店)
1906年(明治39年)、建築家辰野金吾の設計で、近隣の京都文化博物館別館(旧日本銀行京都支店)と共に建設され、1999年に解体され、2003年にオリジナルと全く同じ外観と規模でレプリカ再建され、第一勧銀からみずほ銀行へ名称変更され、現在は通り向かいの「京都銀行三条支店」が建替え工事中のため、2026年12月31日 の完了予定まで仮店舗として使用され、以後はどうなるか不明 -
「三條南殿の遺址」
この地には、初め左大臣藤原実能(さねよし)の邸宅があり、1133年頃に鳥羽上皇の御所となり、上皇の皇女・上西門院(じょうさいもんいん1126-1189)の御所になった、この時、若き日の源頼朝が上西門院の官人としてこの御所で勤務していたという *鳥羽上皇(1103-1156)は、1107年即位するが祖父白河法皇による院政がしかれ、1123年譲位し鳥羽離宮に住み、1129年より崇徳・近衛・後白河の3代28年にわたり院政をしき、1141年出家し、1156年崩御 -
「文椿ビルチング」(ふみつばき)
西村貿易店社屋として大正9年(1920)建てられ、繊維問屋、米文化施設、内装業者、呉服商社を経て、2004年から商業施設として再生し、現在レストランや雑貨、マッサージ、コスメショップなど様々なショップが入る -
「千總」の屏風祭(びょうぶまつり)
祇園祭の宵山期間には、京都の旧家・商家がこぞって秘蔵のお宝を公開して祭りを盛り上げる「屏風祭」が見られ、「千總」でも毎年屏風などの所蔵品を展示している、前祭7月14~16日、後祭7月22~23日 -
「千總」(ちそう)京友禅の老舗
室町時代1555年、法衣織物業として創業した千切屋(ちきりや)に始まり、1669年に4代目が金襴巻物や法衣を扱う「千總」を分家創業し、高級着物や和装小物の製造・販売を手がけ、宮家や寺院の装束を手がける「御装束師」として発展し、現在も振袖をはじめとする高級呉服や、スカーフなどの関連アイテムを販売している *「千切屋」一門は、分家・別家を含め最盛期には100軒を超えるほど繁栄し、三条室町の辺りは壁の色が五色に分かれていたことから「五色の辻」と呼ばれ、現在では、千切屋株式会社(呉服・和装卸)、株式会社千總(京友禅・染織品)、千切屋治兵衞株式会社(京友禅・呉服卸)、株式会社千切屋(法衣・仏具)の他、株式会社千吉商店(京町家ちおん舎を運営)、京都三条ちきりや(日本茶専門店)、六角ちきりや茶舗(茶葉販売店)が屋号を継ぎ現在も活動を続ける -
「岸竹堂」(きしちくどう)
岸竹堂(1826-97)は、明治時代の京都画壇を代表する画家で、千總の12代当主の絵の師で、千總の友禅や刺繍製品の下絵を手がけたという深い縁があり、生誕200年を記念して竹堂の屏風や、襖絵、千總の関連資料などのコレクションを公開する -
「猛虎図」1890年(明治23) 左隻、右隻
-
「牛馬図」1895(明治28) 左隻、右隻
-
「梅図」1875年(明治8)左隻、右隻
-
-
「千總」1階店舗ショウルーム
初のフラグシップストア(旗艦店)として、2020年オープン -
奥には庭園もあって、奥深い伝統を感じさせる
-
通りの向かいに「華道家元池坊ビル」
-
(六角通)「六角堂鐘楼」
新京極通から「六角堂」(頂法寺)前を通り、佐井西通まで -
「カンデオホテル」京都烏丸六角
東京拠点に全国28ホテルを展開する独立系ホテル会社が、2021年に開業、玄関は近江出身の呉服商の店舗兼住居として建てられた明治期の京町家「伴家(ばんけ)住宅」を原形そのままに改修した受付ラウンジスペースで、客室は10階建てのビルに106室ある *カンデオホテルズ創業者の「穂積輝明」氏は、1972年京都府生まれの54歳、京都大学工学研究科を修了後、リクルート創業者の江副浩正さんが設立した不動産・開発会社スペースデザインに入社し、その後2012年40歳で独立し、5つ星ホテルでも3つ星ホテルでもない4つ星ホテルをコンセプトに全国展開している -
「旧山口銀行京都支店」
1916年(大正5)に建てられた「辰野金吾」建築の一つで、2004年に北國銀行京都支店、2007年に複合商業施設「flowing KARASUMA」、2014年現在の「DEAN & DELUCA 」になる *「辰野式建築」の特徴は、赤レンガに白い花崗岩でボーダーのようなラインを描き、屋根に塔や小屋が載ったデザインで、全国に200以上あったが現存するものは24だけ、1896日本銀行、1906日本銀行京都支店(京都文化博物館)、1906第一銀行(みずほ銀行京都支店)、1909奈良ホテル、1914東京駅、1914日本生命京都支店、1916山口銀行京都支店、1918中之島公会堂 -
「DEAN & DELUCA 京都」
2014年にレストランを開業し、翌年からカフェ、フードマーケットとしてリニューアルオープン、元銀行だから天井が高く開放的で、銀行の金庫を見ながら食事出来る *「DEAN & DELUCA」はアメリカニューヨーク発祥の世界中の高品質な食材やキッチン用品を取り扱うセレクトショップだが現在は日本のみ50店舗展開 -
「八坂神社御手洗井」(みたらしい/みたらいい)
今まで気づかなかったが、かつてこの地に、祇園社の御旅所があり、1568年織田信長の上洛に際し、現在地寺町四条に移転したが、その後も祇園祭の際には注連縄が飾られ神水が施される、井戸は地下水脈で八坂神社に繋がっているとされ、井戸の龍神は、神幸祭の神輿に乗り、御旅所から八坂神社へ還幸し、再び井戸に戻るといい、夏にこの 水を飲むと疫病にかからないと言われた、1997年地下鉄工事で一帯の井戸が涸れ、現在は、地下70mよりポンプで水を汲み上げているが、飲料可 -
(錦小路通)
新京極・錦天満宮から錦市場を通り壬生川通まで、平安時代には織物職人が多くいたことから具足小路、転じて糞小路とも呼ばれていたが、あまりに不作法であるとして、隣の綾小路に因んで錦小路に改められた -
「まんざら亭 NISHIKI」
明治時代の呉服屋をリノベーションし1985年に創業、京都の町家を活かした居酒屋の草分けとして知られ、現在11店舗展開 -
「占出山(うらでやま)町」
この辺りは、祇園祭で「占出山」(うらでやま)を出す山鉾町で、日本書紀にある逸話から、神功皇后(じんぐうこうごう)が戦いに際し、鮎釣りで戦勝を占い見事に鮎が釣れて戦いに勝ち「占いで吉兆が出た」として「占出山」と命名され、町名もこれに由来する -
11:30 ランチ「割烹 凪」(なぎ)
ちょうど山鉾の前に、テレビでも紹介されて行きたいと思っていた和食屋さんがあったので、11:30の開店に合わせて行くとすでに行列、でも何とか滑り込み -
夜は4000円~のメニューだが、昼は牛皿膳1,200円、お造り膳1,250円、ゆば御膳1,450円、はも御膳1,750円とリーズナブル
-
どれも美味しそうだったが、「うな丼膳」1,400円があったので注文、季節の小鉢と海老天付きの茶蕎麦がついて、満腹!
-
店のすぐ前で「吉兆あゆ」を販売している
神功皇后が釣ったとされる鮎で、「大極殿本舗」で初夏に売られている「若あゆ」だが、この時期にここでしか求められない *「大極殿本舗」は、明治18年に創業し、いち早く京都でカステラ製造を始めた老舗で、慶応元年(1865)建築の店主の住居をリノベーションし平成14年(2002)にオープンした「栖園」(せいえん)で頂く季節の甘味は絶品 -
「占出山」(うらでやま)
別名「鮎釣山」(あゆつりやま)とも言われ、神功皇后(170-269)が、妊娠中にもかかわらず、女将軍として三韓征伐に出兵し、釣り糸を垂れて鮎占いをして戦勝の吉兆を得たという故事に因み、戦いの後、無事に後の応神天皇を出産したことから、安産の信仰で知られるようになった *祇園祭では「神功皇后」に纏わる山鉾が他にも前祭の「船鉾」と、後祭の「大船鉾」があり、どれも安産のご利益があり、占出山が出陣前、船鉾が出陣、大船鉾が凱旋とされ、神功皇后の姿も一般的装束と鎧姿と、狩衣姿と変わる -
「山建て」中の占出山
駒形提灯と山の骨組みや松の木が立ち、最後に会所で待っているご神体が据え付けられる、山鉾は「舁山」(かきやま)で、車輪がなく、約500kgを14人程度でかついで巡行する *最も大きい「鉾」(ほこ)は、屋根の中央にシンボルの飾りがついた「真木」(しんぎ)が立ち、重さは10トンを超える、「曳山」(ひきやま)は、車輪や屋根があるが、真木の代わりに「松の木」が立てられ、重さは1~10トンまで、他に「船鉾」(ふねほこ)「傘鉾」(かさほこ)の種類もある -
(COPY)「御神体は右手に釣竿、左手に鮎」
「御神体」は、神功皇后が鮎釣りで占いをする姿で、右手に竿を、左手に釣れた鮎を持っている、神功皇后は妊娠中で、石で腹を鎮めて出産を遅らせ、戦いの後、無事に出産したと言われ、祭りの巡行時には衣装の下に腹帯を巻き、巡行後に、この腹帯の授与をうけて、安産祈願をするサービスがある、また山鉾巡行のくじ順が早いとその年は御産が軽いといわれ、昨年2025年は8年ぶりに山一番を引き当てた、ちなみに今年は山二番 -
「占出山会所」(かいしょ)木下順庵邸宅跡
入り口に「此附近木下順庵邸跡」の石標がある、「木下順庵」(1621-98)は京都の儒学者で、幕府に登用され将軍綱吉の侍講となり、門下に新井白石や室鳩巣(むろきゅうそう)などを輩出した -
「神社形式の会所」
外からは見えにくい細い路地を入った奥にあり、手前に手水鉢もある「奥棟型町会所」という、山鉾町でも数少ない貴重な神社形式の会所で、1864年蛤御門の変のどんどん焼けで焼失した際には、多くの公家や御所などから費用を寄進され再建され、公家などからの信仰が厚かったことが伺える -
会所の「本殿」
「神功皇后」(じんぐうこうごう)を祀る -
山鉾町最古の「土蔵」
過去に市街地の大半が焼けた1788年「天明の大火」や1864年「元治どんどん焼け」など数多くの大火でも、占出山の装飾品は一度も焼失することはなく、他町に比べると多くの古い町飾りを残し、大火を免れたのは神功皇后の神徳であると考えられている -
「会所飾り」(かいしょかざり)
上部は屋根回りの水引「三十六歌仙図肉入」、その下は前掛、胴掛の「日本三景」で手前から松島、宮島、天橋立 -
見送は、1794年製作の綴織「双龍宝尽額牡丹鳳凰文図」
山鉾の背面を飾る「見送」(みおくり)は、「双龍宝尽額牡丹鳳凰文図」(そうりゅうたからづくしがくぼたんほうおうもんず)の綴織(つづれおり)で、「旧見送」の「鳳凰牡丹円紋綴錦」(ほうおうぼたんえんもんつづれにしき)は、中国・明代の作で世界で唯一とも言われる非常に貴重な国宝級の文化財で、蔵に保管されている -
「吉兆あゆ」
「鮎」という漢字は、中国では「なまず」のことだが、神功皇后が鮎を釣って戦勝を占ったことから、日本では「あゆ」になった -
「安産のお礼」
会所には、安産のお礼として宮家、公家から寄進されたという小袖や打掛などの装束が多数残されている -
「孟宗山会所」(もうそうやま かいしょ)
この辺りは「笋町」(たかんなちょう)という超難読で知られる町名で、中国の故事で、タケノコを求めて親を喜ばせた孟宗の親孝行伝説に因んだ「孟宗山」という山鉾町であったことから、タケノコ(筍)を意味する漢字の「笋」(たかんな)を使った町名になっている -
「孟宗山」(もうそうやま)会所の駒札
(会所の家・土蔵・地蔵堂は、昭和58年に京都市指定有形文化財に指定された)「笋町」(たかんなちょう)は、祇園祭のとき孟宗山を出す町内である。町会所は、会所家、土蔵、地蔵堂から構成されている。会所家は、明治30年(1897)に造営された平家建てのもので、八畳二室から成り、間仕切りの欄間には竹をあしらった数寄屋風のものがはめられている。土蔵は、明治元年(1868)の造営で、二階建てである。地蔵堂は前方に向拝柱をもち、懸魚(げぎょ)や木鼻(きばな)の彫刻は小さいながらもよくまとまっている。会所家、土蔵、地蔵堂が敷地の奥の方にまとまって建ち、また塀に沿って真竹が植えられているという構成は、祇園祭会所の一例として貴重である。*「懸魚」は屋根の端に水に強い魚を飾り火伏せになる、「木鼻」は柱から飛び出た部分に獅子や象や龍などの彫刻で端を保護し、建物が立派に見えるようにする -
「山建て」中の「孟宗山」
孟宗山の御神躰は、中国呉の国の「孟宗」が、タケノコを食べたいと言う病身の母親のために、真冬の雪の中を探してやっと掘り当て、食べさせたところ母親が元気になったという姿をあらわしており、左手にタケノコ、右手に鍬を持ち、松の木には白い雪が覆っており、孟宗山には親孝行のご利益があり、別名「笋山」(たけのこやま)とも呼ばれる、因みにこのタケノコが日本でいちばん多い品種の「孟宗竹」になる -
(COPY)孟宗山の見所は「平山郁夫の胴掛と竹内栖鳳の見送」
孟宗山の見所は、平山郁夫(ひらやまいくお 1930-2009)による側面の胴掛(どうかけ)と、竹内栖鳳(たけうちせいほう 1864-1942)による後方の見送(みおくり)で、「胴掛」は平成20年(2008)、200年ぶりに新調する時に、シルクロードを描き続けた平山画伯の作風と、中国故事に由来する孟宗山のイメージが合致することから制作を依頼したもので、太陽と月の「砂漠らくだ行」が左右を飾る、「見送」は八坂神社の氏子であった栖鳳が昭和15年(1940)喜寿を記念して寄贈したもので、雪中の筍の故事にふさわしい真冬の竹林を墨一色のモノトーンにすることで独特の気品と異彩を放つ「白地墨画叢竹図」(しらじぼくがそうちくづ)が後方を飾る -
「屋台」は、明日の宵々山(15日)から始まる
-
(四条通)
「四条烏丸」は祇園祭前祭巡行のスタート地点(後祭のスタートは「御池烏丸」) -
「函谷鉾」(かんこぼこ)
祇園祭の山鉾は、室町通に多く、四条室町は「鉾の辻」と呼ばれるが、1本東側の烏丸通には、占出山、孟宗山と、先頭を行く長刀鉾と山鉾2番目の函谷鉾が見れる -
「祇園祭の日程」
7月1日「吉符入り」(きっぷいり)という神事で幕を開け、会所に御神体を飾り、会所でお囃子の練習が始まり、2日くじ取り式、10日神輿洗式、10~12日鉾建て(本体櫓の組立、真木建て、曳初め)、14~16日前祭宵山(会所飾り)、17日前祭巡行、21~23日後祭宵山、24日後祭巡行、還幸祭、28日神輿洗式、31日疫神社夏越祭 -
「鉾・重要文化財ゴブラン織拝観」
「女の方も鉾の上に乗っていただきます」とあるが、江戸時代初期までは、女性も鉾に乗って巡行に参加していたが、江戸中期以降、事故が起こり女人禁制になり、平成13年(2001)に女性の巡行や囃子方への参加が認められ、函谷鉾はその先駆けとなったが、現在も禁止されているのは長刀鉾と放下鉾だけ -
人生初の「山鉾体験」
前祭の主要な山鉾では、宵山期間中に上がれるので、混雑しない内に上がることにした -
函谷鉾の「会所飾り」
2階の狭い部屋に、御神体・神棚や懸装品が展示されている -
(2023/7/12撮影)「前祭・鉾曳き初め」「函谷鉾」(かんこぼこ)
紀元前の中国の戦国時代に、斉の国の「孟嘗君」(もうしょうくん)が、函谷関(かんこくかん)で門が開かず通れなかったので、家来に鶏の鳴き声を真似させたら門が開き無事通り抜けできたという故事に因み、鉾頭の先端の三角形の山と、その上の三日月は山中の闇をあらわし、真木の中央部の天王座(てんのうざ)に「孟嘗君」、その下に雌雄の鶏がいる -
稚児人形「嘉多丸」(かたまる)
御神体の「孟嘗君」は鉾の「真木」に取り付けられており、神棚には巡行の際に乗る「稚児人形」と御神号「祇園牛頭天皇」の掛軸が飾られている、函谷鉾の「稚児人形」は、1788年の大火で消失し1839年に復興した時、稚児を出す家が少なかったので、他町に先駆けて明治天皇后の実兄をモデルにした「嘉多丸」(かたまる)を制作し、以後殆ど稚児人形になったが、生稚児が乗るのは「長刀鉾鉾」のみで、「綾傘鉾」は6名の稚児が徒歩で先導する -
「イサクに水を供するリベカ」(前懸)
16世紀末にベルギーで作られた羊毛を使った「ゴブラン織り」といわれ、祇園祭の前懸としては最大のもので、国の重要文化財に指定された函谷鉾の至宝、旧約聖書創世記第二十四章の「イサクの嫁選び」の場面が描かれており、18世紀の初頭から函谷鉾の前掛として使われ、平成17年(2005)に復元新調したものを、新旧並べて展示する *どうやって手に入れたか、調べてみると、1633年平戸のオランダ商館長が平戸藩の松浦氏を通じて3代将軍・徳川家光に献上されたものを、なぜか函谷鉾町に住んでいた豪商の沼津宇右衛門が所持していて、1718年に寄贈されたという -
「エジプト天空図」(見送)
エジプトを象徴する動物を表した雄大でロマンあふれるデザインで、昭和55年(1980)に染織作家の皆川泰蔵氏により寄贈された -
「モンサンミッシェル」(前掛)
仏ノルマンディーの海岸に浮かぶ世界遺産の聖堂をメインに、飛行船と気球を描いた作品で、平成10年(1998)に皆川泰蔵氏より寄贈された *「皆川泰蔵」(1917-2005)は、現代工芸界の重鎮で、木版画などの額装になった作品や屏風など人気があり、祇園祭の鉾にも大作が多く、函谷鉾の2作品の他にも、放下鉾の「バクダッド」、岩戸山の「べネツィア図」は有名 -
「金剛界礼懺文」(こんごうかいらいさんもん)見送
「弘法太子大師真筆写紺地金文字織」という弘法大師(空海)の真筆と伝えられる経文で、長らく掛けられ、文字柄の見送は珍しく、独特の重厚感を醸し出して来たが、現在は「エジプト天空図」が使われている -
会所飾りの延長上には、山鉾に架けられた渡り廊下がある
-
欄縁の下の水引は、「群鶏草花図」(ぐんけいそうかず)、孟嘗君の「鶏鳴狗盗」(けいめいくとう)に因む鶏の群れと草花の図で、函谷鉾の宝の一つとされている
山鹿清華(やまがせいか)の作品、その下の胴掛は、「梅に虎文」(うめにとらもん)、太い幹の梅樹と大虎で、気高さ、強さ、縁起良さを表す -
「函谷鉾」の高さは、櫓まで8m、鉾頭までは24mで、全山鉾の中で2番目に高い、1番は「月鉾」の26.7m、「長刀鉾」はほぼ同じ
-
山鉾に乗る人数は、囃子方(はやしかた)最大70名、巡行時の総重量は約12トンで、これを40~50人で曳く
-
天井の「阿吽亀」(あうんがめ)
公益財団法人設立60周年を記念して今年(2026年)に新調された新しい天井幕で、闇夜の2匹の阿吽亀は、暗い夜に良縁が舞い込む様子と長寿、良縁を表現し、函谷鉾の縁が長く続くようにという意味が込められているという -
函谷鉾は「くじ取らず」
毎年、先頭を行く長刀鉾に次いで鉾としては2番目、全体で5番目に巡行する -
「函谷鉾ビル」
公益財団法人「函谷鉾保存会」の所有ビルで、1、2階は完全に「函谷鉾」仕様、上階をテナントビルとし、2階には懸装品や屋根部材を収蔵する蔵、1階には鉾部材、車輪を収蔵する車輪の高さに合わせた天井の高い蔵がある(1974年竣工) -
隣は「長刀鉾」(なぎなたぼこ)
「くじ取らず」の鉾として常に山鉾巡行の先頭を、大長刀で疫病邪悪を祓いながら進み、山鉾の中で唯一の「生稚児」(いきちご)が行う「注連縄(しめなわ)切り」で巡行がスタートする -
「長刀鉾」(なぎなたぼこ)
平安時代の刀工・三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が、娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したという大長刀が名前の由来で、真木の中央部「天王座」にはかつて鉾先の長刀を愛用したといわれる源氏の武将・和泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)の人形が祀られている -
(2023/7/12撮影)「前祭・鉾曳き初め」「長刀鉾」(なぎなたぼこ)
鉾先きの「長刀」(なぎなた)は 1.1m、地上から櫓まで約8m、長刀の上までは約25m(8階建てくらい)で、本物は秘蔵され、漆とプラチナ箔を施した竹製の模造品を用いている、真木(しんぎ)を固定する三角帽子のような「真木の網隠し」(あみかくし)は、前面に祇園社の神紋・木瓜(もっこう)紋、後方に巴紋(防火・魔除け)が付いているが、「長刀鉾」だけは前後とも木瓜(もっこう)紋が付いている -
「長刀鉾」会所
会所はビルとビルの間にある独立した2階建てコンクリートの建物で、唐破風(からはふ)イメージの屋根をつけて祇園祭仕様のビルにしているのは流石!山一番(2000年竣工)、今日見ただけでも、テナントビルや、狭い路地奥の町家や神社など、山鉾の歴史と、保存会の財力や各種事情が伺い知れて興味深い -
「長刀鉾」の会所飾り
祇園祭は「動く美術館」と言われるが、勿論「長刀鉾」の懸装品も豪華絢爛で、前懸はペルシャ花文様(かもんよう)絨毯、胴懸は中国玉取獅子図(たまとりじしず)絨毯など16世紀の希少な絨毯や17世紀のペルシャ絹絨毯などどれも豪華だが、注目は錦市場出身の「伊藤若冲」の見送「旭日鳳凰図」(きょくじつほうおうず)の綴れ織りで、宮内庁尚蔵館が所蔵する原画を基に川島織物セルコンが3年がかりで作ったという -
(綾小路通)「からすま京都ホテル」
1888年京都ホテルを創業し、1983年開業、2001年ホテルオークラと業務提携、2002年京都ホテルオークラに改称、2022年ホテルオークラ京都に改称、「綾小路通」(あやのこうじどおり)は、寺町通から壬生寺地区を通り天神川通西まで -
「西陣織あさぎ美術館」(休館中)
「西陣あさぎ」とは、西陣織の最高峰の技術を駆使し、浮世絵やモネ、ゴッホの名画などを精緻に織り上げた西陣織ブランドで、京都の老舗専門商社ツカキグループが継承し、2019年自社本社ビルに美術館を開設して展示している *「ツカキグループ」の現社長6代目喜左衛門は、吉田神社麓にある「重森三玲旧宅の招喜庵」(築300年)を改修したことで知られる -
(仏光寺通)「二帖半敷町」(にじょうはんじきちょう)
この辺りの町名は、「二帖半敷町」という京都でも面白い名前で、由来を調べると、かつてこの地にあった「五条寺」の住職が、2人の弟子へ寺を半分ずつ(五条を半分にして「二条半」)譲ったという「五条寺説」と、畳が5帖しかない小さな家に兄弟が半分ずつの「二帖半」に分かれて住んでいた「畳五帖説」がある -
「大政所御旅所」(おおまんどころおたびしょ)ダイワロイネットホテルの一角
かつてこの地には、祇園社御旅所が置かれ、中御座の牛頭天王(素戔嗚尊)と西御座の八柱御子神が祀られていたが、1591年秀吉により、烏丸竹屋町にあった東御座の櫛稲田姫命と共に、現在の四条寺町に移築・統合された、現在でも祇園祭還幸祭の時には三基の神輿が立ち寄り神職が拝礼する -
(高辻通)「勾天神」(においてんじん)京都銀行本店東棟南壁の中
菅原道真を祀る小さなお社で、洛陽天神二十五社の一つ、由来は全く分からないが、近くの「大政所御旅所」の周りに梅林があって、道真公の梅と結び付けた、かもしれない? -
「因幡堂 石灯篭」(いなばどう いしどうろう)
この石灯篭は、安政4年(1857)に高島屋の創業者・飯田新七が烏丸通向かい側の「高島屋発祥の地」で、天保2年(1831)に古着と木綿の店を始め、近くにあった「因幡堂」を信心し建立したもの -
(2025/11/06撮影)「不明門通」(あけずのもんどおり)
「因幡薬師」(いなばやくし)は、平安時代の1003年に、因幡守の橘行平(たちばなのゆきひら)により建立され、本尊の「薬師如来」は、医薬の仏として、古くから病を抱えた人たちの最後の拠り所として信仰を集め、近年は癌封じの仏様として知られ、嵯峨清涼寺、長野善光寺と並び「日本三如来」の一つで重要文化財(非公開)、本尊は度重なる火災に遭ってもその都度難を逃れてきたので、すぐに逃れられるよう、車輪付きの厨子に頭巾を被っている -
「高島屋発祥の地」(京都銀行本店)
「高島屋」の創業者は、越前敦賀で生まれ12歳で京都の呉服商へ奉公し、26歳で京都の米穀商「高島屋」飯田儀兵衛(滋賀高島出身)の長女の婿養子となり、その後分家独立して、1831年烏丸松原のこの地で古着・木綿商「たかしまや」として営業開始、1898年2代目が大阪店を開店、1900年日本橋店開店、1912年京都店を烏丸高辻に移転、1948年京都店を四条河原町に移転、2000年名古屋店開店 -
(松原通)「俊成社」(しゅんぜいしゃ)ヒルトンガーデンインホテルの一角
平安から鎌倉時代にかけて活躍し、後白河法皇の命で「千載和歌集」を編纂し、名歌人として知られる「藤原俊成」(1114-1204)を祀る、藤原定家(1162-1241)の父親 -
(万寿寺通)「北阪ビルディング」
松原通を過ぎて五条通の手前(万寿寺通)のオフィスビルに、場違いな京都市電が飾られている、公園など外にあるのは良く見かけるが、ビルのショウルームとして見るのは珍しいので調べてみると、このビルの昭和60年(1985)竣工時からこの場所で保管されているそうで、全てビルのオーナーの熱意によるものらしい、祇園祭だけでなく、こういう所でも熱心な地元愛を発見するとは、感銘しかない *京都市電は日本最初の営業用電気鉄道として1895年(明治28)に開業し、1978年(昭和53)全廃、電車は犬山の明治村にも保管され、京都市内では、京都コンピュータ学院白川校、平安神宮、梅小路公園、一乗寺塚本児童公園、京都カトリック信愛幼稚園、伏見柴田屋敷町公園、京都教育大付属桃山小学校、紫明幼稚園、東映太秦映画村など -
(五条通)烏丸五条
-
「サン・クロレラ本社ビル」& TEA ROOM(アンドティールーム)
サン・クロレラ本社ビルに昨年2025年、新たにカフェがオープンしていたので、流石の酷暑に耐え切れずイン *「(株)サン・クロレラ」は、1969年京都で創業した健康食品メーカーで、クロレラ製品の製造・販売でグローバルに展開し、推定年商30億円 -
「サン・クロレラとクロレラ飲料」
「サン・クロレラ」は、総合的な栄養補給や野菜不足の改善を目的とした粒や粉末のサプリメントが主体で、ヤクルトに似たクロレラ飲料を販売しているのは京都の「クロレラ食品ハック」や大分の「クロレラ本社」など全く関係ない別会社だという -
「クロレラとヤクルト」の違い
これらは同じものかと思っていたが、全く別物で、「ヤクルト」は乳酸菌シロタ株を主にした腸内環境改善飲料、「クロレラ」は藻の一種の植物を主にしたタンパク質やビタミンなどの栄養補助食品で、ヤクルトも昔は乳酸菌を増やすためにクロレラを使っていたが今は使わず、クロレラも今はシロタ株も使ったヤクルト紛いの飲み物を安価に販売しているが、規模的には国内だけでもシェア70%近くのヤクルトが圧倒的 -
カフェでは、「クロレラ」を使ったドリンクやスイーツ、ヘルシーランチなど提供するが、お勧めのクロレラエキスと高麗人参の仲間のエゾウコギのエキスを使った健康ドリンクを注文、滋養強壮、疲労回復、免疫力向上などの効果が期待されます
-
「磯貝装束店」祭典用具・御装束
昭和14年(1939)創業だが、2021年閉業 -
(花屋長通)はなやちょうどおり
富小路通から天神川通までで、東本願寺と西本願寺の北側を通り、かつて多くの花屋や仏具店が並んでいた -
「東本願寺」しんらん交流館
「しんらん交流館」は、親鸞聖人の教え(浄土真宗)を伝え、地域や人々が交流する場を提供する為に、真宗大谷派(東本願寺)が2015年に開館した -
東本願寺「玄関門」(国指定重要文化財)
近代、1911年(明治44)に再建された「薬医門」(やくいもん)で、医師の門として使われたとか、矢を防ぐ構造とかの説がある -
東本願寺「菊門」(国指定重要文化財)
近代、1911年(明治44)に再建された「勅使門」で、天皇や天皇の使いが訪れる時だけ開かれ、扉に金色の菊花紋章が付けられている -
「東本願寺」は、鎌倉時代、親鸞によって開かれた浄土真宗が本願寺という大きな勢力へ発展し、豊臣秀吉から七条堀川の地を与えられ1592年「西本願寺」が誕生し、この勢力を警戒した徳川家康が、1602年本願寺の跡目争いにかこつけて七条烏丸の地を与えたことにより誕生した
-
東本願寺「御影堂門」ごえいどうもん(国指定重要文化財)
江戸中期1739年建立で、現在のものは1911年(明治44)の再建の「大師堂門」、木造建築としては世界最大を誇り、高さ約27mは日本一の高さで、「京都三大門」の一つとされる(他は、南禅寺、知恩院、又は仁和寺) -
「蓮華の噴水」
大正7年(1918)、京都市役所など設計した建築家・武田五一氏が設計し、京都画壇を代表する竹内栖鳳がデザインしたもので、琵琶湖疏水から運ばれた防火用水道「本願寺水道」を利用し、水源地との高低差を活かして自然圧力で噴出している、という優れもの -
(2025/06/04)「琵琶湖疎水の水路」本願寺水道
明治23年(1890)完成した琵琶湖疎水は、水道や農水用だけでなく、発電所や庭園、御所や「東本願寺」の防火用水にまで利用され、円山公園、平安神宮、動物園に次いで、明治30年東本願寺、明治45年京都御所にも導水管を引き、しかも蹴上と本願寺の高低差を利用した自然水圧ポンプで、防火放水だけでなく、噴水や境内周りの外堀や渉成園の庭園にまで使われた、東本願寺は度重なる大火で再建中で、田邊朔郎に相談し、莫大な費用も全額本願寺が支払い、御所よりも早く完成したが、2008年に送水は停止され現在は地下水をくみ上げているという -
東本願寺「阿弥陀堂門」(国指定重要文化財)
近代、1911年(明治44)に再建された「本堂門」で、江戸時代には「唐門」と呼ばれ、菊花、桐の紋がある -
「お東さん広場」(おひがっさん)
令和5年(2023)、東本願寺前市民緑地としてオープンし、市民憩いの場やマルシェやものづくり市などのイベントにも使われ、災害時の拠点としても活用される -
(2025/11/06)「不明門通」(あけずのもんどおり)
「烏丸通」は、「お東さん広場」で「不明門通」側に歪曲しているが、これは明治45年(1912)の市電開業の際に、東本願寺の門前に全国から集まる門徒によって混雑すると危険であると判断し、東本願寺が東側の空き地を無償貸与し、市電を弓なりのルートにしたもので、1974年に市電が廃止された後もそのまま残っており、ここで「烏丸通」と「不明門通」が一部合体している -
「ゴマフアザラシ」モニュメント
京都駅周辺を歩いていると、こういうイルカやアザラシなどのモニュメントが置かれている、どういう意味か、分からなかったが調べると、観光客へ向けたガイドシステム「京都・梅小路エリアNAVI」の一環として、2016年に烏丸通や七条通などに、SLや列車、イルカ、ペンギン、クラゲなどのモニュメントが計16基設置されたらしい -
(2025/07/14撮影)「西洞院通」東塩小路公園のミズクラゲとミズダコ
「京都・梅小路モニュメントストリート」として、京都駅から梅小路公園までの道のりにブロンズ製モニュメントが23基、梅小路公園内に18基、計41基のモニュメントがあり、これらは全て京都市立芸術大学の学生が作成している、資料によると、SL義経号、ケープペンギン、SLD51形、SLC62形、バンドウイルカ、0系新幹線、500系新幹線、シモンちゃん、チンチン電車、扇形車庫、市電2000型、旬のやさいとくだもの、ミズクラゲ、ミズダコ、SL8620形、SL230系など -
(2024/07/03撮影)「新町通」塩小路通の京都中央郵便局前の赤いオブジェ
京都市内を歩いてもう一つよく見かけるのが赤い物体で、彫刻家「清水六兵衞」の作品が市内9か所にあり、「寿冠」京都新聞ビル、「朱態」京セラ美術館、「朱鳥舞」みやこめっせ、「朱装」京都文化博物館、「朱甲舞」京都駅ビル大階段、「CONNECTION」中央郵便局、「朱甲面」京阪電車三条駅、「祭甲」京都テルサ、「湧峯塔」石清水八幡宮など、それぞれ名前がついてるが、よく見ないと分からない *「清水六兵衞」7代(1922-2006)は、東京芸大で学び、陶芸家から彫刻家に進み、日本各地に作品を設置している -
「ヨドバシビル」
2010年に近鉄百貨店跡地にオープン、4~8階はテナントビル -
「京都タワー」
当時、周囲の反対を受けながらも完成した、京都市内で最も高い建物に、これまで一度も上がったことがなかったので、今回烏丸通散歩の締めくくりとして、初体験することにした -
京都タワーの誕生は「東京オリンピックと同じ」
京都タワーは、1953年(昭和28)京都駅前の中央郵便局の移転跡地活用が検討され、1959年京都産業観光センター(現京阪ホテルズ&リゾーツ株式会社)が設立されビルを建てることが決まり、東京オリンピックの1964年(昭和39)10月に間に合わせるという目標で工事を進め、9月に展望室が完成し、全館完成は12月28日になった、その年は10月1日に東海道新幹線が開業し、10月10 ~24日東京オリンピックが開催され、その2ヶ月後に京都タワーが完成した -
京都タワーの「高さ制限」
京都では「東寺の塔(55m)よりも高い建物を作るとタタリがおこる」と言われ、建設当時、政財界の建設推進派と、文化人の反対派との街の美観論争が起こったが、結局、建物は「百尺規制」一杯の31mにし、その上に「工作物」として100mのタワーを乗せて合計131mにし、これが当時の京都市の人口131万人であったことから、決定したと言われる -
京都タワーの「デザイン」
タワーのカタチは、京都らしい「ろうそく」という説明になっていたが、設計者のイメージは「灯台」で、足元の家々の瓦屋根を波に見立て、海のない京都の街並みを照らすとされる -
京都タワーの「展望台はパノラマビュー」
京都タワーの展望室は地上100mで、東寺や清水寺、本願寺、知恩院、八坂神社など、日本を代表する寺社仏閣を360度見渡せるのはココだけで、因みに清水寺の舞台が100m、京都国際会館の辺りで90m、絶景かなの南禅寺三門で70m、先日登った豊国廟は200mとなり、京都以外では、東京スカイツリー634m、東京タワー333m、通天閣100m、エッフェル塔330mなど -
京都タワーの「運営会社」
京都タワーの運営主体は、1959年京都タワーの建設を目的に設立された「京都産業観光センター」、後に京都タワ(株)になり現在京阪グループの京阪ホテルズ&リゾーツで、2024年から地元企業のニデック(日本電産)と命名権契約をしているが、2025年からの不正会計問題でイメージが悪く、辞退しない限り2029年までは「ニデック京都タワー」のまま -
すぐ真下の「東本願寺」
-
今歩いてきた「烏丸通」、京都御苑方面
-
東山・清水寺、霊山観音、円山公園方面
-
新幹線、東寺方面
-
「京都駅ビル」
現在の建物は、平安遷都1200年を記念して1997年(平成9年)に、4代目の駅舎として、4,000枚のガラスを使った吹き抜けのアトリウムや171段の巨大階段、地上45mの空中径路など平安京の碁盤の目を取り入れたデザインで建設された *1872年新橋~横浜間開通、1874年大阪~神戸間開通、1877年(明治10年)初代駅舎(赤煉瓦の建物)、1889年新橋~神戸間全線開通、1914年(大正3年)2代目駅舎(ルネッサンス様式の2階建て総ヒノキ造り)、1950年(昭和25年)2代目駅舎全焼、1952年(昭和27年)3代目駅舎(2階建て鉄筋コンクリート造りで中央に8階建ての塔)、1964年京都タワー、1997年(平成9年)4代目駅舎 -
(2026/04/03撮影)京都駅ビル「東広場」(7階)から
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
月一京町散歩(2)
-
新年蛇年の京都「初詣」と初庭園「對龍山荘」に初喰いの「わらじや」
2025/01/16~
東山・祇園・北白川
-
「京の冬の旅」特別公開・「西来院」と「祇園甲部歌舞練場」の庭園
2025/02/13~
東山・祇園・北白川
-
月一京町散歩(2月)平安京南北散歩「衣棚通・了頓図子」
2025/02/21~
二条・烏丸・河原町
-
早春の「京都植物園」と「天壇」の焼肉と「茂庵」のアールグレー
2025/03/05~
今出川・北大路・北野
-
月一京町散歩(4月)平安京南北散歩「七本松通」と「重森美玲庭園」で砂紋引体験
2025/04/26~
今出川・北大路・北野
-
月一京町散歩(5、6月)平安京南北散歩「東洞院通」と「京都御苑」
2025/06/04~
今出川・北大路・北野
-
月一京町散歩(7月)平安京南北散歩「西洞院通」
2025/07/14~
二条・烏丸・河原町
-
雨の「祇園祭前祭山鉾巡行」と雨上がりの「神幸祭」 2025
2025/07/17~
二条・烏丸・河原町
-
「瓢亭の朝粥」と「南禅寺界隈別荘庭園群」散策
2025/08/13~
東山・祇園・北白川
-
月一京町散歩(9月)平安京南北散歩「富小路通」と「陶版名画の庭」
2025/09/14~
二条・烏丸・河原町
-
月一京町散歩(11月)平安京南北散歩「車屋町通」「不明門通」と「本家尾張屋」で食べ納め
2025/11/06~
二条・烏丸・河原町
-
月一京町散歩(12月)「並河靖之七宝記念館」と「鴨川東・仁王門通周辺エリア」
2025/12/13~
下鴨・宝ヶ池・平安神宮
-
月一京町散歩2026(1月)は午年初詣・藤森神社~下鴨神社~上賀茂神社
2026/01/14~
今出川・北大路・北野
-
月一京町散歩2026(2月)「梅の京都御苑」と「柳馬場通」
2026/02/17~
二条・烏丸・河原町
-
月一京町散歩2026(3月)「早咲き桜の京都御苑」と「御幸町通」
2026/03/19~
二条・烏丸・河原町
-
月一京町散歩2026(4月)「桜の京都御苑」と「間之町通」
2026/04/03~
二条・烏丸・河原町
-
月一京町散歩2026(5月)「壬生川通、坊城通」と「壬生狂言」
2026/05/02~
今出川・北大路・北野
-
月一京町散歩2026(6月)京都国立博物館特別展「北野天神」と周辺歴史散歩
2026/06/06~
東山・祇園・北白川
-
月一京町散歩2026(7月)「烏丸通」(前半)「夏越の祓」で暑気払い
2026/06/30~
今出川・北大路・北野
-
月一京町散歩2026(7月)「烏丸通」(後半)「祇園祭」で暑気迎え
2026/07/14~
二条・烏丸・河原町
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
二条・烏丸・河原町(京都) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 月一京町散歩(2)
0
152