2025/08/13 - 2025/08/13
2627位(同エリア6952件中)
Bachさん
酷暑が続く8月の「暑気払い」に、京都では「人生で一度は食べたい」と言われる念願の老舗料亭「瓢亭」に行ってきました。
ただの「朝がゆ」というなかれ、「瓢亭の朝粥」は、7月と8月にしか食べられず、茶の湯の「わび・さび」の精神で、伝統ある京料理に、店の佇まい、おもてなし、部屋のしつらい、こだわりの器、風情ある庭などが一体となった懐石料理で、庭園目当ての訪問でしたが、祇園の旦那衆になったような一時でした。
その後、南禅寺界隈は何度も歩いているつもりですが、歩くたびに新しい発見があり、今回も琵琶湖疎水分線の扇ダムからの「疎水放水路」沿いを歩くと、ここから水を引き込んで7代目小川治兵衛が作庭した、野村財閥の「碧雲荘」や、三菱財閥の「流響院」など非公開の別荘庭園が多くある中に、平成になって7代目の孫にあたる11代目が作庭した「双龍庭園」を持つ料理屋が、最近リニューアルされて「大力邸」というレストランになっていて、同じ琵琶湖疎水を利用した庭園を持つ、江戸時代からの老舗料亭と、平成のカジュアルなレストランという面白い対比の食事体験をすることになりました。
そして最後は、野村財閥の「野村美術館」(1984年開館)と、住友財閥の「泉屋博古館」(1970年開館)を訪問し、片や「茶人」らしい茶道の美術工芸品、一方は「銅の住友」らしい中国青銅器というコレクションが対照的で、どちらも期間限定で片方しか見れなかったのは残念でしたが、高価な作品についての論評よりも先に、さすが財閥の桁外れの財力には圧倒されるばかりです。
南禅寺界隈には琵琶湖疏水を利用した庭園を持つ15の別荘群があり、非公開が多いので、もっと公開して欲しいとは思いますが、数少ない特別公開のチャンスを逃さないように全制覇を目指したいと思います。
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(行程)9:30地下鉄三条駅~1.7km10:00「瓢亭」11:00~0.7km11:30「大力邸」(双龍庭園)12:30~1.0km13:00「泉屋博古館」14:00~白川通バス停東天王町~四条河原町15:00
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10:00「瓢亭」(ひょうてい)に到着
老舗料亭「瓢亭」で、夜は4万円もするので、なかなか行けないところだが、7月8月限定で暑い夏を乗り切るためにと、昔ながらの名物「朝がゆ」を提供しているので、訪問することにした -
「瓢亭」のトレードマークは「瓢箪」(ひょうたん)
店先に大きな看板などはなく、「瓢箪」の旗のれんと、茶壺や床几(しょうぎ)、草鞋(わらじ)などが置かれ、南禅寺参道の茶屋だった江戸時代からの面影が残っている、「瓢箪」は、子孫繁栄や無病息災など縁起の良いもので、お客様に幸福が訪れるようにという願いを込めており、創業の歴史は(HPによると)「南禅寺境内の門番所を兼ね、(参道に4軒の番所があったが江戸期には副業が営まれるようになり)南禅寺総門外「松林茶店」(腰掛茶屋)として庵を結び、(料理屋として営業するようになったのは江戸時代末期からで)天保8年(1837)創業、400年余りの歴史を育んでまいりました。和敬清寂(茶道の精神)を心とし、茶懐石を基礎としながらも伝統と革新を繰り返し、今日に至ります。季節ごとに趣を変える茶室にて、名物「瓢亭玉子」をはじめ、夏の「朝がゆ」、冬の「鶉がゆ」など、不易流行の京料理をお楽しみいただけます」とあり、京の旦那衆や隣接する山縣有朋邸「無鄰菴」を訪れた伊藤博文や品川弥二郎ら多くの文化人などにも愛され、谷崎潤一郎の「細雪」にも書かれている -
(2024/01/29撮影)隣接する「別館」入り口
1837年創業の「本館」に隣接して、1972年にオープンした「別館」があり、昨年一度訪問し冬の「鶉がゆ」(うずらがゆ)をいただいたが、「瓢亭」の魅力は何といっても歴史ある建物や庭園にあり、「本館」に行かないと意味ない、因みに、別館は 5,445円で、本館は 7,590円と、それなりの値段 -
木戸をくぐると、すぐ左手にはいきなり茶庭の雰囲気を醸し出す、待合の「外腰掛」があり、苔生す「露地」(ろじ)を進むと、街並みから隔絶された別世界に入ったような気分になる
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「外腰掛」まで進むと、大きな石と檜皮の垣根に、古木の根元を覆い尽くす苔に囲まれた露地が拡がり、足利義満ゆかりの「南禅寺」境内の門番所から始まったという、いかにも歴史の深そうな老舗料亭の雰囲気に溢れるエントランスだけで圧倒されてしまう
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涼やかに水打ちされた「露地」の途中には「蹲踞」(つくばい)があり、自然石を敷き詰めた「延段」(のべだん)や、黒文字の垣根など、全てが「自然」の美しさで、人の手が入っているのを全く感じさせない
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敷地内には、一棟ずつ独立した茶室があり、露地の突き当りから各茶室に向かう、正面には最も古い創業当時から築400年以上の茅葺き屋根の茶室「くずや」があり、池を挟んで「探泉亭」、左手に「新席」「広間」があって、それぞれ独特の趣がある
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建物の間を小川が流れており、右手奥にある池に隣接する「無鄰菴」から、琵琶湖疏水の水が流れ込み、そこから敷地内を小川が流れる庭園が拡がり、木橋や石橋を渡って「茶室」に入るという、歴史ある敷地だからこそ出来る料亭の造りである
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案内されたのは一番奥の「広間」で、中庭を挟んで「別館」と向かい合う位置にあり、4人グループの我々には広すぎるので、一瞬相部屋かと思ったが、流石にそれはなかったものの、出来れば4畳半の茶室の方が良かった *帰りに外で見たらどの部屋も外国人観光客ばかりで、ここでもインバウンドに占められているのに減滅
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部屋の入り口には間仕切りや目隠しになる「屏風衝立」があるが、古風とは言えない現代的な画風は、誰か著名人の作品かもしれない
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「広間」は、昭和前期に数寄屋大工によって施工された、4室を襖で区切る広間空間で、「床の間」の掛け軸と花はシンプルそのもの、季節の「芙蓉の花」は我が家にもあるが、ここにきたら存在感が全く違う、日本の伝統料理、ことに京料理は「五感の全てを使って楽しむ」と言われるが、季節の移り変わりを食材や料理、器だけでなく空間全体で味わうということを実感する
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「床の間」の前の奇妙な穴は、2000年の改装工事で、正座が負担にならないように造った足入れ式の座敷で、お膳が落ちないよう半円型にするなど工夫を凝らしており、古きもののに新しきを加える工夫も垣間見える
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ここまで自然に包まれた露地を抜けて、部屋のしつらいを愛でながら待つこと15分、やっと食事が始まる、まずは「梅昆布茶」が出され、口がすっきりする美味しさで、これから出てくる料理に期待が高まる
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次に出てきたのは、江戸時代からの名物「瓢亭玉子」が盛られた「八寸」と、瓢箪型の「三段の瓢(ひさご)の器」、「瓢亭玉子」は、当時ゆで卵を食べる風習などない時代に、庭先で飼っていた鶏の卵を茹でて出したのが始まりといわれ、白身しっかり黄身はとろりの絶妙な半熟加減が一子相伝とされ、「三段の瓢」には「一帯青松路不迷」と書いてあり、(説明では)、頼山陽が詠んだ名歌の一節で「南禅寺参道の松林の一本道を行けば路に迷うことがない」という意味だという、こういうのは説明を受けないと分からない
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「八寸」は、瓢亭玉子と鯛の笹寿司、鰻の八幡巻き、枝豆、「三段の瓢」の上段は、胡瓜の胡麻和え、中段はグジの蒸しもの、下段は賀茂茄子の田楽と生麩と湯葉、全てが上品で美味としか言えない
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その後に出された「海苔と豆腐のお椀」は、海苔の香りと出汁の味わいが最高の湯豆腐感覚で、「鮎の塩焼き」は、頭から尻尾まで「蓼酢」(たでず)で頂く *鮎につきものの「蓼酢」は、蓼の爽やかな酸味と辛味が、鮎の生臭さを消し、鮎の風味を引き立てるという
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最後にメインの「朝粥」を、とろりとした葛あんをかけて頂き、暑さで疲れた心身に沁みる、「朝粥」の歴史も古く、祇園で夜遊びをした旦那衆が芸者さんと連れだって訪れ、寝ている主人を起こして「なにか食べさせて」と訴え、ありあわせの材料で「朝がゆ」を出したのが始まりで、明治になってからは店の正式な献立になったという
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食事を終えて帰り道、庭を散策すると、料理もさることながら、創業当時からの茶室や琵琶湖疎水の水が流れる庭園があり、これらが一体となって。歴史を重ねてきた料亭であることがあらためて分かる
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「広間」の隣にあるのは、丸窓が特徴の「新席」で、明治15年(1882)に建てられた、四畳半に次の間が付く茶室
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「新席」と入り口「露地」に挟まれた庭園
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茅葺の茶室「くずや」に架かる橋
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琵琶湖疎水の小川には、ビックリするほど栄養の行き届いた「鯉」が悠々と泳いでいる
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「鯉」は、日本の庭園にはなくてはならぬ存在で、静寂な空間に動きと彩りを添え、見る人に安らぎを与えるだけでなく、縁起の良い象徴として、立身出世を願う「登竜門」にも例えられる
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茅葺屋根の「くずや」は、創業当時からそのまま残る茶室で、四畳半に三畳間が付く、外からはこんな田舎風の景色が見えるとは、想像もつかない
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池側にある「探泉亭」は四畳半の茶室
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「瓢亭」の庭園は、無鄰菴や平安神宮など南禅寺界隈の庭園と同様、「加藤造園」が管理しているが、作庭は「小川治兵衛」ではなく、長い歴史の中で徐々に現在の形になったとされ、明治以降の小川治兵衛の自然主義的作風よりも、さらに自然な景観を重視した庭園になっている *「加藤造園」は、「植治」の流れを汲んだ「植彌」(うえや)の屋号をもち、1848年「南禅寺」の御用庭師を務めて以来、代々造園業を営み、南禅院、南禅寺方丈庭園、龍吟庭、對龍山荘、南禅寺順正、何有荘、智水庵、金戒光明寺、智積院、渉成園、最近ではホテル椿山荘や星野リゾートまで幅広く展開している
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庭園を見たい目的での訪問だったが、さすが京料理の老舗料亭は、料理だけでなく、座敷や庭など全てのシツライ(室礼)が一体となって、奥深い! 現在51歳の十五代目当主は、茶道の稽古や勉強を欠かさず、料理以外の花の名前や器の歴史、掛け軸の意味など幅広い知識を学んでいるという
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「無鄰菴」(むりんあん)の前を通って、南禅寺界隈へ
明治の元老「山県有朋」(やまがたありとも)の別荘で、「琵琶湖疎水」を利用した最初の邸宅庭園になり、これ以降南禅寺界隈別荘庭園が生まれた、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の4人が日露開戦を決めたという洋館がこの中にある *「無鄰菴」とは、隣家のない閑静な場所という意 -
(2009/11/21撮影)
庭園は、造園好きの山県有朋の設計と、七代目小川治兵衛の自然主義的な作庭によるもので、東山を借景にし、疏水の水を巧みに使い、醍醐寺三宝院の滝を模したという三段の滝からカエデとアカマツの間を縫うように琵琶湖の水が池へ流れてくる景観は素晴らしい -
蹴上の「琵琶湖疏水記念館」とモニュメント「巨大な輝き」
「インクライン」工事に携わった力強い工夫の像で、平成4年 (1992) 建立、台座には「水門を開ける男と開かれた水門からキラキラあふれ出る命の水、幾数千万の力の結果が疎水隧道(トンネル)を造らせた。それは巨大なエネルギー、このパワーを人物に託し、琵琶湖からの永遠の恵みを感謝する気持ちを形とす」宮瀬富之 とある -
白川通から「疎水放水路」沿いに歩く
瓢亭の床の間にもあった「芙蓉」の花は、朝に開いて夕方にはしぼむ一日花で、中国では「ハス」を意味し、蓮の花に似ていることから和名で「フヨウ」になったという、 -
11:30「大力邸」に到着したら、開店前から既に行列
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「大力邸」(だいりきてい)
大正末期~昭和初期頃の個人邸宅であるが、平成21年(2009)に「小川治兵衛」(植治)の11代目・小川雅史により作庭された「双龍庭園」が、琵琶湖疎水の水を引く南禅寺界隈別荘庭園の一つとして人気になっている -
「大力邸」の玄関棟
建物は、和風の玄関棟と洋館がつながった和洋折衷の「和モダン」風で、2009年作庭の後、2010年に割烹「大安苑」(たいあんえん)として開業したが、「瓢亭」並みの歴史もなく、繁盛しなかったのか、2019年に店内をリノベーションし、現在の「大力邸」がオープンしている -
「大力邸」の洋館棟
2階建ての、1階はカウンター席、2階は広間になって、どこからでも庭園を眺めながら、食事が出来る、所有者は以外にも、大手ドラッグストア「ダイコクドラッグ」 *昭和32年(1957)大阪大国町に薬局を創業し、全国に100店舗ほど出店、その他100円ショップや飲食店など新規事業にも参入している -
玄関正面の「双龍庭園」
作庭は、植治(屋号)の7代目小川治兵(1860~1933)の血を引く11代目小川雅史(1942~)で、無鄰菴や對龍山荘など南禅寺界隈に数多く残した7代目と同様、琵琶湖疏水からの水を引き、さらに南禅寺の背後にそびえる瑞龍山からの水も引き入れて、2つの水の流れから滝を設けていることから「双龍庭園」と名付けられている -
2階の「広間」に案内される
建物内には、1階に2つの部屋と2階の大広間に、はなれの4つの部屋があり、2階へ上がる階段の造りや格天井、吹き抜けなどは歴史的な雰囲気も感じさせる -
2階の「大広間」は、アンティークなテーブル席と、窓際にはカウンター席があり、木を基調とした和モダンな空間になっている
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2階の大広間の一角には、お洒落なバーカウンターと、6人掛けテーブルがあり、グループでライトアップされた庭園を見ながらのディナーなどに良さそう
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2階大広間の全面ガラス張りから見下ろす池泉式日本庭園は、今人気の「瑠璃光院」を思わせるような眺めで、少し色づいた紅葉は、秋になると真っ赤にこの部屋を染める光景を想像させる
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「赤松」が多いのも高級感を醸し出すが、意識的に「双龍」のイメージで配置されていて、「双龍の滝」と「双龍の松」の対比が面白い
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2階から見ると、琵琶湖疎水からと、瑞龍山から引き込んで、池泉へと注がれる水の流れが良く分る
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飛石や切石橋など、流石、超一流の「植治」を伺わせる庭園技法が詰まっている
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パノラマ眺望の絶好の4人掛けテーブルに案内されて、朝がゆの「瓢亭」とは又一味違う、全く別世界の雰囲気を味わえる
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「メニュー」は高価格帯もあるが、全般的にカジュアルなレベル
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肉がメインになるが、「うどん」も名物らしい
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「瓢亭」での朝がゆは思った以上にお腹いっぱいになったので、食事後のデザートにする
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4人とも、「栗ぜんざい」か「抹茶ぜんざい」900円を注文
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食事後、小窓から玄関側の庭園
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1階のカウンター席からの庭園も又一味違うが、次の機会にしたい
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1時間滞在して、1階レジに降りると、待合室は満杯状態、ダイコクドラッグは又次の展開を考えているに違いないと思いながら店を出る
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「疎水放水路」に戻り、「草川橋」を疎水の流れに逆らって「扇ダム」方面へ進む
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「鹿ヶ谷通」との交差点「永観堂橋」
直進すると「扇ダム」、右方面「南禅寺」、左方面「永観堂」 *「琵琶湖疎水分線」は「南禅寺水路閣」から「扇ダム」を経由して永観堂裏をトンネルで通過し「松ケ崎浄水場若王子取水池」に出て来て、ここから「哲学の道」が始まる -
「碧雲荘」(へきうんそう)「野村徳七別邸」東門
この一帯でも特別に広大な6,000坪もの敷地(東京ドームのグランド4,000坪)を持つ別荘庭園で、非公開のため中を見ることは叶わず残念だが、(HPによると)明治維新後急成長した三井、三菱、住友につぐ野村財閥の創業者「野村徳七」(1878-1945)は、27歳で家業を継ぎ、日露戦争、第一次大戦で財を成した後、大正7年(1918)40歳で野村銀行(大和銀行→りそな銀行)を設立した頃から、別荘の地を探しはじめ、この辺りを一目で気に入り、現地に住み込んで自ら「敷地の半分を大池泉に」という構想をたて、七代目小川治兵衛に依頼、茶室や書院も含めて11年の歳月を経て昭和3年に完成した -
「野村美術館」(3~6、9~12のみ開館)
野村財閥の創業者「野村徳七」が、茶道を基本に収集した美術工芸品の展示館として1984年に開館した、野村徳七は「茶の湯」を藪内節庵、「能」を観世左近に習い、造詣が深かったことから、茶道具を中心に、絵画、墨蹟、茶道具、能面、能装束など重要文化財7点を含め、約1,900点のコレクションを所蔵し、春と秋に企画展示している -
「琵琶湖まで11km」
あらためて、明治時代に琵琶湖の水をこんなところまで運び、今なお現役で活躍しているという当時の人々の偉業に驚かされる *「琵琶湖疏水」は、蹴上から伏見までの「第1疏水」が20km、全線トンネルで蹴上まで並行する「第2疏水」が7.4km、蹴上から扇ダム、哲学の道を経由して北白川に至る「疏水分線」が3.3kmから成る -
「南禅寺界隈別荘庭園群」
南禅寺界隈には個人が所有する立派な庭園が数多くあるが、これは明治になって払い下げられた広大な南禅寺境内の別荘地開発を進めた「塚本与三次」(よさじ)という実業家と、東山を背景に豊富な水の流れを用いた庭園を手がけたいという構想を持っていた「小川治兵衛」の出会いから実現したことで、明治23年(1890)「琵琶湖疎水」の完成後、明治26年には円山公園まで延長して噴水として使われ、翌年には博覧会会場になった平安神宮の神苑に、さらに明治29年山形有朋の「無鄰菴」に使われ、以降、動物園、都ホテル、旧市長公舎(現国際交流会館)、何有荘、對龍山荘と、増えていって、いくつもの「植治の庭」と呼ばれる名園を生み出した -
「発電所」から取水の庭園群(2022/10/09撮影)
「何有荘」(かいうそう)稲畑勝太郎邸、現在はオラクル設立者ラリーエリソン、「対龍山荘」(たいりゅうさんそう)伊集院兼常別荘、現在は呉服商市田弥一郎からニトリホールディングス、「智水庵」(ちすいあん)横山隆興別邸、現在はZOZOTOWNの前澤氏、「料理旅館八千代」(やちよ)雨月物語の上田秋成邸、「料理旅館菊水」(きくすい)呉服商寺村助右衛門別荘、「無鄰菴」(むりんあん)山縣有朋別邸、現在は京都市所有 -
「扇ダム」から取水の庭園群
「碧雲荘」(へきうんそう)野村徳七別邸、現在は野村HD、「清流亭」(せいりゅうてい)近江商人下郷伝平邸、現在は大松株式会社、「怡園」(いえん)旧細川家別邸、現在はオムロン株式会社、「流響院」(りゅうきょういん)三菱岩崎小弥太別邸、現在は真如苑「真澄寺別院」(旧龍村美術織物・織寶苑)、「洛翠荘」(らくすいそう)藤田小太郎邸宅、現在はユニクロ柳井氏、「真々庵」(しんしんあん)染谷寛治別邸、現在は松下幸之助別邸からパナソニックHD、「有芳園」(ゆうほうえん)住友友純別邸、現在は住友グループ、「白河院」(しらかわいん)元は藤原良房の別荘で呉服商下村忠兵衛邸、現在は日本私立学校共済事業団 -
「東山中学・高等学校」
明治元年(1868)、浄土宗総本山知恩院の大僧正により設立された学問所「勧学院」を起源とし、中高一貫教育の私立男子中高等学校で、卒業生では将棋の「中原誠」、歌手の「泉谷しげる」、最近ではバレーボール全日本の「高橋藍」選手が高校3年時にキャプテンとして春高バレーで優勝したという -
「共に生きる」石碑
2012年に、東日本大震災(2011.3.11)からの復興を願って、書家の「金澤翔子」さんによって書かれた、学校のモットーの文字が刻まれた -
「永観堂」(えいかんどう)南門
古来より「秋はもみじの永観堂」といわれる紅葉の名所「永観堂」は、空海(弘法大師)の高弟・真紹(しんじょう)により853年創建され、正式名は「禅林寺」(ぜんりんじ)であるが、中興の祖とされる「永観」(ようかん)が、浄土念仏を唱えて念仏道場として、真言宗から浄土宗のお寺になり、通称「永観堂」の名がついた -
南門を入ってすぐの所にある「蓮の池」は、「放生池」につながる部分で、境内の地下を通る「琵琶湖疎水」の水が流れ込んでいる
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(2009/11/20撮影)永観堂庭園「放生池」(ほうじょうち)
「放生池」を囲んで全域に紅葉が生い茂って真っ赤に染まり、黄色に染まったイチョウと散り紅葉とのコントラストは、素晴らしい、また今でこそどこでもやっているライトアップもLEDライトの採用も、いち早く取り入れ、1時間待ちの行列も出来るほどの人気で、シーズン中はなかなか行けません -
「永観堂」(えいかんどう)総門
「放生池」の畔にある「与謝野晶子」の歌碑は興味深い、「秋を三人 椎の実なげし 鯉やいづこ 池の朝かぜ 手と手つめたき」、これは与謝野晶子と鉄幹ともう一人、鉄幹が主宰する文芸雑誌「明星」でライバル関係にあった山川登美子の三角関係の話で、明治33年(1900)の秋、3人は「永観堂」を訪れ紅葉見物をした時、「この放生池に椎の実を投げ込んで遊んでいるが、池には鯉(恋)が見当たらない、池の風の中でつなぐ手と手は冷たい」と詠んだ、そして結論としては、その翌年、山川登美子は親が決めた男性と結婚し、鉄幹は二度目の離婚をして晶子と結婚したという、まさに「永観堂の紅葉」にふさわしい -
「哲学の道」
この先200m程進むと、「熊野若王子神社」があり、その手前の「若王子取水池」から「琵琶湖疎水分線」が地上に現れ、ここから「哲学の道」が銀閣寺前まで続く -
「光雲寺」(こううんじ)通常非公開
徳川家康の三男・二代将軍秀忠と江(ごう)姫の娘(家康の孫娘)で、後水尾天皇の中宮となって朝廷と幕府を結びつけた「和子」(まさこ)「東福門院」が、寛文年間の1661年頃、南禅寺の英中禅師に深く帰依して自らの菩提寺として再興した、歴代皇室の尊崇も篤く、久爾宮家(くにのみやけ)の菩提寺でもあり、南禅寺北ノ坊とも呼ばれる南禅寺の境外塔頭として南禅寺禅センターにもなっている -
(2010/11/27撮影)「光雲寺」(11月20日~12月5日公開)
庭園は、荒廃した江戸時代の名園を、昭和になって「7代目小川治兵衛」が作り変え、琵琶湖疏水の水を引き入れて池を作り、遠くの東山と近くの哲学の道の紅葉や桜を借景とした素晴らしい池泉式庭園で、7代目の晩年の作品 -
「鹿ヶ谷通り」沿いの「有芳園」(ゆうほうえん)
「有芳園」は、住友家15代目住友友純(ともいと)の別邸として大正9年(1920)に完成、 ここにも「琵琶湖疎水」の水を引き入れた「7代目小川治兵衛」作庭の名庭があるが、残念ながら非公開、今回は隣接する住友財閥の博物館「泉屋博古館」から、わずかでも見れないか探って見たが、残念ながら叶わず -
「丸太町通」の東の起点は「鹿ヶ谷通」
西は京都御苑南側を通り、嵯峨釈迦堂(清涼寺)まで全長約8.5kmで、江戸時代には西堀川周辺に材木商が集まっていたことからの命名 -
「泉屋博古館」(せんおくはくこかん)
住友家の別邸「有芳園」に隣接し、住友家が収集した東洋美術工芸品のコレクションを収蔵・展示し、中国古代の青銅器のコレクションは質量ともに世界有数として有名 -
「泉屋博古館」は、15代目住友友純(ともいと)が、別邸「有芳園」を大正9年(1920)に建設して6年後に亡くなって間もなく昭和3年(1928)に、邸内に青銅器の展示室を開設し、さらにこれを広く展示するため、昭和35年(1960)財団法人を設立し、昭和45年(1970)の大阪万博の年に迎賓館を兼ねる展示施設として現在の場所に建物を建築、そして今年2回目の大阪万博の2025年4月26日にリニューアルオープンした *東京の「泉屋博古館東京」も、住友家の麻布別邸があった所で、1990年代に東京本社移転にともない、上野の森につづく美術館街にする狙いで開発(住友不動産)された「六本木泉ガーデン」内に2021年開設した
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「泉屋博古館の収蔵品」は、住友家15代当主住友友純が収集した中国青銅器や、長男の住友寛一収集の中国明清代の絵画、16代当主の洋画、江戸時代から住友家に伝来した屏風など、青銅器600点、書画650点、茶道具800点、能装束・能面250点、洋画150点など、国宝2件、重要文化財19件、重要美術品60件を含む約3,500件で、特に紀元前17世紀から紀元前3世紀の「殷(いん)周時代の青銅器」は、殆どコレクターがいなかった頃に、1900年清朝末期の義和団の乱で中国の文人らが所有していた青銅器が日本に流通し、これを15代目が積極的に収集し、世界でも貴重な傑出した作品を手に入れることになったという
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「泉屋博古館の沿革」
『住友家が収集した美術品を公開するため、昭和35年(1960)設立され、その後平成14年(2002)には東京六本木にも開設されました。国宝2件、重要文化財19件を含む東洋美術や洋画など約3,500件のコレクションを誇ります。なかでも中国古代青銅器と鏡鑑(きょうかん)のコレクションは世界的にも知られています。』 -
「住友春翠」(すみともしゅんすい)1864-1926
『泉屋博古館の所蔵品は、多くが住友家第15代当主の住友吉左衛門友純(ともいと)号を「春翠」によって、明治中頃から大正にかけて収集されました。現在の住友グループの礎を築いた春翠は、家業の銅山経営をはじめ様々な事業の拡大と近代化を推し進める一方で、芸術文化にも高い関心を示し、大阪府へ図書館建設(中之島図書館)と図書購入費用、大阪市へ美術館建設用地を寄付するなど、文化的な社会事業にも大きく貢献しました。一方で茶の湯や能楽といった日本の古典芸能を嗜み、数寄者として風雅に遊ぶことや、中国文人への憧れから文房具に囲まれた書斎で煎茶や篆刻を楽しみました。実兄である西園寺公望(1849-1940)の影響を受け、同時代の洋画家の支援も積極的に行い、多岐に亘る文化への関心を寄せた春翠の収集品が、今日の住友コレクションの母体となっています。』 -
「住友家須磨別邸模型」
「住友春翠」が明治36年(1903)、神戸市須磨に建てた別邸、本格的西洋館で、隣の小さな家屋は子供と家庭教師の住まい、ともにイギリス貴族の節度ある端正な生活に共感した春翠の趣味をよく映す。これは15,000坪あった敷地のうち、居住・迎賓ゾーンを中心とする25%のみ、現在は、神戸市に寄贈され須磨海浜公園 となって、正門の門柱だけが残されている -
「泉屋博古館」の名称の由来
江戸時代の住友家の屋号「泉屋」(いずみや)と、中国北栄王朝の皇帝・徽宗(きそう)の命により編纂された青銅器図録「博古図録」に由来し、住友によって青銅器の研究が行われる施設であることを意味する -
「青銅器館」入り口ホール
「春翠」が、「青銅器」にこだわったのは、別子銅山で発展した「銅の住友」を家業とし、中国文人に憧れ、中国美術品への造詣も深かったためだと思われる -
「泉屋博古」の題字
春翠の実兄「西園寺公望」の筆による、これはレプリカで、本物は元の青銅器展示室である有芳園内の歴史展示館に掲げられている *西園寺公望が創設した私塾立命館が「立命館大学」に発展する過程には、春翠も多額の寄付をしている -
そもそも「青銅器」(せいどうき)とは
青銅に錫などを混ぜた合金で造られた工芸品で、石器時代と鉄器時代の間に、青銅が主要な金属として用いられた「青銅器時代」が、紀元前3000年に古代メソポタミアで始まり、中国でも秦の始皇帝よりも前の紀元前1600年、殷・周時代に祭祀具として青銅器文化が栄え、日本では紀元前1000年の弥生時代に銅鐸、銅剣、銅矛などが祭祀や権力の象徴として用いられ、現在では美術品や骨董品として高い価値を持っており、中でも「中国殷の青銅器」の人気は高く、住友コレクションは中国以外では、質・量ともに最も充実しているとして世界的に高く評価されている -
今回初めて鑑賞して勉強になった「中国青銅器」の魅力とは
所蔵する600点の内、100点ほどを展示し、どれも高価そうなものばかりで、桁外れのコレクターには仰天するばかりだが、本人に成り代わって「青銅器の魅力」を想像すると、これらは全て普段使いの日用品ではなく、王侯貴族たちが祖先の神々を祀るための聖なる「おもてなし」の道具として、その「独特な造形」と「多様な使い方」に魅力があるのだと思われる -
その中でも、選りすぐりを紹介すると、「犠首方尊」(ぎしゅほうそん)
「中国青銅器文化」を代表する作品の一つとされている作品で、「犠首」は羊や牛などの頭部を模した装飾、「方尊」は四角い形の酒器 -
「夔神鼓」(きじんこ)
「夔神」(伝説的な神獣)の皮で作られたとされる青銅器の太鼓で、正面の顔面と、上部の鳥のカタチが目を惹くが、何と重さ約70kgもある、中は空洞、厚さは1~5mmしかなく、相当な技術が必要なため世界にも2つしかないという珍しいもの -
「四蛙銅鼓」(しあどうこ)
これも銅製の太鼓で、上面に「四蛙」(4匹のカエル)がいる、重さは50kgもあり、富と権力の象徴として、現在も一部の少数民族によって使われているという -
「鳳柱斝」(ほうちゅうか)
「鳳柱」(鳳凰のような2本の柱)の可愛い鳥と、3本の足に支えられた「斝」(酒を温めるための器)、どうやって使うのか? -
「饕餮文方罍」(とうてつもんほうらい)
「饕餮文」という、大きな目、鼻、口、角、牙を持っ中国の伝説上の怪獣の顔をした「方罍」(祭祀や饗宴で使われる壷型の酒器)で、悪霊を払う力がある -
「饕餮文方彝」(とうてつもんほうい)
同様に「饕餮文」の怪獣の顔をした「方彝」(祭祀や饗宴で使われる箱形の酒器)で、屋根形の蓋がある -
「鴟鴞卣」(しきょうゆう)
2羽の「鴟鴞」(フクロウ)が背中合わせになった形の「卣」(酒器)で、邪霊の侵入を防ぐ意味合いがある -
「象文兕觥」(ぞうもんじこう)
「象文」(怪獣のような姿をした)蓋と、雷文(ラーメン鉢にある)のような模様の器に、獣の角のような取っ手がついた「兕觥」(酒器)で、空想の怪獣と、象、虎、兎など実在の動物が埋め尽くされているのが面白い -
「饕餮文平底爵」(とうてつもんへいていしゃく)
これ全部「饕餮文」という怪獣の顔をモチーフにした平底の「爵」(酒を温めるための器) -
「虎鎛」(こはく)
左右に4匹の虎がいる「鎛」(楽器の鐘) -
「円渦文敦」(えんかもんたい)
「円渦」(円形の渦巻き模様)の地球儀のような球体に、人のような取っ手がついている「文敦」(穀物を盛る器) -
「羌編鐘」(きょうへんしょう)
「羌」(チベット系の遊牧民族)が使っていた、12個の「編鐘」(楽器の鐘)で、大きさや形が異なり、大型のものには銘文が刻まれている -
「虎卣」(こゆう)
「虎」の前足で人間を抱えるという奇妙な形の「卣」(酒器)で、世界に2つしかない、同館を代表する人気作品、虎が人を守っているのか、食べようとしているのか、解釈が難しい -
「螭文方炉」(ちもんほうろ)
「螭文」(架空の蛇のような動物)が絡み合った「方炉」(四角い炉)で、火を入れる下部の観音開きの扉は、当時珍しいという -
「鴟鴞尊」(しきょうそん)
一見かわいい「鴟鴞」(フクロウ)で、頭部が蓋になっている「尊」(酒器)だが、よく見ると羽根には渦巻く龍がいて、胸には「饕餮文」(怪獣)がいる -
「虎鴞兕觥」(こきょうじこう)
「虎鴞」(虎とフクロウ)の姿をした「兕觥」(注酒器)で、獣の頭部と背中が蓋、首が注ぎ口、尾が持ち手になっている -
「戈卣」(かゆう)
「戈」という氏族が製作したと思われる「卣」(釣手と蓋のある酒器)で、写真では分かりにくいが、2羽のフクロウが背中合わせになって、蓋の裏と器の内底に「戈」の文字がある -
(しばし目の保養)中国の世界から京都東山に引き戻される
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「袈裟襷文銅鐸」(けさだすきもんどうたく)
日本の弥生時代(1~3世紀)に作られた、僧侶の「袈裟」の「襷」掛けの模様に似ている釣り鐘型の「銅鐸」で、音を鳴らし豊作を祈る祭りなどで使われたと考えられ、弥生時代の社会や文化、思想を知る上で貴重なもの *日本では弥生時代に鉄器と青銅器がほぼ同時に伝わったので、青銅器時代は存在せず、そのまま鉄器時代に移行した -
「広形銅矛」(ひろがたどうほこ)
弥生時代に作られた「矛」で、当初は武器として使われていたが次第に大型化し、祭祀の道具として重要な役割を担うようになった -
「金銀錯獣形尊」(きんぎんさくじゅうけいそん)
北宋時代(10~12世紀)に作られた「尊」(酒器)で、「金銀」の雲形模様の「錯獣」(人の良さそうな不思議な顔をした獣)の「形」をし、背中が蓋になっている *中国の青銅器時代は、鉄器時代に入ると衰退し、祭礼のものから日用品が主体となるが、宋時代になると、古代の祭器を写し取り、花器や香炉として実用性を持った工芸品として製作された -
「貼銀鍍金双鸞走獣八花鏡」(ちょうぎんときんそうらんそうじゅうはっかきょう)
「貼銀」(銀を貼った)の裏面に、「鍍金」(メッキ)で「双鸞」(向かい合う2羽の鸞鳥)と、「走獣」(走り回る様々な獣)が描かれている「八花鏡」(花びらのような突起が八つある形の鏡) *鉄器時代に入り、青銅で作られる器物は日用品が主体となったが、それもやがて衰退し、唯一「銅鏡」だけが、代替材料がなかったため18世紀に至るまで作り続けられた -
「泉屋博古館」は、昭和45年(1970)に建設され、今年2025年リニューアルされた
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「泉屋博古の庭」
東山の景色と同化して、悠久の流れを感じる -
「中庭」
大正9年(1920)「有芳園」を作庭した7代目小川治兵衛(1860~1933)の孫・11代目小川治兵衞(1942~)が、7代目の東山を借景とした景観を現代に再生させ、昭和61年(1986)に作庭 -
中央の井戸は「泉屋」を屋号に掲げた住友の象徴的存在として、今も清水を湛えているという
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「前庭」
平成17年(2005)11代目小川治兵衞の作庭で、住友財閥の礎を築いた別子銅山の檜(ヒノキ)がそびえる苔むした林の中を、泉から湧き出る小川が流れるという「泉屋」をイメージした庭園、この向かいに、7代目が作庭した池泉式庭園「有芳園」がある -
それにしても「財閥」の力には圧倒される
「有芳園」は住友財閥の15代当主・住友友純別邸であるが、「碧雲荘」は野村財閥の2代目・野村徳七別邸、「流響院」は三菱財閥の4代目・岩崎小弥太別邸、さらに近くには三井財閥の祖・三井高利別邸の「三井家下鴨別邸」がある、「住友財閥」は新居浜別子銅山から京都で銅精練所を興し、大阪、江戸の金融業で発展、「野村財閥」は大阪の両替商から証券金融業で財を成し、「三菱財閥」は土佐藩の海運業から大阪で海運事業を発展させ、金融業・造船業・鉱業などあらゆる分野で拡大、「三井財閥」は松阪から江戸で呉服店と両替商で事業を拡大し、京都も呉服仕入、金融業の重要拠点とし、財閥の祖は晩年を過ごし真如堂を菩提寺とする、南禅寺界隈を歩くと、日本財閥の歴史が分かる
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