2025/12/13 - 2025/12/13
986位(同エリア2860件中)
Bachさん
今月の平安京南北散歩は、かねてから気になっていた岡崎界隈で寺院が密集し、これまで歩いてきた南北の通り名がそのまま使われているというエリアです。
このエリは、1708年の「宝永の大火」で焼失した「京都御苑」内にあった町家と寺院が、御苑の拡張で、当時畑地だった鴨川東エリアに町ごとそのままそっくり移転したところで、55もの寺院が集まって「もう一つの寺町」と呼ばれ、周辺に住んでいた人たちも移り住んで、現在の「京都御苑」南側丸太町通から始まっている南北通りが縮小された形になっているという面白いエリアで、この中心に走る「仁王門通」の由来となった寺院や、「囲碁の本因坊」が発祥した寺院、「少林寺拳法」の道場がある寺院、「走り坊さん」というランニングの奔りの寺院、伊藤若冲や俵屋宗達、運慶・快慶に関係ある寺院など歴史的な関りも深く、またここでも古い小学校や町家を残そうとしている事例も見えて、全部歩いても4km程度のエリアですが、突っ込み処満載です。
また今回のもう一つの目的は、これも前から行きたいと思っていた「並河靖之七宝記念館」で、小川治兵衛が「無鄰庵」で有名になる前に造ったとされる庭園狙いでしたが、「七宝焼」という絵画のような焼物は素晴らしく、あらためて詳細に見てみたいと思うほどでした。そしてそこでの新発見は、「小川治兵衛」の邸宅が隣にあったこと。「並河靖之」邸に小川治兵衛の作品があるのは何故か、疑問でしたが、隣同士で親しかったそうなので納得、現場に行って見なきゃ分からないもんです。
最後に行った「檀王法林寺」山門前のお寺掲示板には「今年も暮れる 恵まれた命に合掌」と書いてあり、今年も「京町南北散歩」を1年間、何事もなく続けられてきたことに感謝です!
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10:00京阪三条駅~(白川筋)~1.0km10:15並河靖之七宝記念館~0.1km11:30ランチ「京とみ」~0.3km12:30満足稲荷神社~4.5km(鴨川東・仁王門通周辺エリア)~15:30「松涛カフェ」~0.1km16:00京阪三条駅(6.0km)
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10:00「京阪三条駅」スタート
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「白川筋」
「白川」が疎水運河と合流し又分流する仁王門通の「仁王門橋」から白川沿いに、三条通から祇園白川に到る通りで、「巽橋」や「一本橋」などほど有名ではないが、岡崎から三条通までも風情がある -
「白川」(しらかわ)
比叡山から北白川の町を通り、南禅寺船溜りで疏水運河と合流し、平安神宮大鳥居前の仁王門橋から又分流して、祗園白川を経て鴨川に流入する、比叡山の花崗岩が風化した白い砂が流れることに由来し、この「白川砂」と呼ばれる珪砂は色が白く、水はけがよく、雨水を含むと雲母が黒く変色し、乾くと白く輝くため、枯山水の庭園・燈籠・石碑などに使われてきた -
「石泉院橋」(せきせんいんばし)
この辺りの町名「石泉院町」に由来する、上方に200mほど進むと岡崎、仁王門橋 -
「並河七宝記念館」(なみかわしっぽうきねんかん)
橋のすぐ先に「並河靖之邸宅」(なみかわやすゆき)があり、明治から大正の七宝焼作家「並河靖之」の作品と、建物・庭園を公開するが、目的は小川治兵衛作の庭園 *12月15日から2026年4月2日までは冬季休暇 -
「並河靖之七宝記念館」(説明板)
この記念館は、七宝作家で明治29年(1896)に帝室技芸員となった並河靖之 (1845-1927)が、職住一体として構えた旧邸宅と工房跡である。館内には、並河靖之制作の数多くの七宝作品や、海外の来訪者のために鴨居を高くしてガラス障子を引き回した開放的な主屋、旧工房、旧窯場が残されている。また庭園は、七代目小川治兵衛 (植治)の初期の作庭で、琵琶湖疏水を園池に引き入れている。建物は国登録有形文化財 、京都指定歴史的意匠建造物、庭園は京都指定名勝庭園の指定を受け、明治期の住宅の佇まいを良好に残す京都の近代文化遺産のひとつである。財団法人並河靖之有線七宝記念財団 -
「七宝焼」(しっぽうやき)
銅や銀などの金属や陶磁器の素地に、ガラス質の釉薬(ゆうやく)をのせて焼成し研磨したもので、仏教経典の「七つの宝物」に因んだ名前、宝石のような鮮やかな色と輝きが特徴で、アクセサリーから仏具、装飾品まで幅広く作られており、陶磁器とは異なり、絵画のようにガラスで色を描き込むため、色褪せにくく、独特の輝きがあり、中でも「並河七宝」は、有線七宝という薄い金属線で模様をつける技法で、緻密な図柄を表現し、光彩ある釉薬の色味や独創的な器形が特徴で、海外での人気も高く、万博を経て欧米にも多く輸出されたという -
「表屋造り」の京町家と七代目小川治兵衛の庭
建物は明治27年(1894)竣工、外観は虫籠窓、駒寄せ、一文字瓦の「表屋」(店舗)と奥の「住居」(主屋)の二つの棟を玄関でつないだ職住一体の「表屋造り」で、主屋・工房・窯場が国の登録有形文化財に登録されている、イギリスのエドワード8世(皇太子)も訪れたことがあり、日本国外からの訪問客も多いので鴨居の高さを六尺(約182cm)とし、縁側はガラス障子にしているので開放的で明るい -
七代目「植治」・小川治兵衛の初期作品「水の庭」
今回初めて知ったが、この記念館の隣には「造園植治」の建物があり、七代目小川治兵衛(1860-1933)は、並河靖之 (1845-1927)と隣同士で親しかったそうで、そのよしみでまだ有名でなかった1894年、治兵衛30代半ばの時、作庭を頼み、並河邸の七宝焼き工房に研磨用として引きこんだ琵琶湖疏水(1890年完成)を用いて、治兵衛デビュー作となる庭園を作庭し、これが注目されてその2年後(1896)には山縣有朋からの依頼で「無鄰庵」が作庭され、「疎水を庭園に活かした」南禅寺界隈の別荘庭園群が拡がっていったという -
旧工房展示室から主屋と庭に入る露地には、古瓦を使った石畳や切石、自然石の飛石があり、日本庭園の雰囲気が広がる
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いきなり現れる奇抜な形の手水鉢は、「一文字手水鉢」と呼ばれ、鞍馬石を彫って水穴を「一」の字に仕上げたもので、これをテーブルのように自然石で上手に支えており、これだけでもおシャレで風格がある
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反対側からの「一文字手水鉢」
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手前縦方向の「一文字手水鉢」、灯篭も多種多様
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反対側縦方向の「一文字手水鉢」
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主屋への上り口の「沓脱石」(くつぬぎいし)は、膳所城の櫓石(やぐらいし)と伝わる
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特に大きく存在感のある丸い石は、庭園へ誘導する「踏分石」(ふみわけいし)で、日本庭園の魅力を際立たせる
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庭園から主屋、応接間と座敷
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建物は池の中に、島に見立てた石を置き、その上に建物の柱を立てて、建物が池の上に浮かんでいるように見える
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池には中島があり、沢飛石で対岸の水の出口の方に渡れるようになっている、水の流れが出来ているので、鯉も居心地良さそうに悠々と泳いでいる
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東回廊側からの眺め
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同じく東回廊側からの眺め、景石や灯篭を見ているだけで楽しい
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平橋(ひらばし)の左手が、疎水取り込み滝口
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その奥の「反橋」(そりばし)左手が、もう一つの疎水取り込み滝口
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主屋に上がって、部屋からの庭園東側
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部屋からの庭園中央
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部屋からの庭園西側
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「玄関の間」の前庭
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隣の「造園植治」
「植治」は初代小川治兵衞(おがわじへい)が、造園業を宝暦年間(1750年ごろ)より始めた屋号で、現在は、7代目の曾孫に当たる11代小川治兵衞(9代の次男)を当主とし、長男12代が「御庭植治」、三男13代が「造園植治」として継承している *11代の主作品は、有芳園、泉屋博古館、洛翠庭園、平安女学院有栖館、大安苑など -
隙間から見たら「庭園」はなく、無数の灯篭や石材、植栽などが並んでいた *7代目小川治兵衞の主作品は、1894並河靖之邸、1895平安神宮、京都博物館前庭、1895菊水、1896無鄰庵(山縣有朋別邸)、1902対龍山荘(市田弥一郎邸)、1909真々庵(染谷寛治別邸)、1911清風荘.(西園寺公望別邸)、1912円山公園、1917碧雲荘(野村徳七別荘)、1919古河虎之助邸(東京)、1920住友有芳園、1925都ホテル佳水園、1927南禅寺塔頭光雲寺、他にも京都御所、修学院離宮、桂離宮、二条城、清水寺、南禅寺、妙心寺、法然院、青蓮院、仁和寺等の作庭修復なども手がけている
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再び「白川筋」に戻りランチ
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この並びには行列の出来る蕎麦屋「三味洪庵」や
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創業文政2年(1819)の饅頭屋さん「祇園饅頭」があり、毎日手作りで行列が絶えない、名物の「志んこ」をはじめ、にっき餅、六方焼きや季節の桜餅、よもぎ餅、柏餅、水無月、わらび餅、栗餅、豆餅など、今は栗餅が美味しそう *「志んこ」は京都に古くからあったが今でも作っている所は少なく、米粉と砂糖、水を練って蒸した外郎(ういろう)のような団子で、プレーン、にっき、抹茶がある
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11:30ランチは、この並びでも行列がなかった天麩羅店「京とみ」に入る
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創業は2017年の比較的新しい店だが、白川沿いで本格的な天ぷらと京懐石がいただける
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だし巻き卵付きの海老・はも天丼を注文1,900円、カラッとした衣であっさり味の上品な味
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食後のシャーベットで後口もサッパリで美味しかった!
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仁王門通への途中で、「満足稲荷神社」の南門「一の鳥居」へ
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「満足稲荷神社」(まんぞくいなりじんじゃ)
豊臣秀吉が朝鮮出兵文禄の役(1592年)の戦勝を稲荷大神に祈願し、伏見城の守護神として稲荷社を祀ったのが始まりで、祈願が叶い秀吉が「満足」したことから命名され、その後5代将軍・綱吉が法皇寺(宇多法皇ゆかりの乙訓寺)の鎮守社として現在地に移したが、明治になって法皇寺は南禅寺塔頭・金地院に合併され、ここだけが残った -
通称「満足さん」で、非常に分かり易い社名だが、東京(千駄木)にも同名の神社があるので調べると、ここから分祀(ぶんし)されたもの、また京都には大原に「出世稲荷神社」という神社もあり、これは「聚楽第」の邸内社として創建され、平安京大極殿があった千本通沿いから大原に移転した *他にも好きな神社名は、西洞院通にある「御金神社」(みかねじんじゃ)、四条通の「繁昌神社」、五条通の「千喜万悦天満宮」(せんきまんえつてんまんぐう)
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「舞殿と狛狐」
稲荷神社らしく、お狐さんが6対、計12体おり、それぞれ個性があって面白い -
「拝殿・御本殿」
(説明板)太閤秀吉さんが出世を祈願され、叶えられたことから「満足稲荷」と命名される、開運のご利益で有名です。商売繁盛、家内安全、厄除、開運、良縁、いろいろな願い事をなさって下さい。 -
太閤秀吉ゆかりの「本殿」らしく金ぴかで、2011年に修復されているから特に美しく豪華に見える、古くから地域の人々に親しまれ、衣食住の守り神として崇敬を集めており、秀吉の創建ではあるが、江戸時代にこの地に移ってからは、神社周辺が繁盛し、明治になってから廃絶の危機にあった際も、地元民の強い存続運動があっただけに、それこそ「満足の霊神」として地元の信仰を集めている
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「神馬」(しんめ)
来年の干支の先取りになるが、ここでは「満足馬」と呼ばれる「神馬」は、秀吉公が戦勝祈願の際に「馬」を奉納したことと、稲荷社の神使といえる「馬」の意味合いがあると思われる -
「岩神さん」(がんしんさん)
神が鎮座する「磐座」(いわくら)が祀られており、「岩神さん」をさすり、頭を撫でると頭が良くなり、体の悪いところをさすると治ると言われる -
狛狐「コン吉とツネ松」
大正期に東大路通が整備されるまでは、広くこの辺りに社殿があり、「磐座」の左手に「満足稲荷神社」の石碑があるが、「コン吉とツネ松」と呼ばれる狛狐は、古くからこの「磐座」を守り、体中ケガだらけの状態だったが、最近の令和元年に新しくされたという -
御神木「もちの木」
隣には、樹齢400年ともいわれる御神木クロガネモチの木があり、幹が8本に分かれているのが縁起が良いとされ、その非常に珍しい樹形は高く評価され、京都市保存樹に指定されている -
本殿右奥の境内社は、大国主社(祭神は大国主神、縁結びの神)、大神宮社(天照大御神、日本の神の始祖)、猿田彦社(猿田彦神、交通安全・土地の守護神)
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東大路通に面した「二の鳥居」から「仁王門通」へ向かう
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東大路通を北進し「仁王門通」と交差する「東山仁王門」
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「仁王門通」は、東山連峰を望む東側正面の岡崎から南禅寺の先にある蹴上交差点から川端通までで、東大路通までは道幅が広いが、ここから川端通までは狭い
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13:00 ここから「鴨川東・仁王門通周辺エリア」散策のスタート
東山仁王門~0.3km東山二条~0.3km東山仁王門~0.1km(西寺町通)~0.3km(新間之町通)~0.3km(新高倉通)~0.3km(新堺町通)~0.3km(新東洞院通)~0.3km(新車屋町通)~0.3km(新柳馬場通)~0.3km(新富小路通)~0.3km(新麩屋町通)~0.3km(新丸太町通)~0.3km(頂妙寺)~0.3km川端通~0.5km川端三条(4.5km) -
「鴨川東・仁王門通周辺エリア」は、1708年「宝永の大火」で現在の「京都御苑」の中にあった町家が焼失し、当時聖護院村と岡崎村の畑地だった鴨川東エリアに、通りもそのままにそっくり移転した結果生まれたところで、現在の新洞小学校の学区には、ほとんど移転前の通り名に「新」が付けられた通りが出来て(西寺町通と東寺町通・現在東大路通だけ例外)、「新洞仏教会」(しんとうぶっきょうかい)と呼ばれる55の寺院が集まっている *「宝永の大火」は、油小路通姉小路通角より出火し、御所を含む、北は今出川通、南は錦小路通、西は油小路通、東は鴨川畔にまで火が達し、御所や公家屋敷95軒、町数417町、家数1万351軒、寺院119社、大名屋敷21軒が焼失したという
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「京都御苑」は、たびたびの大火に見舞われ、平安京焼失後、1392年南北朝合一で内裏が現在の場所に皇居として定着し、その後、信長、秀吉の時代に公家屋敷が集められ140以上もの公家や宮家が集まる公家町が形成され、一部は町家や寺院が混在した状態だったが、1708年「宝永の大火」で南側の町家が焼失し、丸太町通以北に食い込んでいた町家を鴨川東の畑地に移転させて、その跡地に公家屋敷を拡張した、そして1855年13代将軍家定の安政造営で、現在の建物群の形になり、1869年(明治2年)東京遷都で公家町が荒廃、1877年(明治10年)岩倉具視の建議により御所保存事業開始し1883年完了、1914年(大正3年)大正天皇即位式の一環で改修され現在の形がほぼ整い、1949年(昭和24年)国民公園として公開された
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「東大路通」の岡崎公園側を歩く
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浄土真宗「聞名寺」(もんみょうじ)
開基は第58代天皇・光孝天皇(在位884-887)で、眼病を患い平癒を祈願し、お告げに従い地蔵菩薩を彫って守護仏にすると眼病が平癒したという -
別称「明眼地蔵」(あけめじぞう)
以来、この地蔵尊は眼病平癒の霊験があるとして「明眼地蔵」と呼ばれ信仰を集めており、山門を入った所に奉納された小さな石仏が並んでいる -
日蓮宗「妙傳寺」(みょうでんじ)
日蓮宗京都八本山の一つで、室町時代の1477年、日意(12世)が師・日朝の命により創建し、関西の信者が山梨の身延山まで参詣する不便を思い、宗祖・日蓮の御真骨を分骨・奉安し、同時に身延七面山(しちめんさん)に勧請されている七面天女の霊体を安置した。山門前に「日蓮上人御分骨之道場」の石碑がある -
「日蓮宗」京都八本山
「日蓮」は、1253年32歳の時に開宗し、鎌倉で布教していたが数々の迫害を受け、1274年身延へ入山し、1282年61歳で入滅した。没後は弟子たちが全国に広めるためにまず京都への布教を重視し、1321年京都で最初の日蓮宗寺院の「妙顕寺」を創建し、後醍醐天皇の勅願寺、足利将軍家の祈祷所になり、室町時代には商工業を発展させた町衆が信徒となって繁栄したが、比叡山との対立から全ての法華宗寺院が焼かれ一時禁教となるも、後に再建され現在京都には十六本山が存在し、その内、妙顕寺、妙覚寺、本法寺、本圀寺、本満寺、立本寺、頂妙寺、妙伝寺の 8寺を「京都八本山」と呼ぶ *「日蓮宗」は、全国に5300のお寺があり、日本における寺院数ランキングでは、曹洞宗(道元)14,600寺、浄土真宗西本願寺(親鸞)10,300、東本願寺8,600、浄土宗(法然)7,000に次ぐ -
「日蓮聖人立像」と「本堂」
堂内には御本尊・ 十界曼荼羅、錐揉み(きりもみ)祖師像、七面大明神、開山・日意上人像を安置、周りには、日蓮聖人の御真骨を奉安する「廟堂」、七面大明神を祀る「七面堂」、「客殿」は醍醐寺三宝院から移築したもので、年末恒例の南座「顔見世興行」で掲げられる「まねき書き」が行われる場所としても知られる -
「片岡碑」 (歌舞伎の名優・片岡仁左衛門碑)
11代目仁左衛門が、片岡家の先祖の墓の所在を調査していたら、初代から6代までの墓が妙傳寺にあったので、それを記念して建立したという、「まねき書き」もこの関係からだと推察。片岡家の菩提寺は、他にも東京の池上本門寺と大阪の薬王寺 *「歌舞伎役者の屋号」は、市川團十郎家の「成田屋」(成田山を信仰した)が始まりといわれ、他にも明石屋(大谷友右衛門家)、音羽屋(尾上菊五郎家、坂東彦三郎家、尾上松緑家)、澤瀉屋(おもだかや市川猿之助家、市川段四郎家)、高麗屋(松本幸四郎家)、中村屋(中村勘三郎家)、成駒屋(中村鴈治郎家)、播磨屋(中村吉右衛門家)、山城屋(坂田藤十郎)、大和屋(坂東玉三郎)、萬屋(中村時蔵家)など -
本堂右手に「塔頭5院」が並ぶ
玉樹院、本光院、龍岳院、円立院、妙釈院 -
「東大路通」の西側に移動して又「仁王門通」方面へ戻る
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浄土宗 「大恩寺」(だいおんじ)
安土桃山時代の1585年、豊臣秀吉が叔母(大恩院殿日陽慶春大姉)の菩提を弔うために創建 -
浄土宗「西方寺」(さいほうじ)
平安末期の1189年、法然上人の元で出家した公卿、藤原経宗の開基で、藤原氏の大炊御門家、宇多源氏の綾小路家、五辻家の菩提寺(「苔寺」は臨済宗の「西芳寺」) -
浄土宗「教安寺」(きょうあんじ)
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浄土宗「信行寺」(しんぎょうじ)
総本山知恩院の末寺で、江戸時代の画家「伊藤若冲」が最晩年に描いた天井画を所有することで知られ、本尊は阿弥陀如来だが、境内入り口に「毘沙門天」が祀られており、開運出世・福の神として信仰されており、境内の一角に白砂の庭園があり、いたるところに巨石があるが、残念ながら非公開で入れず -
「伊藤若冲の天井画」
本堂の格天井(ごうてんじょう)に、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)が最晩年の83歳頃に描いたと言われる天井画「花卉図」(かきず)がある、が非公開。若冲の天井画が何故ここにあるのか、不思議だが、若冲(1716-1800)は、錦小路の青物問屋に生まれ、40歳で家督を弟に譲り作画に入り、数々の名画を残したが、1788年天明の大火で自宅を焼失し、晩年は伏見の石峰寺(せきほうじ)の門前に草庵を結び、1798年、石峰寺の観音堂に天井画を遺したが、石峰寺の観音堂は破却されたため、明治期に古美術商の手に渡り、これを有力な檀家総代が購入しその後、信行寺に寄贈された。天井画は当初182面あり、この内168面が信行寺にあり、残りは大津の義仲寺(ぎちゅうじ)と翁堂(おきなどう)に残されており、専門学者の分析により全ての品種が判明しているというから、特別公開があれば是非見てみたい -
東大路通から「仁王門通」に入る
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この通りは「仁王門繁栄会」という商店街になっているが、ホテルやマンション転用が多い中で、この「東山とうふ西初」(にしはつ)は、大正13年(1924)創業の豆腐屋さんで、豆腐、京あげ、飛龍頭、生ゆば、ひろうすなどを料亭や京うどん屋、湯豆腐屋、旅館等に販売して頑張っている
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先ほど東大路通から見た「信行寺」の南門で、こちらが表門らしい
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浄土宗「大光寺」(だいこうじ)
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本堂の屋根構えが遠くからでも目立って立派だが、詳細不明
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本堂前の盛砂も(法然院の)白砂檀(びゃくさだん)のようで、その上の置石、五葉松も立派!
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法華宗「寂光寺」(じゃっこうじ)
安土桃山時代の1578年、妙満寺26世日淵(にちえん)により創建され、山門には「法華宗本山寂光寺」と、「碁道本因坊元祖之道場」の木札が掛けられ、「碁道名人第一世本因坊算砂之跡」の石標が立っており、囲碁界の筆頭家元で、囲碁の主要タイトルである「本因坊」(ほんいんぼう)の起源となる「本因坊の寺」と呼ばれ、囲碁を愛する人には必見の場所 *大原の「寂光院」、小倉山の「常寂光寺」とは関係ないが、この「寂光」は仏教では理想郷を表す言葉 -
(2024/02/撮影:南北散歩寺町通)
「本因坊発祥の地」は、寂光寺二世となる日海上人が住んでいた「本因坊」の跡地である寺町通の夷川通交差点付近の歩道上に駒札と、石の碁盤、石のベンチが置かれている→安土桃山時代、この地に「寂光寺」というお寺があり、その塔頭「本因坊」に住まいしていた僧侶の日海上人(にっかいしょうにん1559-1623)は、信長・秀吉時代から囲碁の名人として名高く、徳川家康の命によって寺を弟子に譲り、幕府の「碁所」(ごどころ)を任され、「本因坊算砂」(ほんいんぼうさんさ)と改め、碁道本因坊の開祖となった、以降、本因坊の名は世襲で受け継がれたが、二十一世の秀哉は、真の実力者が本因坊を名乗るべきとして、その名跡を日本棋院に譲り渡し、昭和11年(1936)「本因坊戦」が誕生した。平成21年(2009)にこの駒札と碁盤が設置された際、今村九段と滝口九段による打ち初め式が行われた、また、宝永の大火(1708)で羅災した「寂光寺」は現在、地下鉄東西線東山駅近くにあり、歴代本因坊の墓所があり、開祖「算砂」愛用の盤石や直筆の囲碁狂歌など貴重な史料を蔵し「囲碁本因坊の寺」と呼ばれる -
山門を入って直ぐの所にある「第一世本因坊報恩塔」は、「本因坊算砂上人」(さんさしょうにん)没後300年忌に建てられた顕彰碑で、寂光寺を開山した日淵(にちえん)の弟子の日海(にっかい)が、寺内塔頭の「本因坊」に住み、囲碁を学び敵なしの名手で、信長、秀吉、家康の指南役も務め、信長からは「名人」の名を贈られ、家康からは幕府の碁所(ごどころ)を任され「本因坊算砂」と号し、以後碁界家元として認められ、「本因坊」の名称が囲碁界家元の世襲となった(現在は塔頭寺院の本因坊は存在しない)
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「本堂」には、ご本尊の「本門寿量十界大曼荼羅」(ほんもんじゅりょうじっかいだいまんだら)の他、寺宝として、近衛関白より拝領の唐桑(からくわ)の碁盤や、算砂」愛用の盤石、直筆の囲碁狂歌など貴重な史料がある、建物は1708年に移転してから、1716年客殿、1721年山門、1772年鐘楼堂、1776年「本堂」が再建された、本殿横に「囲碁の道場」もある
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「算砂」の没後、本因坊は碁道の家元の姓となり、その門弟によって代々襲名され、天性囲碁に通ずるものが住職となり、本因坊家を筆頭に算砂の弟子の四家による家元制度が確立したが、昭和13年(1938)21世の引退で本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、囲碁は家元制から実力制に移行し、昭和16年(1941)第1期本因坊戦が開催され「本因坊」はタイトルの名称となった。*因みに「将棋」も、江戸時代から家元制が続いてきたが、昭和12年(1937)に13世の関根金次郎名人が退位してから、実力名人制に改められ、初代名人・木村義雄から続いて、現在は第16代名人・藤井聡太
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本堂前に良く目立つ「仏足石」があり、「仏足石の由来」が説明されている、「釈尊ご入滅後、仏陀礼拝の形式として、人々はその御足に対して接足作礼を行い、哀心慕情の誠を示しました。ご参詣の皆さま、お釈迦さまの御足に対して、合掌礼拝をいたしましょう」
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境内の奥には「本因坊歴代墓所」があり、「本因坊算砂」をはじめ、二世算悦、三世道悦、四世道策、五世道知の墓がある
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仁王門通から右折して「西寺町通」へ、角は「新谷石材店」
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浄土宗「正念寺」(しょうねんじ)観音菩薩様と弟子たち五百羅漢様が素晴らしい
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浄土宗「專稱寺」(せんしょうじ)摩利支天様が素晴らしい(陽炎のように姿が見えず、人から隠れ、傷つけられず、敵から身を守ってくれる神様)
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浄土宗「大蓮寺」(だいれんじ)
(駒札より)当寺は慶長5年(1600年)専蓮社深譽(しんよ)上人により下京区に開基された寺院で、宗派は法然上人の専修念仏の教えを旨とする浄土宗です。戦時中の強制疎開によりこの地に移されました。本堂には通称あんさん(安産)阿弥陀如来が本尊として祀られています。後光明天皇(1633-1654) が安産の祈願を勅命し孝子内親王が無事御出産されたことにより、以降安産勅願所として、女性の信仰を集める事になります。開基以来祇園社とも縁が深く、明治の廃仏毀釈 の時は同社観慶寺にあった仏像は全て移されており、その中に祇園社本地仏の薬師如来(重文)や、洛陽三十三所観音霊場八番の十一面観音、洛陽十二社の夜叉神明王等があり、今でも本堂内に安置されております。明治・大正時代、都の町を駆け巡った不思議な僧「走り坊さん」の寺としても知られており、最近ではその強靭な足腰に肖(あやか)るためにお参りする人も 増えています。 -
御本尊は「安産阿弥陀如来」で、蓮(ハス)と蠟梅(ローバイ)でも有名
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極楽に咲く花「花蓮」(ハス)60鉢、30種の花が咲く
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「走り坊さん」(はしりぼんさん)の寺
明治から大正にかけて、18世住職・籏玄教(はたげんきょう)は阿弥陀如来の使いとして寺のお札を配りながら、京都市中を一日中走り回り積極的に勧進を行い寺を再興したことから「走り坊さん」と呼ばれた、安産祈願の御守と足腰健常の御守がある(飛ぶが如く走るが如く/洛中洛外を/走って走って走り通し/歩いてお寺に訪れるのが/困難な妊婦さんのところに/走って御守を届けた/大蓮寺の走り坊さん) -
浄土宗「専念寺」(せんねんじ)
「前田玄以」(まえだげんい1539-1602)ゆかりの寺として知られ、京都所司代として務めた際の功績を偲び、専念寺の開山・故念上人(こねんしょうにん)と懇意だったことから前田玄以の供養塔がある。「前田玄以」(1539-1602)は、信長、秀吉、家康の3人全てに仕えた稀有な武将で、「信長」の臣下になり認められ京都所司代に任じられ京において高い政治能力を発揮し、本能寺の変後は「秀吉」に仕え、五奉行の1人として手腕を発揮し、その功績が認められて丹波亀山城の城主となり、家康にも認められて亀山藩の初代藩主となった -
法華宗「本正寺」(ほんしょうじ)
この辺りは浄土宗が多い中にある「法華宗」の寺院で、日蓮宗の複数ある宗派の一つ *「日本宗教の歴史」は、平安時代に 806年天台宗(最澄)、816年真言宗(空海)、鎌倉時代に1175年浄土宗(法然)、1224年浄土真宗(親鸞)、1253年日蓮宗(日蓮)、禅宗(1191年臨済宗、1244年曹洞宗)などが誕生し、江戸時代以降、檀家制度が確立し広く根付き、現代は多くの宗派が存在する -
浄土宗「三福寺」(さんぷくじ)
「少林寺拳法」の石柱だけが目立つが、その後ろに「上求菩提」(じょうぐぼだい)と「下化衆生」(げけしゅじょう)の石柱があり、自らの悟り(菩提)を求め、人々(衆生)を救済し、さらに高みを目指して悟りの境地を求めることで、これが「少林寺拳法」の精神と通じて道場を開き、少林寺のご本尊である達磨大師像が奉られているという -
「少林寺拳法」とは、「人づくりの行」と呼ばれる武道で、自己と他者の幸せを願い、護身術の「技」と人間性を養う「教え」を一体化し、相手と協力しながら上達する「組手」が特徴、という説明があり、1947年に設立され全国に約2000の道院が存在するという
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浄土宗「西昌寺」(さいしょうじ)
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浄土宗「見性寺」(けんしょうじ)
織田信長の家臣で京都所司代の村井貞勝の養子・村井重勝(1554-1647)が、1582年本能寺の変で討死した実父・織田信長と養父を弔うために建立し、信長から贈られた「直指人身見性成仏」(じきしじんしんけんしょうじょうぶつ)の旗を埋め「見性寺」とした(心の本性を見極めれば悟りを得ることができるという意) -
浄土宗「佛光寺」(ぶっこうじ)
「仏光寺通」の名前になった「佛光寺」と同名であるが、あちらは親鸞聖人の草庵が起源の「浄土真宗」で、こちらは西山禅林寺派の「浄土宗」で、コンクリート造りの立派な本堂がある -
西寺町通から二条通を周り「新間之町通」へ
「左京区新間之町通二条下ル頭町」で、町名は「頭町」(かしらちょう)となっているが、この町名は元々の「間之町通」にもあり、町ごとそのまま移ってきたということがよく分かる、「間之町通・頭町」は油小路通の北端=端っこにあることからの命名で、他にも新町通や西洞院通など京都にいくつかあるが、町の「頭」的な存在とか、地域の有力な頭衆とかの意味合いかと思われる -
「町名表示琺瑯(ほうろう)看板」があったが、「仁丹」ではなく、「フジイダイマル」の広告版は初めて見た! 「仁丹」は森下仁丹が広告政策の一環として昭和の初めに全国的に設置し、戦災で殆ど無くなり比較的戦禍の少なかった京都に多く残っているということで有名だが、京都でも750枚ほどしか残っておらず、その後これに類似したものが現れたようで、他にもアリナミンやライオンズクラブ、メンソレータム、ナショナルなどあるらしいが、見たことはない。注目は「郵便番号」で、1968年(昭和43年)以後になる
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浄土真宗「忍性寺」(にんしょうじ)
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浄土真宗「西蓮寺」(さいれんじ)
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浄土真宗「本福寺」(ほんぷくじ)
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子供の絵本屋「きんだあらんど」
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隠れ家カフェ・ギャラリー「Gallery & Book Cafe 芦屋画廊」
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京町家のデリカテッセン「齋藤商店」
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現代和風の宿泊施設「京都時光TOKIHouse」
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「新洞食糧老舗」(しんどうしょくりょうろうほ)
慶応2年(1866)創業の老舗の米やさんで、関白近衛家御用達だった鷲尾家に代々伝わる味噌を「公家味噌」(くげみそ)として販売し、また米ぬかの美肌効果に注目して「京小町ぬか」を商品化し、築150年以上の京町家の店舗で販売している -
鷲尾庵「公家味噌」の看板
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隠れ家イタリアンバー「きたむら」、パスタランチもやっている
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新間之町通から仁王門通を左折して「新高倉通」へ
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浄土宗「清光寺」(せいこうじ)
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浄土宗「正行寺」(しょうぎょうじ)
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浄土宗「生蓮寺」(しょうれんじ)
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和モダンなホテル「ジャポフランカ」
約1万冊の漫画ライブラリーや歌川広重「五十三次名所図会」 などで、インバウンド客を狙い2024年4月オープン、東京本社の「ワールドポテンシャル」(株)運営 -
「懐古庵」(かいこあん)
表の石柱に「法皇寺町屋敷」とある、すぐ前にある「要法寺」(ようぼうじ)の移転前の寺町二条の地名が、かつて「法皇寺」という寺院があったことから「法皇寺町」(ほうこうじちょう)という町名で、これがそのまま町ごと移転してきた -
中は1870年代の明治初期に建てられた5棟連なる長屋造りの町家で、これを先程通ってきた新間之町通の「新洞食糧老舗」の女将さんが、町家を保存するために町家ステイを始めたという
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路地の奥には、リニューアルされた30㎡くらいの4人部屋が5棟あり、それぞれ五右衛門風呂、調度品やキッチン付の1棟貸しで、HPを見ると1日1部屋4万円くらいになっている
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路地には、共同設備として、「おくどさん」(上はかまどで下はガスコンロになっている)が当時のまま残っている
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共同キッチン、洗濯機のところには、つるべ井戸や祠まであって、長屋風情たっぷりの雰囲気を醸し出す、これは日本人でも利用したら喜びそう!
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日蓮本宗「要法寺」(ようぼうじ)
宗祖日蓮から4代目の日尊(にちぞん1265-1345)を派祖とし、全国布教活動の拠点として1308年に法華堂を建立したのがはじまりで、室町後期の比叡山延暦寺の襲撃から1550年に「要法寺」として再興し、1583年秀吉の洛中改造で寺町二条から1708年「宝永の大火」で類焼現在地に再建、そして昭和になって戦時中の宗教団体法による思想統一により日蓮宗との合同を強制されるが、戦後1950年(昭和25年)に日蓮宗から独立し、ここを本山とする「日蓮本宗」とした *「日蓮正宗」もあるのでややこしいが、総本山は富士大石寺と京都要法寺、本尊は日蓮聖人と十界曼荼羅の違いがある、因みに創価学会は大石寺から興った新興教団 -
「日蓮宗」は、鎌倉時代の日蓮聖人(1222-1282)を宗祖とし、入滅後6人の弟子を中心に拡大したが、師弟の繋がりで多くの門流に分かれ、現在日蓮宗(身延山久遠寺総本山)、日蓮正宗(大石寺総本山)、日蓮本宗、法華宗や、戦後には創価学会、顕正会などの新興団体も現れ、それぞれ教え方や本尊、組織に違いがある。京都にも1300年以降次々と建立され、日蓮宗系の8寺(立本寺・本法寺・妙顕寺・妙覚寺・本満寺・要法寺・頂妙寺・妙傳寺)、法華宗系の8寺(宥清寺・妙蓮寺・本隆寺・本禅寺・本能寺・妙満寺・本圀寺・寂光寺)を「京法華宗十六本山」と呼ぶが、「本能寺」以外はあまり観光化されてない *京都の人気寺は、知恩院・西本願寺(浄土宗)、東本願寺(浄土真宗)、天竜寺・建仁寺・東福寺・相国寺・龍安寺・大徳寺・妙心寺・南禅寺・金閣寺・銀閣寺(臨済宗)、東寺・仁和寺・大覚寺(真言宗)など
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通用門となる「西門」は、安政4年(1857)に伏見城の遺構とも伝わる高麗門
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山門となる「表門」は、享保9年(1724)に伏見城から旧聚楽門を移築したものと伝わるが、通常は通行できない、他に安政8年(1779)構築の薬医門(書院の門)がある
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塔頭「妙種院」前の「鬼瓦」が立派! 鬼瓦の中でも特に存在感のある「大棟鬼」(おおむねおにがわら)で、屋根の最も高い場所にあり、建物の外観に威厳を与えると共に、魔除け・厄除けとして家を守る *「鬼瓦」は、飛鳥時代に大陸から伝わった「鴟尾(しび)」(魚や鳥の尾)が起源で、平安時代から鎌倉・室町時代に寺社や武家屋敷で普及し、江戸時代には庶民の家にも広まり、現代に至るまで発展してきた
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「松の寺」と呼ばれた境内は、江戸期には末寺61ヶ寺の大寺院で、広い敷地を有し、多くの歴史ある建造物が残されており、「本堂」は1774年建立、十界曼荼羅と祖師象を祀る、「開山堂」は1830年再建、日尊を祀る、「鐘楼堂」は1737年建立、他に「釈迦堂」、「経蔵」などがあり、境内塔頭も 8院ある、また江戸期からの多くの松は二百数十年を経て枯死するもの多くなったが、平成になって松やツツジが補植され美観を整えた
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本堂前には「清涼池と救済橋」があり、石造りの「救済橋」は1778年建造、ここでは「清涼池」で羽化したカルガモが、毎年初夏の6月頃に親子で連れだって川端通を渡り700m離れた鴨川へ引っ越す姿が、毎年の恒例行事となって人気を集めている
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「孫橋通」沿いの浄土宗「金台寺」(こんたいじ)は工事中、西隣の「正栄寺」(しょうえいじ)と2017年合併し、その跡地はホテルになっている
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随分古そうな建物だが、建設業社「えいむ」と書いてある
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孫橋通から「KOKOホテル」を右折して「新堺町通」へ
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地元生まれの「Msホテル」
2014年に設立の「株式会社ホテルエムズ」が、京都市内に16ホテルを運営 -
浄土真宗「願隆寺」(がんりゅうじ)
今までも 今も 今からも お念仏 念とは 今を 心して生きる -
新堺町通から仁王門通を左折して「新東洞院通」へ
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「新洞小学校」(しんとうしょうがっこう)
明治2年(1869)番組小学校(上京第33番組小学校)として開校し、平成25年(2013)閉校した。この「新洞学区」は、寺院が多く密集しその数55寺院は、学区内の面積の2分の1を占めている -
「新洞小学校跡地活用」については、京都市広報によると、2013年閉校から2024年に事業者選定委員会が設置され、2025年2月「西松建設株式会社」を選定し、その内容が発表されており、その内容は、国内大学生・留学生の交流型学生寮、高齢者有料老人ホーム、住民自治会活動スペースや、消防分団詰所などで、学生や高齢者が地域の人々と協働して多世代間での交流を生み、新たな賑わいを創出することを狙う
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折箱「谷為」(たにため)
明治33年(1900)創業の京折箱の老舗、折箱の起源は古く聖徳太子の時代から朝廷への献上品を入れるために使われた木の台紙といわれ、安土桃山時代には、食べ物を携帯する容器」として使われ、江戸時代には、芝居の幕間に食べる幕の内弁当の箱として、さらに現代では駅弁に使われたが、今は殆どプラスチックになって悲しい、杉や桧は抗菌作用で食材が腐敗しにくく、使い切りで土に戻り環境にも優しいので、日本独自の食文化としてもっと活用して欲しい -
ここの「町名表示板」も「フジイダイマル」の広告入り
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新東洞院通から二条通を左折して「新車屋町通」へ
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「新洞小学校」運動場沿いに「新車屋町通」を進む
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「左京消防団新洞分団」
(HPによると)新洞分団は総勢18名,互いに切磋琢磨し合って地域住民の防災リーダーたるべく,業務に励んでいます。現在は定員を上回りましたが,ソフトな活躍が期待できる女性団員を含め,現在も団員募集中です。 *京都の消防分団は、本業を持ちながら地域を守る「ボランティア活動」だが、非常勤特別職の地方公務員としての身分を持ち、報酬や災害補償なども支給される、完全無償のボランティアではない地域貢献活動にあたる -
「新洞小学校」西側出入口
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新車屋町通から仁王門通を左折し再び「新洞小学校」前
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仁王門通を右折し「新柳馬場通」へ
「藤屋」(ふじや)は、昭和10年創業の高級食材・業務用食材の卸売会社で、精進料理や日本の伝統的な発酵食品、薬膳料理などに使える地元京都の食材を、全国の旅館・料亭・ホテルなどに販売 -
新柳馬場通から孫橋通を右折して「新富小路通」へ
「坪内織物整理」は、創業より半世紀以上3代にわたり着物の加工処理をしている会社で、特に最近増えたレンタル着物のウォッシャブル加工を強みにする -
新富小路通から仁王門通を左折して「新麩屋町通」へ
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浄土真宗「正願寺」(しょうがんじ)
江戸後期1819年の建物で、通りに面してむしこ窓を有する長屋門を構え、本堂や庫裏を一体化した都市型の寺院 -
「京都を彩る建物や庭園」として、長屋門と本堂、庫裏を一体化した独特な建物が認定されている *「京都を彩る建物や庭園」とは、京都市が市民の推薦に基づき、京都の歴史や文化を象徴する価値ある建物や庭園を選定し、市民ぐるみでその維持・継承を図ることを目的とした制度のことで、大体50年以上のものを対象に、現在628件が認定され、地域の景観形成に寄与している
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マンションにも「祠」(ほこら)、もともと祠があった場所にマンションが建ったケース
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古い町家の「祠」、京都には町家の軒下や辻に様々な祠があり、殆どが奇麗に手入れされ新しい花が供えられている
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京都らしい古い路地長屋の奥にある喫茶店の控えめな看板
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「ますや旅館」
明治34年(1901)創業で、2018年に全室リニューアル -
孫橋通りとの交差点にある、「孫橋湯」(まごはしゆ)は、創業70年の歴史を持つ老舗銭湯で、地下50mから汲み上げた天然水を使用しているので肌当たりが良く、昭和レトロな雰囲気と、薬草風呂、ジェットバス、サウナなど豊富なお風呂が人気
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「かみまる」という予約制の床屋さん
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浄土宗「超勝寺」(ちょうしょうじ)
1685年誓願寺末寺とあり、三条大橋東の現在地付近にあったという記録があるから、1708年「宝永の大火」による移転前から存在する、墓地に京焼の陶工・錦光山茂兵衛、京舞井上流初代・2代、祇園芸妓・中西君尾などの墓がある *「井上八千代」(1767-1855)は、近衛家に仕え、曲舞、白拍子舞を学び井上流を創始し、都をどりなど芸舞妓の指導も行い現在5代目。「君尾」(きみお1844-1918)は、祇園の芸妓で、高杉晋作と懇意になり長州志士と関係深く「勤王芸妓」と呼ばれ、1864年の南座事件で桂小五郎、品川弥二郎らを逃したとして新撰組に捕らえられ拷問を受けるが自白しなかったという -
浄土宗 「心光寺」(しんこうじ)
平安中期、安倍晴明(921-1005)が鴨川の治水祈念のため創建し、幾度か洪水により流され廃寺になったが、江戸時代の1607年、三条大橋東の現在地に移され中興された、というから1708年「宝永の大火」による移転前から存在する、本堂に本尊と並んで、安倍晴明が治水祈念に用いた地蔵菩薩立像が安置されている -
また孫橋通に戻って「新丸太町通」へ、「うのゆきこ」は、インバウンド向けの町家を使った豆乳ベースのヴィーガンラーメン店で、1杯2~3,000円もする
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ホテル「プレザンス京都三条大橋」
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孫橋通から右折して「新丸太町通」へ、
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新丸太町通から仁王門通を右折して「頂妙寺」へ
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「頂妙寺」(ちょうみょうじ)表門(総門)
1708年「宝永の大火」による移転前の、1673年に既にこの地に存在していて、「頂妙寺」を参拝するために、この山門前の通りが整備され、仁王門があったことから「仁王門通」と呼ばれていたが、この通りを基軸に、北の二条通と南の孫橋通との間に南北の通りを新設し、新しい町が形成された -
「宝永の大火」後の移転前には、周りはほぼ畑地であったこの地に存在した「頂妙寺」の境内は、この「新洞学区寺院」エリアの中でも最も広大で、八つの塔頭が立ち並び多くの旧跡がある
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頂妙寺「仁王門」
「頂妙寺」は、室町時代の1473年、日蓮宗の僧・日祝(にっしゅう1427-1513)により創建され、足利時代には法華宗21本山の一つとして隆盛を極めたが、1536年に比叡山の焼き打ちに遭い、1579年織田信長からは布教を禁じられたが、本能寺の変の没後1583年に豊臣秀吉に許され、御所近くに再興、1673年御所の整備で再びこの地に移転した、しかし1788年の「天明の大火」により焼失し、現在の堂宇はその時再建されたものだが、中でもこの「仁王門」は、秀吉から許された「許状」が掲げられ、運慶・快慶作と伝わる「持国天・多聞天像」が安置されていることから、日蓮宗本山としての格式の高さと権威の象徴として、豪華絢爛に見える -
「秀吉許状の扁額」と「運慶作の持国天・多聞天像(毘沙門天)」
「秀吉の許状」は、信長によって禁止されてから秀吉になって再び布教を許された証しになるもので、その喜びを広く示すために、楼門に扁額として飾っているもので、(2025年11月5日の「京都旅屋HP」によると)つい最近修復されたようで綺麗になっていて、「豊臣太閤秀吉」の文字がはっきり分かる、また、鎌倉時代の運慶・快慶作と伝わる二天像は、本来の仁王像の代わりに四天王を構成する持国天(じこくてん)と多聞天(たもんてん)を祀っており、正確には「二天門」と呼ぶらしいが、控えめな憤怒相で穏やかな様相をしていて、平安貴族好みのものとして昔からいくつかあるらしい -
「本堂」は、1788年の「天明の大火」後、1840年再建されたもので、日蓮宗の本尊「一塔両尊四士像」(十界曼荼羅・釈迦如来と多宝如来・四大菩薩)と文殊・普賢菩薩像、四天王像、日蓮聖人像を安置し、本堂の前には日蓮上人の「祖師象」が立つ、また「俵屋宗達」(1570-1643)の紙本墨画「牛図」(繋がれない生き物の自由を讃え、江戸幕府による縛りに対して抗したといわれる)を収蔵し、墓碑もあって「俵屋宗達ゆかりの寺」でもある
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「祖師堂」は、日蓮聖人を祀るお堂で、1801年再建され、中央に日蓮大菩薩、日朗菩薩、日像菩薩の三菩薩が安置され、左方に頂妙寺開山日祝聖人、第二祖日言聖人、第三祖日珖聖人が祀られ、右方には豊臣秀吉公もお祀りしている
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「大黒堂」は、最澄の作と言われる「大黒天」を祀るお堂で、金運や成功運に恵まれる御利益がある
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「大黒天の扁額」には、「こい願う宝より まづむらきもの 心の宝 みがけ世の人」大黒天の教えとして知られる歌で、「金銀財宝よりも、(群れ来もの)何よりも先に、(心の宝)精神的な豊かさや人間性を、磨きなさい」ということか
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「威徳善神」(いとくぜんしん)は、仏法を守護する神で、特に日蓮宗で崇敬される
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本堂裏の「書院」と「客殿」
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「鐘楼堂」は、梵鐘に1677年鋳造の刻字があり、天明大火以前の建物である可能性がある
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「鬼子母神堂」は、子どもの守護神であるとともに、日蓮宗信者の守護神で、隣の「妙見堂」(みょうけんどう)は、日蓮宗の守護神とされる「妙見大菩薩」と、放生池があった名残から護法竜神、吉祥弁財天が祀られている
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「秋山自雲霊神」(しゅうざんじうんれいじん)は、「善立院」(ぜんりゅういん)境内にあり、日蓮宗の護法神の一神を祀るお堂で、「痔の神」「痔病神」として痔疾平癒の御利益がある。江戸時代に「秋山自雲」という人がいて、悪質な痔疾にかかり浅草本性寺にこもり祈念しても完治せず、死に際に同様な人がいたら助けてあげるよう請願したら、その後参拝した人に効果があったことで信仰されるようになり、ここにも祀られるようになったという、痔病に悩む人にはお勧めの場所
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「菊神稲荷社」(きくじんいなりしゃ)は、妙雲院(みょううんいん)境内にあり、天明の大火後、焼け跡から見つけたご神体の「菊神稲荷大明神」を祀った稲荷社で、火難除け、困難克服の御利益がある
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「頂妙寺」の出口は、二条通に面する「頂妙寺ガレージ」
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二条通から「川端通」を鴨川沿いに南進し、「三条通」手前から「檀王法林寺」へ
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浄土宗「檀王法林寺」(だんのうほうりんじ)「川端門」
江戸時代の1766年本堂再建の際に、信仰が篤かった有栖川音仁親王の寄進により建立され、「赤門」とか「開運門」とも呼ばれ、かってはこの門が正門だった、屋根に菊門の瓦がある(1974年修復) -
「檀王法林寺」(だんのうほうりんじ)「本堂」
鎌倉時代の1272年、浄土宗三条派(中世には9流派あったとされる)の派祖・了恵が、宗祖・法然の浄土の真義を伝える念仏道場として「悟真寺」(ごしんじ)を創建し、その後焼失した跡地に1611年袋中(たいちゅう)が「法林寺」(ほうりんじ)と名づけ再興、その後を継いだ第2世團王(だんのう)は境内を拡充し、阿弥陀如来立像を本尊として「本堂」も建立し、庶民にも親しまれ「だんのうさん」と呼ばれ、いつしかお寺の名前も「だんのう」となった、更に第12世良妙(りょうみょう)の代には、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の娘で霊元天皇の養母であった東福門院の位牌が祀られその菩提所とされたことから、皇室や徳川家との関係が深まり、その保護を受けて発展し、1738年「本堂」再建の際には寺内に皇室の菊御紋、徳川家の三葉葵紋を使うことが許されるようになり、屋根を瓦葺き、内陣には須弥檀を拡張し、堂内外に彫刻を施すなど荘厳を極めたつくりになった、本堂横は庫裏(くり)1703年建立で、袋中上人の琉球とのご縁から大屋根に沖縄の守り神「シーサー」が祀られている -
「本堂」内には入れなかったが、ご本尊の隣に「主夜神」(しゅやじん)という珍しい神様が祀られており、その前には「主夜神尊招き猫」の銘板と右手を挙げた黒猫がいる、「主夜神」は夜の災難の盗難・火災・悪夢などから人々を守る神様で、そのお使いが黒い招き猫とされており、日本最古の「招き猫」を持つ寺として知られている、この由緒は、開山袋中上人が琉球に向かうとき猫を航海の守り神としていたことからで、江戸中期には民衆の人気を極め、中でも有栖川音仁親王の信仰が篤く「川端門」の寄進にもなった
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「四天王楼門」
明治維新になって廃仏毀釈により衰えてしまったが、第22世玄亮(げんりょう)は復興のため、寺宝の回収保護と境内伽藍の再建に尽力し、1886年「鐘楼堂」、1888年「三条門」と「楼門」を新築した、この楼門には四隅に平安、鎌倉、南北朝時代作の四天王立像が祀られており、扁額の「望西楼」は派祖・望西楼了慧(ぼうせいろうりょうえ)にあやかり、反対側「朝陽山」(ちょうようざん)は亀山天皇より賜った山号勅額 -
参道には樹齢三百年を超える「大銀杏」があり、古くから「龍神」と並んで水害を防ぐ神木として崇められてきた、龍神は「加茂川龍神」(かもがわりゅうじん)と呼ばれ、加茂川の大氾濫の際、下鴨神社の社がこの地に流れ着いたご縁でお祀りしたという深い歴史があり、加茂川の氾濫や水害を鎮める龍神様
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三条通側にある「三条門」も楼門と同じ1888年、第22世により建立された、お寺の掲示板には「今年も暮れる 恵まれた命に合掌」と書いてある、今年も「京町南北散歩」を1年間、何事もなく続けられてきたことに感謝!
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少し川端通を戻って、再び「孫橋通」へ、鴨川の先に「ザ・リッツ・カールトン京都」(元ホテルフジタ京都)が見える
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15:30 歩いている途中で見つけていた喫茶店「松涛カフェ」へ
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町家を改装した1階は店舗、2階がカフェの店舗で、2階は年寄りにはシンドイ急階段だが、入って見て分かったのは、渋谷区・松涛にある人気のカフェの2号店として、つい最近2024年にオープンしたカフェだという
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先客が3組いたが、2階は5テーブルくらいしかない狭いスペース
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看板メニューは、「松涛ケーキ」という名前のシフォンケーキで、カリッと焼いたトーストシフォンケーキも人気らしい
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ボリュームのあるシフォンケーキは、ふわふわしっとりで、卵の濃厚な風味と甘い香りが口に広がり、最高に美味しかった!
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