2026/10/03 - 2026/10/03
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Bachさん
今月の月一京町散歩は、今までなかなか行けてなかった「鞍馬の火祭」に行く予定なので、その前に平安の昔から、鞍馬寺詣でで歩いたと思われる「鞍馬街道」を歩くことにしました。
「鞍馬街道」は、京の七口の一つ「鞍馬口」から「鞍馬寺」までの約12kmで、流石に全部を歩くのは大変なので、途中から電車に切替え、ウォーキング距離は7kmに、鞍馬寺山内と門前町を加えて10km以上という強行軍でしたが、真夏を過ぎて秋日和のシーズンになって心地よく、自然と歴史の痕跡が残るルートは見所満載で、楽しみながら健康も確認出来たという充実した1日となりました。
今月22日は、午前中は平安遷都1100年を記念して明治に始まった「時代祭」と、夜は平安時代に都の北方の守護として由岐神社を遷宮したことから始まった「鞍馬の火祭」で1日中盛り上がりますが、その前に、平安の昔にも松明をかざしながら歩いたという「鞍馬街道」を辿り、山道を切り開いて造った「切通」と言われる難所なども含め、標高60mの「出雲路橋鞍馬口」から標高240mの「鞍馬寺」まで、街道の険しさを直に体感して、22日にはやっと「鞍馬の火祭」も見れるので、ワクワクしています。
今回の旅行記は、10月3日の鞍馬口から鞍馬寺までの「鞍馬街道」(前半)と、同じく10月3日の鞍馬寺山内と10月22日の「鞍馬の火祭」本番(後半)に分けてアップします。
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10:00 地下鉄鞍馬口駅~0.6km出雲路橋鞍馬口~(白川疎水通)~1.0km(北大路通)~(下鴨中通)~京都府大~京都コンサートホール~1.0km10:40 北山通(2.6km)~深泥池~1.0km深泥池地蔵堂~深泥池貴船神社~(びっくり坂)~1.4km(2.5km)11:20 円通寺~12:00ランチ「たまゆら」12:30~1.5km12:50二軒茶屋駅(6.6km)~(電車)1.5km市原駅(川島織物)~1.2km二ノ瀬駅~1.0km 貴船口駅~1.4km(電車5.1km)13:10 鞍馬駅~大天狗~0.4km鞍馬寺(この旅行記はここまで)~(次回旅行記)13:30鞍馬寺入山~(山内周遊2.0km)~15:00鞍馬街道~1.0km15:30 鞍馬駅~16:00出町柳駅(鞍馬街道徒歩7km、電車5km、合計12km)
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10:00 地下鉄鞍馬口駅スタート
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(鞍馬口通)
(下鴨本通)の下鴨神社西門から烏丸通、西大路通を超えて金閣寺門前までで、(下鴨中通)で北に折れるルートがかつての「鞍馬街道」になり、江戸時代にはこの通りが洛中と洛外の境界とされていた -
「閑臥庵」(かんがあん)
1671年開山の黄檗宗の禅寺で、後水尾法皇が信仰篤く御所の勅願所とされ、陰陽師の安倍晴明が開眼した陰陽道最高の神が祀られている、黄檗宗伝来の普茶料理(精進料理)が食べられる、ランチで6,500円~ -
(寺町通)上善寺山門
鞍馬口通から五条通まで続く約4.6kmの通りで、平安京の東端「東京極大路」にあたり、秀吉の洛中改造で多くの寺院をこの通り沿いに集めた -
「上善寺」(じょうぜんじ)
863年、円仁(慈覚大師)により、天台密教の道場として創建され、1594年に秀吉の洛中改造で現在地に移転し、浄土宗に改められた、平安時代に小野篁が彫ったとされる六体の地蔵尊の一つ(鞍馬口地蔵)が、深泥池から移転されて安置されている -
「出雲路鞍馬口」(いづもじくらまぐち)
1591年、秀吉の御土居建設で、出雲路橋西詰付近に御土居の出入口(京の七口)が設けられ、鞍馬街道の出入り口になった -
「京の七口」(Wikipedia)
鞍馬口、 大原口、荒神口、三条口(粟田口)、五条口(伏見口)、竹田口、東寺口(鳥羽口)、丹波口、長坂口 -
「師範桜碑」(しはんざくらひ)
明治38(1905)年の日露戦勝を記念し、葵橋から御園橋に至る両岸の堤防に、教職員・生徒・児童の献金と労力奉仕により、桜樹2279本・楓樹735本が植えられた植樹記念碑 -
「賀茂御祖神社(下鴨神社)」石標
片面に「下鴨社へ五町」とある、(1町は約109m)で545m、上賀茂神社までは2.7km -
「出雲路橋」と賀茂川と比叡山
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「鴨川」(賀茂川)
雲ケ畑を源流とする雲ケ畑川と中津川が合流し、さらに貴船川と鞍馬川が合流し、上賀茂神社、下鴨神社脇を流れ、出町柳賀茂大橋手前で高野川と合流し、京都市内を流れ、四条大橋上流で白川と合流、伏見で西高瀬川と合流し桂川に注ぎ、木津川、宇治川と合流し淀川となる -
正式名「鴨川」
行政文書ではすべて「鴨川」の表記に統一されているが、通常、高野川との合流点より上流(上賀茂神社の近く)は「賀茂川」または「加茂川」、下鴨神社の下流は「鴨川」と表記する *「加茂」は京都から各地に勧請して広がった神社や地名などで当て字として使われた -
北大路橋の手前から右に折れて、「白川疎水通」に入る
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「白川疎水通」の終点、賀茂川土手沿いに、何やら「琵琶湖疎水分線」関連のごとき設備があるが、表示がないので実態不明
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「白川疎水通」
琵琶湖疏水分線の「哲学の道」に続き、疏水分線沿いに銀閣寺前辺りから高野川を超え、(北大路通)を横切り、賀茂川土手前まで約2kmの通り -
秋の気配
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(北大路通)と(下鴨中通)と「白川疎水通」のクロス地点
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琵琶湖から18km地点
琵琶湖から蹴上までは約8km、蹴上からから哲学の道、白川疎水通を経て18km -
日本遺産「琵琶湖疎水散歩道」CANAL WALK
「大津・山科・鴨川コース」琵琶湖から山科、蹴上、岡崎を経て鴨川までの12.5k 「鴨川運河コース」鴨川から南下し、深草、伏見を経て宇治川までの12.6km 「疏水分線コース」蹴上から哲学の道、松ヶ崎を経て堀川通までの9.7km -
「琵琶湖疏水分線」(第2疏水分線)
蹴上から疏水分線、第1疏水分線を経て、高野川の川底を逆サイフォン(連通管)で潜って、松ヶ崎から下鴨本通、下鴨中通を通って賀茂川の東岸から、かつては賀茂川の川底を潜ってたが、今は導水管で賀茂川を越えて紫明通へ繋がり、「せせらぎ水路」として再び地表に現れ堀川通を南下する、但し現在は、高野川のサイフォンは使われず、すべて高野川へ放流しているという、ので、第2疏水分線には琵琶湖からの水は直通していないという -
「しもがも葵の小径」石碑
琵琶湖疏水分線沿いの、下鴨中通と白川疎水通が交わる地点にあり、この辺りは桜の奇麗な遊歩道になっている -
「京都府立大学」(学生数2,000人)
京都市内には30校以上の大学があり、多くの学生が集まる「大学のまち」と言われるが、国立大学は3校(京都大学、京都工芸繊維大学、京都教育大学)、公立大学は3校(京都府立大学、京都府立医科大学、京都市立芸術大学)で、あとは 同志社、立命館など私立大学 -
「京都学歴彩館」
2017年に京都府立総合資料館をリニューアルしてオープンし、京都の歴史や文化に関する資料を保存・公開する博物館と、京都府立大学の付属図書館も兼ねる -
「京都コンサートホール」
京都市が平安建都1200年記念事業の一環として1995年建設したクラシック専用のコンサートホールで、1,833席の大ホールと、510席の小ホール -
KTVハウジング「京都北山住宅展示場」
2026年4月にオーウンしたばかりの住宅展示場で、7棟のモデルハウスと、ドッグランやレストランなど、奇麗な公園型展示場になっている -
秋の気配
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(下鴨中通)と(北山通)の交差点
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そば料理「よしむら北山楼」
嵐山や五条にもある蕎麦屋さんで、古民家風のお洒落な店構えで入りたかったが、まだ開店前で次の機会に -
京菓子司「長久堂」(ちょうきゅうどう)
1831年(天保2年)創業の老舗京菓子司で、初代からある絹の反物を模した羊羹「きぬた」や、能面をかたどった干菓子「花面」(はなおもて)が有名 -
「浄福寺」(じょうふくじ)お寺の掲示板
「向こう岸 見ているだけでは 渡れない コシノアヤコ」、コシノ三姉妹が、母親アヤコの生き方を紹介したエッセイ集を象徴する言葉だという、相変わらず「お寺の掲示板」は面白い -
「深泥池」(みどろがいけ or みぞろがいけ)
平安時代から和泉式部の和歌にも出てくる小さなため池で、今も昔も流入河川は無く、氷河期から生き続ける貴重な動植物が生息し、1927年に「深泥池水生植物群」として指定され、1988年には動物も含めた「深泥池生物群集」に名称変更された、おそらく京都の中でも氷河期という最も古い歴史を持つ場所 *奈良時代に行基がこの地で修行をし、池から弥勒菩薩が出現したということに由来し「御菩薩池」という表記もある -
「深泥池」は、1万年前に、池の南西部に河川の侵食によって削られてできた谷の出口が、賀茂川の堆積物で塞き止められて出来、飛鳥時代半ばに用水の為に人工堤防が増築され、この形状を保ってきたと考えられている
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「深泥池生物群集」
1927年、植物群落が国の天然記念物に指定され、1988年に生物群集全体に対象が広げられ、最終氷河期から生き続ける貴重な生物と、温暖地に生息する生物が共存し、学術的にも貴重な池になっている -
「心霊スポット」としても知られる
「深泥池」は、三方を丘陵地(ケシ山177m、高山179m、西山135m)に囲まれ、南側の開けたところには、平安遷都の頃から鞍馬街道が南北に通り、平安京と丹波国を結ぶ物流の道で、北方守護の鞍馬寺と貴船神社への参詣道でもあったが、室町時代には池に大蛇が棲むという話があり、現代でも、夜は暗くて不気味な池で入水自殺もあり、タクシー乗客の女性が突然消えたという怪談もあったりして、地元の間では心霊スポットとして知られているという -
「深泥池を美しくする会」
かつての「鞍馬街道」は交通量も多く、道路拡幅の要望もあったが、自然環境の保全から論議が湧きおこり、1965年以来、地元住民を中心とする「深泥池を美しくする会」が環境保護の活動を続けており、1990年には「深泥池を守る会」、1998年には「深泥池水生生物研究会」が相次いで発足し、この自然環境を守っている -
西へ直進すると「大田神社」から「上賀茂神社」だが、鞍馬街道はここを右折し「鞍馬寺」へ北進する
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「深泥池地蔵堂」(みどろがいけじぞうどう)
京都の年中行事として8月に行われる「六地蔵巡り」は、京都の旧街道の入り口に祀られた6つのお地蔵様を巡るが、その内の「鞍馬口」に置かれた地蔵尊を安置した地蔵堂で、この辺りには関所が設けられ人々は旅の安全を祈願した *「六地蔵」は、奈良街道(伏見六地蔵)、西国街道(鳥羽地蔵)、丹波山陰街道(桂地蔵)、周山街道(常盤地蔵)、東海道(山科地蔵)、鞍馬街道(深泥池地蔵) -
「由来書」
(六地蔵の起源は)平安初期、小野篁(おののたかむら802-853)が地獄へ落ちた際に地蔵菩薩に救われ、現世に戻った後、木幡山の桜の大木から6体の地蔵菩薩像を刻んでこの地に祀り、その後1157年、後白河天皇の勅命により、平清盛が西光法師に命じて京の街道の入り口に六体の地蔵尊を安置し、平安時代から、深泥池の畔(ほとり)は地蔵菩薩信仰の霊地となり、地蔵堂は「京の六地蔵廻り」の第一霊場として崇められるようになったが、明治の1868年「神仏分離令」後の「廃仏毀釈」により、地蔵尊は上賀茂神社の神領であったため、鞍馬口近くの上善寺に遷され鞍馬口地蔵と呼ばれた、その後深泥池村は二度の災火に見舞われ、「地蔵尊がいなくなったせい」との噂が流れたため、1895年、西光組が五条の十念寺(現存せず)を介して、新しい地蔵菩薩立像(こちらも小野篁作)が寄進され、「深泥池地蔵」と呼ばれるようになった -
扁額「たちいでて また たちかえる みぞろ池 とみをゆたかに まもるみ仏」 「明治28年11月 京都西光組」 と明記されており、「再びお地蔵様が村を守り、豊かにしてくださるように」という祈りが込められている *気になるのは「西光組」であるが、明治期に京都で力を持っていた土木・建築業者であるが、熱心な仏教の講中(信仰グループ)でもあり、因幡堂(平等寺)や革堂(行願寺) にも奉納しており、五条の十念寺は西光組の活動拠点だったという
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境内北側の石仏は「弥勒菩薩坐像」
かつて鎌倉時代の作といわれる七体の石仏 (釈迦如来、文殊菩薩、薬師如来、金剛界大日如来、延命地蔵菩薩、勢至菩薩、弥勒菩薩) があったが、太平洋戦争中に防空壕設置を理由に町内会役員によって持ち去られ、その内の1体だけが残っている -
地蔵堂から街道を80m北に行くと「深泥池貴舩神社」がある
江戸時代前期、「貴船神社」まで約10km、雪が降る時などの参拝は大変だったので、分霊をこの地に祀ったといわれ、本社と同じ名は恐れ多いと思ったのか、「貴船」でなく「貴舩」になっている *「貴船神社」は水神の総本宮で、全国に約2,000社あるが、京都市内にも、下鴨神社河合神社内、上賀茂柊野、北区紫竹、岩倉幡枝、深泥池など存在する -
境内入口に「ちから石」
石には「文政八(1825年)四月」の刻印が残されている *神社によくある「力石」は、参拝者が触れてご利益を願う意味もあるが、元々は持ち上げたときの感覚で農作物の豊作や天候などを占う「石占いの信仰」がルーツと言われ、江戸時代には力自慢を競い合う娯楽でもあり、一人前の成人男性として認められた儀式でもあったという -
さらに入口には「池大雅ゆかり之地(生誕地)」石碑もある
「池大雅」(いけのたいが1723-1776)は、江戸時代の文人画家・書家で、京都銀座役人の下役の子として生まれ、7歳から本格的に唐様の書を学び、その出来栄えに僧たちから「神童」と絶賛され、中国の南宗画(なんしゅうが)を基礎に、日本の室町絵画や琳派、西洋画も取り入れた独自の画風を確立した、最近になって深泥池の近くで生誕したという文献が発見され、2018年記念碑が建立された、お墓は千本通寺之内通の浄光寺(通称大雅寺)にある -
「深泥池貴舩神社」(みどろがいけきふねじんじゃ)
鳥居の奥に「割拝殿」と本殿 *「割拝殿」(わりはいでん)は、建物の中央が吹き抜けの通路になって、参道と社殿が一体になり建物をくぐって本殿へ向かう、珍しい形式の神社建築で現存する数は少ない -
深泥池貴舩神社「本殿」
祭神は、貴船神社と同じ水の神「高霹神」(たかおかみのかみ)と、水の女神「弥都波能売神」(みずはのめのかみ)を祀り、農耕や雨乞い、治水、火防(ひぶせ)の神としての信仰が篤い *「高霹神」は、雨の下に横並びに口を3つ書きその下に龍と書く龍神で、(古事記では)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が火の神・迦遇槌命(かぐつちのみこと)が斬った際にその血から生まれたとされ、「弥都波能売神」は、伊邪那美命(いざなみのみこと)が迦遇槌命を生んだ後、火傷を負い苦しんだ際にその尿から生まれたとされる -
「深泥池貴舩神社の由来」石標
深泥池の旧鞍馬街道には保元二年(1157)に、京の六地蔵の一つ、御菩薩池(みどろいけ)地蔵(現鞍馬口地蔵)が祀られ、室町時代には関所が置かれていた。当神社の御祭神は高龗神(たかおかみのかみ)と申し上げ、雨水を司る龍神で、古くから鞍馬山麓の貴船に鎮座せられる貴船神社の分社として、深泥池の農民によって、勧請したものである。貴布禰総本宮貴船神社は平安遷都より、皇居の御用水と人々の生活用水や農業用水である賀茂川の水源にあたる所から川上神(弥都波能売神/ミズハノメノカミ)と水を司る高龗神が御祭神として朝野の尊崇が篤く、洛中からの参詣が絶えなかった。しかし、本宮への参詣に遠くて大変だったので、寛文年間(1660~70年頃)の十月二十三日に御分霊が行われ、街道筋の当地に鎮座され 農耕をはじめ、住民の安寧、除災招福の守護神として信仰され、今日に至っている。平成七年(1995)深泥池貴舩神社奉賛会 *川上神(かわかみのかみ)は、弥都波能売神の尊称 -
本殿の裏には、末社「弁天社」があり、七福神の一人である琵琶を持った弁財天が祀られている、右側の切り株は、数年前に倒れた御神木の跡
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山側には、「役行者」(えんのぎょうじゃ)の石像が2体並んで(?意味不明)祀られている *「役行者」は、飛鳥から奈良時代に、山岳信仰と仏教などを融合させた「修験道」(しゅげんどう)の開祖とされる呪術者
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入り口正面には、境内社「秋葉神社」(あきばじんじゃ)
平安時代から、火伏せの神様「秋葉明神」を祀る村の鎮守社であるが、ちょうど先月歩いた東山参詣道にもあった「秋葉山東景寺」(秋葉堂)の系列で、中村楼や木屋町松屋の信仰も篤く、静岡県に総本宮、全国に1,000社以上、東京「秋葉原」の地名の由来ともなった神社で、京都には東山と釈迦谷にしかないとの情報だったが、3つ目を発見、三尺坊という修験者が、修行の末に神通力を得て天狗に変身して静岡県秋葉山に舞い降りたと伝えられるから、先程の「役行者」との関連もあるかもしれない -
「すぐきの神様秋葉神社の縁起」(すぐき漬発祥の地)石標
秋葉神社の注目は、京都三大漬物のひとつ「すぐき漬」発祥の地であることで、その経緯を書いている石標が面白い、「かつて、深泥池は七つ森七軒村といわれ、その一番森を「消し山」と称し、火伏の神である秋葉神社が1200年前から祀られていた。しかし、神仏混交の社であったが故に、明治の廃仏毀釈の令により、賀茂社の社家が社を打ち壊した。翌年の春、社の修復を怠った村に大火が起こり、村民らは家財農具の一切を焼失した。失意した人々が焼け跡を整理していると、どの家の跡にも漬け物桶だけが焼け残っていた。疲労と空腹に耐えていた人々が漬け物桶をあけると、中の漬物は火が通り、良い匂いがしていた。村の長が漬物の茎を一本試食したところ、「酸い茎や」といった。これがすぐき発祥の歴史である」即ち、「酸い茎」が「すぐき」になり、今では千枚漬、しば漬と並び京都三大漬物のひとつとして、観光都市京都を支えているから、この地区はもっと優遇されてもいい *「すぐき」は、かぶ(かぶら)の変種とされる酸茎菜(すぐきな)が原材料で、安土桃山時代から上賀茂の深泥池周辺の限られた地域で栽培が行われ、他村への持ち出しが禁じられ、上賀茂神社の社家が独占してきたが、明治26年(1891)に起こった深泥池地区の大火災からその周辺ですぐき販売が始まり一般へも普及したと言われる -
もう一つの伝承「豆まき発祥の地」
かつて、深泥池の畔に大きな洞穴があり、そこから鬼が出現し村人を襲ったので、村人は鬼の通り道である貴船神社から深泥池までの穴を塞ぎ、柊の葉に鰯の頭を結びつけ家の戸口にぶら下げると、鬼は匂いにつられて鰯の頭にかぶりつき、柊の葉で目を突かれて怯み、そこに村人は鬼が苦手な豆を投げつけて追い払い、穴をふさいで塚を築いたという、が、その塚がどこにあるかは現在不明 -
「びっくり坂」と呼ばれる急こう配の坂道、勾配率が15%で急坂と言われるが、最大25%の勾配率が約300m続くから、かなりキツイ! *豊国廟の石階段が25%
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深泥池の標高75mから、上がり切った地点で標高105m、ここから鞍馬街道を二軒茶屋駅120mまで歩き、さらに電車で鞍馬駅240m、鞍馬寺410mまで上がる
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「霊元天皇勅願所圓通寺」「幡枝切通碑」(はたえだきりとおしひ)
「幡枝切通」とは、深泥池村から鞍馬方面への山道を切り開いて人馬や車が通れるように作った道路のことで、1685年に整備され、圓通寺の僧がその碑を建立した *(碑文)山城国愛宕郡御泥池村から鞍馬方面へ行くのには檜木峠を経て遠回りしなければならなかった。近道には両側に山が切り立ち、急坂を馬がやっと通れる程度の道しかなかった。近年村人はこの山あいを切り開き道を造り、切り通しと呼ぶようになった。この道は高い山でもないのに石が突き出て、低い土地でもないのに水が湧き出ていた。木に覆われて夏にも乾くことなく、冬にはしばしば凍結し、人も牛馬もすべって倒れることが多く、中国でいう蜀の桟道に匹敵するような難路であった。 時に炭売りを業とした吉三郎という者が御泥池村にいた。この道を往復すること数十年、常に道を改修することを考えていた。貞享2年の夏、同村の次郎右衛門・勘三郎と改修工事を発起した。人々の助力によりついに完成し、永く難路の苦労を免れることになった。難しい工事を一介の庶民が成し遂げたことは偉大なことである。わたし(碑文の作者性通)は感嘆のあまりその顛末を石碑に刻むものである。(京都市歴史資料館HPより) -
「圓通寺」(えんつうじ)参道入り口
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入り口、右「圓通寺」、左「播枝離宮」(はたえだりきゅう)
「圓通寺」は、元々は「後水尾天皇」が造営した別荘「播枝離宮」で、「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)は、今年400年祭の「寛永行幸」(かんえいぎょうこう)と「寛永文化」で盛り上がっている時の人 -
「後水尾天皇」(1596-1680)は、後陽成天皇(ごようぜいてんのう1571-1617)の後、第1皇子の良仁親王(かたひとしんのう)を後継に予定していたが、折り合い悪く弟の智仁親王(としひとしんのう)に変更したところ、秀吉の養子であったため家康に反対され、代わりに第3皇子の「後水尾天皇」が擁立され、1611年16歳で即位し、同時に当時6歳の2代将軍秀忠(1579-1632)の五女「徳川和子」(とくがわまさこ)との政略結婚が画策され、1620年に婚姻が成立、1626年には秀忠と3代将軍家光(1604-1651)父子により、幕府と朝廷の接近をアピールするため、後水尾天皇を二条城に招き「寛永行幸」が行なわれた、しかしその後朝廷の権威を失墜させるような事件が続いたため、天皇は幕府に反発して33才の若さで譲位し、1629年から4代「霊元天皇」まで51年間にわたる院政を行い、その間戦のない平和な時代を背景に、公家や武家、町衆などの交流が進み多様な文化が生れた中で、自身も優れた文化人として和歌や茶の湯、立花などを通じて「寛永文化」と呼ばれる華やかな文化を築き、歴代天皇の中では最高齢の85歳で亡くなった
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「寛永文化」(かんえいぶんか)は、寛永年間(1624-1644)を中心に、後水尾天皇が、封建制を強化する江戸幕府に対抗する形で、京都を中心に開花させた雅やかで自由な気風を持つ文化で、生涯学問を好んでいた後水尾天皇は、和歌、漢詩集、書道などに関する多くの書物を残し、周囲には、小堀遠州、本阿弥光悦、松花堂昭乗、俵屋宗達、狩野探幽、尾形光琳といった「寛永文化」を代表する「文化びと」たちが集まり、また皇位を争った「智仁親王」とは王朝文化や雅な離宮への憧れを共有し、個人的には親密な文化的交流を持ち、1624年に庭園が完成した「桂離宮」の影響もあって、1639年「幡枝離宮」、1655年「修学院離宮」を造営した
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苔生した姿が美しい「勅使門」と菊の御紋
後水尾天皇は、1629年退位して「後水尾上皇」になり、仙洞御所で院政を敷きながら、隠居後の静寂を求めて比叡山の見えるこの景勝地を何年もかけて探し当て、1639年「幡枝離宮」を造営し、「東福門院」(徳川和子)を伴い、観月など楽しんだという -
(入り口受付)山門「天寿洞」(てんじゅどう)2015年再建
以前に訪問した時は「勅使門」から入ったが、現在は(2020年から)変更になっている -
後水尾上皇は、1651年相国寺で出家し「後水尾法皇」となり、1639年に「幡枝離宮」を造営した後も、水利がなかったため、憧れの舟遊びを楽しめるような大きな池も造れないので、さらに平安時代の優雅な貴族生活を求め続け、親交のある智仁親王の「桂離宮」にも強い刺激を受け、比叡山の麓に1653年から1655年にかけて、「桂離宮」と並び日本の王朝庭園の最高傑作とされる「修学院離宮」を造営した
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霊元天皇より寄進された「梵鐘」
後水尾法皇は、修学院離宮の造営後はそちらに出向くことが多くなり、禅院開創の念願もあったことから、1672年、霊元天皇(1654-1732)の乳母・文英尼(ぶんえいに)に「幡枝離宮」を下賜(かし)され、1678年、文英尼が開基となって臨済宗妙心寺派の禅寺に改め、後水尾法皇より「圓通寺」(えんつうじ)の勅額を賜り、1680年には「霊元天皇勅願寺」(れいげんてんのうちょくがんじ)となり、霊元天皇より梵鐘が寄進された -
高浜虚子句碑「柿落葉 踏ミて たづねぬ 円通寺」
「高浜虚子」(1874-1959)が、1955年の秋、鞍馬からの帰路に圓通寺を訪れた際の句だという、同時期かどうか分からないが、「貴船出て立寄る柿の円通寺」「ここも亦柿の村なる円通寺」という句もあった -
(玄関)創建当時は茶室などもあったが、現在は正面の「方丈」(本殿)、右手に「御幸御殿」(客殿)、奥に「潮音堂」(観音堂)が残る、「客殿」には後水尾天皇以降の歴代皇族の御尊牌が祀られており、「観音堂」には後水尾法皇が帰依した黄檗宗の開祖隠元(いんげん)が中国から持ち帰ったという不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)が安置されている
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「客殿」に入り、後水尾上皇自ら作庭に携わったと言われる「幡枝離宮」の庭をそのまま今に伝える「圓通寺」庭園を見る、「客殿」も「幡枝離宮」造営時に、東福門院(徳川和子)の御所から移築されたもので「御幸御殿」(ごこうごてん)と呼ばれる
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客殿からの「枯山水借景庭園」
苔庭の石組みと、座った目線の1m60cmに刈り込まれた生垣の先に、雄大な比叡山が美しく見えるように設計され、客殿の細い柱は額縁になって、いろんな角度から比叡山を切り取って様々な景色を見せており、比叡山を眺められる場所を探し求めたというだけに、見事な借景庭園になっている -
左側に位置を変えるとまた違う眺望になる
作庭は、後水尾上皇が携わったと言われるだけで不明だが、妙心寺塔頭の雑華院(ざっけいん)の庭園と似ていることから、江戸前期の日蓮宗の僧「玉淵」(ぎょくえん)ではないかと言われる *「玉淵」は、小堀遠州の末弟に仕え、桂離宮の造園にも関り、妙蓮寺の「十六羅漢の石庭」など作庭した -
やはり、「正面からの眺望」が一番安定感がある
苔に覆われた平らな平庭式の枯山水に、横一文字に直線的に刈り込まれた生垣と、客殿の柱と庭の杉やヒノキの木立の縦の直線の間に見える、薄青い比叡山の山並みの構成は、計算し尽くされた「借景額縁庭園」になって素晴らしい -
「低く抑えた石組」が、さらに比叡山を引き立たせている
高さを抑えた生垣の前に広がる、苔庭に置かれた大小40数個の庭石は、それ以上にならないよう、石の大半を地面深く埋め込み、石組は低く抑えた横石を多く使っており、これがさらに借景の比叡山を引き立たせている -
「遠近法を使った小堀遠州風の庭園」
客殿からは狭く感じるが、近くに寄って見ると、400坪もある広大な面積で、手前側と右側は何もない広い空間になって、左奥に石組が集中的に配置されている、これは石組を左奥へ収束させることで細長い敷地をより広く見せるという遠近法効果を狙ったもので、江戸初期に小堀遠州が確立し、南禅寺を始めとする禅寺方丈庭園に見られる典型的な様式だという -
右側は「苔」の空間
当初は白砂の枯山水だったと思われるが、現在は苔に覆われた庭園になっており、どういう経緯かは不明だが、手間は圧倒的に苔の方がかかりそう *白砂は、砂紋で波や水流を美しく見せて庭全体を明るくし、苔は島、山、森などを瑞々しく見せて、しっとりとした侘び寂び感を表す -
左奥には、「角ばった石組と、丸石の石組」が並ぶ
角ばった石組は、低い立石を使った三尊石風の組み合せで、これに対比して大きめの丸石と円形の刈込みを並べているのが面白いというか、お洒落! *「武家庭園」が、権力を誇示し、巨石を直立させて豪壮に見せているのに対し、「公家庭園」は、自然の景色そのままに、季節の草木を引き立てる控えめな庭園を、建物と一体にして、建物内から座って優雅に鑑賞するスタイルが多い -
正面にも、控えめな「三尊石」
中央に低い小さな主尊石があって、両脇にそれよりも背の高い脇侍石がある、との解説だが、ちょっと分かりずらい -
創建当時はあったという茶室の場所は分からないが、「蹲踞」(つくばい)もある、当日は、晴天だったので稜線がくっきりと浮かび上がっているが、雨の日は山並みが霞んで水墨画のようになり、前回の訪問は晩秋だったので紅葉が素晴らしく、春はサツキ、冬は雪景色と、四季折々の風情を味わうことが出来るので、年4回は訪れたい
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「京都市眺望景観創生条例」に指定されて借景を保存
あらためて借景を見ると、ビルや民家が全く映り込んでない、これにはいろいろと経緯があり、1990年代にこの周辺に高層マンションの建設計画が持ち上がり、貴重な借景を壊してしまうと危惧され、2007年京都市は「眺望景観創生条例」を制定し、円通寺庭園などの眺望・景観を保全するため、建築物の高さ(最高31m)やデザインを規制した、これにより円通寺の借景や、大文字の送り火、世界遺産の下鴨神社や清水寺、金閣寺などの周辺では、屋根の角度や形状まで細かく制限され、古くからの景観が法律によって守られている -
(2008/05/21撮影)京都の二大借景庭園「圓通寺」と「正伝寺」
かつては、京都に数多くあった「借景の庭」は、周辺環境の変化で今はほとんどが失われていったが、その中で一番のお気に入り庭園は「圓通寺」と「正伝寺」で、西賀茂から見る比叡山を借景とした「正伝寺の庭園」は、白砂の枯山水に石は使わず、サツキの刈り込みを七五三調に配した「虎の児渡し」ならず「獅子の児渡し」は珍しく、特に中秋の名月では、比叡山から月が昇るように設計されているという、まさに必見の庭園で、作庭は小堀遠州と言われるが確証はない -
「圓通寺」を退出したら、すぐ前の通りに食事処があったので、お腹も空いていたので早速入った
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12:00 ランチ「たまゆら」
周りには何もない、住宅街の隠れ家的な店で、若い?女将が一人で切り盛りしているこじんまりした定食屋さん、「たまゆら」(玉響)は、勾玉(まがたま)が触れ合う微かな音が出る様で、一瞬の出会いに感謝 -
メニューは、いくつかある定食の中「エビフライとカニクリームコロッケ定食」を注文、大きめのエビと、手作りのコロッケにつくタルタルソースが絶品、2つの小鉢も京のおばんざい風で美味しかった、前回来た時はなかったので聞くと、ちょうど最近2周年だそうで、100円おまけしてもらい恐縮、次も行かないわけにいかない
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途中の民家の中のお地蔵さん
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「晋六窯」(しんろくがま)
1955年創業から三代続く、京焼・清水焼の窯元で、現在三代目の娘さん御夫婦で運営、陶芸教室、ネットショップもあり、オリジナルの「ペリカン急須」は、最後の一滴まで注げるという急須で、半世紀以上作り続けられている銘品 -
「京都精華大学学生寮」(大学まで約500m)
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「鞍馬・貴船」と「上賀茂」分岐点
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「更雀寺」(きょうじゃくじ)通称「雀寺」(すずめでら)
奈良時代の793年、桓武天皇の勅願により開創されたという古いお寺で、かつて藤原家勧学院(学問所)があった地で、藤原実方という歌人が奥州に左遷された際、都を恋しがって雀に化身して京に戻ったという雀塚があることに由来、1977年、四条大宮付近から移転 -
「総合地球環境学研究所」
地球環境問題を自然科学、人文科学、社会科学など総合的な観点から研究する国立研究所で、略称「地球研」という凄い研究所がこんな所にあった、調べてみると、「地球温暖化や生物多様性の喪失など地球環境問題の解決を目的として設置された日本の国立研究所で、2001年に文部科学省所管の大学共同利用機関として京都大学内に設立され、2004年法人化、2006年に現在地に移転した *「大学共同利用機関法人」は、全国に6つあり、千葉県佐倉市の「国立歴史民俗博物館」、東京立川市の「国文学研究資料館」と「国立国語研究所」、京都市の「地球研」と「国際日本文化研究センター」(桂)、大阪吹田市の「国立民族学博物館」 -
「建物」は、自然豊かな環境に馴染むよう、周りの樹木を活かし、高さを抑えた瓦葺きの屋根と焼き杉の外壁で、研究棟と宿泊棟があり、現在研究系職員48名、事務系職員96名が在籍しているという、ここに入るためには、大学院生として入るか、共同研究プロジェクトに参画するかになる
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左へ行くと「京都産業大学」から「上賀茂神社」へ
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長代川(ながしろがわ)沿いに「二軒茶屋駅」方面へ
長代川は、周囲の沢の水を集め、叡山鉄道沿いに岩倉から宝ヶ池辺りで、岩倉川と合流し高野川から鴨川に流れる -
「二軒茶屋東映団地」
途中で、気になる名前の団地が出てきたので調べてみると、この辺りは1970年代前半に、あの映画の「東映」が住宅分譲をやっていたという、「東映」は昭和26年(1951)に発足し、業界一の映画会社まで発展したが、1961年には「東映不動産株式会社」を設立し、全国で住宅土地開発を行い、現在でも撮影所や映画館の再開発や商業ルなど不動産事業部門が存在する -
「二軒茶屋駅」到着
叡山電車(えいでん)は、出町柳駅から八瀬比叡山口と、貴船鞍馬を結ぶ2つの路線で、大正14年(1925)開業からちょうど100周年になる -
「二軒茶屋」(にけんちゃや)という地名は、八坂神社参道にあった二軒茶屋と同じく、鞍馬寺や貴船神社に参詣する旅人の休憩所として茶屋があったことに由来し、1軒は昭和初期に市原へ移転したのち廃業し、もう1軒も1992年まではあったという
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「京都産業大学シャトルバス案内図」があり、約1kmの地点に「京都産業大学」がある、鞍馬街道は、かつては幡枝方面からの道がメインだったが、明治中期からは上賀茂からの道が整備され、1965年に天文学者の荒木俊馬(京大教授)が創立し、非宗教系の大学が良かったのか、今では立命、同志社、竜谷に次ぐ16,000人規模まで拡大し、笑福亭鶴瓶、堀内孝雄、清水國明、原田伸郎などの有名人も多数輩出している、また、1968年には隣の駅名になっている「京都精華大学」(4,200人)が開校し、同じ沿線の「京都芸術大学」(4,200人)と共に芸術系大学として人気があり、叡山電車も喜んでいるに違いない
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「鞍馬街道」全体 12kmの内、鞍馬口から二軒茶屋まで 7kmを歩き、ここから鞍馬までの 5kmは、電車で移動する
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「市原駅」手前に「川島織物本社」があるが、この建物は「京都市東北部クリーンセンター」らしい、「川島織物」は京都を代表する老舗企業で、天保14年(1843)呉服屋として創業し、明治には宮内省御用達に任命され、明治宮殿や京都迎賓館、迎賓館赤坂離宮)など、多くの皇室や関連行事で使われる織物の他、智積院の障壁画や祇園祭の山鉾巡行の幕にも多数使用されており、また、2006年神戸のインテリア会社「セルコン」と合併してからは、カーテンの売上高でトップシェアになり、自動車向けのカーシートでは3割の国内シェアを占め、文化財級の伝統的な織物技術を継承しつつ、住宅や車関係のインテリアまで時代の変化に応じた経営基盤を持っているのは立派 *最近の業績は年商260億円、従業員約1,000人
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次の「市原駅」を過ぎて「二ノ瀬駅」までの250mの間に、250本のイロハモミジやオオモミジの「もみじのトンネル」があり、電車も徐行運転してくれる
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(2023/11/22撮影)電車からの「もみじのトンネル」
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(2023/11/22撮影)「白龍園」からの「もみじのトンネル」
「白龍園」(はくりゅうえん)は、春と秋だけ特別公開している個人所有の日本庭園で、2023年秋に訪問した(今年の秋は10/10~12/6公開) *大正12年(1923)創業の子供服販売の老舗アパレル会社「青野」の創業者が、1963年荒廃したこの地に完成し、2012年から公開している -
(2023/11/22撮影)あずま屋から叡山電車が走る「もみじのトンネル」
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「二ノ瀬駅」(にのせえき)
藤原氏の権力争いで皇位継承に敗れ、京の山深くで隠遁生活を送った悲劇の皇子「惟喬親王」(これたかしんのう)が、雲ケ畑の「市ノ瀬(一ノ瀬)」に次いでこの地に移り住んだために「二ノ瀬」と呼ばれるようになったと言われる -
次の「貴船口駅」に向かう
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「貴船口駅」で途中下車
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「貴船」は、ここから「貴船神社」まで2.1km、古くからの料理屋や料理旅館が23軒ほどある
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「貴船神社一の鳥居」
鞍馬川と貴船川が合流する地点で、ここから鞍馬街道を左折して、約2mの参道を「貴船神社」へ進む -
再び「叡山電車」で「鞍馬駅」へ
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「鞍馬駅」
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「鞍馬の天狗像」
鞍馬山に伝わる鞍馬天狗(くらまてんぐ)は、源義経幼少期の牛若丸が、7歳から10年間、山奥の僧正ヶ谷(そうじょうがたに)に預けられ、昼は学問、夜は武芸に励み、そこの僧侶(又は山伏)であった天狗に兵法の秘伝を授かったという *牛若丸(1159-1189)は、平安後期の1159年、平治の乱で父・源義朝が平清盛に敗れ、美貌の母常盤御前は清盛の言いなりになることで生き延び、兄頼朝は伊豆に流され、7歳の牛若丸は鞍馬寺の僧に預けられ、16歳の時、奥州平泉へ下り藤原秀衡の庇護を受け、頼朝の平家打倒の兵に加わり、1183年畿内近国に派遣され、1185年壇の浦で平氏を滅ぼすが、兄頼朝と対立し、頼朝打倒の旗を挙げるが失敗し、静御前と共に吉野から奥州に逃れたが、31歳で自害した -
「二代目大天狗像」
最初の像は、1994年の平安建都1200年を記念して鞍馬の自治会により作られ、2002年から駅前に置かれていたが、2017年に大雪で鼻が折れる被害があり、2018年鞍馬線開通90周年を記念して二代目が設置された -
「えんのいし」
2021年の集中豪雨で電車が長期運休した時、多くの関係者の尽力で運転再開したことを記念し、鞍馬山で産出される銘石「鞍馬石」(くらまいし)を使い、「ご縁」のパワースポットとして設置された -
今回「鞍馬の火祭」で拠点となる「鞍馬温泉」
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門前町、正面に鞍馬山と「鞍馬寺」
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甘味処「多聞堂」(たもんどう)
創業100年の老舗甘味処で、店名は鞍馬寺に祀られる毘沙門天の別名「多聞天」(たもんてん)に由来し、栃の実の餅でこし餡を包んだ「牛若餅」と、ニッキの香りが効いた「神虎餅」(しんこもち)が名物 -
多聞堂店頭の「灯篭と火祭の大松明、手松明」ミニチュア
いかにもレトロな「多聞塔」と刻まれた石灯篭と、名物「神虎餅」の銘板がある -
佃煮店「岸本柳蔵老舗」(きしもとりゅうぞうしにせ)
創業100年の老舗佃煮屋で、鞍馬名物の木の芽煮(このめに)や、実山椒、ちりめん山椒、茎若布、実山椒の佃煮「鞍馬しぐれ」など、店内では「鞍馬山ラーメン」や、うどん、にしん蕎麦、よもぎ餅なども食べられる -
佃煮店「渡辺木の芽煮本舗」
創業130年の老舗佃煮屋で、昆布に山椒の実を使った「木の芽煮」や筍、蕗(ふき)の「くらましぐれ」、昆布と山椒の「山椒昆布」などが名物 -
「鞍馬寺」(くらまでら)石碑
標高60mの「出雲路橋鞍馬口」から鞍馬街道を徒歩7km、電車5kmで、標高240mの「鞍馬寺」に到着、「鞍馬寺」は鞍馬山(標高580m)の中腹に建ち、京都の北方を守護する毘沙門天(多聞天)の神域で、平安時代以来広く信仰を集めてきたところで、本殿の鞍馬寺金堂まではまだ標高410mまで上がらなければならない -
石段の途中に精進料理店「雍州路」(ようしゅうじ)
「雍州路」とは、丹波と京の都を結ぶ鞍馬街道の別名らしく、仏門から還俗した初代店主が、昭和43年(1968)創業し、現在娘さんが継いでいるらしく、鞍馬寺の御用達店として、鞍馬山の名水や京野菜を使った精進料理を提供し、建物は「京都を彩る建物」に指定され、素敵な民芸品が展示されているという -
石段の途中に「鞍馬山修養道場」
かつてあった「十院九坊」(じゅういんくぼう)と呼ばれる塔頭(たっちゅう)を結集し、昭和39年(1964)建立され、写経や法話、書道・華道・茶道・水墨画などの修養道場として活用されている -
鞍馬寺「仁王門」
「鞍馬寺」は、「牛若丸」が育った場所で、天狗が住むと言い伝えられるパワースポットとして、また源氏物語や与謝野晶子ゆかりの地としても知られるが、もともと奈良時代770年の創建で、平安時代の796年に桓武天皇の勅命で堂宇が建立され、平安京の北の守り、水源の守護地として平安時代後期以来広く信仰を集めてきた -
「仁王門」(山門)は、平安時代後期の1180年頃建立され、明治24年(1891)焼失し、明治44年(1911)再建されたもので、左側の扉一枚は当初のものがそのまま残っているとされる、仁王像は、運慶の長男・湛慶(たんけい)作
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狛犬は「阿吽の虎」
「虎」は「鞍馬寺」に祀られている「毘沙門天」のお使いの神獣とされ、また開山の鑑禎(がんてい)が毘沙門天に助けられた日時が寅の月・寅の日・寅の刻だったことから、狛犬として「阿吽の虎」が鎮座している -
「阿吽の虎」は、向かって右が口を開けた「阿形」(あぎょう)、左が口を閉じた「吽形」(うんぎょう)で、万物の始まりから終わりを表すという
-
「仁王門」が、下界と聖域を分ける結界となり、いよいよここから「毘沙門天」の聖域に入る、入山料500円(前半はここまで、鞍馬寺入山と鞍馬の火祭は後半に続く)
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