2026/01/14 - 2026/01/14
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Bachさん
2026年午年の初詣に行きたい「馬ゆかりの神社」ベスト3は、馬を守護する「藤森神社」、神馬のいる「上賀茂神社」、絵馬発祥の「貴船神社」と言われていますが、今年最初の「京町散歩」は、「藤森神社」と「上賀茂神社」と巨大絵馬が魅力の「下鴨神社」の3つの神社を巡ることにしました。
予想通りベスト3の神社は、年末から正月にかけて大行列の賑わいだったようで、それを外して14日に行ったのは大正解で、「上賀茂」の生きた神馬「神山号」や、「下鴨」の巨大絵馬を存分に見れて、「藤森」では馬みくじで「大吉」まで当て、今年の運勢は間違いなしです。
また今回も新しい歴史の発見が多く、「藤森神社」は渡来系の「秦氏」が来る前からある古い神社で、隣の「伏見稲荷神社」は、空海の口添えでここの敷地の一部を譲ってもらって出来た、とか、「上賀茂神社」の摂社になっている「大田神社」は「賀茂氏」が来る前からある神社で、後に「上賀茂」に取り込まれ、「上賀茂」は分社した「下鴨神社」と共に平安京の守護神となり勢力を拡大した、他にも、神馬の「神山号」は元JRAの競走馬で、近所の京都産業大学馬術部が代々世話していて土日祭日だけ出社してくる、室町時代から代々上賀茂神社に仕えた神官が住んでいた「社家町」が今だに整然と残っている、等々、散歩していると入ってくる情報はキリがありません。
60年ぶりのひのえウマの年も、国政選挙から始まる慌ただしい1年になりそうですが、個人的には初詣でラッキーなおみくじもいただいて、いい年になりそうなスタートになりました。
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2026.1.14(水)10:00京阪藤森駅~0.6km10:10藤森神社~(電車20分)11:30京阪出町柳駅~0.5km11:40ランチ「鯖街道花折」12:40~0.8km13:00下鴨神社~(バス30分)14:30上賀茂神社~(社家町)0.1km西村家~0.3km井関家~梅辻家~0.3km大田神社~0.7kmカフェ「あふひのテラス」~(バス40分)16:30四条河原町
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10:10 「藤森神社」
平安京では洛南(午の方角)の守護社であり、「駈馬神事」(かけうましんじ)が行われることから、馬を守護する神として広く知られ、勝運と馬の守護神として競馬関係者や馬の愛好家、午年生まれなど、馬と縁のある方々から信仰をあつめる *「平安京の東西南北を守護する神社は、(北)上賀茂神社、(東)八坂神社、(西)松尾大社 -
「南参道」は約200mの(馬場)にもなっていて、毎年旧暦の午月(5月)の最初の午の日(5日)の5月5日に「駈馬神事」(かけうましんじ)という、奈良時代の781年早良親王(さわらしんのう)が陸奥の反乱鎮圧の前に行われた儀式を再現し、武士や馬術指南役、町衆、現在は氏子らが一字書きや横乗り、仰向け、逆立ちなどの曲乗りを奉納する勇壮な馬の神事が行われる
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「藤森神社境内図」
「藤森神社」は、弥生時代の203年、「三韓征伐」で凱旋した神功皇后(じんぐうこうごう)が軍旗を立て祭祀を行ったのが起源で、奈良時代、早良親王(750-785)が篤く崇敬し、またこの辺りに根を下ろした秦氏の守護神「真幡寸(まはたき)神社」としても厚く信仰を集め、794年の平安遷都に際しては桓武天皇より都の南の方角の守護とされ、室町時代の1438年には将軍足利義教が「日本書紀」の撰者舎人親王を祀る「藤尾社」を、伏見稲荷大社から藤森の現在地に遷座して祀り、応仁の乱後の1470年に、早良親王を祀る「塚本社」と「真幡寸神社」を合祀して「藤森神社」となった -
「拝殿」の前には、大きな「絵馬」
「藤森神社」の歴史は古く、神功皇后の「三韓征伐」に始まり、その後渡来系の泰氏が伏見稲荷の祠を稲荷山中に祀ったが、現在の伏見稲荷大社境内にあった「藤尾社」(藤森神社)の土地を、空海(774-835)が稲荷神の遷座のために10年間借りたという話が逸話として残っており、この際「藤尾社」を現在の「藤森神社」に遷し、藤森にあった「真幡寸神社」を現在の「城南宮」に遷したという歴史があり、毎年行われる「藤森祭」の神輿巡幸では、その後江戸時代に再建された伏見稲荷大社の境内にある「藤尾社」に向かい、「土地返しや」と掛け声をかけ、稲荷側は「今お留守」と返すやり取りがあるらしい -
絵馬「飛躍」令和八年丙午
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絵馬「馬九(頭とう)いく」
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「九つの幸せ」
勝(克服)、富( 経済)、健(健康)、和(調和)、礼(精神)、望(希望)、愛(心)、成(成長)、自(自立) -
藤森神社「神馬(しんめ)像」
馬の守護社として、また駈馬神事(かけうましんじ)を象徴するものとして、駈馬保存会が昭和60年(1985)に建て直した -
お腹の部分には、藤森神社の「神紋」(しんもん)、上がり藤に一文字
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「手水舎」は、龍ではなく「馬」で、石川五右衛門が宇治塔の島の十三重の塔の一部を取り外し寄進したと伝わる
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「拝殿」は、本殿と共に1712年後水尾上皇(1596-1680)の遺勅により、中御門天皇(1702-1737)から賜わったもの
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「拝殿」は、建物の中央に通路がある特殊な「割拝殿」(古い神社の形式)
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「本殿」は、1712年、中御門天皇から宮中賢所(かしこどころ)であった建物を賜わったもので、現存する賢所としては最も古く、東殿・中央・西殿の三座に、御祭神12柱が祀られる、中央の御祭神は素戔嗚尊、日本武尊、応神天皇、仁徳天皇、神功皇后など7柱、東殿は舎人親王、天武天皇の二柱、西殿は早良親王など三柱
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「八幡宮社」は、応神天皇を祀る、現在の社殿は1438年足利義教によって造営された
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「大将軍社」は、平安遷都の際に都の四方に祀られた内の南方の守護社で、現在の社殿はこれも1438年、足利義教によって造営された
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「祖霊社」は、神社に功績・功労のあった方々の霊を祀る
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「七宮社」は、豊臣秀吉が伏見城を築城する際に、その地に祀られていた七宮を遷し奉ったもので、天満宮社、熊野神社、厳島神社、住吉神社、諏訪神社、廣田神社、吉野神社
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「霊験天満宮」は、菅原道真を祀る
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「藤森稲荷社」は、大正3年(1914)の式年遷宮の際に竣工された
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「七福神像」は、元禄時代にあった七福神を、鎮座1800年を期に平成16年(2004)復活させた、この奥に明治維新の神仏分離まで境内に祀られていた石像を祀る「大日如来社」がある
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「旗塚」(はたづか)は、神功皇后(じんぐうこうごう169-269)が、「いくさ旗」を立てたとされる当社発祥の場所で、飾ってある「イチイガシの切り株」は、「いちのきさん」と呼ばれ、参拝すると腰痛が治るとされ、幕末の近藤勇も参拝して治癒したと伝わる
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「神鎧像」(かむよろいぞう)は、端午の節句(菖蒲の節句)に飾られる武者人形の発祥の地として、また疫魔退散を祈念して建立された
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「不二の水」(ふじのみず)は、地下約100mから湧き出るご神水で、二つとない美味しい水といわれ、勝運のご利益があるといわれ、自由に持ち帰れる
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小侍従の歌碑「むらさ、きの雲とよそよにみへつるは木高き藤の森にそ有ける」、かつてこの地に藤の林があり、和歌や俳句にも多く詠われ、あたかも「藤の森」のようであったことから「藤森神社」と呼ばれたという *「小侍従」(こじじゅう)は、平安後期から鎌倉時代にかけての女流歌人で女房三十六歌仙(小野小町ら平安・鎌倉期の女性36人)の一人
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「絵馬舎」は、現在の拝殿の前の拝殿を移築して利用したもの
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江戸時代前期の1613年に奉納されたという銘のある絵馬もあり、京都でも古いものの一つという
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初の国際G1競走優勝馬「トウカイテイオー号」(1988-2013)、クラシック三冠馬「ナリタブライアン号」(1991-1998)奉納もある
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「藤勝苑」(とうしょうえん)」には、紫陽花、藤の花、花菖蒲があり、特に3,500株におよぶ紫陽花の名所として知られる、また、「菖蒲の節句」発祥といわれることから、6月上旬からの梅雨の時期には水辺の周りに花菖蒲も見られる
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「菖蒲の節句(しょうぶのせっく)発祥の地」
毎年5月5日に行われる「藤森祭」で、武者行列が有名であったことから、武者人形(五月人形)を飾る「菖蒲の節句」の発祥の祭といわれ、「菖蒲」は「尚武」(武道・武勇)や「勝負」に通じ、祭神に神功皇后など武神が祀られていることから「勝運」を呼ぶ神様として信仰を集める *「藤森祭」は、平安時代に皇室と国家の安寧を祈願するために斎行されたが、江戸時代には花菖蒲が、武道の尚武、勝ち負けの勝負に通ずることから「菖蒲の節句発祥の祭り」とされた -
最後に、馬の神様、勝運・学問向上の神様のご利益を期待して、今年の干支「馬みくじ」に挑戦する
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結果は何と「大吉」! 昨年の「巳みくじ」も「大吉」で、2年連続の吉兆に大満足!「渦を巻く 谷の小川の丸木橋 渡る夕べの ここち するかな」(初めは心配もあるが迷うことはない、後には何もかも平和に収まる)
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藤森神社から京阪電車で約20分、11:30京阪出町柳駅に到着
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駅から地上に上がった所に、ひっそりと「下鴨神社」の絵馬を発見!
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「賀茂川」と合流し「鴨川」になる「高野川」に架かる「河合橋」を渡り、「下鴨神社」へ
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出町橋の袂に「鯖街道口」の石碑
「鯖街道」は、江戸時代に若狭湾で早朝に獲れた鯖を塩漬けにして、約80kmの山越えを1日かけて出町柳のこの辺りまで運んだ、保存性の高い「塩鯖」は祭事でも重宝され、大阪湾から淀川を経由して生きたまま運んだ生命力の強い「鱧」(ハモ)と共に、京都の食文化に欠かせない存在だった -
「鯖街道」は、複数のルートがあり、その主要ルートが朽木、大原、八瀬を通る「若桜街道」で、他に美山、周山・高尾を通る「周山街道」、針畑、鞍馬、貴船を通る「針畑越ルート」、琵琶湖西岸、高島を通る「西近江路」などあり、海産物の中でも鯖が多かったのでこの名称になっているが、当時の若狭街道は、北前船で陸揚げされた塩や米、昆布、木炭などのみならず、大陸文化なども伝える重要なルートで、若狭湾の寄港地には廻船問屋の豪商が何軒も残っている
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ここから賀茂川沿いの「賀茂街道」は既に「上賀茂神社参道」になる
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「参道」は、下鴨神社に渡る「葵橋」、鞍馬口通に架かる「出雲路橋」(出雲国から移住した人が集まったエリア)、北大路通に架かる「北大路橋」、北山通に架かる「北山橋」を経て、「上賀茂橋」を渡り「上賀茂神社」まで、約4km
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「葵橋」を渡って直ぐの所にある「鯖街道花折下鴨店」でランチ
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11:40「鯖街道花折」これより若狭へ十八里(72km)
大正2年創業で、大津に工房がある、(HPより)古来より、京の朝廷の食の一端を担ってきた「御食国」(みけつくに)若狭小浜。そして、小浜から京へと続く「若狭街道」。平安期から朝廷への献上の品として海の幸を宿場から宿場へと運び京の都へと届けてきました。江戸中期からはさらに食の伝導が盛んになり「鯖街道」と呼ばれるようになりました。当店の鯖寿しは、先人の知恵と伝統を受け継ぎ、最高の食材にこだわり京の町衆の文化を現代から未来へと守り伝えるため精進致しております。 -
「持ち帰りメニュー」かなりいい値がする、(HPより)古来より京都では、京の町衆のご馳走といえば「鯖寿し」といわれるほど、祭りの日やハレの日の食卓には鯖寿しが飾られておりました。現在でも京の三大祭(葵祭・祇園祭・時代祭)などの日には、鯖寿しを食べる風習がございます。江戸時代、若狭から京都までの道のりは、最短でも18里(72㎞)、その道のりを一昼夜かけて若狭の食材を京都まで運んでおりました。防腐剤も冷蔵技術もなかった当時は、鯖を京都まで運ぶ際に内臓を取り出し、腹に塩を抱かせていました。そのため、塩鯖はとても塩辛く保存食としての限られた食材でしかありませんでした。そこで京の町衆が鯖の旨味を引き出そうと、考えついたのが「京鯖寿し」です。歴史と風土に育まれた「京鯖寿し」は京を代表するハレの食として今なお、親しまれる食文化です。
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花折膳2,300円を注文、鯖寿司5切れ(生と炙り)と汁物、米は滋賀県産「日本晴」と「こしひかり」の配合で、酢の塩梅がちょうど良く、小鉢の〆鯖はより濃い目の酢で美味しい、そして吸物の出汁がよっぽど高そうな材料を使っているような絶妙な味、量的にもちょうどいいボリュウムで、美味しかった!
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通りの向かい側にある「河合神社西鳥居」から下鴨神社へ入る
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「河合神社」(かわいじんじゃ)
賀茂川と高野川の合流地点に鎮座することからの名前で、男女の仲を取り持つ神として、また御祭神の「玉依姫命」が玉の様に美しかったことから美麗の神として深く信仰されているが、正式には「鴨河合坐小社宅神社」(かものかわいにいますおこそべのじんじゃ)と言い、世襲の賀茂社の社家(神職の家柄)の屋敷「小社宅」(おこそべ)である鴨一族の祖先を祀る社で、「鴨家」の次男として生まれ幼少期と晩年を過ごした「鴨長明」ゆかりの神社としても知られている -
河合神社の祭神は、「玉依姫命」(たまよりひめのみこと)で、神武天皇の母とも言われ、上賀茂神社の祭神「賀茂別雷大神」(かもわけいかづちのおおかみ)の母であり、下鴨神社の祭神「賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)の子で、女性守護としての信仰を集め、美麗の神として美麗を願う「鏡絵馬」が奉納され、絵馬に描かれている顔に普段使っている化粧品で化粧をして奉納すると美しくなるという
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三大随筆の一人とされる「鴨長明」(かものちょうめい1155-1216)は、河合神社の宮司を補佐する禰宜(ねぎ)の息子として生まれ、幼少より学問・和歌に優れ、宮廷歌人として活躍したが、50歳で出家し各地を転々としている間に「栖」(すみか)とした方丈で閑居生活を送り、1212年随筆「方丈記」を著した、その冒頭は「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」とあり、長明が晩年過ごしたと言われる「方丈庵」が糺の森に復元されている
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「下鴨神社」楼門(ろうもん)から入る
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正面「舞殿」(ぶでん)に飾られた「絵馬」
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下鴨神社、正式名称「賀茂御祖神社」(かもみおやじんじゃ)の「巨大絵馬」は、年末に舞殿に奉納され初詣客を迎え、年が明けた後、舞殿から細殿へ移動され飾られる、これは新しい年の福を招き、参拝者の祈願成就を願うために行う、下鴨神社の年末年始の風物詩の一つだという
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「舞殿」(ぶでん)正面の「絵馬」は、左に「八咫烏の開運招福」、右に「丙午でうま九ゆく」、中央に「紀貫之(きのつらゆき)の歌」人もみなかつらかざしてちはやふる神のみあれにあふひ」(葵祭の際に人々が葵の葉を髪飾りとして身につけ、神の御社・下鴨神社に集まる)
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東面には、未(羊)、申(猿)、酉(鶏)、戌(犬)
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北面には、亥(猪)、子(鼠)、丑(牛)
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西面には、寅(虎)、卯(兎)、辰(龍)、巳(蛇)
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「細殿」(ほそどの)に、舞殿から移された「巨大絵馬」が飾られている
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煌びやかな絵馬は昨年に引き続き、日本画家「塩谷榮一」(しおや えいいち)氏の作品で、塩谷氏は、近江八幡の社家に生まれ、神社仏閣向けの作品が多く、出雲大社、厳島神社など各地の寺社にも多数奉納し、貴乃花の化粧まわしや九重部屋の浴衣なども制作しているという
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周囲には、京阪電車が奉納した、参拝者の願い事が書き込まれた絵馬が並んでいる
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「言社」(ことしゃ)にも、十二支の守護神を祀る社(やしろ)があるので、うま年の守護神「顕国魂神」(うつしくにたまのかみ)と自分の干支にお参り *「言社」は、「大国主命」(オオクニヌシノミコト)が持つ7つの呼び名の社が十二支の干支を分担し、守り神として祀っている
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下鴨神社からバスで約30分、上賀茂神社へ(一の鳥居)
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14:30「上賀茂神社」に到着(大鳥居)
2015年の式年遷宮の後に、2020年から宮前広場の整備を行い、「大鳥居」を新設し、一の鳥居までの参道に石畳を敷設し、鳥居前に「新上賀茂神社会館」を建設した -
早速「二の鳥居」前にある、お目当ての「神馬舎」へ
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「神馬舎」(しんめしゃ)は、神様が乗る馬(神馬)の厩舎(きゅうしゃ)で、すべての神社にあるわけではなく、伊勢神宮や上賀茂神社では馬を飼育し、日曜や祝日などに出社しているので、極めて貴重! 正月は元旦から5日までと、7、11、12、14~16、18、25だけ
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神馬の名前は「神山号」(こうやまごう)で、ご祭神の賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)が降臨される際「馬に鈴をかけて走らせよ」というご神託に従って儀式を行うと神様が天から降臨したという伝説があり、さらに宮中行事であった「競馬」(くらべうま)がこの地で行われるようになり、上賀茂神社は「乗馬発祥の地」と言われる
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古来、奈良時代の頃から神様は馬に乗って人間界に降りてくると信じられ、雨乞いなど願い事の際には生きた馬が「神馬」として奉納されてきたが、生きた馬の奉納は大変なため、次第に馬の形をした人形や馬の絵を描いた板(絵馬)へ変化し、今も生きた馬が奉納されている神社はわずかしかない
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神山号の最も重要な仕事の一つは、毎年1月7日に行われる「白馬奏覧神事」(はくばそうらんしんじ)で、古くから「年の初めに白馬を見ると一年の邪気が祓われる」と言い伝えられており、葵の紋が入った「油単」(ゆたん;カバー)を纏った神山号が本殿へ進み、神前で大豆を食して邪気を祓う
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「神山号」が奉納されるようになったのは昭和49年(1974)からで、長らく途絶えていたのを、JRA日本中央競馬会と京都産業大学馬術部の協力で復活したそうで、京都産業大学は初代からお世話しており、普段は「神山号」は大学グラウンドの厩舎で過ごし、お祭りや日曜、祝日のみ神社に出社する
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現在の「神山号」は十代目で、2013年から2017年までJRAの舞台で活躍した競走馬が、誘導馬の経験を経て神馬に着任したため、人を怖がらず、とても穏やかな性格だという、好物は人参と大豆
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「二の鳥居」から境内に入る、入口には上賀茂地域で受け継がれる「すぐき」の製造工程を紹介する展示
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展示は「すぐきの天秤押し」で、上賀茂の冬の風物詩となっている、「すぐき」は、「しば漬」「千枚漬」と並ぶ京漬物であるが、上賀茂地域でしか生産されないという
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「細殿」(ほそどの)と「立砂」(たてずな)
「細殿」は、歴代天皇、上皇が外出の際の仮御所、行幸の際や斎王の御著到殿(ちゃくとうでん)だった所で、1628年造替、「立砂」は、盛砂(もりずな)とも言い、円錐形の2つの立砂は、社殿が出来るよりも古い時代に、神が降臨するための「依り代」(よりしろ)とされ、ご祭神が降臨された神山(こうやま)をかたどったもので、「清めの砂」 の起源であり、玄関などに盛る 「 盛り塩 」 の起源でもある -
「上賀茂神社の絵馬」は、神馬「神山号」で、画家・幾田邦華さんと、書家・川尾朋子さんの制作で、八坂神社も同じ作家らしい
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干支がモチーフの「みくじ結び」
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「橋本神社」は、和歌・芸能の守護神である衣通姫神(そとおりひめのかみ)を祀り、清少納言と交際していたともいわれる藤原実方が合祀されている
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「樟橋」(くすのきばし)は、御手洗川(みたらしがわ)に架かる別名「長寿橋」
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「手水舎」(ちょうずしゃ)の御神水は、「神山」(こうやま)のくぐり水であることから「神山湧水」(こうやまゆうすい)として飲料水にも適合している
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「楼門」から「本殿」にお参りしようとすると、正月過ぎても行列状態で、諦めたが、中門の先に同じ造りの「本殿」と「権殿」が建ち、通常「本殿」に祭神の「賀茂別雷大神」(かもわけいかづちのおおかみ)を祀り、建て替え時などには「権殿」に避難される
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「楼門」と左右「東西廻廊」は、1628年に造替(ぞうたい)されたもので、境内で唯一塗装されている社殿だという
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正面「本殿」入り口の「中門」、右手前の「棚尾神社」(たなおじんじゃ)は、本殿へ参拝する前に、神様へのとりつぎ(仲介)をする場所とされる
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「楼門」入り口にあった「うまくいく」外村まゆみ作品で、「不要になった陶器を使ったモザイクです。皆様にとって、うまくいく1年となりますように」と書いてある
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奥は、迷いを取り除く神様を祀る「川尾神社」(かわおじんじゃ)、隣に「伊勢神宮逢拝所」
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御物忌川(おものいがわ)に架かる「片岡橋」(かたおかばし)を渡る
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「片岡社」(かたおかのやしろ)は正式名「片山御子神社」(かたやまみこじんじゃ)で、賀茂一族の姫であった玉依姫命(たまよりひめのみこと)が、天に昇った我が子・賀茂別雷大神(上賀茂神社の祭神)を神山に呼び戻し神社創建の契機となったことから、祭神の母・玉依姫命を祀る、そのため境内26社の摂末社の中で第一摂社として特別な社で、現在でも上賀茂神社の祭礼では、まずここで儀式を行うのが恒例となっている、また、平安の昔から縁結び・恋愛成就・家内安全・子授け・安産の神様として信仰を集め、「紫式部」も足しげく通っていたということから、絵馬は紫式部がモデルになっている
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楼門前の御物忌川に架かる「玉橋」(たまばし)は、神職が神事の際のみに渡り、普段はしめ縄が張られている
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「岩上」(がんじょう)は、「葵祭」(賀茂祭)で、宮司が勅使と対面し、神の意志を伝える「返祝詞」(かえしののりと)を申す神聖な場で、神山と共に賀茂信仰の原点であり、神と人との心の通路となるパワースポットでもある
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「上賀茂神社」には本殿にたどり着くまでに、罪穢れを祓い清める二つの川が流れており、「手水舎」脇を流れる「御手洗川」は身を清める川、楼門前を流れる「御物忌川」は祭器具を清める川と言われている、「御手洗川」(みたらしがわ)は上流の賀茂川から分流した明神川が神山をくぐった「神山の湧水」を源流とし、「御物忌川」(おものいがわ)は洛北の蟻ケ池(ありがいけ)を源流とし、境内に入り名前を変えて、この「橋殿」辺りで合流して、「土屋」辺りから「ならの小川」となり境内を流れる
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「橋殿」(はしどの)は、御手洗川の上に建てられた殿舎で、「葵祭」(賀茂祭)で勅使(ちょくし)が御祭文(ごさいもん)を奏上したり、斎王代と巫女が禊(みそぎ)を行う、現在は、下鴨神社と一年交代で行われ、下鴨神社では「井上社」で行われる
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「紫式部歌碑」(ほととぎす 声まつほどは 片岡の 森のしづくに 立ちやぬれまし)は、片岡社の森の木々の見える中で、ほとぎすが鳴くのを期待して待っている様子を詠んでおり、(解説では)将来の結婚相手を待っている様子、あるいは、父の藤原為時に同行して越前国へ下向する直前に無事に帰りたいと願う様子か?
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「土屋」(つちのや)は、神主以下の社司の著到殿(ちゃくどうでん)として使用されていた建物で、現在は、葵祭で斎王代が「土屋」前を流れる「ならの小川」で御禊の儀を行う
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「紫式部歌碑建立記念植樹」は、紫式部がたびたび上賀茂神社を参拝したことから、源氏物語千年紀の2008年に建てられたとある
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「岩本神社」は、和歌の神を祀り、源氏物語の主人公・光源氏のモデルの一人といわれる在原業平が合祀されているという
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「賀茂山口神社」(沢田神社)は、神領地の田畑の守護神で、「ならの小川」から分流した「沢田川」を挟んで、右に拝殿があり、例年6月10日の「御田植祭」の時は、山口神社で神事が行われた後、奈良神社前の「神事橋」から早苗を「ならの小川」へ投げ入れ、五穀豊穣を祈願する
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「二葉姫稲荷神社」(ふたばひめいなりじんじゃ) は、上賀茂神社の末社ではなく、神仏習合の時代に「神宮寺」という仏教寺院がこの辺りにあったが、明治の神仏分離により神宮寺は廃絶し、その鎮守社だけがここに残ったもの
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「渉溪園」(しょうけいえん)は、賀茂曲水宴(かもきょくすいのえん)の舞台となる庭園で、中根金作(なかね きんさく)により、浩宮徳仁親王(現天皇陛下) 生誕の奉祝行事として昭和35年(1960)に造られた。平安時代を再現して4月第2日曜日に斉王代のもとで一流歌人により和歌が詠まれる
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「渉渓園」があった場所は、「神宮寺」が建っていたところで、礎石などの石組みも残っており、中央に岩本神社辺りから分岐した「沢田川」より分水した曲流が流れている
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庭園の中央にある「睦(むつみ)の木」は、樹齢300年以上のスダジイの木(関東ではシイノキ、関西ではツブラジイが一般的)で、一つの根から何本もの太い幹が伸びることから、家族の結びつきを象徴しているといわれる
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向うは「賀茂山口神社」(沢田神社)の拝殿
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「願い石」(陰陽石)は、この地にあった龍が住むといわれた「神宮寺」の池の底から出土した陰陽石で、両手で同時に手を触れてから、山口神社にお参りをするとパワーがみなぎるとされる
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「願い石」に触れて、「賀茂山口神社」に参拝
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「ならの小川の歌碑」(藤原家隆)「風そよぐ ならの小川の 夕ぐれは みそぎぞ夏の しるしなりける」 *藤原家隆は藤原定家の親友でライバル
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ならの小川に架かる「神事橋」、「ならの小川」は、「御手洗川」と「御物忌川」が合流して「土屋」辺りから「ならの小川」となり、岩本神社の辺りから「沢田川」が分岐し、さらに境内を出ると再び明神川と名前を変える、因みに「なら」は、樹木の「楢」の葉と、楢の葉を器に使った神事からの命名で、正面の鳥居は「奈良神社」の鳥居
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「奈良神社」は、奈良刀自神(ならとじのかみ)を祀り、料理上達の神とされ、4月の春祭には料理業界の方が多数参拝する、また6月の御田植祭(おたうえさい)では賀茂山口神社(沢田社)で神事が行われた後、奈良神社前の「神事橋」から早苗を「ならの小川」へ投げ入れる
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「奈良神社鳥居」の左右は、「北神饌所・庁屋」と「校倉」
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「北神饌所・庁屋」(きたしんせんしょ・ちょうや)は、神饌(神様へのお供え物)を調理、準備した建物で、昔は政庁としても使われ、賀茂競馬や能舞台としても利用されるなど、神事や儀式に重要な役割を果たした
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「校倉」(あぜくら)は、貴重な宝物などを保管している高床式の倉庫
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「外幣殿」(がいへいでん)は、かつて御所殿(ごしょでん)、御所屋(ごしょのや)と呼ばれ、法皇・上皇の御幸(ごこう)の際などに使用されたが、、馬場殿(ばばでん)とも呼ばれ、葵祭の「賀茂競馬足汰式」(かもくらべうまあしそろえしき)の際、馬の歯や毛並みから馬齢や健康状態を確認する毛付けの儀が行われ、その後馬の走る組み合わせや順番を決める
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境内を出て社家町に入る手前に「酒殿橋」(さけどのばし)がある、ここは神聖な境内から外へ出る結界(神と人の境界)のような橋で、ここから社家町を通って琵琶湖疏水分線に合流する「明神川」と、賀茂川へ合流する「菖蒲園川」に分岐する
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ここからの「明神川」沿いには、室町時代から代々上賀茂神社に神官として仕えた社家(しゃけ)と呼ばれる人たちの屋敷が立ち並び、建物は上賀茂神社本殿より低く抑えられ、門前を流れる明神川に架かる石橋と土塀が並ぶ町並みが、独特の趣ある景観を構築し、保存地区で電柱もないからスッキリ整然として美しい
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「すぐき処京都なり田」は、江戸時代の1804年から「すぐき」をずっと変わらず製造販売し、3ヶ所の自社農場を持つ老舗漬物屋だが、「すぐき」は京都特産品の漬物(しば漬・千枚漬・すぐき漬)の中でも、この上賀茂神社のもとでのみ作られ、上賀茂社家の間でしかない伝統的な漬物で、門外不出の独自の伝統的な製法による自然発酵の独特の酸味と旨味が、京都の伝統的な食文化として根付いており、現在「すぐき菜」を栽培する農家は規模の大小を含め70戸ほど、製造はわずか数軒だけになっている *「すぐき」が健康食品として脚光を浴びることになったのは、平成5年(1993)免疫機能を促す乳酸菌「ラブレ菌」が発見され、豊富な善玉菌が腸内のバランスを整え、免疫機能を向上させ、抗がん性や感染防御などの作用を示し、美容や健康にも良いという効果が発表されてから
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「社家町」(しゃけまち)は、上賀茂神社のような大きな神社ともなれば大規模な社家町が形成され、江戸時代には300軒近くもあり、明治以降は世襲制が廃止され次第に減少し、現在は20数軒が残るのみだが、それでも全国的には珍しい
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その代表的な屋敷である「西村家別邸」は、上賀茂神社に仕えた神職の邸宅を、明治20年代に西陣で織物業を営む7代目・西村清三郎が別邸として購入し、現在の「主屋」は1904年(明治37年)に建造されたもので、注目は「社家庭園」とも言われる庭園であるが、平安後期の庭園をなるべく保存しながら再整備したもので、曲水の宴を催す「曲水川」や、神山(こうやま)の「降臨石」(こうりんせき)をかたどった石組みなど、以前より見たいと思っている庭園だが、残念ながら、12月から3月の冬季期間は非公開なので、再度訪問したい
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「社家町」の屋敷は、料亭や土産物屋などの店舗、病院、普通の民家となっているものも多く、京料理「さくらい」は、大正12年創業の老舗料理店で、仕出し業から料亭・宴会場へと拡大し、現在3代目
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「藤木社」(ふじのきのやしろ)は、上賀茂神社の境外末社で、明神川の守護神を祀り、苔生した杮葺きの祠を守るようにそびえた樹齢500年というクスノキと、これに寄生したナンテンの赤い実が、石橋が並ぶ川沿いのこの古い町並みに際立って、何とも素晴らしい景色になっている
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この橋の先に立派なお屋敷があったので、何気なく見ると「天下一品」の表札! 後で調べると、創業者が社家町の雰囲気を気に入ってこの屋敷を買ったらしく、1980年頃までは樫の実学園という塾があって、現在は天下一品の本部と、障がい者支援のNPO事務所になっているという(SNS情報)
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「井関家」は、江戸時代後期の社家住宅で、表門や土蔵、土塀、庭を含め、上賀茂社家の屋敷構えとしての特徴を残す貴重な存在で、現在は「香袋・におい袋 いせき」のお店をしている
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「井関家」の、主屋は江戸時代後期の建築で、その中央に明治後期に増築された3階部分は、望楼風の建物で際立って目立ち、内部にも、当時の「枯山水庭園」があり、ここも非公開だが、機会があれば見てみたい
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「梅辻家」は、上賀茂に残る唯一の「賀茂七家」で、屋敷の内外にその特徴を残し、上賀茂の社家住宅の代表例として、上賀茂の歴史と文化を伝える重要な存在
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「賀茂七家」(かもしちけ)とは、上賀茂神社に奉仕する神職の家柄のうち、特に位の高い7つの家(松下・森・鳥居大路・林・梅辻・富野・岡本)で、室町時代から明治時代まで神主や禰宜などの役職を世襲していた
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「福徳神社」は、「上賀茂神社」境外末社で「大田神社」の末社でもあり、商売繁盛や富を呼び寄せる「福徳神」を祀り、江戸時代に富くじの興行が許された「金運の神」、大田神社参道の入口にあり、両社が一体となり、上賀茂神社の氏子地域で15歳の男子の元服(成人)を祝う「さんやれ祭」という祭が毎年2月24日に行われる
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「大田神社」(おおたじんじゃ)は、「上賀茂神社」境外第三摂社となっている(第一摂社は「片岡社」、第二摂社は「新宮神社」)
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鳥居入り口にある「大田ノ沢かきつばた群落」は、国の天然記念物にも指定される有名スポットで、平安のころからカキツバタの名所とされ、藤原俊成(1114-1204)の歌や、尾形光琳(1658-1716)の「燕子花(かきつばた)図」にも出てくる「神山(こうやま)や 大田の沢のかきつばた 深き頼みは色にみゆらむ」(神山のそばにある、大田の沢のカキツバタに深くお願いする恋は、その美しい花の色のようになんと美しいのだろう)
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「大田ノ沢」は、一万年以上前のかつて京都盆地が湖であった頃の湿地帯の名残で、近くの深泥池ともつながり、毎年5月中旬頃になると沢一面に約25,000株のカキツバが濃い紫色の花を咲かせる
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以前からこの地域に住んでいた「賀茂氏」の人々が祀ったもので、上賀茂神社より古い歴史をもつ
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「本殿・拝殿」とも1628年の造替で、天岩戸の前で踊った天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀り、芸能・芸事上達の信仰があり、毎月10日には、日本最古の神楽と言われる「チャンポン神楽」という面白い名前の神事がある、これは天岩戸の前で踊った踊りが原型で、鈴と鉦(かね)がチャンと鳴り、鼓と小太鼓がポンと答えることからの命名
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拝殿は「割拝殿」といって中央部分が土間になって、通り抜けた先に「本殿」がある、ちょうど午前中に行った「藤森神社」もこれであったが、割拝殿を持つ神社は、由岐神社や御香宮神社など、古い神社にしかない
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周りにある末社は入り口の「福徳社」も含めて4社で、いずれも「上賀茂神社」の境外末社にもなっている、「白鬚社」猿田彦命(さるたひこのみこと)、「百大夫社」(ももだゆうしゃ)船玉神(ふなたまのかみ)、「鎮守社」大国主神(おおくにぬしのかみ)、少彦名神(すくなひこなのかみ) *「百大夫社」とは、中世の人形遣いや遊女が信仰した民間信仰の神を祀る神社で、兵庫西宮神社、大分宇佐神宮など各地にある
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再び「上賀茂神社」へ戻り、一の鳥居前に新しく2022年に出来た「あふひのテラス」(上賀茂神社が運営する上賀茂会館)へ
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会館内に「葵家やきもち総本舗」と「カフェ」を併設、「葵家やきもち総本舗」は昭和25年(1950)創業のやきもち屋で、通信販売もしている
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「上賀茂神社のやきもち」と言えば「神馬堂」(じんばどう)、明治5年(1872)創業の老舗で、毎日つきたてのお餅で餡を包んで鉄板で焼いているので、いつも出来立てしかなく、店だけでしか買えないが、大体午前中には売り切れるので、この日も既に店閉まいで残念!
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「あふひのテラス」カフェは、新しい会館に2024年オープンした店で、上賀茂神社の鳥居を見ながら、やきもちとコーヒーを頂ける絶好のポイントだが、入って分かったのは、この経営者は、京都宇治で1854年創業した「ちきりや」で、三条室町に本社を置く日本茶専門店(同じ三条室町にある創業1555年の和装の老舗「千切屋」(ちきりや)とは別)
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幸い窓際の席に座れて、コーヒーを頂く、正月メニューは飲み物しかなかったが、持ち込みでもokだったので、隣の「葵家やきもち総本舗」から買ってきて、名物の白餅とよもぎで疲れを癒す
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「馬ゆかりの神社」に初詣をしながら、渡来系の泰氏と賀茂氏から始まる「藤森神社」から「下鴨神社」「上賀茂神社」を1日で巡り、あらためてその歴史の深さを振り返りながら、新たな1年をスタートすることになりました
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