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【思い出の旅】第25弾は、18年前の夏の終わりに、ふらりと歩いた本所界隈。江戸の残り香と鬼平犯科帳の舞台を探す旅である。<br /><br />(2023.09.01投稿)

【思い出の旅】江戸を行く~本所界隈~

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2005/08/28 - 2005/08/28

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旅猫

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【思い出の旅】第25弾は、18年前の夏の終わりに、ふらりと歩いた本所界隈。江戸の残り香と鬼平犯科帳の舞台を探す旅である。

(2023.09.01投稿)

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
同行者
一人旅
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩

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  • 銀座線の浅草駅から地上に出ると、そこは隅田川の川辺である。そこに、紅色の橋が架かっている。吾妻橋である。江戸時代には大川橋と呼ばれ、渡る時には二文取られていた。私設の橋であったからだそうだ。

    銀座線の浅草駅から地上に出ると、そこは隅田川の川辺である。そこに、紅色の橋が架かっている。吾妻橋である。江戸時代には大川橋と呼ばれ、渡る時には二文取られていた。私設の橋であったからだそうだ。

  • 橋を渡ると、江戸の頃には中之郷と呼ばれていた土地となる。当時、そこには大名の下屋敷や寺院、町民地などが点在していた。橋詰の北側には、越前福井藩松平家の下屋敷があり、その庭は名が知れていたそうである。『浩養園』と呼ばれていたそうだが、今は墨田区役所やアサヒビールの社屋が建ち、当時の面影はない。その一角に、勝海舟の像が建っていた。

    橋を渡ると、江戸の頃には中之郷と呼ばれていた土地となる。当時、そこには大名の下屋敷や寺院、町民地などが点在していた。橋詰の北側には、越前福井藩松平家の下屋敷があり、その庭は名が知れていたそうである。『浩養園』と呼ばれていたそうだが、今は墨田区役所やアサヒビールの社屋が建ち、当時の面影はない。その一角に、勝海舟の像が建っていた。

  • 北側には、横十間川が流れ、枕橋が架かっている。江戸の頃は源森川と呼ばれ、橋の名も源森橋であった。橋の北側には、水戸徳川家の蔵屋敷があった。池波正太郎の『鬼平犯科帳』では、この橋の北詰に、蕎麦屋『さなだや』があり、長谷川平蔵も訪れている。

    北側には、横十間川が流れ、枕橋が架かっている。江戸の頃は源森川と呼ばれ、橋の名も源森橋であった。橋の北側には、水戸徳川家の蔵屋敷があった。池波正太郎の『鬼平犯科帳』では、この橋の北詰に、蕎麦屋『さなだや』があり、長谷川平蔵も訪れている。

  • 現在、蔵屋敷跡の西側は、隅田公園となっている。その中央にひょうたん池がある。大名庭園のような風情があるが、池自体は当時のものではないようだ。

    現在、蔵屋敷跡の西側は、隅田公園となっている。その中央にひょうたん池がある。大名庭園のような風情があるが、池自体は当時のものではないようだ。

  • 公園の一角に『撫で牛』で知られる牛嶋神社が建っている。江戸の頃は『牛御前社』と呼ばれ、桜餅で有名な長命寺のすぐ南側に鎮座していた。関東大震災で被災後、隅田川の堤防整備により、現在地に遷座している。跡地は、首都高の敷地となってしまった。

    公園の一角に『撫で牛』で知られる牛嶋神社が建っている。江戸の頃は『牛御前社』と呼ばれ、桜餅で有名な長命寺のすぐ南側に鎮座していた。関東大震災で被災後、隅田川の堤防整備により、現在地に遷座している。跡地は、首都高の敷地となってしまった。

  • 石灯篭の足元に、黒猫がいた。魔女が連れていそうな可愛い猫であった。

    石灯篭の足元に、黒猫がいた。魔女が連れていそうな可愛い猫であった。

  • 枕橋の東側に架かる現在の源森橋で横十間川を渡り返すと、源森橋交差点に出る。その角に、内田工業と言う名の事務所が立っていた。その看板には、『汽罐と煙突』と書かれている。『汽罐』とは、ボイラーの事だそうだ。漢字で書かれているところに、どこか懐かしさを感じる。<br />※廃業のため、現在看板は塗り潰されています。

    枕橋の東側に架かる現在の源森橋で横十間川を渡り返すと、源森橋交差点に出る。その角に、内田工業と言う名の事務所が立っていた。その看板には、『汽罐と煙突』と書かれている。『汽罐』とは、ボイラーの事だそうだ。漢字で書かれているところに、どこか懐かしさを感じる。
    ※廃業のため、現在看板は塗り潰されています。

  • 近くでは、朝顔が咲いていた。朝顔は、下町によく似合う

    近くでは、朝顔が咲いていた。朝顔は、下町によく似合う

  • 浅草通りに出て、さらに東へと歩くと、業平橋を渡る。江戸初期に横川に架けられた橋だが、横川が埋め立てられ、今は大横川親水公園となっている。橋から南側を眺めると、親水公園の奥に空色の平川橋が見えた。<br />※平川橋は、老朽化のため、平成23年(2011)に撤去されています。

    浅草通りに出て、さらに東へと歩くと、業平橋を渡る。江戸初期に横川に架けられた橋だが、横川が埋め立てられ、今は大横川親水公園となっている。橋から南側を眺めると、親水公園の奥に空色の平川橋が見えた。
    ※平川橋は、老朽化のため、平成23年(2011)に撤去されています。

  • 業平橋を渡り、さらに東へ歩くと、押上駅の手前に春慶寺がある。『東海道四谷怪談』の作者である鶴屋南北の墓があることで知られる寺だが、現在はビルとなっている。『鬼平犯科帳』では、長谷川平蔵の剣友岸井左馬之助の寄宿先として登場している寺である。

    業平橋を渡り、さらに東へ歩くと、押上駅の手前に春慶寺がある。『東海道四谷怪談』の作者である鶴屋南北の墓があることで知られる寺だが、現在はビルとなっている。『鬼平犯科帳』では、長谷川平蔵の剣友岸井左馬之助の寄宿先として登場している寺である。

  • 浅草通りの一本北側にある横十間川沿いの細道を歩く。大通りの喧騒も無く、静かな下町の風情が漂ってくる。<br />※現在、護岸改修により景色が変わっています。

    浅草通りの一本北側にある横十間川沿いの細道を歩く。大通りの喧騒も無く、静かな下町の風情が漂ってくる。
    ※現在、護岸改修により景色が変わっています。

  • 堤防沿いに花が置かれ、いかにも下町らしい。

    堤防沿いに花が置かれ、いかにも下町らしい。

  • 細道を抜けると、横十間川に架かる十間橋が左手に見える。この界隈は、押上村や柳島村と呼ばれていたところで、田圃の中に寺が点在するような長閑な風景が広がっていたそうだ。

    細道を抜けると、横十間川に架かる十間橋が左手に見える。この界隈は、押上村や柳島村と呼ばれていたところで、田圃の中に寺が点在するような長閑な風景が広がっていたそうだ。

  • 橋の南詰には、室町時代創建の法性寺がある。妙見信仰の寺で、葛飾北斎所縁の寺でもある。

    橋の南詰には、室町時代創建の法性寺がある。妙見信仰の寺で、葛飾北斎所縁の寺でもある。

  • 横十間川は、法性寺のところで南へと流れを変える。空色の柳島橋で渡り、川沿いに進むと、川越しに法性寺と柳島橋が望めた。緑に包まれているため、この辺りは江戸の頃の面影が微かに感じられる。

    横十間川は、法性寺のところで南へと流れを変える。空色の柳島橋で渡り、川沿いに進むと、川越しに法性寺と柳島橋が望めた。緑に包まれているため、この辺りは江戸の頃の面影が微かに感じられる。

  • さらに南へ歩くと、左手に龍眼寺が見えて来る。応永2年(1395)創建の寺で、江戸の頃から萩寺として知られ、秋には多くの人で賑わったそうである。亀戸七福神の布袋尊でも知られている。

    さらに南へ歩くと、左手に龍眼寺が見えて来る。応永2年(1395)創建の寺で、江戸の頃から萩寺として知られ、秋には多くの人で賑わったそうである。亀戸七福神の布袋尊でも知られている。

  • 龍眼寺のすぐ南隣には、かつて陸奥弘前藩津軽家の抱屋敷があった。今は、表側に小さな事務所が並ぶ住宅街となっていた。<br />※周囲は、現在マンションが立ち並んでいます。

    龍眼寺のすぐ南隣には、かつて陸奥弘前藩津軽家の抱屋敷があった。今は、表側に小さな事務所が並ぶ住宅街となっていた。
    ※周囲は、現在マンションが立ち並んでいます。

  • そのすぐ南側に、藤で有名な亀戸天神がある。境内にある太鼓橋は、広重の名所江戸百景『亀戸天神境内』に描かれた橋を復元したものである。とは言え、木造ではないし、色も派手なので風情は無い。

    そのすぐ南側に、藤で有名な亀戸天神がある。境内にある太鼓橋は、広重の名所江戸百景『亀戸天神境内』に描かれた橋を復元したものである。とは言え、木造ではないし、色も派手なので風情は無い。

  • 亀戸天神の境内を抜け、葛餅で有名な船橋屋の前を通り、西へと歩く。天神橋で、横十間川を再び渡り、さらに歩いて行く。

    亀戸天神の境内を抜け、葛餅で有名な船橋屋の前を通り、西へと歩く。天神橋で、横十間川を再び渡り、さらに歩いて行く。

  • しばらく歩くと、隅切りの建物が見えて来た。看板には、和菓子と喫茶とある。抹茶でも出すのかと興味があったが、外から眺めるだけとした。<br />※現在、改装され『すみだ江戸切子館』となっています。

    しばらく歩くと、隅切りの建物が見えて来た。看板には、和菓子と喫茶とある。抹茶でも出すのかと興味があったが、外から眺めるだけとした。
    ※現在、改装され『すみだ江戸切子館』となっています。

  • さらに西へ進むと、右手に長い参道が続いている。法恩寺である。かの太田道灌が江戸城を築城した長禄2年(1458)に、城内鎮護の祈願所として創建された寺である。何度も移転を繰り返し、江戸時代に現在地に移って来たそうだ。当時、広大な境内を持っていたことを、その長い参道が物語っている。『鬼平犯科帳』にも登場している寺である。

    さらに西へ進むと、右手に長い参道が続いている。法恩寺である。かの太田道灌が江戸城を築城した長禄2年(1458)に、城内鎮護の祈願所として創建された寺である。何度も移転を繰り返し、江戸時代に現在地に移って来たそうだ。当時、広大な境内を持っていたことを、その長い参道が物語っている。『鬼平犯科帳』にも登場している寺である。

  • その墓地には、開基である太田道灌の墓もある。

    その墓地には、開基である太田道灌の墓もある。

  • 法恩寺の西側には、法恩寺橋がある。『鬼平犯科帳』では、この橋の東側にあった本所出村町に、長谷川平蔵や剣友岸井左馬之助が通った高杉銀平道場があった。第1巻第2話『本所・桜屋敷』の舞台となったのもこの界隈である。橋自体は、震災復興事業により、大正14年(1925)に架けられたもので、橋台部分は、当時のものがそのまま利用されている。 

    法恩寺の西側には、法恩寺橋がある。『鬼平犯科帳』では、この橋の東側にあった本所出村町に、長谷川平蔵や剣友岸井左馬之助が通った高杉銀平道場があった。第1巻第2話『本所・桜屋敷』の舞台となったのもこの界隈である。橋自体は、震災復興事業により、大正14年(1925)に架けられたもので、橋台部分は、当時のものがそのまま利用されている。 

  • 法恩寺橋から大横川親水公園沿いに南へ歩くと、北斎通りに出る。その角に鎮座しているのが津軽稲荷神社である。ここは、幕末、陸奥弘前藩津軽家の中屋敷があった場所で、その屋敷神だけが残されているのだ。

    法恩寺橋から大横川親水公園沿いに南へ歩くと、北斎通りに出る。その角に鎮座しているのが津軽稲荷神社である。ここは、幕末、陸奥弘前藩津軽家の中屋敷があった場所で、その屋敷神だけが残されているのだ。

  • 長崎橋跡を西へ行くと、本所である。そこから南へ歩くと、かつての本所入江町である。『本所の銕』と呼ばれた長谷川平蔵が青春を過ごした場所で、『鬼平犯科帳』において、長谷川家の旧宅があった場所とされた町である。今で言うと、五柱稲荷神社の南側辺りである。

    長崎橋跡を西へ行くと、本所である。そこから南へ歩くと、かつての本所入江町である。『本所の銕』と呼ばれた長谷川平蔵が青春を過ごした場所で、『鬼平犯科帳』において、長谷川家の旧宅があった場所とされた町である。今で言うと、五柱稲荷神社の南側辺りである。

  • 堅川を三之橋で渡り、さらに南へと歩くと、都営新宿線の菊川駅に出る。その出口辺りは、江戸時代、長谷川平蔵の役宅があった場所である。そこは、後に、『遠山の金さん』で知られる遠山金四郎の屋敷にもなった。

    堅川を三之橋で渡り、さらに南へと歩くと、都営新宿線の菊川駅に出る。その出口辺りは、江戸時代、長谷川平蔵の役宅があった場所である。そこは、後に、『遠山の金さん』で知られる遠山金四郎の屋敷にもなった。

  • 菊川駅から新大橋通りを西へと歩くと、不自然に斜めに道が付いている。そこは、かつて五間堀と言う割割があった場所である。その北側部分は、公園となっている。

    菊川駅から新大橋通りを西へと歩くと、不自然に斜めに道が付いている。そこは、かつて五間堀と言う割割があった場所である。その北側部分は、公園となっている。

  • 公園の北側には、弥勒寺がある。『鬼平犯科帳』にも何度か登場する寺である。作中では、その門前に、平蔵の馴染みであるお熊婆が営む茶店『笹や』がある。江戸の頃は、五間堀に面していたが、今は境内が狭くなり、路地裏に佇んでいる。

    公園の北側には、弥勒寺がある。『鬼平犯科帳』にも何度か登場する寺である。作中では、その門前に、平蔵の馴染みであるお熊婆が営む茶店『笹や』がある。江戸の頃は、五間堀に面していたが、今は境内が狭くなり、路地裏に佇んでいる。

  • 五間堀に架かっていた弥勒寺橋も無くなり、今は大通りとなっている。『鬼平犯科帳』の場面を想像することは、最早不可能である。

    五間堀に架かっていた弥勒寺橋も無くなり、今は大通りとなっている。『鬼平犯科帳』の場面を想像することは、最早不可能である。

  • 近くの路地裏に、氷屋があり、かき氷を売っていた。100円である。<br />※『岸氷室』のかき氷は、現在販売していません。

    近くの路地裏に、氷屋があり、かき氷を売っていた。100円である。
    ※『岸氷室』のかき氷は、現在販売していません。

  • 大通りに面した場所には、古風な飲食店が4軒並んでいた。<br />※現在、マンションとなり、街並みは消えています。

    大通りに面した場所には、古風な飲食店が4軒並んでいた。
    ※現在、マンションとなり、街並みは消えています。

  • その大通りを北へと歩くと、両国駅を越え、再び北斎通りに出る。北斎通りは、かつて南割下水と言う水路があった場所である。その南側の一角に、葛飾北斎が生まれた場所があったそうだ。最後に、それを示す標柱を観て、江戸歩きを締め括ることにした。<br />※現在、『葛飾北斎生誕の地』の標柱は撤去されています。

    その大通りを北へと歩くと、両国駅を越え、再び北斎通りに出る。北斎通りは、かつて南割下水と言う水路があった場所である。その南側の一角に、葛飾北斎が生まれた場所があったそうだ。最後に、それを示す標柱を観て、江戸歩きを締め括ることにした。
    ※現在、『葛飾北斎生誕の地』の標柱は撤去されています。

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この旅行記へのコメント (10)

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  • 群青さん 2023/09/04 23:44:14
    思い出の旅の追記が好き!
    旅猫さん こんばんは。
    そんな凄く昔の旅行記ではないのに、特に都会ではガラッと風景や様相が変わってしまうのですね。

    追記で現在の状況に触れていらっしゃいますが、もしかして再度その地を訪れてきちんと確認作業をされているのかしら?
    と思うくらい、過去と現在の対比に真摯に向き合ってらっしゃる様子に感銘を覚えます。
    やはり、昔訪れた場所の現在の状況って知りたくなりますものネ。

    群青

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2023/09/05 21:57:24
    RE: 思い出の旅の追記が好き!
    群青さん こんばんは。

    書き込みありがとうございます。
    特に都心は急激に変わってます。

    追記の部分は、実際に再度訪れて確認しているものもありますが、ネットなどで調べているものもあります。
    フォートラでは、旅行記はこれから訪れる人のためですから。
    もちろん、個人的にも今の状況は知りたいので、同じ場所につい足を向けてします。

    旅猫
  • 前日光さん 2023/09/03 10:49:33
    絶滅品種。。。
    こんにちは、旅猫さん
    ちょっとご無沙汰してしまいましたが、
    旅猫さんを忘れていたわけではありません(^_-)-☆

    郷愁を誘う木造建築密集地帯。
    こういう風景に思い入れのない人って、日本人としてどうなんでしょう?なんて
    思ってしまいますね。
    明治日本が西洋崇拝に傾き、古き日本のよきものを破壊したようですが、日本の近代化はその時からひずみ始めていたようです。
    心にささる風景っていうものは、誰にでもありますよね?
    旅猫さんと私の心象風景は、共通しているなぁと思うことが多々あります。

    少し前にあったのに、今は失われてしまったもの。
    郷愁を誘う風景が、今はなくなってしまったことがとても残念です。
    貴重な風景の紹介、ありがとうございました<m(__)m>


    前日光

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2023/09/04 07:49:35
    RE: 絶滅品種。。。
    前日光さん、こんにちは。

    こちらこそ、ご無沙汰しています。
    木密地帯のような、昭和の風情を感じる街並みは、ある一定の年齢以上じゃないと、もう郷愁は感じないのでしょうね。
    私と同年代でも、高層ビル群が大好きな人の方が多い暗いですから。
    古い町並みでも、倉敷のように一大観光地は別ですが。

    明治政府による極端な欧化政策も大きかったですが、関東大震災と東京大空襲で焼け野原になってしまったのが、やはり大きかったような気がします。
    それでも残った戦前の街並みを、燃えやすいからと潰してしまう行為は、正直信じられないです。

    前日光さんとは、たぶん同じ価値観を持っているような気がしますね。
    それにしても、昭和は遠くなったものです。。。
    そして、写真と言うものがとても大切だと思います。
    失われた街並みや風景を残すことが出来る。
    今はどこにでもあるものでも、いつかは失われます。
    何気ない風景でも、写真に撮っておくことは大切だと思います。

    旅猫
  • Decoさん 2023/09/02 20:08:04
    2005年…
    旅猫さん、こんばんは。

    本所界隈、2005年の旅行記、下町の飾らない、生活感のある雰囲気が濃厚ですね。
    でも、現在では随分変わってしまったようで残念です。
    幾年もの歳月を経た町並みは、それ自体が貴重な存在だと思うのですが。
    川岸の風景も随分変わってしまったのでしょうか。
    最後から二番目の古風な四軒並びの飲食店、失われたのが残念でなりません。古びたモルタル(?)、二階の簾、昭和風の看板、店の前の鉢植え。懐かしく心和みます。
    東京だけでなく、ここ10年、20年で急速に街並みが失われている土地が多いように思えます。災害対策も必要だとは思いますが、やっぱり古い街並みは、その土地の歴史そのものだと思います。都知事のみならず、大切にしてもらいたいな、と思いました。
                                 Deco

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2023/09/02 21:17:51
    RE: 2005年…
    Decoさん、こんばんは。

    書き込みありがとうございます。
    2005年くらいだと、まだまだ昭和の面影が濃厚に残っていますね。
    今の東京の街は、関東大震災と戦災後に大きく変容しているものの、基本的な町割りは、つい最近まで江戸時代が土台となっていました。
    それが、地形も町割りも変わる様な大規模な再開発が行われるようになり、ここ数年で大きく変わってしまいました。
    建物は老朽化しますし、建て替えは必要です。
    街も生き物のようなものですから、多少の変容は仕方が無いと思います。
    それでも、歴史館のある街並みは残して欲しいものですね。

    あの川岸の風景も、背景にスカイツリーや高層マンションが建ち、護岸も大きく変わってしまいました。
    木造モルタル造りの飲食店は、とても風情がありました。
    今はどこにでもある大きなマンションになってしまい残念です。

    都知事の進める災害に強い強靭な東京には、木密地帯は必要なしとされています。
    高層ビル群による防火と、難燃性の新建材の住宅の組み合わせによる燃えない街づくりを目指し、再開発を大規模に進めているので、今後も大きく変わってしまうことでしょう。

    旅猫
  • ポテのお散歩さん 2023/09/02 13:19:36
    江戸の風情が残る街
    旅猫さん こんにちは。

    『どうする家康』のような戦国時代から比べると、鬼平がいた時代は
    江戸も中期で、よくTV番組で観る江戸らしい江戸だなと思ったのですが、
    田沼様(笑)から松平様へ政権が移った経済の動乱期でもあるのですね。
    なので鬼平が活躍したのですね♪

    実際に歩かれた時から18年ほど経つと、景色も大きく変わったのですね。
    江戸を感じる場所は少なくなっていますが、本所や深川など
    地名は残るので、歩きたい街には変わりありません(*^-^*)

      ポテ

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2023/09/02 16:39:04
    RE: 江戸の風情が残る街
    ポテさん、こんにちは。

    いつもありがとうございます。
    長谷川平蔵が活躍した時代は、寛政の改革の最中ですね。
    江戸幕府も色々と問題が多くなり、混乱してきた頃です。
    商人の力が強大となり、盗賊が増えた時代でもありますね。

    今の本所界隈は、当時と違い、どこからでもスカイツリーが見えています。
    下町好きとしては、あの塔はちょっと異質で邪魔な感じです(笑)
    マンションも多くなり、風情はかなり無くなりました。
    それでも、何とか下町風情が残されています。
    とは言え、都知事がそのような町並みを目の敵にしているので、再開発が進みつつあります。。。

    旅猫
  • pedaruさん 2023/09/02 12:11:46
    本所界隈を歩きましたか
    旅猫さん こんにちは

    旅行記を読んで、私との教養の差を実感いたしました。
    平易な言葉を使いながら、詳しく的確に説明されていることに脱帽しました。
    感情だけで歩き説明する私の旅行記とは違いますね。
    最近この辺りを歩きましたが、先に旅行記にしておいてよかった、と思っています。
    この旅行記を見た後では、投稿を躊躇したかもしれません。投稿拒否?あれは登校拒否でした。
    内田工業という看板、家の佇まいも素晴らしく,消えていくのは寂しいですね。
    横十間川沿いの下町らしさ、私はここを何度も自転車で走りましたが、何軒か、そよ風でも倒れそうな文化財にしたいような住宅を目にします。いつまでもこの景色が続きますようにと、祈りながら通ります(笑)。

    葛飾北斎の生誕の地の標識が撤去されているそうですが、史実に誤りなどあったのでしょうか?気になるところです。

    pedaru

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2023/09/02 16:23:50
    RE: 本所界隈を歩きましたか
    pedaruさん、こんにちは。

    書き込みありがとうございます。
    いやいや、教養は無いですよ(^^;
    歴史が好きなので、つい色々調べてしまうだけなのです。
    言葉も、語彙が少ないので。。。

    内田工業の看板は、かつての下町の風情が感じられました。
    この当時は、まだまだっ下町風情が残っていました。
    今は、スカイツリーが聳え、マンションなども多くなり、かなり景色が変わっていますね。
    都知事が進める、東京強靭化政策により、木密地帯は目の敵にされています。
    地震に強く、燃えない街にするため、都心の再開発は急ピッチで進められていますので、昭和の街並みも、いずれ消えて行く運命でしょう。
    残念でなりません。。。

    葛飾北斎の生誕の地の標識が撤去されたのは、北斎の美術館が建てられた際、その近くに立派な説明板が建てられたためです。
    今の説明板の位置は、実際とはずれているかもしれません。

    旅猫

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