犬山旅行記(ブログ) 一覧に戻る
青塚古墳の見学を終えた後、名鉄楽田駅近くの楽田城跡を見学しました。楽田の地は濃尾平野の東部、犬山の南・小牧の北に立地し、尾張の中心部と信濃の木曽を結ぶ木曽街道が通る近辺にありました。ほとんど遺構は残っていませんが、『天守』に当たる建築物を建てたとの記述が歴史文献にある城としては最も古いとされます。

2020秋、青塚古墳・楽田城跡と断夫山古墳(5/6):青塚古墳(5):楽田城跡、邇波

31いいね!

2020/11/04 - 2020/11/04

334位(同エリア1445件中)

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

青塚古墳の見学を終えた後、名鉄楽田駅近くの楽田城跡を見学しました。楽田の地は濃尾平野の東部、犬山の南・小牧の北に立地し、尾張の中心部と信濃の木曽を結ぶ木曽街道が通る近辺にありました。ほとんど遺構は残っていませんが、『天守』に当たる建築物を建てたとの記述が歴史文献にある城としては最も古いとされます。

  • 遺跡巡りや古社巡りで、いつも参考にするのが、周りより一段高くなった古木です。楽田城も、前方に見える古木を目安にして、すぐに探し当てることができました。文献上に残る『天守』が有名ですが、今はその姿は全くありません。小瀬甫庵の『遺老物語(おきなものがたり)』巻八に、永禄元年(1558年)に楽田城中に高さ5メートルほどの壇の上に二階櫓を築いたことが記述されています。

    遺跡巡りや古社巡りで、いつも参考にするのが、周りより一段高くなった古木です。楽田城も、前方に見える古木を目安にして、すぐに探し当てることができました。文献上に残る『天守』が有名ですが、今はその姿は全くありません。小瀬甫庵の『遺老物語(おきなものがたり)』巻八に、永禄元年(1558年)に楽田城中に高さ5メートルほどの壇の上に二階櫓を築いたことが記述されています。

  • 現在の楽田城址とされる場所の光景です。かつての楽田城は、現在の楽田小学校一帯に築かれていました。大正時代頃までは、土塁や堀が残っていたとされますが、小学校建設によりほぼ消滅しました。現在は北西側の校門近くに石碑と案内板が建っています。

    イチオシ

    現在の楽田城址とされる場所の光景です。かつての楽田城は、現在の楽田小学校一帯に築かれていました。大正時代頃までは、土塁や堀が残っていたとされますが、小学校建設によりほぼ消滅しました。現在は北西側の校門近くに石碑と案内板が建っています。

  • 『城山健児の歌』のタイトルがあった校歌の石碑の光景です。歌詞を紹介しますと、『見よ 東の空高く 旭は昇る本宮山 遥に望め西方を 夕日は映ゆる伊吹山 此処に拓けし沃野こそ 我が楽田の郷なれや』のようでした。異体仮名とも呼ばれる変体仮名も交じった歌詞でした。変体仮名は、現在はほとんど使われなくなりました。ここでは『の(能)』と『に(仁?)』の二文字のようです。

    『城山健児の歌』のタイトルがあった校歌の石碑の光景です。歌詞を紹介しますと、『見よ 東の空高く 旭は昇る本宮山 遥に望め西方を 夕日は映ゆる伊吹山 此処に拓けし沃野こそ 我が楽田の郷なれや』のようでした。異体仮名とも呼ばれる変体仮名も交じった歌詞でした。変体仮名は、現在はほとんど使われなくなりました。ここでは『の(能)』と『に(仁?)』の二文字のようです。

  • 『史蹟・城山」の文字が刻まれた石標の光景です。楽田城は永正元年(1504年)頃に、尾張守護代の織田久長によって築城されたようです。織田久長は、室町時代の武将で、通称は弾正左衛門でした。官位は従五位下・大和守です。清洲三奉行の一家・藤左衛門家(小田井織田氏)の祖とされ、尾張国楽田城主でした。

    『史蹟・城山」の文字が刻まれた石標の光景です。楽田城は永正元年(1504年)頃に、尾張守護代の織田久長によって築城されたようです。織田久長は、室町時代の武将で、通称は弾正左衛門でした。官位は従五位下・大和守です。清洲三奉行の一家・藤左衛門家(小田井織田氏)の祖とされ、尾張国楽田城主でした。

  • 『城山移築記念碑』の文字が刻まれた、比較的新しい石票の光景です。裏面に移築のいきさつが記されていました。楽田小学校が城跡と推定され、一帯は城山という地名がついています。

    『城山移築記念碑』の文字が刻まれた、比較的新しい石票の光景です。裏面に移築のいきさつが記されていました。楽田小学校が城跡と推定され、一帯は城山という地名がついています。

  • 『城山移築記念碑』の石碑のり面の光景です。少し拾い読みしますと、『旧来の城山は、東西23メートル、南北37メートル、高さ5メートルの規模で、盗難10メートルの地にあった』と記されていました。昭和54年(1979年)9月に、『城山移築問題推進協議会』の委員長名で建立された移築記念碑でした。学校敷地が手狭になり、移築するのが前提の協議会だったかもしれません。

    『城山移築記念碑』の石碑のり面の光景です。少し拾い読みしますと、『旧来の城山は、東西23メートル、南北37メートル、高さ5メートルの規模で、盗難10メートルの地にあった』と記されていました。昭和54年(1979年)9月に、『城山移築問題推進協議会』の委員長名で建立された移築記念碑でした。学校敷地が手狭になり、移築するのが前提の協議会だったかもしれません。

  • 『楽田城址』の文字が刻まれた石標の上部の光景です。楽田城は、永正元年(1504年)頃に、尾張守護代の織田久長によって築城され、永禄時代(1558~1570年)に犬山城の織田信清(先代信康が信長の叔父)によって攻略されました。対立していた織田信長によって奪還され、坂井政尚(まさひさ:生年不詳~1570年)が守将となりました。武勇で知られた武将です。

    『楽田城址』の文字が刻まれた石標の上部の光景です。楽田城は、永正元年(1504年)頃に、尾張守護代の織田久長によって築城され、永禄時代(1558~1570年)に犬山城の織田信清(先代信康が信長の叔父)によって攻略されました。対立していた織田信長によって奪還され、坂井政尚(まさひさ:生年不詳~1570年)が守将となりました。武勇で知られた武将です。

  • 先に上部を紹介した『楽田城址』の石標の全体光景です。この城址碑は、かつては土塁の上にあったものをこの場所に移されたようです。土台の石も一緒に移されてきたようです。一方、この場所自体が『土塁跡』とする情報もあります。豊臣秀吉と徳川家康が織田信長の後継争いを繰り広げた天正12年(1584)年の『小牧・長久手の戦い』では、豊臣秀吉(当時は羽柴姓)自身が楽田城に本陣を敷いたと伝わります。楽田城は、この戦い後の講和条件で、廃城が決まりました。

    イチオシ

    先に上部を紹介した『楽田城址』の石標の全体光景です。この城址碑は、かつては土塁の上にあったものをこの場所に移されたようです。土台の石も一緒に移されてきたようです。一方、この場所自体が『土塁跡』とする情報もあります。豊臣秀吉と徳川家康が織田信長の後継争いを繰り広げた天正12年(1584)年の『小牧・長久手の戦い』では、豊臣秀吉(当時は羽柴姓)自身が楽田城に本陣を敷いたと伝わります。楽田城は、この戦い後の講和条件で、廃城が決まりました。

  • 読み解けるかどうかわかりませんでしたが、とりあえず写真に収めた茶色の石碑の光景です。末尾に刻まれた昭和3年(1928年)11月だけはすぐに読み取れました。部分的に読み取れた範囲では昭和2年の書き出しで始まり、下賜金で植樹されたらしいことが記されていました。

    読み解けるかどうかわかりませんでしたが、とりあえず写真に収めた茶色の石碑の光景です。末尾に刻まれた昭和3年(1928年)11月だけはすぐに読み取れました。部分的に読み取れた範囲では昭和2年の書き出しで始まり、下賜金で植樹されたらしいことが記されていました。

  • こちらの石碑も、読み取ることは難しそうでしたが、とりあえず撮影しておきました。『永正之頃織田久長』で始まる碑文でした。織田久長は、既に紹介しましたが、室町時代の武将です。清洲三奉行の一家・藤左衛門家(小田井織田氏)の祖とされ、尾張国楽田城主でした。永正(えいしょう)時代は、室町時代の1504年から1521年までの間です。

    こちらの石碑も、読み取ることは難しそうでしたが、とりあえず撮影しておきました。『永正之頃織田久長』で始まる碑文でした。織田久長は、既に紹介しましたが、室町時代の武将です。清洲三奉行の一家・藤左衛門家(小田井織田氏)の祖とされ、尾張国楽田城主でした。永正(えいしょう)時代は、室町時代の1504年から1521年までの間です。

  • 現在の城山に登ることができる、10段ほどの石段の上から見下ろした光景です。城跡とは反対側になる、この写真の左側が崖になっていることから、この場所が土塁であったとする説も頷けるものがありました。

    現在の城山に登ることができる、10段ほどの石段の上から見下ろした光景です。城跡とは反対側になる、この写真の左側が崖になっていることから、この場所が土塁であったとする説も頷けるものがありました。

  • 現在の城山から眺めた、東に隣接する工事中だった楽田小学校の光景です。1982年までは敷地内に天守台があったようですが、運動場整備によりなくなってしまいました。歴史的価値が高い城址だけに残念なことでした。

    現在の城山から眺めた、東に隣接する工事中だった楽田小学校の光景です。1982年までは敷地内に天守台があったようですが、運動場整備によりなくなってしまいました。歴史的価値が高い城址だけに残念なことでした。

  • 『楽田城跡』のタイトルがあった、犬山市教育委員会名の説明看板の光景です。織田久長により、永生年間(1504~1521年)に築城されたことから説明が始まっていました。『天守』は、館の上に設けた望楼から始まったとされる楽田城の様子と出来事を、戦国時代の儒者で医者、そして軍学者だった『小瀬甫庵(おぜ・ほあん:1564~1640年)』の『遺老物語』から紹介されていました。<br />

    『楽田城跡』のタイトルがあった、犬山市教育委員会名の説明看板の光景です。織田久長により、永生年間(1504~1521年)に築城されたことから説明が始まっていました。『天守』は、館の上に設けた望楼から始まったとされる楽田城の様子と出来事を、戦国時代の儒者で医者、そして軍学者だった『小瀬甫庵(おぜ・ほあん:1564~1640年)』の『遺老物語』から紹介されていました。

  • 最後にもう一度振り返って眺めた、楽田城址碑があった『城山』の光景です。次の機会には、楽田城の北側と南側の城門跡や、所縁のお寺なども訪問してみたいところです。小学校がお休みの土日のほうがよさそうです。

    最後にもう一度振り返って眺めた、楽田城址碑があった『城山』の光景です。次の機会には、楽田城の北側と南側の城門跡や、所縁のお寺なども訪問してみたいところです。小学校がお休みの土日のほうがよさそうです。

  • 犬山市が作成した『青塚古墳(邇波里.001』の表紙です。よく纏まった資料でしたので、全文紹介します。発行は、冊子の裏側に『2017.3.特定非営利活動法人・古代邇波の里・文化遺産ネットワーク』と記載してありました。このブログでは、『小冊子』と略称させていただきました。

    イチオシ

    犬山市が作成した『青塚古墳(邇波里.001』の表紙です。よく纏まった資料でしたので、全文紹介します。発行は、冊子の裏側に『2017.3.特定非営利活動法人・古代邇波の里・文化遺産ネットワーク』と記載してありました。このブログでは、『小冊子』と略称させていただきました。

  • ここからは、『小冊子』の内容についての紹介です。見開きページに『青塚古墳の歴史』の中見出しで解説文が記載されていました。場所の説明では『この場所は、犬山扇状地に発達した下位段丘堆積層の西端部に位置』と紹介されていました。また、『大縣神社の神社地として、現在まで地域の方々によって守られ残されてきました」とも紹介されていました。しょぷわ58年(1983年)、国の史跡として登録され、平成12年(2000年)に史跡公園としてオープンされたことも紹介されていました。

    ここからは、『小冊子』の内容についての紹介です。見開きページに『青塚古墳の歴史』の中見出しで解説文が記載されていました。場所の説明では『この場所は、犬山扇状地に発達した下位段丘堆積層の西端部に位置』と紹介されていました。また、『大縣神社の神社地として、現在まで地域の方々によって守られ残されてきました」とも紹介されていました。しょぷわ58年(1983年)、国の史跡として登録され、平成12年(2000年)に史跡公園としてオープンされたことも紹介されていました。

  • 見開きページの左側です。方向表示はありませんでしたが、上部が北になる青塚古墳の平面図が紹介されていました。色分けされた濃いめの緑色部分が前方後円墳の本体、その周りの薄い緑色部分が周濠、更にその外側の茶色部分が『外堤』です。右下に記された100メートルの寸法表示で凡その寸法が想定できます。前方後円墳の本体部分が長さ123メートルです。

    見開きページの左側です。方向表示はありませんでしたが、上部が北になる青塚古墳の平面図が紹介されていました。色分けされた濃いめの緑色部分が前方後円墳の本体、その周りの薄い緑色部分が周濠、更にその外側の茶色部分が『外堤』です。右下に記された100メートルの寸法表示で凡その寸法が想定できます。前方後円墳の本体部分が長さ123メートルです。

  • 3頁目には『壷はにわ』の中見出しがありました。『埴輪』を『はにわ』と表示した理由は、見開きページの『青塚古墳の歴史』の中見出しで説明されていました。『植』によく似た文字ですが、きめの細かい黄赤色の粘土の意味の『埴(はに)』が常用漢字に含まれていないためのようです。少しくどくなりますが、当用漢字は、第二次世界大戦後の1946年に国語審議会の答申に基づき内閣告示されたものです。一方、常用漢字は一般社会生活で用いる場合の、効率的で共通性の高い漢字として、1981年に『常用漢字表』が決められました。『当用漢字は漢字廃止が前提、常用漢字は漢字活用が前提』とまで極論されるほどの考え方の違いがあるようです。

    3頁目には『壷はにわ』の中見出しがありました。『埴輪』を『はにわ』と表示した理由は、見開きページの『青塚古墳の歴史』の中見出しで説明されていました。『植』によく似た文字ですが、きめの細かい黄赤色の粘土の意味の『埴(はに)』が常用漢字に含まれていないためのようです。少しくどくなりますが、当用漢字は、第二次世界大戦後の1946年に国語審議会の答申に基づき内閣告示されたものです。一方、常用漢字は一般社会生活で用いる場合の、効率的で共通性の高い漢字として、1981年に『常用漢字表』が決められました。『当用漢字は漢字廃止が前提、常用漢字は漢字活用が前提』とまで極論されるほどの考え方の違いがあるようです。

  • 4頁目は『愛知県NO.2』の見出しでした。右上に発掘調査中の青山古墳の写真、その下に平面図が紹介されていました。『NO.2』の内容は具体的には説明されていませんでしたが、前方後円墳の全長の123メートルを指しているようでした。また、前方部上に設けられた『方形壇状遺構』、その場所で見つかった『鏃形石製品』や青塚古墳の特徴とされる葺石の積み方についても解説されていました。現在は、その葺石は覆土の下に隠れてしまっています。

    4頁目は『愛知県NO.2』の見出しでした。右上に発掘調査中の青山古墳の写真、その下に平面図が紹介されていました。『NO.2』の内容は具体的には説明されていませんでしたが、前方後円墳の全長の123メートルを指しているようでした。また、前方部上に設けられた『方形壇状遺構』、その場所で見つかった『鏃形石製品』や青塚古墳の特徴とされる葺石の積み方についても解説されていました。現在は、その葺石は覆土の下に隠れてしまっています。

  • 5頁目は、『壷埴輪』と題された見開き頁の右側です。写真は、右が『鰭付朝顔形・壷埴輪』、左が『円筒埴輪』です。いずれも出土品を復元したもので、展示室で現物を見学することができました。解説では、一番多く作られた埴輪が『円筒埴輪』で、もともとは、吉備(岡山県)地域の弥生時代後期に、お墓専用に造られた器台形土器が祖型と考えられていることが紹介されていました。また、壷形埴輪は、古墳時代前期に東海以東で用いられていたことが紹介されていました。このことは、近畿地方からもたらされた埴輪以前に、東海地区では壷形埴輪が用いられていたと考察されていました。

    5頁目は、『壷埴輪』と題された見開き頁の右側です。写真は、右が『鰭付朝顔形・壷埴輪』、左が『円筒埴輪』です。いずれも出土品を復元したもので、展示室で現物を見学することができました。解説では、一番多く作られた埴輪が『円筒埴輪』で、もともとは、吉備(岡山県)地域の弥生時代後期に、お墓専用に造られた器台形土器が祖型と考えられていることが紹介されていました。また、壷形埴輪は、古墳時代前期に東海以東で用いられていたことが紹介されていました。このことは、近畿地方からもたらされた埴輪以前に、東海地区では壷形埴輪が用いられていたと考察されていました。

  • 6頁目は、『壷埴輪』と題された見開き頁の左側です。上の写真の二つとも『壷形埴輪』、下の写真が、数少ない出土の『樽形埴輪』です。壷型埴輪には、『A類』と『B類』の区分けがありましたが、異なる説明もありましたので、この分類は差し置いての紹介にしました。現在は新しく焼かれた赤い『壷埴輪』が青塚古墳を2メートル間隔で取り巻いています。

    6頁目は、『壷埴輪』と題された見開き頁の左側です。上の写真の二つとも『壷形埴輪』、下の写真が、数少ない出土の『樽形埴輪』です。壷型埴輪には、『A類』と『B類』の区分けがありましたが、異なる説明もありましたので、この分類は差し置いての紹介にしました。現在は新しく焼かれた赤い『壷埴輪』が青塚古墳を2メートル間隔で取り巻いています。

  • 7頁目の見出しは『青塚古墳物語』です。1584年の『小牧長久手の戦い』の時、豊臣軍の武将の『森長可(ながよし:1558~1584年)』により『青塚古墳』として使われたことが紹介されていました。特に後円部の上部は、砦としての機能を優先させるため、本来の墳丘斜面を削って、崖状の形状に改変されていました。現在は、砦の前の形に戻されています。下部に掲示された地図には、小牧長久手の戦い時の家康方の本陣の小牧山城と、それに対峙する秀吉方の本陣の楽田城と、その前線の6箇所の砦が記されていました。

    7頁目の見出しは『青塚古墳物語』です。1584年の『小牧長久手の戦い』の時、豊臣軍の武将の『森長可(ながよし:1558~1584年)』により『青塚古墳』として使われたことが紹介されていました。特に後円部の上部は、砦としての機能を優先させるため、本来の墳丘斜面を削って、崖状の形状に改変されていました。現在は、砦の前の形に戻されています。下部に掲示された地図には、小牧長久手の戦い時の家康方の本陣の小牧山城と、それに対峙する秀吉方の本陣の楽田城と、その前線の6箇所の砦が記されていました。

  • 8頁目は、後円部から北側に臨むことができる『御嶽山』と、地元に伝わる『おけはん狐』の紹介ページです。後円部から主軸線上に北側に臨むことができる『御嶽山』の光景は、意図的に計算されたものだったかもしれません。長野県木曽町や岐阜県下呂市などにまたがる、3千メートルを超える高さの、御嶽信仰で知られる霊山です。『おけはん狐』の神社の写真は、『王畦畔(おうけいはん)稲荷神社』です。「畦」も「畔」も、「あぜ」と読み、基本は同じ意味です。

    8頁目は、後円部から北側に臨むことができる『御嶽山』と、地元に伝わる『おけはん狐』の紹介ページです。後円部から主軸線上に北側に臨むことができる『御嶽山』の光景は、意図的に計算されたものだったかもしれません。長野県木曽町や岐阜県下呂市などにまたがる、3千メートルを超える高さの、御嶽信仰で知られる霊山です。『おけはん狐』の神社の写真は、『王畦畔(おうけいはん)稲荷神社』です。「畦」も「畔」も、「あぜ」と読み、基本は同じ意味です。

  • 『史跡公園・青塚古墳於風景』のタイトルがあった、見開き頁の右側です。8頁目になります。青塚古墳を中心とした、4枚の写真が重ねられていました。その中に、お祭りの山車と行列、青塚古墳除草の奉仕活動の場面もありました。

    『史跡公園・青塚古墳於風景』のタイトルがあった、見開き頁の右側です。8頁目になります。青塚古墳を中心とした、4枚の写真が重ねられていました。その中に、お祭りの山車と行列、青塚古墳除草の奉仕活動の場面もありました。

  • 『史跡公園・青塚古墳於風景』のタイトルがあった、5枚の写真で紹介された見開き頁の左側です。9頁目になります。こちらは一番上が『古代音楽劇』、その下の左側が『雪の青塚古墳と壷はにわ』、右側が『春の青塚古墳とツクシ』のタイトルがありました。さらにその下は『夕暮れの青塚古墳』、最下段が『大縣神社による墓祭』のタイトルでした。いずれも、絵になる光景が選ばれていました。

    『史跡公園・青塚古墳於風景』のタイトルがあった、5枚の写真で紹介された見開き頁の左側です。9頁目になります。こちらは一番上が『古代音楽劇』、その下の左側が『雪の青塚古墳と壷はにわ』、右側が『春の青塚古墳とツクシ』のタイトルがありました。さらにその下は『夕暮れの青塚古墳』、最下段が『大縣神社による墓祭』のタイトルでした。いずれも、絵になる光景が選ばれていました。

  • 『楽田地区・青塚古墳map』の右側頁です。11頁になります。南北に木曽街道が走り、薬師川が流れます。木曽街道に沿うように、現在の名鉄小牧線が記されていました。楽田駅の北の道が東方面の大縣神社へ通じていました。木曽街道は、楽田追分で右の木曽街道と、左の稲置街道(犬山街道)に分かれていました。永泉禅寺や諸鍬神社などの古刹も楽田駅の近くに記されていました。

    『楽田地区・青塚古墳map』の右側頁です。11頁になります。南北に木曽街道が走り、薬師川が流れます。木曽街道に沿うように、現在の名鉄小牧線が記されていました。楽田駅の北の道が東方面の大縣神社へ通じていました。木曽街道は、楽田追分で右の木曽街道と、左の稲置街道(犬山街道)に分かれていました。永泉禅寺や諸鍬神社などの古刹も楽田駅の近くに記されていました。

  • 『楽田地区・青塚古墳map』の左側頁です。12頁になります。『青塚古墳』が左下方面に記されています。右側の頁にあった楽田駅から歩いて、片道2キロの距離でした。青塚古墳の敷地を通って、『新木津(しんこっつ)用水』が尾張区域緑道と並行して南北に伸びていました。

    『楽田地区・青塚古墳map』の左側頁です。12頁になります。『青塚古墳』が左下方面に記されています。右側の頁にあった楽田駅から歩いて、片道2キロの距離でした。青塚古墳の敷地を通って、『新木津(しんこっつ)用水』が尾張区域緑道と並行して南北に伸びていました。

  • 『犬山広域map』の右側頁です。13頁になります。『邇波(にわ)四代の王墓に会おう』の副題がありました。その四つは古い順に、①東之宮古墳(3世紀末~4世紀初頭)、②青塚古墳(4世紀前半)、③坊の塚古墳(4世紀末)と④妙感寺古墳(5世紀前半)でした。そのほかに白山神社古墳・仁所野古墳(弥生時代~古墳時代)と、羽黒城古墳(古墳時代後期)も紹介されていました。

    『犬山広域map』の右側頁です。13頁になります。『邇波(にわ)四代の王墓に会おう』の副題がありました。その四つは古い順に、①東之宮古墳(3世紀末~4世紀初頭)、②青塚古墳(4世紀前半)、③坊の塚古墳(4世紀末)と④妙感寺古墳(5世紀前半)でした。そのほかに白山神社古墳・仁所野古墳(弥生時代~古墳時代)と、羽黒城古墳(古墳時代後期)も紹介されていました。

  • 『犬山広域map』の左側頁です。14頁になります。犬山広域マップにプロットされた、先ほど紹介した6箇所の古墳です。この区域のそのほかの古墳もプロットされていました。坊の塚古墳は、木曽川の右岸になる岐阜県各務原市鵜沼羽場町に位置しています。岐阜県下で二番目に大きな前方後円墳です。

    『犬山広域map』の左側頁です。14頁になります。犬山広域マップにプロットされた、先ほど紹介した6箇所の古墳です。この区域のそのほかの古墳もプロットされていました。坊の塚古墳は、木曽川の右岸になる岐阜県各務原市鵜沼羽場町に位置しています。岐阜県下で二番目に大きな前方後円墳です。

  • 犬山市が作成した『青塚古墳(邇波里.001』の表紙の裏側です。白く凍り付いた、『がまがまノ池』の光景です。ガマの穂は目にしませんでしたが、生えていてもおかしくない池に見えました。『がまがま』は、『蝦蟇と蒲』のことと勝手に覚えておくことにしました。これなら、どちらにも顔が立ちそうです。

    犬山市が作成した『青塚古墳(邇波里.001』の表紙の裏側です。白く凍り付いた、『がまがまノ池』の光景です。ガマの穂は目にしませんでしたが、生えていてもおかしくない池に見えました。『がまがま』は、『蝦蟇と蒲』のことと勝手に覚えておくことにしました。これなら、どちらにも顔が立ちそうです。

31いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

価格.com旅行・トラベルホテル・旅館を比較

PAGE TOP