2020/11/04 - 2020/11/04
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旅人のくまさんさん
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青塚古墳と楽田城跡、それと断夫山古墳の紹介です。国の史跡に指定されている青塚古墳は、愛知県西部の犬山扇状地を形成する洪積台地の南西端に築造された、断夫山古墳に次ぐ尾張で二番目の規模の大型前方後円墳です。周辺にはかつて10数基の古墳が分布していました。
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地下鉄を鶴舞線から左回りの名城線に乗り換え、更に名鉄犬山線に乗り継ぎました。降りた駅は『楽田駅』です。少し西方向に歩いて、振り返って眺めは楽田駅方面の光景です。『楽田(がくでん)』で連想するのが、『楽田城』や『小牧・長久手の戦い』です。秀吉と家康が、一度だけ直接対決した天正12年(1584年)の戦いでした。
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青塚古墳がある西側方面の光景です。楽田駅からは、2キロ以上の距離があるようですが、歩いて向かいました。ネット情報では、徒歩30分と記されていました。1キロ15分は、普通の歩行速度ですから、2キロで30分は妥当なところです。今向かっている青塚古墳は、『小牧・長久手の戦い』で、豊臣軍の砦として使われました。
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道の脇の田圃の光景です。いつ穫り入れてもおかしくないようなおかしくないような稲穂の光景でした。愛知県の稲刈りの時期は、10月上旬が標準とされているようです。その時期からは1か月弱が過ぎたようですから、中稲(なかて)ではなく、晩稲(おくて)のようです。
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同じく、晩稲(おくて)らしい稲穂の光景です。成熟期の遅速による稲の品種の分類は、早生(わせ)、中稲(なかて)、晩稲(おくて)とされ、それぞれ二十四節気の初秋・仲秋・晩秋にほぼ対応するようです。
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早生(わせ)と、標準的な中稲(なかて)までは既に穫り入れが済んでいるようでした。奈良時代には、熟期によって早稲と晩稲の区別があり、「万葉集」には早田、早稲の語があります。平安時代になると、さらに中間の中稲が現れました。江戸時代には、収穫が多かった晩稲が多く作付けされたようです。
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一本道をまっすぐ西に向かって歩き、30分ほどで青塚古墳に到着しました。その入口にあった『青塚古墳史跡公園』の標識です。青塚古墳群を構成する古墳の一つで、国の史跡に指定されています。かつての大和朝廷との関係が深かったことを表すとされる前方後円墳は、尾張地区で第二位の大きさです。左手に見えているのが、その後円部分です。
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文字がかすんで読みにくかった案内看板の光景です。『古代史ロマンコース・ちょこっと歩こう・いぬやま』のタイトルがありました。左下に距離1.8キロ、所要時間22分の表示もありました。青塚古墳を出発地点とゴールにした、歴史散策コースです。
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『前方後円墳』の後円部分の全景です。先ほどの説明看板には、『出土品から4世紀中頃に造られた大縣(おおあがた)神社の御祭神の墳墓』であることや、『愛知県では二番目の大きさの前方後円墳』であることも紹介されていました。墳丘長1位は断夫山古墳の151メートル、2位が青塚古墳の123メートル、3位が志段味の白鳥塚古墳の115メートルです。
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『青塚古墳史跡公園』の花壇の光景です。季節の花が咲いていました。白色と薄いピンクの花は、コスモス(秋桜)かと思いましたが、キンポウゲ科のシュウメイギク(秋明菊)に似た別種のようでした。右手前の濃い赤い花は、キク(菊)でした。
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東側方面からの『後円』部分のズームアップ光景です。青塚古墳を紹介した小冊子(以降、小冊子と略称)では、後円部の径は78メートル、高さが12メートルと紹介されていました。発掘調査をもとに、約2メートルの間隔で壷形埴輪が並べられていました。
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イチオシ
少しだけズームアップした、東側方面からの『後円』部分の光景です。円筒埴輪には、よく見える位置に『透穴(すかしあなが)』が設けられていますが、壷形埴輪には透穴が開けられていないようです。その代わりに底部には、焼く前に穴が開けられていることが小冊子で紹介されていました。
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2メートル間隔で並べられた壷形埴輪の光景です。小冊子では、『吉備(岡山県)地域で弥生後期に、お墓専用に造られた器台型が祖型とされ、弥生後期にお墓に備えるために造られた壷が、青塚古墳の壷形埴輪の御先祖』と紹介されていました。底部の穴は、『大きく円形にあけるのが一般的ですが、小さく、不整形なものもあり、丁寧な始末はされていない』と紹介されていました。
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頭の部分がはみ出してしまいましたが、壷形埴輪のズームアップ光景です。もちろん出土した品ではなく、新しく焼いて復元された壷形埴輪です。左手に見える、やや大きめの石が、『基底石列』に使われたもののようです。こちらは、出土品かもしれません。古墳全体を覆った葺石の安定のために置かれる石で、3段程度に積まれていたようです。
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右が後円部、左が前方部の接合部分の光景です。後円部は三段に盛り土が行われ、前方部は二段です。その二段の高さが揃い、壷形埴輪の列が連続していました。ところで、勝手な推測ですが、側面に穴が開けられた円筒埴輪や、底に穴が開いた壷形埴輪が持ち去られないで残されているのは、敢えて、実用性を毀損する穴の効果ではないかと思われました。
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イチオシ
前方部に並べられた壷形埴輪の光景です。壷形埴輪が持ち去られなかった理由は、ほとんどの古墳が盗掘に遭っていることから判断しても、持ち去る価値がなかったことが一番の理由と考えられます。性善説ではなく、性悪説に立った理由のように思えますので、これ以上の言及は遠慮しておきます。
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同じく、前方部に並べられた壷形埴輪のズームアップ光景です。ところで、『埴輪』は、『古墳時代の日本に特有の器物。一般的には土師器に分類される素焼き土器である。祭祀や魔除けなどのため、古墳の墳丘や造出の上に並べ立てられた』と紹介されていました。(ウィキペディア)
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少し離れた場所から眺めた、前方後円墳の全景です。埴輪についての紹介の続きです。『古墳に継承された円筒埴輪は、墳丘や重要な区画を囲い込むというその樹立方法からして、聖域を区画するという役割を有していたと考えられる』(ウィキペディア)と紹介されていました。隙間なく壷形埴輪が並べられていることとも矛盾しないようです。
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同じく、少し離れた場所から眺めた、前方後円墳の全景です。南東側から眺めた光景になるようです。豊臣軍と徳川軍が戦った、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの時、豊臣軍の『森長可(ながよし:1558~1584年)』が『青塚砦』として陣を敷いたことでも知られます。対するこ徳川軍のこの辺りでの最前線は、小牧山城でした。
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森長可について、もう少し説明しておきます。父の森可成と同様に槍術に優れ、その秀でた武勇から、『鬼武蔵』と称されました。筋骨たくましい偉丈夫として戦場での勇ましさを伝える逸話も多い武者でした。小牧・長久手の戦いで、長可は池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び、井伊直政の軍と激突して奮戦するも狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死しました。信長の近習だった森蘭丸は弟です。
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『青塚古墳史跡公園』の敷地の一角にあったガイダンス施設の光景です。『まほらの館』の呼び名もあります。今日は11月3日の文化の日の翌日ですから、休館日でしたが、運よく見学することができました。小冊子の『愛知県犬山市・青塚古墳』(邇波里ブックレット.001)も、そのおかげで入手することができました。
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イチオシ
同じく、ガイダンス施設の『まほらの館』の建物光景です。『まほら』は、『まほろば』などとも呼ばれ、『まことにすぐれたところ』の意味とされます。(学研全訳古語辞典)
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ガイダンス施設の『まほらの館』の建物付近から眺めた青塚古墳の全景です。青塚古墳は、昭和58年(1983年)に国史跡として指定され、犬山市が平成8年(1996年)から施設整備を行い、平成12年(2000年)、史跡公園としてオープンしました。
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ガイダンス施設の入口付近に設置してあった説明パネルの光景です。『青塚古墳史跡公園案内板』のタイトルがありました。中央の青塚古墳の図面には、最外周が『外堤(がいてい)』、墳丘から外堤につながる通路が『陸橋部』と表示してありました。松本清張さんが、『前方後円墳』と呼ばずに『方円墳』と呼ばれた理由が分かるような、横から眺めった古墳の光景でした。
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ここからは、ガイダンス施設に入城しての見学です。松本清張さんが、『前方後円墳』と呼ばずに『方円墳』と呼ばれた理由は、『前と後ろ』の定義の根拠が不明確なことと、横から眺めた姿が、最も古墳の雄大さが分かるなどの説明だったとの記憶があります。言外に閉鎖的な学会への批判があり、それを反映した小説が『火の路』だったと理解しています。
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『空から見た青塚古墳』のタイトルがあった説明パネルの光景です。1948年から2008年の間に撮影された6枚の空撮写真と説明文です。青塚古墳の周りには水田が広がっていましたが、次第に住宅や工場が建ち始めました。そのような中で、昭和62年(1987年)から、周辺の公共用地化がすすめられたことが紹介されていました。
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『整備前の青塚古墳』のタイトルがあった説明パネルの光景です。7枚のカラー写真と説明文です。大縣神社の社地であり、地元の青年団などが整備に携わったことで、古墳が守られてきたようです。青塚古墳のことは、青塚町内にお住いのKaさんからお聞きしていましたが、現地に立ち寄ってゆっくりと見学したのは、今回が初めてでした。
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『始まる発掘調査』のタイトルがあった説明パネルの光景です。同じく発掘調査状況の7枚のカラー写真と説明文です。昭和54年(1974年)以降に発掘調査が行われ、墳丘表面では全面に河原石の葺石が、各段に壺形埴輪列が認められ、また前方部上に方形壇状遺構を有するという特色を有し、同遺構周囲には円筒埴輪列が認められました。
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『史跡公園の誕生へ』のタイトルがあった説明パネルの光景です。カラー写真と説明文で紹介された、発掘調査後の『史跡公園』の誕生の様子です。地元の人が守ってきた『青塚』のイメージを壊さないよう、葺石の代わりに『コグマササ』が植栽されたことなどが紹介されていました。平成18年(2006年)8月にオープンセレモニーが開かれました。
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『犬山市版・古墳探検マップ』のタイトルがあった説明パネルの光景です。犬山市内の5か所の古墳が、左端の写真で紹介されていました。①東之宮古墳、②白山神社古墳、③妙感寺古墳、④上野古墳群、⑤羽黒城屋敷古墳の5か所です。写真がない7個所も左下に表示されていました。
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同じく、ガイダンス施設の展示状況の光景です。犬山市として、かなり真剣に取り組んだ結果のように思えました。『邇波里ブックレット.001』もよくまとまった小冊子でしたから、現地で購入して、このブログでも全文紹介しておきました。『邇波(にわ)』は、現在の地名や名前として使われている『丹羽』の古表記のようです。『尓波』とも表記されたようです。
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