2019/09/20 - 2019/09/23
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たびたびさん
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淀屋橋から北浜・心斎橋の辺りの徹底街歩きをしたのは、2014年9月。大阪は、通算で7年暮らした街だし、その後も何度となく普通に行ってましたが、改めて街歩きをしてみると意外なレトロ建物が残っていたり、小さな歴史の場所があってみたりで、とっても面白い。いつかそういう街歩きをもう一度したいなあと思っていたのに、気が付くとこんなにブランクがあいていたんですね。月日の経つのは早いものです。
さて、今回はキタを中心に回りますが、4日間は京都を挟んだりしたので、大阪は実質その半分。それでも、もう一度、大阪独特のごちゃごちゃ感が味わえて、懐かしい感覚を楽しめました。
ところで、大阪のごちゃごちゃ感というのは、大阪の歴史の長さにも関係します。大阪、難波が歴史の表舞台に現れるのは、私の中では、古墳時代ですが、あの世界最大の墓、仁徳天皇陵で知られる第16代天皇、仁徳天皇の時代。天皇は即位すると、さっそく大和国以外で初めての都となる難波高津宮を造営します。人家のかまどから煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除したり、堀江の開削と茨田堤を築いたり。仁政と評価されるその活躍の舞台こそ大阪であり、上本町の高津宮が都の史跡です。
そして、飛鳥時代の大化の改新直後からの前期難波宮に、聖武天皇の後期難波宮。どちらかといえば副都としての時代です。ちなみに、聖徳太子の建てた四天王寺は、前期難波宮の少し前ということになります。
時代が下って、平安期だと平家の福原遷都もありましたが、堂々と歴史の前面に出たのは、やっぱり大阪城を築いた豊臣秀吉の時代。豊臣家は家康に滅ぼされましたが、江戸期を通じて、大阪は天下の台所としてむしろますますの発展。蔵屋敷が建ち並び、米の流通や金融の中心としてその繁栄は並ぶところがない勢いでした。しかし、明治に入ってからは、いい意味でも悪い意味でも東京への一極集中が進む。米の流通や金融の中心の位置づけも崩れてしまい不遇の時代へ。ただ、それに負けまいとする反骨精神と誇り高き伝統文化の重みは健在。今でもけっして色あせずに残っているということかと思います。
大阪で街歩きをするとそうした歴史を行ったり来たりしながら、タイムマシーンの感覚が味わえるのがとても面白いところ。私からするとそれが合わさっての独特のごちゃごちゃ感ということなんですよね。
ただ、今回はキタ周辺。時代を行ったり来たりできる時代の範囲としては少し限られていたのかなとは思います。それから、あちこち歩き回ってへとへとになったようでも。このエリアの規模感は、東京だと浅草に向島を足したくらいの感じでしかない。それを考えると大阪と東京の規模はかなり違うのも事実。東京と比較するなら、京都、大阪、神戸を合わせた範囲で考えないとバランスはしないのかもしれませんけどね。まあ、それがどうしたみたいなことですが、どっちにしても私は大阪への思い入れがたくさんある。少しづつ、解きほぐしながら紹介できるといいなと思います。
前回の街歩きも参考まで
https://4travel.jp/travelogue/10938617
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イチオシ
朝イチの飛行機で羽田から大阪空港に到着。そこから、中津駅に移動して、そこから街歩きの開始です。
新梅田シティはJR大阪駅の北西ですが、梅田からでも歩くとちょっと距離があるんですよね。こちらは、旧ダイハツディーゼル本社・大阪工場跡地などを再開発して平成5年に完成。近代的というか近未来的なデザインの梅田スカイビルがなんといってもランドマーク。キラキラの外壁に青空が映り込んで、これを眺めるだけでもスカッとした気分になります。 -
新梅田シティと大阪駅の間に広がるのが梅田貨物駅跡。まだこれから開発が行われるんでしょうが、なんかしばらく手つかずになっていて、むだな空間のままのような。荒れた感じだし、工事現場の状況が続いています。
ただ、大阪駅の周辺の開発が進むと御堂筋あたりが地盤沈下していくという影響もなくはない。実際のところ大阪のキャパには限界があるので、なかなか難しいところかと思います。 -
イチオシ
さて、新梅田シティの方ですが、
滝見小路は、梅田スカイビルの地下。昭和漂うレトロな食堂街です。 -
限られたエリアですが、路地の向こうに小さな神社があったり、三輪自動車が停まっていたり。
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けっこう本格的でリアルな再現なので、これならあんまり飽きることがないような気がします。
朝の通勤でここを通っている人も見かけましたが、どういうことなんでしょうね。 -
新梅田シティの敷地内には庭園施設もあって、これは中自然の森。始めはせせらぎや滝など見た目の美しさだけのためなのかなと思いましたが、中に入ってみると生い茂る樹木や虫なども含めて自然の生態系が再現されている。実際に生きた森であることを感じます。
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新梅田シティを離れて。
これは大坂神社じゃなくて、大阪神社。応神天皇の時代、伝承では、百済に渡来した中国人なんですが、その後、百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたという王仁公ゆかりの地。氏神として素盞鳴尊を祀るというのですが、出自からするとちょっとミスマッチかな。
鳥居はちょっと雰囲気があるのですが、本殿は粗末なような気がします。 -
近くで同じスサノオノミコトを祀る素盞烏尊神社は、金襴会高等学校の裏手。
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牛頭天王社・祇園社と呼ばれた浦江の氏神だったという神社で、公園のようなエリアから境内に入っても意外に広々していて清々しい。本殿は鉄筋コンクリートですが、落ち着いた雰囲気はあると思います。
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如意山了徳院は、子宝、縁結びを願う信仰で、浦江聖天または福島聖天と親しまれた寺。本堂に安置される十一面観世音菩薩(大聖歓喜天)は、漁師の網にかかって海中から出現したとも伝えられます。
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境内には藤棚があったり、穏やかな雰囲気。近くの幼稚園から子供たちが遊びに来ていました。
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上福島北公園は、シンフォニーホールへと続く並木が美しい。ただ、手前のゲートボール場とかが公園としてはメインかな。フェンスで周囲が囲われているので、家族連れが気軽に寄れる感じではない。常連さんが占拠しているような感じです。
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少し移動して。
オオサカガーデンシティは、西梅田。ここは大阪市北区の西梅田貨物駅跡地周辺の再開発地区。 -
地下歩行者道路「ガーデンアベニュー」の傍らにシティ全体のビル群の説明があって、意外に規模が大きいことが分かりました。
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ただ、それぞれのビルは気軽に入れる感じではない。観光的にはガーデンアベニューのおしゃれな雰囲気を味わうくらいかなと思います。
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同じ西梅田のエリアの毎日新聞大阪本社は、西日本向けの地域本社。明治9年、に創刊した大阪日報、明治21年に創刊した大阪毎日新聞が前身です。
ビルは表から見ると近代的でピカピカですが、裏に回るとトラックを横付けして新聞を出荷する場所があったりして、やっぱり新聞社のビルだなと感じます。 -
イチオシ
そして、TKPゲートタワービルは地上16階建てのオフィスビル。このビルの5~7階の部分に高速道路が貫通しているのが強烈。外国の観光客から人気が出たような感じですが、確かにインパクトはあるでしょう。
ただ、一方で、このビルに進入する高速道路の裏側の眺めも同じくらいダイナミック。これも合わせるとさらにインパクトが増すような気もします。 -
イチオシ
旧川崎貯蓄銀行福島出張所は国道二号線沿いの開けた場所。こじんまりした建物ですが、イオニア式ジャイアント・オーダーが整った美しさ。現在はミナミ株式会社社屋のようですが、かつての姿がそのまま残っているような。まだまだ瑞々しさも感じれると思います。
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また、福島地区の方に戻って。
福島天満宮は、菅原道真が、藤原時平により九州大宰府へ配転させられた際、当地の里人徳次郎が旅情を慰めたことをいたく喜ばれ、この辺りを福島と名づけられたとか。そのゆかりに地に建てられた神社。境内はやや狭めですが、本殿とかうまく収まっていて。コンパクトに落ち着いた感じが好印象です。 -
逆櫓の松跡は、なにげないビルの前。これは、屋島を船で急襲するため、源義経と梶原景時が軍議を行ったという場所。船首だけでなく船尾にも櫓(逆櫓)をつけた方がいいという梶原景時に対し、はじめから退却することを考えるべきではないとする義経。暴風の中の船出だったこもあり、200艘のうち義経に従ったのは5艘だけ。それだけ敵も油断する条件。天才義経には運もあるように思います。
ちなみに、梶原景時のことですが、石橋山の戦いで源頼朝を救ったのは大功績。頼朝の信任厚く重く用いられますが、源義経と対立し頼朝に讒言して死に追いやった張本人とも。ただ、頼朝死後、鎌倉を追放され、梶原景時の変によって一族は滅びています。
屋島を攻める際ですから、義経は既に一の谷の合戦で天才的な力を示しています。それでも、義経の力をまだ認めようとしない梶原景時のかたくなな姿が思い浮かびました。 -
ここから、また中心部へ。
朝日放送テレビは、通称のABCテレビ。なにわ筋沿いの玉江橋たもと。建物がウッドデッキ風の壁でおしゃれだし、目立っています。ただ、テレビ局なんで、中とか入れるかなとも思ったんですが、ガードマンがいて厳しく規制。なんか視聴者からすると遠い存在って感じです。 -
ABCテレビ前のなにわ筋のすぐ南が玉江橋。堂島川に架かかる橋で、浪速の名橋50選にも。橋梁らしい構造物がないので周囲は視界が広く開けた印象です。
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玉江橋の北詰を堂島川に沿って東へ進みます。
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すぐにあるのは、福澤諭吉誕生地記念碑。
諭吉はここにあった中津藩蔵屋敷で生まれたんですね。天保5年(1835年)のことです。
隣には、例の有名な言葉「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の碑も並んでありました。 -
そして、ほたるまちるは、平成20年、旧大阪大学医学部附属病院跡地が再開発してできた複合施設。
商業施設としては、スーパー、レストラン、カフェ、スポーツジムなどが入居している堂島クロスウォーク。50階建ての超高層マンションThe Tower Osakaも併設されています。 -
ほたるまちの中に入って、これが堂島クロスウォーク。中央にヨーロッパの中世の町のような広場があって、その周りにレストランとかが配されていて、雰囲気がありますね。ただ、平日はひと気があんまりなくて寂しいような。アクセスが悪いのがちょっと難点かもしれません。
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また、堂島川沿いに進んで。雙松岡塾跡の「雙松岡」は、松本奎堂、松林廉之助の二人の「松」に岡千仞の「岡」。幕末の文久2年頃、この三人が開いた私塾です。尊王攘夷を鼓舞し、幕府ににらまれたので半年で閉鎖になったといいます。
大阪の私塾だと大村益次郎やさきほどの福澤諭吉も学んだ緒方洪庵の適塾が有名ですが、それだけではない。あちこちに塾はあったんですね。ただ、植え込みの中にある碑は、文字が達筆すぎてなかなか読めないのが難点です。 -
田蓑橋は、堂島川に架かる橋。玉江橋のひとつ東側です。
北詰には、大阪中之島合同庁舎、NTTテレパーク堂島。南詰には、ダイビル本館など。ここも橋梁がすっきりしているので眺めの良さを邪魔していない。その分、橋としての存在感は薄いかもしれません。 -
田蓑橋の北詰にある蛸の松。この松のことを知らなくても形の良い松なので、ふと目に留まると思います。
枝振りが蛸の泳ぐ姿に見えるということから「蛸の松」。もともとは福島正則が植えたと伝わりますが、今は何代目かになっていると思います。 -
堂島川の田簑橋から玉江橋の間にある川の北側に設けられた遊歩道は、Red&Blue Street。ネーミングライツで付いた名前のようで、もともとは福島浜緑道。
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堂島川をはさんで南側には、美しい高層ビル群が眺められます。ただ、ここじゃないとダメという景色でもないかな。
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イチオシ
一方、北側で堂々と目立つのは堂島リバーフォーラム。レコード会社のビーインググループが運営する多目的ホール。
高層マンションのリバーレジデンス堂島と一体になった姿が美しくて、ちょっとうっとりするくらいの眺めです。 -
さて、そこからダイビル 本館へ。
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こちらは、大正15年、渡辺節の設計で建てられた、ネオ・ロマネスク様式の低層部が圧巻。シックな煉瓦に入り口部分の大理石の彫刻デザインは、うっとりするほど見事。この時代は、日清・日露戦争に勝利し、世界の列強の仲間入りして世の中の安定感もあった頃。この頃のビルはいいものが多いですよね。
ビル内には、これから訪ねる旧ヤム邸やパンのパリアッシュなど名店も入っていて、雰囲気ある建物が上手に活用されているのも魅力だと思います。 -
さて、これが旧ヤム邸 中之島洋館。ダイビル本館の二階です。
ダイビル本館自体、レトロビルの素晴らしい雰囲気があるのですが、 -
このお店はそこに加えてスパニッシュなスタイルの内装が素晴らしい。このお店の雰囲気だけでも一見の価値ありですね。
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イチオシ
いただいたのは、ランチの肉肉カレー。タイカレーみたいなさわやかな味わいなんですが、香辛料とかが複雑で、食べ進めるにしたがっていろんな味わいが現れる面白いカレー。
目も舌も。。いろんな意味で楽しめるお店です。 -
一方のパリアッシュは、ダイビル本館の一階。入口はダイビルの外側にあります。
大阪でもけっこう有名なパン屋さんになるでしょう。 -
イチオシ
店内に並んだパンはカラフルさも備わっているし、それこそなんかインスタ映えもする感じですねえ。すべてが天然酵母ではないということでしたが、そうした重厚さも感じます。
パンオカナールというのをいただきましたが、高級店のビーフシチューに入っているようなごろんとした肉片が入っていたり、ちょっとしたサプライズもありました。さすがです。 -
イチオシ
落ち着いたところで。
今度は初の国立国際美術館へ。こちらは、現代アートの美術館。「コレクション特集展示 ジャコメッティと Ⅱ」をやっていました。その他、スペースを贅沢に使った映像を多用した展示なども独特な感性かな。企画展の内容はちょっと難解な感じもありましたが、前衛的な地上部のデザインと地下に入っていく感じとかルーブル美術館のコンセプトにもちょっと似ているところがあって、この建物自体を楽しむ感覚も必要なのかなと思いました。 -
大阪市立科学館は、国立国際美術館と続きの敷地内。
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宇宙とエネルギーのテーマ通り。
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広範な展示なのですが、現代はスマホとか最先端の科学技術が実はごく身近にあって、生活に溶け込んでいる時代。その分、こうした展示には、逆になにか古ぼっけたイメージが湧いてしまうのは否めないようにも思います。
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あと、學則天は、大阪市科学館に入ってすぐの左手。玄関ホールの一角に展示されています。
これは、1928年に造られた東洋初のロボットだそう。動くのを見たら印象も変わっていたかもしれませんが、停まっているのを見ただけでは特に面白いものではないと思います。 -
大阪市科学館を出て、堂島川の南の土佐堀川をさらに西に向かいます。
筑前橋は、土佐堀川に架かる橋。国立国際美術館の南側です。
少し小さめの橋でなんのことはないのですが、歴史的には、筑前黒田藩の蔵屋敷への交通を確保するための橋だったことから筑前橋。蔵屋敷が並んでいた街であったことを想像してみましょう。 -
常安橋は、同じく土佐堀川に架かるなにわ筋の橋。上下の路線が中央で分かれているので、車で通行する人にはなんか安心感があるかな。
名前の常安は、中之島の開発に尽力した豪商、淀屋常安にちなむもの。北詰付近は開発期に常安請所となっていた場所のようです。 -
越中橋も土佐堀川に架かる歩行者専用橋。橋は階段を上がって一段高くなっています。この辺りで歩行者専用の橋はここだけかな。昭和4年に架けられ、昭和39年に手直し。
なお、橋の北側には肥後藩蔵屋敷跡、阿波藩蔵屋敷跡。南側には薩摩藩蔵屋敷跡があります。 -
その西側が土佐堀橋。あみだ池筋を通します。北に向かうと国際会議場の脇を抜けて堂島川の堂島大橋につながります。
土佐堀川に架かる橋は10以上あって、その中でここにその代表といった感じで土佐堀橋と名付けられているのですが、でも、何か特別感があるかというとそうでもないと思います。 -
あみだ池筋を北に向かって、すぐに表れるのが大阪国際会議場。愛称は、グランキューブ大阪。
巨大な建物は、地上13階、地下3階の鉄骨造。建物の高さは104.51m。設計は黒川紀章で、2000年のG8の大阪誘致のために作られましたが、結果として、沖縄での開催となりました。 -
通りからは階段で少し上るとダイナミックな吹き抜けの広場に入る。巨大建築のスケール感がすぐに実感できると思います。
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蔵屋敷跡は、リーガロイヤルホテルの玄関に向かう通路横の植え込みの中。
川に面した蔵屋敷から米を船に積み込む様子のレリーフがあって、土佐堀川と堂島川にはさまれた中之島に多くの蔵屋敷があったことが説明されていました。このレリーフの辺りには、高松藩の蔵屋敷があったそうです。 -
そして、堂島大橋は、堂島と中之島とを結ぶアーチ形の橋です。
橋の南側には大阪国際会議場と京阪中之島線中之島駅。橋には、存在感があるし、周囲は中之島にしては比較的にぎやかな雰囲気があると思います。現在は工事中ですが、歩行者は問題なく通れます。 -
中之島バンクスは、堂島大橋の南詰。堂島川沿いに整備された商業エリア。喫茶店やレストランかばん屋さんなどが適度に配置されて、優雅な空間を形成しています。
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ただ、リーガロイヤルの方から直接行こうと思っても、道路からは高い壁になっていて直接はいけない。入口を入るのが難しいですね。そこがちょとマイナスかなと思います。
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慈雲尊者生誕之地は、NTT中之島ビル横ではなくて、その隣のラソールガーデン大阪の敷地の中。高い塀の一部から覗けるように穴が開いているのですが、なかなか気が付かないかもしれません。
ちなみに、慈雲尊者は、高松藩蔵屋敷に生まれ、梵語の研究の大家だった人のようです。理想としたのは、当時の仏教界を打破して、釈迦在世のときに還元すること。経典の原典に遡るという姿勢は仏教だけではなくいろんな道に通じることなのかなと思います。江戸時代は平穏な時代というイメージですが、実はこうした各界の多様な動きがあって、幕末へのエネルギーが蓄積されていく。その辺りのことはもう少し理解が進むといいなと思います。 -
下福島公園は、堂島大橋を北進するとここにぶち当たります。
ユニチカの主力工場であった福島工場跡地を整備して公園にしたもの。プールやジョギングコースなどもあって、なかなか広い。豊臣秀吉も訪れた藤庵の庭を復元したり、これも見どころの一つです。 -
結局、また福島地区に戻ってきた感がありますが。。
天神社は、菅原道真が名付けたという福島にあって、道真が大宰府へ左遷される際、実際に当社に参拝したと伝わる神社。
境内はさほど広くはありませんが、元禄時代に建てられたという拝殿ほか落ち着いた雰囲気。 -
境内に石の道しるべが建っていて、それも旅情を誘います。
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この辺りも橋が多い。
湊橋は、土佐堀川に架かる新なにわ筋の橋。江戸時代、元禄年間に堂島川が開削された際、堂島と中之島の間に架けられた5つの橋のひとつです。
ただ、橋の上は阪神高速3号神戸線の高架で覆われていて、あんまり風情はないかな。産業道路風の殺伐とした眺めです。 -
上船津橋は、新なにわ筋の北側。堂島川に架かる橋。南側の湊橋が産業道路風でしたが、その感じが湊橋からそのまま続いています。トラックとかが多く通るし、観光の要素はあまりないと思います。
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土佐堀川から南に分岐した木津川は、まずこの昭和橋を越えて流れて行きます。橋は、長さ82.8mの堂々としたアーチ橋。ライトブルーの色も美しいです。昭和7年に土佐堀通りの橋として建設され、かつては、大阪市電の路線としても使用されたこともあるようです。
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端建蔵橋は、かつての居留地だった川口地区と中の島の西端を結ぶ橋。現在の橋は、大正10年に架けられたもの。長さは、111.95m。橋に沿っては水道管が通っていて、景観としては、アーチ橋のように見えて橋と一体になっています。
なお、土佐堀川は直前で南に木津川を分岐し、安治川となります。かつて、中之島には蔵屋敷が建ち並んでいたのが、端建蔵のゆえんです。 -
船津橋は、堂島川に架かる橋では一番西側。この橋を南に進むとさっきの端建蔵橋という関係。これも土佐堀川に架かる橋では一番西側です。
この橋を渡るともうすぐ中央卸売市場なんですが、ただ、大きさもさほどないし、傷みも激しいような。あんまり見栄えはしない橋です。 -
そして、これが大阪市中央卸売市場。青果、水産物、加工食料品などを扱う総合的な卸市場。
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ゲートを通って、敷地内へ。夕方だったので、開いているのは乾物屋さんとかごく僅か。しかし、それにしても築地の場外とかを連想すると観光客にはやっぱりかなり寂しいかなと思います。
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続いては、野田恵美須神社。ここまでくると、JR野田駅もまあまあ近く。恵美須さんは商売の神様ですが、漁民の守り神でもあるようですね。
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境内はそれなりに広くて、活気も感じられる。やっぱり大阪は恵美須さんが好きな土地柄ですからね。
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極楽寺は、野田恵美須神社の隣りのブロック。真宗大谷派の寺のようですが、白い漆喰の鐘楼が城の建物ような風にも見えて、ちょっと威圧感がありますね。門前に野田城跡という石柱が建っていて、それなりに目立っている。
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ちなみに、野田城は、石山合戦の端緒ともいうべき野田城・福島城の戦いの舞台。三好三人衆の築いた城を信長が攻めています。
少し信長の動きについて説明を加えると以下の通り。天下統一に向けてはまだまだ道遠しといった局面。結局、野田城・福島城の戦いでも痛み分け。姉川の合戦でもまだ余力を持っていた浅井・朝倉勢に背後を突かれたり、石山本願寺の参戦で始めは信長に味方していた根来衆も後には石山本願寺に寝返ったり。信長包囲網にかなり手を焼いています。
1560年 桶狭間の戦い
1567年 岐阜城奪取
1568年 足利義昭を奉じて上洛。三好三人衆を畿内から追放
<第一次信長包囲網>
1570年 朝倉攻めから、浅井氏の寝返り(金ヶ崎の戦い)。姉川の合戦で勝利。
三好三人衆の反撃、野田城・福島城の戦い。
石山本願寺の参戦により、その後10年に渡る石山合戦始まる。
<第二次信長包囲網>
1571年 阿波三好氏と松永氏同盟
1573年 浅井・朝倉滅亡
三方ヶ原の戦い、武田信玄病没
1575年 長篠の戦
1580年 石山合戦の終結
1582年 武田氏滅亡
1582年 本能寺の変 -
今度は梅田に帰ってきて、今度は茶屋町あたりの散策です。
イースクエア茶屋町は阪急電車梅田駅から茶屋町方面へ出てすぐの居酒屋さんとかカラオケ店が入る雑居ビルといった感じの商業施設。茶屋街のにぎわいの貢献はしていると思いますが、都会ならどこにでもあるビル。珍しさはまったくありません。 -
凌雲閣跡碑は、大阪茶屋町の梅田東コミュニティ会館の前。全体に傷んだような感じのコーナーです。説明書には、明治時代、この場所に39mの展望塔が建っていたということ。高層展望塔は明治時代に流行したのだそうです。そういえば、浅草でもそんなものがあったというのを思い出しました。
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鶴の茶屋跡碑は、NU茶屋町プラスの入口あたり。歩道の脇に建つそれなりに歴史を感じさせる石碑です。
街道の起点であり、明治中期には梅の名所で料亭や茶屋が数多くあり、その中の一軒が鶴の茶屋。茶屋町の名前の由来にもかかわっています。 -
茶屋町でも比較的奥の方。毎日放送の一階分で、気軽に立ち寄ることができる場所がちゃやまちプラザです。入口から、何かのキャラクターがお出迎え。
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中も悠々と広いのですが、ちょっと休憩したりするのは少し殺風景かな。でも、気軽なのはいいことです。
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梅田芸術劇場のメインホール前の与謝蕪村句碑、菜の花や月は東に日は西に。植え込みの中にあります。
ただ、この句は神戸で詠まれた句だし、碑のデザインも現代アートのような感じ。場所も含めて、ちょっと唐突感があるような気はします。 -
ちゃやまちプラザから茶屋町アプローズに向かう間の並木通りは、ちゃやまちプロムナード。ただ、特別何か雰囲気があるかといえば、そういうことはほとんどないような。それに、名前も書いてないし、正直、認知度は低いんじゃないかなと思います。
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そして、阪急茶屋町ビルディングに入ってすぐの吹き抜け部分がちゃやまちアプローズ 。でも、ここも何か特別感があるかというとそういうことはほとんどない。ネーミングはしっかりしていますが、わざわざ行くという場所でもないでしょう。
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再び外に出て。
綱敷天神社は、大阪市北区神山町にある嵯峨天皇や菅原道真ゆかりの神社。その御旅所が茶屋町にありました。コンクリートの急な階段を上がった先。階段下からでも本殿がしっかり拝める感じ。都会の一角の限られた場所にうまくはめ込んでいると思います。 -
その隣りにあるのは玉姫稲荷神社。狭い境内の中に同居している神社です。
御旅社が梅ヶ枝町から当地に遷座するまでは産土神として茶屋で働く女性に信仰されていたということ。小さくても、やっぱりそれなりに歴史を伝える稲荷かと思います。 -
それと、この辺りで見落としてならないのは、この大ぴちょんくん。空調メーカーのダイキン工業のマスコットキャラクターですが、本社もここにあるんです。うるうとさららというのもありますけど、湿度と温度の組み合わせで温かく感じたり寒く感じたり。人間って湿度が多いと温度が低くても温かく感じたりするんですよね。看板は、遠くからでも見えて温度と湿度が表示されています。
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茶屋町から、大阪くらしの今昔館に向かいますが、その途中。
善徳寺は、日蓮宗の寺。都島通り沿いにあってすぐ前が地下鉄の中崎町駅。通りはこの辺りで少し幅が広くなって膨らんでいます。門は固く締められていて、しっかりした塀も周囲を囲っていて、気安い感じではないですね。いずれにしても観光の対象ではありません。 -
さて、今昔館に到着しましたよ~
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ゲートを入って、進みます。
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ここの一番の見どころは江戸時代のフロア。
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天保初年の大坂の町並みを実物大で復元した本格的なもので、
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今でいうところの江戸の商店街を
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リアルに
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味わうことができます。
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櫛とかの小間物屋も、
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ちゃんと商品が並んでいるし、
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これは
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人形屋。
笑顔の面は大阪らしい匂いもします。 -
ほかにも、反物屋や
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風呂屋など。
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イチオシ
その先のモダン大阪パノラマ遊覧は、明治・大正・昭和の模型など。
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天神祭りのジオラマなんかも楽しいです。
東京だと両国の江戸・東京博物館に相当する施設かなと思います。まあ、規模は少し小ぶりになりますけどね。 -
今度は南に移動して。
関西テレビは、地下鉄扇町からすぐ。敷地は扇町公園につながっていて。けっこう遠くかでもら個性的なデザインの建物が見えてきます。
東京だとフジテレビとかが個性的ですが、大阪だとここなのかなあ。 -
入ってすぐの巨大な空間もわくわく感があって楽しめると思います。
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そして、これが隣接する扇町公園。今は大型の都市公園ですが、江戸期には刑場があって、その後、大阪監獄が設置されたりもしたようです。
運動場みたいに広い空間があって、これは悠々。たくさんの子供たちがサッカーをしたりして遊んでいました。 -
そのまま、今度は綱敷天神社へ。神社の始まりは平安時代。
源融が父嵯峨天皇崩御の後、追悼のため太融寺を創建。合わせて、神野太神宮を創建したと伝わります。その後、大宰府に左遷される菅原道真がここに立ち寄り、一本の紅梅を眺めるため、船のとも綱をたぐりよせ、即席の座席としたことで綱敷(つなしき)となったとか。 -
境内はさほど広くはないですが、境内社や碑などあれこれとあって、参詣者が多かった歴史を示していると思います。
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境内社である喜多埜稲荷神社は、赤い鳥居と赤い囲いの小さな神社。小さいですが、石畳の参道もついてます。
ちなみに、喜多埜は、北野の古い時代の名前。キタのお稲荷さんと呼ばれて、戦前には修験道の御火焚行事も盛大だったとか。今では商売繁盛の神様です。 -
菅原道真を祀る神社には牛の像が必ずと言っていいほどあるのですが、綱敷天神社にも牛舎があって、詳しい説明書がありました。改めて知りましたが、道真が丑年生まれだったことや亡くなって棺を運ぶ牛が動かなくなって、ここに葬ってくれということを伝えられた。そこが太宰府天満宮だとか。いろんな理由があるようです。
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今日の晩飯は大阪駅ビル。予約してあるので、そろそろ向かいましょう。
阪急東通り商店街まで帰ってきました。この商店街は、JR大阪駅からでもそう遠くはないんですが、新御堂筋を越えていくのでちょっと距離感はあるかもしれません。天神橋筋商店街や心斎橋商店街ほど長い商店街ではありませんが、ごちゃごちゃとした大阪らしい雰囲気は味わえます。飲み屋さんが多いかな。カプセルホテルなんかもあって、これも意外に使えます。 -
で、晩飯の前に。
ROUTE271は、グランフロント大阪から回りましたが、ちょっと気が付きにくいかも。それでも、有名店らしく、お客さんはちゃんとここを目指してやってきます。 -
閉店間際でしたが、お店イチオシのクリームパンがまだ残っていて、それをいただきました。要冷蔵ということで基本は保冷剤をつけてくれます。丁寧ですね。
ふわふわのクリームは、なるほどしっとりとしたおいしさ。ただ、おいしさが群を抜いているかというとそうではなくて、むしろふわふわの個性的な味わいの方が勝っているかなと思いました。 -
さて、晩飯はここ。
本店のポンテベッキオは高級店なんですが、大阪駅ルクア10階のエキポンテベッキオは値段がリーズナブルなんですよね。 -
いただいたのは、ディナーコース。
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3800円だし、ちょこっとしたコースかなと思ったら、
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肉料理も
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魚料理も
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ピザに
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パスタ。
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イチオシ
内容がしっかりしているし、けっこうな量でした。
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がっつり食べたい向きにもお勧めかと思います。
これで長い一日目は終了。あんまりまとまりはなかったですが、まあ、焦っても仕方ないでしょう。 -
二日目も、堂島辺りから。
朝日新聞大阪本社は、中之島フェスティバルタワー東館。 -
訪ねたのは休みの日の早朝だったので、だれも歩いていませんでしたが、一階部分から上部の本社に向かう何台も並んだエレベーターがちょっと圧巻。こんなところで働いている人もいるんだなあというようなちょっと別世界のような感じがしました。
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ここからは、新地の方に向かいます。
中央電気倶楽部はもともとは大正時代に建てられましたが、現在のビルは昭和5年の築で三代目。地下1階・地上4階建。スペイン風のレンガ仕立ての建物です。レクリエーション施設や迎賓室を備えた勿体のある施設。ちょっと年月が経って古びていますが、目を凝らすとやっぱり気品を備えた雰囲気が外観からでも感じられると思います。大阪はこうした建物が街中にひょっこりあって、けっこう東京にはないことではないかと思います。 -
旧大阪毎日新聞大阪本社 旧社屋玄関 玄関ポーチは、堂島アバンザの前。大正時代から70数年にわたり情報を発信してきた旧大阪毎日新聞の遺構。モニュメントとしてみると重厚ですが、玄関としてみるとそう広い間口でもない。機能的に言えばちょっと簡単には人を受け付けない閉鎖的。少し高くなって建物に入るとかも同じ昔の考え方なのかなと思います。
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国産ビール発祥の地は、ANAインターコンチネンタルホテルのすぐ北側。この辺りも北新地の繁華街の一角です。
説明文には、渋谷庄三郎なる人物が明治5年にここで日本人の手による最初のビール醸造を行ったということです。 -
蜆橋跡は、新地本通りから新御堂に出たところ。ビルの角に「しじみばし」と書かれていました。
この辺りには曽根崎川と言う川が流れていて、その川に架かっていた橋の一つが蜆橋。大阪は今でも縦横に川が流れる橋の町ですが、かつてはもっと多くの橋があったということなんですね。その一端を感じる遺構です。 -
大阪市交通局曽根崎変電所は、新地本通りから新御堂を越えた向かい側。
昭和11年に造られて、今でも地下鉄の電源供給を行なう現役の施設。不気味なコンクリートの塊のような建物ですが、2階部分のコーベル(持ち送り)の列のデザインが独創的です。 -
佐賀藩蔵屋敷跡は、大阪地方裁判所の敷地内。歩道わきにちょこっと切れ込んだところがあって、石碑が建っていました。
現在の裁判所の敷地がすべて蔵屋敷だったということですから、広大な建物。地下駐車場の工事で発掘調査が行われたということです。 -
そこから、堂島川に出たところが中之島 ラブ セントラル。水晶橋のたもとにあって、ここのテラス席からだと水晶橋が美しく眺められて、水の都、大阪の潤いをどっぷりと感じられる。ただ、施設自体は少し活気がないかな。ロケーションがこんなにいいのに、もったいない感じです。
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鉾流橋は、堂島川に架かる大阪市道裁判所東筋線の橋。昭和4年に完成。水晶橋のひとつ東側で、これも浪速の名橋50選。なお、鉾流橋の名の由来は、天神祭の鉾流神事がこの橋のたもとで行われることから。下部の淡い緑色が印象的です。
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そして、大阪市役所まで。日銀大阪支店と御堂筋をはさんで向い合せに建っていて、淀屋橋辺りではランドマーク的な建物。昭和61年に竣工し、正面の格子模様が印象的です。ただ、今だと、維新の会の橋元対太田の激しい選挙戦とかのイメージが強すぎて、どうしてもそっちに思いが行ってしまうかな。妙な激しい歴史が刻まれたものだと思います。
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大阪市役の南側のみおつくしプロムナード。土佐堀川沿いの散歩道は、大阪市立中之島公会堂や府立中之島図書館前に続きますが、この道に名前が付いているのはあんまり知られていないかも。植え込みの中に名前が書かれていても、それに気が付く人は少ないかもしれません。
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大阪府立中之島図書館は、大阪市役所の裏手の方。重要文化財に指定されている明治37年竣工の建物は、住友家により寄贈されたもの。設計は野口孫市、日高胖です。
ネオバロック様式の堂々たる玄関ですが、今の感覚でいうとやや過剰な演出感がなくもない。明治37年は日露戦争が始まって西洋に負けてなるものかという気分が高揚していた時代。そこが時代性ということかと思います。 -
川田順 歌碑は、大阪府立中之島図書館の玄関の下。水たまりの中に「難波津のまなかに植えし知恵の木は50年経て大樹となりぬ」と書かれたていて、大阪礼賛みたいな歌でしょうか。
氏は、住友財閥で筆頭重役を退職した後に歌人に転身。碑は、図書館の創立50周年を記念したもののようです。 -
この辺りには、こまごました碑もたくさんあって。
大阪通商会社為替会社跡は、中央公会堂の南側の植え込みの中に石碑がありました。ただ、奥の隠れるような場所なので、かなり分かりにくいです。
ちなみに、この会社は日本の株式会社の先駆け。明治2年、薩摩出身で大阪経済界の重鎮の一人五代友厚が働きかけて設立されました。通商会社は商業の振興や外国貿易を統括。為替会社は預金・貸付・お札の発行などの銀行業務の会社です。
江戸時代の大阪経済隆盛の象徴は蔵屋敷。全国から米が集まって、ここで換金されたのですが、明治時代になると税金は金で納めるようになったので、米の換金も地元で行われる。蔵屋敷は無用の長物となり、大阪の地盤沈下が一気に進んだというわけです。天皇がいなくなった京都。蔵屋敷がなくなった大阪。明治に入って、関西の経済が深刻な状況になり、これをどうするか。いろんな模索が続けられていたということを理解する必要があると思います。 -
関一の銅像は、東洋陶磁美術館前の植え込みの中。関一は、第7代大阪市長で、助役から大正12年に市長となった人物。中央公会堂は助役時代。市長時代には御堂筋の拡幅や地下鉄御堂筋線の建設など現在の大阪の都市計画のアウトラインの形成に尽くしたということです。タキシードの姿はちょっと堅物な印象ですけどね。。
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大阪銀行集会所跡碑は、これも東洋陶磁美術館の南側の植え込みの中。小さな碑だし、目立たないですね。
明治11年、大阪の有力銀行の数行が集まり、毎月1回ここで会合を開いて、打合せや親睦会をした協議会だったようです。いろんなことがあった大阪黎明期の遺構の一つでしょう。 -
木村長門守重成表忠碑は、中央公会堂から中之島公園に向かう途中。通りの左手に建つ大きな石碑なのですぐに気が付くと思います。
ちなみに、木村重成は、豊臣秀頼の乳兄弟であり秀頼の小姓として仕えた側近。大坂夏の陣では豊臣軍の主力として、八尾・若江の戦いに挑みます。木村重成の兵は6,000、長宗我部盛親、増田盛次の兵は5,300。それぞれ井伊軍9,500、藤堂軍5,000と若江、八尾でまみえます。木村重成は、若江の戦いで討死しますが、しかし、その戦いは激烈で知る人ぞ知るの勇猛さ。江戸時代には残念様として墓参りのブームが起きたというほどです。 -
難波橋を渡って、北浜の方に向かいます。
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この辺りで朝飯のつもり。調べておいたノースショアは、北浜駅の近くのナイスなカフェなんです。以前、岸和田のフランチャイズ店に行ったことがありましたが、ここが本家のようですね。中の島方面を見渡す川沿いの二階。コンクリート打ちっぱなしの店内の雰囲気もアメリカンな感じです。
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モーニングはまな板みたいな食器の上にいろんなものを盛り合わせ。野菜の種類も多いのですが、温泉卵まで載せてあるのにはちょっと驚きました。
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落ち着いたところで、再び散策を開始。
菅原町の土蔵というか、「蔵のまち天満・菅原町」。天満に青物市場が置かれ、その後、周辺に乾物問屋の町が形成される。
200軒を越える店があり、その名残りが蔵として残っています。まとまって残っているわけではないし、あんまり保存もよくないように思いますが、言われればそうだったのかなあくらいは分かる一角です。 -
そこから、南天満公園に移動して。
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天満の子守歌歌碑は、公園の中。川沿いの歩道をたどれば傍らに建っているのでわかります。
碑文はは、子守歌の歌詞
ねんねころいち 天満の市で
大根揃えて 船に積む
船に積んだら どこまで行きる
木津や難波の橋の下
貧しい子供が子守娘として、他人のうちに預けられて働いていたという時代背景に思いを馳せました。 -
天満興正寺御坊跡は、滝川公園内の端っこ。割としっかりした碑です。
既に豊臣の世になった天正13年(1585年)。興正寺は本願寺とともに和泉貝塚から天満の地へ移ります。ほどなく、豊臣秀吉の命により京都堀川七条に移転することになりますが、その後もこの天満御坊は大阪にあって、真宗布教の拠点だったようです。 -
フジハラビルは、大正12年に建てられたレトロビル。けっこう傷みもありますが、ギャラリーを設けたり、演劇や音楽などのアート活動の場としたなんか一風変わった雰囲気。NHKの連続テレビ小説「ウェルかめ」のロケ地としても使用されたというビルです。
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そして、天神祭りの大阪天満宮までやってきました。
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正門の東側には西山宗因向栄庵跡。石燈籠の間に挟まれるように建っています。
ちなみに、宗因は熊本の出身の連歌師。天満宮社地東の辻に向栄庵を結んで俳諧の道を鼓吹し、談林風をひらき、多数の門人を出したとありました。 -
本殿もちょっと拝見して。
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大坂天満宮の中にある芭蕉句碑です。一段高いところにあって、ちょっと古びた感がいいですね。
この句碑は、芭蕉の200回忌を記念するもの。碑文は、「行年や 薬に見たき 梅の花」。左手に板書があって読めますね。助かります。 -
大阪ガラス発祥の地碑は、西側。えびす門の前です。読みやすい字で書いてあるのですぐわかりました。
江戸中期の宝暦年間、ここで長崎の商人がガラスの製造を始め、それが最初だということです。当時、ガラスは何に使ったんでしょうか。それもちょっと気になるところです。 -
ここまできて、変わったところだと川端康成生誕之地の碑。住宅地のようなところにひっそりとありますが、でも、さすがに碑のデザインはひと工夫ありますね。
明治32年に料亭相生楼の敷地南端に生家があったとか。日本人で初めてノーベル賞を受賞したその功績はこれからも消えることはありません。 -
そして、ここから東にどんどん向かって、造幣局を目指します。
天満別院は、その途中。
銅の丸屋根が個性的。境内は一段高いところにあって、しんと静まり返っていました。本願寺が東西に分離されて、ここは東本願寺系の寺。天満本願寺は今はなくて、この別院だけが残っているようです。 -
さて、造幣局のエリアに入ってきました。
大阪造幣局の官舎の敷地内にある洗心洞跡碑。草ぼうぼうの中に石碑と詳しい説明版がありました。
この洗心洞というのは、大塩平八郎の乱で知られる大塩平八郎の私塾。大阪東町奉行の与力を辞職し、与力時代から開いていたここ洗心洞で教学に努める。塾生17~18名、門弟40~50名程。大坂町奉行の役人や周辺農村の豪農層が多かったということです。 -
これが造幣局の正門。
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さっそく造幣博物館に向かいます。
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入ってすぐは、創業時の功労者。新政府の高官やお雇い外国人の紹介から始まって、
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造幣の技術を理解するための道具類から古代に作られた中国貨幣や我が国の富本銭・和同開珎や皇朝十二銭に、
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豊臣・徳川時代の大判・小判に
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現代の記念硬貨など。
貨幣の歴史って、壮大なドラマなんですよね。実用性と美しさ、その背景にあるそれぞれの時代の人間の暮らし。いろんなことに思いを馳せられる内容だと思います。 -
造幣局の周辺ですが、
桜宮橋は、大川に架けられた国道1号の橋。大阪造幣局のところから歩いて渡りましたが、それなりに長いですよ~
橋長108 m、幅員22 mの鋼アーチ(3ヒンジアーチ)の構造。昭和5年築。北側に平成18年築の新桜宮橋が並列していて、実は二つの橋が一体になっている橋なんです。 -
桜宮橋を渡った大川の東岸が毛馬桜之宮公園。桜宮神社の社前一帯の南北約4.2kmにも及んだかなり広範囲のリバーサイドパークです。
江戸時代から桜の名所だったようですが、今では造幣局の桜の方が有名になったかな。こちらも桜の木は多いですが、手入れはちょっと雑なような気がします。
これは、都島由来記。まだ新しい感じのする碑で、由来が簡単に記されていました。
この辺りに集落が形成されるようになったのは、京橋口から街道が整備され、淀川が京大阪の大動脈となって以降だとか。都島って聞くとかなりの歴史を想像しますが、実は割と新しいのかなという感じです。 -
桜宮橋を戻って。
泉布観は、造幣局の大通りをはさんだ向かい側の公園のような場所。
この建物は、明治4年、現在の造幣局である造幣寮の応接所として建設されたもの。設計者はトーマス・ウォートルス。完成の翌年、明治天皇が行幸し、貨幣を意味する「泉布」と館を意味する「観」から泉布観と命名しました。
古い建物だけに、ちょっと傷みも目立つような。ただ、そこを割り引いても華麗な歴史ほどには華やかに見えないようにも思います。 -
その敷地の少し奥が旧桜宮公会堂。
昭和8年竣工の旧造幣寮の正面玄関を移築して作られた建物。ギリシャ建築のように整然と並んだ正面のオーダーは下に行くほど太くなって、絶妙の安定感。まだらまだらに古びた大理石の色調もなにげに美しいですね。
レストランとして活用されていて、この日も何人かのお客さん。スタッフが敷地の入り口の方まで出てきてお迎えをしていました。 -
今度は、緒方洪庵墓所を訪ねます。
池上雪枝感化院跡は、その途中。
石柱が建っているだけの史跡ですが、ここは、明治16年、日本最初の感化院。児童の自立支援施設があったところ。保護した児童には、当時流行した洋傘の柄やステッキ・石鹸作りを教えて、自立を促したとか。池上雪枝が村上華岳の祖母というのもちょっと興味深い。村上華岳の仏画とか、私はもともと大好きですが、これからはもっと違う視点で味わえるようになるかもしれません。 -
そして、これが緒方洪庵墓所。龍海寺の門前に堂々とした石柱が建っていましたが、門は閉まっていて境内には入れませんでした。しかし、大阪の誇りといった雰囲気はなにかあるような。オーラは感じますね。
ちなみに、緒方洪庵は文化7年(1810年)に岡山で生まれ、8歳の時に自身が天然痘にかかったこともあり医者をめざした医師であり蘭学者。日本の近代医学の祖とも呼ばれますが、その私塾、適塾から福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎などのキラキラの英才を生み出したことで有名。
思想的なところでの特異性はあまり感じないのですが、彼らに影響を与えたのはたぶん語学や医学などを学ぶ実務的・科学的な視点。それが何事にも通じるものを教えることになったのではないかと思います。
さて、ここで大阪はいったん終了。ここから京都の方に移動します。 -
京都から、二日ぶりに帰ってきて、大阪散策の続き。半日弱で、予定していた残りをつぶします。
まず、南森町駅から大塩平八郎墓所を目指します。 -
大塩平八郎墓所は、成正寺というお寺の中なんですが。。
-
本堂の横に「中斎大塩先生墓」「大塩格之助君墓」と書いた二つの墓が並んでいて、これですね。なお、「大塩格之助君墓」の方は平八郎の養子です。
まだ新しい感じの墓石で、明治30年に日本画家の田能村直入が建立したのだとか。しかし、あまりにもあっさりとした場所にあって、ちょっとあっけない。ただ、大塩平八郎の乱を引き起こし幕府に歯向かった罪人だし、墓があること自体でも良しとしないといけないのかもしれません。
乱の当時。天保の飢饉で困窮した庶民は、豪商の米の買い占めや江戸の幕府におもねる奉行所の江戸への廻米でさらに追い打ちをかけられる。これに義憤をもって立ち上がった大塩ですが、町奉行の元与力が起こしたということが幕府にとってはかなり衝撃です。ちなみに、これを鎮圧したのは密告を受けた大阪城代だった古河藩。その古河藩の家老だったのは、あの渡辺崋山の描いた国宝画で有名な鷹見泉石。直接、鎮圧を指揮しています。なお、渡辺崋山も三河国田原藩の家老ですが、海防論などで幕府への意見が咎められ蛮社の獄で切腹しています。鷹見泉石も蘭学者の一面を持つ開明派の人物なのですが、難を免れたのは紙一重のところだったかもしれません。いずれにしても、この事件は幕末に続く不穏な時代の幕開けとなった事件といわれています。
関係する旅行記は参考まで
鷹見泉石:https://4travel.jp/travelogue/11015987
渡辺崋山:https://4travel.jp/travelogue/11402834 -
続いては、堀川戎神社。こちらは、大阪市周辺では今宮戎神社や兵庫の西宮戎神社などと並ぶ商売繁盛の神様。始まりは、欽明天皇の時代とも。
ただ、大阪の十日えびすの賑わいを想像しましたが、意外に境内はそこまでの広さはないような。むしろ限られた広さのように感じました。 -
榎木神社は、堀川戎の境内に入ってすぐのお稲荷さん。
なんでもないような建物に思いましたが、これは言わば覆い。中に入るとお神輿のような本殿があって、なんか重々しい。それに稲荷なのにキツネではなくて狸?なんか何度も騙されたような感じです。 -
ここから、太融寺に向かいまして、その途中。
龍王大神は、都会の大通りの中にあって、ちょっと異様。交通の妨げになるので、普通だと移転させられるんでしょうが、祠も背後の銀杏の大木もしっかりこの地に根付いています。もともとはここも太融寺の境内であり、伐採しようと思っても変死みたいなことが起きたのだとか。やっぱり、さわらぬ方が良いようです。 -
そして、ほどなく太融寺に到着。嵯峨源氏の祖、源融ゆかりの寺。ちなみに、源融は源氏物語の主人公・光源氏のモデルとも言われる人物です。
梅田からも近い街中ですが、境内は広々。本堂や空海を祀る大師堂なども立派です。 -
太融寺の本堂手前に建つ芭蕉句碑です。「しら菊の 目に立てて見る 塵もなし」
芭蕉が大阪の女流門弟の斯波園女の招待を受け、北浜にあった園女亭で詠んだ句。女性主人の美しさを詠むというのはちょっとイメージに合わないのですが、礼儀としてのサービス精神ということでしょうか。句碑の形も女性的です。 -
境内の北西奥には、白龍大神。このさらに奥が淀殿の墓所という位置関係です。
女性がお参りする縁結びの神様だそうで、男性はちょっと離れた龍王大神。縁結びだともうちょっとにぎやかになっているものなのですが、ここは至って陰気です。 -
史跡淀殿之墓は、標識があって。
太融寺の記録によると、元和元年(1615年)、大坂夏の陣で自害した淀の遺骨は、大阪城にほど近い弁天島の弁天社の隣りにに祠を造って埋められ、それが淀姫神社。そこから、明治10年に、この寺へ移されたのだそうです。わざわざ史跡とあるので本物なのでしょう。 -
少し移動して、なんか風俗街みたいなところですが、これは法清寺。遊女かしくの寺というのですが、かしくは酒乱で、酔った勢いで兄を殺してしまう。死罪を申し渡されましたが、市中引き回しの際に油あげを所望し、それで乱れ髪をなでつけ斬首されたとか。最後になっても女のたしなみを忘れなかったというそれが評判を呼び、酒乱が治る寺となる。
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境内はがらんとしていますが、しゃもじの願掛け?とか酒乱の戒めの碑とか。それなりの歴史を刻んでいる様子がうかがえます。
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そして、定番中の定番、お初天神です。
お初というのは、この神社の境内で実際にあった心中事件を題材に、近松門左衛門が書いた「曽根崎心中」のヒロインの名前。お初は、堂島新地天満屋の遊女。心を寄せる内本町平野屋の手代、徳兵衛が店の主人から縁談を迫られ、また、結納金を騙し取られるという悲運も重なって、義理と人情の板挟みになった心中へと追い込まれるのです。
筋を詳しくは知らなくても、恋愛成就に御利益がある神社というのは分かりやすい。いつも人の出入りがあって、人気が衰えないのは当然かもしれません。 -
境内にはちょこちょこチェックポイントがありまして。
これは、露ノ井。四天王寺の亀の井、清水寺の井二つ井戸等と並ぶ浪速七名水の一つで、かつては街道を行く人々の貴重な清水だったよう。神社の名前の由来です。
古びた祠のような社と並んで詳しい説明書きもありました。 -
水天宮は、境内社の中では立派な構え。もともとは、中之島にあった久留米藩蔵屋敷内に祀られた社のよう。明治維新に際し、蔵屋敷が朝廷に返上されたことで、あちこち移転した後、ここに落ち着いたよう。ちょっときらびやかな雰囲気もあって、移転の歴史とかは感じさせませんけどね。
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お初と徳兵衛が永遠の愛を誓ったこの場所が2013年に恋人の聖地に指定されたのだとか。全国で123か所。北区だと梅田スカイビルの空中庭園展望台も指定されていると紹介がありました。赤い高札に金属のプレートで恋人の聖地と記されています。
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お初徳兵衛の像は、露天神社の本殿に向かって左手奥。難転石とかもあるちょっとごちゃごちゃっとしたところ。
露天神社の境内でお初と徳兵衛が心中した事件は、元禄16年(1703年)のこと。これをもとに近松門左衛門が書き下ろした曽根崎心中が大評判となったわけですね。
最後の段は「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜」で始まり、「未来成仏うたがひなき恋の手本となりにけり」と結ばれる。大坂堂島新地天満屋の女郎はつ21歳と内本町醤油商平野屋の手代である徳兵衛25歳。美しい恋の物語です。 -
大阪駅前第2ビル3階には、徳兵衛ゆかりの徳兵衛稲荷大明神というのがありまして。ビルの屋外なのでちょっとわかりにくいですが、ただ、この周囲の高層ビルを見上げるようなロケーションがすごい。映画「天気の子」の神社も真っ青といった感じ。違う意味で人気が出ないのかなとも思います。
-
梅田に戻って、これはエスト。JR西日本の系列のショッピングモールです。
大阪駅の東側の高架下なんですが、幅はないのに、通路はくねくねと曲がりくねって設計されていて、ちょっと面倒くさいといえば面倒くさい。それに若い女性向けのコンセプトもあるので、そうじゃない人には面白くないと思います。 -
で、それを抜けたところにあるのが歯神社。日本でここだけという歯の神様です。赤い囲いと赤い鳥居を備えた意外にけっこう整った感じの構え。
本殿前にあるつるんとしたなで石は撫でると歯痛が和らぐと言われるようです。
さて、もう日も暮れたし、ここで最後かな。 -
晩飯を食べたら、東京に帰ります。
で、晩飯はグリル ロン。阪急三番街店レストラン街の一番奥の方。
リーズナブルに洋食が食べられる人気店で、この日も待ち時間は20~30分くらい。お店の前で皆さん待っています。 -
いただいたのは、カニコロッケのCランチ。きちんとした味わいですね。
ただ、材料はやっぱり、そこそこなのかなあ。悪くはないですが、冷静に判断すれば、やっぱり平凡な味という範疇は抜けていないかなと思います。
さて、四日間の旅もこれで終了。これで少しはブランクが埋められたと思います。お疲れさまでした。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- mom Kさん 2020/07/10 09:11:17
- aaaなるほど
- たびたびさん、おはようございます。早速のご訪問うれしいです。UPしてからもなんだかためらっていた日記です。忘備録でした。ありがとうございます。
大阪の楽しさに気づいたのは案外遅い。国内街ではコウベ一筋でしたから。それでも大阪は好きなところは繰り返しています。贔屓のフジワラビルが登場して喜んでいます。オーナーになれるとしたら、このビル!と妄想。京都のこの手のビルは若い女性向けのショップですが、このビルは硬い業界の個人営業所が入っているところも好感。地下でJAZZのライブがあったとき行きました。観客は「大人」でした。水晶橋のたもととダイビルは知りませんでした。必ず行きます。ありがとうございます。
- たびたびさん からの返信 2020/07/13 15:48:34
- RE: aaaなるほど
- 絵画を見る時に自分が持つとしたらという視点で見るとまた味わいが変わってくるんですが、ビルを見るのに自分がオーナーになるとしてらの視点があったとは。なるほどねえ。確かに。これには、ほとほと感服しました。まずは、お礼まで。
たびたび
-
- salsaladyさん 2020/07/03 09:36:50
- 梅田City 今昔?!
- ☆此だけ盛り沢山だと、何処が面白いのやらとんと判りゃんせんが。。。大阪の顔も変わってるようで、変わらない部分があるって事ですね。
☆夫の実家が野崎なので偶に(正に)帰阪しても半世紀前の地図しか思い出せないらしく、梅田界隈とリーガロイヤルホテル宿泊時に何だかのんびりした観光船に一時間揺られて大阪城を遠くに見た程度~何の感動も無いわ!
☆あべのハルカス?と思ったフジTV 見たいな穴あきビルは梅田ですか?
- たびたびさん からの返信 2020/07/13 15:54:16
- RE: 梅田City 今昔?!
- 穴あきビルは梅田スカイビルです。全面ガラス張りなんで晴れた日は空を映して美しいです。
たびたび
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