2014/09/14 - 2014/09/14
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たびたびさん
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大阪では通算で7年間暮らしていたんですが、基本は家と職場の往復に、たまに夜の街に繰り出すくらい。御堂筋かいわいに観光スポットなんかあっても、そんなのしれているだろうというくらいの認識しかなかったので、街歩きなんかしたことありませんでした。
その後、適塾もあるし、やっぱりきちんと街歩きをしてみようと思っていたところ。今回は、やっと腹を決めて、丁寧に歩いてみることにしました。
すると、レトロビルとか、それぞれ個性があって、何とも言えない美しさ。浪花のセンスが光った建物に魅了されてしまいました。東京の街歩きでは、こうはいかない。予想外の楽しさに大満足の一日となりました。
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大阪の街歩きは、淀屋橋から始めます。
淀屋屋敷跡は、淀屋橋南詰西に石碑があります。豪商淀屋は、この辺りに1万坪の屋敷を構えていたとのこと。淀屋橋の名前は、その淀屋のことです。
初代は、淀川の築堤工事を請負い、中之島の開拓にも力を尽くし財をなしますが、その後、2代以降、海産物市場や蔵米の取り扱い、金融業や廻漕業を営み、巨万の富を築きます。しかし、5代目で華美な生活が咎められ、没落したということです。 -
林市蔵の像は、そのそば。緑地帯の中です。
ちなみに、林市蔵は熊本藩士の家に生まれ、三重県知事、山口県知事、大阪府知事を歴任しますが、大阪府知事就任直後の大正7年、大阪米騒動が勃発。家庭の窮状を救う対策として、後の民生委員制度につながる制度を始めた功績が碑文に書かれています。 -
今日はいい天気。空が抜けるように青いです。
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川を渡って、駅逓司大阪郵便役所跡の碑は日本銀行大阪支店の敷地内です。
ちなみに、わが国の郵便制度の始まりは、明治4年。大阪・京都と東京間に開設され、ここにその郵便役所が置かれます。なお、東京までの所要時間は約3日だったということです。 -
こちらの大同生命大阪本社ビルは、大阪江戸堀にあるこの辺りのランドマークビル。
テラコッタ(大型タイル)の外壁、チューダー式アーチ(窓)も特徴的ですが、足元の斧を入れて細くなったようなくびれが一番の特異なデザインです。 -
さて、橋もチェック。
肥後橋は、土佐堀1丁目と中之島を結ぶ、四つ橋筋の橋。かつて、橋の北詰に肥後熊本藩の蔵屋敷があったことから、橋名もこれに由来するもの。なお、明治18年の淀川大洪水で流失し、明治21年に架け替えられ鉄橋となっています。 -
渡辺橋は、同じ四つ橋筋を通す肥後橋の北。
最初に架けられたのは江戸時代。堂島開発のために架けられた5つの橋である大江橋、渡辺橋、田蓑橋、堀江橋、船津橋のうちの1つ。名称は、古代大阪の渡辺津に因むとされています。 -
堂島米市場跡は、中之島から四つ橋筋を北へ行った堂島。中之島ガーデンフリツジ北東詰に碑がありました。
大阪は、全国から年貢米が集まるところ。この米会所では米の所有権を示す米切手が売買されていました。中に、帳合米取引というのがあり、今でいう先物取引だったということです。 -
そこから中之島ガーデンブリッジで土佐堀川の南に戻ります。ちょっと、一部工事中の様子でしたが、階段を登った橋はゆったりとした広い空間があって、橋の中央に松岡阜の彫刻「そよかぜ」。北詰めには、堂島米市場跡記念碑もあります。
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イチオシ
錦橋は、歩行者専用の橋。一つ下流に架かる橋が、さっきの肥後橋ですが、この橋はフェスティバルホールの正面です。
かつては可動堰で、昭和6年に設置されました。水晶橋とよく似ていて、美しい姿。橋の上はギャラリーとなっていて、かつての橋の様子を描いた錦絵のタイルが飾られています。 -
イチオシ
中之島フェスティバルタワーは、中之島に建つユニークな外観の超高層ビル。高さは198.96m、39階建て。
これは、朝日新聞社、朝日ビルディングが進めた「大阪・中之島プロジェクト」により、新朝日ビルディングとフェスティバルホールを建て替えたもので、平成24年に完成しました。外壁のレリーフ「牧神、音楽を楽しむの図」も美しいです。 -
三井住友銀行大阪本店は、大阪市北浜の住友村に建つ重厚な建物。
かつては、住友財閥の総本店として建築されたもので、住友家15代当主の住友吉左衞門友純が独自の設計事務所を組織し、5年以上の歳月をかけて完成します。
黄土色の竜山石が特徴的。工事中でしたが、玄関部分にはイオニア式オーダーが確認できました。 -
手形交換所発祥の地碑は、三井住友銀行本店東玄関前。しかし、今は、三井住友銀行本店が工事中で、碑はフェンスで囲われていて、見ることはできませんでした。
ちなみに、大阪手形交換所の開設は、明治12年。東京より8年早かったということです。 -
これもすぐそばにある帝国座跡。本来は石碑なのですが今は撤去中だそうで、金属のプレートがありました。
ちなみに、帝国座は、オッペケペ一節で知られる川上音二郎が、自らの拠点として明治43年に建築したしたもの。建物は、昭和40年くらいまであったようです。 -
少し南に下がって、大阪倶楽部は、大正13年に竣工した安井武雄設計による歴史的建物です。社交倶楽部である社団法人大阪倶楽部の会員制会館として利用されてきました。
室内楽専用のコンサートホールがあって、以前、ピアノコンサートを聞きに行ったことがあります。広さはさほどでもないのですが、奏者との一体感があって、以来、モーツアルトのピアノ協奏曲がクラシックでは私の一番のお気に入りとなりました。 -
旧中央消防署今橋出張所も近くではあるのですが、看板も何もないので、かなり見つけにくいと思います。近所の人に聞いて、何んとか見つけましたが、今はイタリア食堂になっています。
1階はもと消防車庫。2階・3階の窓はチューダーアーチ形の枠取りと2階にはバルコニー。小さいながら意匠を凝らしたデザインです。 -
御堂筋に出てきました。
御堂筋彫刻ストリートと銘打って、御堂筋沿いには約30の彫刻作品が置かれています。平成5年くらいから、少しずつ数が増えているようです。
写真は、淀井敏夫の作品。海辺の椅子でくつろぐ若い女性の姿を表したものです。 -
御堂筋に面した日本生命保険ビルの南壁面にあるのは懐徳堂旧阯碑。
ちなみに、懐徳堂は江戸時代の学校で、商人の街であった大阪の文教の中心であったといいます。享保年間に開学し、明治二年まで140年余りの歴史を誇っています。江戸時代といっても教育は盛んだったようです。封建時代でも、知りたいという欲求は普遍的なものでしょう。 -
大阪商法会議所跡も、御堂筋沿い。三菱東京UFJ銀行本店の北西角です。明治維新によって、経済の中心が東京に移っていくと大阪の経済は大きな打撃を受けます。大阪商法会議所は、その中で大阪の経済発展を願って明治11年に設立されたもの。現在の大阪商工会議所につながって行きます。
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御堂筋から東のブロックに移っていきます。
高麗橋ビルディングは、この地区に残る数少ない赤い煉瓦造建築の一つ。旧大阪教育生命保険の社屋として、明治45年に完成。煉瓦壁に白石を帯状に回すデザインや角にある玄関が特徴。現在はオペラ・ドメーヌ高麗橋のウエディング会場になっています。 -
続いての日本基督教団浪花教会の創立は、明治10年。現在の教会堂は、昭和5年に竣工したもので、アメリカ人建築家ヴォーリズの設計指導によるものです。
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イチオシ
二階が礼拝堂でしたが、派手なステンドグラス等はありません。外観のレトロな雰囲気を楽しむのがいいですね。
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外観からは何の建物だかわからない感じですが、これは大阪市立愛珠幼稚園。淀屋橋の南方、船場のオフィス街の中にあって、明治34年築という木造の建物です。
開園は明治13年で、ここはかつての銅座跡。今でも現役で、現存する幼稚園としては大阪府内では最古。日本でも2番目に古い歴史だということです。 -
銅座の跡の碑は、愛珠幼稚園前にあります。
ちなみに、 大坂での銅の鋳造は、住友財閥発展の基礎となった大坂銅吹屋で行われていました。そして、輸出用の御用銅を確保し、かつ、銅地金の流通を幕府が管理する目的で設立したのが銅座です。 -
一本北の筋に移動します。
除痘館跡は、適塾も近く。緒方ビルの壁面にプレートがありました。
この大阪の除痘館は、牛痘種痘を行う場所として、緒方洪庵が中心になって、現在の道修町に開設したもの。まさに、牛痘が初めて長崎に渡来した年でした。 -
そして、これが適塾。今になって、やっと初めてやってきた次第です。
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適塾は、蘭学者であり、医者でもある緒方洪庵が船場に開いた蘭学の私塾。大村益次郎や福澤諭吉が入門したということで、当時の英才たちが集まった塾として、抜きんでた存在だったと思います。
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建物は、当時の面影をよく残したもので、塾生が一畳ずつを割り当てられた大部屋や刀傷のある中央の柱など。けっこう生々しくてリアルな感じでした。
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もう一度、土佐堀川周辺です。
栴檀木橋は、江戸時代、土佐堀川を渡って中之島にあった蔵屋敷へ行き来するために架けられた名橋。今は、北浜から渡ると、正面は大阪公会堂です。
橋筋に栴檀の大木があったことで、この名が付いたそうです。現在の橋は、昭和60年に架け替えられたものです。 -
緑の賛歌は、渡ってすぐ。中之島公園の川のほとりですね。
彫刻は、緑豊かな文化の香り高い街づくりの推進にと、鉄鋼専門問屋の社長、浅井鉞次郎氏が昭和48年に大阪市に寄贈した作品。8mの台座に4.3mの裸婦像は、見上げるほど大きなものです。 -
三好達治の乳母車歌碑は、その傍ら。栴檀木橋の下にあります。
ちなみに、三好達治は明治生まれ。大阪出身の詩人で、乳母車は文壇にデビューした作品です。萩原朔太郎と詩誌「詩と詩論」を創刊。処女詩集「測量船」では、叙情的な作風で人気を博しました。 -
大阪公会堂も
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イチオシ
なにわ橋のライオンも、今日はとっても映えています。
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土佐堀川から、また南に戻って。
北浜レトロビルヂングは、大証の北向かい。元々は、証券の仲買業者の社屋として、明治45年に建てられたもの。英国のグラスゴー派の影響を受けたと言うのですが、分からないにしてもそれらしい雰囲気。
今は、1階が英国風ケーキと紅茶雑貨ショップ、2階が喫茶店となっています。小さいビルですが、雰囲気がありますねえ -
大阪俵物会所跡は、交差点のはす向かい側。
ちなみに、俵物というのは、ほしあわび、いりこ、ふかひれ等の海産物のこと。大阪俵物会所は、その流通の拠点だったところです。金・銀・銅などの重要な生産物の売買は幕府の厳しい統制化に置かれていたのですが、俵物もこれと同じ。重要な輸出品だったようです。 -
大阪金相場会所跡のプレートは、大阪証券取引所の正面玄関の壁面です。
金相場会所は、江戸時代の貨幣制度に起因するもの。江戸時代の貨幣は、金、銀、銭。関西は銭、関東は金という具合に流通範囲が分かれていて、相互の交換は相場があって、これにより交換が行われていたんですね。 -
そして、大阪証券取引所前に建つ大きな銅像は、五代友厚像。 平成16年、大阪証券取引所の新ビル完成に合わせて造られたもの7.6mの高さがあります。ちなみに、五代友厚は、大阪財界の重鎮。明治になって以降の大阪経済を立て直すために尽力。大阪商工会議所の前身、大阪商法会議所の初代会頭となっています。
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大阪証券取引所は、江戸時代に各藩の蔵屋敷があった大坂の米穀取引所が起源。明治に入り、五代友厚らが発起人となって大阪株式取引所を設立。大阪証券取引所につながります。そして、平成25年には、東京証券取引所と統合されています。
なお、建物の内部、ロビーの辺りまでは休日でも入れて、こんな巨大なステンドグラスも見れました。 -
イチオシ
ここから堺筋を下っていきます。
新井ビルは、大正11年、報徳銀行大阪支店として建てられた4階建ての歴史的建築物。ジョサイア・コンドルに建築を学んだ河合浩蔵の設計です。現在は、洋菓子の「五感」が入っていて、店に入ると高い天井のレトロな建築美を味わえます。 -
で、その五感は、大阪の北の方にあったお菓子屋さんなのですが、ほぼ10年前に阪急梅田にお店を出してから、急に名前が知られるようになった店。ちょっと前だと、無名でしたけどね。
この堺筋にあるレトロビル、新井ビルに入ったお店も豪華な構え。お店に入るだけで、うっとりしてしまう夢の国のような雰囲気です。
ちなみに、私のお勧めは、この店との出会いの商品「収穫栗・収穫芋」。素材のうまさを超活かした味わい。あなたはこれまでどんなおいしい栗や芋を食べましたかと問われているような、自分の感性を試されている気持ちになります。 -
さらに下って、高麗橋野村ビルは、昭和2年、野村財閥の持株会社である野村合名が建てた最初の貸ビルとして有名。
大阪瓦斯ビルディングも設計し、昭和初期のモダニズム建築を代表する建築である安井武雄の設計。戦前は地上は5階までだったところ、戦後に6・7階を増築したもの。オリエンタル調の装飾が印象的です。 -
旧小西家住宅は、道修町の堺筋沿い。明治後期に建てられた和風の商家。薬の製造販売を行う小西屋の屋敷兼社屋として建てられました。315坪の敷地に建つ堂々とした外観で、一度見ると目に焼きついてしまうくらいインパクトがあります。なお、かつてはさらに三階建てだったようですが、関東大震災を機に、地震への備えとして撤去されたということです。
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この堺筋は、北浜から南に下がる大通り。御堂筋が大阪のメインストリートと思われていますが、かつては、この堺筋がメインストリート。三越がこの筋にあるのもそうした背景です。
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少彦名神社は、薬問屋の街、道修町の一角。ビルの脇を通った先が境内です。
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そして、神社は、薬の神として健康増進、交易の神として商売繁盛が言われていて、願い事を書いた絵馬もたくさん奉納されていました。地元に根付いた神社です。
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ここからさらに、どんどんチェックしていきますよ〜
伏見ビルは、大正12年に建てられ、元々はホテルとして使われていた歴史的建造物。伏見町にあるので伏見ビルだと思いますが、当初は澤野ビルヂングだったとか。
現在はテナントビルで、一階にはレストランが入っていました。国の登録有形文化財です。 -
青山ビルは、大正10年に個人の邸宅として、スパニッシュスタイルで造られた歴史的建造物。全面が蔦で覆われるというインパクトある外観ですが、この蔦は、甲子園球場から株分けされたというもの。
一階は渋谷珈琲。外から窺うしかありませんでしたが、裏庭もあって、内部は大正時代のイタリア製ステンドグラスやガラス窓が残されているようです。 -
生駒ビルヂングは、生駒時計店のビルとして、昭和5年の建てられた歴史的建造物。大阪建築界の重鎮、宗兵蔵(そう ひょうぞう)の事務所による設計で、スクラッチタイル張りのアール・デコスタイルです。
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下から見上げるとバルコニーと壁面の、豪華さを演出したデザインがよく分かります。 -
堺筋から東に移動して。。
平野橋は、東横堀川に架かる橋。大坂城築城から間もないころに架けられたと言われます。
大塩平八郎の乱では、乱を起こし大坂城方面へ向かった際、この平野橋を渡り、東詰の内平野町で奉行所の兵と戦闘となりました。今は、上を高速道路が走って、情緒はあまりないかもしれません。 -
下ると大手橋。思案橋とも呼ばれる橋は、橋の西詰がT字路になっていて、北の淡路町か南の瓦町かどちらに行くか迷うような構造ったためとも。江戸時代から架かっていた橋ですが、大手橋の名称は、大正以降。大正15年に近代橋として再建され、三径間のコンクリートアーチ橋となりました。
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本町通りのあたりまで下ってきました。
井原西鶴文学碑は、シティプラザ大阪の隣り。雑草が生え放題の緑地帯の中にありました。碑には、井原西鶴作の浮世草子「日本永代蔵」の一説。金持ちはいかにして金持ちになったか、町民の生活の心得を飾らずに描いた作品です。 -
隣ですが、
「天野屋利兵衛は男でござる」
赤穂義士の討ち入りに協力し、武器を取り揃えたとされる人物。大量の武器を鍛冶屋に発注したため、鍛冶屋が奉行所に密告。利兵衛は捕えられ、理由を吟味された時の啖呵です。ただ、実在の人物かどうかは疑問とされているようです。 -
本町橋は、東横堀川に架かる本町通の橋。大正2年に架けられ、大阪市内では現役最古の橋です。
大阪市電の敷設による道路拡張にあわせて鉄橋に架け替えられたもので、三径間の2ヒンジアーチ橋。橋脚には石柱を模した飾りがりが付き、上部はバルコニーとなっています。 -
そばには、こうやってシティプラザ大阪がそびえています。
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松屋町筋まででて、
宇野薬局は、一見すると何の変哲もないただの薬屋さんなのですが、背後の建物を見るとれっきとしたレトロ建築。昭和9年に建てられたというタイル貼りの3階建て建物です。小さなベランダがあったり、スペイン瓦だったり、それなりに手が込んだ造りです。 -
稲畑勝太郎君寿像は、大阪商工会議所の前。初代会頭の五代友厚、7代会頭の土居通夫と並んで立っています。それぞれ見上げるような大きな像です。
ちなみに、稲畑勝太郎は、明治10年生まれで10代会頭。染色技術を学び、稲畑染料店を創立するとともに、会頭として大阪の経済発展に尽くしました。明治になって、東京への一極集中が進む中での奮闘であったことと思います。 -
さて、気が付くとお昼時ですね。
Dining cafe Gardenで昼食をいただきました。にぎわっていたので入ってみたのですが、お客は私以外はすべて女性だったような。こんなに大勢のお客さんなのに、私だけってちょっと驚き。女性の人気の凄さに、男なら気おされてしまうのかもしれません。 -
イチオシ
ご飯もかなり小盛り。チキンも脂身が少ないタイプで、確かにかなり女性にフォーカスした内容だと思いました。
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再び街歩き開始。
ちなみに、松屋町筋は、西側を走る堺筋と並んで大阪市を北に向かう通り。天王寺区天王寺公園北口から天神橋交叉点までの約4.1kmです。
雛人形や五月人形などの問屋が多い「まっちゃまち」が知られています。写真は中央大通りと交差する農人橋付近です。 -
で、この農人橋っていくのは、単なる地名ですよね。近くの人に農人橋という橋はありますかと聞いても「さあ?」という答え。やっぱり、橋はないんだろうなと思ったら、高架道路に隠れるようにありました。
摂津名所図会には、「いにしへより農民が田畑へ往き通ふための橋」と記載されているようです。 -
この近くある名物ビルが明治屋ビル。本町通りから一本北の通りです。適当に探していたのですが、角に立つ大きなビルで、レトロな雰囲気が目立っていました。一階にはローソンが入っています。
大正13年の築。当初は、横浜で創業した日本初の輸入食品・洋酒類の専門店、明治屋ストアーが入っていたということです。 -
この船場センタービルは、1号館から10号館までが続く長いビル。地下一階から一・二階には小さな卸の商店が軒を並べて、壮観です。これだけの数の店がしのぎを削っているので競争は厳しいのだと思いますが、それを潜り抜けてきた店ばかりだと思えば、ちょっと感慨深いものもある。オーダーワイシャツを買ったことがありますが、生地の選び方とかを細かく教えてもらいました。もちが良くて、もう何年もたつのですが、何の問題もなく着ております。
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ここから、地下鉄で移動。本町通りの西の方です。
川口居留地は、1868年の大阪開港と同時に設けられた外国人居留地。小学校の敷地の一角に碑がありました。
安政五カ国条約(1858年)で、大阪港の開港は決められていたのですが、天皇のいる京都に近いことから、引き延ばされていたもの。大阪初の洋食店、中華料理店、カフェができた先進地となりますが、港は底が浅く大型船が入りにくかったために、貿易港としての発展はできなかったようです。新潟と事情が似てますね。 -
大坂船手会所跡も、旧川口居留地のエリア。道路端の植え込みの中に碑があります。
ちなみに、大坂船手は、大阪湾から木津川や淀川に出入りする船を管理していた江戸幕府の役職のこと。船手会所は、配下に船番所を持ち、ここでその業務を行いました。 -
木津川橋は、慶応4年(1868年)、大阪港の開港に伴い開設された外国人居留地のある川口地区と対岸の江之子島地区を結ぶ橋として架けられたもの。浪速の名橋50選の一つですが、比較的歴史は浅いかもしれません。
居留地の関係もあって、バタ臭いデザインが頭に置かれたのでしょうか。親柱のデザイン(写真)がおしゃれでした。 -
川口エリアでは、川口基督教会も外せません。この建物は、幕末(1868年)に開港された大阪港の居留地である川口地区に建てられた教会。始まりは、米国聖公会宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教です。
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現在の建物は大正9年のもの。ヴィクトリアン・ゴシック様式という外観も趣がありますが、内部のステンドグラスも素晴らしい。花や植物をモチーフにした絵画的なデザインで、鮮やかな色使いが斬新です。それは写真にとれなかったのですが、これは後方にあったステンドグラス。こちらはシンプルな図案で、後世のものだと思います。
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土佐堀川から南に分岐した木津川は、まずこの昭和橋を越えて流れて行きます。橋は、長さ82.8mの堂々としたアーチ橋。ライトブルーの色も美しいです。昭和7年に土佐堀通りの橋として建設され、かつては、大阪市電の路線としても使用されたようです。
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これもすぐにある端建蔵橋は、かつての居留地だった川口地区と中の島の西端を結ぶ橋。現在の橋は、大正10年に架けられたもの。長さは、111.95m。橋に沿っては水道管が通っていて、景観としては、アーチ橋のように見えて橋と一体になっています。
なお、土佐堀川は直前で南に木津川を分岐し、安治川となります。かつて、中之島には蔵屋敷が建ち並んでいたのが、端建蔵のゆえんです。 -
「泥の河」文学碑は、平成23年6月に建立された、比較的新しい碑。
周囲には何もないちょっとさみしげな一角にポツンとあるのですが、この辺りは、泥の河の作者、宮本輝が幼いころ住んで、泥の河の舞台となった場所でもあるということ。ちなみに、泥の河は太宰治賞を受賞した作品。昭和30年の大阪。社会の底辺で暮らす人々を描きました。 -
よつばし筋まで戻ってきました。御堂筋ももうすぐですね。
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靱公園は、御堂筋のオフィス街からも近くて、都会のオアシス的な公園。
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イチオシ
写真は、噴水のあるエリア。子供が裸になって、思い切り水遊びを楽しんでいました。これは本当に楽しげです。
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大阪科学技術館も、靭公園の一角にあって、親子連れで、けっこう賑わっていました。
展示は、宇宙開発や光ファーバーとか、風力や太陽光などの再生可能エネルギーなど。現代の生活は、科学技術によって支えられていますから、そういう意味では、新しい技術も古い技術もなんでもござれという感じでしょう。なお、施設は無料です。 -
御霊神社は、もう御堂筋に入口があります。こんなところにこんな大きな神社があったかなあという感じです。
神社は旧摂津国津村郷の産土神。赤い鳥居に、赤い本殿が印象的。豊臣秀吉の大坂城築城とともに栄えた大坂にあって、諸大名が参集し、賑わったとも言われます。 -
もう一度、御堂筋と堺筋の間のエリアに入ってきました。
清水猛商店は、比較的小さな建物ですが、見るからにレトロ調。
大正13年築という建物の正面デザインは、赤いレンガ積がガッチリした印象の下方部と茶褐色の壁面と縦に細い飾り窓が軽快な鉄筋コンクリート造りの上方部が組み合わさったもの。スペイン風の洋瓦がこれらをまとめていて、面白い味わいがあると思います。 -
旧板谷歯科医院は、大正末期か昭和初期の建築。全体としては、鉄筋コンクリート造りなのですが、壁面に石材を使ったり、最上部から一部はレンガ風のタイルを使ったりしていて、ちょっと変化を持たせたデザイン。丈夫そうな外観の中にも個性を主張する美しさ。そのバランスがこの時代の特徴でしょう。
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イチオシ
船場ビルディングは、地上4階建の住宅兼事務所ビル。大正14年竣工のレトロビルです。
外観はタイル張で、薄茶色の柱部分の重厚さを演出している一方で、その間にある白い部分が美しさを強調しているように思えます。
外からは分かりませんが、内部中央に中庭を持つ構造のようです。 -
綿業会館は、繊維の街、船場を象徴する歴史的建物。昭和5年に、日本綿業倶楽部の施設として建設されたものです。
国の重要文化財であり、近代化産業遺産ともなっているルネサンス風の建物は、二つの通りに面していて、どちらから眺めても堂々としています。大阪大空襲でもほとんど無傷だったということですが、これも丈夫さの証でしょう。 -
小川香料ビルは、平野町にある昭和5年に建てられたレトロビル。間口の狭い小さなビルですが、全体はアールデコ様式だとか。一階部分は石材、二階以上はタイル張りと変化をつけているほか、2〜4階のそれぞれに窓のひさしが横一杯の幅で取り付けられています。美しさとしては微妙だと思いますが、ビルの特徴とはなっているでしょう。
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江戸時代、大阪の街は町衆の自治がそれなりに認められていて、大坂三郷と言われる、
北組、南組、天満組の3つの町組があり、それぞれ長にあたる惣年寄、惣代が置かれます。北組惣会所は、北組250の町をまとめていたということです。ちょっとした市役所のようなものでしょう。 -
これも以前からとても気になっていた湯木美術館です。ここは、日本料理店「吉兆」の創業者、湯木貞一が収集した茶の湯のコレクションを展示する美術館。こじんまりした広さですが、ゆっくり鑑賞するにはこれくらいが程よいかもしれません。
企画展は、「大名たちの茶道具コレクション」小堀遠州と不昧の蔵帳から?と銘打ち、小堀遠州が収集した「遠州蔵帳」から「瀬戸肩衝茶入 銘飛鳥川」など。松平不昧の収集した「雲州蔵帳」から「丹波耳付茶入 銘生野」「本阿弥空中作 信楽芋頭水指」など。
江戸期の文化は、町人文化にその特徴があると言われるように、武家の文化は、一般的にあまり評価は高くないように思いますが、利休の後継者である小堀遠州とともに、松平不昧も別格。むしろ、支配階級であったために、影響力も大きかったのだと思います。
ところで、小堀遠州お菩提寺、孤篷庵の再建は、松平不昧が援助したりもしていて、二人の関係を考えながらの鑑賞もまた一興ではないかと思います。 -
北海道かごしま館は、御堂筋沿い。北海道と鹿児島県のアンテナショップなのですが、よく見るとそれ以外の関東のものやあちこちの商品もあります。話を聞いてみると、最初は、北海道と鹿児島限定だったものが、だんだんと北海道から鹿児島までみたいなことになってきていて、対象が広がってしまったんだそうです。たぶん、お客の方からの希望もあったのでしょう。お疲れ様です。
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イチオシ
御堂筋を下って。又一ビルディングの壁面装飾は、ルネッサンス様式のデザインで、土を素焼きしたテラコッタ製。レトロビルの点在するこの地区にあっても破格の華麗さでしょう。
昭和8年に南御堂難波別院によって建てられた大谷仏教会館のエントランス部分を復元し、外壁に保存したものだそうです。 -
御堂筋から少し東側。丼池は、「どぶいけ」と読みます。このどぶいけストリートは、心斎橋筋の東隣を南北に伸びる筋。繊維問屋街にあって、大阪で最初にアーケードが出来たの場所だということですが、今は撤去されて、現在は丼池ストリートの名前が残ります。
ただ、幟は立っていても休日なのに閉まっている店がほとんど。たぶん、問屋さんなので、休日はお休みなんでしょう。観光客相手の商売はしていない街だと推察しました。 -
心斎橋筋商店街に出て。
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三木楽器開成館は、その心斎橋筋商店街の中。表から見ると普通のお店なんですが、横から見ると、これはレトロ建物。国の登録有形文化財なんですね。大正14年に、ドイツの著名なピアノ製作の会社をモデルにデザインして、建てられたのだそうです。
なお、三木楽器自体、創業は文政8年(1825年)。日本最古の楽器店と言われています。 -
真宗大谷派難波別院は、通称、南御堂。この南御堂と浄土真宗本願寺派の本願寺津村別院である北御堂とを結ぶ道が、大阪のメインストリート御堂筋です。
ちなみに、南御堂の前身は、大谷本願寺。慶長7年(1602年)に、東本願寺として移転され、こちらは難波別院となりました。 -
芭蕉終焉地碑は、南御堂の前の緑地帯の中。近くのお店の人に聞いても誰も知らない。南御堂の人に聞いて、やっと発見しました。これは、本当によっぽどじゃないと気が付かないです。
ちなみに、芭蕉が亡くなったのは、花屋仁右衛門方の離れ座敷。51歳でした。 -
坐摩神社は、御堂筋から南御堂の裏の方に入ったところなんですが、南御堂の敷地が広いのでちょっと分かりにくいかもしれません。
入口の鳥居が独特で、これは三ツ鳥居。鳥居が三つ組み合わさったような形です。
なお、神社は神功皇后の創建。住吉大社と同じく摂津国一宮を称し、万葉集にも詠まれた歌があるのだとか。
建物はほとんどが鉄筋コンクリートですが、境内の雰囲気はどことなく歴史が感じられる気配が漂っていました。 -
難波神社は、御堂筋に面した大きな神社。南御堂の並びです。
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創建は反正天皇。当初は松原市にあったようです。主祭神は仁徳天皇で、摂津国総社。先の大戦で空襲により全焼。現在の建物は、昭和49年に再建されたものです。
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稲荷社文楽座跡の碑は、難波神社の入口脇。
ちなみに、文楽は人形浄瑠璃の代名詞。人形浄瑠璃には、竹本や豊竹といった座がありましたが、その後再び人気を博したのが植村文楽軒。二代目文楽軒の時に、ここで小屋を構えたということです。 -
橋本宗吉絲漢堂跡は、心斎橋の繁華街の一角。こんなところでは、誰も目に止める人はいないでしょう。
ちなみに、橋本宗吉は北堀江に生まれた蘭学の走りのような人。橋本宗吉が開いた絲漢堂は蘭学塾で、ここだけではないにせよ、その後の緒方洪庵や福沢諭吉の私塾もこの流れに続くものと考えると、足跡は小さくないと思います。 -
ここからクリスタ長堀へ。南船場にある長堀通の地下街です。単独地下街としては、面積日本一だということですが、単体でポツンとあって、ここから接続した地下街はないので、実際にはそうは感じません。
近くのそごうがおかしくなる時期にオープンしてどうなるかと思いましたが、何んとかもっていますね。この雰囲気は、最近、福岡の天神に出来た地下街も似ていて、ここが原型になっているような気もします。 -
大丸心斎橋本店の現在の建物は、大正11年の1期から、大正14年の2期、昭和8年の3期と3期の工事で造られたもの。設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ。アール・デコの近代建築は、重厚さとともに白い壁の高層部と細かい装飾が華やかさを演出しています。
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アメリカ村は、島之内の御堂筋以西。御津公園を中心としたエリア。若者が集まる街として注目されたのはそう昔のことではないのですが、一方であまり治安もよくなくて、あまりいい印象はありませんでした。しかし、今回久しぶりに歩いてみると、賑やかさも一段とすごくなっているし、ファッショナブルで明るい雰囲気。これは、原宿とかにも負けてないかも。魅力的な街に成長したと思います。
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BIG STEPは、そのアメリカ村の中心。建物全体がステージを囲むような構造で、ステージではいろんなイベントがしきりに行われている場所です。この日は、イベントではなく、モデルの撮影をやっていました。髪を緑や赤に染めたモデルさんで、雑誌の表紙にでも使うんでしょうか。係の人が写真は撮らないようにと一生懸命防いでいましたが、この辺りはそんなことでひるむような若者たちではない。一緒になって楽しんでいる様子もアメリカ村らしい光景だと思いました。
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アメリカ村の通りには街路灯があるのですが、時々、色彩豊かなアートな街路灯が混じっています。ただ、アメリカ村は、壁面にアートな絵が描いてあったり、お店の雰囲気も芸術的なものが多いので、浮いた感じはしないです。気が付くと、写真を撮ったりしている人もいます。
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御津公園も、アメリカ村の中。大きな公園ではありませんが、アメリカ村をぶらぶらしたら、ちょっとここに来てみるといった感じの場所らしく、大勢の人が集まっていました。
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ちょっと窪地のようになったステージでは、ジャズのライブが行われていて、大人の雰囲気がとてもおしゃれでした。
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アメリカ村の中にあって、長〜く伸びたソフトクリームの看板が目について、思わず入ってしまいました。
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生アイスコーンというんですか。ソフトクリームよりシャキシャキした食感も残っていて、自然な感じがすごいですね。店内にその自然にこだわる社訓のようなものが飾ってあって、それを眺めながらいただきました。宣伝と言えば宣伝ですが、食べているものがどんな思いで作られたものなのか。それを知って食べるというのは悪いことではないでしょう。
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アメリカ村の中心部から御堂筋に出る途中。賑やかな街の一角に小さな神社がありまして、それが御津宮。起源は奈良時代のよう。アメリカ村では場違いなような気がしないではなかったのですが、この神社にお参りしている人もポツポツいて、それなりに街に馴染んでいるようです。
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三津寺は、地元では「みってらさん」。そして、この寺の前の通りは、みってら筋。飲み屋さんも多い心斎橋の繁華街の中心です。
寺は、天平16年(744年)、聖武天皇の勅命により行基が創建したもの。現在は、真言宗御室派の準別格本山です。
夕方5時過ぎで、門は閉まっていましたが、聞くと、夜遅くても開いてるんですけどねえとの話。曜日か何かの関係なのでしょうか。よく分かりません。 -
道頓堀は、グリコの看板があるところなんですが、道頓堀橋ってなんだったっけ?御堂筋線が道頓堀川を越えていく橋なんですね。道頓堀の橋と言えば、戎橋なので、道頓堀を越える観光客は戎橋を渡る人がほとんどだと思います。
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ただ、道頓堀橋からはその戎橋の賑わいがすぐ向かいに見えるので、それが利点かもしれません。
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宗右衛門町は、道頓堀川の北岸の歓楽街。大阪はキタとミナミが二大歓楽街ですが、ミナミの中心はこの宗右衛門町です。ただ、キタと違うのは、観光客も多いこと。キタでは、カメラを提げている観光客なんかいませんが、こちらは大勢いて、昼間は観光スポットとしても賑やかです。
なお、地名は、道頓堀川開削に関わった人物の一人、山口屋宗右衛門の名前に由来するもの。歌謡曲「宗右衛門町ブルース」でも、有名です。 -
ところで、グリコの看板は綾瀬はるかバージョンになってました。
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ここから道頓堀の橋をチェックします。
新戎橋の南詰めに、出世地蔵尊がありました。この辺りも、それなりの繁華街なのですが、宗右衛門町と比べると、ちょっと場末な感じがしなくもない。一方で、この地蔵尊は、使われている石の囲いもピカピカで、よく整備されています。きちんとしていないと出世運も逃げていくということなんでしょうかね。 -
道頓堀川には、たくさんの橋が架かっていて、御堂筋の道頓堀橋から、川下に歩いて確かめます。深里橋は、道頓堀橋から下流に向かって歩いて四ツ橋筋に出たところ。昭和5年に建てられた大きな橋です。もうこの辺りは、西横堀川。橋のたもとには、オープンテラスのちょっとした食堂もあって、この辺りまでは賑やかです。
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さらに、道頓堀川を下流へ。住吉橋は、四ツ橋筋を過ぎてさらに下流に向かって、一つ目の橋。ただ、この辺りから、正直、途端にさみしくなってきます。橋を渡る人影もまばらだし、辺りの景観も下町のごみごみした感じ。これも風情と言えば、風情なんでしょうか。。
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道頓堀川からは、西横堀川に続きます。四ツ橋筋を越えて住吉橋。その次が西道頓堀橋です。橋自体は小さな橋なんですが、なにわ筋を通しているのでそこそこ交通量はあります。昭和34年に造られたようですが、しかし、見た感じはけっこうおんぼろ橋です。
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四ツ橋筋を越えて住吉橋、西道頓堀橋と進んで、その次が幸橋です。だんだんとさみしくなるんですが、この橋は、中でも一番小さいので、よけいさみしい感じ。
ただ、歴史は元禄まで遡るよう。南北堀江の開発の際、住吉橋、汐見橋、日吉橋と並んで、この幸橋も加えた4つの橋が架けられました。 -
その次が幸西橋。あみだ池筋を通します。
名前からすると幸橋の西側にある橋ということなんでしょう。歴史も比較的新しく、大正8年の開通。
一方、橋自体は両方向に二車線の広い通りを通しているので小さくはないのですが、交通量がほとんどない感じ。広い分、余計閑散としている感じでした。まあ、それだけです。 -
汐見橋は、新なにわ筋を通す橋。
歴史は古く、元禄11年(1698年)。南北堀江の開発の際、住吉橋、幸橋、汐見橋、日吉橋の4橋が架けられました。
現在の橋は、昭和39年のもの。正直、風情はあまりありません。
さて、これで西行きは終了。橋の南詰めに、千日前線桜川駅、阪神線汐見橋駅があって、ここで日本橋まで引き返します。 -
日本橋駅まで戻って。
日本橋は、道頓堀川に架かる堺筋を通す橋。しかし、東京の日本橋と違って、目立たない橋。堺筋が一直線に走っているので、言われれば、ここは橋だなというだけでしょう。
地域としての日本橋は、秋葉原と並ぶ電気街と言われていますが、有名な黒門市場もここになります。 -
安井道頓 道ト紀功碑は、日本橋から堺筋を少し北に歩いたところ。意外に大きな碑ですが、道頓堀川の開削400周年を契機に、最近、補修をされたばかりのようです。
それにしても、道頓は道頓堀を開削した人ですが、やたら有名人。道頓堀が大阪の代名詞のようになったので、そういう意味で大阪への功績が大きいということかもしれません。 -
法案寺は、「日本橋の聖天さん」。聖天さんというのは、歓喜天のことですね。赤い竜宮城のような門構えが印象的です。
始まりは、聖徳太子の建立。大阪市城東区鴫野だったようですが、何度かの移転を経て、現在の地に移りました。
なお、境内の弁財天は「大阪七福神」の一つでもあります。 -
イチオシ
日が暮れてきました。道頓堀の夕焼けもきれいですね。
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船の電飾も独特。
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通りもチェックして、京都の宿に向かいます。
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でも、淡路で途中下車。
松屋は牛丼の松屋じゃなくて、立ち食いうどん屋さん。 -
淡路駅から商店街に入ってすぐにある元気のいいお店です。地元の常連さんで成り立っているのでしょうが、うどんを食べている傍らに自転車に乗ったおいちゃんが来て、「中華丼くれや」とかちょっかいを出していく。「あんたにはない」とか店のおばちゃんの掛け合いもほのぼのして、大阪らしいざっくばらんなお店です。
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リタ麦の花は、淡路駅を出てすぐの商店街の中にあるパン屋さん。特に何もない普通のパン屋さんです。フランクウインナーの入ったパンを明日の朝食に買いました。
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そうしたら、このパンのふんわり、適度な粘り具合がとってもいい。全然期待なんかしていなかったのに、見事に期待を裏切られました。これはさりげなくいいお店です。
以上、二日目も無事終了。明日は、淀・八幡を回ります。
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