2019/09/15 - 2019/09/15
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鶴岡八幡宮例大祭は、毎年9月14日から16日までの3日間。今回は、15日の神幸祭を拝見しました。神輿3基を中心に、宮司以下神職、錦旗、神馬、ちょうちん、太鼓、盾、弓矢といった祭り行列が若宮大路を進みます。ただ、予想に反して案外静かに行進するだけなので、観光客を楽しませるパーフォーマンスを期待しているとそれはちょっと違うような。あくまで伝統ある神事なので、その厳かな空気を感じることが要点なのかな。つまり、鎌倉まつりのように観光のための祭りではないように思います。
ところで、ここで鶴岡八幡宮について。。鶴岡八幡といえばイコール源頼朝みたいなイメージですが、もともとは、康平6年(1063年)源頼義が奥州を平定して鎌倉に帰り、源氏の氏神である京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたことが始まり。それを源氏の再興を果たした源頼朝が現在の地に移し、鎌倉の町づくりの中心としたわけです。
そして、頼朝が鎌倉幕府を開いたことで武家の世の中が始まったとされるのですが、武家とか武士といっても、鎌倉がその源流というのは私の中ではちょっとミスマッチ。とうのも、例えば、今でいうところのサムライ・スピリットを鎌倉武士に感じるかといえばはっきり言ってノーでしょう。鎌倉武士の価値観は「御恩と奉公」。つまり、合理的な持ちつ持たれつ。御恩を受けることがあって初めての奉公なんですよね。で、御恩とは何かといえば、それは「一所懸命」に象徴される所領の安堵。一方、平安時代から鎌倉時代であっても大きく言えば建前は律令体制。土地は国家のものであり、荘園もそれを前提としたもの。武士が自ら開墾した土地でさえ、法的な所有権ははっきりしていませんでした。時代を遡ること939年(天慶2年)に起きた平将門の乱も、視点を変えればそうした鬱積を表わしているのではないかと思います。それに対し、鎌倉幕府は京都の朝廷の権威に対抗して、はっきりと所領安堵の保証人となってくれたんですね。しかし、所領安堵は利害がぶつかるし、利権を求めて、行きつく先は権謀術数の世界。源氏の将軍はお飾りになって、執権北条氏の私的な権力が膨らみ続けるという構図でしょう。北条政子が、なぜあれだけ愛していた頼朝の血統を絶やしてしまったのかは不思議といえば不思議ですが、承久の変を勝利に導き、鎌倉幕府の支配を西国まで広げたことはもしかしたら頼朝に匹敵するくらいの功績です。
室町の足利氏の時代だと守護を始めとする個々の武士団の内部には手を突っ込まずに上に立つ権威ある棟梁という立場。それが崩れて、戦国時代となり、最後は信長・秀吉による天下の統一です。
その流れの中で武士道という倫理観を伴った考え方が生まれてくるのですが、はっきりとした倫理観が伴うのはたぶん江戸時代になってからくらい。つまり、戦場での戦さという仕事がなくなってから。むしろ、そこから武士とは何なのかという思考が深まったのではないかと思います。忠臣蔵に見られるようなソロバンを抜きにした忠義・忠君や武士としての矜持の世界は、鎌倉の武士の考え方とは明らかに異次元です。なので、あんまり、鎌倉→武家の社会の始まり→日本のサムライスピリットの原点みたいな短絡的な思考は、やめた方がいいのかなと思います。
あと、これは蛇足ですが、日本では江戸時代の幕藩体制に行きついたことで象徴されるように徹底的に地方分権が沁みこむ。藩ごとに治外法権があって、交流も制限される。こうした歴史は、中国の威を借りての中央集権を構築した朝鮮とは決定的に違います。落下傘部隊で派遣されて地元愛のない両班(ヤンパン)であれば、権力を使って官職にある間だけは容赦のない収奪をするというのも分からないではない。地に足を付ける日本なら、こうしたことは決して起こりようのないことではないかと思います。
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例大祭まではまで時間があるので、その前に、江の島を散策します。もう何度も来ている江の島ですが、そろそろマイナースポットを整理しておく時期かなと思った次第です。
江の島 北緑地広場は、江の島に渡って、すぐ左手の海岸に向かって下って行ったところ。たぶん、江の島を訪れた皆さんは江ノ島神社の方に心が向いているので、あんまり観光客は来ない場所かと思います。 -
公園の中心には、弁財天と世界女性群像噴水池があって、これが見どころ。
これは、1964年の東京オリンピック記念として作られたもの。噴水内には5体の像があって、中央が弁財天。周りには、法隆寺の百済観音、ギリシアの古代女性像などが囲んでいます。ただ、周囲はちょっと草生したり。もう少し整備されるといいですけどね。 -
その奥にあるのがモース記念碑。周囲には草がけっこう茂っていて、分かりにくいですね。
ちなみに、エドワード・S・モース博士は大森貝塚の発見者として知られますが、明治10年(1877)に江の島に東洋初の臨海実験所を開設。ここで多くの海洋生物を研究したということです。 -
さて、ここから改めて江ノ島神社の方に向かいます。
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鳥居をくぐって、江の島神社に向かう緩やかな上りの商店街。その中ほどにあるのが江ノ島郵便局。その郵便局自体はどうということはないのですが、その入り口に建つ黒い郵便ポストが明治時代の郵便差出箱を再現したものなのだとか。ただ、観光地江の島にあっては、目につかない人も多いかもしれません。
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そこから、左手にちょっと迂回するように上がったところが児玉神社。この神社は、日露戦争で活躍した軍人、児玉源太郎を祀った神社です。
日露開戦間際の頃、参謀次長であった児玉は、江ノ島の山中に閉じ籠もり、世界の諸情勢を案じていたとのこと。児玉の没後、それを徳とした町民が児玉の静養の地を買って、その其霊を祀ったのが始まりです。
ちなみに、児玉は山口県徳山の出身。今でも地元ではヒーローの扱い。熱い思いは今でも受け継がれていて、とても印象に残りました。
これは参考まで:https://4travel.jp/travelogue/11156690 -
児玉神社の鳥居を入ってすぐのスペース脇に立つのが山県有朋の歌碑。日露戦争で児玉の上司であった山縣有朋が児玉源太郎の逝去を悼んで詠んだ和歌「越えはまた里やあらむと頼みてし 杖さへ折れぬ老いの坂道」を刻みます。脇に解説がありますが、石碑の方はちょっと古びて字は読めません。
山縣有朋は、長州軍閥のドン。高杉晋作が功山寺の挙兵をした時、あの奇兵隊を預かっていたのは山縣。晋作の挙兵は無謀とみていて、渋々兵をあげたこととか私としてはあまりいい印象ではないですね。なんか情だけでは動かない冷めた人物のようにも思えますが、しかし、第一軍の司令官として出征した日清戦争では独断で鴨緑江を渡り、満州への侵入を行うなど激しい面も目立つ。まあ、高杉晋作と比べるのが酷ということだけなのかもしれませんが。 -
境内には、ほかにも児玉源太郎ゆかりの人物の歌碑がいくつかあって、謝介石詩碑はもうすぐ本殿という場所。児玉源太郎は、台湾総督でもありました。
碑文は「伏鉞登壇衆所尊功成百戦得雄藩大賢自著多聞政 神鴉社鼓江之嶋矍相當時盖僅存奉題」。台湾人の謝介石は、満州国初代外交部総長を務め、満州国の台湾人で最高官職に就任した人物。児玉源太郎をとても尊敬していたようです。 -
その並びに後藤新平の詩碑も。 後藤新平は、台湾総督児玉源太郎に抜擢されて民政長官に就任し、台湾統治を実質的に委ねられた人物。
碑文は「森嚴羽衛老將軍。功烈眞兼武與文。造次不離忠孝旨。于花于月又思君。」何となくですが、児玉源太郎を高く讃える内容なのかなと思います。 -
その隣は、石黒忠悳の歌碑。
石黒忠悳といっても、誰なんだろうくらいですが、明治時代の日本陸軍軍医。日本赤十字社社長となり、草創期の軍医制度を確立した人物のようです。児玉源太郎の文武の功績は千年先まで伝えられるであろうと絶賛しています。 -
その並びの一番奥が爾霊山高地の石塊。
小さなものですが、これは、昭和10年、横須賀鎮守府が寄贈したもの。爾霊山高地というのは、日露戦争の激戦地203高地の当て字。乃木希典の漢詩です。
乃木は、203高地で正面突撃を繰り返し多くの兵士を死なせてしまいますが、このことが後の明治天皇の殉死につながっているとも言われます。満州軍総参謀長だった児玉はその膠着した戦況に最新の大砲を投入することで活路を開く。203高地を巡る乃木と児玉。明確な戦果を挙げたのは合理的な思考をした児玉なのですが、精神的な面からした人間的な評価は乃木の方が圧倒的。もしかしたら、その後の帝国陸軍の考え方にも微妙な影響を与えたかもしれません。 -
この先が本殿。
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手前に立つこの台湾の有志から贈られた、口の中の玉が回る狛犬も有名。けっこう複雑な形をしているので、目が留まると思います。
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日露戦争の世界から、江島神社 瑞心門の方に戻ってきました。ここから改めて奥を目指します。
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蟇石と無熱池は、その瑞心門に上っていく石段の左手。
鶴岡八幡宮の供僧で慈悲上人と呼ばれた良真が江の島で修業していると蟇(がま)がその邪魔をした。しかし、良真の法力念力によって蟇は石とされてしまったという伝説の石。崖の上にある自然石なんですが、何かの形に例えたくなるような感じではある。無熱池の方もインドに伝わる伝説の池です。 -
福石は、瑞心門から先の石段を上がり切ったところ。
江戸時代のこと。幼くして失明した杉山和一という鍼医が江の島弁財天の祠へ詣でた際、この福石につまずいて倒れてしまう。しかし、その際、偶然に拾った木の葉に包まれた松葉が手に触れたことで、杉山式管鍼術を考案したことで、将軍徳川綱吉の病気を治し、関東総検校にまで出世したという石。一角は神域みたいに縄で囲まれています。 -
そして、辺津宮。田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)を祀る社で、三つの主要な社では一番下手にあるので、別名は下之宮です。
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その少し奥が銭洗白龍王という金運向上のパワースポット。
池の中の傍らに弁財天の神使いである白い龍。ここで銭を洗うと金運向上、財宝福徳のようですが、鎌倉の銭洗弁財天のパクリのような気がしないでもないかな。 -
そのまた先は、むすびの樹。二股に分かれた御神木の大銀杏がもともとで、地中の根は一つなので一つに結ばれるいう恋愛成就の樹。今は周囲に赤い色の絵馬がびっしりと掛けられています。
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今度は、中津宮に向かって。手前にあるのは不老門再建の碑。石段を上がってすぐのところです。
鎌倉時代の後期とかここに竜宮城の門と同様な楼門があり、当時はこの門をくぐることが江ノ島参詣の魅力でもあったとか。そして、幕末に岡部政右衛門なる人物が独力で再建したこともあったようですが。明治6年に取り除かれたということです。今はその歴史を記す碑が立っているだけです。 -
そして、中津宮。市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)を祀ります。
こちらは、何んといってもその鮮やかな朱色の社殿が目を引く。女の神様のあでやかさも表現しているのだと思います。恋愛成就の神様でもあるようです。 -
ここからは、江の島の周遊道をどんどん進みます。
江の島大師は、サムエルコッキング苑から奥津宮に進んでいく途中。
江の島は、弘法大師空海が岩屋に参拝し社殿を創建したという伝説がありますが、明治以降は、廃仏毀釈や神仏分離令で寺院はなくなっていました。
そこに、平成5年になってから創建された寺院。本尊は不動明王。室内にある赤不動は国内最大の高さ6mのようですが、屋外には二体の像もあって、こっちは門外からでも簡単に眺められます。 -
その先の目立たない場所にあるのは福島漁村句碑。福島漁村というのは、この場所にあった江ノ島館という旅館の主人の名前。歌人であり、碑は、漁村の三回忌に建立したものだそうです。
歌は、「貝がらも 桜の名あり 島の春」です。 -
続いては、世界の貝の博物館というか貝広物産店。
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お土産物屋さんのような感じのごちゃごちゃした店構えですが、貝類の豊富さは何と言っても圧倒的。あんまり整理はされていないような気はしましたが、この量だけでもすごいことなんだと思います。
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さらに進んで、一遍上人成就水道。もうすぐ山ふたつに至る道の脇。飲料水に窮する島民を助けるために一遍上人が掘り当てた井戸と伝えられるもの。説明文の付いた小さな碑が建っています。小さな島である江の島が水に困っていたというのは考えてみれば当然のことかもしれません。
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で、これが山二つ。下りの石段の途中に展望所のような場所があって、
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ちょっとダイナミックな眺めが拝めます。海岸浸食によって岩肌が崩落したことにより、江の島にくびれた部分ができたもの。
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ここから先は、孤島みたいな雰囲気に変わるような気もします。
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と、ここで目に入るのは中村屋羊羹店。
明治35年の創業という老舗なんですが、羊羹は、普通の練り羊羹にのり羊羹と栗羊羹の三種類。 -
私は練り羊羹をお土産にしましたが、これが抜群のうまさ。甘さの加減がまさに絶妙。久しぶりにおいしい羊羹を食べた気がしました。
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木喰上人行場跡は、説明文の付いた小さな碑が建っていて、「木食とは五穀(米・麦・アワ・キビ・豆)を太刀、木の実で生活すること。この修行を木食行といい、木食行をする人たちを木食上人といいました。」とありました。死後、即身仏となりやすい体をつくることを目的としているようですから、意外に厳しい行だったかもしれません。
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続いて、群猿奉賽像庚申塔。奥津宮へももう近い辺りですね。
四角柱の石塔で、4面には見ざる、聞かざる、言わざるの猿に、烏帽子姿で扇をかざして舞う猿や綱渡りをする猿、棒乗りをする猿など36匹の猿の姿が丁寧に彫られています。庚申信仰者が無病息災や長寿を祈念して建てたものといわれています。 -
さて、奥津宮の境内に入ってきました。こちらに祀る多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)は、中津宮、辺津宮と合わせた三つの宮の中では、三姉妹の一番上の姉神となります。安らかに海を守る神様。岩屋に一番近い宮でもあり、4月~11月までの期間は、岩屋本宮の本尊がここに遷座したとも。境内は意外に静か。ここまでくる観光客は比較的少ないようにも感じます。
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社殿の近くに置かれた亀の甲羅の紋のある石は、亀石。鎌倉四名石の一つで「蔵六石」とも。文化3年(1806年)、弁財天を信じていた弁秀堂何某が、金光明最勝王経を写経してこの場所に埋め、その上に置く石を探しこの石を発見して奉納したということです。甲羅の紋は、まあまあ分かります。
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そばには、力石も。重さは320キロ。江戸時代、日本一の力持ちと言われた岩槻藩の卯之助が奉納した石。力石ですから、この石を使って実際に力比べが行われたのでしょうか。簡単ではないと思います。
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山田検校銅像も奥津宮の境内。拝殿の右奥です。
ちなみに、山田検校は、江戸時代中期、幼くして失明した山田流筝曲の創始者。大正6年の100年忌にあたり建てられたもの。傍らに顕彰碑もあって、その功績をたたえています。 -
龍宮は、奥津宮の隣り。「わだつみのみや」と読むようです。江島神社発祥の地である岩屋の洞窟の真上にあって、江の島の龍神様を祀っているパワースポット。江の島では、古来より龍神は弁財天信仰と習合し、多くの伝説が残ります。ただ、この龍のモニュメントはちょっと近代的な匂いがします。
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恋人の丘「龍恋の鐘」は、奥津宮からまた少し奥に参道があります。
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江の島に伝わる「天女と五頭龍」の恋物語に因んだスポットで恋愛のパワースポット。鐘を鳴らして、その傍らのフェンスに南京錠を掛ける。まあ、よくある組み合わせなんですが、「天女と五頭龍」の伝説を読むとなんかその気になるような感じがしなくもないかなと思います。
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曾禰荒助の碑は、恋人の丘「龍恋の鐘」からさらに林の中に進んだところ。寂しい場所に場違いなくらい大きな碑が建っていました。
ちなみに、曾禰荒助というのは、日露戦争当時の大蔵大臣。伊藤博文が暗殺された後に第2代韓国統監に就任し、韓国併合を進めた人物でもあります。曾禰の別荘が片瀬にあったため、ここに建てられたようです。 -
周遊道に戻って、最後は、ドン詰まりの稚児ヶ淵へ。ここは、江の島の西南端で、岩屋の周辺に広がる岩場の海食大地。石段の途中から、全体がよく見えます。
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波が洗う平らな岩場からは、富士山の向こうに沈む夕日が見えて、かながわの景勝50選にも。ちなみに、稚児ヶ淵の名前は、鎌倉相承院の稚児白菊がここから身を投げたことから。少し悲しい物語も秘めています。
ここから、また元来た道を戻って。 -
聖天島にも寄ってみます。江の島の入り口から江の島神社の方に向かわず、ヨットハーバーの方に回り込んだところ。ちょっとした公園のような場所に岩の小山と赤い鳥居の一角があって、それが江の島が聖天島と呼ばれていた頃の名残り。二つの岩があって、その形が歓喜天に似ていたのだそうです。
以上で、江の島はおしまい。ちょっと細かすぎて、あんまり面白くはなかったかも。まあ、たまにはそういうこともあるでしょう。 -
気を取り直して、長谷駅に移動。この周辺でグルメチェックをしてから、鶴岡八幡に向かいます。
まずは、昼飯のgood mellowsへ。長谷駅から海岸に出て、海岸通りを少し歩きます。 -
イチオシ
クラシックのハンバーガー1000円をいただきましたが、シンプルなおいしさにはちょっと感動。これ以上でも、これ以下でもダメという、ドンピシャのうまさ。洗練されたハンバーガーは、原点に触れたような気がしました。
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その後は、good mellowsに来る前、看板が気になったお店を訪ねます。
ちえのケーキは、おばあちゃんと娘さんが自宅を開放してカフェをやっているというお店。 -
芝生のお庭はこじんまりしていますが、それなりに雰囲気がありますねえ。
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イチオシ
いただいたのは、ブドウのムース。家庭的な味を想像していたのですが、ブドウのゼリーに生クリームのムースの組み合わせは、甘さと豊潤さを備えた極上のおいしさ。技術というより、舌の感覚が研ぎ澄まされていないとこの味は出せませんよ~ ちょっと天才的なものも感じる味わい。天才的といえば、私の中では、吉野の花錦なんですが、あのおばちゃんも元気かなあ。
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向かいに見えるのは、由比ガ浜海水浴場。一年を通じて、サーファーで賑わいます。自然にも恵まれた鎌倉は本当に素晴らしい街です。
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長谷駅の方に戻ってきて。かわいい娘たちは、小さなプリンの専門店。こちらにも寄ってみましょうか。
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イチオシ
いただいたのは、いちごグラッセというアイスクリーム。プリンをそのままアイスにしましたという説明でしたが、そこはそんな感じかなあ。イチゴの豊潤な香りがおいしいさわやかアイスでした。いけてます。
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長谷寺あたりに戻ってきて、これは恵比寿屋。賑やかなあたりなので紛れてしまいそうですが、よく見ると老舗のお菓子屋さんですね。
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店内に入ると、ここだけは静かな時間が流れます。
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いただいたのは、みたらし団子。うーん。もっちりお団子にこの甘辛さも絶妙ですねえ。しゃきっとしたおいしさ。これも最高です。
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これは、鎌倉するがや。どら焼きも気になりましたが、さっきのみたらし団子の好印象があって、こちらでもみたらし団子をいただきました。
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もっちり団子はいいとして、このたれは甘いのが前面に出ていて、ちょっとどうかな。醤油の辛さがあまり感じられないので、しゃきっとしたうまさがない。私はあまり好みではないかなと思いました。まあ、ちょっとの差なんですけどね。
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さらに進んで、たい焼き なみへいは、この時期はかき氷を食べる客で大賑わい。店の内外にたくさんのお客さんがいました。
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ただ、私がいただいたのは、一番人気という焼きピロシキ。
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まあ、悪くはないんですが、カレー風味にしてあるので、カレーパンとの区別がつきにくい。ピロシキとしてのおいしさという意味では、あいまいになっているかもしれません。
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長谷駅周辺のグルメチェックを終えて、鶴岡八幡にやってきました。
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なんかいい天気。これはよかった。
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参道には、お囃子も出ていますが、ちょっとポツンとしていて寂し気ですね。
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露店もちょっと少な目かな。
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祭りの行列の出発に備えて、皆さん、待機してますね。
ただ、そんなに大人数ではないような。。 -
あれ、始まりましたか~
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イチオシ
鎌倉時代の装束っぽい身軽な衣装。
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一方で、袖が長くて、それもこの時代の特徴かな。
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少しづつ
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イチオシ
少しづつ
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歩いてくるので、
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写真は撮りやすいんですが、
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逆に撮っているのは私くらい。
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この行列を見ても
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観光客の反応は薄いです。
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やっぱり、人数も少ないし
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服装も
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そんなに目立ったものではない。
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これくらいでは、
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別に珍しくもないよという感じでしょうか。
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一方、行列の方も、
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確かに、何かアピールするような気持ちはないのかなあ。
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しずしずと進むだけです。
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三の鳥居の前でもう一度隊列を整えて、
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段蔓の方に繰り出します。
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交通規制が掛かっていて、
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これが祭りの主役のはずなんですが、
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やっぱり何か静かな感じ。
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イチオシ
静かに
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静かに
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進むだけ。
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太鼓や鐘のお囃子とか
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イチオシ
音が入らないと
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こういうことになるんですね。
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つまり、
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イチオシ
これはまじめな神事。
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派手さは必要ないし、
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観光客を喜ばせるためのものでもない。
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鶴岡八幡への
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敬虔な尊崇の思いで
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イチオシ
長く続いてきた祭りなんですよね。
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ただ、その尊崇の気持ちって
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頼朝や源氏の守り神としての鶴岡八幡ということから始まって
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街を整備し
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門前街みたいにして街を発展させてきた
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神社の役割り。
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鎌倉幕府が倒れてからでも、室町幕府は鎌倉府を置き、その長官は鎌倉公方。東国の抑えとして重視したのですが、その補佐役の関東管領、上杉氏との対立で弱体化。
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イチオシ
つまり、第4代鎌倉公方の足利持氏と関東管領の上杉憲実が対立した永享の乱から
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第5代鎌倉公方の足利成氏が山内上杉家、扇谷上杉家と争い関東一円に争いが広がった享徳の乱。駿河の今川に攻められた足利成氏は古河に逃れ、古河公方として存続を図ります。
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永享の乱では、持氏の遺児の春王丸、安王丸を奉じて関東の名族結城氏が挙兵した結城合戦もあるし、
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扇谷上杉家の家宰だった太田道灌の活躍とかはこの時代です。
鎌倉時代からの権力闘争による騒乱のゴタゴタは容易には収まらないというのが私の印象。 -
その後、戦国時代に入り、後北条氏が関東を掌握していくという流れですが、
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後北条氏の創始者、北条早雲は駿河の今川家との関係もあった人物。小田原を根拠地にして、関東全域へと進出することになりました。
鎌倉の栄枯盛衰ですが、しかし、武家の歴史は実は半面に過ぎない。現在のハイクラスなイメージの鎌倉ができたのは明治以降。そして、明治以降の鎌倉でも鶴岡八幡宮が鎌倉の中心的な存在であることは変わっていない。頼朝の街づくりが如何に的を得たものであったかもある意味証明していることではないかと思います。
なお、ハイクラスな鎌倉に思いを寄せた旅行記はこちら。
参考まで:https://4travel.jp/travelogue/10885053
https://4travel.jp/travelogue/10885059 -
さて、二の鳥居では、さっきの子供の巫女の舞が奉納されるのですが、
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遠くてよくわかりません。
これで、まつり見物はサクッと終了です。 -
ここからは、もう少しB級グルメチェック。
鎌倉 浪花家は、小町通から若宮通に出る脇道沿い。浪花家ののれん分けをしたお店ですね。 -
ここのたい焼きは皮が薄いのが特徴。焼きあがったたい焼きのバリをハサミで丁寧に切り取ってきれいにしてくれるんですが、ちょっともったいなく感じますね。
で、一晩おいていただきましたが、ちょっとどうかな。餡子のつやが今一つのような気がしました。まあ、のれん分けをしたといっても、餡子の出来は店それぞれで違います。 -
亀屋は、小町通を入ってすぐに右手に折れたところ。この辺りも観光客が多いエリアです。
そこに、ひっそりと赤飯のお店。 -
小さい方のパックを買って帰りました。赤飯の濃い色目ですが、これは自然な色なんだとか。モチっとした食感もおいしいですね。やっぱり丁寧に作られた赤飯なんだと思います。
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そして、いつも気になっているのに行けていなかったイワタコーヒー店へ。
つまり、ここはいつも行列ができているので敬遠していたんですが、この日は時間に余裕があるので大丈夫です。 -
いただいたのは名物のホットケーキ。焼くのに時間がかかるので20分くらいの待ち時間。
表面がサクサクと硬い焼き上がり。そのサクサクと内側のしっとりケーキのコラボがいい感じ。ただ、全体としては厚手ながら、とっても素直な味わい。京都だと雪ノ下のパンケーキに通じるものがあるような気がしました。
さて、これで一日は終了。宿題もいくつかは解消されたかな。お疲れさまでした。
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この旅行記へのコメント (6)
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- かれんさん 2020/07/16 15:39:00
- 鶴岡八幡宮 とても立派ですね!
- 私も鎌倉は大好きな土地です。鎌倉武士とか源平合戦とか あまり歴史には疎いですが、たびたびさんの武士についてのお話は大変説得力があり、興味深く読ませていただきました。これからも ためになるお話 期待しています。ありがとうございました。
- たびたびさん からの返信 2020/07/17 10:15:54
- RE: 鶴岡八幡宮 とても立派ですね!
- 少しお役に立てたようでうれしく思います。
ところで、私は、最近、「菊と刀」を読んで、もう少し世界が広がりました。江戸時代の武士道の基本は「忠」。例えば藩主の対する忠義です。禄を頂戴しているということはあるのですが、対将軍みたいな話になるとその感覚は薄れていく。しかし、忠も親に対する「孝」もだんだんと見返りを求めない一方的なものへと昇華していく。「忠」も「孝」も儒教の考え方ですが、本家の中国では、「忠」や「孝」に応えるためには、「仁」が必要であり、儒教ではこの「仁」に最高の価値を置く。しかし、日本では「仁」はそのようにはならなかったと。。
私も、武士道にはいちずで一方的な思い。例えば、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」の葉隠みたいなのが典型的なイメージでしょうか。そして、それが明治になって、それまで一般人にとっては意識の外にあった天皇への思いにもつながっていく。こうした見返りを求めない一方的な思いを自然に受け入れているのは日本独特なんだというのです。
一方で、最近のモリカケの改ざん事件とかでも、こうした美しい精神の崩壊が始まっているような気がしますが、いかがでしょうか。
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- salsaladyさん 2020/06/16 09:32:13
- 鎌倉武士とは。。。
- ☆近代日本の歴史に詳しい方の様で、参考になります。
☆鎌倉武士が所謂中央集権の縄張り争いとはひと味違う「ご恩と奉公」に由来する?と知って、「なるほど」次男が敢えてこの時期に鎌倉で挙式した気持ちが漸く判りました。
☆空手一筋に20-30代を過ごした彼の行く末を心配していたのですが、奉公の気持ちが人一倍強いことは承知で、やっと人並みの欲を持つ人生を模索し始めたか?と。。。
☆江ノ島に関して、知らない歴史が盛り沢山~丁度東京オリンピックの頃横濱の大学生で合コンならぬ合ハイによく出掛けた鎌倉がこれ程に日本創設に貢献していた事実?を改めて紐解きたい思いが生じます。
☆唯一覗いた”稚児ヶ淵”にそんな悲しい伝説が残っているとは~脳天気な観光だけでは許せない江ノ島巡りですね。~謝謝~
- たびたびさん からの返信 2020/06/16 10:59:32
- RE: 鎌倉武士とは。。。
- 歴史にたらればはないのですが、日本の多様性は地方分権に起因します。で、この地方分権の起源はもしかしたら「一所懸命」。最終勝利者である徳川家康も力づくで天下統一をしたわけではないし、何よりも戦いのない世の中を目指すためいらぬ軋轢は避けるためには、幕藩体制に落ち着いたものと思います。
信長だったら、もっと中央集権体制的なことを考えたでしょうか。それは分かりませんが、いずれにしても、明治以降は日本は列強の仲間入りを果たすため中央集権的な国家を目指すが、意外に、江戸時代前の多様性と地方分権の歴史が戦後の日本における民主主義の定着をけっこう違和感なく受け入れさせたような気もします。
これに対して、中央集権国家の歴史が長いのは、中国や韓国。中国は社会主義国家だし、韓国も民主主義とは言え異論を容認しない気分が強い。私は、日本の基本的な特徴というのはこんなことなのではないかと思っています。
たびたび
-
- nobu1125さん 2020/06/13 01:08:01
- 懐かしき長谷。
- 自分の旅行記の評価ありがとうございました。
足跡から、こちらを拝見させていただきました。
長谷のグルメリポートありがとうございます。
時代の流れですね、おしゃれな店が増えたもの
です。実は自分は幼少時代長谷で育ちまして、
懐かしさを感じながら読ませていただきました。
- たびたびさん からの返信 2020/06/15 10:19:29
- RE: 懐かしき長谷。
- グルメじゃないですが、白日堂という鎌倉彫のお店も印象に残っています。老舗なんですが、鎌倉彫が自分も大好きですみたいな女将さんで、気さくにいろいろ話をしてくれました。外からだとちょっと入り辛い雰囲気もありましたが、実際はそうではない。鎌倉の上質な空気に触れたような気がしました。
長谷は大仏だけではないですね。
たびたび
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