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最後の見学地となったタシケントでは、日本人が関係する、2箇所が締め括りとなりました。戦後にソビエト抑留になった人達が、全力を尽くして建設に取り組んだナヴォイ劇場と、日本に帰ることなく眠る場所となった日本人墓地です。感慨深いものがありました。

2019春、ウズベキスタン等の旅(52:完):4月29日(4)~30日:タシケント(3):ナヴォイ劇場、日本人墓地、帰国

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2019/04/23 - 2019/04/30

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

最後の見学地となったタシケントでは、日本人が関係する、2箇所が締め括りとなりました。戦後にソビエト抑留になった人達が、全力を尽くして建設に取り組んだナヴォイ劇場と、日本に帰ることなく眠る場所となった日本人墓地です。感慨深いものがありました。

交通手段
観光バス
  • ティムール広場に建つ、アミール・ティムール(1336~1405年)の騎馬像です。中央アジアから西アジアにかけて、かつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した英雄です。中世アジアを代表する軍事的天才と評価されています。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)では建設事業を行うという、二面性を持ち合わせていました。

    ティムール広場に建つ、アミール・ティムール(1336~1405年)の騎馬像です。中央アジアから西アジアにかけて、かつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した英雄です。中世アジアを代表する軍事的天才と評価されています。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュ(現在のシャフリサブス歴史地区)では建設事業を行うという、二面性を持ち合わせていました。

  • 右手を挙げた、アミール・ティムール像のズームアップ光景です。ティムールは、チンギス・ハーンの子孫ではなかったため、生涯『ハン』の称号を名乗らず、『キュレゲン(グルガン、ハンの婿)』、あるいは『アミール(長、司令官)』の称号を名乗りました。ティムールが鋳造した貨幣には、チャガタイ家のハンの名前と共にキュレゲンの称号が刻まれています。

    イチオシ

    右手を挙げた、アミール・ティムール像のズームアップ光景です。ティムールは、チンギス・ハーンの子孫ではなかったため、生涯『ハン』の称号を名乗らず、『キュレゲン(グルガン、ハンの婿)』、あるいは『アミール(長、司令官)』の称号を名乗りました。ティムールが鋳造した貨幣には、チャガタイ家のハンの名前と共にキュレゲンの称号が刻まれています。

  • 少し角度を変えて、更にズームアップしたアミール・ティムール像の光景です。サマルカンド南部のキシュ近郊のホージャ・イルガル村で、バルラス部の貴族アミール・タラガイの家に生まれました。若い頃のティムールは、数人の部下を連れて略奪行為を行い、気前よく戦利品を分け与えたために部下の数は増え、強盗団の数は300人にまで増えたと伝えられます。

    少し角度を変えて、更にズームアップしたアミール・ティムール像の光景です。サマルカンド南部のキシュ近郊のホージャ・イルガル村で、バルラス部の貴族アミール・タラガイの家に生まれました。若い頃のティムールは、数人の部下を連れて略奪行為を行い、気前よく戦利品を分け与えたために部下の数は増え、強盗団の数は300人にまで増えたと伝えられます。

  • やがてティムールは、西チャガタイ・ハン国の有力者カザガンに見いだされ、20歳にならない内にカザガンの側近に登用されました。この時にティムールはカザガンの孫アミール・フサインと親密になりました。1358年頃、カザガンが暗殺され、カザガンの子アブドゥラーフが失脚すると、統制を失ったマー・ワラー・アンナフル各地に貴族(アミール)達が割拠しました。

    やがてティムールは、西チャガタイ・ハン国の有力者カザガンに見いだされ、20歳にならない内にカザガンの側近に登用されました。この時にティムールはカザガンの孫アミール・フサインと親密になりました。1358年頃、カザガンが暗殺され、カザガンの子アブドゥラーフが失脚すると、統制を失ったマー・ワラー・アンナフル各地に貴族(アミール)達が割拠しました。

  • 1366年の春の終わりに、サマルカンドにフサインを指導者、ティムールを補佐役とする政権が成立しましたが、その後、二人の関係は悪化し、ティムールが覇権を握りました。中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370~1507年)は、北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面に及び、ティムール帝国とも呼ばれます。

    1366年の春の終わりに、サマルカンドにフサインを指導者、ティムールを補佐役とする政権が成立しましたが、その後、二人の関係は悪化し、ティムールが覇権を握りました。中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370~1507年)は、北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面に及び、ティムール帝国とも呼ばれます。

  • ドーム天井の上に飾絵られた、二羽の鳥のモニュメントのズームアップ光景です。コウノトリ(鸛)か、あるいはツル(鶴)当たりがモデルのようです。建物名称はよく分かりませんでしたが、ネット情報では『アート・ギャラリー』とだけ分かりました。美術館のようです。

    イチオシ

    ドーム天井の上に飾絵られた、二羽の鳥のモニュメントのズームアップ光景です。コウノトリ(鸛)か、あるいはツル(鶴)当たりがモデルのようです。建物名称はよく分かりませんでしたが、ネット情報では『アート・ギャラリー』とだけ分かりました。美術館のようです。

  • 名前が特定できていませんが、候補としている植物の名前と科名・属名です。<br />(1)コデマリ(バラ科シモツケ属)<br />(2)ガマズミ(ガマズミ科ガマズミ属)<br />(3)コバノガマズミ(ガマズミ科ガマズミ属)<br />(4)ビバーナム(ガマズミ科ガマズミ属)

    名前が特定できていませんが、候補としている植物の名前と科名・属名です。
    (1)コデマリ(バラ科シモツケ属)
    (2)ガマズミ(ガマズミ科ガマズミ属)
    (3)コバノガマズミ(ガマズミ科ガマズミ属)
    (4)ビバーナム(ガマズミ科ガマズミ属)

  • タシケントの別の場所で撮影した植物ですが、先ほど紹介した、名前が特定できていない植物と同種か近縁種のようです。色合いや、葉の形などが微妙に違っているようにも見えましたが、近縁種の可能性は高いようでした。

    タシケントの別の場所で撮影した植物ですが、先ほど紹介した、名前が特定できていない植物と同種か近縁種のようです。色合いや、葉の形などが微妙に違っているようにも見えましたが、近縁種の可能性は高いようでした。

  • 『ボケ(木瓜)』<br />バラ科ボケ属の落葉低木<br />原産:中国、日本には平安時代に帰化しました。<br />特徴:果実酒によく使われます。<br />その他:赤い花と一緒に、緑の実も生っていました。

    『ボケ(木瓜)』
    バラ科ボケ属の落葉低木
    原産:中国、日本には平安時代に帰化しました。
    特徴:果実酒によく使われます。
    その他:赤い花と一緒に、緑の実も生っていました。

  • 『バラ(薔薇)』<br />バラ科バラ属<br />原産:欧州、中近東、中国、日本、北米等です。南半球には自生しません。<br />特徴:『花の女王』にも例えられます。<br />その他:歴史に登場するのは、古代バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』です。

    『バラ(薔薇)』
    バラ科バラ属
    原産:欧州、中近東、中国、日本、北米等です。南半球には自生しません。
    特徴:『花の女王』にも例えられます。
    その他:歴史に登場するのは、古代バビロニアの『ギルガメシュ叙事詩』です。

  • 『バラ(薔薇)』<br />バラ科バラ属<br />原産:欧州、中近東、中国、日本、北米等です。南半球には自生しません。<br />特徴:『花の女王』にも例えられます。<br />その他:日本の育種家も世界的に有名です。

    『バラ(薔薇)』
    バラ科バラ属
    原産:欧州、中近東、中国、日本、北米等です。南半球には自生しません。
    特徴:『花の女王』にも例えられます。
    その他:日本の育種家も世界的に有名です。

  • 『バラ(薔薇)』<br />バラ科バラ属<br />原産:欧州、中近東、中国、日本、北米等です。南半球には自生しません。<br />特徴:『花の女王』にも例えられます。<br />その他:ビロードのような深紅の花です。

    『バラ(薔薇)』
    バラ科バラ属
    原産:欧州、中近東、中国、日本、北米等です。南半球には自生しません。
    特徴:『花の女王』にも例えられます。
    その他:ビロードのような深紅の花です。

  • 当初予定の見学順序とは入れ替えになりましたが、最後は、タシケントの日本人墓地の参拝です。ソビエト連邦時代に、この地で亡くなった邦人のお墓が、今は、ウズベキスタンの人達によって護られていました。この建物は、墓地近くにあったモスクです。

    当初予定の見学順序とは入れ替えになりましたが、最後は、タシケントの日本人墓地の参拝です。ソビエト連邦時代に、この地で亡くなった邦人のお墓が、今は、ウズベキスタンの人達によって護られていました。この建物は、墓地近くにあったモスクです。

  • タシケントの日本人抑留者墓地の入口付近の光景です。ウズベキスタンの日本人抑留者の墓地は、タシケント市ヤッカサライ市営墓地の他、タシケント市内のヤンギュリとハムジェンスキイに墓地があります。ウズベキスタン国内では、13か所に日本人墓地があります。2002年、ウズベキスタンの全ての日本人墓地の整備が完了し、鎮魂碑の除幕式などが行われました。

    タシケントの日本人抑留者墓地の入口付近の光景です。ウズベキスタンの日本人抑留者の墓地は、タシケント市ヤッカサライ市営墓地の他、タシケント市内のヤンギュリとハムジェンスキイに墓地があります。ウズベキスタン国内では、13か所に日本人墓地があります。2002年、ウズベキスタンの全ての日本人墓地の整備が完了し、鎮魂碑の除幕式などが行われました。

  • 第二次大戦後、シベリア抑留中に死亡したの日本人は46,571名(2013年9月現在)とされ、その内、ウズベキスタンで亡くなった人は、884名とされます。その内訳は、第26収容所(アンヂジャン地区):33名、第288収容所(ベカバード地区):148名、第360収容所(ボスタンデグスキー地区):13名、第367収容所(コーカンド地区):242名、(続く)

    第二次大戦後、シベリア抑留中に死亡したの日本人は46,571名(2013年9月現在)とされ、その内、ウズベキスタンで亡くなった人は、884名とされます。その内訳は、第26収容所(アンヂジャン地区):33名、第288収容所(ベカバード地区):148名、第360収容所(ボスタンデグスキー地区):13名、第367収容所(コーカンド地区):242名、(続く)

  • 第372収容所 (アングレン地区):135名、第386収容所(タシケント地区):266名、所属不明:47名で、合計884名です。(ウィキペディア) 写真は、タシケントの地元の方の墓碑のようです。多くの墓碑が、石に転写した写真が添えてありました。

    第372収容所 (アングレン地区):135名、第386収容所(タシケント地区):266名、所属不明:47名で、合計884名です。(ウィキペディア) 写真は、タシケントの地元の方の墓碑のようです。多くの墓碑が、石に転写した写真が添えてありました。

  • この場所が、墓地の一角にある、日本人慰霊碑が置かれたエリアです。立派に整備されていました。本格的な抑留日本人墓地整備は、1983年に福島県ウズベキスタン文化経済友好協会親善使節団がウズベキスタンを訪問したことに始まります。(ウィキペディア)

    イチオシ

    この場所が、墓地の一角にある、日本人慰霊碑が置かれたエリアです。立派に整備されていました。本格的な抑留日本人墓地整備は、1983年に福島県ウズベキスタン文化経済友好協会親善使節団がウズベキスタンを訪問したことに始まります。(ウィキペディア)

  • 日本人の墓参の方達が飾られた千羽鶴のようです。慰霊碑には、『永遠の平和と友好・不戦の誓いの碑』の文字が浮き彫りにされていました。1990年5月23日の日付が末尾にありました。交流開始から10年後の1990年、10周年記念共同事業として福島県ウズベキスタン文化経済友好協会親善使節団が再訪し、タシケント日本人墓地に鎮魂碑が建立されました。

    日本人の墓参の方達が飾られた千羽鶴のようです。慰霊碑には、『永遠の平和と友好・不戦の誓いの碑』の文字が浮き彫りにされていました。1990年5月23日の日付が末尾にありました。交流開始から10年後の1990年、10周年記念共同事業として福島県ウズベキスタン文化経済友好協会親善使節団が再訪し、タシケント日本人墓地に鎮魂碑が建立されました。

  • お父さんが手掛けられてから、二代続けて日本人墓地の墓守をされている方に、それぞれにお礼を差し上げながらのお別れです。左端の方が、日本人墓地の墓守の仕事を引継がれた二代目の方です。お線香も用意されていました。

    お父さんが手掛けられてから、二代続けて日本人墓地の墓守をされている方に、それぞれにお礼を差し上げながらのお別れです。左端の方が、日本人墓地の墓守の仕事を引継がれた二代目の方です。お線香も用意されていました。

  • 『バラ(薔薇)』<br />バラ科バラ属<br />原産:欧州、中近東、中国、日本、北米等です。南半球には自生しません。<br />特徴:『花の女王』にも例えられます。<br />その他:一重咲の赤い花です。

    『バラ(薔薇)』
    バラ科バラ属
    原産:欧州、中近東、中国、日本、北米等です。南半球には自生しません。
    特徴:『花の女王』にも例えられます。
    その他:一重咲の赤い花です。

  • 日本人没の継に向かったのは、地殻にあった工芸博物館です。その周りの壁面に記されていた飾りと標識の紹介です。こちらは、工芸博物館の名前表示のようでした。正式名称は、『ウズベキスタン工芸博物館』のようでした。頭の部分に『ウズベキスタン』、最後の部分に『博物館(ミュージアム)』らしい文字がありました。1937年のオープンです。

    日本人没の継に向かったのは、地殻にあった工芸博物館です。その周りの壁面に記されていた飾りと標識の紹介です。こちらは、工芸博物館の名前表示のようでした。正式名称は、『ウズベキスタン工芸博物館』のようでした。頭の部分に『ウズベキスタン』、最後の部分に『博物館(ミュージアム)』らしい文字がありました。1937年のオープンです。

  • 入場する前の工芸博物館の壁の装飾の紹介が続きます。壁に窪みを設けて、博物館に所縁があるらしい文様がカラフルに描かれていました。カラータイルを用いたモザイク画でした。

    入場する前の工芸博物館の壁の装飾の紹介が続きます。壁に窪みを設けて、博物館に所縁があるらしい文様がカラフルに描かれていました。カラータイルを用いたモザイク画でした。

  • 同じく、カラータイルを用いたモザイク画の光景です。彫金細工の仕事をする職人さんを描いたモザイク画のようです。手には、先が尖ったハンマーが握られていました。彫金細工以外の作業かも知れませんが、『工芸』の場面には間違いないようです。

    同じく、カラータイルを用いたモザイク画の光景です。彫金細工の仕事をする職人さんを描いたモザイク画のようです。手には、先が尖ったハンマーが握られていました。彫金細工以外の作業かも知れませんが、『工芸』の場面には間違いないようです。

  • ここからは、『ウズベキスタン工芸博物館』に入城しての見学です。室内の展示品の撮影は出来ませんでしたから、屋外の光景だけの紹介になります。広々とした中庭光景です。現在4000点以上の展覧品があるとネット紹介されていました。

    ここからは、『ウズベキスタン工芸博物館』に入城しての見学です。室内の展示品の撮影は出来ませんでしたから、屋外の光景だけの紹介になります。広々とした中庭光景です。現在4000点以上の展覧品があるとネット紹介されていました。

  • 広々とした中庭で見かけた庭木の光景です。自在に枝を伸ばしていました。同じく、信用できそうなネット情報からの紹介です。『1907年にロシア公使の私邸として建てられたこの建物は、1941、1961、1970年に修復され、1930年までは孤児印、教育センターなどのため使われていた。13部屋に広がる19世紀の伝統的な建築工芸、壁が装飾鉤刺しの刑で装飾された中央部屋、それ以外の手芸品やさまざまな展示品が楽しめる。』と紹介されていました。

    広々とした中庭で見かけた庭木の光景です。自在に枝を伸ばしていました。同じく、信用できそうなネット情報からの紹介です。『1907年にロシア公使の私邸として建てられたこの建物は、1941、1961、1970年に修復され、1930年までは孤児印、教育センターなどのため使われていた。13部屋に広がる19世紀の伝統的な建築工芸、壁が装飾鉤刺しの刑で装飾された中央部屋、それ以外の手芸品やさまざまな展示品が楽しめる。』と紹介されていました。

  • 展示品のメインは『スザニ(スーザニ)』と呼ばれる、刺繍の1種です。一見すると絨毯のような品が、展示室の壁に展示されていました。スザニは、主に木綿や絹の生地に、絹製の刺繍糸を用いて刺繍されます。大きなスザニの場合は、刺繍した阿t炉で、数枚の布を縫い合わせて出来上がります。

    展示品のメインは『スザニ(スーザニ)』と呼ばれる、刺繍の1種です。一見すると絨毯のような品が、展示室の壁に展示されていました。スザニは、主に木綿や絹の生地に、絹製の刺繍糸を用いて刺繍されます。大きなスザニの場合は、刺繍した阿t炉で、数枚の布を縫い合わせて出来上がります。

  • 時間調整を兼ねてスーパー・マーケットに立寄り、この建物は、今回の旅行で最後の夕食となったレストランの光景です。その後、タシケント空港に向かいました。タシケント発は4月29日の20:06分のチャーター機・HY-527便、セントレアへの到着予定は、翌30日の7時25分でした。

    時間調整を兼ねてスーパー・マーケットに立寄り、この建物は、今回の旅行で最後の夕食となったレストランの光景です。その後、タシケント空港に向かいました。タシケント発は4月29日の20:06分のチャーター機・HY-527便、セントレアへの到着予定は、翌30日の7時25分でした。

  • タシケント空港を、帝国にウズベキスタン航空のチャーター機で出発し、セントレア国際空港に到着しました。この電光表示板の上から二行目に表示されていましたが、定時の7時25分より5分早い、7時20分の到着でした。

    タシケント空港を、帝国にウズベキスタン航空のチャーター機で出発し、セントレア国際空港に到着しました。この電光表示板の上から二行目に表示されていましたが、定時の7時25分より5分早い、7時20分の到着でした。

  • 同じく、セントレア空港のターミナルビル内の光景です。右手に見える緩いスロープを登って、名鉄電車の乗り場方面に向かいました。

    同じく、セントレア空港のターミナルビル内の光景です。右手に見える緩いスロープを登って、名鉄電車の乗り場方面に向かいました。

  • 8時発頃の名鉄電車に乗ることができました。まだ到着便が少ない時間帯ですから、車内はガラガラでした。楽々に昼前に家に戻ることができました。以前ですと、東京経由で何度か乗り継ぎながらのウズベキスタン旅行でしたが、今回はセントレアからのチャーター便でしたから、随分と楽な旅行となりました。これから人気が出そうな旅行プランの予感がします。

    8時発頃の名鉄電車に乗ることができました。まだ到着便が少ない時間帯ですから、車内はガラガラでした。楽々に昼前に家に戻ることができました。以前ですと、東京経由で何度か乗り継ぎながらのウズベキスタン旅行でしたが、今回はセントレアからのチャーター便でしたから、随分と楽な旅行となりました。これから人気が出そうな旅行プランの予感がします。

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