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ウズベキスタンの首都・タシケントにあるナヴォイ劇場の紹介です。この劇場は1939年に着工され、第二次大戦による中断の後、1947年11月にアリシェル・ナヴォイ生誕500周年を記念して初公開されました。『アリシェル・ナヴォイ(1441~1501年)』は、ティムール朝時代の詩人で政治家です。

2019春、ウズベキスタン等の旅(51/52):4月29日(4):タシケント(2):ナヴォイ劇場、日本人について記した建設記念碑

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2019/04/23 - 2019/04/30

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旅人のくまさん

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ウズベキスタンの首都・タシケントにあるナヴォイ劇場の紹介です。この劇場は1939年に着工され、第二次大戦による中断の後、1947年11月にアリシェル・ナヴォイ生誕500周年を記念して初公開されました。『アリシェル・ナヴォイ(1441~1501年)』は、ティムール朝時代の詩人で政治家です。

交通手段
観光バス

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  • 中央アジアの中心地、ウズベキスタンの首都タシケント市にあるビザンチン風建築の、『アリシェル・ナヴォイ劇場』の紹介です。総床面積1万5000平方メートル、客席1400席を有する煉瓦作り3階建てのオペラハウスです。設計は、ロシア・ソビエト連邦の建築家・アレクセイ・シューセフ(1873~1949年)です。赤の広場の『レーニン廟』を設計したこと等でも知られる建築界の大家です。

    中央アジアの中心地、ウズベキスタンの首都タシケント市にあるビザンチン風建築の、『アリシェル・ナヴォイ劇場』の紹介です。総床面積1万5000平方メートル、客席1400席を有する煉瓦作り3階建てのオペラハウスです。設計は、ロシア・ソビエト連邦の建築家・アレクセイ・シューセフ(1873~1949年)です。赤の広場の『レーニン廟』を設計したこと等でも知られる建築界の大家です。

  • オペラハウスの建設開始後、ソ連は、レーニンによる政権樹立を行なった1917年11月7日の革命30周年にあたる1947年11月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていました。しかし、第二次世界大戦が始まったため、土台と一部の壁、柱などがつくられた状態で工事が止まっていました。写真は、現在のナヴォイ劇場の正面光景です。

    イチオシ

    オペラハウスの建設開始後、ソ連は、レーニンによる政権樹立を行なった1917年11月7日の革命30周年にあたる1947年11月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていました。しかし、第二次世界大戦が始まったため、土台と一部の壁、柱などがつくられた状態で工事が止まっていました。写真は、現在のナヴォイ劇場の正面光景です。

  • 第二次世界大戦後、ソビエト連邦は日本人捕虜を活用して革命30周年に間に合わせることを命題とし、建築に適した工兵457人の日本兵が強制的に派遣されました。当時、ソビエト連邦の捕虜になった日本人は60万人とも言われ、その内の2万5千人余りがウズベキスタンに送られました。

    第二次世界大戦後、ソビエト連邦は日本人捕虜を活用して革命30周年に間に合わせることを命題とし、建築に適した工兵457人の日本兵が強制的に派遣されました。当時、ソビエト連邦の捕虜になった日本人は60万人とも言われ、その内の2万5千人余りがウズベキスタンに送られました。

  • ナボイ劇場の建設に関わったのは、満州の旧陸軍航空部隊のまだ24歳の永田行夫大尉を隊長とする、第4ラーゲリ(収容所)の457人の工兵達です。貨物列車による4000キロ、1カ月半の長距離移動でした。目的が劇場建設ですから、技能に長けた永田大尉の航空機の修理部隊に狙いが定まったのかも知れません。満州で捕虜となった日本兵は、シベリアなどで森林伐採、道路・鉄道建設に従事していましたから、この劇場建設の任務は特殊業務だったようです。

    ナボイ劇場の建設に関わったのは、満州の旧陸軍航空部隊のまだ24歳の永田行夫大尉を隊長とする、第4ラーゲリ(収容所)の457人の工兵達です。貨物列車による4000キロ、1カ月半の長距離移動でした。目的が劇場建設ですから、技能に長けた永田大尉の航空機の修理部隊に狙いが定まったのかも知れません。満州で捕虜となった日本兵は、シベリアなどで森林伐採、道路・鉄道建設に従事していましたから、この劇場建設の任務は特殊業務だったようです。

  • リーダーの永田大尉は、『我々の仕事は劇場を建設することだが、最も重要な使命は全員が無事に健康な状態で日本へ帰国し家族と再会することだ』と皆に諭したとされます。その後、測量、鉄骨組立、レンガ積み、電気工事など、各自の職歴と適性をもとに班分けをして、建設作業が始まりました。1946年になると、工事を加速するために、ウズベキスタンの各地から抑留者が次々と送り込まれてきました。その中に、日本大学の建築学科を出た若松律衛(りつえ)少尉がいました。ソ連側は若松の能力を見込んで、工事全般の日本側総監督を命じました。

    リーダーの永田大尉は、『我々の仕事は劇場を建設することだが、最も重要な使命は全員が無事に健康な状態で日本へ帰国し家族と再会することだ』と皆に諭したとされます。その後、測量、鉄骨組立、レンガ積み、電気工事など、各自の職歴と適性をもとに班分けをして、建設作業が始まりました。1946年になると、工事を加速するために、ウズベキスタンの各地から抑留者が次々と送り込まれてきました。その中に、日本大学の建築学科を出た若松律衛(りつえ)少尉がいました。ソ連側は若松の能力を見込んで、工事全般の日本側総監督を命じました。

  • 困った若松は永田に相談しました。永田は『全体を監督できるのは、あなたしかいない。協力し合ってやろう』と若松の手を握った。さらに、こう続けました。『手抜きをしたり、いい加減なやり方で格好をつけた建物にすることもできると思うが、私はソ連の歴史に残るオペラハウスとなる以上、日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたいと思っている。』

    困った若松は永田に相談しました。永田は『全体を監督できるのは、あなたしかいない。協力し合ってやろう』と若松の手を握った。さらに、こう続けました。『手抜きをしたり、いい加減なやり方で格好をつけた建物にすることもできると思うが、私はソ連の歴史に残るオペラハウスとなる以上、日本人の誇りと意地にかけて最良のものを作りたいと思っている。』

  • 永田は更に続けます。『捕虜としてやるのだから、別にそこまで力を入れなくても良いだろう、という意見もあるだろう。しかし私の気持ちとしては、後の世に笑われるような建築物にはしたくないと考えている。さすが日本人の建設したものは、「出来が違う」といわれるものにしたいと本気で思っている。』

    永田は更に続けます。『捕虜としてやるのだから、別にそこまで力を入れなくても良いだろう、という意見もあるだろう。しかし私の気持ちとしては、後の世に笑われるような建築物にはしたくないと考えている。さすが日本人の建設したものは、「出来が違う」といわれるものにしたいと本気で思っている。』

  • 若松は永田の言葉を聞いて共鳴し、『この人と協力して歴史に残るような建築物を作るよう全力を尽くそう』と決心しました。そんな『日本人の誇りと意地』が劣悪な生活環境での抑留者達を支えていました。日本人で死亡したのは、劇場建設の高所作業に従事していた人の転落事故死と、外出時に汽車に轢かれて死亡した2人です。

    若松は永田の言葉を聞いて共鳴し、『この人と協力して歴史に残るような建築物を作るよう全力を尽くそう』と決心しました。そんな『日本人の誇りと意地』が劣悪な生活環境での抑留者達を支えていました。日本人で死亡したのは、劇場建設の高所作業に従事していた人の転落事故死と、外出時に汽車に轢かれて死亡した2人です。

  • 亡くなった2人は、タシケント抑留日本人墓地(公営ヤッカサライ墓地)に、当時死亡した日本人と共に埋葬されています。 話が少し先に進みますが、永田大尉と若松少尉を始めとする抑留者の皆さん方は無事に日本に戻られ、お元気な頃の写真をネットでも拝見することができます。ウズベキスタン時代からの現地の方との交流も続いていました。

    亡くなった2人は、タシケント抑留日本人墓地(公営ヤッカサライ墓地)に、当時死亡した日本人と共に埋葬されています。 話が少し先に進みますが、永田大尉と若松少尉を始めとする抑留者の皆さん方は無事に日本に戻られ、お元気な頃の写真をネットでも拝見することができます。ウズベキスタン時代からの現地の方との交流も続いていました。

  • アレクセイ・シューセフ設計のナヴォイ劇場は1939年委着工され、第二次大戦にによる中断の後、1947年11月にアリシェル・ナヴォイ生誕500周年を記念して初公開されました。『アリシェル・ナヴォイ(1441~1501年)』は、ティムール朝時代の詩人で政治家です。チャガタイ文学の確立者ともされます。チャガタイ語は、チャガタイ・トルコ語とも呼ばれますが、現在は死語になりました。

    イチオシ

    アレクセイ・シューセフ設計のナヴォイ劇場は1939年委着工され、第二次大戦にによる中断の後、1947年11月にアリシェル・ナヴォイ生誕500周年を記念して初公開されました。『アリシェル・ナヴォイ(1441~1501年)』は、ティムール朝時代の詩人で政治家です。チャガタイ文学の確立者ともされます。チャガタイ語は、チャガタイ・トルコ語とも呼ばれますが、現在は死語になりました。

  • 労働時間は規則正しく8時から12時、1時間の昼食をはさんで13時から17時までの8時間労働。休日は日曜、元日、メーデー、革命記念日。食料は1日一人当たりの配給量が決まっていましたが、馬鈴薯は腐っている所が多いなど十分な量ではなかったようです。それでも、3食規則正しく出されました。1日1800から2200キロカロリー位の摂取量でした。ノルマの達成度合いによってパンの量に差をつけよとソ連から命令されましたが、隊長を務めた永田行夫の交渉により、平等配分をソ連側に認めさせました。

    労働時間は規則正しく8時から12時、1時間の昼食をはさんで13時から17時までの8時間労働。休日は日曜、元日、メーデー、革命記念日。食料は1日一人当たりの配給量が決まっていましたが、馬鈴薯は腐っている所が多いなど十分な量ではなかったようです。それでも、3食規則正しく出されました。1日1800から2200キロカロリー位の摂取量でした。ノルマの達成度合いによってパンの量に差をつけよとソ連から命令されましたが、隊長を務めた永田行夫の交渉により、平等配分をソ連側に認めさせました。

  • また、収容所では自由時間に建築現場の床材から麻雀パイを作ったり、紙から将棋、囲碁、トランプ、花札を作ったりした娯楽により捕虜たちの気分転換を奨励したり、地元のウズベク人を招いた演芸大会も行なわれました。生活上の悩みは、住居であった収容所に多量にいた南京虫だったようです。

    また、収容所では自由時間に建築現場の床材から麻雀パイを作ったり、紙から将棋、囲碁、トランプ、花札を作ったりした娯楽により捕虜たちの気分転換を奨励したり、地元のウズベク人を招いた演芸大会も行なわれました。生活上の悩みは、住居であった収容所に多量にいた南京虫だったようです。

  • ベッドの隙間に無数に生息し、当初かまれるとかゆくて寝られないこともありましたが、徐々に免疫が出来てきました。殺虫剤はありませんから、退治のために晴れた休日に庭にベッドを出して日光を当て、効果はあったものの、全滅させることはできなかったようです。マラリアなどとともに南京虫の大変さは、長く外地で従軍した父からもよく聞かされました。

    ベッドの隙間に無数に生息し、当初かまれるとかゆくて寝られないこともありましたが、徐々に免疫が出来てきました。殺虫剤はありませんから、退治のために晴れた休日に庭にベッドを出して日光を当て、効果はあったものの、全滅させることはできなかったようです。マラリアなどとともに南京虫の大変さは、長く外地で従軍した父からもよく聞かされました。

  • ウズベキスタン中央銀行副総裁のアブドマナポフさんは、子供の頃、日本人が働く姿を見たことがあり、次のようなエピソードを語っています。『いつも疲れて帰ってくる日本人抑留者を見て同情し、友人と一緒に幾度も宿泊所に自家製のナンや果物を差し入れました。すると数日後には、必ず同じ場所に精巧に作られた手作りの木工玩具が置かれていました。』

    ウズベキスタン中央銀行副総裁のアブドマナポフさんは、子供の頃、日本人が働く姿を見たことがあり、次のようなエピソードを語っています。『いつも疲れて帰ってくる日本人抑留者を見て同情し、友人と一緒に幾度も宿泊所に自家製のナンや果物を差し入れました。すると数日後には、必ず同じ場所に精巧に作られた手作りの木工玩具が置かれていました。』

  • 強制労働で疲れ果てた抑留者という身分だったにも関わらず、受けた恩に精一杯の謝意を表明しようとした日本人抑留者の行為は、いつしか道徳的規範として、ウズベク人の間で語り継がれるようになっていったようです。

    強制労働で疲れ果てた抑留者という身分だったにも関わらず、受けた恩に精一杯の謝意を表明しようとした日本人抑留者の行為は、いつしか道徳的規範として、ウズベク人の間で語り継がれるようになっていったようです。

  • 年月は流れ、ナヴォイ劇場完成から20年後の1966年4月26日、タシケントの街を大きな地震が襲いました。この大地震で、タシケントの建造物の約3分の2が崩壊したとされます。周囲の建物が瓦礫の山になってしまった中、ナヴォイ劇場はほとんど被害がありませんでした。そしてナヴォイ劇場は、被災者の避難場所として多くの人命も救いました。このナヴォイ劇場の耐震性については、日本人抑留者の行った作業の貢献度に対する見解が分かれる部分があります。

    年月は流れ、ナヴォイ劇場完成から20年後の1966年4月26日、タシケントの街を大きな地震が襲いました。この大地震で、タシケントの建造物の約3分の2が崩壊したとされます。周囲の建物が瓦礫の山になってしまった中、ナヴォイ劇場はほとんど被害がありませんでした。そしてナヴォイ劇場は、被災者の避難場所として多くの人命も救いました。このナヴォイ劇場の耐震性については、日本人抑留者の行った作業の貢献度に対する見解が分かれる部分があります。

  • 見解の違いは、『日本人抑留者が基礎からレンガを積み上げ建設した』とするものと、『日本人抑留者が建設に参加した時には、基礎をはじめ建物本体はほとんどできていて、日本人抑留者が行った作業の中心は、左官・彫刻・寄せ木作りの床張り・大理石の床張り・電気工事などの内外装工事の仕上げだった』とする違いです。耐震性の評価に当たっては重要な部分になります。

    見解の違いは、『日本人抑留者が基礎からレンガを積み上げ建設した』とするものと、『日本人抑留者が建設に参加した時には、基礎をはじめ建物本体はほとんどできていて、日本人抑留者が行った作業の中心は、左官・彫刻・寄せ木作りの床張り・大理石の床張り・電気工事などの内外装工事の仕上げだった』とする違いです。耐震性の評価に当たっては重要な部分になります。

  • 見解の違いはあっても、各種の証言や資料から、内外装工事の仕上は、日本人抑留者が主体で行ったことは間違いないようです。外壁や内装にほとんど地震被害がなかったことは、日本人抑留者の仕事に手抜きがなかったことを証明していると断言してよさそうです。リーダーの永田大尉の意志が貫かれたようです。

    見解の違いはあっても、各種の証言や資料から、内外装工事の仕上は、日本人抑留者が主体で行ったことは間違いないようです。外壁や内装にほとんど地震被害がなかったことは、日本人抑留者の仕事に手抜きがなかったことを証明していると断言してよさそうです。リーダーの永田大尉の意志が貫かれたようです。

  • 各種の証言や資料から、内外装工事の仕上は日本人抑留者が主体で行ったことは間違いないようです。その外壁と照明器具の光景です。大地震に襲われても、外壁や内装には、ほとんど被害がなかったとされます。その後に改修工事が行われたかもしれませんが、その傷跡は見受けられない外壁の光景です。

    各種の証言や資料から、内外装工事の仕上は日本人抑留者が主体で行ったことは間違いないようです。その外壁と照明器具の光景です。大地震に襲われても、外壁や内装には、ほとんど被害がなかったとされます。その後に改修工事が行われたかもしれませんが、その傷跡は見受けられない外壁の光景です。

  • 更にズームアップした、外壁と照明器具の光景です。一般的に言って、大きく、十両のあるシャンデリアなどは、地震被害を受けやすい箇所の一つになります。写真で眺めるこの照明器具は、プラスティックなどを使った軽量タイプのようですから、地震対策の経験を踏まえた器具の選定かもしれません。重たい照明器具であれば、吊具の補強や、振れ止め措置なども必要になります。

    更にズームアップした、外壁と照明器具の光景です。一般的に言って、大きく、十両のあるシャンデリアなどは、地震被害を受けやすい箇所の一つになります。写真で眺めるこの照明器具は、プラスティックなどを使った軽量タイプのようですから、地震対策の経験を踏まえた器具の選定かもしれません。重たい照明器具であれば、吊具の補強や、振れ止め措置なども必要になります。

  • 日本語でも表示してあった、ナヴォイ劇場の建設に関する説明パネルの光景です。日本語では『1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。』と記されています。このプレートは、1996年に作り替えられましたが、それ以前には、『日本人捕虜が建てたもの』と書かれていたようです。

    イチオシ

    日本語でも表示してあった、ナヴォイ劇場の建設に関する説明パネルの光景です。日本語では『1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。』と記されています。このプレートは、1996年に作り替えられましたが、それ以前には、『日本人捕虜が建てたもの』と書かれていたようです。

  • ナヴォイ劇場の側面光景です。先ほど紹介した竣工記念のプレートの文言は、1996年、ウズベキスタン大統領イスラム・カリモフが、建設に関わった日本人を称えるプレートを劇場に設置した際の指示は、『彼らは恩人だ、間違っても捕虜と書くな』という厳命でした。現在も、その趣旨の説明を日本語現地ガイドさん達は行っていました。

    ナヴォイ劇場の側面光景です。先ほど紹介した竣工記念のプレートの文言は、1996年、ウズベキスタン大統領イスラム・カリモフが、建設に関わった日本人を称えるプレートを劇場に設置した際の指示は、『彼らは恩人だ、間違っても捕虜と書くな』という厳命でした。現在も、その趣旨の説明を日本語現地ガイドさん達は行っていました。

  • 大きな噴水に面した側に対し、その裏側の建物光景です。ウズベキスタン大統領だった『イスラム・アブドゥガニエヴィチ・カリモフ(1938~2016年)』は、1991年の独立以来、25年に亘って同国の初代大統領を務めました。ウズベキスタン自由民主党党首でもありました。 国際的には、独裁者との批判もあった人です。これで、ナヴォイ劇場の紹介はおしまいです。

    大きな噴水に面した側に対し、その裏側の建物光景です。ウズベキスタン大統領だった『イスラム・アブドゥガニエヴィチ・カリモフ(1938~2016年)』は、1991年の独立以来、25年に亘って同国の初代大統領を務めました。ウズベキスタン自由民主党党首でもありました。 国際的には、独裁者との批判もあった人です。これで、ナヴォイ劇場の紹介はおしまいです。

  • 少し場所を変えて撮影した、同じ建物の光景です。『タシュケント』とも日本語表記されるウズベキスタンの首都タシケント市は、人口219万人で、ウズベキスタン北東部に位置する、シルダリヤ川の支流であるチルチク川の流域の歴史的なオアシス都市です。

    少し場所を変えて撮影した、同じ建物の光景です。『タシュケント』とも日本語表記されるウズベキスタンの首都タシケント市は、人口219万人で、ウズベキスタン北東部に位置する、シルダリヤ川の支流であるチルチク川の流域の歴史的なオアシス都市です。

  • 次に向かったのは、『アミール・ティムール広場』です。その広場に向かうには、交通量の多い道路を横断する必要がありましたが、その下を通過することができる、大規模な地下道が用意されていました。地下道を潜る前の建物光景です。煉瓦造りの建物の光景です。

    次に向かったのは、『アミール・ティムール広場』です。その広場に向かうには、交通量の多い道路を横断する必要がありましたが、その下を通過することができる、大規模な地下道が用意されていました。地下道を潜る前の建物光景です。煉瓦造りの建物の光景です。

  • 『ホテル・ウズベキスタン』の建物光景です。ネット情報では、『ホテル・ウズベキスタンはソビエト連邦時代の1974年に開業した、ウズベキスタンでも有数の歴史ある4つ星ホテルである。タシュケントの中心部に位置し、アミール・ティムール広場に面している。客室数は263で、うち126室にバルコニーが付属している』と紹介されていました。

    『ホテル・ウズベキスタン』の建物光景です。ネット情報では、『ホテル・ウズベキスタンはソビエト連邦時代の1974年に開業した、ウズベキスタンでも有数の歴史ある4つ星ホテルである。タシュケントの中心部に位置し、アミール・ティムール広場に面している。客室数は263で、うち126室にバルコニーが付属している』と紹介されていました。

  • 同じく、『アミール・ティムール広場』への地下道を潜る前に撮影した周りの光景です。貸自転車屋さんらしい光景です。周りに山が見当たらない平坦な街ですから、観光に自転車が利用されているようでした。

    同じく、『アミール・ティムール広場』への地下道を潜る前に撮影した周りの光景です。貸自転車屋さんらしい光景です。周りに山が見当たらない平坦な街ですから、観光に自転車が利用されているようでした。

  • ティムール広場に向かう前に、もう一度紹介する『ホテル・ウズベキスタン』の建物光景です。今回ご一緒した、旅行社の添乗員さんも泊まったことがあるホテルと紹介されていました。ネット情報では、『レストランは3軒あり、そのうち最大の「ウズベキスタン」は700名を収容可能で、ウズベキスタン料理とヨーロッパの料理が供される』などと紹介されていました。

    ティムール広場に向かう前に、もう一度紹介する『ホテル・ウズベキスタン』の建物光景です。今回ご一緒した、旅行社の添乗員さんも泊まったことがあるホテルと紹介されていました。ネット情報では、『レストランは3軒あり、そのうち最大の「ウズベキスタン」は700名を収容可能で、ウズベキスタン料理とヨーロッパの料理が供される』などと紹介されていました。

  • 前方中央に見えているのが、現在のウズベキスタン共和国の英雄とされる、ティムール像です。アミール・ティムール(1336~1405年)は、中央アジアから西アジアにかけて、かつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した英雄です。中世アジアを代表する軍事的天才と評価されています。日本では室町時代(1338~1573年)の頃です。

    前方中央に見えているのが、現在のウズベキスタン共和国の英雄とされる、ティムール像です。アミール・ティムール(1336~1405年)は、中央アジアから西アジアにかけて、かつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した英雄です。中世アジアを代表する軍事的天才と評価されています。日本では室町時代(1338~1573年)の頃です。

  • ティムール広場に向かう途中の光景です。交通量の多い幹線道路の横断は、地下道を通りました。国の威信をかけたような規模と内装の地下道でした。ロシア革命期にティムールはトルキスタンのナショナリズムを象徴する英雄に祭り上げられましたが、スターリン時代にティムールの理想化は禁止されました。ウズベキスタン共和国が独立した後、民族と国家を象徴する英雄として復権しました。

    ティムール広場に向かう途中の光景です。交通量の多い幹線道路の横断は、地下道を通りました。国の威信をかけたような規模と内装の地下道でした。ロシア革命期にティムールはトルキスタンのナショナリズムを象徴する英雄に祭り上げられましたが、スターリン時代にティムールの理想化は禁止されました。ウズベキスタン共和国が独立した後、民族と国家を象徴する英雄として復権しました。

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