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展望塔の上からは、夕日が沈んでいく方角に、夕日とのコラボが期待できる遺跡は見当たりませんでしたから、明るい内に遺跡紹介、日没直前に夕日の紹介に割り切りました。ここでは夕日の紹介です。

2019春、ミャンマー旅行記(14/25):5月25日(10):バガン(8):展望塔からの夕日鑑賞、インパール作戦

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2019/05/24 - 2019/05/28

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旅行記グループ 2019春、ミャンマーの旅

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

展望塔の上からは、夕日が沈んでいく方角に、夕日とのコラボが期待できる遺跡は見当たりませんでしたから、明るい内に遺跡紹介、日没直前に夕日の紹介に割り切りました。ここでは夕日の紹介です。

交通手段
観光バス
  • 空とエーヤワディ―川を沿寝ながら沈む、夕日の光景です。現在時刻は18時頃です。約15分間のサンセット・ショーでした。

    空とエーヤワディ―川を沿寝ながら沈む、夕日の光景です。現在時刻は18時頃です。約15分間のサンセット・ショーでした。

  • 少し不粋ですが、最初に、毎月の初日のミャンマーの日出と、日入り時刻を紹介しておきます。<br /> 1月1日:日出:06.44.52:日入:17.34.19                 2月1日:日出:06.44.16:日入:17.55.07 <br /> 3月1日:日出:06.27.09:日入:18.09.57<br /> 4月1日:日出:05.59.09:日入:18.21.09<br /> 5月1日:日出:05.34.38:日入:18.31.59                 6月1日:日出:05.22.28:日入:18.45.28  

    少し不粋ですが、最初に、毎月の初日のミャンマーの日出と、日入り時刻を紹介しておきます。
     1月1日:日出:06.44.52:日入:17.34.19                 2月1日:日出:06.44.16:日入:17.55.07 
     3月1日:日出:06.27.09:日入:18.09.57
     4月1日:日出:05.59.09:日入:18.21.09
     5月1日:日出:05.34.38:日入:18.31.59                 6月1日:日出:05.22.28:日入:18.45.28  

  • 日出、日の入りの紹介の続きです。<br /> 7月1日:日出:05.26.26:日入:18.53.33                 8月1日:日出:05.38.35:日入:18.46.29<br /> 9月1日:日出:05.49.08:日入:18.23.25<br /> 10月1日:日出:05.57.22:日入:17.54.29<br /> 11月1日:日出:06.09.41:日入:17.29.50                12月1日:日出:06.28.05:日入:17.22.04 <br /> 5月1日と6月1日の日入時刻から按分計算しますと、5月25日は18時43分頃の日入となります。

    日出、日の入りの紹介の続きです。
     7月1日:日出:05.26.26:日入:18.53.33                 8月1日:日出:05.38.35:日入:18.46.29
     9月1日:日出:05.49.08:日入:18.23.25
     10月1日:日出:05.57.22:日入:17.54.29
     11月1日:日出:06.09.41:日入:17.29.50                12月1日:日出:06.28.05:日入:17.22.04 
     5月1日と6月1日の日入時刻から按分計算しますと、5月25日は18時43分頃の日入となります。

  • 少しズームアップした夕日の光景です。雲一つない空を茜に染め上げていました。しばし見惚れた夕日の光景が続きます。

    イチオシ

    少しズームアップした夕日の光景です。雲一つない空を茜に染め上げていました。しばし見惚れた夕日の光景が続きます。

  • 山の頂を下に入れてズームアップした夕日の光景です。山並は、アラカン山脈になるようでした。アラカン山脈の北側はイン、インドとの国境地帯のパトカイ山脈になりますが、南部のこの辺りではミャンマー内陸部になります。

    山の頂を下に入れてズームアップした夕日の光景です。山並は、アラカン山脈になるようでした。アラカン山脈の北側はイン、インドとの国境地帯のパトカイ山脈になりますが、南部のこの辺りではミャンマー内陸部になります。

  • 夕日の下の方に、少しだけ雲がかかって来ました。下の方に少しだけ見えるアラカン山脈は、インドとミャンマーを走ります。最高峰は、サラメティ山の3826メートルですが、手元の地図ではその位置が分かりませんでした。

    夕日の下の方に、少しだけ雲がかかって来ました。下の方に少しだけ見えるアラカン山脈は、インドとミャンマーを走ります。最高峰は、サラメティ山の3826メートルですが、手元の地図ではその位置が分かりませんでした。

  • 更にズームアップした夕日の光景ですが、横に伸びた帯のような薄い雲が、少し増えてきたようです。

    更にズームアップした夕日の光景ですが、横に伸びた帯のような薄い雲が、少し増えてきたようです。

  • アラカン山脈の上の夕日の光景が続きます。アラカン山脈は、『インド北東部ナガラン州からミャンマー南部モーティン岬に走る褶曲山脈。ナガ、チン、ミゾなどの諸丘陵を含む。』と解説しているネット辞書もありました。

    アラカン山脈の上の夕日の光景が続きます。アラカン山脈は、『インド北東部ナガラン州からミャンマー南部モーティン岬に走る褶曲山脈。ナガ、チン、ミゾなどの諸丘陵を含む。』と解説しているネット辞書もありました。

  • 同じ時間帯でのズームアップ光景です。先程は薄い帯のような雲でしたが、今度は細い紐のような形になりました。この後は、綺麗な夕日を眺めながら、第二次大戦中の話題となりますので、申し訳ありません。

    同じ時間帯でのズームアップ光景です。先程は薄い帯のような雲でしたが、今度は細い紐のような形になりました。この後は、綺麗な夕日を眺めながら、第二次大戦中の話題となりますので、申し訳ありません。

  • 現在では『史上最悪の作戦』の例として挙げられる『インパール作戦』は、『援蒋ルート』の遮断を戦略目的として、当時のイギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した日本軍の作戦でした。『援蒋ルート』とは、主にアメリカ、イギリス、ソ連が中華民国を軍事援助するために用いた輸送路のことです。名前は、中華民国総統の蔣介石に因みます。

    現在では『史上最悪の作戦』の例として挙げられる『インパール作戦』は、『援蒋ルート』の遮断を戦略目的として、当時のイギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した日本軍の作戦でした。『援蒋ルート』とは、主にアメリカ、イギリス、ソ連が中華民国を軍事援助するために用いた輸送路のことです。名前は、中華民国総統の蔣介石に因みます。

  • 援蒋ルートの経路は四つあり、その内の一つが、ビルマルートでした。そのビルマルートは、新旧二つの陸路と一つの空路があったとされます。当時イギリスが植民地支配していたビルマ(ミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)に陸揚げした物資を、そこからトラックで雲南省昆明まで運ぶ輸送路が最初の陸路でした。ビルマからの英軍撤退で1942年に遮断されました。

    援蒋ルートの経路は四つあり、その内の一つが、ビルマルートでした。そのビルマルートは、新旧二つの陸路と一つの空路があったとされます。当時イギリスが植民地支配していたビルマ(ミャンマー)のラングーン(現在のヤンゴン)に陸揚げした物資を、そこからトラックで雲南省昆明まで運ぶ輸送路が最初の陸路でした。ビルマからの英軍撤退で1942年に遮断されました。

  • 最初の陸路が遮断されると、イギリスとアメリカはインド東部からヒマラヤ山脈を越えての空路のハンプに切り替え支援を続けました。しかし、空輸には限りがあるため、アメリカが中心となり、新しいビルマルートの建設を急ぎました。イギリス領インド帝国のアッサム州レドから昆明に至る新自動車道路は、ビルマからの日本軍撤退後の1945年1月に開通しました。.

    最初の陸路が遮断されると、イギリスとアメリカはインド東部からヒマラヤ山脈を越えての空路のハンプに切り替え支援を続けました。しかし、空輸には限りがあるため、アメリカが中心となり、新しいビルマルートの建設を急ぎました。イギリス領インド帝国のアッサム州レドから昆明に至る新自動車道路は、ビルマからの日本軍撤退後の1945年1月に開通しました。.

  • 話しは少し戻って、日本の南方軍が上伸した『二十一号作戦』と称する東部インドへの侵攻作戦です。1942年(昭和17年)8月下旬、戦争の早期終結につながることを期待した大本営は、この意見に同調して作戦準備を命じました。参加兵力は第15軍の第18師団を主力とする2個師団弱でした。ビルマ攻略戦が予想外に早く終わった背景がありました。

    話しは少し戻って、日本の南方軍が上伸した『二十一号作戦』と称する東部インドへの侵攻作戦です。1942年(昭和17年)8月下旬、戦争の早期終結につながることを期待した大本営は、この意見に同調して作戦準備を命じました。参加兵力は第15軍の第18師団を主力とする2個師団弱でした。ビルマ攻略戦が予想外に早く終わった背景がありました。

  • 1942年(昭和17年)インドへの侵攻作戦の構想は、インド北東部アッサム地方に位置するビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点でした。ビルマ-インド間の要衝にあって、他の連合国から日本と戦っていた中華民国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられました。

    1942年(昭和17年)インドへの侵攻作戦の構想は、インド北東部アッサム地方に位置するビルマから近いインパールは、インドに駐留するイギリス軍の主要拠点でした。ビルマ-インド間の要衝にあって、他の連合国から日本と戦っていた中華民国への主要な補給路(援蒋ルート)であり、ここを攻略すれば中国軍(国民党軍)を著しく弱体化できると考えられました。

  • 次第に山の尾根が近付いてきた夕日の光景です。『二十一号作戦』に対し、現地部隊は、雨季の補給の困難を訴え、乾季であっても、山岳や河川による交通障害、人口希薄地帯ゆえの徴発の困難などが予想されると主張したようです。また、イギリス軍の予想兵力は10個師団と見積もられていたようです。

    イチオシ

    次第に山の尾根が近付いてきた夕日の光景です。『二十一号作戦』に対し、現地部隊は、雨季の補給の困難を訴え、乾季であっても、山岳や河川による交通障害、人口希薄地帯ゆえの徴発の困難などが予想されると主張したようです。また、イギリス軍の予想兵力は10個師団と見積もられていたようです。

  • 1942年(昭和17年)10月以降、第一次アキャブ作戦などイギリス軍の反攻作戦が起きるようになり、1943年(昭和18年)前半には、ウィンゲート率いるコマンド部隊が空挺侵入して、地形的に防衛側有利と思われたチンドウィン川東方のジビュー山系へもイギリス軍の攻撃が可能なことが示されました。チンドウィン川は、エーヤワディ―川の最大支流、フーコン渓谷に発します。

    1942年(昭和17年)10月以降、第一次アキャブ作戦などイギリス軍の反攻作戦が起きるようになり、1943年(昭和18年)前半には、ウィンゲート率いるコマンド部隊が空挺侵入して、地形的に防衛側有利と思われたチンドウィン川東方のジビュー山系へもイギリス軍の攻撃が可能なことが示されました。チンドウィン川は、エーヤワディ―川の最大支流、フーコン渓谷に発します。

  • ウィンゲート旅団は撃退したものの、今後のさらに活発なイギリス軍の反攻作戦が予想されました。日本軍は、太平洋方面の戦況が悪化し、ビルマ方面からは航空兵力が転用されるなど戦力低下が生じていました。そこで日本側は防衛体制の刷新を図り、3月にビルマ方面軍を創設するとともに、その隷下の第15軍司令官に牟田口廉也中将を昇格させました。

    ウィンゲート旅団は撃退したものの、今後のさらに活発なイギリス軍の反攻作戦が予想されました。日本軍は、太平洋方面の戦況が悪化し、ビルマ方面からは航空兵力が転用されるなど戦力低下が生じていました。そこで日本側は防衛体制の刷新を図り、3月にビルマ方面軍を創設するとともに、その隷下の第15軍司令官に牟田口廉也中将を昇格させました。

  • 大規模な組織再編・人事異動により、第15軍司令部では牟田口中将以外の要員の多くが入れ替わり、現地事情に詳しいのは司令官の牟田口と参謀(防衛担当)の橋本洋中佐だけとなりました。幕僚達が司令官のビルマでの経験に頼らざるを得ない状況となり、これが司令官の独断専行発生の構造的な要因となり、本作戦失敗の遠因ともなったようです。

    大規模な組織再編・人事異動により、第15軍司令部では牟田口中将以外の要員の多くが入れ替わり、現地事情に詳しいのは司令官の牟田口と参謀(防衛担当)の橋本洋中佐だけとなりました。幕僚達が司令官のビルマでの経験に頼らざるを得ない状況となり、これが司令官の独断専行発生の構造的な要因となり、本作戦失敗の遠因ともなったようです。

  • エーヤワディ―川を染める夕日の光景です。ここは本流になります。第15軍司令官となった牟田口中将は、従来の単純な守勢から、攻勢防御によるビルマ防衛への方針転換をしたとされます。つまり、イギリス軍の反攻拠点であるインパールを攻略し、さらにインドのアッサム州へと進攻するという計画を強く主張するようになりました。

    エーヤワディ―川を染める夕日の光景です。ここは本流になります。第15軍司令官となった牟田口中将は、従来の単純な守勢から、攻勢防御によるビルマ防衛への方針転換をしたとされます。つまり、イギリス軍の反攻拠点であるインパールを攻略し、さらにインドのアッサム州へと進攻するという計画を強く主張するようになりました。

  • かつては攻勢反対論者だった牟田口中将でしたが、ウィンゲート旅団のような反攻を受けた場合、現在のジビュー山系防衛線が無効化することを恐れて判断を変えたとされます。牟田口中将は、イギリスからのインドの独立運動を誘発して、戦争の早期終結につながるとの期待も持っていたようです。ビルマでの日本軍は、イギリスからの独立を支援し、成功もしていました。

    かつては攻勢反対論者だった牟田口中将でしたが、ウィンゲート旅団のような反攻を受けた場合、現在のジビュー山系防衛線が無効化することを恐れて判断を変えたとされます。牟田口中将は、イギリスからのインドの独立運動を誘発して、戦争の早期終結につながるとの期待も持っていたようです。ビルマでの日本軍は、イギリスからの独立を支援し、成功もしていました。

  • 牟田口司令官は、まずインドへの侵攻拠点として、防衛線をビルマ領内のチンドウィン川西方ミンタミ山系に進めることを考えました。イギリス軍の反撃を避けるため、部隊行動が難しくなる雨期入り直前に奇襲的に防衛線を進めるべきと牟田口は主張し、これを『武号作戦』と呼称しました。しかし、小畑信良第15軍参謀長らの反対意見が出されました。

    牟田口司令官は、まずインドへの侵攻拠点として、防衛線をビルマ領内のチンドウィン川西方ミンタミ山系に進めることを考えました。イギリス軍の反撃を避けるため、部隊行動が難しくなる雨期入り直前に奇襲的に防衛線を進めるべきと牟田口は主張し、これを『武号作戦』と呼称しました。しかし、小畑信良第15軍参謀長らの反対意見が出されました。

  • 小畑参謀長の反対意見は、ウィンゲート旅団掃討後の部隊休養・再編が先決であることや、チンドウィン川西方への兵站・支援部隊の駐屯は困難であることなどが理由だったとされます。小畑参謀長は、航空機で予想進撃路の視察を行い、峻厳な山岳部では兵站の整備が困難であると認識しました。小畑参謀長は、グァム島で玉砕した小畑英良陸軍大将の弟です。

    小畑参謀長の反対意見は、ウィンゲート旅団掃討後の部隊休養・再編が先決であることや、チンドウィン川西方への兵站・支援部隊の駐屯は困難であることなどが理由だったとされます。小畑参謀長は、航空機で予想進撃路の視察を行い、峻厳な山岳部では兵站の整備が困難であると認識しました。小畑参謀長は、グァム島で玉砕した小畑英良陸軍大将の弟です。

  • 小畑参謀長は第15軍下の第18師団長田中新一中将に説得の協力を頼みましたが、これがもとで牟田口司令官の逆鱗に触れ、小畑は就任後僅か1か月半の5月に、河辺方面軍司令官の承諾を得て罷免されました。余談ながら、小畑参謀長は第44軍参謀長で終戦を迎え、シベリア抑留の後、1956年(昭和31年)12月 復員されています。

    小畑参謀長は第15軍下の第18師団長田中新一中将に説得の協力を頼みましたが、これがもとで牟田口司令官の逆鱗に触れ、小畑は就任後僅か1か月半の5月に、河辺方面軍司令官の承諾を得て罷免されました。余談ながら、小畑参謀長は第44軍参謀長で終戦を迎え、シベリア抑留の後、1956年(昭和31年)12月 復員されています。

  • 1944年(昭和19年)6月にビルマ方面軍司令部で行われた兵棋演習では、第15軍の主張する軍主力がアラカン山系の山岳地帯を一気に越えてインパールを電撃攻略し、さらにはアッサム地方へ進撃するという計画は、兵站の点から問題視され、演習に列席した竹田宮恒徳王大本営参謀は、『一五軍ノ考ハ徹底的ト云ウヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案』と評しています。

    1944年(昭和19年)6月にビルマ方面軍司令部で行われた兵棋演習では、第15軍の主張する軍主力がアラカン山系の山岳地帯を一気に越えてインパールを電撃攻略し、さらにはアッサム地方へ進撃するという計画は、兵站の点から問題視され、演習に列席した竹田宮恒徳王大本営参謀は、『一五軍ノ考ハ徹底的ト云ウヨリハ寧ロ無茶苦茶ナ積極案』と評しています。

  • 懸念にも関わらず、1944年(昭和19年)8月、大本営陸軍部はインパール攻略作戦の準備命令を下達しました。この時も南方軍は限定攻勢とする修正を指示しましたが、ビルマ方面軍はこの修正を強く求めず、第15軍では修正指示が事実上無視されました。牟田口司令官はアッサム侵攻構想を含む作戦準備に邁進し、8月末には各兵団長を呼び、作戦準備を命じました。

    懸念にも関わらず、1944年(昭和19年)8月、大本営陸軍部はインパール攻略作戦の準備命令を下達しました。この時も南方軍は限定攻勢とする修正を指示しましたが、ビルマ方面軍はこの修正を強く求めず、第15軍では修正指示が事実上無視されました。牟田口司令官はアッサム侵攻構想を含む作戦準備に邁進し、8月末には各兵団長を呼び、作戦準備を命じました。

  • 第15軍参謀の木下大佐は、作戦準備要綱で方面軍が作戦意図を明確に示していれば、牟田口であっても再考せざるを得なかったはずであると回想しています。1944年3月8日、輸送部隊の補充も物資の補給もままならないままに侵攻作戦が開始され、三方面からインパールを目指して進軍を開始しました。しかし、開始直後は順調であった作戦もすぐに破綻し始めます。

    第15軍参謀の木下大佐は、作戦準備要綱で方面軍が作戦意図を明確に示していれば、牟田口であっても再考せざるを得なかったはずであると回想しています。1944年3月8日、輸送部隊の補充も物資の補給もままならないままに侵攻作戦が開始され、三方面からインパールを目指して進軍を開始しました。しかし、開始直後は順調であった作戦もすぐに破綻し始めます。

  • 物資不足を補うために考案されたジンギスカン作戦(牛や水牛、羊に荷物を積んで運び、必要に応じて牛や羊を食用に利用する)はチンドウィン川渡河作戦で物資の大半が失われ、進路途中のジャングルや山岳地帯のために次々と脱落し失敗に終わりました。兵士自らが物資輸送を担当し、疲労はピークに達しました。

    物資不足を補うために考案されたジンギスカン作戦(牛や水牛、羊に荷物を積んで運び、必要に応じて牛や羊を食用に利用する)はチンドウィン川渡河作戦で物資の大半が失われ、進路途中のジャングルや山岳地帯のために次々と脱落し失敗に終わりました。兵士自らが物資輸送を担当し、疲労はピークに達しました。

  • 物資の不足する日本軍は、投下される連合国軍の物資を略奪する特別部隊を編成するなどして飢えに耐えますが、日本軍がインパールから15キロ地点に到達したところで連合国軍の反撃が激しくなり、進撃の足が止まりました。雨季に入り、日本軍の補給線が伸びきったところでイギリス軍の本格的な反抗作戦が始まる、戦線は分断されました。

    イチオシ

    物資の不足する日本軍は、投下される連合国軍の物資を略奪する特別部隊を編成するなどして飢えに耐えますが、日本軍がインパールから15キロ地点に到達したところで連合国軍の反撃が激しくなり、進撃の足が止まりました。雨季に入り、日本軍の補給線が伸びきったところでイギリス軍の本格的な反抗作戦が始まる、戦線は分断されました。

  • 佐藤師団長の撤退命令は司令部の命令を無視、拒絶するという陸軍刑法第42条に反しており、師団長という要職の人物が日本陸軍最初の抗命事件となりました。牟田口司令官はこれに激怒して佐藤師団長を更迭、また第33師団長・柳田元三中将、第15師団長・山内正文中将も撤退を進言したため、牟田口司令官はこの二人も更迭し、第15軍は実質的に崩壊しました。

    佐藤師団長の撤退命令は司令部の命令を無視、拒絶するという陸軍刑法第42条に反しており、師団長という要職の人物が日本陸軍最初の抗命事件となりました。牟田口司令官はこれに激怒して佐藤師団長を更迭、また第33師団長・柳田元三中将、第15師団長・山内正文中将も撤退を進言したため、牟田口司令官はこの二人も更迭し、第15軍は実質的に崩壊しました。

  • 立案時点ですでに数多くの問題点を指摘されながら、日本が敗戦の色を濃くする中で、陸軍が無理矢理に実行したのがインパール作戦です。当初の予測通り燃料、弾薬などの物資不足、行軍行程の無理があり、動員兵力の7割以上を失う大失敗に終わりました。それにも関わらず、指揮官が誰一人として責任を取らなかった作戦として歴史にその悪名を残しました。(以上、ウィキペディア等を参照しました)

    立案時点ですでに数多くの問題点を指摘されながら、日本が敗戦の色を濃くする中で、陸軍が無理矢理に実行したのがインパール作戦です。当初の予測通り燃料、弾薬などの物資不足、行軍行程の無理があり、動員兵力の7割以上を失う大失敗に終わりました。それにも関わらず、指揮官が誰一人として責任を取らなかった作戦として歴史にその悪名を残しました。(以上、ウィキペディア等を参照しました)

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