2019/05/08 - 2019/05/08
587位(同エリア1479件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1499冊
- クチコミ1144件
- Q&A回答73件
- 2,710,305アクセス
- フォロワー153人
タリン2日目はカドリオルク宮殿の観光から始まりました。ホテルで現地ガイドさんと合流しましたが、タリン大学の日本語学科を卒業された方でした。日本語に興味を持ったのはアニメからだそうです。車窓から見えるタリンハウスなどについても詳しく説明してくれるのがありがたかったです。カドリオルグ地区でバスを降りて、公園の中を少し散策します。エカチェリーナに対応するエストニアの女性名「カドリオルグ」とは「エカテリーナの谷/Ekaterinenthal 」を意味するそうで、ピョートル大帝の妻であるエカチェリーナ1世にちなんで名づけられたのだそうです。エストニアがロシア帝国の支配下にあった時代にロシアのピョートル大帝がエカテリーナ妃のために造らせた庭園で、カドリオルグ宮殿はその中に夏の離宮として建てられました。妻と旅したロシアの旅でサンクトペテルブルクからの郊外の避暑地であるツァールスコエ・セローのエカチェリーナ宮殿を思い出します。第4代ロシア皇帝アンナが増築し第6代ロシア皇帝となったエリザヴェータは母のエカチェリーナ2世が建築させたものが時代遅れで不便であるとして抜本的に造り直すことを決定します。宮廷建築家のバルトロメオ・ラストレッリに命じて壮麗で壮大なロココ調建築に変えてしまいます。今回旅したリガとヴィリニュスの間にあるルンダーレの美しいバロック様式の宮殿を設計したのもバルトロメオ・ラストレッリでした。宮殿を見ているだけでも中世のロシア帝国とバルト3国の関係の深さと地理的な近さを感じる事が出来ます。
宮殿の見学が終わった後はバスに乗ってタリン旧市街のトームペア地区に移動します。観光は高いところから低い所へ進むのが鉄則です。おかげで歩くのが楽でした。どこかへ入場するわけではないのですが、眺めの良い展望台にも立ち寄るので満足いくものでした。ツアー全員での昼食を終えると午後は自由時間となり、妻と2人で買い物モードに頭を切り替えて旧市街をさまよい歩きました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 観光バス 船 徒歩
- 航空会社
- JAL
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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タリン2日目の朝です。朝食後はバスに乗ってタリン市の外れの「カドリオルク宮殿」から旧市街の観光です。
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朝食は前の晩の夕食を食べたホテル内のレストランです。
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大きなホテルなので朝食会場も混雑していました。かなり大きな団体が入っていたようです。
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ほぼ毎朝食べていたベリーとヨーグルトです。
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このホテルのジュースはフレッシュだったので美味しかったです。旅の前半は風邪の症状がありましたが、途中からはかなり良くなりました。ずっと食欲があったのは助かりました。
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緑色のサント・オレグエル教区のバンダナをした大きな団体さんはバルセロナから来られたようです。聖オレグエルはバルセロナの聖人の1人でバルセロナの大聖堂にお墓があります。調べてみましたがエストニアとの関係は特には無さそうでした。
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ホテルの前でバスを乗って旧市街の東にあるカドリオルク地区に向かいます。この日の午前中と翌日は同じバスになりますが、大きなバスに10人のお客では申し訳ない気分になります。
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バスは港の近くを通りますが海は見えませんでした。この日のガイドさんはタリン大学の日本語学科を卒業された女性で、日本に興味を持ったのはアニメからだったそうです。
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タリンのメソジスト教会はエストニア最大の近代的なメソジスト教会の建物です。ヴィレン・クンナプとアイン・パトリックによって設計され、インテリアデザインはカトリンとアルゴ・ヴァイクラという方だそうです。
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ケスクリン地区の東側にあるのがカドリオルグ地区でエストニアの大統領官邸や各国の大使館が集まるエリアでもあります。途中の通りには美しい木造建築が現れます。
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これらは1920年代から30年代に建てられた「タリンハウス」と呼ばれているタイプの家です。建物の大きさはそれぞれですが建物の中央には石の階段が設けられ、左右が対称のデザインで造られています。
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こうした「タリンハウス」はタリン市内に500棟ほど残っているそうで、その多くは旧市街の西側の海岸近くのカラマヤ地区に残っています。この地域には昔から多くの漁師や魚屋や造船技師が住む「漁師の街」でしたが1870年にタリンがサンクトペテルブルクと海路で結ばれたのを機にここには巨大な工場が建ち並び、同時に数千人もの労働者が移住して、その時に建てられたのが「タリンハウス」の始まりだそうです。
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建物のデザインを見てロシアっぽさを感じたのは元々の由来がそれだったからかもしれません。
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モスクワから「黄金の輪」をバスで周った時に見たダーチャと呼ばれる週末や夏休みに利用する別荘のような建物にも似ているなと思いました。
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最近はこれらの建物は人気が出てきて高級住宅街になりつつあるそうです。ただ、古いまま売りに出されている建物もまだありました。
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カドリオルグ地区でバスを降りて公園の中を少し散策します。エカチェリーナに対応するエストニアの女性名「カドリオルグ」とは「エカテリーナの谷/Ekaterinenthal 」を意味するそうで、ピョートル大帝の妻であるエカチェリーナ1世にちなんで名づけられたのだそうです。
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池や噴水や林は「カドリオルグ公園」と呼ばれ造園当時から公共のものとして開放されていたそうです。ピョートル大帝の夏の別荘地はタリンでも美しい場所として人気なのだそうです。
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フリードリヒ・レインホルト・クロイツヴァルト(Friedrich Reinhold Kreutzwald)はエストニアの作家であり医者でもありました。また歌手としても知られ 主な作品はエストニアの国民的叙事詩カレヴィポエク(Kalevipoeg)でした。 エストニア民族の神話的英雄カレヴィポエク(カレブ王の王子)を主人公に彼の冒険談に彩られた生涯を描いた叙事詩的な作品です。
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19世紀前半の民族的ロマン主義の影響をうけ、直接にはフィンランドの叙事詩カレワラに刺激されてF.R.フェールマンによりエストニア各地から収集された散文や資料をもとに、友人のクロイツワルトが民謡の韻律や対句法を用いて詩の形式でまとめあげたものだそうです。
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ようやく宮殿に到着です。バロック様式の「カドリオルグ宮殿」は1718年から建設が始まり完成までに5年の歳月を費やします。イタリア人建築家ニコロ・ミケッティ(Niccolo Michetti)の設計で現在は美術館(Kadriorg Art Museum)として使用されています。エストニアがロシア帝国の支配下にあった時代にロシアのピョートル大帝がエカチェリーナ妃のために造らせた庭園で、カドリオルグ宮殿はその中に夏の離宮として建てられました。
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ここまで来て当然美術館の見学をするものと思っていました。ブリューゲルの作品もあったななどと思っていましたが外観だけの見学でした。
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2007年に天皇陛下がエストニアを訪問された際にはこの宮殿内で昼食を召し上がられたそうです。
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また、離接するエストニア大統領官邸が出来るまでは宮殿の一部が大統領の執務室や邸宅として使われていたのだそうです。その頃に晩餐会のホールが拡大されるなど改装もされています。本格的な改修が行われたのは1991年からで歴史的な文献を参考に出来るだけオリジナルのデザインに近づけたそうです。
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宮殿の庭園側には美しいフランス式の庭が広がります。ちょうど午前中はこちら側に太陽光線が当たってきれいでした。
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大統領官邸との間にはバロック式の噴水がありました。
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ポセイドンはオリンポス十二神の一柱で最高神ゼウスに次ぐ圧倒的な強さを誇り海洋の全てを支配します。地下水の支配者でもあり、泉の守護神ともされるのでヨーロッパ各地の公園や庭園でその姿を多く見かけます。キュクロプスから贈られた三叉の矛(トリアイナ)を持つ姿なのですぐに分かります。この噴水ではイルカを踏みつけるようなデザインで哀れなイルカは口から水を吐いています。
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大きな庭なのでたくさんの園丁の方が作業されていました。園丁という言葉を知ったのはジブリのアニメの「天空の城ラピュタ」でパズーが「きっと園丁のロボットなんだ」というセリフだったように思います。
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妻と旅したロシアの旅でサンクトペテルブルクからの郊外の避暑地であるツァールスコエ・セローのエカチェリーナ宮殿を思い出します。第4代ロシア皇帝アンナが増築し第6代ロシア皇帝となったエリザヴェータは母のエカチェリーナ2世が建築させたものが時代遅れで不便であるとして抜本的に作り直すことを決定します。宮廷建築家のバルトロメオ・ラストレッリに命じて壮麗で壮大なロココ調建築に変えてしまいます。
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今回旅したリガとヴィリニュスの間にあるルンダーレの美しいバロック様式の宮殿を設計したのもバルトロメオ・ラストレッリでした。阪急交通社のツアーを組んだ方はそんなことも考えているのだろうなと感心しました。
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5月のタリンは花が咲くのはこれからなのでしょう。花を植え替える準備が進んでいました。フランス式の庭園を眺めているとルイ14世のヴェルサイユ宮殿やシャルル8世のアンボワーズやブロワの城の庭園と同じロワール渓谷のヴィランドリー城を思い出します。ウイーンのシェーンブルン宮殿やベルヴェデーレ宮殿のミニチュアにも見えます。
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庭園を抜けると「大統領官邸」が木立の中に建ってました。1930年代にエストニア政府は共和国大統領の公式の建物をカドリオルグ宮殿の近くに建てることを決め、同時に古いカドリオルグ公園の改修も行います。建物は建築家アラリ・コトリ(Alari Kotli)によって設計されて1938年夏に竣工しました。
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更に木立の中には養蜂箱が置かれてありました。これは大統領のもので採れた蜂蜜は晩餐会などで使われるそうです。
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隣にある「クム美術館(KUMU Art Museum)」は18世紀から現代に至までのエストニア美術作品を所蔵する国立美術館です。古代の英雄を謳った国民叙事詩「カレヴィポエク(Kalevipoeg)」の挿絵家クリスティヤン・ラウドの作品があるのですが…。
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クム美術館の前でバスに乗って旧市街へ戻ります。タリンハウスにもユーゲントシュティール的な要素があるのだと感じた家のエントランス。
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当たり前の風景のように並んでいる建物ですがじっくり時間をかけて見てみたい気がします。
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大きな邸宅も小さな個人住宅も基本的には建物の造りは同じような木製の羽目板張りなのが面白いです。
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「エストニア国立歌劇場」はフィンランド人建築家のアルマス・リンドグレンとウィヴィ・ロンが設計したユーゲントシュティール様式と新古典派様式の折衷様式の建物で、1913年に初めて公開された頃のタリンでは最大の建築物だったそうです。
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歌劇場の隣には「エストニア・ドラマ劇場」は1910年に建てられたタリンドイツ劇場を借り受けて、1920年に演劇学校としてスタートします。1937年にエストニアドラマ劇場に改名されます。
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「タリン英語学校スポーツ複合施設」(Sports Hall of Tallinn English College)
はソヴィエト占領下のエストニアで英語を専門とする数少ないエリート学校の1つだったそうです。この建物はKOKOという設計会社の作品です。 -
「自由の広場 (ワバドゥセ広場)」はロシア皇帝の時代のからエストニアの最初の独立時代を通してパレードなどが行われる場所でしたが、ソヴィエト時代とソヴィエト崩壊後には忘れられた場所となっていました。2009年に大規模な修復を通して広場は昔の輝きを取り戻すことになります。十字架は広場の新しい象徴の1つで、独立戦争の記念碑であり1918年から1920年に渡る外国の支配からの自由を勝ち取るためのエストニアの戦いを祝福する「エストニア独立戦争戦勝記念碑」です。
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バスはトームベア地区の南側で止まり、ここからタリン旧市街の見学が始まります。坂を上った先には「アレクサンドル・ネフスキー教会」が現れました。
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帝政ロシアの一地方としてエストニアが組み込まれていた1894年から1900年の間にミハイル・プレオブラジェンスキー(Mikhail Preobrazhensky)によって典型的なロシア復古主義のスタイルに設計されます。アレクサンドル・ネフスキー大聖堂はタリン最大かつ最重要の正教会の大聖堂です。
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伝承によるとこの丘にはエストニアの民族的英雄であるカレヴィポエグ(Kalevipoeg)が葬られているとされます。その丘の上に建つ大聖堂は多くのエストニア人からはロシア支配を想起させるものとして嫌われているそうです。
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エストニア当局は1924年に大聖堂の破壊を計画しましたが実行に移されることは無く、1991年にソヴィエト連邦が崩壊してエストニアが独立を回復すると大聖堂は綿密な修復を受けます。負の建築を何でも破壊して卑しめる国もありますが、次に支配する国のためなのか、その国に明るい将来は無い気がします。ファサードには聖母子のモザイクのイコンが飾られています。
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その上には天使が掲げる聖骸布のモザイクに続きます。これはヴェロニカの聖骸布を表したものだと思われます。
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言い伝えによるとヴェロニカはエルサレムの敬虔な女性で、十字架を背負いゴルゴタの丘へと歩くキリストを憐れみ、額の汗を拭くよう自身の身につけていたヴェールを差し出します。キリストは彼女の申し出を受けて汗を拭き、ヴェールを彼女へ返すと奇跡が起こりヴェールにはキリストの顔が浮かび上がっていたとされます。
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教会に対峙するように「トームペア城」の建物が建っています。11世紀にエストニア人は木造の城を建設しますが、13世紀になってリヴォニア帯剣騎士団が占領してから本格的な要塞建設を開始します。18世紀末までに現在のような外観となり、20世紀末にロシアから独立した後はエストニア国会の議事堂として使用されています。
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エストニアの国章は金地に青い3頭の正面を向いた獅子を描いたもので、金の楢(なら)の枝に囲まれたデザインとなっています。青い3つライオンはその起源は13世紀にまで遡り元来はタリンの市の紋章でした。楢はエストニアの人々にとって聖なる木とされています。
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ネフスキー教会前の広場からは大聖堂の尖塔が頭をのぞかせ、トームベア地区の広さを実感できます。
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「アレクサンドル・ネフスキー教会」の内部を参拝しましたが写真撮影は禁止です。ドネーションの代わりに絵葉書を数枚買いました。
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次は大聖堂に向かって移動しますが、その通りはお土産物屋さんが並んでいました。どこもこんな風にちゅせいの甲冑もどきで観光客の興味を惹こうとしています。
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建物の外壁のレリーフはヴォルデマール・パンソ(Voldemar Panso)というエストニアのプロデューサーで俳優で演劇教師で映画批評家だそうです。今は博物館となっていますが、元々は彼の演劇学校の建物でした。ダチョウ倶楽部の元リーダーで電撃ネットワーク(TOKYO SHOCK BOY)の南部 虎弾(なんぶ とらた)を思い出したのは私だけでしょうか。
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大聖堂は1219年に建設が始まり、それ以降に何度も再建されたために建築様式が融合されています。その中心となる円天井は14世紀に築かれたものであり、バロック様式の塔は1770年代末に加えられています。元々はエストニアのドイツ系エリート貴族のための教会で、17世紀から20世紀にかけての複雑な葬儀用の紋章や、13世紀から18世紀にかけての墓石が見事なのですが内部の見学はありません。
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先頭の避雷針には1772の数字が読み取れました。
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大聖堂の古い大時計は現在も現役で時を刻んでいました。
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1743年に据えられた日時計もほぼ正しい時間を指示しています。カドリオルク宮殿からここまで観光してもまだ午前9時20分です。
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トームベアは細い路地が多いので、カーブミラーをよく見掛けました。
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ステンボック・ハウス(Stenbock House)は有名な新古典主義の建物で、 エストニア政府の建物になっています。ステンボック・ハウスの歴史は1780年代にさかのぼり、当時のエストニアのロシア帝国政権は裁判所のために新しい建物を建てる計画を始めました。ヒウマア島の不動産を所有する地元の貴族で地主であるヤコブ・ポントゥス・ステンボックはトーンペアの丘の上に新しい建物を建てる権利を得ます。
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建物の建設は1787年に始まりますが、ロシアはトルコとの戦争に関連した支出から資金を使い果たし、未完成の建物はステンボックの所有となりました。その後は彼のタリンの住居として使用されてステンボックの名を冠しています。 1828年のステンボックの死後は最終的には政権の所有地となり、ついに裁判所として使用されるようになりました。
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ステンボック・ハウスの脇には「パットクリ展望台」があり、タリンの美しい景色を見る事が出来ました。遠くフィンランド湾の海も見えます。
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タリンという名前が「デンマーク人の町、城」を意味する「Taani Linn」に由来するように、タリンの町は13世紀にトームペアの丘にデンマーク人が城を築いたことから発展をはじめます。その後はドイツ人の入植が進み、13世紀なかばにはドイツ名の「レファル」でハンザ同盟に加盟し、ロシアとの交易の拠点として大いなる繁栄の時期を迎えます。
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エストニアの神話ではトームペアは古代の王カレフが眠る墓陵とされています。カレフの妻リンダは王を埋葬した場所に巨大な石を集めて墓陵を造ろうとしますが、まもなく完成というところで最後の石を落としてしまい、疲れ果てた彼女は石の上に腰を下ろし涙に暮れたという伝説があります。
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聖オレフ(オレヴィステ)教会の尖塔が一番目立ちますが、タリン旧市街の大きさを感じるには一番良い場所です。旧市街で最も高い塔(123.7メートル)ですが中世には159メートルの高さを誇り、1549年から1625年までは世界一高い建造物だったようです。落雷による火災で3度消失しています。このために灯台として使われたり、またソヴィエト時代にはKGBの無線塔としても使われました。
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ようやくフェンス際が空いたので記念写真を撮りましょう。
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記念写真でポーズを取るあの国とあの国の団体さんが場所を占拠しているので、移動するまで待つしかない状態は、国と国の関係の縮図のようでした。
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旅の2日目のヘルシンキからストックホルムへ向かうフェリーの船上で見たタリンとヘルシンキ間を往復するフェリーに再会です。翌日はこのフェリーに乗ることになります。
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赤い甍が続くタリン旧市街ですが、意外に木々が多いのに驚きます。グーグルマップの写真でタリン旧市街を見ると城壁内だけが赤い瓦で覆われているのが分かります。
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港越しにタリンテレビ塔が見えました。塔はタリン中心部から北東に6キロメートルの場所にあるピリタ地区近郊に建っています。元々は1980年のモスクワオリンピックで行われるレガッタの放送に向け、良質の電信サービスを提供する目的で建設されたそうです。リガのテレビ塔もヴィリニュスのテレビ塔も同じようなソヴィエトの思惑から建てられたのだと分かります。
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旧市街の北側のライ通りとピクク通りの間にある13世紀から16世紀に建造されたゴシック様式の尖塔はタリンで最も高い高さ124メートルあり、夏季に開放されて上からは見事なタリンの町並みが望めるそうです。隣には巨大な煉瓦造りの煙突が見えます。タリンを旅していて煙突掃除人に出会えたら、胸の真鍮ボタンに触らせてもらうと幸運を呼ぶそうです。現在も19世紀の時代の制服を使用しており、厳しい徒弟制度と試験があります。
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トームペアの高台の少し南側のコフトウッツァ展望台にも立ち寄りました。少し移動するだけで景色が違って見えます。
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聖ニコラス(ニグリステ)教会も目の前に見えます。この教会はゴットランド島から来たドイツの商人や入植者が創立し、城壁が築かれる前に要塞としての機能も伴うように設計されました。建物は1523年の宗教改革期の略奪の中を生き残ってきましたが、20世紀に入って第2次世界大戦での爆弾で破壊されてしまいます。
1980年代に修復が行われて以降は宗教芸術のみを対象とする博物館となり、バーント・ノトケの美しくも不気味な絵画「死の舞踏(Danse Macabre)」が収蔵されています。 -
ただのお土産物屋さんの入り口の扉ですが、美しい装飾が施されています。
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お土産物屋さんではこんな人形も数多く見ました。今回の旅ではいろいろおねだりを聞いてあげたから、来月のお小遣いは-30%にしたい気分です。
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城壁の塔の中で1つだけ四角いネイツィトルンは、中世には売春婦の牢屋だったので「乙女の塔」と呼ばれていたそうです。現在は大きな窓がつけられて、カフェや展示室に使われています。
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デンマーク王の庭は聖ニコラス教会に面した斜面にあります。 伝説によるとこれはデンマークの侵略の間に旗が空から降りてきた場所とされます。 この旗はバルデマー2世国王を支持して、戦いの流れを変えました。 その後旗はデンマークの国旗になりました。
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売春婦の処刑場でもあったネイツィトルンは幽霊を見た話が数多く、元死刑執行人だった修道士や中世の衣装を着た女性の姿が見られるそうです。
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そんな伝説のせいか3体の修道士の銅像がいろいろな場所に置かれてありました。
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北京郊外の明十三陵の「石像生」の前に立って同じポーズで写真を撮ったことを思い出します。
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ちょっとぽっちゃりしたゴーストです。こういった写真を撮るには衣装まで同じにしないと面白くありません。しかしうまいタイミングで黒いフード付きのコートを着ているものです。
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リュヒケ・ヤルク通りの石段を下りてゆきます。かなり下るのはトームペアが高台だということです。
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脇にはアレキサンドル・ネフスキー教会へ上れるトンネルなど、迷路のようなところです。この辺りも城壁と塔の一部です。
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坂を下りきると聖ニコラス教会に出ました。現在は博物館となっていますが、一番の収蔵品は今まで1度も教会の外に出たことがない門外不出の「死の舞踏(Danse Macabre)」です。15世紀後半にバーント・ノトケによって描かれたこの作品は、国王や皇女たちが死を表す骸骨と一緒にダンスを踊っている様子が描かれています。
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そのまま旧市庁舎まで戻ってきました。壁に天使の石板が飾られてありました。墓碑にしては縦長すぎます。甲冑を着て右手に長剣を持ち、左手に天秤を持った姿は大天使ミカエルだと分かります。
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広場には屋台が並び、リネン製品がたくさん売られていました。
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「市議会薬局(Raeapteek)」は1422年に創業したヨーロッパ最古の薬局です。薬局の建物の壁面には薬学のシンボルであるヘビが巻き付いた杯「ヒュギエイアの杯」のマークがあります。これは中世のヨーロッパではよくみられるモチーフで、現在も救急車や病院などいろいろな場所で使われています。
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1581年から1911年まではバーチャート家が10代に渡って経営していました。ロシアの皇帝がこの店へ薬を注文したというのはとても有名な話だそうです。中世にこの薬局で販売された治療薬の中には、ヘビの皮やユニコーンの角の粉末といったものが含まれていました。また日用品としてのジャムやお茶、火薬やマジパンも扱っていました。マジパンはこの薬局で最も売れた商品の1つでしたが、この薬局で15世紀に治療薬として発明されたという言い伝えもあります。マジパン(Marzipan)は失恋の痛みを軽減する効果があったらしいです。
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広場を抜けてさらに見学は続きます。「オマアシ(Oma Asi)」というエストニアの若手作家の雑貨店の脇を抜けます。
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店の扉には建物のイラストが描かれてありました。
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抜けたところが「聖霊教会」で14世紀に建てられたこの教会のファサードに備わる塗装された手の込んだ時計はタリンで最も古い公共の時計です。その歴史は17世紀末に遡るそうです。内部の見学はありませんがリューベックの有名な芸術家バーント・ノトケによる15世紀の独特な祭壇や1597年に造られたエストニア最古の説教壇など貴重な木造彫刻があるそうです。
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この教会は元々街の病人や老人を対象とした隣接する聖霊救貧院の一部として創立されました。宗教改革の後はそれまでのドイツ語に対してエストニア語による初の説教が行われたのはこの教会であり、そのヨハン・コール牧師が1535年に出版したカテキズムはエストニア初の書籍と考えられています。
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教会前の小さな広場にはエストニアが帝政ロシアに支配されていた1806年に創業した「カレフ」というチョコレート店がありました。創業者はドイツからやってきた菓子職人のローレンツ・カビエゼルという人で、現在はタリン最古のカフェ「マイアスモック・カフェ」として営業しています。
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ここの地下にはトイレがあるので、全員でトイレをお借りしました。
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1階の窓際ではマジパンの絵付けが行われていました。BS放送でタリンを紹介した番組があり、その時に絵付けを指導していた女性がいらっしゃいました。
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可愛らしいマジパンの人形がガラスケースに並んでいました。昔のセルロイド人形のようにも見えます。
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型で成形されたマジパンが粉にまみれて絵付けを待っていました。
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不思議な動物たちが並んでいます。
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「聖霊教会」の前には「大ギルドの会館」があります。建物は15世紀に生まれた大ギルド会館で、それ自体がタリンの壮観な歴史的遺物と言えます。石造りのポーチを持った切り妻造りの建物はギルドの力と比べると地味な感じがします。既婚のドイツ商人であることが必須だったギルドの組合員はタリン市の市議会を動かすほどの力を持っていたそうです。
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ピック通りから旧市街を歩いていると昨日見逃していたお店も発見できました。
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ヴェネ通り18番地の「Labora Shop」名前の通り紙製品お店で、前の日は照明が付いていなかったので見逃していたようです。カードで天使の翼がディスプレイされていました。
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中世風のデザインがなかなか素敵です。アントワープのプランタン・モレトゥス博物館の活版印刷機を思い出しました。
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「聖カトリーナの小道」もさすがに観光客の姿が見えました。
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日中の人が多い時間帯よりも夕暮れ時のほうが情緒を感じられてよかったです。
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編み物が盛んなバルト3国なので毛糸を扱うお店がたくさんありました。カラフルな色味や混ざった色の組み合わせがヨーロッパらしいですね。
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城壁沿いのセーターの壁も店開きが済んでいました。
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旧市庁舎広場の屋台で売っていたものと同じようですが、午後の買い物でもここまで手が回りませんでした。それくらい魅力のある店の多いタリン旧市街でした。
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ヴィル通りまで戻ってきました。
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ヴィル門を出ると花屋さんが並んでいます。花の並び方が同じなので本当に24時間営業なのでしょうね。
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3日くらい滞在するのであればバラの花とか買いたいですね。昔上海の「瑞金賓館」の蒋介石と宋美齢が宿泊した部屋に滞在したときはホテルの裏にある花市場で夜来香(イエライシャン)を買って部屋に飾ったことを思い出します。
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母の日の直前だったので赤いカーネーションもたくさん売られていました。
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メレ大通りの民芸品市辺りからバスに乗って移動しますが、ストックホルムから到着したリガから昨日タリンに着くまで一緒だったバスと運転手さんとバッタリ再会しました。1週間のツアーが終わっても休みなく働いているのにびっくりしました。
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旧市街の城壁の表に広がる城塁に沿ってバスは走ります。
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右側に小さくフェリーターミナルも見えました。
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バスはカラマヤ地区のタリンハウスの前で停まりました。ここから少し歩いたレストランでお昼ご飯になります。
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「セソ(Kohvik Sesoon)」というお店でした。トリップアドバイザーでもタリンで登録されている900件以上の店の中で54番目の人気店です。
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ここで半日タリンの町を案内してくれたガイドさんとお別れです。ガイドさんともお別れですが、ツアー全員で食事するのもこれが最後でした。
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1皿目は野菜サラダ。簡単なものですが美味しいドレッシングでした。
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シェピーズ・サイダー社(Sheppy’s Cider)は英国産サイダーブランドの中でも高品質のサイダーを生産していることで有名です。シードルの名前の通りリンゴ風味の飲みやすいものです。バルト3国ではシードルよりもサイダーの方が通じやすかったです。
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ル・コック( A. Le Coq)は1807年にエストニアのタルトゥで創業されたビール醸造所です。元々はロシア向けのビールを造っていたそうです。200年の間に経営者は変遷しますが、現在は民営化されエストニアでもっとも有名なビール会社になりました。
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メインは鶏の胸肉にバジルソースをかけたものと、付け合わせはスパイシーなえんどう豆の煮込みでした。旅行会社の苦労が偲ばれる美味しい料理でした。他社に比べるとリーズナブルな金額でツアーを組んで、美味しい料理を提供するのは大変だと思いました。
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食事の後はカラマヤ地区のタリンハウスを見てみたい気がしましたが、全員で旧市街に戻ります。この辺りにはエストニア・ピアノの工房があったことも思い出しました。
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典型的なタリンハウスは左右対称で中央部に入り口があり、中に入ると階段があるそうです。
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エストニアは1918年に第1次世界大戦中の帝政ロシア崩壊に伴い、バルト3国のラトビアとリトアニアとともにロシアから独立します。2018年は独立100周年だったので町中に18をデザインしたものがありました。
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プフヤ大通りの辺りは旧市街の外側の草地なので、トラムが走っている姿が妙な感じがします。
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タリン旧市街の一番北側のスール・ランナ門から市内に入ります。
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手前の円筒形の建物は「ふとっちょマルゲリータ」と呼ばれるものです。
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門を過ぎるとすぐに「三人姉妹」と呼ばれる建物があります。女性らしい雰囲気をもつ3つの商人の住居が寄り添うように並んでいるので「三人姉妹」と呼ばれるようになったのが由来だそうです。この歴史的建築物は2003年に改装されて5ツ星のホテルとなりました。
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ホテルは天皇皇后両陛下や英国のエリザベス女王がエストニアをご訪問された際にお泊りになったホテルとしても有名です。外観は3件の建物ですがホテルに改装する際に内壁はぶち抜いたそうです。
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さらにピック通りを進むと「聖オレフ(オレヴィステ)教会」の裏側に差し掛かりました。
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フェンスの内側には「キリスト受難のレリーフ」や「オレフの石像」があります。伝説では「オレフ」と呼ばれる巨人がこの教会を建てたとされます。オレフは自分の名前が分かったらその費用はいらないと言います。村人が彼の家を覗くと奥さんが謡う子守唄の中に名前が入っていました。村人が塔の上にいるオレフの名前を呼ぶと驚いて落ちて死んでしまいました。気の毒に思った人々がオレフの慰霊碑を造ったとされます。
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キリストの受難の場面の1つは「ゲッセマネの祈り」でした。イエスが十字架に架けられる前の晩、使徒たちと共に「最後の晩餐」を済ませたイエスがゲッセマネと呼ばれるオリーブの木が植わった園にて祈りをささげる場面がありました。ロバの子に乗ったイエスがエルサレムに入場する姿も読み取れます。
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この辺りで添乗員さんとツアーのメンバーとお別れして妻と2人で買い物に移りました。ヴィリニュスとリガではあまり買い物が出来なかったので、タリンの午後は買い物に歯止めが利かなくなってしまいました。
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(20)タリン旧市街の午後は買い物に歯止めがかからず、満杯のトランクを見て...
2019/05/08~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(1)JALの直行便で快適にヘルシンキin、帰国の空港ではムーミンカフェに...
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2019/05/01~
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2019/05/03~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(7)ヴァータハムネン港からロマンチカ号でバルト海を渡り、ダウガバ川からラ...
2019/05/04~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(8)リガの港からバウスカのルンダーレ宮殿でランチを楽しみ、「バルトのベル...
2019/05/04~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(9) ヴィリニュスのホテルでくつろいで、ブルーモーメントの美しい旧市街を...
2019/05/04~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(10)カウナスの杉原千畝記念館に感動を覚え、日曜日の旧市街を歩く。
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(11)ヴィリニュスへ戻る前にゲディミナス王の夢の跡、トゥラカイ城の周囲の...
2019/05/05~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(12)聖ペテロ&パウロ教会の3D漆喰彫刻に驚嘆し、リトアニア雑貨店巡りと...
2019/05/05~
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2019/05/06~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(14)「百万本の薔薇」を謡いながら、リガの旧市街の大聖堂からブラックヘッ...
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(15)リガ新市街のユーゲントシュティール建築に感動し、映画「戦艦ポチョム...
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(16)夜のリガ旧市街を彷徨い、ブラック・バルサムの生まれたブラック・マジ...
2019/05/06~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(17)スィグルダの神の庭トゥライダ城とマイヤの悲恋のグートゥマニャ洞窟を...
2019/05/07~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(18) エストニア最初の高層ホテルのオリジナル・ソコスヴィルに到着しタリ...
2019/05/07~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(19)カドリオルク宮殿とタリン旧市街を散策をし、カラマヤ地区のレストラン...
2019/05/08~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(20)タリン旧市街の午後は買い物に歯止めがかからず、満杯のトランクを見て...
2019/05/08~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(21)タリン最後の夜はオルデ・ハンザでハーディ・ガーディの演奏を聴き、美...
2019/05/08~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(22) タリン港からフェリーに乗り、世界一眺めの良いバーガーキングでバー...
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