2019/05/06 - 2019/05/06
485位(同エリア839件中)
kojikojiさん
- kojikojiさんTOP
- 旅行記1747冊
- クチコミ1204件
- Q&A回答73件
- 3,429,275アクセス
- フォロワー170人
ヴィリニュスから十字架の丘に立ち寄った後は昼前にリガに到着しました。つくづくツアーなので効率が良いと思います。バスは大統領官邸の近くに停まり、「アルセ・アルセナールス」というレストランで食事です。この店はガイドブックにも掲載されているし、ラトヴィアのベストレストランを紹介した冊子にも掲載されていました。今回のツアーの食事は非常に工夫されていたと感じました。値段の高いヘルシンキやストックホルムや船内の晩ご飯は上手い事フリータイムで自由食になっていましたし。
食事の後は現地のガイドさんの案内でリガ旧市街の市内観光に移ります。「三人兄弟」から「ドゥァマ広場」と進むと、広場には「ラトヴィア・ラジオ局」の建物もありました。「百万本のバラ」の原曲は1981年にラトビアの放送局が主催する歌謡コンテストで謡われた「マーラは与えた」だそうです。大国にその運命を翻弄されてきたラトヴィアの苦難を暗示する歌詞だったそうですが、後のロシア語版ではジョージア(グルジア)の画家ニコ・ピロスマニがマルガリータという名の女優に恋したという逸話に基づいています。日本語版の加藤登紀子が謡う「百万本の薔薇」もロシア語版の歌詞に基づいているそうです。この広場に立つとそんな場所だったかと思うと感慨深いものがあります。♪百万本のバラの花を あなたにあなたにあなたにあげる 窓から窓から見える広場を 真っ赤なバラで埋め尽くして♪なんて歌詞が頭に浮かび、一度浮かんでしまうと頭の中でリフレインします。その後街を歩いている間もずっと口ずさんでいたように思います。旧市街は思っていたよりも小さかったことと新市街に多いと思っていたユーゲントシュティール建築が旧市街にもたくさんあることに驚きました。そして歩けば歩くほどに、リガ市内でも自由時間がないことにフラストレーションが溜まりました。それだけ立ち寄りたい店の多い街でもありました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 観光バス 船 徒歩
- 航空会社
- JAL
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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ようやくラトヴィアのリガに戻ってきました。ストックホルムからバルト海を越えてフェリーで着いたのは一昨日の朝でしたが、2日間でリトアニアを周ってきたのでもう遠い昔のようです。
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ヴィリニュスもたくさんの教会がありましたが、リガも教会の尖塔がたくさん並ぶ町だと分かります。
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リガ駅の裏側にあるスターリン・クラシック様式の「ラトヴィア科学アカデミー」もきれいに見えました。
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絵に描いたようなダウガヴァ川に架かる鉄道橋を越えると旧市街に入ります。
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橋のたもとの像は1905年1月のサンクトペテルブルグの「血の日曜日」の後の1月13日にリガで行われたデモの犠牲者を追悼したもののようです。
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駐車場になっている広場の中に軍服の外套を着た3人の男性の石像があります。これは「ラトヴィア・ライフル部隊の像」でラトヴィアがソヴィエトに支配されていた時代にレーニンの護衛についていたラトヴィアのライフル部隊がモチーフになっています。祖国の栄光ある部隊ではあってもその後にスターリンによってソヴィエトに併合され、植民地化された遠因を作った部隊の像が残されているのは不思議でした。
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リガ旧市街の北側でバスを降りて少し石畳の道を歩きます。この石畳がごつごつしていてとても歩きにくいです。
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「リガ城」の前には美しい木立の公園がありました。
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「リガ城」はリガ市民とリヴォニア帯剣騎士団の抗争の中で幾度も建設と破壊が繰り返された歴史があります。1330年に抗争に勝利したリヴォニア騎士団の拠点として建てられますが、その後もリガ市民と騎士団の対立は続き、一時は騎士団がツェースィスに拠点の移転を余儀なくされます。15世紀末より再び騎士団が優勢となり、市民に荒廃していた城の再建を命じて1515年に再建が完了します。両者の抗争は16世紀後半に騎士団が消滅したことで終結し、現在は大統領官邸になっています。
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その横には「聖母受難教会」がありました。この教会は夜になるとライトアップされるので、旧市街からリガ城を経由してヴァンシュ橋を渡ってホテルに戻る際は目印になり聖母マリアのご加護を感じました。
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Y字路に建つ美しい建物。Y字路を見ると横尾忠則の絵を思い出します。この建物ではちょっと太すぎかもしれません。
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まずは「アルセ・アルセナールス」というレストランに入ります。もう昼をだいぶ回っています。
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このレストランは地球の歩き方の地図にも掲載されているし、後で店の人に貰ったラトヴィアのベストレストランを紹介した冊子にも掲載されていました。
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古い建物の半地下を改装したレストランでした。多分昔は倉庫として使われていたのだと想像できます。
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お昼時を過ぎているので店内はガラガラでした。
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ようやく席に座れてホッとします。
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リガもたくさんのクラフトビールがあるので生ビールを注文しました。妻は少し疲れたのかスプライトなど注文しています。
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ちょっとぼけましたが美味しいグヤーシュのようなスープでした。
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メインはペリメリという水餃子でした。これはどう考えてもモンゴルのルーシー侵攻、チンギス・ハーンのロシア侵攻以降に伝わったもので、ロシアでもよく食べられます。結構ボリュームがあって美味しかったです。
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ペリメリを食べながらアンドレイ・タルコフスキー監督の「アンドレイ・ルブリョフ」という映画を思い出しました。タタール襲来とルーシ諸公の内乱が続いた動乱期を背景に、ロシアの最も優れたイコン画家のアンドレイ・ルブリョフの苦悩と模索を描いた白黒映画です。その中でタタール兵の連合軍がウラジーミルを襲撃する場面が出てきます。
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藁馬は縁結びや子孫繁栄や五穀豊穣などの祈願の使い駒だったり、七夕の馬だったりと昔は日本全国で作られていたものですが、ほとんど同じような物なので驚きました。
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店のお兄さんはいかつい体格でタトゥーも入れていてちょっと怖い感じでしたが、お店のカードを頼むと時間をかけていろいろ探してくれました。結局見つからなくて冊子をくれたのですが、ラトヴィアビールのコースターも一緒にくれました。
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レストランの前は倉庫でした。店を出たところでリガ市内を案内してくれるガイドさんと合流しました。ラトヴィアの方ですが上手な日本語を話されました。後日談ですがツアーに参加されていた方に国語の先生だった方がいらして、リガのガイドさんとタリンのガイドさんの日本語のおかしいところが気になって仕方なかったという話をお聞きしました。
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倉庫の建物は屋上に荷物の揚重用の滑車があるのですぐに分かります。アムステルダムの建物を思い出します。町並みが似ていても歴史上は敵対しています。14世紀末にネーデルランドがブルゴーニュ公の支配下に入るとハンザに対して圧力をかけ、オランダ商人はエーレスンド海峡を通って貿易を行い、ヴェンド系都市を通過せずにバルト海に進出します。
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リューベックは制裁を試みますが、オランダ商人によって利益を得ていたドイツ騎士団やリーフラント(リヴォニア)の中小都市が反対したため、ハンザ同盟は一致した行動がとれません。さらにハンザに反感を持っていたスカンジナビア半島の諸王国がオランダを支援したため、ハンザ同盟はオランダ商人の活動を認めさせられます。
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今回の旅では自分の中で空白だったバルト海沿岸の国々の歴史について少しではありますが知る事が出来て有意義でした。
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しかしリガのこのタイプの石畳は歩きにくかったです。旅も半分を過ぎて疲れも出てきたので足を取られます。
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この日のリガのガイドさん。物静かにお話をされますがたまにオヤジジョークを言うのですが笑えないのが玉に瑕です。
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「聖ヤコブ教会」の尖塔が青空に美しかったです。遠目にガイドさんが説明するだけの観光で近くにも行きません。トラピックスのツアーでは外観を見るだけの観光が多いので、外観観光の〇印と入場観光の◎印の違いが大きかったりします。
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塔の中ほどの突起物には鐘がつるされていて、市庁舎広場で罪人の処罰が行われる際に市民にそれを知らせるために鳴らされたことから「哀れな罪人の鐘」と呼ばれていたそうです。またこの鐘は傍らを不貞な婦人が通ると自然に鳴り出したために女性達から嫌われ、夫らに圧力をかけて鐘を外してしまったそうです。2001年のリガ800年祭を機に再び取り付けられます。
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聖ヤコブ教会の入口の前のマザーピルス通りに「三人兄弟」と呼ばれる建物が並んでいます。右から白色・の長男、黄色の次男、緑色の三男が本当に兄弟のように肩を寄せあっているます。なるほどこういう位置関係だったのかと思います。
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白の長男は15世紀に建てられたリガに現存する最も古い石造り住宅で、段々になったファサードが特徴ですが、当時は窓の大きさに税がかかったために窓が小さいのだそうです。窓のガラスが高価だったので、大きな窓があるということはお金があるという考えだったそうです。
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黄の次男は1646年に建設され1746年に石造りの門を増設したオランダ・マニエリスム様式といわれます。17世紀には窓税がなくなったために大きい窓が設けられています。外壁に黒い金具が取り付けられていますが、これは石やレンガの壁が外に膨れて崩れないように固定しているものです。
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時代の違う石の門とさらに現代の木製の扉の組み合わせです。Soli deo Groriaは「栄光の一部」という意味のようです。
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緑の三男の時代になると建物の間口の広さによって税が取られたため、幅の狭い窮屈な造りになっています。京都の町屋が間口が狭くて奥に長いのと同じ理由です。
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住所の治安表示の下の白と青のプレートはKulturas Piemimkeklis「文化財」であるという表示です。
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ヨハン・クリストフ・ブロースは19世紀初頭の啓蒙主義者で画家で民族誌学者で、リガ大学の教授で後に学長になった方のようです。
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ぶらぶら歩いているうちにドゥァマ広場の近くまでやってきました。この辺りの旧市街でもユーゲントシュティールを見掛けることが多いです。ガイドブックなどでは新市街の建築が紹介されているだけですが。
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1906年にサンクト・ペテルブルグの建築家ニコラス・プロスクリンによって設計されたロシアの保険会社の建物の建物です。いくつかの非対称の塔とロマンチックな雰囲気の出窓があります。建物は茶褐色の石積みと漆喰で仕上げられています。ファサードはバルコニーや出窓とアールヌーヴォーの植物モチーフがアクセントになっています。ファサードの角は出窓や小さな塔で強調されています。出窓の下には盾を持ち歯車を踏み、錨を携えた女性の像があります。彫刻家オズワルド・ワシルによるもので、建物は事務所として1999年にリニュアルされ、1階はレストランとして使われています。
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その横には「リガ証券取引所美術館」と大聖堂の尖塔が見えます。
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ドゥァマ広場は中世の雰囲気が残った素晴らしい眺めでした。その一角のビルの壁に紳士が飛行機を操縦するユニークな壁画がありました。「ほらふき男爵」は実在の人物でプロイセンの貴族ですが、リガに駐屯してこの地の女性と結婚しています。主人公のほらふき男爵は狩りや戦いなどの冒険をテーマとした自慢話やホラ話しをおもしろおかしく語るミュンヒハウゼン男爵のことです。モンティ・パイソンのメンバーだったテリー・ギリアム監督の「バロン」という映画で、このミュンヒハウゼン男爵が出ているのを思い出しました。
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「リガ証券取引所美術館」1852年から1855年の間に建てられ、ヴェネツィアのルネッサンス様式の宮殿が富と豊かさを象徴しています。デザインはサンクトペテルブルクの建築家ハラルド・ジュリアス・ボスによるものです。
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イルカを足で踏んで錨を持ち、笛を吹くのはトリトンだと思いました。
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そう思った理由が横に並んでいるメルクリウスの像があったからです。ギリシア神話の神々の伝令使ヘルメスと同化し、雄弁家や盗賊、商人や職人の庇護者なので証券取引所にはもってこいの彫像だと思いました。また商人や旅人の守護聖人でもあります。ブレーメンの守護聖人でもあるので、何か関係があるのかもしれませんが、アントワープの港の倉庫でも見かけたので海運に関係するのかもしれません。
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古典期以降のヘルメスやメルクリウスはつば広の丸い旅行帽「ペタソス」を頭に被り、神々の伝令の証である杖「ケーリュケイオン」を手に執り、空を飛ぶことができる翼の生えた黄金のサンダル(タラリア)を足に履いた姿で表されますがサンダルは履いていませんでした。
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広場には「ラトヴィア・ラジオ局」の建物もありました。「百万本のバラ」の原曲は1981年にラトビアの放送局が主催する歌謡コンテストで謡われた「マーラは与えた」だそうです。大国にその運命を翻弄されてきたラトヴィアの苦難を暗示する歌詞だったそうですが、後のロシア語版ではジョージア(グルジア)の画家ニコ・ピロスマニがマルガリータという名の女優に恋したという逸話に基づいています。日本語版の「百万本の薔薇」もロシア語版の歌詞に基づいているそうです。そんな話を思い出さされると、頭の中で曲のフレーズがリフレインしてしまいます。
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ラジオ局が入った建物は1913年建築家ポール・マンデルスタムスによる設計で新古典主義様式の建物です。富と福祉を象徴する寓話的なファサードの彫刻はユーゲントシュティール建築様式です。
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広場の石畳には世界遺産登録のプレートが埋め込まれていました。13世紀にハンザ同盟に加盟して急速に発展したリガの町は同時代の町並みが残る旧市街がダウガヴァ川東岸に広がり、その美しさは1997年に「リガ歴史地区」として世界遺産に登録されています。
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広場の西側には「リガ大聖堂」があります。ラトヴィア・ルーテル教会の大聖堂で、通称「ドーム教会」とも呼ばれます。またリガにおける高等教育の発端ともなった所でもあるそうです。リーガ大聖堂は、1211年にローマ教皇の命を受けた
アルベルト司教によってダウガヴァ川の近くに建てられた聖堂が始まりです。
この地の布教活動の拠点ともなりその後約5世紀に渡って増改築が繰り返されたため、創建当初はロマネスク様式の建物でしたが初期ゴシック様式からバロック様式へと改築され、さまざまな建築様式が融合した大聖堂となります。 -
ブラックヘッド・ギルドはまだギルドに入る資格がなかった若い独身商人たちが1399年に結成した組織で、街の防衛や祭りの進行を担っていました。外国人の商人も加入することができ、ロシア帝国のピョートル大帝も名誉会員だったそうです。守護聖人として聖マリティウス(モーリシャス)が祀られますが、聖マリティウスはエチオピアで生まれ、このギルドの名称「ブラックヘッド」はその肌の色からつけられました。
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聖堂の入り口にはブラックヘッドのメンバーのための信徒席が置かれてありました。17世紀にストックホルムの彫刻家のディートリッヒ・ウォルターのよって造られたもので、アカンサス模様の中に黒人の東部の彫刻が施されています。
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詳しくは読み切れませんでしたが堂内の柱には教会へ寄進したギルドに所属する会社が1604年11月7日に納めたとであろうことは分かりました。
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こちらは1702年12月22日に生まれ、1766年8月6日に亡くなったテオドール・ハインリッヒという人の墓碑のようです。
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こちらはブラックヘッドに由来するものだとすぐに分かります。中央の十字架の下に聖マリティウスの顔と剣が描かれ、左右の黒人はエチオピアの人だと思われます。
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ステンドグラスは19世紀のもので、キリストを抱いた聖母マリアとステンドグラス寄付者のティゼンハウゼン一家が描かれています。
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聖母マリアが幼子イエスを抱きかかえ、天子に祝福されながら戴冠する様子です。
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キリストの支配権を象徴する球は上部に十字架を立てた形で表現され、「グロブス・クルーキゲル」と呼ばれます。右手の人差し指が Ι(ギリシャ文字のイオタ)、中指が C(同シグマ(Σ))イエス(ΙC) を表します。
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「アルベルト司教による大聖堂の創設」1199年にリヴォニア司教区の司教に任命されたシトー会のアルベルトは、教皇インノケンティウス3世に十字軍の許可を願い出ます。そして十字軍の兵士を集め1200年3月にリガに移動し、十字軍の力によりその周辺の異教徒リーヴ人を服属させます。
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アルベルト司教はリーヴ人を使役してリガの町を増築し、1201年に自分のリヴォニア司教座の位置を以前のエクスキュルからリガに移転させます。翌1202年にアルベルトはリガ城を本拠地とするリヴォニア帯剣騎士団を設立し、1211年にこの大聖堂を建てることになります。
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左側の石板には1から10の数字が刻まれ、この人物が旧約聖書のモーゼだと分かります。右側は一瞬カロンの杖を持った兄のアロンかと思いましたが、ガイドさんの説明では巡礼の杖を持ったヤコブということです。
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リヴォニア騎士団に由来する墓碑かと思いましたが、1729年から1764年では時代がちがいます。ただ、ドイツ十字の紋章や短剣はそれに由来するものではないでしょうか。
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1525年にリガ市長に信仰の自由の宣告所を渡すリヴォニア騎士団長プレッテンベルグのステンドグラスです。現在とあまり変わらないリガの街並みと大聖堂が描かれています。
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上部にはマルチン・ルターの姿もあります。この教会はルーテル派のプロテスタント教会です。
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1621年にスェーデン王グスタフ2世アドルフを迎える大聖堂前のセレモニーを描いたステンドグラス。
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下に描かれた女の子たちが可愛らしいです。
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主祭壇の一番奥にはイエス・キリストの姿がありました。
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他にも聖ゲオルギウスの竜退治のステンドグラスなども。
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普通はユリの花が捧げられそうですが、あんずの花の咲いた枝が生けられていました。
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身廊の中央には立派な説教壇が置かれてありました。下の段にはイエスと十二使徒らの姿があり、上部には女性像と天使像が並び最上段には大きな天使像が舞い降ります。
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栄光の冠を持つ黙示録のラッパ吹きの姿のようです。
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聖堂内には1884年に造られた6768本ものパイプを持つ巨大なパイプオルガンがあました。、世界で第4番目にパイプの多いオルガンがある教会として世界的にも有名なのだそうです。20世紀になってのソビエト時代に2つの主要な再建工事が行われ、1959年から1962年までリガ大聖堂が改装されてコンサートホールに変わりました 。祭壇は解体されて座席はオルガンに面するように設置されたそうです。
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プロテスタント教会としては見どころのたくさんある教会でした。この後も旧市街の町をぶらぶら観光が続きます。
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1902年に建築家コンスタンチン・ペクセンの設計でリガのユーゲントシュティール建築の最高傑作の1つです。ファサードは赤レンガと石膏とカラフルなタイルで造られています。ファサードの中心にはカリアティド(女性の姿の柱)とアトラス(男性像)で支えられた2階建ての出窓があります。中央には根を張った樫の木もあります。
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出窓の中心には羽を広げた孔雀の姿があります。翼をもった女性の頭は太陽のシンボルで、出窓のコーナー壁柱は注文主のイニシャルと建設された1902年の文字と一緒に知識を意味するフクロウと救済を意味するリスの彫刻があります。マンサード屋根の窓が太陽の形をしながら、建物のファサードには多くのユーゲントシュティールのデザインのレリーフで覆われています。
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1902年に建築家ハインリッヒ・セルスとリフリードリヒス・ホフの設計によるこの折衷装飾的なユーゲントシュティール建築の建物は素晴らしかったです。これらは彫刻家ハインリッヒ・オットーとオズワルド・ワシルの手によるものです。建物はもともとボブロフという男性が所有していました。
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ファサードは多くの出窓とバルコニーがあります。建物の中心のエントランスの上部には花の冠を掲げる2人の女性の姿があります。彼女たちは「美しさ」と「調和」を象徴しています。
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建物本体の美しさや彫刻の美しさもさることながらアイアンワークの美しさも際立った建物です。
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ここでも翼を広げた女性の頭部のデザインがありました。
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入り口の上部には閉じた目で表情豊かな女性の仮面が飾られています。
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リガのユーゲントシュティール様式の建築の中で一番美しいと思えた彫刻です。キリスト教的なモチーフではなく、ラトヴィアの歴史に由来するものではないかと感じました。
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出窓を支える片持ち梁も人の顔のデザインになっています。細かいデザインの意味がもっと分かったら楽しいと思うのですが。
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この辺りにはアンティーク屋が数多く軒を連ねていました。もちろんツアーの団体行動中では中を覗くわけにも行きません。ウインドウにあったハンガリーのジョルナイ陶器のエオシン釉の虹色が妻と私の気を惹きました。ハンガリーのアールヌーヴォーである分離派の時代のレヒネル・エデンという建築家はジョルナイの陶器を建築に多用していました。
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ブダペストへの旅では1週間の滞在でレヒネル・エデンの建築を片っ端に見て周りましたが、リガの町でも数日かけて周りたいと思いました。
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ほとんど知られていない建築でもこのような素晴らしいものが数多く残されています。
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個人のアパートなので中には入れませんが、100年くらい時代が止まったように思えます。建物だけでなく町自体も。
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リガの新市街のユーゲントシュティール建築は有名ですが、旧市街にも数多くあるのは驚きでした。調べてみるとリガ市内に300軒ほどの建物があるそうです。ツアーの見学は通常コースで進みます。
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先ほど通った「聖ヤコブ教会」がこの距離に見えるということは大した距離を歩いていないのだと感じ、リガの町の大きさがだんだん分かってきました。
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「スウェーデン門」までやってきました。北側にあるこの門はスウェーデン統治時代に町で最後に造られた門で、リガ歴史地区内に現存する唯一の城門でもあります。リガの町は18世紀まで多くの塔と門を備えた城壁によって守られていました。1698年に建てられたこの門は城壁と塁壁の間にあった建物の一部を改築したもので「スウェーデン門」という名は城門向かいにあった兵舎にいたスウェーデン人が頻繁に利用していたためです。このスウェーデン門は悲しい伝説が残っている事でも有名で、リガの娘たちは外国人と会うことを固く禁じられていたそうです。しかし1人の娘がスウェーデン兵と恋に落ち、この門で会うようになりましたが、許されぬ恋をした娘は罰として壁に埋め込まれたそうです。現代では新婚カップルの聖地として有名で、この門をくぐると幸せになると言われているそうです。
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スウェーデン門の横にはジュエリーショップショップがありました。悲しい伝説の残る門の横でジュエリーをおねだりされたら買わなければならないですよね。
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旧市街の内側から見るスウェーデン門のイメージと外側から眺める風景は全く違いました。いかつい城壁の横には濠も残されていました。
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スウェーデンの兵舎だった建物はレストランやショップになっていました。上部に掲げられた紋章はリガ市の市章です。
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レストランのテーブルにはラトヴィアの陶器に菜の花が投げ生けられていました。
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火薬の保管に使われた「火薬塔」は旧市街で唯一現存する城郭の一部だそうです。
14世紀に建設され、最終的には1937年から1940年に修復されています。とんがり屋根は19世紀に増築されたそうです。確かに屋根が着くだけイメージが柔らかくなり、ムーミンの家のようにも見えます。17世紀から18世紀のロシア軍の砲弾が7か所にそのまま埋め込まれているそうです。 -
ラトヴィア各地の紋章が壁一面に描かれていました。ただバスに乗って真っ平らな畑や菜の花の中を走ってきただけのようですが、こんな歴史ある町家村を通って来たのだと感じます。
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派手な色彩の建物はアスター・ホテルです。建物は19世紀後半の人気の建築家であるジャニス・バウマニスの作品で、彼の建物は市内の建物の半分ほどにも及ぶそうです。 1876年に竣工しています。
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トラムの通るバステヤ通りを渡ると美しい公園が広がり、ビルセータス運河が流れます。ここでは遊覧船も乗れるそうです。
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何故ここへ来たかというと無料の公衆トイレがあるからです。旧市街ではこの運河沿いに2つとダウガヴァ川沿いに2つくらいしかなさそうです。
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古いトラムが新緑の緑の中を走り抜けていきました。
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ユーゲントシュティール建築は素晴らしいものもあるけれど、かける費用によっては何だかよく分からないものもありました。
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ただ現地のガイドさんは建物を支える天使であろう像を指さして「金太郎!」と笑いを取ろうとします。まあ確かにおかっぱ頭で力持ちの所は金太郎かもしれません。
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1909年に建築家フリドリ・エフェルスが建てたこの建物は中世の城塞に似ています。2つの塔の上には猫の彫刻が乗っています。建物の所有者だったラトビア人の商人はギルドに参加したかったのですがドイツ人では無いので入会を断られてしまいます。
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そのため屋根の上の猫の彫刻をギルドの建物にお尻を向けるように取り付けました。このことは後に裁判にまで発展したそうです。その後に和解して猫のお尻の向きは変えられたそうです。
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この「猫の家」の存在は旅行前に知っていましたが、この建物もユーゲントシュティール建築だということはここへ来てみて初めて気が付きました。猫ばかりが有名ですが翼を広げた鷲の姿が印象的です。
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中央のポータル(戸口)上部には様式化された植物のレリーフで飾られています。ファサードは幾何学的な装飾を備えています。ここにも翼を携えた何かの寓意であろう頭部が置かれてあります。
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大ギルドがコンサートホールに変わったため、音楽に誘われて向きを変えたという説もある屋根の上の猫の彫刻です。
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見比べてみると同じ型から造られた像だということが分かりました。
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大ギルドの建物の角をアマトゥ通りに曲がると小ギルドの建物との間に「リガ市議会」の建物があります。この建物もユーゲントシュティール建築で、建築家のヴィルヘルム・ルードヴィッヒ・ボックスラフは10以上のアパートや邸宅や給水塔を設計しています。
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城館のような美しい建物です。「バルト海の真珠」と讃えられる美しい港町にふさわしい市議会の建物です。
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ネオ・ ゴシックスタイルの建物「小ギルド・コンサートホール」の脇を通ります。この「アマトゥ通り」のAmatuとは「職人」の意味で、このギルドから名付けられたようです。ギルド自体は14世紀前半にすでに組成されていましたが、1857年にこの地に職人組合の建物として建設されました。現在の建物は火災焼失後1965年に再建され、ラトヴィア国立交響楽団の本拠地としてコンサートホールとして使用されています。
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職人通りには琥珀の店が並び、琥珀を加工しているところも覗けました。バルチック・アンバーという名前に夢を感じますが、バルト3国では産出せずリトアニアとポーランドの間にあるロシアの飛び地であるカリーニングラード州で採れるそうです。
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1902年に建築家ハインリッヒ・シェルによって設計され、フリードリッヒ・シェッフルデトマンと呼ばれる成功したビジネスマンによって最初に所有されていたユーゲントシュティール様式の建物です。 彼はユニオン証券会社のオーナーの1人でもありました。
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建物のファサードは様式化された植物で装飾されています。葦や芥子や水仙と栗の葉などが見てとれます。 植物の要素はバルコニーの手すりと屋根の上の金属細工にも見られます。 建物の主なアクセントは芥子のモチーフで贅沢に装飾された華やかで巨大な2階建ての出窓です。 出窓の上の犬が建物を守っています。 元の所有者のイニシャルもファサードで見ることができます。
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次にリガに来ることがあればもっとユーゲントシュティールの建築について勉強しなければならないなと思いました。
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こちらは現代に造られたレリーフで、「シャーロック・アート・ホテル」のファサードです。何故リガにシャーロック・ホームズとは思いますが、こんな旧市街の真ん中の静かな通りのホテルに泊まってみたいとは思いました。
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「聖ペテロ教会」は12世紀以降ゴシック建築からロマネスク建築、初期バロック建築といった3つの建築様式で建設され続けます。途中ペストの流行やポーランドとリトアニアとドイツ騎士団との戦争による中断などで奉納は1419年に行われます。戦闘は1666年に崩壊したの地に再建されますが市街を襲った大火により内部が焼失するという歴史があります。そんな話を聞いているとパリのノートルダム寺院のような事例は過去にいくらでもあったのだと感じます。
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第2次世界大戦中の1941年6月29日に教会は焼失し、1954年から調査と修復作業が開始されます。1970年に尖塔の頂上に焼失前と寸分違わない風見鶏が設置され、1975年から尖塔の時計が改修され、翌年には毎正時に鳴り、さらにラトヴィア民謡のメロディーを1日5回鳴らす鐘が設置されます。1984年には塔にエレベーターが設置され観光客がリガ市街を一望できるようになりますが、我々に登る時間はありませんでした。
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「市庁舎」のある広場に到着しました。1334年からこの場所にあるそうで、いまだ現役の市庁舎として使われているそうです。前の建物は帝政ロシア時代の1750年に建てられ、第2次世界大戦中にドイツ軍の爆撃で破壊されます。
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修復された現在の建物は1960年代に建てられていますが、新しく見えるのは2003年に大改修をしているからだそうです。
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市庁舎の前には「ブラックヘッドの会館」が建っています。ブラック・ヘッドは中世のバルト海沿岸諸都市にあったギルドに入る資格がなかった若い独身商人たちが結成した組織で、この建物は中世ギルドメンバーのパーティー・ホールとして使われていたそうです。2001年のリガ市建都800周年祝賀記念事業として1999年に再建され、細部まで精巧に再現されます。
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15世紀から長年かけて建てられたものですが第2次世界大戦が始まると、1941年にドイツ軍の空襲で破壊されさらに戦後進駐して来たソヴィエト軍により完全に撤去されてしまいます。
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ファサードにある天文時計は月と日と時間と月齢を刻む大時計で、1626年に設置されます。この時計を作った職人は2度と同じものが造れないように目をくりぬかれしまったという伝説もあるそうです。この手のことにはよくある伝説ですね。
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その大時計の下にはハンザ同盟の主要メンバーであった4つの都市の紋章と、象徴としてのギリシャ神話の神々が掲げられています。左からリガ(ポセイドン)、ハンブルク(テュケ)、リューベック(アテナ)、ブレーメン(ヘルメス)だと分かります。
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右にギルドの守護聖人である聖マリティウス(モーリシャス)です。3世紀のエチオピア出身でブラックヘッドの命名の由来になった人物です。
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また正面入口の柱には左に聖母子の姿があります。戴冠し青い衣を纏い、三日月に乗った姿です。スペイン北東部ボルハの教会にある19世紀の画家エリアス・ガルシア・マルティネスの「いばらの冠をかぶったキリストの肖像」を修復してしまったおばあさんのことを思い出しました。
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市庁舎広場「市庁舎」の正面に向ってリガの守護神である「聖ローランド像」が建っています。1897年にこの像が建てられたが第2次世界大戦中の1941年空襲で壊されましたが、リガの創設800周年を記念して2000年に複製再生されます。
オリジナルは「聖ペテロ教会」に保管されているそうです。ローランドは11世紀の「ローランの歌」に登場する人物で、フランク王国シャルルマーニュ(カール大帝)の甥で軍人とされる人物です。 -
これで旧市街の観光は終わりです。一度トイレに立ち寄って新市街のユーゲントシュティール建築の見学に移ります。
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ストックホルムからフェリーで到着したターミナルの前を通過しました。ほんの数日前のことですが、遠い昔のようにも感じます。
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