2019/05/04 - 2019/05/04
17位(同エリア35件中)
kojikojiさん
- kojikojiさんTOP
- 旅行記1760冊
- クチコミ1205件
- Q&A回答73件
- 3,461,803アクセス
- フォロワー169人
ラトヴィアの首都リガからバスで2時間ほどのバウスカにある「ルンダーレ宮殿」に向かいました。バスの車内で出力してきた宮殿とエルンスト・ヨハン・フォン・ビロン(クールラント大公)について書かれたものを読み返しておきます。もしこの宮殿に来るのであればウィキペディアに書かれた「エルンスト・ヨハン・フォン・ビロン」について知っておくとよいと思います。建物的には18世紀にクールラント大公のために建てられた2つの離宮のうち夏の離宮として使用されていたもので、サンクトペテルブルクにある冬の宮殿を手がけた建築家ラストレッリが設計しています。2階建てで138の部屋があるバロック様式とロココ様式の内装を持った豪華絢爛な宮殿と、美しい庭園があることからフランスのベルサイユ宮殿に対して「バルトのベルサイユ」と呼ばれています。それ以上に面白いのがビロンとその息子のペーターの人生と言えるでしょう。それを知らないと壁に掲げられた肖像画の意味も分からず、ただ美しい宮殿の観光で終わってしまうと思います。掻いつまんで説明するとビロンは出世話を求めてロシアに赴き、アレクセイ・ペトロヴィチ大公の妻シャルロッテ・クリスティーネ妃の貧相な小宮廷で地位を得ようとしますが失敗します。そこでクールラント公国の統治を任されていたロシアのピョートル・ベストゥージェフ伯爵の情婦になっていた自分の姉妹を通じて宮廷に足がかりを得ます。ベストゥージェフ伯爵は若いクールラント公爵未亡人アンナ・イヴァノヴナと愛人関係にありましたが、主人である伯爵が不在のあいだにハンサムでご機嫌取りの上手いビロンはアンナの新しい愛人におさまり、ベストゥージェフとその一族を失寵させて追放してしまいます。これ以後アンナは死ぬまでビロンの甚大な影響力を受け続けることになります。1730年にアンナがロシア女帝に即位すると、ビロンは妻ベニグナ・フォン・トロタとともにモスクワに連れてこられ、女帝から莫大な財産と名誉を与えられます。アンナの戴冠式が執り行われるとビロンは侍従長でロシア帝国伯爵となり、叙爵に際してはフランスの大貴族ビロン公爵家の紋章を採用したといわれます。現在のラトヴィア領ツェーシスに領地を与えられ5万クラウンの年金を受けることになります。ビロンの驚異的な出世の最たるものが1737年にクールラントの統治者ケトラー家が断絶した際、そのクールラント公位を継承したことでした。1740年に死の床にあったアンナ女帝は不承不承ながらビロンの必死の嘆願を聞き入れ、彼を生後まもない後継者イヴァン6世が成人するまでの摂政とすることを決めます。ただビロンの摂政期間は3週間続いただけで、彼は仇敵ミュンニヒ元帥に寝込みを襲われ逮捕され、莫大な財産は全て没収されてシベリアのペリムに永久追放されます。しかしピョートル3世が即位するとビロンは宮廷に呼び戻され、1763年にエカチェリーナ2世は彼をクールラント公に復帰させます。そしてビロンは息子のペーターに公国を相続させることが出来ます。ここまでを知っているととても面白く宮殿を見学できると思いました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 観光バス 船 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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リガの港でバスに荷物を載せてしまうと少しホッとします。ここからリトアニアのヴィリニュスに向かってバスを走らせますが、途中のラトヴィア南部のバウスカの「ルンダーレ宮殿」に立ち寄ります。
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ダウガヴァ川にはラトヴィア海軍の艦艇も停泊していました。場所が場所だけに日露戦争時のバルチック艦隊のことを連想してしまいます。フェリー旅を数日続けたところなので、ここから旅順までよく移動したなと思います。
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川沿いに南下すると「中央市場」の建物が見えました。巨大なドーム天井が連続しているので目を引く建物ですが、20世紀初頭にラトヴィア領内にあったドイツのツェッペリン型の飛行船の格納庫として使われたそうです。近くで見たかったですがツアーの旅行者にはそんな時間はありません。
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リガ駅の裏側にあるスターリン・クラシック様式の高層ビルも見えました。ソヴィエト時代にスターリンが国の威厳を示すために造らせた重厚な建築で、スターリン建築の大規模なものは、モスクワにあるセブンシスターズと呼ばれます。ロシア以外にも蔑ろにできない建物が2つあり1つはポーランドのワルシャワの「文化科学宮殿」でもう1つは高さ108メートルのこの「ラトビア科学アカデミー」です。
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さらに川沿いの「テレビ塔」が見えました。リガのテレビ塔は高さ368.5メートルあり、ヨーロッパで3番目に高いテレビ塔だそうです。ラトビア国内では1番高い建築物でもあります。
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ここでリガの街としばしのお別れです。リトアニアのヴィリニュスに2泊した後にまた戻って来ることになります。
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この日から最後のエストニアのタリン到着までは同じバスでの移動になります。前半分だけでもこんなスカスカです。皆さん前方を好まれるので我が家は後ろ半部を使っていました。バスの中だけで使うものは座席に置いておけるので助かりました。
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この後のバルト3国の移動中はほとんど真っ平らな景色の中を走り続けました。春になってそろそろ畑に鍬を入れる時期のようでした。もちろんトラクターで耕作するのですが。
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畑の中には割と大きな農家の建物が防風林に囲われています。どこも国道から奥まったところに建っているのが印象的です。
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3カ国共通で菜の花が咲き乱れていました。オリーブの木は育たないので菜種油を収穫するために育てていると添乗員さんから説明がありました。ドイツ国内を飛行機で移動していると真っ黄色な畑をよく見かけます。ドイツの場合は菜の花をバイオマスとしてバイオ燃料を作っています。季節によってはマスタードを作るための芥子菜かもしれません。
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こんな景色が延々と続きました。
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ずっと見ていても飽きない景色です。食料自給率は100%だというのも頷けます。
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ラトヴィアの主な宗派はキリスト教ですがルター派とローマカトリック、東方正教会およびバプテスト教会に細分化されるそうです。正教の教会は旅行中に何度も見掛けました。
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小さな川をいくつか超えるとバウスカも近いです。リガから焼く2時間のドライブでした。
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バスの移動はリクライニングも出来るし1人で席をいくら使っても良いのでストレスがありませんでした。これが30人以上のツアーだったらと思うと気が滅入ります。車内では日本で出力してきたルンダーレ宮殿の歴史を読んでおきます。
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「ルンダーレ宮殿」に到着しました。水の豊富な場所に建てられているのだと感じました。
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駐車場は宮殿から離れた場所にあり、5分ほど歩くことになります。宮殿までの道は西洋菩提樹やマロニエの並木道になっています。新緑の美しい時期だったのと雨が降った後なので歩いていても気持ちよいです。
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周辺の農園ではあんずの花が満開でした。花の色は淡い紅色で花びらは5枚なので桜が咲いているようにも見えます。
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マロニエのつぼみも大きくなってきていました。マロニエは日本では栃の木と呼ばれますが、日本のように実を食べたりすることは無いそうです。日本でも食べるにはかなり手がかかるはずです。
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ルンダーレ宮殿は18世紀にクールラント大公のために建てられた2つの離宮のうち、夏の離宮として使用されていたものです。サンクトペテルブルクにある冬の宮殿を手がけた建築家バルトロメオ・ラストレッリが設計しています。
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建物は2階建てですが138の部屋があるバロック様式の豪華絢爛な宮殿と、とても美しい庭園があることからフランスのベルサイユ宮殿を模して「バルトのベルサイユ」と呼ばれるそうです。
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何でこんな片田舎に宮殿があるのか不思議に思えます。そこにはエルンスト・ヨハン・フォン・ビロン(クールラント大公)のサクセスストーリーがあります。
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ビロンはクールラント公国の統治を任されていたロシアのピョートル・ベストゥージェフ伯爵の情婦になっていた自分の姉妹を通じ、宮廷に足がかりを得ます。ベストゥージェフ伯爵は若いクールラント公爵未亡人アンナ・イヴァノヴナと愛人関係で、主人である伯爵が不在のあいだにハンサムでご機嫌取りの上手いビロンはアンナの新しい愛人におさまり、ベストゥージェフとその一族を失寵させて追放してしまいます。
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これ以後アンナは死ぬまでビロンの甚大な影響力を受け続けることになります。1730年にアンナがロシア女帝に即位すると、ビロンは妻ベニグナ・フォン・トロタとともにモスクワに連れてこられ、女帝から莫大な財産と名誉を与えられます。1730年5月19日にアンナの戴冠式が執り行われるとビロンは侍従長でロシア帝国伯爵となります。叙爵に際してビロンはフランスの大貴族ビロン公爵家の紋章を採用したといわれ、現在のツェーシス(リガの北東)に領地を与えられ、5万クラウンの年金を受けることになります。
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そんな話を添乗員さんから聞かされながら宮殿内のレストランに向かいます。
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この日の昼食はルンダーレ宮殿内のレストランというのがこのツアーの売りでもあります。こんなきれいにテーブルセッティングされた席での食事です。
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店には古いフレスコも残っていました。隣は厨房だったので元々はダイニングルームだったのかもしれません。
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綺麗に花が飾られていましたが造花でした。
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フランスのロワール渓谷の古城を15か所ほど周ったことがありますが、本物の華や野菜が実際に置かれ、暖炉にも火が入っていたので非常にリアリティを感じたことがあります。そんなことを思い出しました。
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2プレートのランチはジェノベーゼのドレッシングのかかったサラダからスタートです。前日に大きなパーティがあったか何かでビールが全部売り切れてしまったようでワインを頂きながらの食事です。ツアーの方と一緒に同じテーブルで食事をするのはこれが初めてでした。すでにツアーは4日目だというのに。
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メインはローストポークです。ほろほろに仕上がっているのでとても美味しかったです。今回のツアーの料理はどこも美味しかったのが印象に残っています。旅行会社の努力を感じました。
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レストランの隣は厨房だった部屋で、当時の調理器具やお皿が並べられていました。
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1703年の年号が書かれたマヨルカ焼きの水かワインを入れる甕のようです。注ぎ口が上下2か所あるのが面白いです。年号から見て元々この宮殿にあったものではないでしょう。
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いくつかのガラスのキャビネットにフォレストガラスがたくさんコレクションされていました。中央ヨーロッパの中世のガラスは、森の中で生産されることからフォレスト・ガラス(森のガラス)として知られています。フォレストガラスは薄い緑色で、ガラスの中に気泡が見えるのが特徴です。これは材料の中の珪土に含まれるミネラルがもたらします。
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大好きなフォレストガラスをじっくり見たいところでしたが、そろそろ集合時間になったので入り口の大階段に向かいます。
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大階段では結婚式の写真を撮影されているカップルがいらっしゃいました。宮殿内の見学は現地のガイドさんが同行します。現地ガイドさんの雇用のシステムが出来ているようです。
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サンクトペテルブルクにある冬の宮殿を手がけた建築家バルトロメオ・ラストレッリが設計しているというのが感じられるロココ様式の階段のデザインです。
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2階に上がると右手に「黄金の広間」が広がります。とてもきらびやかなこの広間はビロン公の戴冠式に使われた部屋です.
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壁一面の金の漆喰の装飾とともに、イタリア人画家のフランチェスコ・マルティニとカルロ・ズッキによって描かれた天井画が豪華絢爛な雰囲気を作り出しています。
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特に題材は無さそうですが天使が舞い、女神たちが空に漂い大公エルンスト・ヨハン・フォン・ビロンの神聖さを表しているようです。
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16ミリの広角レンズでも天井画の全体を収めることは出来ませんでした。
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エルンスト・ヨハン・フォン・ビロン(Ernst Johann von Biron)のJとEがアナグラムとして使われています。
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壁は大理石の粉を塗り固めた人工大理石で、現在でもアンティコ・スタッコと呼ばれる素材です。当時は実際にイタリアなどから大理石を取り寄せるより費用がかかったそうです。
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ロココスタイルのレリーフや彫刻が圧倒的な迫力で迫ってきます。
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黄金の間の奥には磁器を納めた小さな部屋もありました。
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「スモールギャラリー」
小さい部屋ながらも天井のモールディングなど凝った造りになっています。このスモールギャラリーは建築家のラストレリの初期のスタイルを残しています。 当初は礼拝堂の前室として計画されていました。 -
壁にはロココ風のロカイユコンソールに中国の青花磁器の瓶(へい)が並べてあります。日本では地震を考えたらこんな陳列は絶対に出来ません。
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「大廊下」
大廊下はバンケットホールとしての役割を果たしていました。こちらの天井画もとても美しいもので、修復に14年もかかったそうです。 -
とても長い廊下で天井のフレスコ画も優雅なロココスタイルの天使が花を携えて天を舞っています。
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肖像画のフェルディナント・ケトラーは、1730年に甥フリードリヒ・ヴィルヘルムの未亡人で長くロシア占領下のクールラントを統治してきたアンナ・イオアノヴナがロシアの帝位につくと、そのおかげで正式にクールラント公爵位につきますが、50歳以上年の離れた妻との間に子供を授かることはなく、即位して7年後に亡くなります。アンナはフェルディナントの後継者に、自分の寵臣エルンスト・ヨハン・フォン・ビロンを指名します。
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この宮殿にかかわる人物のポートレートも飾られています。
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「白の間のキャビネットルーム」
たくさんの窓に面した明るい印象を受ける小部屋が続きます。 -
時計や椅子やコンソールテーブルは18世紀のフランス製で鏡は同年代のドイツ製です。
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「白の間」
当初はチャペルとして設計されていたものの、建築途中でダンスホールに変更されました。真っ白な理由は女性が着たドレスの美しさが一段と映えるようにという理由からだそうです。天井の漆喰彫刻はドイツ人のヨハン・ミハエル・ジラフの手によるものです。 -
一番有名なのは天井の中央部にあるこのレリーフです。ひなに餌を運ぶコウノトリの姿です。
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ひな鳥のいる巣の小枝は本物の小枝を使っているそうです。このレリーフは絵葉書にもなっていて地下の売店で買うことが出来ました。
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壁の漆喰の装飾は四季や世界の要素と同様に様々な牧歌的なシーンを描いています。
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この後に行くヴィリニュスの聖ペテロ&パウロ教会の漆喰彫刻も見事でしたが、ルンダーレ宮殿の漆喰彫刻も見事でした。
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花と遊ぶ天使は「春」の寓意です。
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麦の収穫は「夏」を表します。
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毛皮の帽子を被った天使は「冬」を表します。
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ブドウは「秋」に収穫されます。
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「磁器の棚の部屋」
楕円形のこの部屋には、たくさんの磁器が置かれています。そのほとんどが中国と日本のもので、樹木の形に伸ばされた45個のロカイユコンソールに置かれた磁器の瓶が見事です。下に置かれた沈香壺は有田で造られたものだと思います。 -
窓から見えた宮殿の煙突にはコウノトリの大きな巣が見えました。バルト3国ではたくさんのコウノトリの巣や成鳥の姿を見ることが出来ました。ギリシャのテオ・アンゲロプロス監督の「こうのとり、たちずさんで」という映画を思い出しました。今は亡きマルチェロ・マストロヤンニやジャンヌ・モローが出演する素晴らしい映画でした。
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明宣徳年製の景徳鎮の青華紅彩龍紋瓶に西洋人の好みそうな金細工を付けてしまった典型のような花瓶です。
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17世紀のフランドルのヴァニタス画を集めた部屋がありました。17世紀のフランドルでは、「ヴァニタス」というジャンルの絵画が盛んに描かれました。「ヴァニタス」というのはラテン語で「虚しさ」の意味で、生命の儚さや人間がいずれは死ぬ定めにあることを教訓として描いています。
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ヒエロニムス・ガレの作品もありました。1625年にアントワープで生まれた画家で果物や花を専門に描いた画家です。
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カトリーナ・エイケンサの作品は数点ありました。
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「花環の中の聖母子 」作者は特に有名な画家ではないようです。描かれた当時このような作品は分業制になってて、聖母子像を描く画家と花を描く画家は別人であることがほとんどです。
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ピーテル・ブリューゲルの息子のヤン・ブリューゲル(父)は「花のブリューゲル」と呼ばれた画家で、時代的には同じ頃のフランドルの画家の作品が並んでいました。
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各部屋には大きなストーブが必ず設けられていました。それだけ冬になると部屋の中が寒くなるのだと分かります。表からは優雅な姿ですが、裏側の通路では使用人が薪をくべて1日がかりで部屋を暖めたのでしょう。
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外装は全てアズレージョのような白地にコバルトで絵付けされたタイルで覆われています。
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この部屋にも肖像画がたくさん飾られていました。
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エカチェリーナ2世はプロイセンのフリードリヒ2世やオーストリアのヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされます。ロシア帝国の領土をポーランドやウクライナに拡大し、大帝 (ヴェリーカヤ)と称されるロシアの女帝です。こんな肖像画を見るとバルト3国とロシアの関係をいろいろ考えずにはいられません。
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エリザヴェータ・ペトロヴナの若いころの肖像画です。ロマノフ朝第6代ロシア皇帝で、ピョートル1世の娘で母はエカチェリーナ1世です。
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エカチェリーナ2世の彫像も置かれてありました。
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天井のオーバルのモールディングが美しい部屋です。
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「キリストの捕縛」
その時イエスを捕らえるために祭司長と長老たちと神殿の番兵(神殿警察)とさらに、ローマ兵も加わっていた。彼らは、イエスを逮捕するために裏切ったイスカリオテのユダの先導によって集団で訪れた。 -
聖家族を描いたものや祈りを捧げるマリアなど新約聖書を題材にした絵画で壁が埋め尽くされています。
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「図書室」
樫の木の本棚だけがオリジナルの家具として残っています。博物館のスタッフによって部屋は以前の状態を再現されています。 -
「薔薇の間」
薔薇の名にふさわしく、壁一面が薔薇色に彩られた部屋です。春や花の神をテーマにした天井画も描かれています。寄木細工の床は1739年の頃のオリジナルのままです。 -
天井画に描かれているのは春と花の女神フローラです。
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スタッコの大理石模様の上に立体的に施された薔薇の漆喰彫刻が見事です。
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「オランダサロン」
部屋の見どころは飾られた絵画ですす。 ルンダール宮殿収蔵のオランダの巨匠の作品の数々が展示してありますが、残念ながら知っているのはレンブラントの作品だけでした。オランダとベルギーの美術館はじっくり回ったので、画家の名前は結構知っていると思ったのですが。 -
レンブラントの「シメオンとアンの寺院」がイーゼルに飾られてありましたがオリジナルかどうかは分かりませんでした。説明文はラトヴィア語だけですから。
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ソビエト時代にはこの宮殿は学校として使われたこともあったようです。その当時のままの部屋も残されていて、修復についての資料が展示されていました。
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宮殿内の修復工事はルンダーレ宮殿博物館が設立された1972年に始まりました。 1992年まで修復は文化省によって資金提供され、研究は科学修復管理局によって行われました。当初の間は天井の絵画や漆喰の装飾は、サンクトペテルブルクの専門家によって修復されました。1992年以降修復作業は主に民間の寄付によって支えられているために進捗は減速してきました。テテレフ家によって紹介された後援プログラムによって博物館のスタッフが宮殿の内部を仕上げることが可能になりました。
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大屋根からの雨漏りで大広間の天井のフレスコ画もかなり痛んでいたようです。修復前と修復後を比較するパネルも展示してあります。ただ、戦火で完全に破壊されてしまったツァールスコエ・セローのエカテリーナ宮殿に比べればまだよかったのではないかと思えました。
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「バスルーム」
当時のバスルームが再現されています。着座式のバスタブは初めて見ました。 -
陶器製のヒーターはベルギー製で、お湯を暖める器具や椅子型のトイレも並べてあります。
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ロマノフ朝第4代のロシア皇帝アンナ・ヨアノヴナの肖像画です。この館の主エルンスト・ヨハン・フォン・ビロンは彼女の愛人でったことでその地位を得ることとなります。
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スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキはポーランド・リトアニア共和国の最後の国王です。スタニスワフはロシア宮廷で後に女帝エカチェリーナ2世となるエカチェリーナ・アレクセーエヴナ大公妃と知り合います。エカチェリーナはこのハンサムで有能な若いポーランド貴族に入れ込み、他の愛人たちをすべて捨ててしまうほどでした。スタニスワフとエカチェリーナとの間には娘のアンナまで生まれましたが、スタニスワフは1759年にロシア宮廷の陰謀事件に巻き込まれて帰国せざるを得なくなります。 そんな話ばっかりです。
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エルンスト・ヨハン・フォン・ビロンの肖像です。ビロンの驚異的な出世の最たるものが、1737年にクールラントの統治者ケトラー家が断絶した際にそのクールラント公位を継承したことです。1740年に死の床にあったアンナ女帝は、不承不承ながらビロンの必死の嘆願を聞き入れ、彼を生後まもない後継者イヴァン6世が成人するまでの摂政とすることを決めます。ビロンの摂政期間は3週間続いただけで、仇敵ミュンニヒ元帥に寝込みを襲われ逮捕され、莫大な財産は全て没収されシベリアのペリムに永久追放される刑を受けます。1763年にエカチェリーナ2世が彼をクールラント公に復帰させ、ビロンは息子のペーターに公国を相続させることが出来ました。
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エカチェリーナ2世の若いころの肖像画です。プロイセン軍少将の娘として生まれ、ルター派の洗礼を受けてゾフィー・アウグスタ・フレデリーケと名づけられます。結婚のためにロシア正教に改宗し、エカチェリーナ・アレクセーエヴナと改名し、母方の又従兄にも当たる皇太子のホルシュタイン公ピョートル・フョードロヴィッチ、後のピョートル3世と結婚します。
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エルンスト・ヨハン・フォン・ビロンの夫人であるベニグナ・フォン・トロタの晩年の肖像画です。彼女はロシアの女帝の愛人だった夫をどんな思いで見ていたのでしょうか。
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クールランドの歴史に関連した統治者の肖像画の知事の肖像画のある部屋です。 フリードリヒ・ハルトマン・バリスニーの絵画「ヴィルヘルミン王子とクルゼムの肖像画」と、上の女性はドロテア・フォン・メデムです。バルト・ドイツ人の貴族女性で最後のクールラント公ペーター・フォン・ビロンの3番目の妻です。ベルリンで貴族サロンを主宰し、別居していた夫の便宜を図り様々な外交交渉を行ったことで知られます。
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表から見ると美しいアズレージョタイルで覆われた暖炉も、裏側から見ると使用人の苦労が無ければ温かくならないであろうことが分かります。
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「大公の第2書斎」
ロココスタイルではありますが落ち着いた雰囲気の書斎です。 -
胸像はヴォルテールことフランソワ=マリー・アルエで、フランスの哲学者で文学者でもあり歴史家です。
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ロシア製の鏡とスイス製の置時計。
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「大公の寝室」
寝室は宮殿のちょうど真ん中に位置しています。これはベルサイユ宮殿でも適用された伝統に則るものです。両端のストーブの位置からも冬の寒さを感じます。裏側が隣室につながっており、その隣室から使用人たちが炭をこのストーブの中に入れていたのでしょう。 -
天井画のテーマはアモールの育成だそうで、ローマ神話ではエロスと呼ばれ、ラテン語でやはり受苦の愛に近い意味を持つアモール(Amor)またはクピードー(Cupido)と呼ばれる天使は同一のものです。
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ラストレリのデザインに従って1739年に作られた寄木細工の床は当時の物を再現して修復されています。寄木細工が見事な出来栄えです。
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この部屋は宮殿の中心なので、窓からは放射線状に通路の伸びはフランス庭園が見渡せます。ここへは別料金で見学する事が出来ますが、与えられた自由時間では見学するのは無理でした。有名な薔薇の庭もこの時期では早すぎるようです。
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「レセプションルーム」
天井にはアフロディーテとアドニスの神話が描かれています。アフロディーテは赤ん坊のアドニスを箱の中に入れると、冥府の王ハーデースの妻で冥府の女王のペルセポネに預けます。彼女はペルセポネに、決して箱の中を見るなと注意しますが、好奇心に負けて箱を開けてしまいます。すると彼を見たペルセポネもアドニスに恋してしまい、しばらくペルセポネが養育することになります。 -
アドニスが少年に成長しアフロディーテが迎えにやって来ますが、ペルセポネはアドニスを渡したくなくなっています。2人の女神は争いになり、ついに天界の審判に委ねることにした結果、1年の3分の1はアドニスはアフロディーテと過ごし、3分の1はペルセポネと過ごし、残りの3分の1はアドニス自身の自由にさせるということとなります。
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アドニスは狩りが好きで毎日狩りに熱中していました。アフロディーテは狩りは危険だから止めるように言っていましたが聞き入れませんでした。アドニスが自分よりもアフロディーテを選んだことが気に入らなかったペルセポネはアフロディーテの恋人である軍神アレスに「あなたの恋人はあなたを差し置いて、たかが人間に夢中になっている。」と告げ口をし、これに腹を立てたアレスはアドニスが狩りをしている最中に猪に化けて彼を殺してしまいます。 アフロディーテはアドニスの死を大変に悲しみます。やがてアドニスの流した血から、アネモネの花が咲いたといわれます。
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「イタリアンサロン」
このサロンは大公の息子のペーター・フォン・ビロンのイタリアへの愛を反映したものです。彼はイタリアが大好きで多くの時間をイタリアで過ごしました。また、ボローニャの学校に通う生徒のために奨学金制度も設立したと言われています。部屋の中にある背の低いタンスや彫刻がイタリアらしさを感じさせます。 -
ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージの「ポポロ広場の景色(Veduta della Piazza del Popolo)」という題名のエッチングです。サンタ・マリア・イン・モンテサントとサンタ・マリア・デイ・ミラーコリの双子教会とオベリスクが印象的な作品です。上野の国立西洋美術館にも収蔵されていますが、これ欲しい!
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「ダイニングルーム」
大理石の間とも呼ばれており、ダイニングルームとして使用されていました。 -
大理石ホールは公爵の食堂として使われました。 ペーター公爵、ドロシア公爵夫人とその娘たちの胸像は、灰色と青みを帯びた色の漆喰大理石の壁を背景に際立っています。ここでは公爵がベルリンのKPMファクトリーに注文した磁器セットを見ることができます。
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天井の彩色された漆喰彫刻が非常に美しく印象に残ります。
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「ビリヤードの部屋」
ビリヤードの部屋にはビリヤード台とカードゲームをするためのテーブルも置かれてあります。現在あるビリヤード台は1770年代に造られたものを模したものだそうです。ビリヤードと言ってもポケットの無いキャロム台で、サイズからスリークッション用ではないかと思います。最後に見たのはスリランカのヌワラエリアのヒル・クラブのゲームルームでした。 -
中学生のころビリヤードにはまって、駅前のビリヤード屋で「四つ玉」で遊んでいました。隣のスリークッションを楽しんでいるおじさんたちがかっこ良かったのを覚えています。
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ペーター・フォン・ビロンの肖像が飾られています。ビロンは後にクールラント公となるエルンスト・ヨハン・フォン・ビロンと、その妻ベニグナ・フォン・トロタとの間にで生まれます。1740年に父の政治的失脚に伴い、家族とともにシベリアへの流刑を受けます。
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ペーター・フォン・ビロンの3番目の妻ドロテア・フォン・メデムとヴィルヘルミン王子とクルゼムの肖像画です。ロシア政府から受け取った年金で、ベルリンのウンター・デン・リンデン大通りにあった邸宅クールラント宮殿を大々的に改装するという念願を叶えたのは彼女の手腕があってのことだと思います。
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1769年に父からクールラント・ゼムガレン公国を相続しますが、公国の統治権を放棄する代わりに高額な年金をロシア帝国から受け取り、1795年には領土を正式にロシアへ譲渡します。
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ショートコースの見学の最後の客室は19世紀後半の宮殿の内部を再現しています。 豪華な雰囲気を演出する象嵌寄木細工で作られた家具です。 この部屋の肖像画には当時の宮殿の所有者であるピョートルとパベルシュヴァロフ兄弟、そしてロシアの支配者たちの肖像画が飾られています。
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中央の肖像画はアレクサンドル・ヴァシリエヴィチ・スヴォーロフは、ロシア帝国の軍人で、ロシア帝国歴代4人目にして最後の大元帥です。軍事史上でも稀な不敗の指揮官として知られています。
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造花ではありますが、美しい花で部屋が飾られているので博物館らしさが薄らいで華やかな雰囲気を醸し出していると思います。
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19世紀のフランスで造られた象嵌の寄せ木細工の家具も素晴らしかったです。上の絵画は「サムソンとデリラ」を題材にしたものです。サムソンは20年間に渡り士師としてイスラエルを導きます。その後サムソンはソレクの谷に住むデリラという女性を愛するようになったため、ペリシテ人はデリラを利用してサムソンの力の秘密を探ろうとします。サムソンはなかなか秘密を教えませんでしたが、とうとう頭にかみそりをあててはいけないという秘密を話してしまいます。デリラの密告によってサムソンは頭をそられて力を失い、ペリシテ人の手に落ちます。
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ショートコースでもこれだけの見学内容でした。残念ながら時間の無いツアーでは宮殿の内部を観る事が出来ただけでも良しとします。
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エジプトのクフ王の太陽の船を見学して以来の「ドラえもん」の姿です。
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最後に地下のロッカーから荷物を取って売店で絵葉書を買い求め、トイレにも行ってルンダーレ宮殿の観光は終わりです。
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出口にはナルシスの花がたくさん並んでいました。すべて種類が違うのが驚きです。宮殿の天井のフレスコ画の「アフロディーテとアドニス」を見て来たばかりなので、なるほどなと思ってしまいます。
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ランチと宮殿の見学で2時間以上も建物の中にいたので表に出ると天気が良くなっていました。
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夏の離宮とはいえこんな片田舎に何故こんな宮殿を建てたのだろうと謎だけが残りました。
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庭園の方にも歩いてみましたが、時間が無いのでバスへ戻ります。
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確かにベルサイユ宮殿のようでもあり、サンクトペテルブルグの宮殿や離宮のようでもありました。
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この後のバルト3国の旅はずっと天気が良かったです。
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次に来ることは無いであろう宮殿とお別れです。
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並木道の新緑もさらに色が鮮やかになってきました。
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風光明媚なところではありました。ここに宮殿を造った理由はこの水辺の風景だったのではないだろうかと推測します。
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駐車場の手前には何軒かお土産物屋さんがありました。屋台もいくつか出ていましたが、特に買いたいものはありませんでした。
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午後3時前にバスに乗ってリトアニアのヴィリニュスへ向かいます。
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2019 ヘルシンキとストックホルムとバルト3国の旅
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2019/05/02~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(5)ストックホルムの街を「いだてん」のように走り抜け、市庁舎でノーベル賞...
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2019/05/04~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(10)カウナスの杉原千畝記念館に感動を覚え、日曜日の旧市街を歩く。
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2019/05/05~
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2019/05/05~
ビリニュス
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(13) ヴィリニュスからリガへの道中にシャウレイの十字架の丘に立ち寄り、...
2019/05/06~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(15)リガ新市街のユーゲントシュティール建築に感動し、映画「戦艦ポチョム...
2019/05/06~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(16)夜のリガ旧市街を彷徨い、ブラック・バルサムの生まれたブラック・マジ...
2019/05/06~
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2019/05/07~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(19)カドリオルク宮殿とタリン旧市街を散策をし、カラマヤ地区のレストラン...
2019/05/08~
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バルト海沿岸5カ国周遊10日間の旅(20)タリン旧市街の午後は買い物に歯止めがかからず、満杯のトランクを見て...
2019/05/08~
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