2019/05/05 - 2019/05/05
391位(同エリア673件中)
kojikojiさん
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- 旅行記1484冊
- クチコミ1138件
- Q&A回答73件
- 2,682,927アクセス
- フォロワー151人
トゥラカイからヴィリニュスへ戻ってくると午後4時頃になっていました。そしてこのままヴィリニュスの市内観光へなだれ込みます。個人旅行だったらホテルへ直行して、昼寝をしているでしょうね。そんなことを想いながらバスはホテルの前を通り過ぎ、町はずれの「聖ペテロ・パウロ教会」に前のロータリーに着きました。ここで現地ガイドの方と合流して、一緒に市内観光するわけです。この教会はテレビや雑誌やガイドブックで見て、どうしても来たいところだったので楽しみにしていました。外観は普通のバロック様式の建物でしたが、中に入ると真っ白な漆喰彫刻が洪水のように目に飛び込んできます。今までいろいろな教会を見てきましたが、このようなところは初めてでした。
細かく見だすとその彫刻の意味が頭になだれ込んできます。普通の教会は文字の読めない信者のために絵画や壁画で聖書の物語を現わしますが、この教会は3Dで現わしていると思いました。沢山の人物もアトリビュートやアレゴリーからその人物の背景や場面が手にとるように分かります。30分も見学していないと思いますが、頭の中が飽和状態になりました。続いてはカテドゥロス広場に移動して大聖堂の見学です。ここの聖カジミェシュの礼拝所も素晴らしかったです。ヴィリニュスはリトアニアのローマと呼んでも良さそうなほどのバロック建築の素晴らしいものが多いと思いました。カジミェシュ往時についての見分はなかったので、ガイドさんお説明は非常に勉強になりました。ゲディミナスの銅像についても詳しく案内があり、こんな時にツアーでよかったなと思います。そのまま旧市街を歩き、「聖アンナ教会」のファサードを見て、最後に「夜明けの門」の見学です。これで2時間ほどのヴィリニュス観光は終わりで、バスでホテルに戻る人は途中で「3つの十字架の丘」で旧市街の風景を眺め、自力でホテルへ戻る人はここで解散になりました。昨晩閉まった雑貨店を見ていたので我が家は自由行動にしました。おかげで行きたかった雑貨店やリネンショップや琥珀の店などにも立ち寄れ、思っていた以上の買い物が出来ました。予定になかった自由時間が取れたのは添乗員さんのおかげです。食事も美味しかったし、楽しいヴィリニュスの滞在でした。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 5.0
- ショッピング
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 25万円 - 30万円
- 交通手段
- 観光バス 船 徒歩
- 航空会社
- JAL
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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トゥラカイからヴィリニュスへ戻ってきました。ホテルの前を通り過ぎて、旧市街の外れにある「聖ペテロ・パウロ教会」に到着します。
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森のような公園に囲まれた典型的なバロック様式の教会だと分かります。この教会はロシアからの解放を記念して建てられたもので、1668年から建設が始まり、外観には7年、内装にはさらに30年あまりの歳月が費やされたそうです。
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外観はシンプルな造りですが、この建物を7年で造るのはかなり早いと思います。この教会の前で現地の日本人のガイドさんと合流して、内部の見学と説明を受けます。
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堂内に入って目が慣れてくると天井も壁も柱も一面が真っ白な漆喰彫刻で覆いつくされていることに気が付きます。彫刻はなんと2000以上もあるそうです。イタリアから招かれた彫刻職人が制作にあたり、数百人ものリトアニアの職人がアシスタントに加わったそうです。
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中央の身廊には均等に配置された十二使徒の彫像が飾られています。中央の身廊には、ローマ帝国におけるキリスト教徒の迫害から数多くの拷問の場面もあります。ものすごい数の天使がこのクーポラとアーチ天井を支えているようです。
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主祭壇には「聖ペテロと聖パウロの告別」の祭壇画とダニエルとエレミヤ、イザヤとエリヤの4人の預言者の像が置かれています。聖ペテロと聖パウロを描いた祭壇画でありながら額の上部にはペテロのアトリビュートである天国の鍵が乗っています。
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青緑と緑色のチュニカと黄土色と赤いマントの色を見ているとトレドの旅で観てきたエル・グレコの十二使徒の絵のようです。
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翼廊には壁に組み込まれた「慈悲深い神の母」の祭壇もありました。
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「キリストの五つの聖痕」の祭壇と対になる形ですが、この絵は特別なようです。信者が寄進したであろう金銀の心臓が額に組み込まれてあります。聖母マリアの七つの悲しみを癒すためのものだと思います。
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この祭壇画を奉納するシーンは礼拝所のレリーフにもなっています。
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絵画は平面ですが漆喰彫刻では立体で表されています。
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翼廊の左の角には「アンタカルニスのイエス」として知られる等身大のイエスの彫像があります。この木製の彩色された彫像は白い絹と赤いベルベットの衣を纏い、本物の黒髪のかつらを付けています。彫像の頭の中には聖遺物が封印されているようです。
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聖ペトロ・パウロ教会は1901年から1905年に内装が再び修復されます。その際に真鍮とクリスタルのビーズで出来た小舟が吊り下げられています。現地のガイドさんの話ではノアの箱舟だということでした。
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箱舟を吊ったクーポラの最上部からは全能の神の視線を感じます。
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側廊の礼拝堂はそれぞれ繋がっていて行き来が出来ます。4つの礼拝堂は写真の聖ウルスラの礼拝堂と騎士の礼拝堂、女王の礼拝堂とアウグスティヌスの礼拝堂があります。聖ウルスラの礼拝堂には、信心を貫いた殉教者などの4人の女性像があります。
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「マグダラのマリア」は古来より東方教会と西方教会いずれの教会でも崇敬されてきましたが、ことにカトリックでは特有の多くの伝説で彩られています。 マグダラのマリアとベタニアのマリアは同一人物であり、マグダラのマリアは晩年にイエスの母マリアと使徒ヨハネとともにエフェソ(現在のトルコ)に暮らし、そこで没した後にコンスタンティノポリス(現イスタンブール)に移葬されたとされます。
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マグダラのマリアはアトリビュートである香油壺を左手に持っています。この女性のモデルはイタリアから来た彫刻家のリトアニア人の妻だそうです。
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「聖アポロニア」フィリップス・アラブス帝の統治時代の祭典の最中、詩人が災難が降りかかると預言したためにアレクサンドリアの群衆の怒りが頂点に達し、彼らの怒りの矛先はキリスト教徒への血なまぐさい暴行となって向けられます。当時アポロニアは教会の協力者であり非常に尊敬されていました。暴徒らは彼女を襲い繰り返し殴って、彼女の歯の全てを砕いてしまいます。彼らは市の城門外にまき束の山をこしらえ、アポロニアが彼らの異教の神への崇拝の言葉を唱えなかったら生きながらにして火にくべると脅します。彼女の願いが聞き届けられ、わずかな間に自由が与えられると素早く火の中へ飛び込み焼死します。彼女のアトリビュートは手に持った歯を抜くためのペンチです。
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「聖カタリーナ」の生涯は多くの種類の伝説で成り立っています。最も知られる話はカタリーナがエジプト・アレクサンドリア知事コンストゥスの娘で、彼女は当時最高の教育を受けたとされます。カタリーナは両親に自分より名声と富と容姿と知性を持った男でなければ結婚しないと宣言します。彼女の母は秘密裡にキリスト教に改宗しており、娘を隠者の元へ送り出します。その隠者はカタリーナに「その方(キリスト)の美は太陽の輝きよりも勝り、知性は万物を治める。富は世界の隅々にまで広がっている」と説きます。 さらに幻視をした彼女は洗礼を受けてキリスト教徒となります。彼女は幻視の中で天国へ運ばれてそこで聖母マリアによってキリストと婚約させられます(神秘の結婚)。 カタリーナの物語は時のローマ皇帝マクセンティウスの元にも届き、彼女は皇帝にキリスト教徒を迫害するやり方は間違っていると説こうとします。伝説ではカタリーナは皇后を改宗させることに成功しますが、皇帝はカタリーナに言い寄って失敗すると彼女を牢へ入れるよう命じます。彼女は車輪に手足をくくりつけられて転がされるという拷問が命じられますが、車輪に触れるとひとりでに壊れてしまったため彼女は斬首刑にされます。 カタリーナを描いた絵画や彫刻には必ず壊れた車輪があります。
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「聖バルバラ」はキリスト教が禁じられていた3世紀にニコメディアの富裕な家庭に生まれます。求婚者たちから美しい娘を遠ざけようとした非キリスト教徒の父ディアスコロスによってバルバラは塔の中で生活させられます。その幽閉生活の中で彼女はキリスト教への信仰に目覚めます。ある日2つの窓のある浴室が塔内に建設されることになった際にバルバラは窓を3つに増やさせます。この理由を三位一体を表すためとしたことから、娘がキリスト教徒であることを知った父は激昂し自らの手にかけようとします。 その瞬間に岩が2つに裂け、バルバラを包んで連れ去ります。しかし密告により捕らえられたバルバラはキリスト教を信仰した咎によって火で身体を焼かれるなどの拷問を受けます。しかし神のもたらした奇跡によって傷は癒され、その裸身は白い薄衣で人目に直接触れないように覆われたと言われます。最後は剣によって殉教しましたが、その父はのちに稲妻に打たれて死んだといわれます。
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この数年ベルギーやオランダやスペインの美術館をかたっぱしに訪ねる旅をしましたが、その際に聖書の物語以外にも聖人の伝説などを勉強したので、アトリビュートやアレゴリーで何を表しているかが分かるようになりました。
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女性または女王の礼拝堂は聖ペトロの娘とされている聖ペトラに献堂されました。この礼拝堂には女性の美徳を表す4体の像があり、それぞれ「敬虔」「寛大」「潔白」「勤勉」を表します。礼拝堂の祭壇にはヒッポのアウグスティヌスの母である聖モニカの祭壇画がかけられています。天井には初期キリスト教の殉教者たちの処刑や拷問の場面が漆喰彫刻で表されています。
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ヒッポのアウグスティヌスの礼拝堂はアウグスティヌスに捧げられた礼拝堂です。古代キリスト教の神学者で哲学者で説教者でもあります。ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの1人で、キリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力をもつ理論家とされます。
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「聖ゲオルギオス」ゲオルギウスはキリスト教を嫌う異教徒の王に捕らえられ、拷問を受けますが神の加護によって無事でした。 王は異教の神殿でゲオルギオスに棄教を迫るが、ゲオルギオスの祈りによって神殿は倒壊してしまいます。しかも王妃までもがゲオルギオスの信念に打たれキリスト教に改宗しようとしたため、自尊心を傷つけられた王は怒りに駆られます。
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入口には2体の対照的な彫像が並んでいます。1つは「聖クリストフォロス」、もう1つは外套を羽織り大鎌を持った残忍な「死神」である骸骨です。聖クリストフォロスは赤ん坊のイエスを担いでいます。イエスと親しくなりたかったレプロブスは隠者のもとを訪れ、イエス・キリストにより親しく仕える方法を問います。隠者は人々に奉仕することがその道であるといい、流れの急な川を示して、そこで川を渡る人々を助けることを提案します。レプロブスはこれを聞き入れ、川を渡ろうとする人々に無償で尽くし始めます。 ある日小さな男の子が川を渡りたいとレプロブスに言い、彼があまりに小さかったので引き受けたレプロブスでしたが、川を渡るうちに男の子は異様な重さになり倒れそうになります。あまりの重さに男の子がただものでないことに気づいたレプロブスは丁重にその名前をたずねると、自らがイエス・キリストであると明かします。イエスは全世界の人々の罪を背負っているため重かったのです。川を渡りきったところでイエスはレプロブスを祝福し、今後は「キリストを背負ったもの」という意味の「クリストフォロス」と名乗るよう命じます。クリストフォロスは旅人の守護聖人でもあるので、教会の入り口に描かれていることが多いのですが彫像は初めて見ました。
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一方の死神は王冠や他の権力の象徴の上に立っています。死は全ての者を等しく待ち受けるのでクリスチャンは備えるべきという戒めを表しています。
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ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の教皇アレクサンデル7世の墓碑のベルニーニの彫刻と比べることは出来ませんが、意味するところは同じです。「メメント・モリ(死を想え)」現世の虚しさを知り、来世に想いを馳せなさいという教えを感じます。
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足元には王の冠やミトラと呼ばれる司教冠などが並び、死は誰の上にも平等に訪れると説いているのだと思います。
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「聖セバスティアンの殉教」セバスティアヌスはミラノで教育を受け、その後ディオクレティアヌスとマクシミアヌス配下の親衛隊の長に任命されます。皇帝は彼がキリスト教徒であることに気がついていませんでした。 しかし囚われの身であった2人のキリスト教徒マルクスとマルケリアヌスをその信仰で励ましたことからすぐに知られてしまいます。ディオクレティアヌス帝はセバスティアヌスが裏切りを支援したことを責め、草原へ引き立てるよう命じます。彼を縛り付ける杭が打たれ、そして射手たちが彼に多くの矢が突き刺さるまで射続けます。セバスティアヌスの絵画や像を見ると三島由紀夫を思い出してしまいます。
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見事な説教壇もありました。覆いの部分は本当に天使が空を舞いながら掲げているように見えます。腰部には4人の福音書記者のアレゴリーの彫刻も施されています。
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天井はリトアニアでは2番目に大きな5つのフレスコ画によって飾られています。オルガンの上の3つの小さい方のフレスコ画は聖ペトロの人生が描かれています。「身体障がい者を癒す」「牢獄からの脱出」「天から布に乗った動物が降りてくる幻」などが描かれています。他の大きな2つのフレスコ画は「クォ・ヴァディス(どこに行くのか)」「魔術師シモンの洗礼」が描かれています。
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時間が許せばあと1時間くらいここに立って、彫刻を読み解いていたいところでした。残念ながら15分ほどの見学を終えて1ユーロ寄付をするとカレンダーがいただけました。ヴィリニュス市内の教会などの美しい写真が掲載されたなかなか良いものでした。
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バスに乗って大聖堂のある広場へ向かいます。車窓からはリトアニア国立博物館が見えますが素通りするしかありません。
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バルト3国だけではなくヨーロッパ各地ではレンタル自転車が盛んですが、ヴィリニュスでは電動のキックボードが盛んでした。これらは乗り捨てが出来るようで、町中に放置されていました。使いたい人はスマホのアプリで手続きしているようでした。
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昨晩も散歩してきたカテドゥロス広場でバスを降りました。
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街灯に付けられた横断歩道のボタンの横にはヴィリニュス市の紋章である幼子イエスを肩に乗せた聖クリストフォロスのプレートがありました。
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ヴィリニュス大聖堂の鐘楼は中世の城壁の塔の1つでした。円形の鐘楼の上部に6角形の新古典主義の塔が加えられました。
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ヴィリニュス大聖堂はカトリックの大聖堂で、聖スタニスラフ(シュツェパノフのスタニスラウス)と聖ラディスラフ(聖王ラースロー1世)に献堂されています。リトアニア大公の戴冠式はここで行われていました。ドーリア式列柱は右端にモーゼ、中央に4人の福音書記者、左端にアブラハムの彫像が並んでいます。
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キリスト教時代の前にはバルトの神であるペルクーナス(雷神)が、この場所で信仰されていたそうです。ミンダウカス王はキリスト教へ改宗した後の1251年にこの場所に大聖堂を建てました。しかし彼が1263年に亡くなるとこの最初の大聖堂は再びバルトの神の信仰の場所に戻ります。リトアニアが公式にキリスト教に改宗した1387年にこの場所にゴシックの大聖堂の建設が始まりました。しかしこの2番目の大聖堂は1419年に焼失し、ヴィータウタス大公が1429年にこの場所にこれまでよりとても大きなゴシックの大聖堂を建てました。この3番目の大聖堂の壁や柱は現在まで残されています。
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その後ヴィリニュス大聖堂は何度も改築され、1783年に新古典主義の現在の外見になりました。内装は1801年に完成し3体の彫像が大聖堂の屋根の上に置かれました。南側の聖カジミエルがリトアニアを象徴し、北側の聖スタニスラフがポーランドを象徴し、中央の聖へレナが十字架を抱いています。これらの彫像は1950年以降のソビエト時代に撤去され、1997年になって復元されました。
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身廊は非常にシンプルでカトリック教会とは思えないです。ファサードと同じようにギリシャ神殿の中に入ったようです。デコラーティブな聖ペテロ・パウロ教会を見て来た目には何の装飾も無いように見えます。左右の柱12本には十二使徒の絵が掲げられています。
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広々とした純白のヴィリニュス大聖堂の主祭壇は比較的簡素ですが、並んでいる様々な絵画と合わせて厳粛な趣きが感じられます。
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主祭壇の祭壇画「スタニスラウスの死」はポーランド王ボレスワフ2世によって礼拝中に殺害されたスタニスラウスの姿が描かれています。
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祭壇の上部にはプロビデンスの目が輝いています。ヴィリニュスでは数多くの目に出会いました。
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内部にはいくつかの礼拝所が設けられており、最大の見どころはリトアニアの守護聖人であるカジミェシュ王子が眠る聖カジミェシュの礼拝所です。大理石で埋め尽くされた空間は8体の王の像や漆喰彫刻とフレスコ画などで飾られ、その豪華さと厳かな雰囲気は圧巻でした。
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120年後に棺を開けた際にも遺体は亡くなった時のままでに変化がなかったという聖カジミェシュの奇跡を描いた絵が飾られています。
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またこちらの絵では亡くなった子供が礼拝所の聖カジミェシュの墓の前で生き返った場面です。
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13歳の時カジミェシュはマーチャーシュ1世に不満を持つハンガリー貴族の一派からハンガリー王位に就くよう請願を受けます。オスマン帝国の侵略からキリスト教世界を防衛することを熱望していたカジミェシュは、ハンガリー王冠を受けることを承諾します。カジミェシュの伯父でかつてポーランド王とハンガリー王を兼ねたヴワディスワフ3世は、1444年のヴァルナの戦いでオスマン軍に敗死し、カジミェシュは結局ハンガリー王位の獲得に失敗してポーランドに逃げ戻ることになります。
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父王はカジミェシュを神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の娘クニグンデと結婚させようとしましたが、彼は独身でいることを望みこの縁談を断ります。敬虔な信仰としての断食生活が彼の体を衰えさせ、当時の不治の病である結核を病むことになり、リトアニアへの旅の途中に25歳でフロドナで没します。リトアニア大公国の首都ヴィリニュスに埋葬され、宙に浮いた銀製の棺の中に彼は眠ります。
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カジミェシュは大変な徳をもって生き、また国家を統治し、素晴らしい慈愛と叡智を持った人物として記憶されます。彼はいくつかの奇跡を起こしたことで知られ、有名な奇跡にはリトアニアと東方教会に属するモスクワ大公国との戦い(モスクワ・リトアニア戦争)の最中にリトアニア軍の前に姿を現したというものがあります。カジミェシュは教皇ハドリアヌス6世により列聖され、リトアニアの世襲領主であったことからリトアニア国家の守護聖人とされます。
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そしてもう1つの奇蹟はイコンです。一度描かれた右手を描き直した後も時間が経つと消したはずの右手が現れるということです。ロシア語でリザ(ローブ)とかオクラド(覆われた)と呼ばれる銀の覆いでよく見えませんが、ガイドさんが写真を見せてくれました。
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その写真によるとこのように右手が2本描かれています。参考になるので写真を撮らせてもらいました。よく見ると首には金羊毛騎士団(ゴールデン・フリース騎士団)のしるしが描かれています。
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大聖堂の外壁にはソヴィエト時代の大聖堂の姿がありました。屋根の上の聖人像は外されて倉庫として使われていたそうです。
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現在はただ美しいだけの景色ですが、ほんの数十年前には全く違った世界があったのだと思い知らされます。「バルトの道」は1989年8月23日にソヴィエト連邦の統治下にあったバルト3国で独立運動の一環として行われたデモ活動で「人間の鎖」の1つです。 およそ200万人が参加して手をつなぎ、3共和国を結び約600キロ以上の人間の鎖を形成します。
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ヴィリニュスでは大聖堂前では数千人がろうそくを持って国歌をはじめとする民族の歌を謡いました。他の場所では神父がミサを行い、教会の鐘を鳴らしました。
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リトアニア大公であったゲディミナスはヴィリニャ川とネリス川に挟まれた谷へ狩猟に来ました。獲物を追いかけているうちに日が暮れたために野営を張ることになります。ゲティミナスはその晩から何度も不思議な夢を見ました。唸り声を上げる鉄の狼の夢で、この予言めいた夢は吉祥だと祭司のレジェイカから解釈されます。
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そこでゲディミナスはこの地を新たな首都と定め、首都はトゥラカイからヴィリニュスに移されます。ヴィリニュスという街の名はヴィリニャ川に由来しています。
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ガイドさんの説明を受けないとこの像の由来は分かりませんでした。こんな時ツアーでよかったと思う瞬間でもあります。しかし、この像を見たとき「未来世紀ブラジル」という映画で主人公の夢の中に出てくる巨大はサムライの姿にそっくりだと思いました。
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ビリエス通りに入ると民族衣装を着た高校生くらいの女の子が通りました。カメラを向けると恥ずかしそうに微笑んで行ってしまいました。バルト3国は民族衣装が有名ですが、ツアーでは民族博物館にも行かないのでお店で見掛けるくらいでした。
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第1次世界大戦が起きるとリトアニアは東部戦線の戦場となります。1918年2月16日、ロシア革命の余波が及ぶ中でリトアニア評議会(タリーバ)はリトアニアの独立を宣言します(リトアニア独立宣言)。当初はリトアニア王国として独立しましたが、これはドイツ帝国の計画したミッテル・オイローパ構想の一環であったそうです。その独立宣言が行われたのが、この通りにあるバルコニーからです。
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通りを挟んだ建物の外壁にはそのことを説明する懸垂幕がありました。こんな話も現地のガイドさんがいなければ知ることも無かったでしょう。
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ヴィリニュス大学の中にある「聖ヨハネ教会」の鐘楼がビリエス通りから見えました。建物に囲まれて見えますが、この鐘楼はヴィリニュス旧市街で最も高い建物で、69メートルあります。
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ヴィリニュス大学の中庭にある「聖ヨハネ教会」は洗礼者ヨハネおよび使徒であり福音書記者ヨハネの両者に捧げられています。大学の中へは行きませんでしたが、通りの建物越しにバロック様式のファサードが見えました。
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ビリエス通りから路地に入ると行きたかった「琥珀博物館」の前に出ました。
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行きたいところも我慢しなければならないのがツアーの悲しいところでもあります。しかも目の前まで来ているのです。
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さらに「聖ミカエル教会」の前も通ります。しかしヴィリニュスという町には教会が数多くあるのが分かります。
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そして目的の「聖アンナ教会」に着きました。聖アンナ教会はフランボワイアン(火焔式)ゴシックとブリック(煉瓦)ゴシック様式の両方の建築様式で傑出した例といわれます。とても美しい教会で皇帝ナポレオンが「わが手に収めてフランスに持ち帰りたい。」と称賛したそうです。
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この地の最初の教会はリトアニア大公妃でありヴィータウタス大公の最初の妻であったアンナのために建てられました。その当時の教会は木造でしたが、後に1419年に火災で崩壊してしまいます。現在の煉瓦造の教会は1495年から1500年に建てられ、教会の外観はその時以来ほとんど変わらずに残っているそうです。
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ディティールを見ていくとバルセロナのガウディの建築や、その師匠のドメネク・イ・モンタネールの建築を見ているようです。一昨年から公開しているカサ・ビセンスやサン・パウ病院を思い出します。
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モデルニスモの建築はゴシックにも通じていたのか、それとも教会美術は建築様式を越えるということでしょうか。いろいろなことを考えてしまいます。
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この教会はヴィリニュスを代表するゴシック教会で、この火焔のような姿を表現するために33種類もの異なった形のレンガが使われており、枝を伸ばす大樹のような、燃え盛る炎のような躍動感を感じさせる意匠はフランボワイヤンゴシック建築の傑作と呼ばれています。
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添乗員さんに記念写真を撮ってもらいました。
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聖アンナ教会に隣接している聖フランチェスコおよび聖ベルナルドの教会はリトアニアのゴシック建築の重要な実例です。ベルナルディン教会はカトリック教会に属しており、アッシジのフランチェスコとシエナのベルナルディーノに献堂されています。ベルナルド会の修道僧が木造の教会を建てた後1490年から1516年に煉瓦造の教会を建てました。その後何度も改築されましたが、ソビエト時代には閉鎖され1994年に再建されます。
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外観だけで内部の見学をすることはありません。この辺りでヴィリニュスをはじめ、バルト3国にはもう一度個人で来なければならないと思いました。今回はヘルシンキとストックホルムとリガのフェリーで燃え尽きた気がします。
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聖アンナ教会の前の広場にはナポレオンの姿がステンシルで描かれていました。妻は「バンクシーだ。」と騒いでいましたが…。
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橋を渡るとウジュピス共和国で独立記念日は4月1日のエイプリルフールです。「ウジュピス」とは「川向こう」の意味でヴィリニャ川によって旧市街と隔てられており、旧市街から川に架かる5つの橋を渡ってウジュピス共和国に入ることができます。
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現在ウジュピス共和国となっているこの地区は15世紀ごろから労働者や職人たちが住み始めた場所で、16世紀に2つの橋が架けられるまでは旧市街とは隔絶された存在だったそうです。ソ連支配時代の後期からそんな独特の雰囲気を好む芸術家や若者が住むようになり、パリのモルマントルにも似た芸術家村が形成され「ヴィリニュスのモルマントル」とも呼ばれるようになります。
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バスでウジュピス共和国を走り抜けて旧市街の一番南側の「夜明けの門」の前でバスを降ります。
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夜明けの門からヴィリニュス旧市街に入ります。夜明けの門は街の城塞の一部として1503年から1522年に建てられ、9つあった市門の内で唯一現存している門です。門の両脇は建物になっていて城壁らしさは残っていません。
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夜明けの門をくぐりました。振り返ると夜明けの門の窓の中に聖母礼拝堂が見えます。全く印象が変わるのが驚きです。
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ここにもプロビデンスの目が輝いています。キリスト教における意匠の1つでプロビデンスはキリスト教の摂理という意味があり神の全能の目を意味します。光背や三位一体(トリムルティ)の象徴である三角形と組み合わせて用いられます。
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中世からルネサンスにかけて以降三位一体の象徴としてデザインが用いられ、現在でもアメリカ合衆国の国章の裏面をはじめ町や大学の紋章、アメリカ合衆国ドルをはじめとする通貨のデザインで用いられています。
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妻の視線は完全にこちらに釘付けです。
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「夜明けの門」の聖母は1630年頃に描かれた北方ルネサンスの絵画です。夜明けの門の聖母は外部からの攻撃から街を護るためや旅人を祝福するために門の上に置かれてありました。夜明けの門の聖母に献堂された礼拝堂は1671年に建てられました。同じ頃にこの絵画は東方正教会の伝統にのっとり、顔と手のみを残して金と銀のオクラドで覆われています。
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ガラス窓が開いているときもあるようですが、この時は固く閉ざされて聖母の姿はガラス越しにしか見えませんでした
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1993年9月4日に当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が夜明けの門の中にあるチャペルでロザリオの祈りを捧げたことを記念したレリーフがありました。オランダ出身のハドリアヌス6世以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラヴ系教皇でポーランド出身の方です。ヴィリニュスから30キロも走ればポーランドだという事を思い出させました。
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ヨハネ・パウロ2世が亡くなった翌年の2006年にサン・ピエトロ大聖堂の地下の墓所を参拝したことがあります。その時に人種も年齢も様々な方がお墓の前で祈りを捧げながら涙する姿を見たときは衝撃でした。自分の人生には無い信仰を感じました。そんなことを思い出させました。
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ここで添乗員さんと他のツアーの方と別れてお買い物タイムになりました。妻が添乗員さんに自由時間が欲しいと呟いていたおかげかもしれません。この後はホテルに戻るだけですが、バスで戻る方は途中「3つの十字架の丘」に立ち寄ったそうです。夜明けの門の聖母礼拝堂を離れて本通りに沿って旧市街に向かいますが、聖テレーズ教会のバロック様式の建物の前を通りました。
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我が家以外にも街歩きを希望されたご夫婦と一緒に街歩きをすることにしました。奥様がご自分でアケビの弦を山まで採りに行き、籠を編んだりされる方でバルト3国の雑貨に興味を持たれていました。ツアーの予定では自由時間が無く、買い物は諦めていましたが嬉しい誤算になりました。
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「聖カジミェシュ教会」が夜明けの門通りに面して建っています。聖カジミェシュ教会はヴィリニュスで最初で最古のバロック様式の教会で1618年に建てられました。聖カジミェシュ教会には王冠付きの巨大な印象的なクーポラがあります。このクーポラはかつてのリトアニア大公国の全ての領域においても独特です。
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聖カジミェシュ教会はポーランド王国とリトアニア大公国の王子であったリトアニアの守護聖人である聖カジミエルに献堂されています。先ほど大聖堂の中にあった礼拝所でガイドさんから話を伺っていたので他の教会とは違って見えます。
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旧市庁舎は聖カジミェシュ教会のすぐ近くにあります。昨晩はここまで歩いてきたことになります。旧市庁舎は最初はゴシック様式の建物でしたが1799年に新古典主義の建物に改築されています。
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旧市庁舎のそばの「ドゥヴァーロ・メイストゥライ」という店から買い物を始めました。
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店の奥は工房になっていて伝統工芸の職人さんが実際に手造りされているそうです。
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こういうリネンの手作り物を買いたかったのです。
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しばらく工房を見せてもらいました。
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ここでこの鳥の形をした陶器の笛を買い求めました。ガイドブックよりは値段は上がっていましたけどかわいいので良しとします。子供の頃父に買ってもらった陶器のフクロウの笛を思い出しました。吹いてみると同じ匂いを感じました。
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ヒンメリも置いていました。ヒンメリ(himmeli)はフィンランドの伝統的なヨウル(joulu)の装飾品で、藁に糸を通して多面体を構成したら最後にそれらを繋ぎ合わせて吊るす「光のモビール」です。京都に住む2つ違いの従妹がこのヒンメリの製作に凝っているのを思い出しました。40年近く前にその従妹を連れてフィンランディアというレストランに行ったことも思い出しました。
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聖カジミェシュ教会の王冠付きの巨大なクーポラを見る事が出来ました。
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さらに買い物は続き「LILY」という現在風のデザインの琥珀をお買い上げ。だんだん悪い子の顔になってきました。
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買い物も良いけれど、教会巡りもしたかったです。
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琥珀博物館へ行く時間もなさそうです。リネンのお店を数件覗いてこの通りのお店は終わりです。
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旧市庁舎広場を後に戻ってビリエス通りを歩いて行くと通りに面したオーソドクスの聖ニコラス教会の前を通り過ぎます。聖ニコラス教会はヴィリニュスで最も古い正教会の教会の1つで、最初の木造の正教会の礼拝堂は1340年頃に建てられました。現在の建物は1865年にネオビザンティン建築で再建されたものです。
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通りから「ゲディミナス城」がきれいに見えました。12世紀にリトアニア大公ゲディミナスによってヴィリニュスの丘の上に木造の要塞が作られ、1409年にヴィータウタスによって煉瓦造りの要塞に変えられます。塔の3階部分は1930年にポーランド建築家ヤン・ブロフスキによって再建されたものです。
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この通りでも作家さんの造ったお皿を買ったり、リネンのストールを3枚買いました。1枚は母へのお土産です。これは他でも似たようなものを見掛けましたが、織り方が違うのかとても良いものでした。カテドゥロス広場まで戻って、先ほどガイドさんに聞いた城壁の跡を歩いてみました。
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そんな話も現地の方に聞かないと分からないことです。ここまで来ていながら鐘楼の近くにある「STEBUKLAS」(奇蹟)の敷石を探すのを忘れていました。
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1989年にソヴィエト連邦の統治下にあったバルト3国での独立運動の一環として行われた「人間の鎖」を記念したプレートだったのですが。自由時間はもらえましたが、午後7時30分のホテルでの夕食には戻ってくるように言われていました。
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ホテルに着くとほとんど食事の時間でした。部屋に荷物を置いて踵を返してレストランに戻り、まずはビールを注文します。
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濃厚なトマトスープは疲れた体に染み入りました。大きなクルトンとドロリとしたスープがお腹にたまります。
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今回のツアーで一番おいしかった料理がこれでした。骨付きのチキンローストにバターソースですが、付け合わせのマリネされたスライスしたキュウリとキャロットが最高でした。
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デザートとコーヒーで満腹です。バスで先に戻ったツアーの方から「3つの十字架の丘」からの景色が良かったと聞くと行きたかったなとも思ってしまいます。
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食事の後にショッピングセンターにも行ってみました。前の晩よりは少し早い時間だったので地下のスーパーも開いていました。
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リトアニアを代表するお菓子「シャコティス」が売っていました。このシャコティスがバウムクーヘンの起源だといわれることもあるそうで、リトアニア語で「枝」を意味する「シャカ」にちなんだ名前だそうです。バームクーヘンはゆっくり望を回して層を造りますが、このお菓子は速く回すことにより角が生えるそうです。買って帰っても壊れてしまうなと思いましたが買って来れば良かった…。
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今回の旅で何度か食べた豆料理の缶詰めも売っていました。夜部屋で飲む飲み物とチョコレート菓子を買いましたが、これが安い割に美味しかったです。
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バルト3国でよくある「MAXIMA」でした。このスーパーは大きさでX1つからXXXまであります。
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今回の旅で初めてスーパーに入りましたが、どこの国へ行ってもスーパーマーケットは楽しいものです。
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部屋に戻って今日の買い物の確認です。作家物のお皿に鳥の笛を乗せたらクジャクのように見えました。
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こうやって置いてみるまでこんな風に見えるとは思えませんでした。我ながらいいセンスだななんて思ったりして。
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白黒の大きなショールは妻へ、薄い色のショールは母へのお土産です。嫁と姑は同じものにしないとならないとつくづく感じます。
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カウナスのお店で買ったYATEKOMOのカップ麺です。商品名の意味はいくつか日本語ブログを見てみると「食べちゃうぞ!」「今食べちゃうぞ」などと書かれています。スペイン語でYa te comoなのでしょうか。ya=もう、今すぐ、te=君を、como =食べる、かななどと思います。チキン味で意外においしいのにびっくり。味の素とスペインの会社のコラボでした。
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部屋でお酒を飲みながらヴィリニュスの夜は更けるのでした。
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