2018/04/19 - 2018/04/25
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binchanさん
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旅行三日目、タリンとその近郊を観光しています。
朝一番でタリン港沿いの見どころを見て、朝市で缶詰を買った後は、少し遠くまでバスに乗ってお出かけです。
向かうのはSõjamuuseum(戦争博物館)です。
戦争がテーマという物騒な博物館ですがその外観はエレガントなお屋敷です。そのViimsi Mõisヴィームシ屋敷)は古くは1241年のデンマークの文献にも存在が認められます。1471年にはピリタのBirgitta女子修道院が所有していたこともあり、周囲の関連建築にはBirgittaを冠したものもあります。スウェーデンがエストニアを支配した1569年には政府に所有されるようになり、それはロシア帝国にも引き継がれました。1758年、当時の司令官が屋敷を賜った後貴族へと転売し、その後は貴族の手を転々とします。1919年、独立したエストニア共和国が接収(土地法に依る)、1923年に軍司令官Laidoner中将に授与されました。
最初の戦争博物館は1919年、Laidonerの発案によりタリン旧市街地(Vene通り5)に設立。1940年、ソ連によるエストニア占領によって博物館は閉鎖され、一部の収蔵品はほかの場所に移されましたが多くは破壊されました。
エストニアの独立回復後、2001年にヴィームシ屋敷に戦争博物館が再設立されました。現在の展示品には、ソ連時代に市民が隠し持っていた独立戦争当時の史料などが含まれるそうです。
※文中の「ソ連」という用語が適切でない場合があると思います。帝政ロシア崩壊後のロシア体制を全て「ソ連」と表記していますが、厳密には1922年12月まではそう呼べないのかも。現地の英語表記ではソ連軍を「Red army」と表記しているのですがそれを「赤軍」と訳してしまうと何か違う感じがして…。お詳しい方は頭の中で読み替えてください。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
10:12
kalarandバス停からバスに乗ってMere Puiesteeで下車。
バス停でエストニア人のおばさんに話しかけられました。タリンの見どころを教えてくれたりして、先ほどの市場が土曜限定というのもその方が教えてくれたんです。 -
バス乗り継ぎのためVirukeskusバスターミナルまで徒歩移動してきました。
ヴィルケスクスというショッピングモールの地下がバスターミナルになっています。 -
主にタリン近郊への路線が発着するターミナルで、もっと長距離の路線はTallinnaBussijaamというバスターミナルから発着します。
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バスターミナルにはコンビニや飲食店などがあります。クリーニング屋さんもありました。今まで見かけたことがなかったので写真を撮ってみました。
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インフォメーションはまだ開いていませんでした。
ヴィル ケスクス ショッピングセンター
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10:40
5番乗り場から1Aバスに乗ります。
私は交通カードにチャージしてあるタリン5日券で乗車。これが使えるバス路線は1(1AもOK)から73番までの路線。三桁の路線やアルファベットから始まる路線では利用できません。 -
交通カードやモバイルにチケットをチャージしていない場合は運転手さんに直接支払います。この場合1乗車2ユーロとかなり高めです。トラムの場合は運転席の後ろのボックスにお金を投入するという方式で、初めてだとかなりわかりづらいですが、バスは運転席にわかりやすい受け渡し窓があります。
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交通カードを持っていなくてもモバイルにQRチケットをチャージして使うことができます。詳細はこのサイトで。
https://www.tallinn.ee/eng/pilet/Ticket-information-for-tourists
QRチケットを利用する人はバス前方のドア付近にあるこの機械でQRコードをスキャンします。後ろのドアの機械にはスキャナーがないのでご注意を。 -
11:07
このバス停で下車。
ここは昨日訪れたピリタのさらに北にある町です。 -
郊外型のショッピングセンターが立ち並ぶエリア。
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戦争博物館の看板があったのでこの道を曲がったのですが、ちょっと遠回りだった。
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公園のようなところを歩いて行きます。
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足元にトカゲ。まだ出てくるには寒いよ~。
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周辺にはお屋敷と同年代の瀟洒な建物があり、中にはレストランや宿として営業しているところもあります。
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11:23
戦争博物館到着。
外観は素敵なお屋敷です。 -
朝の小雨が嘘のように晴れました。
エストニア戦争博物館 - レイドナー将軍博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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外には高射砲とか戦車とかが展示されていました。
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ここはLaidoner将軍の博物館でもあります。
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エントランス。
参観料3ユーロ。 -
コートをかけておく場所。人が管理しているわけではありません。
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お屋敷の間取りは資料がなくてわかりませんが、ホールだと思われます。
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この部屋には展示品はなく、講義や会合が行われる場所のようです。
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エストニア防衛連盟の機関紙らしきもの。
エストニアには国軍(Estonian Defence Force)のほかに防衛連盟(Estonian Defence League)というものがあります。モグリの武装集団というわけではなく、司令官はちゃんと国軍によって任命されています。女性や子供の部隊もあるそうです。自分の国は自らの手で守るという意識が高いんですね。 -
では展示室へ。
実は見学当時は改装中で、マネキンがこんなことになっていたりしました。 -
展示は先史時代の戦争から始まります。
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エストニアの歴史を辿ってみます。
エストニア人は古くはヴァイキングとの交易や戦いがありましたが、「歴史」に記されるようになるのは北方十字軍が侵攻してくる12世紀から。
1219年にはデンマークがエストニアを支配するようになり、その後ドイツ系の騎士団に売り渡されます。騎士団の時代は数世紀にわたりますがそれはロシアによって破られます。写真中央はロシアのイヴァン雷帝。
騎士団が力を失った結果、ロシア、ポーランド-リトアニア連合、デンマーク、スウェーデンがエストニアを巡って戦い、その結果スウェーデンがエストニアを支配するようになりました(リヴォニア戦争)。 -
150年ほどスウェーデン時代が続き、18世紀になるとスウェーデンがロシアに敗れエストニアはロシアに支配されるようになります。この時の主要登場人物は、スウェーデンのカール12世とかロシアのピョートル大帝といった人々です。(大北方戦争)
このように近代になってもエストニアの歴史に「エストニア人」はほぼ(全くではない)登場しません。「エストニア」としての歴史はまだ始まっていないとも言えます。 -
エストニア中部のライウセに14世紀に建設されたお城。こんな小さなお城も、リヴォニア騎士団、ロシア、ポーランド、スウェーデンと、何度も主が変遷しています。
現在も絵のように美しい廃墟が残っているそうですよ。 -
大北方戦争のナルヴァの戦いジオラマ。
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ここに詳しい戦闘の様子が書かれています。ナルヴァ城は行ったことがあるので興味深く見ました。
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青とグレーの軍服がスウェーデン軍。赤がロシア軍らしいです。
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ナルヴァの戦いではスウェーデン軍が勝利したものの、その後はロシアが優勢に戦いを進め以降ロシアがエストニアを支配します。
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第一次世界大戦。
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第一次世界大戦のパネルには日本やブラジルといった国の名前も出てきます。中世には北欧の国同士の戦争だったのが、18世紀にはヨーロッパを巻き込む戦争となり、ついには戦争の舞台が全世界へと広がって行ったんですね。
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ここまでは各時代ごとにパネルと簡単な展示品があるだけでしたが、これ以降は戦争ごとに1部屋の展示になります。20世紀は戦争の世紀ですね。
写真にあるNarwaは現在のナルヴァ(エストニア東部の町)、Dorpatはタルトゥ(エストニア第二の都市)、Revalはタリンのことです。 -
独立戦争の部屋は全面改装中で参観できず。
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第二次世界大戦。
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第二次世界大戦が始まると同時にエストニア共和国はソヴィエトに併合されてしまいます。これはいわゆる独ソ不可侵条約(モロトフ・リッベントロップ協定)の秘密協定の結果なのですが、「不可侵」であったはずのドイツとソ連は1941年には戦端を開いてしまいました。戦争という暴力行為の前では条約とか同盟とかがいかに脆いかがよくわかります。
エストニアもドイツとソ連の戦場となります。戦争当初、エストニア人はソ連軍として戦わざるを得ませんでした。しかしドイツが侵攻し占領すると、今度はドイツ軍に徴用されるようになります。エストニア人同士なのに、ソ連軍とドイツに分かれて戦っていたのです。
戦場で戦っていると、敵同士なのにお互いエストニア語を話しているとわかることもありました。戦場では時折、そんなエストニア人同士がひそかに会っていたということもあったそうです。この展示はそんな出会いの一つを描いています。 -
エストニアで生まれ育った3人の青年がタルトゥの前線で出会った時の様子です。
一番奥の人物の名はキヴィ。ソヴィエト赤軍に召集され戦場で功績をあげて少尉になっています。
真ん中はオラス。エストニアで対ソ連レジスタンスに参加し、フィンランドへ渡ってフィンランド軍エストニア人部隊として戦った後帰国。ドイツ軍に徴兵されました。
手前がパルン。ドイツ軍に入隊し士官になりました。彼がエストニアの徽章をつけているのは、ドイツ軍の中のエストニア部隊所属だからです。ドイツ軍はエストニア人を対ソ連の抵抗部隊として勧誘していました。エストニア人の中にはドイツ軍と一緒にソヴィエトと戦い、いずれは独立回復を果たしたいと願っていた人も多かったのです。(そのため戦後の戦争犯罪裁判でもエストニア人部隊は戦犯から外されています)
彼らは戦場での短い邂逅の後、再び戦場へと戻りました。戦争を生き延び、三人はそれぞれの戦後を生きて亡くなりましたが、誰一人この出会いについては語らなかったとのこと。
(となると、どうしてこの逸話が残されているのか不思議なのですが…) -
彼らのお話はこちらに詳しく書いてありました。
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こちらは戦争末期の激戦地、Sinimäe(ドイツ名Tannenberg)の戦いについて。
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彼らはドイツ側の兵士として戦ったエストニア人。
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エストニア人部隊の徽章をつけています。
ドイツとソ連はSinimäeを含むエストニア東部で血みどろの陸戦を繰り広げました。この戦いはソ連が勝利し、戦後エストニアはソ連の構成国とされてしまいます。これによってエストニア共和国再興を願い戦った兵士らの望みは絶たれました。ドイツが勝っていてもおそらく独立は認められなかったでしょうけれど…。 -
兵士の持ち物や勲章。こういったものが市民から寄贈されたのかな。
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戦後のレジスタンス活動。
ソ連の一部となってしまったエストニアでも、Metsavennad (Forest Brothers)と呼ばれるレジスタンス活動が続いていました。 -
戦争中にドイツ側(あるいはフィンランド軍エストニア人部隊)で戦った人たちは、ソ連による報復を恐れて森へと逃れました。そういった人々が行ったレジスタンス活動なので「Forest broghers 森の兄弟」と呼ばれています。
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彼らはこのような隠れ家に住んでいましたが、治安部隊によって徹底的に捜査され、数千人が殺害、3万人を越える人が強制収容所に送られました。彼らをかくまっていた農家の家族もその中に含まれます。1949年の21,000人のシベリア送りを機にレジスタンスは急速に衰退しました。しかし最後の生き残りと思われる人が1980年代までいたとされています。
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冷戦。
この時代、多くのエストニア人がソ連軍として国外での任務に当たらされていました。まあ、エストニアはソ連の構成国でしたから。
そして、国外に逃れたエストニア人らは逆に、アメリカや西側諸国の軍隊に入って各地で戦ったとこの展示で紹介されていました。朝鮮戦争、ベトナム戦争その他、米ソの代理戦争で多くのエストニア人が戦ったそうです。そこでもまた、ソ連に属するエストニア人と戦うこともあったでしょう。アメリカ占領下のドイツでも、米軍を補佐するバルト諸国出身者の組織があったそうです。 -
米軍で大佐にまで昇進した人物もいました。
戦争中、おびただしい数のエストニア人が祖国を離れざるを得ない状況でした。彼らのほとんどは避難先(主に北米)で今も暮らしています。現在エストニアに住むエストニア人(民族的に)は100万人足らず。最近話題の電子国家の試みはこうした在外エストニア人らとの連帯にも一役買っているのでしょうか。 -
ここには何とかしてソ連軍入りを避ける方法が紹介されていました。
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エストニアにあったソ連の軍事施設地図。Viimsiの少し北にはミサイル基地がありました。
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Paldiskiには原子力潜水艦の基地がありました。明日その町へと向かいます。
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二階には武器の展示とLaidoner将軍の博物館があります。
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将軍の夏のお住まいだったお屋敷。品の良い調度品にあふれています。
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1884年生まれのLaidoner氏は貧しい家の出でしたがロシア軍に従軍後、士官学校で学び昇進します。第一次世界大戦に従軍した後、1918年にドイツ軍が侵攻してくると一度ロシアへと逃れます。その直後独立戦争が始まり帰国。エストニア軍で少将となりました。独立が叶うと政治と外交の世界に活躍を広げ、国際連盟のエストニア代表を務めたこともあります。エストニア初代大統領Konstantin Päts(パッツ)の腹心でもあり、「沈黙の時代」と呼ばれるパッツの独裁的政権下でも軍の最高司令官を務めました。
1940年ソ連によって捕らえられロシア各地の監獄を転々とし、1952年に獄中でなくなります。彼を有罪としたのはソ連の傀儡政権だった当時のエストニア政府でしたが、ソ連時代のエストニア政府は彼の釈放を嘆願し続けました。彼が獄中で書いた遺書を読めば、誰もが涙するのではと思います。(ヨハン・ライドネルと日本語で検索しても情報が出てきます) -
展示されていたアンティークなラジオ。
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お屋敷の階段室。
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ドアストッパーは薬莢!?
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企画展「軍服の歴史」のパネル展示だったかな。
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廊下には古い武器が展示されていました。
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サーベルとか銃がずらり。
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Laidoner将軍の勲章の部屋。
実にたくさんの勲章を授与されています。こういった遺品はアメリカでひそかに保管されていたものだそうです。 -
書斎でしょうか。
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肖像画。
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Gustav Jonson
Laidoner同様エストニア独立戦争を戦った軍人。 -
Nikolai Reek
同様にエストニアの軍人です。二人とも1942年にソ連のSolikamskiの収容所で亡くなっています。 -
ここにもまた古いラジオが。
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右側にヨーロッパの地図があるけれど、全域のラジオ放送が受信できたのかな?
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写真。
真ん中の写真に写る彼の妻もまた収容所に送られていました。彼の死後釈放されましたが70歳を越えるまでエストニアに戻ることを許されなかったそうです。 -
アンティークなラジエーター。お屋敷の設備は違いますね、エレガント。
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ここに座ってお仕事していたのでしょうか。
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長い間ソ連海軍の施設だったお屋敷をここまで整えるのは大変だったでしょうね。
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上のプレートを翻訳ソフトに入れると
「Estonian worm story」と出ますがどういう意味かわからない。中には徽章などが展示されていました。 -
エストニア軍服の展示。
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最初のエストニア共和国軍のものです。
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騎兵隊の下士官の制服。
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エストニア防衛隊士官の集合写真。
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退役軍人デーのポスター。
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博物館のタグが付いたワイン。こういうのを「ミュージアムワイン」とでもいうのかな。Baron von Meydellはドイツのワインブランド。
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12:44
博物館を出てバス停へと向かいます。
歩いていたらこの港への引き込み線がありました。 -
あ、ここから先はタリン市なんだ。
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道のあちらがタリン市のピリタ地区。
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で、こちらはViimsi vald(ヴィームシ町)。
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12:58
こちらのバス停から1Aバスに乗ってタリンに戻りました。
この後はまたタリン観光です。
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