2018/04/19 - 2018/04/25
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binchanさん
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旅行四日目になりました。
今日も朝はどんよりとした天気です。
ただ、朝一番で行く場所は第二次世界大戦時のユダヤ人強制収容所跡なので、すこしどんよりしていた方が気分と合うのかも。
第二次世界大戦時のエストニアにはいくつかのユダヤ人強制収容所がありました。最大のものはヴァイヴァラ強制収容所で、前回の旅行でその記念碑がある場所を訪問しました。敢えて負の遺産を巡っているわけではないのですが、現在のエストニアは当時の歴史が見直されている時期で、検索していると続々と見つかるんですよ。教会や大自然よりはそちらの方が興味があるため、見つけると行ってしまうんです。知らないことがたくさんあるのだと知りちょっと世界観が変わります。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 鉄道 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
07:06
昨夜スーパーで買ったサンドイッチとニンジンジュースで朝食。土日はホテルの朝食が8:00からなのでまだ利用できないんです。 -
08:09
トラムでBaltijaam(タリン駅)へ。 -
08:12
Balti jaam下車。 -
歩いて鉄道の駅へ。
鉄道のタリン駅はなぜ「Balti jaam」と名付けられたのか。それは路線建設当時、ロシアではこの新路線を「バルト線(Balti raudtee:the Baltic railway line)」と言っていて、タリン駅がその代表的な駅(たしか当初の終着駅)だったからだそうです。 -
駅にある建物。
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半年前に来たときはこの時刻表示板以外に、昔の電光表示板があったのですが、それは撤去されていました。半年で変わるもんだなあ。
タリン駅 駅
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今回利用はしませんが荷物預かり所の確認に向かいます。
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ホームに面したところに荷物預かり所はあるのですが、
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開いている時間が短いんですよね。
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まずは窓口で切符を買って、ここで聞いてみます。
時間外の荷物預かりは隣のホテルで受け付けてくれるとのこと。なるほど。 -
切符がこちら。
エストニアの鉄道は、通常日本と同じく行き先までの切符を窓口か車掌さんから買います。タリンとその近郊だけは24時間券というのもあって、今回はそれを買いました。タリン近郊の1~4ゾーンにある駅で自由に乗り降りができます。 -
ゾーン表はこちら。
料金については↓
http://elron.ee/wp-content/uploads/2013/11/Hinnakiri-alates-10.12.2017-?・he-korra-piletid.pdf
鉄道についてはこちら
http://elron.ee/en/ -
切符売り場の人に教えてもらったホテルはこちら。
駅前のゴーホテルシュネリです。確かに荷物預かりのマークがありますね。でも本当はコインロッカーを置いてほしいなあ。Go Hotel Shnelli ホテル
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駅舎の2Fを探索していたらこんな記念碑を発見。
Herman Rossländer中佐と鉄道(運輸?)大臣のKarl Karkの記念碑。
1924年12月1日、共産主義者が起こしたクーデター未遂事件により駅前で殺害されました。 -
08:35
この列車でKlooga Aedlinnへ向かいます。タリン駅 駅
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車掌さんが来たら先ほどの切符を見せればOKです。
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エストニアの列車には自転車を持ち込める車両があります。編成の中ほどにある「C」と書かれた車両には、このようなフックがあってここに自転車をひっかけるんです。折り畳み自転車じゃなくても大丈夫。
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途中でKloogarannaへの分岐があります。帰りにそちらにも寄ってみるつもりです。
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09:25
Klooga Aedlinn下車。 -
小さな駅ですが私以外にも降りる人がいました。エストニアの鉄道って小さな駅もちゃんと利用者がいるように感じます。なんだかんだ言ってタリン近郊だからかな。
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でも線路は単線。
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線路を渡って強制収容所の記念碑がある方へと向かいます。
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記念碑へ向かう道に強制収容所についての解説がありました。こんなものがあるとは知らなかった。前回のVaivara収容所跡は石碑だけだったのに。
森の小径沿いに説明書きと慰霊碑が点々と配されています。それをたどって行きます。 -
解説と記念碑の配置図。
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その続き。
以下、パネル写真のコメントは現地説明文を基に書いています(私の補足は括弧内)。英語版を自分で訳したのでちょっと怪しいかもしれません。 -
〇収容所の概略
第二次世界大戦末期、エストニアには多くの強制収容所がありました。最大のものはヴァイヴァラ強制収容所でここはそのサブキャンプ。サブキャンプの中では最大の規模でした。1943年9月から1944年9月まで稼働していて、稼働期間も最長です。ほかの収容所と違うのは、オイルシェールとのかかわりがないこと。収容者は材木業とセメント産業に従事させられていました。(エストニアの収容所はいわゆる絶滅収容所ではなく労働収容所。エストニアにおける労働はオイルシェール採掘が最も多かった。)
ユダヤ人収容者が送り込まれる前は民間人が雇用され作業に従事していました。またソ連の戦争捕虜や通常の犯罪者もわずかながらいたとのことです。
収容所は4メーターの高さの有刺鉄線によるフェンスに囲まれていました。広さは凡そ1000×500メートルで、中央に2階建のレンガ造りの建物が三棟ありました。
司令官などはドイツ人でしたが、警備員はエストニア人からなる第287警察大隊第三部隊が多くを占めていたとのこと。(この戦争犯罪をただ「ドイツ人の蛮行」とするのではなく、エストニア人がいかに巻き込まれ加担していたのかも記していますね。) -
道を進むと次の説明があります。
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〇クローガ収容所での暮らし
1943年9月から11月にかけて最初の収容者が連れてこられました。全期間を通じて1800から2100名の収容者がいたとのこと。ヴァイヴァラ収容所のサブキャンプ間での収容者の移動はよくあり、延べ3000人近いユダヤ人がクローガ収容所を経験しています。多くの収容者がリトアニアのヴィリニウスとカウナスのエリアから来ており、少数ながらラトヴィアからも来ていました。ヴァイヴァラ収容所群の他のキャンプとは違い、レンガ造りの建物があり、男性よりも女性がより多かったそうです。
収容所には病院もあり(医師も収容者)、冬には建物がレンガ造りだったため、にわか造りのバラックだけの他の収容所より若干ましな暮らしができたとのこと。したがって、鉱山やオイルシェール労働を強いられたほかのキャンプの収容者から言わせれば、クローガは相対的に「良い」キャンプとされていたそうです。
キャンプの作業には、製材所、セメント工場ほか様々な業務がありました。それらの作業場は収容者たちによって建築されたものです。作業所から200メーターほど離れたところに戦争捕虜のバラックがありました。そちらはトート機関(ナチスの機関)の管轄で、捕虜たちは製材所で働いたり、潜水艦の機雷を作ったりしていました。
※写真は数少ない生存者が後年集まった時の写真。 -
収容者らは5時に起床し、まず女性居住区外の広場に整列しました。労働は午前6時から午後6時まで。休憩は昼食の1時間。ユダヤ人は100名のグループに分けられてそれぞれのグループにドイツ人の監督がついていました。
配給される食事は粗末で、朝食はコーヒー、350グラムのパンとドイツマーガリン。昼食には麦のスープと週に一度25グラムの砂糖かマーマレードが与えられるのみでした。
収容者たちは12時間労働や栄養不足を耐え忍び、賃金労働をするエストニア人を通じて戦争の情報を得、エストニア人はひそかにユダヤ人に食糧を渡したり、あるいはほかの場所にいる友人や親せきと連絡を取るのを手伝ったりしたのだそうです。
※写真は懲罰のための拘束具。 -
ソ連時代に、調査のため当時の様子をデモンストレーションする生存者。
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また少し歩くと説明があります。
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〇1944年9月19日、クローガ収容所の結末
1944年9月17日、エストニア本土からのドイツ軍撤退が迫っていました。軍隊はリガや西部エストニア島嶼への撤退を命じられていましたがその猶予はわずか5日間。
19日午前5時、収容者はいつも通り集められ、司令長官は約2000人の収容者をドイツに避難させると発表しました。しかし実際は全員を殺害するという決定がなされていました。その決定を誰が下したかは不明とのこと。
※写真はキャンプと虐殺現場の配置図。 -
数時間後、避難を実行するためと称して300名の屈強な男性収容者が選ばれ、1キロほど離れた森に丸太を運び4つに分けて積み上げる作業が行われました。それは死体を焼くための準備でした。
※写真は解放後発見された死体の山。施設などの写真は補正をしていますが、死体の写真はあえてそのままにしています。 -
平静を保つため、通常の作業が続けられ昼食もいつも通りでした。一方で収容所の警備は強化され、ゲートをトラックでふさぎ、兵員が忙しく動いていました。昼食後にまた6名の男が選ばれ、死体を焼くための燃料をトラックへと積みました。
午後5時、ユダヤ人らの殺害が始まります。犠牲者は50から100人のグループに分けられ、最初に男性がその後女性がキャンプから空き地に連れ出されてうつぶせに寝て並ばされました。彼らは背後から頭を撃たれ、逃げようとしたものは森の中で撃たれました。薪と死体を積み重ね、暗くなってから火がつけられました。
キャンプから数百メートルのところにある木造の建物で殺された人もいました。30から50名の収容者が、一人ずつ中に引きずり込まれて、頭を後ろから撃たれて殺されました。死体は深夜にその建物ごと焼かれたそうです。
※写真は利用されなかった薪の山。 -
収容所で理髪師、調理人、靴職人といった役割を果たしていた79名の収容者は女性棟の一階で最後に殺されました。彼らの中にはエストニア人やロシア人も含まれていたと考えられていますが、真相は明確ではないとのことです。
生き延びることができたのは屋根裏に隠れた数十名など、ソ連の資料によると108名とのこと。
虐殺はドイツ人上級職員の指示と監督の下でタリンから来たドイツの特殊コマンドによっておこなわれましたが、キャンプの警備員だったエストニア人部隊(第287警察大隊第三部隊)も殺戮に参加したとされています。また、殺戮に先立つ警備の強化には、近くに駐留していた第20武装親衛隊エストニア予備役訓練連隊も関与していました。
※写真は女性棟で発見された死体。 -
さらに進むと慰霊碑がありました。
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アメリカとオーストリアの機関が建てた慰霊碑のようです。
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さらに進みます。
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〇大量虐殺
9月19日、殺戮を終え死体を焼いた後、収容所の指導者らはドイツへと逃げるためにパルディスキの港へと去りました。警備員やエストニア人部隊も20日の夜に移動させられました。
生き残ったユダヤ人たちは数日間、発見されるのを恐れてキャンプ内の建物に隠れていたそうです。焼かれた死体の臭いが近隣に広がり、最初の目撃者が現れました。収容所の近くには村もあったのです。
この大量殺戮のニュースは、周辺住民と前線から逃げて来た人々の間に広まり、この恐るべき事態を西側世界に知らせました。
※虐殺現場を調査するエストニアの政治家。 -
ソ連軍が到着したのは1944年9月22日。当局は特務調査団を組織し9月の終わりまでには大量殺戮の調査が始まりました。薪の中の焼け残った死体から証拠を探し、別の殺戮現場である木造建物は基礎まで取り壊されました。おびただしい死体と人体の残骸が発見されたものの、焼かれていたため正確な人数はわからないまま。識別されたのは491の死体でしたが、実際の犠牲者は1800から2000人だとされています。
※死体を運ぶドイツ人捕虜。 -
クローガ強制収容所はホロコーストの恐怖が最初に明らかになった場所の一つです。ソ連当局は厳選した外国ジャーナリストをここに連れてきてこの事実を報道させました。
1944年10月7日大量殺戮犠牲者の葬儀が執り行われました。ドイツの戦争捕虜が墓穴を掘らされ、死体はそこに集められました。
1952年、埋葬場所に記念碑が建てられました。
虐殺については1944年から45年にかけて、そして戦後ことあるごとにソ連のメディアで取り上げられました。しかし犠牲者がユダヤ人であることには触れらず、あくまでもソ連のプロパガンダのために「名もなきソヴィエト国民」と呼んでいました。実際、彼らがソ連国民だったことは一度もないのですが。
※墓穴を掘るドイツ人捕虜。 -
埋葬場所の記念碑。
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石碑はソ連時代に建てられたのでロシア語ですね。
碑文を翻訳ソフトで翻訳
「In this land lie about 2000 Jews, prisoners of the Klooga camp, killed by the Nazis on September 19,1944」 -
道を挟んだ先にも石碑があります。
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おそらく、ここが薪で死体を焼いた場所。
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背面。
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最後の解説まで来ました。
駅から歩いてくるとここが最後なのですが、駐車場はこちらにあるので通常はこっちがスタートなんだと思います。 -
〇エストニアにおけるホロコースト
第二次世界大戦前およそ4400名のユダヤ人がエストニアに住んでいました。1941年6月ソ連当局によって約400名のユダヤ人がシベリアに送られ、ドイツとの戦争の間3000人近くのユダヤ人がエストニアからロシアへと逃げました。
ドイツ占領軍はエストニアに残っていた約1000名のユダヤ人を逮捕しましたが、ドイツの命令の下でそれを実行したのはエストニア警察だったのです。1942年までに逮捕されたユダヤ人は、全てひそかに殺害され、1941年1月31日、エストニアは「ユダヤ人根絶」を宣言しました。
※エストニアにあった強制収容所の地図。 -
1942年9月と1943年から1944年の間、12,500人に及ぶユダヤ人が他のドイツ占領下にある国々からエストニアに連れてこられました。彼らのうち、ドイツ軍撤退後に生き残っていたのはわずか100名ほど。7~8,000名にのぼるユダヤ人がエストニアで死亡、あるいは殺害されました。また、他国に移送された4,000名以上もまたほとんどが殺害されたのです。
1942年9月に約1,000人のユダヤ人がチェコのゲットーから列車でRaasiku駅に到着しました。その少し後にほぼ同じ人数のユダヤ人がドイツのフランクフルトアムマインとベルリンから移送されてきました。数百名の若者がキャンプでの警備に配置されたほかは、到着したその日にKalevi-Liivaの訓練施設で殺害されました。 キャンプの警備員はエストニア人でこの大量銃殺に加わっていました。
殺害されたのはユダヤ人だけでななくロマ(ジプシー)も含まれています。
※カウナスのゲットーから移送されるユダヤ人。 -
1944年6月、約300名の男性がフランスのDrancyトランジットキャンプからタリンのパタレイ監獄(旅行記11参照)に移送されてきました。
一万人のユダヤ人がヴァイヴァラの強制収容所に送られ、その多くが東部エストニアのオイルシェール産業での労働を強いられました。彼らの大多数は1943年にリトアニアのゲットーから送られてきており、ほかに1944年にラトビアから、ハンガリーから来たユダヤ人もいました。その3分の2近くが過酷な生活環境のために亡くなり、労働に適していないとみなされるとほかの収容所に送られ殺されました。最後にヴァイヴァラ収容所群に収容されていた2,000名ほどの収容者は、最終的にクローガに集められ虐殺されました。
※ヴァイヴァラの強制収容所。
(解説文を読んで、ナチスドイツ占領下だったとはいえ、エストニアで行われた非情な出来事に対し、苦悩と恐怖と反省を抱いていると感じました。) -
最後の解説はホロコースト全般についてのもの。
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クローガ強制収容所の外観写真。説明文は割愛。
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駐車場。
-
駅へ戻ります。
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10:11
駅前に戻ってきました。 -
列車の時間まで余裕があるので周辺を散策。
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駅の南側は立ち入り禁止区域。
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軍の演習場だそうです。
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集落もあります。収容者と交流があったという村でしょうか。
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集落の道は舗装されていませんでした。
のどかな田舎の村なんですが、74年前にはすぐ近くで凄惨な殺戮があったんですよね。 -
10:29
再び電車に乗ってPaldiskiという町へと向かいます。
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