2018/04/19 - 2018/04/25
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binchanさん
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旅行二日目、タリン郊外の見どころを巡っています。
今回の旅行記のタイトルは「100周年のエストニアへ」。今年2018年はエストニア共和国独立100周年にあたるのです。
あれ?エストニアの独立って1991年じゃないの?と思いますよね。私もここまで「1991年の独立」と書いてきましたし、ニュースや観光ガイドでもソ連からの独立をエストニアの独立と呼んでいることが多いです。しかし実は、1918年ロシアから独立を宣言したのがエストニア共和国の始まりなのです。その共和国は1939年まで国として機能していました。
その後いろいろあって第二次世界大戦後は「エストニア・ソヴィエト社会主義共和国」となりソ連の構成国となってしまうのですが、その期間も含めて100周年というわけです。50年ものソ連時代を100周年に組み込むのは強引な気がしますが、実はソ連のエストニア併合を認めていなかった国があって、例えばアメリカにはソ連時代もずっと「エストニア共和国領事」がいたんだそうです。そうなると対外的にも「存在」していたことになるので、国際的にも今年はエストニア独立100周年と言えるのだそうです。
ではこれからEesti Ajaloomuuseum(エストニア歴史博物館)へ行ってエストニアの歴史を勉強してきます。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 15万円 - 20万円
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
10:42
エストニア歴史博物館前。 -
博物館があるのはマーリヤマエパレスと呼ばれる元ロシア貴族の別荘。
マーリヤマエ宮殿 城・宮殿
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立派な切符売り場がありますがなぜかここで切符は売っていませんでした。
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開館時間までまだ15分ほどあるので外を見物します。
お屋敷を構成する建物(使用人の家とか納屋とか)が庭の周りを取り囲んでいます。 -
厩舎(Marljamäe stables)。
この時は修復工事中でしたが、現在は見学可能になっているはず。 -
厩舎前からお屋敷の方を見たところ。
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エストニア映画博物館が隣にあります。庭の道が赤くなっているのは映画博物館への道を「レッドカーペット」に見立てているから。
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時間がないので見学はしません。
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ソ連時代の銅像を集めたコーナー。
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レーニン。
どんな説明が書かれているのかとプレートを見たら… -
何も書いてないです。
このコーナーの説明板は全てブランク。いろいろな忖度が働くんだろうな~。 -
レーニンはともかくこの人は…。でも、いなかったことにはできませんからね。
スターリンの後ろの人は見てもわからない。 -
この人も全くわからない。せめて名前だけでも書いておいてくれれば…。しかしソ連時代を生きたエストニア人ならすぐわかるんだろうな。
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エストニア・ソヴィエト社会主義共和国の偉い人とかなのかと調べてみましたが、それもよくわかりませんでした。
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この人だけ台座に名前が書いてあった。
「中将 レムビット・パルン」
第二次世界大戦をソ連側の将校として戦い、戦後もソ連体制下で出世して軍の大臣になった人物らしい(調べてもエストニア語の情報しかでてこないのであやふや)。名前からするとエストニア人のようですが、当時は同じエストニア人がソ連側とドイツ側に分かれて戦っていたんですよね。この人がどんなポリシーの持ち主だったかは不明ですが、大局の中で個人が生きる難しさを感じます。 -
あっちの方にはいかにもソ連って感じのモニュメント。どこから移設されて来たんでしょう。東部エストニアなら街角に普通に設置されてそう。
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銅像の人物をご存じの方、一人でもいいので教えてください。
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まあこの人は軍人さんだろうね。
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お屋敷の裏庭に集う銅像たち。ソ連時代の話題で盛り上がってるんでしょうか。
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中庭には謎の彫刻。アートなのか玩具なのか…。
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お屋敷は丘の上にあるので海の眺めもばっちり。この写真は博物館を出た時に撮ったので12:30タリン出航のSilja Europa号が行くのが見えます。
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10:59
11:00開館の博物館へ。 -
まずは入口でお屋敷についてお勉強。
Anatoli Orlov-Davõdov伯爵の夏用邸宅として1874年タリン湾を望む海岸沿いに建てられました。以前は砂糖工場があった場所だそうです。当初はMarienbergと名付けられ今ではマーリヤマエと呼ばれています。
ロシア帝国崩壊の後、伯爵は財産を失い夏用邸宅は貸し出され、1930年代はホテルとレストランが営業していました。1937年、エストニア共和国がこの夏用邸宅を伯爵家族から買い、軍の航空学校がここに移転してきました。ソ連時代は住宅に転用され、1987年に修復と拡張工事を施した後博物館(現在のものとは別の)となりました。現在のようなエストニア近現代史についての博物館になったのは1989年です。 -
入口に各国語でご挨拶が。
チケットは8ユーロ。 -
入ってすぐにあるのが「サマーホール」。
ホールの壁画はEdvald Okasによる「Friendship of Nations」で、ソ連時代に描かれたもの。ホールでは1時間ごとに、お屋敷と壁画についてのショートアニメが放映されると書いてありました。 -
ホールの説明書き
>この邸宅の時代がかった外見は建設当時の最新スタイル。当時タリンはサンクトペテルブルグの上流階級の人たちにとって人気のリゾート地だった。伯爵一家も通常はサンクトペテルブルグに住んでいた。
サマーホールは社交イベントを行う邸宅で最も豪華な部屋で、濃い色の木製パネルと格間の天井がある。白と青のタイルでできた暖炉、蓄音機、ビリヤード台、ゆったりとした家具と庭へのアクセスが気さくな社交の場に居心地の良さを与えていた。ダイニングとキッチンも同じ階にあり、二階は居住空間、客間は北翼。当時のタリンの観光パンフレットにも掲載される代表的な邸宅で、テラス階段からの海の眺めが来訪者を魅了していた。 -
白と青のタイルでできた暖炉。革命とか労働の壁画とのギャップが…。
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20世紀初頭のサマーホール。
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では展示を見に行きます。
Minu vaba riik(My free country)というテーマの常設展示で、エストニアの近現代史が中心です。 -
まずあったのは住宅についての展示。
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町でよく見かける集合住宅。1970年代スタイル。ほかの時代のものもありましたが、写真がうまく撮れませんでした。
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ミニチュアの部屋が再現されていて、覗けるようになっています。ほかのもちゃんと写真を撮っておけばよかった。
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ここから歴史をたどっていく展示が続きます。
13世紀にデンマークに侵略されてから、エストニアは数世紀にわたってドイツ騎士団、スウェーデンやロシアといった外国に支配されてきました。政治的にはそれらの国の領土とされてきましたが、実際に領地を所有してエストニア人を支配していたのはバルト-ドイツ人と呼ばれるドイツ系の人たちでした。エストニア人はその下でずっと農奴として暮らしていたと言います。
変化が現れるのは19世紀。1819年に農奴制が廃止され、貨幣経済が普遍的になるにつれ、経済力と知識を持つエストニア人が現れ状況を変えていきます。20世紀になると世界的な潮流に乗って、エストニアでも民族意識が高まり自治の要求、労働者の権利を求める運動がおこってきました。 -
19世紀のエストニアは帝政ロシアの領土でした。ですから日露戦争に従軍したエストニア人もたくさんいたんです。日本海海戦のバルチック艦隊はエストニアのお隣ラトビアの港から出航しましたしね。この写真はその兵隊さんたちが記念に持ち帰ってきたという脇差と短刀。これを見つけた時はつい「へえ~」と一人つぶやいてしまいました。
エストニアが大きく変わって行ったのは日本でいうとちょうど明治の頃。遠く離れた国同士ですが、世界情勢の中で揺り動かされていたのは同じだったんですね。 -
20世紀はじめのエストニアでは各地で革命集会とストライキが頻発していました。当時世界的にもはそういう時代でしたから。1905年10月16日、タリンのニューマーケット(現Tammsaare公園)で行われた大規模なデモに対してロシア軍が発砲、100名以上の人が死亡しました。
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この十字架はその犠牲者のために市場に建てられたものだそうです。
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事件に抗議する人たちのデモ行進の写真。
事件の後ニコライ二世は、民衆に集会や結党の自由などの権利を求めることを認める「10月マニフェスト」を宣言しました。つまりエストニア人が初めて自分たちの手で政治を動かすという結果を得たのです。 -
その後時代は第一次世界大戦へ。
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エストニアは当時ロシア領なのでロシア軍として戦うのですが、ロシア革命が激化し、ロシア自身が戦争どころではなくなってきます。ロシア国内で保守派(白軍)とボリシェヴィキ(赤軍)が戦い、赤軍が勝利します。赤軍によって第一次世界大戦終結にむけての講和条約(ブレスト-リソフスク条約)が締結されるのですが、これ以上戦争を続けられないロシア側は、かなり譲歩した内容を受け入れることになりました。
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かなり譲歩した条件の中に、エストニアを含むロシア西部の地域の権利をドイツに譲るという項目もありました。しかし第一次世界大戦がでドイツの敗北で終結すると、ドイツもこの地域への権利を放棄します。で、エストニアは「独立しかなくね!?」というチャンスを得たのでした。
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エストニア独立の英雄たち。
一番左のJaan Tõnisson(ヤーン・トゥニッソン)は独立後首相や外相を務めた方です。1941年にソ連によって処刑されたというのが有力ですが、彼の最期は不明とされています。 -
こちらはKonstantin Päts (コンスタンティン・パッツ)。
エストニア共和国初代大統領です。 -
独立宣言書。
これが宣言された1918年2月24日がエストニアの独立記念日です。エストニアにはこれと別に1919年にソ連から独立を回復した「独立回復の日(8月20日)」があります。 -
1918年の独立宣言時に掲げられたという旗。
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独立を宣言したものの、ドイツやロシア(ボリシェヴィキ政権)の強い抵抗を受けます。
これまでの歴史の中でエストニア人は支配する国の兵士となって戦い続けてきました。しかし、この独立戦争は歴史上唯一、「エストニア軍」として他国と戦った戦争でした。 -
独立戦争は1918年から1920年まで続きます。
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エストニア自由十字勲章。
白が基調のものは軍人、青は文官、黒は一般の人に授与されました。一等から三等まであり、これが授与されるというのはとても名誉なことだっただけでなく、交通機関が無料になるとか公職に就きやすくなるといったメリットもあったそうです。 -
当時のエストニア地図。
いまだかつてエストニアという国が存在したことがなかったので、この国境線を画定するのが大変でした。エストニア南部は当時「リヴォニア」の一部。リヴォニアは現在のラトビアとエストニア南部を合わせた地域で、じゃあどこからエストニアなのかが問題になりました。最終的には国際法廷に持ち込まれ、ヴァルガを半分に分けるという荒業で解決されました。
ロシアとの国境画定ではナルヴァが住民投票でエストニア入りするなど、平和的な一面もあったようです。
興味深いのはルフヌ島。島民のほとんどがスウェーデン系なので住民としてはスウェーデンに編入してほしかったようですが、スウェーデンにあっさりエストニア入りを認められてしまったそうです。
そんなこんなで最終的に国境が画定したのは1927年だったそうです。
長い交渉の末決まった国境も、ソ連に編入される際にじわっと削り取られてしまいました。ソ連側からすると当時のエストニア・ソヴィエト社会主義共和国も了承済みの国境変更だったとのことですが、エストニアでは「削り取られた」とされています。しかし、ロシアという大国とエストニアではもめるだけ損。EU加盟時に国境問題の解決を迫られ、現在はこの当時より少し狭い国土で条約に調印しています。 -
最初のエストニア共和国時代の暮らし。
芸術や文化が花開く時代だったようです。 -
しかしながら時代はふたたび世界大戦へ。
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1939年のモロトフ-リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)の秘密議定書で、エストニアは勝手にソ連の勢力圏にされてしまいます。
ソ連軍の駐留を求められ、政府は戦争回避のためにやむを得ずこれを認めます。その後政権は辞職し、1940年7月にはソ連の傀儡政府「エストニア・ソヴィエト社会主義共和国」がそれにとって代わりました。
最初のエストニア共和国はわずか20年余りで姿を消しました。
それにしても、世界は「秘密議定書」で動くんですね。国際会議や首脳会談で公式な議定書や声明が発表されるけれど、あの玉虫色の決定では何も動かないんだろうな。 -
その後のエストニアは受難の半世紀となります。
「独ソ不可侵条約」を締結したはずなのに、ソ連もドイツも「不可侵」条約に背いて戦争。エストニア人は両陣営に徴兵され戦わざるをえなくなります。
戦争だけでなく、ソ連に反抗的だとみなされれば逮捕されシベリアなどへ送られました。この時代に数万人のエストニア人が抑圧のために亡くなりました。 -
第二次世界大戦中にエストニアはドイツに占領され、ユダヤ人の強制収容所も作られていました。1万人が収監され7000人近くが亡くなったり殺されたりしました。その中にはロマやソ連軍戦争捕虜も含まれています。
ユダヤ人強制収容所については後日その跡地を訪ねます。 -
死者のための十字架。
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この過酷な時代、エストニアの人口は激減します。
1939年に113万人だった人口が1945年には85万人になったといいます。抑圧によって亡くなったり、シベリアなどに送られた人数の方が、戦死者よりはるかに多かったそうです。それ以外に、エストニアから他国へと逃れていった人々もいました。その中には遥か昔からエストニアに住んでいたドイツ人やスウェーデン人ら25,000人も含まれていました。 -
ソ連時代。
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ソ連を構成する共和国の中で、エストニアは最も西側的な場所だったそうです。
フィンランドへのフェリーも運行されていましたし、北部ではフィンランドのテレビ放送が受信できたとのこと。エストニア製のチョコレートやお酒はソ連でも高級品として人気があったそうです。 -
独立回復前夜。
ソ連でペレストロイカが始まると、エストニアでも独立に向かう動きが始まりました。バルト三国にまたがる「人間の鎖」、歌の原での30万人集会など、かつてのソ連ではありえなかった活動が繰り広げられていきました。 -
そして1991年8月、エストニアは独立を回復しました。
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新たなエストニア通貨。
エストニアでは2011年にユーロが導入されたので、この通貨はわずか20年ほどと短命でした。 -
ロシアという脅威がすぐ隣にあるエストニアにとって、EUとNATOは命綱のようなものです。
1997年、エストニアはEUと加盟交渉を開始しますが、これはソ連からの独立国としては第一号でした。そして2004年にはEU加盟。その同じ年NATOへの加盟も果たします。これがあるからこそバルト諸国は大国ロシアと対峙できるのです。
その後はシェンゲン協定にも調印し、同協定国との間の国境審査がなくなりました。その影響で、フィンランドが労働規制を撤廃した後、経済危機にあったエストニアからは多くの人がフィンランドへと流出してしまったそうです。それは2000年代後半のことだそうですが、現在の活気あるエストニアからはちょっと想像ができませんね。 -
そう、今やエストニアといえばスカイプの国。サイバーセキュリティの分野でも最先端だそうですし、電子国家という新たな発想で経済発展を進めています。
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把瑠都さんの化粧まわしを発見!
エストニア歴史博物館に日本にまつわるものが2つもあったよ。 -
元関取把瑠都さんことKaldo Höövelsonさん。彼のおかげでエストニアが身近になったと思います。帰国されて政治活動されるとのこと。ご活躍をお祈りします。
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こちらは企画展示室。時間が足りなくて見られなかった…。
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この100年のエストニア家庭の暮らしを写した写真展らしい。見られなくて残念。十分な時間(1時間半)をとっていたつもりだったけれど足りなかった。
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12:40
レストランもあるのでここで昼食、とも思ったけれど… -
なんだかお高そうなのでやめておきました。
お屋敷のレストランですからねえ。
この後はテレビ塔へと向かいます。
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