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沖縄の名城巡りです。北の金武(きん)湾、南の中城(なかぐすく)湾に挟まれた勝連半島に築かれた勝連城は、標高約98メートルで、南は知念半島から北は山原(やんばる)までを見渡すことができます。

2018春、沖縄の名城(14/28):3月9日(13):勝連城(4):二の曲輪、基壇、三の曲輪

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2018/03/08 - 2018/03/10

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旅行記グループ 2018春、沖縄の名城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

沖縄の名城巡りです。北の金武(きん)湾、南の中城(なかぐすく)湾に挟まれた勝連半島に築かれた勝連城は、標高約98メートルで、南は知念半島から北は山原(やんばる)までを見渡すことができます。

交通手段
観光バス JALグループ

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  • 『二の曲輪』の光景です。前方に見えている『舎殿跡』の礎石などが目印になりました。城内の右奥に見えるのは『二の曲輪』の一部のようですが、『三の曲輪』かも知れません。右半分の遠くには、太平洋と沖縄の南部の陸地が霞んで見えていました。

    『二の曲輪』の光景です。前方に見えている『舎殿跡』の礎石などが目印になりました。城内の右奥に見えるのは『二の曲輪』の一部のようですが、『三の曲輪』かも知れません。右半分の遠くには、太平洋と沖縄の南部の陸地が霞んで見えていました。

  • 『二の曲輪』から眺めた、『一の曲輪』方面の光景です。ほぼ西側方面になるようです。先ほど右手に見えていた曲輪が、写真を撮影している現在位置だったようです。こんもりと木々が茂った場所も『二の曲輪』になるようです。

    『二の曲輪』から眺めた、『一の曲輪』方面の光景です。ほぼ西側方面になるようです。先ほど右手に見えていた曲輪が、写真を撮影している現在位置だったようです。こんもりと木々が茂った場所も『二の曲輪』になるようです。

  • 見事な『切込み接ぎ』で積まれた、『二の曲輪』の石垣光景です。沖縄では『布積』と呼ばれている石積法のようです。すべて、地元で産出する沖縄石灰岩が使われているようです。

    見事な『切込み接ぎ』で積まれた、『二の曲輪』の石垣光景です。沖縄では『布積』と呼ばれている石積法のようです。すべて、地元で産出する沖縄石灰岩が使われているようです。

  • 同じく、見事な『切込み接ぎ』で積まれた、『二の曲輪』の石垣のズームアップ光景です。加工がし易い石灰岩のようですが、勝連城が落城した1458年から起算しても、既に550年ほどは経過した石垣です。近年の補修の手が入ったにしても、石積技術のレベルの高さを窺い知ることができます。

    同じく、見事な『切込み接ぎ』で積まれた、『二の曲輪』の石垣のズームアップ光景です。加工がし易い石灰岩のようですが、勝連城が落城した1458年から起算しても、既に550年ほどは経過した石垣です。近年の補修の手が入ったにしても、石積技術のレベルの高さを窺い知ることができます。

  • 『石積』のタイトルがあった説明パネルの光景です。沖縄のグスク(城)の石積は、『野面積』、『布積』と『相方積』の三種であることが紹介されていました。『布積』と『相方積』は、本土の城では、『切込み接ぎ』の範疇に入ります。同時代に『切込み接ぎ』で積まれた本土の石垣は例がないようです。

    『石積』のタイトルがあった説明パネルの光景です。沖縄のグスク(城)の石積は、『野面積』、『布積』と『相方積』の三種であることが紹介されていました。『布積』と『相方積』は、本土の城では、『切込み接ぎ』の範疇に入ります。同時代に『切込み接ぎ』で積まれた本土の石垣は例がないようです。

  • 『二の曲輪基壇』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『基壇』とは、『石や土で築かれた一段高くなった建物の基礎となる場所』と説明してありました。『二の曲輪』にある、舎殿跡の基礎が残る場所を指しているようでした。

    『二の曲輪基壇』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『基壇』とは、『石や土で築かれた一段高くなった建物の基礎となる場所』と説明してありました。『二の曲輪』にある、舎殿跡の基礎が残る場所を指しているようでした。

  • この石段は、『二の曲輪』と『三の曲輪』の間にあったようです。その先に、観光用の木製の階段も設けられていました。手前の石段は、ステップに傾斜が設けられ、少し歩き難いようでした。『傾斜階段』と呼ばれ、踏面が傾斜していて、足が滑りやすく、大変上りにくい構造となっています。これにより、敵軍の突進力を減退させることができました。

    この石段は、『二の曲輪』と『三の曲輪』の間にあったようです。その先に、観光用の木製の階段も設けられていました。手前の石段は、ステップに傾斜が設けられ、少し歩き難いようでした。『傾斜階段』と呼ばれ、踏面が傾斜していて、足が滑りやすく、大変上りにくい構造となっています。これにより、敵軍の突進力を減退させることができました。

  • 『神人(カミンチュ)の腰掛(トゥヌムトゥ)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。この場所に置かれている石は、旧暦の2月と5月に行われる祭祀(ウマチー)で、神人(カミンチュ)が腰掛けたりするものと紹介されていました。城址の整備の時、そのままの位置に残されたとも紹介されていました。

    『神人(カミンチュ)の腰掛(トゥヌムトゥ)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。この場所に置かれている石は、旧暦の2月と5月に行われる祭祀(ウマチー)で、神人(カミンチュ)が腰掛けたりするものと紹介されていました。城址の整備の時、そのままの位置に残されたとも紹介されていました。

  • 『三の曲輪』の石垣越しに眺めた太平洋の光景です。中城(なかぐすく)湾と湊の光景が広がっていました。晴れた日には、御座丸の中城城が見えるようです。今日は少し霞んでいました。

    イチオシ

    『三の曲輪』の石垣越しに眺めた太平洋の光景です。中城(なかぐすく)湾と湊の光景が広がっていました。晴れた日には、御座丸の中城城が見えるようです。今日は少し霞んでいました。

  • 『三の曲輪城門(四脚門)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。往きにも紹介した城門跡です。四脚の薬医門であることが確認されている城門です。その門の様子が、想像を基にしたらしいイラスト図で紹介されていました。

    『三の曲輪城門(四脚門)』のタイトルがあった説明パネルの光景です。往きにも紹介した城門跡です。四脚の薬医門であることが確認されている城門です。その門の様子が、想像を基にしたらしいイラスト図で紹介されていました。

  • 『三の曲輪』の下部に位置する、『四の曲輪』からの通路を上り詰めた場所にある『三の曲輪城門(四脚門)』の光景です。残された城壁や、石畳も当時のままのようです。

    『三の曲輪』の下部に位置する、『四の曲輪』からの通路を上り詰めた場所にある『三の曲輪城門(四脚門)』の光景です。残された城壁や、石畳も当時のままのようです。

  • 『三の曲輪』付近から見上げた高石垣の光景です。下が『二の曲輪』、その上に見えるのが『一の曲輪』の高石垣のようです。あるいは、上が『二の曲輪』、下が『三の曲輪』の石垣だったかもしれません。勝連城の石垣は、ほとんどが『布積』と呼ばれる『切込み接ぎ(きりこみはぎ)』で積まれています。石材は、地元産の琉球石灰岩です。

    イチオシ

    『三の曲輪』付近から見上げた高石垣の光景です。下が『二の曲輪』、その上に見えるのが『一の曲輪』の高石垣のようです。あるいは、上が『二の曲輪』、下が『三の曲輪』の石垣だったかもしれません。勝連城の石垣は、ほとんどが『布積』と呼ばれる『切込み接ぎ(きりこみはぎ)』で積まれています。石材は、地元産の琉球石灰岩です。

  • 『三の曲輪』から、『四の曲輪』に向かう途中の光景だったようです。先程とは、カメラアングルを変えて眺めた高石垣の光景です。下が『二の曲輪』、その上が『一の曲輪』の高石垣になるようです。日本本土の石垣積の技能集団は、現代にも繋がる穴太衆(あのうしゅう)等が有名ですが、沖縄にも特別の技能集団があったように思えてなりません。

    『三の曲輪』から、『四の曲輪』に向かう途中の光景だったようです。先程とは、カメラアングルを変えて眺めた高石垣の光景です。下が『二の曲輪』、その上が『一の曲輪』の高石垣になるようです。日本本土の石垣積の技能集団は、現代にも繋がる穴太衆(あのうしゅう)等が有名ですが、沖縄にも特別の技能集団があったように思えてなりません。

  • 同じ場所から眺めた、更に右側の石垣光景です。右側が、おおむね北側方面になるようです。自然の地形を利用して積まれた石垣の断崖が近い場所になるようです。

    同じ場所から眺めた、更に右側の石垣光景です。右側が、おおむね北側方面になるようです。自然の地形を利用して積まれた石垣の断崖が近い場所になるようです。

  • 同じ場所から眺めた、左手方面の光景です。秦の始皇帝時代に始まる万里の長城の石組み技術は、2千年以上に亘って脈々と引き継がれたとする説があり、その技術が、直接に、あるいは間接的に日本本土や、沖縄に伝わって来たのではないかとの思いもします。

    同じ場所から眺めた、左手方面の光景です。秦の始皇帝時代に始まる万里の長城の石組み技術は、2千年以上に亘って脈々と引き継がれたとする説があり、その技術が、直接に、あるいは間接的に日本本土や、沖縄に伝わって来たのではないかとの思いもします。

  • 更に下った場所から見上げた高石垣の光景です。振り返って眺めた、『三の曲輪』から、『四の曲輪』に向かう途中の石垣光景です。

    更に下った場所から見上げた高石垣の光景です。振り返って眺めた、『三の曲輪』から、『四の曲輪』に向かう途中の石垣光景です。

  • 『四の曲輪』の階段光景です。石垣に沿って、観光用の木製の階段が続いていました。かつて押し寄せた王府の大軍を三日三晩もの間凌ぐことができた階段とされます。標高差20メートルの大階段は、大きく右に旋回していて、王府軍は城壁に沿って『三の曲輪』へと上っていく途中にも、上から攻撃を受け続けたようです。階段には緩やかな傾斜がつけられていて、上り難くなっています。

    『四の曲輪』の階段光景です。石垣に沿って、観光用の木製の階段が続いていました。かつて押し寄せた王府の大軍を三日三晩もの間凌ぐことができた階段とされます。標高差20メートルの大階段は、大きく右に旋回していて、王府軍は城壁に沿って『三の曲輪』へと上っていく途中にも、上から攻撃を受け続けたようです。階段には緩やかな傾斜がつけられていて、上り難くなっています。

  • 写真を撮影している場所は、『四の曲輪』のエリアになるようです。中央やや左手に見える高石垣は、『三の曲輪』のものです。石垣の補強が目的のようなコンパクトな腰曲輪が付属した石垣です。

    写真を撮影している場所は、『四の曲輪』のエリアになるようです。中央やや左手に見える高石垣は、『三の曲輪』のものです。石垣の補強が目的のようなコンパクトな腰曲輪が付属した石垣です。

  • 『四の曲輪』のエリアから眺めた、麓方面の光景です。その先に、勝連城の周りの市街光景が見えていました。10人ほどの方が登ってくる坂道が、勝連城見学の順路になっていました。

    『四の曲輪』のエリアから眺めた、麓方面の光景です。その先に、勝連城の周りの市街光景が見えていました。10人ほどの方が登ってくる坂道が、勝連城見学の順路になっていました。

  • 『四の曲輪』から見上げた、何段にも重なった上段の石垣の光景です。斜めに見える石垣は、本土の城郭では、『登り石垣』と呼ばれるものと構造が類似しているようでしたが、その呼び名は使われていないようです。

    『四の曲輪』から見上げた、何段にも重なった上段の石垣の光景です。斜めに見える石垣は、本土の城郭では、『登り石垣』と呼ばれるものと構造が類似しているようでしたが、その呼び名は使われていないようです。

  • 同じく、『四の曲輪』から見上げた、何段にも重なった上段の石垣の光景です。右端から伸びている石垣の上は通路のようになっていましたが、その脇には、木製の階段が設けられていました。

    同じく、『四の曲輪』から見上げた、何段にも重なった上段の石垣の光景です。右端から伸びている石垣の上は通路のようになっていましたが、その脇には、木製の階段が設けられていました。

  • 『ミートゥガー』のタイトルがあった説明パネルの光景です。かつてのこの場所は、若い男女の逢瀬の場だったことから、『縁結びのカー(泉)』と呼ばれていたことなどが紹介されていました。

    『ミートゥガー』のタイトルがあった説明パネルの光景です。かつてのこの場所は、若い男女の逢瀬の場だったことから、『縁結びのカー(泉)』と呼ばれていたことなどが紹介されていました。

  • 『縁結びのカー(泉)』とも呼ばれた、『ミートゥガー』のズームアップ光景です。石が積まれた中に井戸があったようです。女性が自由な行動を制限された時代でも、水汲みは若者の仕事であり、外出できる口実になり得たので葉と解説してありました。

    『縁結びのカー(泉)』とも呼ばれた、『ミートゥガー』のズームアップ光景です。石が積まれた中に井戸があったようです。女性が自由な行動を制限された時代でも、水汲みは若者の仕事であり、外出できる口実になり得たので葉と解説してありました。

  • 危険防止のために立入り禁止にされていた、『ミートゥガー』の内部光景です。柵の直近から撮影しました。今でも水が湧いているのかも知れません。

    危険防止のために立入り禁止にされていた、『ミートゥガー』の内部光景です。柵の直近から撮影しました。今でも水が湧いているのかも知れません。

  • 『四の曲輪』に残された大きな自然石の光景です。『御嶽(ウタキ)』かと思って調べてみましたが、ウタキらしい記述はありませんでした。この後に紹介する、『ウタミシガー』と呼ばれる『泉』の目印になっていた岩です。

    『四の曲輪』に残された大きな自然石の光景です。『御嶽(ウタキ)』かと思って調べてみましたが、ウタキらしい記述はありませんでした。この後に紹介する、『ウタミシガー』と呼ばれる『泉』の目印になっていた岩です。

  • 『ウタミシガー』と呼ばれる『泉』の周りの光景です。井戸のような穴があり、危険防止のために金網が被せられていました。

    『ウタミシガー』と呼ばれる『泉』の周りの光景です。井戸のような穴があり、危険防止のために金網が被せられていました。

  • 『ウタミシガー』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『ウタミシ』は『お試し』、『カー(ガー)』とは『泉』を意味する沖縄の言葉と紹介されていました。旧暦元旦の初拝(はつうがみ)の際に、水の量によって一年の豊作・凶作を占うことからの命名とされます。

    『ウタミシガー』のタイトルがあった説明パネルの光景です。『ウタミシ』は『お試し』、『カー(ガー)』とは『泉』を意味する沖縄の言葉と紹介されていました。旧暦元旦の初拝(はつうがみ)の際に、水の量によって一年の豊作・凶作を占うことからの命名とされます。

  • 『ウタミシガー』の前から見上げた、『三の曲輪』の高石垣の光景です。『ウタミシガー』の泉の水量が豊富にあるときは『サーイ年(不作の年)』、水が少ないときは『ユガフーの年(豊作の年)』と言われています。

    『ウタミシガー』の前から見上げた、『三の曲輪』の高石垣の光景です。『ウタミシガー』の泉の水量が豊富にあるときは『サーイ年(不作の年)』、水が少ないときは『ユガフーの年(豊作の年)』と言われています。

  • 『ウタミシガー』の前からズームアップした「三の曲輪』の高石垣の光景です。今回の沖縄の名城巡りの中でも印象に残った城壁の一つです。堅固な中にも、優美さが漂います。

    『ウタミシガー』の前からズームアップした「三の曲輪』の高石垣の光景です。今回の沖縄の名城巡りの中でも印象に残った城壁の一つです。堅固な中にも、優美さが漂います。

  • 左手前に『ウタミシガー』、中央付近に『ミートゥガー』、その奥に勝連城の城壁が見える光景です。『四の曲輪』の東には、防衛部隊が詰めていたと考えられる『東の曲輪』があったとされ、『五の曲輪』とも呼ばれたようです。その『五の曲輪』も城壁で囲われていたようです。

    イチオシ

    左手前に『ウタミシガー』、中央付近に『ミートゥガー』、その奥に勝連城の城壁が見える光景です。『四の曲輪』の東には、防衛部隊が詰めていたと考えられる『東の曲輪』があったとされ、『五の曲輪』とも呼ばれたようです。その『五の曲輪』も城壁で囲われていたようです。

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