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今帰仁城跡は、2000年(平成12年)11月に首里城跡などとともに、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。2010年(平成22年)2月に史跡地域が追加され、『今帰仁城跡附シイナ城跡』に改められました。

2018春、沖縄の名城(3/28):3月9日(2):今帰仁城(2):史跡・今帰仁城跡碑

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2018/03/08 - 2018/03/10

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旅行記グループ 2018春、沖縄の名城巡り

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

今帰仁城跡は、2000年(平成12年)11月に首里城跡などとともに、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。2010年(平成22年)2月に史跡地域が追加され、『今帰仁城跡附シイナ城跡』に改められました。

交通手段
観光バス JALグループ

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  • 『今帰仁城』のタイトルがあった説明パネルの光景です。主郭(本丸)、大庭・御内原、大隅と志慶真門郭の四つのエリアに分けて説明されていました。現在地は、それらのエリアの手前になる北側に記されていました。今帰仁城が最盛期だった14世紀中頃~15世紀初頭の城郭の1/100模型とされます。

    『今帰仁城』のタイトルがあった説明パネルの光景です。主郭(本丸)、大庭・御内原、大隅と志慶真門郭の四つのエリアに分けて説明されていました。現在地は、それらのエリアの手前になる北側に記されていました。今帰仁城が最盛期だった14世紀中頃~15世紀初頭の城郭の1/100模型とされます。

  • 今帰仁城の城壁と、あちこちらに露出していた自然石の光景です。自然石も、城壁に使われている古期石灰岩のようでした。ネズミ色をした堅固な石材となるようです。

    今帰仁城の城壁と、あちこちらに露出していた自然石の光景です。自然石も、城壁に使われている古期石灰岩のようでした。ネズミ色をした堅固な石材となるようです。

  • 今帰仁城の城門に向かう途中の光景です。縁石を置いて、見学通路が表示されていました。この辺りは、『今帰仁城』の城壁外で、『外郭』と呼ばれるエリアのようでした。

    今帰仁城の城門に向かう途中の光景です。縁石を置いて、見学通路が表示されていました。この辺りは、『今帰仁城』の城壁外で、『外郭』と呼ばれるエリアのようでした。

  • 城壁跡ではなく、城壁で使われていた石材を積み上げたような光景です。修復や再建工事での残材かも知れません。長い間積み上げられていたような雰囲気でした。

    城壁跡ではなく、城壁で使われていた石材を積み上げたような光景です。修復や再建工事での残材かも知れません。長い間積み上げられていたような雰囲気でした。

  • この辺りは、まだ城壁外になるエリアですが、一定の防御壁などが築かれていました。本土の城郭で例えれば、武家屋敷のあとのような雰囲気がありました。

    この辺りは、まだ城壁外になるエリアですが、一定の防御壁などが築かれていました。本土の城郭で例えれば、武家屋敷のあとのような雰囲気がありました。

  • 優美な曲線を描く城壁の光景です。1982年~1986年に実施された主郭の調査にはじまる発掘調査の成果によれば、13世紀末~14世紀初めかけて石垣を伴わない城柵と掘立柱建物の簡単な城が造られ、14世紀前半~中頃にかけて高い石垣を築き、14世紀後半~15世紀前半に志慶真郭の拡張や本丸の平場拡張と礎石建物2軒が建てられたことが分かってきました。

    優美な曲線を描く城壁の光景です。1982年~1986年に実施された主郭の調査にはじまる発掘調査の成果によれば、13世紀末~14世紀初めかけて石垣を伴わない城柵と掘立柱建物の簡単な城が造られ、14世紀前半~中頃にかけて高い石垣を築き、14世紀後半~15世紀前半に志慶真郭の拡張や本丸の平場拡張と礎石建物2軒が建てられたことが分かってきました。

  • 優美な曲線を描く城壁のズームアップ光景です。これらの考古学上の成果に符合する史料としては、中国の史書『明実録』があります。その記述によれば、山北王は、怕尼芝(はにじ)を始めとする三王です。明の皇帝へ使者を送り朝貢貿易を行ったとされます。『明実録』は、中国の明朝13代の皇帝の実録で、正式には『大明実録』、俗に『皇明実録』とも呼ばれる全3058巻です。

    イチオシ

    優美な曲線を描く城壁のズームアップ光景です。これらの考古学上の成果に符合する史料としては、中国の史書『明実録』があります。その記述によれば、山北王は、怕尼芝(はにじ)を始めとする三王です。明の皇帝へ使者を送り朝貢貿易を行ったとされます。『明実録』は、中国の明朝13代の皇帝の実録で、正式には『大明実録』、俗に『皇明実録』とも呼ばれる全3058巻です。

  • 『史跡・今帰仁城跡』の文字が刻まれた石標の光景です。『今帰仁城跡』として国の史跡に指定されたのは、1972年(昭和47年)5月です。14世紀初~15世紀初めにかけて、沖縄に山北(北山)、中山、山南(南山)の三つの小国家が鼎立していた三山時代、今帰仁城は山北の主城として繁栄しましたが、1416年(応永23:一説では1422年)、中山の尚巴志(しょうはし)により滅ぼされました。その後、治安維持の目的で山北監守(今帰仁按司)が設置され、沖縄本島北部地方の統治拠点となりました。1609年(慶長14年)、琉球王国に侵略した薩摩軍の攻撃を受けて落城、時の今帰仁按司も戦死しました。

    『史跡・今帰仁城跡』の文字が刻まれた石標の光景です。『今帰仁城跡』として国の史跡に指定されたのは、1972年(昭和47年)5月です。14世紀初~15世紀初めにかけて、沖縄に山北(北山)、中山、山南(南山)の三つの小国家が鼎立していた三山時代、今帰仁城は山北の主城として繁栄しましたが、1416年(応永23:一説では1422年)、中山の尚巴志(しょうはし)により滅ぼされました。その後、治安維持の目的で山北監守(今帰仁按司)が設置され、沖縄本島北部地方の統治拠点となりました。1609年(慶長14年)、琉球王国に侵略した薩摩軍の攻撃を受けて落城、時の今帰仁按司も戦死しました。

  • 『リュウキュウマツ(琉球松)』などでしょうか、城内の木々の光景です。廃城は、1665年の監守体制の廃止がされた時とされますが、実質的な廃城は1609年(慶長14年)、の薩摩郡の琉球入りといわれる侵攻時とされます。

    『リュウキュウマツ(琉球松)』などでしょうか、城内の木々の光景です。廃城は、1665年の監守体制の廃止がされた時とされますが、実質的な廃城は1609年(慶長14年)、の薩摩郡の琉球入りといわれる侵攻時とされます。

  • 今帰仁城の城郭は、最高所の主郭を中心とした連郭式で、西側から東側に大隅(ウゥシミ)、大庭(ウミヤァ)、北殿跡、御内原(ウウチバラ)、そして本丸と続き、さらに一段低くなって最後部の曲輪にいたる複雑な構造をもっています。ここはまだ、城壁外の区域ですが、順次、現地を紹介します。

    今帰仁城の城郭は、最高所の主郭を中心とした連郭式で、西側から東側に大隅(ウゥシミ)、大庭(ウミヤァ)、北殿跡、御内原(ウウチバラ)、そして本丸と続き、さらに一段低くなって最後部の曲輪にいたる複雑な構造をもっています。ここはまだ、城壁外の区域ですが、順次、現地を紹介します。

  • 赤レンガを使って、意匠を凝らした案内看板ですが、ほとんど文字が消えかかっていました。『史跡・今帰仁城跡』のタイトルがありました。昭和53年(1978年)に沖縄県教育委員会が建てたものでした。

    赤レンガを使って、意匠を凝らした案内看板ですが、ほとんど文字が消えかかっていました。『史跡・今帰仁城跡』のタイトルがありました。昭和53年(1978年)に沖縄県教育委員会が建てたものでした。

  • 『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産(文化遺産)に登録された標識類の光景です。『今帰仁城跡』の石碑の前に、写真入りの説明パネルが2枚設置してありました。

    『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産(文化遺産)に登録された標識類の光景です。『今帰仁城跡』の石碑の前に、写真入りの説明パネルが2枚設置してありました。

  • 『世界遺産・琉球王国のグスク及び関連遺産群・今帰仁城跡』の文字が刻まれた世界遺産標識のズームアップ光景です。『世界遺産」の文字の横には、ユネスコの世界遺産マークがありました。

    『世界遺産・琉球王国のグスク及び関連遺産群・今帰仁城跡』の文字が刻まれた世界遺産標識のズームアップ光景です。『世界遺産」の文字の横には、ユネスコの世界遺産マークがありました。

  • 『今帰仁城跡』の世界遺産標識の前に設置されてた説明パネルのズームアップ光景です。沖縄本島の地図と9枚の写真です。9枚の写真は、世界遺産に登録された9個所の紹介でした。首里城跡、勝連城跡、中城城跡、今帰仁城跡、座喜味城、園比屋武御嶽石門、玉陵、斎場御嶽と識名園の9箇所です。<br />

    『今帰仁城跡』の世界遺産標識の前に設置されてた説明パネルのズームアップ光景です。沖縄本島の地図と9枚の写真です。9枚の写真は、世界遺産に登録された9個所の紹介でした。首里城跡、勝連城跡、中城城跡、今帰仁城跡、座喜味城、園比屋武御嶽石門、玉陵、斎場御嶽と識名園の9箇所です。

  • 『今帰仁城跡』の世界遺産標識の前に設置されてたもう1枚の説明パネルのズームアップ光景です。『琉球王国のグスク及び関連遺産群・今帰仁城』のタイトルがありました。右下の写真には、『今帰仁城』の史跡指定区域が赤い線で、保全地区が黄色い線で表示してありました。

    『今帰仁城跡』の世界遺産標識の前に設置されてたもう1枚の説明パネルのズームアップ光景です。『琉球王国のグスク及び関連遺産群・今帰仁城』のタイトルがありました。右下の写真には、『今帰仁城』の史跡指定区域が赤い線で、保全地区が黄色い線で表示してありました。

  • 今帰仁城のみどころの一つ、『大隅(ウーシミ)の城壁』の光景です。日本本土の城壁とは、明らかに異なる曲線美を持った高石垣です。これまでに見学したアジアの国の石垣の中では、韓国水原(スウォン)の華城(ファソン)を連想しました。

    イチオシ

    今帰仁城のみどころの一つ、『大隅(ウーシミ)の城壁』の光景です。日本本土の城壁とは、明らかに異なる曲線美を持った高石垣です。これまでに見学したアジアの国の石垣の中では、韓国水原(スウォン)の華城(ファソン)を連想しました。

  • 今帰仁城のみどころの一つ、『大隅(ウーシミ)の城壁』の光景が続きます。韓国水原(スウォン)の華城(ファソン)は、李氏朝鮮の第22代国王・正祖(チョンジョ)が、18世紀末に築いたもので、韓国の世界遺産に登録されています。中国から伝わった西洋の建築技術を駆使した城壁とされます。

    今帰仁城のみどころの一つ、『大隅(ウーシミ)の城壁』の光景が続きます。韓国水原(スウォン)の華城(ファソン)は、李氏朝鮮の第22代国王・正祖(チョンジョ)が、18世紀末に築いたもので、韓国の世界遺産に登録されています。中国から伝わった西洋の建築技術を駆使した城壁とされます。

  • 半円形に見える、石垣のコーナー部分の光景です。この部分も、華城(ファソン)の石垣を連想させます。華城で、東洋と西洋の技術を融合させた設計を行ったのは朝鮮後期の実学者の丁です。これは当時の朝鮮の築城技術・建築美術の粋を集めたものでしたが、水原華城を最後として、以降の李朝の築城は衰退しました。

    半円形に見える、石垣のコーナー部分の光景です。この部分も、華城(ファソン)の石垣を連想させます。華城で、東洋と西洋の技術を融合させた設計を行ったのは朝鮮後期の実学者の丁です。これは当時の朝鮮の築城技術・建築美術の粋を集めたものでしたが、水原華城を最後として、以降の李朝の築城は衰退しました。

  • 『大隅(ウーシミ)の城壁』のタイトルがあった説明パネルです。今帰仁城の城壁は、ネズミ色の古期石灰岩を使って堅牢に築かれ、なだらかな傾斜地を利用して、幾重にも築かれていることが紹介されていました。また、所々に設けられた突出部は、攻め込んだ敵を、横や斜めから攻撃できる造りとなっていることも紹介されていました。

    『大隅(ウーシミ)の城壁』のタイトルがあった説明パネルです。今帰仁城の城壁は、ネズミ色の古期石灰岩を使って堅牢に築かれ、なだらかな傾斜地を利用して、幾重にも築かれていることが紹介されていました。また、所々に設けられた突出部は、攻め込んだ敵を、横や斜めから攻撃できる造りとなっていることも紹介されていました。

  • 大木の根元に設置してあった『リュウキュウマツ(琉球松)』の写真入りの名札の光景です。沖縄県の県木であることが紹介されていました。マツ科マツ属の常緑高木です。別名は『リュウキュウアカマツ(琉球赤松)』です。

    大木の根元に設置してあった『リュウキュウマツ(琉球松)』の写真入りの名札の光景です。沖縄県の県木であることが紹介されていました。マツ科マツ属の常緑高木です。別名は『リュウキュウアカマツ(琉球赤松)』です。

  • こちらの名札には、『カンヒザクラ(寒緋桜)』の表示がありました。カンヒザクラは、バラ科サクラ属の植物で、サクラの原種の一つです。旧暦の正月頃に咲くことから、『ガンジツザクラ(元日桜)』の別名を持ちます。昔目にした本には、『ヒカンザクラ(緋寒桜)』の呼び名もあったものの、『ヒガンザクラ(彼岸桜)』と間違え易いため、『カンヒザクラ(寒緋桜)』となったとする解説の記憶があります。

    こちらの名札には、『カンヒザクラ(寒緋桜)』の表示がありました。カンヒザクラは、バラ科サクラ属の植物で、サクラの原種の一つです。旧暦の正月頃に咲くことから、『ガンジツザクラ(元日桜)』の別名を持ちます。昔目にした本には、『ヒカンザクラ(緋寒桜)』の呼び名もあったものの、『ヒガンザクラ(彼岸桜)』と間違え易いため、『カンヒザクラ(寒緋桜)』となったとする解説の記憶があります。

  • 『カンヒザクラ(寒緋桜)』と『リュウキュウマツ(琉球松)』があった付近の上空光景です。空模様の方は、雨具の携行が欠かせない一日になりそうでした。

    『カンヒザクラ(寒緋桜)』と『リュウキュウマツ(琉球松)』があった付近の上空光景です。空模様の方は、雨具の携行が欠かせない一日になりそうでした。

  • 『平郎門(へいろうもん)』の光景です。『平郎門』の名称は、1713年に編集された『琉球国由来記』に『北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス』と記載され、1742年に描かれた『今帰仁旧城図』の史料には、『本門』として記されているようです。

    『平郎門(へいろうもん)』の光景です。『平郎門』の名称は、1713年に編集された『琉球国由来記』に『北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス』と記載され、1742年に描かれた『今帰仁旧城図』の史料には、『本門』として記されているようです。

  • 『平郎門(へいろうもん)』の両側に設けられた、二つ並んだ銃眼のズームアップ光景です。初めて見る銃眼の形式でした。

    『平郎門(へいろうもん)』の両側に設けられた、二つ並んだ銃眼のズームアップ光景です。初めて見る銃眼の形式でした。

  • 入城した後で、振り返って眺めた『平郎門(へいろうもん)』の光景です。銃眼が設けられた部分だけ、壁厚が薄くされていました。

    入城した後で、振り返って眺めた『平郎門(へいろうもん)』の光景です。銃眼が設けられた部分だけ、壁厚が薄くされていました。

  • 同じく、入城した後で振り返って眺めた、『平郎門(へいろうもん)』の光景です。昭和37年(1962年)、琉球政府時代に再建された城門のようです。

    イチオシ

    同じく、入城した後で振り返って眺めた、『平郎門(へいろうもん)』の光景です。昭和37年(1962年)、琉球政府時代に再建された城門のようです。

  • 『大隅(ウーシミ)』のタイトルがあった説明パネルです。かつて、戦時に備えて馬を飼い、その訓練場であったらしいと紹介されていました。今のところ、発掘調査での確認はされていないようです。

    『大隅(ウーシミ)』のタイトルがあった説明パネルです。かつて、戦時に備えて馬を飼い、その訓練場であったらしいと紹介されていました。今のところ、発掘調査での確認はされていないようです。

  • 通路脇の石垣の光景です。石垣の端部にある大きな石は、自然石がそのまま使われているようでした。その自然石には、不思議なひっかき傷が縦横に走っていました。人工的なものであれば、滑り止めかもしれません。

    通路脇の石垣の光景です。石垣の端部にある大きな石は、自然石がそのまま使われているようでした。その自然石には、不思議なひっかき傷が縦横に走っていました。人工的なものであれば、滑り止めかもしれません。

  • 通路脇の石垣の石材のズームアップ光景です。白い筋が見えています。これも古期石灰岩でしょうか、全体にはネズミ色をしているようでした。ここだけではなく、何箇所も目にしました。

    通路脇の石垣の石材のズームアップ光景です。白い筋が見えています。これも古期石灰岩でしょうか、全体にはネズミ色をしているようでした。ここだけではなく、何箇所も目にしました。

  • 長く続いた、比較的緩やかな石段の光景です。既に赤い花は散ってしまって、葉桜の通り道になっていましたが、カンヒザクラ(寒緋桜)の名所とされます。『七五三の階段』と呼ばれ、昭和34年(1959年)に新しく作られた通路で

    長く続いた、比較的緩やかな石段の光景です。既に赤い花は散ってしまって、葉桜の通り道になっていましたが、カンヒザクラ(寒緋桜)の名所とされます。『七五三の階段』と呼ばれ、昭和34年(1959年)に新しく作られた通路で

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