2010/10/18 - 2010/11/01
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jijidarumaさん
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秋の旅はドイツの南西部・ラインラント・プファルツ州 & ザールラント州を巡る旅である。
Rheinland-Pfalzラインラント・プファルツ州 & Saarlandザールラント州:
ドイツワイン街道とラインヘッセン・プファルツ・モーゼル・ナーエ地方のワイン産地
期間 : 2010年10月18日(月)~11月01日(月)15日間
主にワイン街道と古城ホテル、古城群を抜粋して掲載した。
写真は2010.10.27.Schloss Berg 古城ホテル ベルク
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
2010.10.18.Alzey:アルツァイ城の中庭と俯瞰
フランクフルト空港からアルツァイまで約60km。アルツァイの町はラインヘッセン地方の中心として、過去・現在も栄えてきた。人口17,700人。
かつて城の一角にあったホテルの裏手にSchloss Alzeyアルツァイ城がある。13世紀にライン・プファルツ伯の居城として築城された。17世紀にプファルツ継承戦争で破壊される。20世紀の初めになってようやく再建され、現在は地区裁判所として利用されている。外観だけの見学です。 -
2010.10.18.Alzey :Schlossアルツァイ城俯瞰
この町の歴史;
紀元前1世紀にケルト人やローマ人の居住集落があった。
4世紀にはローマ軍団の要塞が築かれ、12世紀にはシュタウフェン王朝の神聖ローマ帝国の王城があり、その後は選帝侯プファルツ伯の拠点にもなっている。
1689年にプファルツ継承戦争で町も城も崩壊し、漸く18世紀になってから町が再建されたとある。
1909年にブドウ栽培学校ができているのも地域性に沿ったものでしょう。
(Rheinhessenラインヘッセンのワインで言えば、総生産量の80%のワインを産するHuegellandヒューゲルラント(丘陵地)のWonnegau ヴォンネガウ地区の西に位置している。)
現在は郊外の工業地帯もあり、1975年にアウトバーンのインターができたことで、Alzey-Worms地方の地方庁所在地(つまり中心)になっている。 -
2010.10.19.Bockenheimボッケンハイム=>Schweigen-Rechtenbachシュヴァイゲン・レヒテンバッハ:ドイツワイン街道
<ドイツワイン街道(ドイチェ・ヴァインシュトラーセ)>
Pfalzプファルツ地方はかつて「ライン・プファルツ(Rheinpfalz)」と言われてきたが、1993年より「プファルツ」と改名している。
北をラインヘッセン、南をフランスのアルザスに接し、美しいプファルツの森の丘陵地帯と並行し、帯状に広がる地域を走るドイツワイン街道はドイツ初で、かつ最も有名な街道、ドイツで2番目に大きいワイン産地を通る85kmの長さの観光街道である。
ドイツワイン街道(ドイチェ・ヴァインシュトラーセ)が全プフアルツ地域の南北を一直線に縦断している。この街道はローマ時代からのもので、高名なワイン村が目白押しに連なる。ワイン街道は1935年に発案されたもので、フランスに接していることからフランスの影響があちこちに見られる。
http://www.deutsche-weinstrasse.de/
北のBockenheimボッケンハイムから、南のドイツワイン門(Deutsches Weintor)のあるアルザスに接する町・Schweigen-Rechtenbachシュヴァイゲン・レヒテンバッハに至る街道は、南から北に、あるいは北から南への道を、どちらを選んでも楽しい。
プファルツの森によって荒い西風から守られ、気候は温暖で、イタリアのトスカーナ地方のような景色が広がる。新しいワインが搾られ、楽しいワイン祭りを迎える秋にはこの一帯にほろ酔い気分の人たちを見ることでしょう。 -
2010.10.19.ドイツワイン街道は小雨でした。
Dackenheimダッケンハイムの手前のブドウ畑
<使用レンタカー;初めてのAvis>
グループK(車種別 MB A-Klasse Automatik
(メルセデス Aクラス オートマチック車)
これは従来のハーツMクラス(コンパクトサイズ オートマチック車)と同じ。
メルセデス A-180 CDI・1800cc 黒色 5T オートマチック・エアコン・ナビ
・電話付き。ディーゼル車。
2008年からメルセデスのAタイプは4度目なのでありがたい。 -
2010.10.19.Freinsheimフラインスハイム:Eisentorアイゼントアー中世の城壁の鉄の門
Freinsheimフラインスハイムはグリューンシュタットから10km南。
今回、初めて訪れた。プファルツの中心にある町は歴史のあるワイン醸造の町、ワイン街道上にある。
この町に1時間いたが、予想以上に美しい旧市街をもった素晴しい町でした。
ドイツ国旗が翻る城門はEisentorアイゼントアー鉄門 と言い、プファルツ選帝侯の紋章が外壁の中央真上にあり、1514年という建設年がある。この城門は選帝侯の権力を誇示したものといえよう。
これを二人で見上げていたら、買い物帰りの住民の小母さんが“立派なものでしょう!”と言って、あれこれ説明をしてくれた。
旧市街を囲む中世の城壁や城門はプファルツ地方において、最も美しい、完全な形で残る城塞都市と云われている。1.3kmに及ぶ城壁は赤い砂岩で造られており、15世紀ごろに造られたとされている。しかも当時は7~8mの高さを持った城壁であったと云う。
現在の城壁は旧市街の北から南に250m、西から東に300mが残っているそうだが、私共が見たのは鉄門傍のものぐらいだ。
町にある二つの城門は重々しいEisentorアイゼントアー と Haintorハイントアー と呼ばれ、19世紀初めまで機能していたそうだ。いずれも町への出入り口になっている。
城門以外にも公爵の塔、盗賊の塔、大砲の塔など6つの塔が城壁に沿って立っていて、ぐるりと一周してみれば良かった。 -
2010.10.19.Bad Duerkheimバート・デュルクハイム:Burgruine Hardenburgハルデンブルク城址
ワイン街道沿いの丘陵上には古城、城址が多い。この辺りにも行けなかった城がある。
プファルツの森の北東端・グリューンシュタットの南西には1240年、Leiningerlandライニンガー地方一帯を治めたLeininger Graf FriedrichⅢライニンゲン伯が築城したBurg Battenbergバッテンベルク城と、素晴しい眺望を誇るBurgruine Neuleiningenノイライニンゲン城址がある。
http://www.burgschaenke-neuleiningen.de/
バート・デュルクハイム近郊にもBurgruine Hardenburgハルデンブルク城址(1214年、Saarbruecken-Leiningen家のGraf FriedrichⅡ伯が築城。1794年、仏軍によって破壊されてしまった。)
http://www.battenberg-weinstrasse.de/ -
2010.10.19.Bad Duerkheimバート・デュルクハイム:名物ワインの樽レストラン
バート・デュルクハイムはブドウ畑やプファルツの森に囲まれたリゾート。Kurhausクアハウス(1822年)・カジノ・美しいKurparkクアパークのある保養地である。この為、町の雰囲気が良い。人口は19,000人、地域の中心地は皆このくらいの人口だ。
デュルクハイマーファス・レストラン内:容積170万Lと世界最大(ドイツ最大)の樽 -
2010.10.19. Bad Duerkheimバート・デュルクハイム:名物ワインの樽レストランで昼食:大好きなGulaschsuppeグーラッシュズッペ(パプリカ風味の肉入りシチュー)Euro4.3
ワイン:Dornfelder trockenドルンフェルダーの赤 0.2Lx2 =Euro8.2
メイン:Fasstellerファステラー(樽レストラン御推奨の品・ソーセージ・カセラー(豚肉の塩漬けKasseler)、ジャガイモのピューレ、ザワークラウト、豆入りという典型的な地元料理)Euro12.9
これは1人分ですが、量も多く、お皿を追加してもらって、分けて食べました。 -
2010.10.19.HaardterSchloss:古城ホテル・ハールト城
B271でさらに南下する。Deidesheimダイデスハイムを経由し、33kmを走ると、Neustadt ノイシュタットの西の丘陵地帯Haardtハールト に至る。
ブドウ畑の丘の上に立っている、最初の古城ホテル・Haardter Schlossハールト城(2泊予定)にたどり着いた(16:15)。
何故かホテルは閉まっていて、人気がありません。
呼び鈴を鳴らしていると、若い男女が傍の建物から出てきて、このホテルはEuro50,000の債務があって、経営者がいなくなった。その若い男性は債権者の父も困っているし、貴方のような宿泊予約者がしばしばやってくるので、私も大変困っているのだと・・・そんな説明がありました。 -
2010.10.19.HaardterSchloss:古城ホテル・ハールト城からの眺望
古城ホテルは倒産したらしい!!小さな古城ホテルの経営は難しいことだろうし、スパ・サウナ・マッサージを謳っていたが、このあたりが過剰投資となったかと思われる・・・。それにしてもと思いながら、折角来た古城からの絶景を楽しみ、写真を撮って、それから今夜のホテル探しに出かけた。 -
2010.10.19.HaardterSchloss:恨めしく見上げた古城ホテル・ハールト城
参考;Haardter Schloss ハールト城 ・古城ホテル・6室。
:Pension・Ferienwohnung
D-67433 Neustadt a.d. Weinstrasse 、Ortsteil Haardt ・Mandelring 35
ハールト城は地元の人々には Haardter Schloessel “ハールトの小城”と呼ばれている。古城は城の東斜面にドイツワイン街道・ノイシュタットの町のHaardt 地区に覆いかぶさるような形で立っている。
かつて北東の端に中世の小城が建てられていたのだが、そこに現在のハールト城が1875年、ドイツの世界的化学メーカーBASFの創業者の一人・Commerzienrat August Ritter von Clemmによって建設された。
その小城はかつてライン・プファルツ伯選帝侯に所属していたが、 1696年にプファルツ継承戦争(1688~1697年)によって、大きく破壊されている。
波乱に富んだ歴史の後、城は個人所有が続いた。
1928~1971の間は保養地として使用され、後にホテルやレストランなどとなった。 1971年に現在の所有者が全てを所有した。本館を2002年に改修した。
古城は現在家族経営のスパ・サウナ・マッサージの可能な小さなペンションとなっている。また、静かなロケーションである丘からの眺望はワイン生産地を望んだ大変恵まれたもので、ライン川まで見渡せる -
イチオシ
2010.10.19.HaardterSchloss:ハールト城の遠望とハールトの秋
“Balkon der Pfalz”つまりプファルツのバルコニーと称される眺望の良い一帯にホテルがあり、晴れた日にはブドウ畑の先にライン川沿いのSpeyerシュパイヤーの大聖堂(世界遺産)が見えると言う。
旅のスタート・・・かつ、楽しみな古城ホテル滞在を逃したのは、驚きと共に残念でもありました。 -
イチオシ
2010.10.20.Wachenheim:ヴァハテンブルク城の遠望
最初に向かったのはBurgruine Wachtenburg ヴァハテンブルク城址である。途中、ブドウ畑の丘の上に立つ古城を遠望する。一気に晴れてきたので、周辺の眺望も美しい。是非、城の上から眺めたいもの・・・。
<Wachenheimヴァッヘンハイム>
ハールトから13kmでワインの町Wachenheimヴァッヘンハイムのインフォーメーションに着いた。ここで案内書をもらって、Steinhausserscher Hof・Sektkellereiゼクト醸造場(15世紀にSteinhausenシュタインハウゼンの騎士の屋敷跡、1888年以来、Schloss Wachenheimの名前で知られた、大きなゼクト工場。)の裏手の駐車場に入り、城を目指して、細道を15分かけて登った。 -
2010.10.20.Wachenheim:ヴァハテンブルク城の天守閣
Wachtenburgヴァハテンブルク城は12世紀、シュタウフェン王朝・神聖ローマ帝国の城として築城された。当初は“Veste Wachenheimヴァッヘンハイム要塞”と呼ばれていた。中央に高い天守閣(1329年)を持ち、周囲に城壁をめぐらし、5つの塔がある。
1375年、ライニンゲン伯とWorms・Mainz・Speyerの三都市連合の戦いで、破壊された。
その後も城址の所有は変遷し、現在はヴァハテンブルク城址保存協会が所有している。
一部の塔部は修復中であった。Burgschaenke城のお休み処も無人(週末は開店!)で、汗をかいて登ってきたけれど、お茶も飲めない。 -
2010.10.20.Wachenheim:ヴァハテンブルク城から見た秋
天守閣は鍵がかかっていたので上らなかったが、塔からの眺望は十分に素晴しく、ヴァッヘンハイムの町、その周辺を囲む黄葉の木々、ブドウ畑(凡そ320ha)の連なりが陽の光の下で、輝いて見える。この辺りもプファルツのバルコニーと称されるそうだ。
古城からの晴れた日の眺望はライン平野を見渡すことができ、ライン川の先、オーデンの森、黒い森も明瞭に見ることができると云うが、この日はなだらかな平野の先、ライン川あたりは雲がかかっていた・・・。 -
2010.10.20.Deidesheimダイデスハイム:お茶;Deidesheimer -Hofダイデスハイマーホフで
ヴァッヘンハイムから、L516・527で南下する Deidesheimダイデスハイムに6kmと近い。このルネッサンス風の館(14世紀)・5星ホテルは町の中心・マルクト広場に面している。ダイデシャイマー ホフ ホテル
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イチオシ
2010.10.20.Deidesheimダイデスハイム:お茶;Deidesheimer -Hofダイデスハイマーホフで
お茶;Deidesheimer -Hofダイデスハイマーホフで
D-67146 Deidesheim/Weinstrasse、Am Marktplatz
Tel:06326-96870、Fax:06326-7685
http://www.deidesheimerhof.de/
<Weinstube Sankt Urbanレストラン聖ウルバン>
大きな長テーブルの先には先客のドイツ人ご夫婦が食事中でした。私共が注文したのは以下のもの:
チーズケーキ、ザッハトルテと紅茶・コーヒーです。
Euro15(1,916円)では申し訳ない美味しさでした。 -
2010.10.20.Deidesheim:近郊のブドウ畑
ヘルムート・コール元ドイツ首相はダイデスハイム近くのLudwigshafenルートヴィックスハ-フェンが生まれ故郷である。そのこともあって、ダイデスハイマーホフを特別、御贔屓にした。
ここでしばしばヨーロッパ各国との首脳を接待したと云われている。又、当地のワインがお好みでサミットや、1993年に天皇陛下が訪独された際の晩餐会にも提供させて、好評を得たと云う。
グルメレストランRestaurant Schwarzer Hahn黒い雄鶏;
このホテルのグルメレストランでミシュラン1星、Gault Millau17点、全独ランク40位。300年もの歴史ある砂岩で造られた地下の丸天井レストラン。席数48席、ワインは700種。(ここは2013年秋の旅で1泊し、料理を楽しんだ) -
2010.10.20.Hambacherschloss:ハンバッハー城:(11世紀に築城・ドイツ民主主義の記念碑)
城内見学はガイドなしで、大勢のドイツ人たちと城内に入った。
博物館料金はEuro9で、館内はドイツの民主主義の歴史的な経緯を展示したもので、一巡するとその歴史が分かるように説明されている。
参観者は熱心に説明を読んでいたが、取り立てて、貴重なものは無い。
唯一、1832年当時に掲げられた三色旗のオリジナルが、端が切れた古びた格好で、ガラスの仕切り内に展示されていたプファルツのバルコニーと称される高台に立つハンバッハー城はドイツ民主主義の記念碑 by jijidarumaさんハンバッハ城 城・宮殿
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2010.10.20.Hambacherschloss:ハンバッハー城の絵
Neustadtノイシュッタトの南5kmにある、この城はドイツ民主主義のシンボルとして世界的に知られている。1832年5月27日に34人のノイシュタット市民の呼び掛けに応じて、ドイツ各地から、約2万5千人の市民たちがドイツの統一と自由のために集結した。
その時、ドイツ国旗の黒・赤・金の三色旗が、初めて使われたと云う。
因みに、現在のドイツの国旗は上から順に黒・赤・金の三色で構成されている。
この色は1813年のナポレオン戦争時、ルートヴィヒ・アドルフ・ヴィルヘルム・リュッツオウ(Ludwig Adolf Wilhelm von Luetzow)が率いた義勇軍の軍服・・・(黒地に赤の襟、金のボタンをシンボルカラーにしていた。)が由来と云われている。
また、神聖ローマ帝国の紋章(即ち、金地に赤の嘴と爪をもった黒い鷲)に由来するとも云われている。黒は勤勉、赤は情熱、金は名誉を表す。 -
2010.10.20.Hambacherschloss:ハンバッハー城の展示
(但し、このハンバッハー城の話より、時期的には少し早い1817年にこれと似た話がEisenachアイゼナハのWartburgヴァルトブルグ城にもある。)
【ヴァルトブルグ城(世界遺産・1999年登録)内観光:Festsaal祝典の間
長方形の大広間にはシャンデリアがさがり、木彫りの装飾も美しく飾られ、正面には鷲の紋章が威厳を示している。大広間は近年、コンサート等に利用しているようで、何百の椅子が整然と並んでいた。
ここには二つの話がある。一つは“メルヘン王” ルートヴィッヒ二世バイエルン王がここを真似た広間を新白鳥城に作ったと云う。
二つには1817年10月18日、ドイツ学生同盟(1815年)の学生たち凡そ500名が参集し、ヴァルトブルグ集会を催したこと。テーマは1813年ライプチッヒの戦いに勝利したことの祝いであり、ルター宗教改革300年を記念したもの。
この集会で宣言されたのはドイツ連邦成立への民族統一、民主主義の基本権の確立であり、当時のドイツ地域での市民階級(中間層)が始めて大衆行動を起こしたという歴史的なものだった。その際に使用された学生同盟旗は後年、ドイツの国旗の“黒・赤・黄”の三色旗の基となったそうだ。
(*ライプチッヒの戦い:諸国民戦争とも言い、1813年10月プロイセン、オーストリア、ロシアの同盟軍がこの地で、ナポレオン軍に大勝し、ナポレオンの退位の契機になった)】 -
2010.10.20.Hambacherschloss:ハンバッハー城からの眺望
この高さから見る眺望はすこぶる良く、晴天に感謝である。 -
イチオシ
プファルツの森の麓をSt.Martin聖マルティンに向かった。
St.Martinザンクト・マルティンはドイツで最も美しい村の一つとして、名高い。私共は初めての訪問だ。人口1,900人と小さな村だ。
Alte Kellerei古い醸造所にある観光局からスタートである。
村内は人影もまばら、少し時間も早い所為か?!。ワインの醸造所が自分たちのワインを店先で宣伝している。洒落た色合いの家が陽の光に輝いて見えた。道を横切って伸びるブドウの木も残った葉が紅葉している。木組み建築の家を美しく飾るゼラニウム、赤の色が良く似合っている。
旧村役場は、今はレストランになっていて、ワインを飲ませるようだ。
村の中心には15世紀から18世紀の小ぶりな、きれいな木組み建築の家が並び、それらは記念建造物保護の対象になっているそうだ。
村内を小川Altbachアルトバッハが流れ、“美しいワイン村、絵のような景観をもった保養地”として人気が高いのも、尤もだと思われた。
私自身はあまり好まないが、よく使われる慣用語は“トスカーナ(伊)”のような景観・・・“プファルツのトスカーナ”だが、なんとなくわかる気がする。
観光局でもらったパンフレットにもこんな言葉があった。“ハールト丘陵にプファルツのブドウ畑の海・緑の波が打ち寄せている。”と・・・。 -
<Schloss Kropsburgクロプスブルク城址>
この村の丘の上にSchloss Kropsburgクロプスブルク城址(Dalbergダルベルク の騎士が13世紀の築城。1689年に罹災した)があり、通りかかった散歩中のご夫婦に道を聞いて、丘への細道を登る。車とすれ違わないことを祈って一気に上がった。1.5kmで城址近くの駐車場に着いた。
クロプスブルク城址まで近づくが私有地なので、見学は不可でした。 -
山中を迂回していく道はずっと広いようだ。ドイツ人のアドバイスに従って、Edenkobenエーデンコーベンへの道を走った。
山中から迂回し、降りて行った先に急に視界が開けた。素晴しい景観である。
そこにはブドウ畑が見事な美しさを見せていた。 -
イチオシ
ハイキングに来ていたドイツ人達もそれを見ながら休憩している。私共も“ドイツの秋、見ーつけた!”と思った。
“ハールト丘陵にプファルツのブドウ畑の海・秋の実りの色がある” -
イチオシ
2010.10.21.山頂のRietburgリートブルク城址とブドウ畑
<Rhodt unter Rietburgロト・ウンター・リートブルク>
ロト・ウンター・リートブルクは人口1,140人の小さなワイン村だ。ブドウ畑の中を走って行くと、前方の山をSesselbahnゼッセルバーン(リフト)が二分しているように見えた。麓の駐車場まで4km。
Rietburgリートブルク城址は海抜550mの山の上にある。
リートブルク城はRietリートのKonradコンラートという騎士が13世紀に築城したものだが、17世紀の30年戦争で罹災し、その後再び、再建されなかった。
Rietburgリートブルク城址に二人乗りの腰掛リフトで登る。外気は5℃と寒い。森の中を高々としたリフトで上がって行くと、高所恐怖症の私には怖い。歩いて登る人の姿を下に見て、220mの高低差を上がって行く。
プファルツ最初のリフトは560mの長さを凡そ10分で上の駅に着く。往復二人でEuro12、帰りもこれで帰ることになる・・・。 -
2010.10.21.Rietburgリートブルク城址から見る眺望
登った城址からは素晴らしいライン平野の眺望を目の当たりにした。これをバックにした写真を親切なドイツ人が撮ってくれた。気分は実に爽快である。
麓のリフト駅傍にSchloss Villa Ludwigshoeheシュロス ヴィラ ルートヴィッヒスへーエ宮殿がある。
1846~1852年にバイエルン王ルートヴィッヒ1世の夏の宮殿として建設される。ブドウ畑や栗林のあるイタリア的風景を王が思い出されて、古典主義(ポンペイ様式)のヴィラとしたそうである。そういえば近くに栗の木がたくさんあり、ドイツ人達が盛んにイガをつぶして小さな中身をひろっていた。
今はラインラント・プファルツ州政府のものなっている。ドイツ印象派の画家Max Slevogtのギャラリーが常設された美術館やコンサートに使用されている。館内を見なかったが、ちょうどゴヤ展が行われていた。 -
2010.10.21.Schloss Edesheim :エデスハイム城の入口
2,300人のワイン村:古城ホテルの城門前で
(2泊)④⑤ Hotel Schloss Edesheim ホテル シュロス エデスハイム・古城ホテル
;4星、38室。305号室(Brahmsブラームスの名がついた部屋・4階)
Euro104.63 x2=209.25
*ドイツ観光局で入手したこのホテルチェーンのVIPカードで10%引き。
Landauランダウ近郊、ドイツワイン街道、Burg Trendelburgの姉妹城。
Euro188 X2=376 、Special Arrangementを利用した。
D-67483 Edesheim 、Luitpoldstrasse 9
Tel :+49 (0)6323-94240、Fax :+49 (0)6323-942411
http://www.schloss-edesheim.de/ -
2010.10.21.Schloss Edesheim :古城ホテル エデスハイム城
プファルツの森自然公園に沿って、5haを超える庭園・ブドウ畑とともに、このホテルはthe Palatinate;神聖ローマ帝国の選帝侯領(ライン川西部のライン・プファルツ伯領)であった、ワイン生産地域の中心にあり、絵画的なエデスハイムの村中に立っている。
長い歴史に彩られた古城ホテルの部屋は19世紀のロマンティックなビーダーマイヤー様式で優雅に飾られている。
大理石の浴室や、周辺の素晴らしい眺めは実に素晴しい。
メルヘン街道沿いの名高いBurghotel Trendelburg古城ホテル・トレンデルブルク城、ラーン川沿いの中世以来のHotel Burg Staufenberg古城ホテル・シュタウフェンベルク城、ラインガウのライン川畔のドイツ最古と称されるHotel Krone Assmannshausenホテル クローネ・アスマンスハウゼンなど、Hotel Schloss Edesheimと同一グループに属している。
これらを泊り歩くKoenigstour王の4日ツアー・Kaisertour皇帝の8日ツアーもホテルでアレンジしているので、一度そんな機会も得たいものである。
参考;
Burghotel Trendelburg古城ホテル・トレンデルブルク城
http://www.burg-hotel-trendelburg.com/de/index.html
Hotel Burg Staufenberg古城ホテル・シュタウフェンベルク城
http://www.burg-hotel-staufenberg.com/de/index.html
Hotel Krone Assmannshausenホテル クローネ・アスマンスハウゼン
http://www.hotel-krone.com/de/index.htmlホテル シュロス エデスハイム ホテル
-
2010.10.21.Schloss Edesheim :エデスハイム城の外観
<Schloss Edesheimエデスハイム城の歴史>
“プファルツ(神聖ローマ帝国のライン・プファルツ伯領)“は他の地域に比して、神に愛されている、全てにおいて素晴らしい土地と言える。この土地は地球上のあらゆる地域よりも豊かな、祝福された土地だ。”と、
フランスのヴェルサイユ宮殿でプファルツ伯のプリンセスは愛した故郷の事を語っている。この有名なプリンセスは“ヴェルサイユの太陽王の宮廷よりも、日当たりの良いエデスハイム城で生活することの方を、千倍も好む。”とも述べている。
そしてまた、バイエルン王ルートヴィヒ1世も“私の青年時代に過ごしたプファルツ・・・私が愛したプファルツの土地、プファルツの民もこの土地を愛し、私も愛してくれた。この土地は私の家、いつの日か、私の愛する妃と共に訪ねてみたいプファルツである。”と言われたと・・・。
(Edenkobenエーデンコーベンの教会前に王の立像とこの言葉ある。)
王は後に彼の夢を果たした。彼の王国の最も美しい場所に夏の離宮を建設したのである。(前述したSchloss Villa Ludwigshoeheシュロス ヴィラ ルートヴィッヒスへーエ宮殿のこと)
それはこの国で最も温暖な地域にあり、ブドウ畑や魅力的な庭園に囲まれた素晴らしい場所に立つ、ドイツで最も美しい古城ホテル・エデスハイム城である。 -
2010.10.21.Schloss Edesheim :エデスハイム城の葡萄畑
この城の事が初めて歴史書に出てくるのは、756年、仏・ヴァイセンブルクのベネディクト会修道院の記録によるものである。この時期はフランク王国(カロリング王朝)の支配下にあった。キリスト教の聖職者が城の基礎石を置き、城の繁栄、発展の場を築いていった。
1483年、エデスハイムの城と村はシュパイヤー領主司教の支配地になり、以降16世紀に向けて繁栄は下降していき、農民戦争(1524~25年)では略奪、破壊を被った。
1594年、シュパイヤー領主司教の役所として、城は使用される。凡そ100年の後、9年戦争(プファルツ継承戦争1688~1697年)で城はフランス軍によって破壊される。
戦争終結後、新たに築城されたのは15世紀時代と同様の立派な水城である。12世紀同様の水の供給システムはいまだに問題はない。
城館は住居・ゲストハウスとして使用され、1748年のデザインを基に、19世紀に塔も付け加えられた。
中世以来、広い堀に囲まれた城は防御面でも優れたもので、東に向かっては二つ目の水濠が掘られていた。城は跳ね橋で外と結ばれていたが、19世紀になって初めて、現在の石橋になっている。また、ミュール川から引かれた古い運河が、城壁と並行してあるのも見てとれる。その城壁は約2000mの長い、強固な防御線となっている。
城壁からは1570年の刻印のある礎石も見つかっている。この古城を訪れる人々は、最初の築城から現在まで1250年の間に生じた、城の浮き沈みを感じることであろう。
1804年にナポレオンによる教会資産の世俗化・国有化により、エデスハイム城も国有化された。その後は私有化に戻り、様々な人が所有することになった。
2000年を迎える頃、城は全面的に改装され、4星の古城ホテルに生まれ変わった。
城の濠も改造され、500m?の広さ、2.2mの深さとなり、その濠を巡る歩道と歩道橋も作られた。小道は池の中に備えた固定ステージをもつ野外劇場に続いている。
エデスハイム城は歴史的伝統の中に育ち、その古き良さを維持しながら、新しき道・・・即ち、ドイツ(南部)ワイン街道の大いなる価値を高める目標を掲げ、同時にプファルツの境界線をはるかに超えて一層、世に知られるようにしたい。
新しい時代に入るとともに、プファルツの魅力的な、メルヘンチックな古城・エデスハイム城も新しい歩みを始めている。
2001年、エデスハイム城はDr. Lohbeckグループの経営傘下に入った。
名高い、メルヘン街道沿いのBurghotel Trendelburg古城ホテル・トレンデルブルク城や、シニア用住宅会社、新聞社を傘下に持つ企業グループである。
Dr. Rolf Lohbeckロルフ・ローベック博士のモットーは【将来、成功を収めるためには、過去を直視し、理解することだ。】という。
(2010.09.04.;翻訳・編集) -
2010.10.22.Burg Trifelsトリフェルス城をバックに
エデスハイム城を9時に出発し、丘陵に向かって走る。
木組み建築の家並みのAnnweiler am Trifelsのアンヴァイラーの町(人口7,000人)を抜け、城の裏手にあたる山中に入る。
車が走っていない山の中の一方通行の道を長々と走る。ここにはトリフェルス城など3つの城砦があり、本城トリフェルスの備えであろう、ぐるりと周って行く道途中には、488mの山上にRuine Burg Scharfenbergシャルフェンベルク城址(12世紀の築城。20mの天守閣、城壁が残る)とRuine Burg Anebosアネボス城址(12世紀の築城。岩壁上に60mX25mの台地が残り、ユニークな姿を見せている)がある。
漸く、麓の駐車場Schlossaekerに着いた。寒々とした様子で、まだ車が3台しか停まっていない。距離はここまで26km、30分だ。 -
2010.10.22.Burg Trifelsトリフェルス城:塔上から見る岩壁の先
Trifelsトリフェルス城は497mの山上にあり、山道を20分登ることになる。九十九折りの道を10分ほど行くと、右手にFelsen岩壁が出てきた。若い女性がロッククライミングの練習をしている。
城の入り口までさらに10分歩き、息が切れてきた。城内への階段を上がってみると、下界が開け、良く見える。霜の降りた草原が真っ白くなっていて、所々に靄が湧き、幻想的な感じだ。近くや遠くの山中にはFelsen岩壁が突出して立っているのも見える。
先ほどのシャルフェンベルク城址の天守閣も見える。しかもトリフェルス城を囲む光景は黄葉・紅葉の真っ盛りでもある。壮大な景色だ。 -
2010.10.22.Burg Trifels トリフェルス城:古城の全景
<Burg Trifelsトリフェルス城内見学>
(9:50~11:35 入場料Euro2.1x2=4.2 )
トリフェルス城の名は三重に割れた岩壁の上にあることからTrifels の名になったと云う。9時にはオープンのはずだが、10時にならないと管理人が来ない様子なので、それまで本丸の先端にある岩の台地上に行き、こわごわと下をのぞいてみた。
毎週土日の3時にはリチャード獅子心王の劇が演じらるようだ。また、8月初めには観光客用に騎士祭りも催されると云う。
この城は18mx20mの岩盤上に建てられている。本丸には天守閣、幾つかの城郭がある。かつては3つの塔や礼拝堂などがあり、“帝国の宮廷”があったと云われている。
ここはシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝の帝国城砦の一つになっていた。(その歴史は後述参照)20世紀になって、城は再建されたが、天守閣に登って、周辺を睥睨すると、よくマー、こんな場所に帝国城を建てたものだと思う。
トリフェルス城には城の模型、宮廷、“帝国の宝物館”があり、宝物館にはドイツ皇帝権の象徴物・宝石をちりばめた王冠や十字架があり、宝剣等が展示されていた。
(但し、本物はない。) -
2010.10.22.Burg Trifelsトリフェルス城:王冠
また、1192~1194年3月の間、イングランド王リチャード獅子心王(リチャード1世)が高額の身代金を支払うまで、城内の牢に幽閉されていたことがあり、それを説明した掲示がかかっていた。
尚、イギリスのリチャード獅子心王が十字軍遠征の帰路に、オーストリアのウィーンの近郊で、伯爵レオポルド5世に捕らえられた(1192年12月)。
ドナウ川・ヴァッハウ渓谷にあるDuernsteinデュルンシュタインの町の山上にあるクエリンガー城(今は城址)に幽閉されていた史実もある。
クエリンガー城が最初で、その後トリフェルス城に切り替えられたのか、帰国してから調べてみると、どうもそのようである。ただ、様々な説明はクエリンガー城の幽囚で終わっていて、Burg Trifelsでの幽囚の事が書かれていないのが不思議だ。 -
2010.10.22.Burg Trifelsトリフェルス城:秋の景観
<皇帝の城・Burg Trifelsの歴史>
ザリエル朝のコンラート二世の頃に石をベースにした最初のBurg城が築かれた。それ以前は木造であった。
1081年、当時の城主であったの騎士領主がヘルマン・フォン・ザルム王に城を引き渡す。
1113年、皇帝ハインリッヒ五世が所有する。
1125年までハインリッヒ五世はしばしばこの城を訪れている。
世に名高い皇帝フリードリッヒ一世赤髭王(シュタウフェン朝)はトリフェルス城を皇帝の居城にしたので、帝国城砦の一つになる。
1193年から1194年まで皇帝ハインリッヒ六世は身代金目的で、十字軍の遠征から帰国中のイギリス国王リチャード獅子心王をここに幽閉したと云う。
1194年、皇帝ハインリッヒ六世はトリフェルス城からシチリア遠征に出かけ、ノルマン帝国を征服した。
1215年、トリフェルス城はフリードリッヒ二世の治下となる。
1246年にはコンラート四世は城をフィリップ・フォン・ファルケンシュタイン夫人に譲る。
1330年にトリフェルス城はプファルツ選帝候、さらに1410年からフランス革命までツヴァイブリュッケン公爵家のものとなる。
1602年3月28日、落雷により城は炎上し、宮殿など焼失する。
三十年戦争(1618~48年)の間は住民の避難所となっていた。
18世紀になると、城の石材を利用した採石場となったため、さらに城は荒廃した。
1851年頃にバイエルン国王ルートヴィッヒ一世は城の再建計画を立てる。
1881年にその再建図が出来あがり、現在のように再建される。
1948年以降、トリフェルス城は国の管理になった。
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2010.10.22.Burg Trifels トリフェルス城はこのような岩壁上にある
<第3次十字軍とリチャード(Ⅰ世)獅子心王の幽閉>
1187年:「イスラム指導者サラディン」が聖地エルサレムを奪ったことから、
「教皇グレゴリウス8世」が第3回十字軍(1189-1191)を勧請する。
1190.6.10:「神聖ローマ皇帝・フリードリッヒ1世Friedrich I. Barbarossa(赤髭王)」は出征中、川で沐浴中に溺死(→ハインリヒ6世が後継)。
1191:当時フランス領土を戦いで次々と勝ち取っていた「イングランド王リチャード1世」は海路を遠征する。
1191.7.12:「フランス王フィリップ2世」「オーストリア公爵レオポルト5世」も遠征し、独仏英の三ヶ国軍でアッコン奪回した。このときリチャード1世はレオポルト5世の名誉を汚した。
1191.8:フランス王、オーストリア公はアッコン奪回後帰国する。(帰国後フィリップ2世はリチャード1世の弟ジョンと陰謀し、ノルマンディの入手(回復)を狙う)
1192.9.2:リチャード1世はエルサレム奪回ができず、サラディンと和約。
リチャード1世は帰路途中に船が遭難し、陸路オーストリア領内を進む。
ウィーンの近くで捕えられレオポルト5世に引き渡される。
→1192.12-1193.3:デュルンシュタイン城に幽閉される。
(主君を探していた忠実な吟遊詩人Blondelが城の下を通りかかり、歌で王の囚われの場所を見つけた)
→その後ハインリヒ6世に引き渡され、ラインラント=プファルツのトリフェルスの城Burg Trifelsに移され、さらに1年幽閉。
→1194.2:莫大な身代金(15万マルク)を支払って自由の身となる。
1194:フランス王フィリップ2世は、リチャード1世にフレトヴァルの戦いで敗れる。
1199.4.6:リチャード1世急死・・・弟ジョンがイングランド王に即位。
1204:フランス王フィリップ2世がノルマンディを征服、懸案だったフランス領土の大部分の回収に成功。
一方ジョンは「失地王」の不名誉な名を付けられる。
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イチオシ
2010.10.22.Burg Trifels トリフェルス城はこのような岩壁上にある
トリフェルス城を下ってくると、午前中、女性がロッククライミングを試みていた岩壁に、大勢のグループがやってきていた。
よく見ると本丸の先端にある岩の台地だった。
駐車場はもう車が数十台も停まり、家族連れなどが九十九折りの道を登ってくる。 -
2010.10.22.18mの高さの立派な“Weintorワインの門”
<Schweigen-Rechtenbachシュヴァイゲン・レヒテンバッハ>
人口1,450人のシュヴァイゲン・レヒテンバッハはワイン村であり、独仏国境の町である。18mの高さの立派な“Weintorワインの門”が目玉である。
観光客もこれをバックに写真を撮る。ドイツ人グループを撮ってあげたら、お返しに私共を撮ってくれた。
ワイン街道の終着点にワインの門が立っているが、元は1936年に作られ、第二次大戦後、ナチスのシンボルであったとして、排除された。その後、1955年再建されたもので、門を中心にレストラン、ホテル(4室)、庭園や、ワイン販売所がある。2008年に全面的に改装されて、きれいになっている。
仏側から見た門の壁には威圧するかのような大きな鷲の姿がある。そこにはナチスの象徴であるHakenkreuz(?)ハーケンクロイツがついていたと云うが、今は無い。 http://www.weintor.de
その昔に訪れた頃は勿論、フランスとの国境線が引かれ、厳重とは言わないまでも、国境は管理されていた。今は周辺がきれいになり、隣町に行くような形で、国境を越える。
*Das Deutsche Weintor, offen nach beiden Seiten: zur Pfalz und zum Elsass.
(ドイツワインの門はどちらの側にも門を開いている。その一つはプファルツであり、もう一方はエルザス(アルザス)である)
仏側の隣町WissembourgはかつてWeissenburgヴァイセンブルクと呼んだ14~17世紀の間は帝国自由都市でした。ワイン街道沿いの町の名が、この町のKloster Weissenburg ヴァイセンブルク僧院の古い文献によく出てくる。
私共もちょっと往復と国境を越え、Wissembourgの町に行ってみた。やはり住宅、道路の様子をみると、ドイツに軍配が上がる。人口8,000人と少ない。 -
010.10.22.Bad Bergzabernバート・ベルクツァーベルン:Schlossベルクツァーベルン城
国境から15kmしかない町・バート・ベルクツァーベルンに、帰りがてら寄った。
人口7,700人の保養地にはPetronella-Thermeペトロネラー温泉、ワインの泉等があると云う。ここでは見てみたいものが二つあった。
目的の一つはSchloss Bergzabernベルクツァーベルン城である。左右に塔が付いた城は赤い屋根、クリーム色の壁、緑の窓覆い、ゼラニウムの花、町中の通りに面して、どっしりと美しい姿を見せていた。
12世紀にSaarbrueckenザ-ルブリュッケン伯が水城を築いたことに始まる。1410年にはWittelsbachヴィッテルスバッハ系のプファルツ・ザ-ルブリュッケン公爵家の居城となっている。現在はバート・ベルクツァーベルン地区の行政府が置かれている。
また、もう一つがドイツの南西部で最も美しいと称されるルネッサンス風建物のGasthaus Zum Engel天使のホテル(1800年)である。
ホテル内には郷土博物館もあるが、外観の独特の色合いが美しい。赤い斜線の入った窓覆い、“黄金の天使”のSchild看板がきれいだ。
旧市街のKoenigstrasse王の道にそれらを見ることができた。 -
2010.10.23.Zweibrueckenツヴァイブリュッケン :バロック様式の建物群(市庁舎ほか)
エデスハイム城を9時に出発。これでドイツワイン街道ともお別れです。
プファルツの森の町は“靴の町” 靴製造のメッカとして知られているPirmasensピルマゼンス(人口43,000人)を観光し、31km先のツヴァイブリュッケンに、森の中の古城ホテル Romantik Hotel Landschloss Fasanerie 森の中のロマンティック ホテル ランドシュロス ファザネリに早々と着いた。
<Zweibrueckenツヴァイブリュッケン(二つの橋の意)>
この地は古くからSchwarzbachシュバルツバッハの川岸にローマ人の居住地があった。
フランスから流れ出たHornbachホルンバッハ川(33km)が、ツヴァイブリュッケンの町中を流れてきたシュバルツバッハ(黒い小川は50kmを流れた後、Bliesブリース川に合流する。)に町の西で合流する。
1150年、ザールブリュッケン伯がシュバルツバッハ川の蛇行する地点、ホルンバッハ川との合流点にも近い場所に城砦を築き、“二つの橋”を架けた。
城と町は防御の要となり、急速に発展したと云われる。その事が町の名前の起源になったと思われる。 -
2010.10.23.Zweibrueckenツヴァイブリュッケン :かつての宮殿
人口34,000人の町は第一にHerzogsstadt公爵家の町である。1410年にプファルツ公Stephanシュテファンがこの地を得てから600年の記念年だそうだ。
市内観光の中心は市庁舎のある一帯の立派なバロック建築群や、Herzogliches Schloss公爵の宮殿も1720年に建てられたバロック建築である。
重々しい建物らしく、現在プファルツの上級裁判所になっている。とはいえ、第二次大戦末期の英米の空襲で、町の80%が焼失してしまったそうだ。町の再建は大変であったことだろう。
(Ottweilerオットヴァイラーから始まるザールプファルツのBarockstrasseバロック街道はZweibrueckenを通り、Blieskastelブリースカステル、州都であるSaarbrueckenザ-ルブリュッケン等の町をつないでいる道である。) -
2010.10.23.Zweibrueckenツヴァイブリュッケン・Romantik Hotel Landschloss Fasanerie 森の中のロマンティック ホテル ランドシュロス ファザネリ(雉の飼育場の意味)・前景
(1泊)⑥ Romantik Hotel Landschloss Fasanerieロマンティック ホテル
ランドシュロス ファザネリ ・古城ホテル;4星S・50室。
Galerie‐Zimmer;50号室(1階) Euro196
D-66482 Zweibruecken 、Fasanerie 1
Tel:+49 (0)6332 9730 、Fax:+49 (0)6332 973 111
美しい自然公園の中心に位置する4つ星スーペリアホテルは、ツヴァイブリュッケンに位置し、歴史的な建物内にてグルメレストランと、素晴らしい客室を持つホテルである。
Romantik Hotel Landschloss Fasanerieは、元はポーランド王Stanislaus Lesczcynskiスタニスワフ・レシチニスキの別荘でした。
Salon Stanislausではビュッフェ式朝食。
バー・パブ、ミーティング施設、 レストラン、ヘアサロン、室内プール、サウナ、 スチームルーム、図書館の設備もあり。
現在、この地は40haの広さをもち、Romantik Hotel Landschloss Fasanerieの庭園は周囲を壁で囲まれている。バラ園、池と歴史的なバロックの庭園、12世紀初期のフランケン王朝・Ehrwoogburgの城址跡、散策路も備えた眺望の良い庭園になっている。
ヴォージュ(Vosges)山脈、アルザス地方(Alsace)や、ルクセンブルク大公国(Grand Duchy of Luxembourg)も近い。 -
2010.10.23.ロマンティック ホテル ランドシュロス ファザネリ・グルメレストランTschifflikチフリック?にて
グルメレストランTschifflik(チフリック?は農場の意味・トルコ語!)はミシュラン1星、GaultMillau 18。全独ランク35位、席数35、従業員11名、シェフJoerg Glauben。(日曜日は休みで一日前倒した。)
案内された席は庭園に面した窓側真ん中の席でした。
洒落た、品の良い雰囲気に満ちたレストランが、人気があるのもうなずけます。
レストランに入ると左手の壁に歴史の波に翻弄された元ポーランドのスタニスワフ王一家(後述)の長女アンナと次女メアリーの肖像画が架けられていました。
元ポーランド王・リトアニア大公Stanis?・aw I Leszczy?・skiスタニスワフ・レシチニスキ(1677~1766年;王位1704~09、1733年。およびロレーヌ公在位;1737~66年)
彼の友人であり、支援者であったスウェーデン王カール12世Koenig Karl von Schweden(プファルツ・ツヴァイブリュッケン公)が、王に彼のヴィッテルスバッハ公国ツヴァイブリュッケンへの亡命を認め、スタニスワフ自身が 旧ルーマニア・ベッサラビアBesarabienでの幸せな時代を思い、ここに夏の離宮を建て、それにトルコ名Tschifflikチフリック?(トルコ語!“ ?・iftlik “は農場・ファームの意味)を与えたと云う。
王の長女アンナが若くして亡くなり、修道院Graefintalに埋葬されている。
次女メアリーは1725年にストラスブールで、後のフランス国王ルイ15世と結婚している。
1718年12月11日、スウェーデン王カール12世がノルウェー攻略の要となるフレデリクスハルド要塞を攻囲中、流れ弾に当たって落命した。
この為、ツヴァイブリュッケン公国はプファルツ伯Gustav Samuel Leopoldグスタフ・サミュエル・レオポルドの支配に戻った。
この事で、元ポーランド王スタニスワフは亡命先であったツヴァイブリュッケンを去り、仏・アルザスのヴィッセンブールWissembourg(ドイツ語でWeissenburg)に新たな住居を求めた。王の女婿であったルイ15世は王の亡命を認め、1735年には、公国Lothringenロレーヌをロレーヌ公に任じた(~1766年)。
王の家族はナンシーに移住した。 -
2010.10.23.ロマンティック ホテル ランドシュロス ファザネリ・グルメレストランTschifflikチフリック?にて4品メニューを頂く
シェフからのご挨拶:
A) オレンジマカロンとオリーブ、アンチョビ。
(アンチョビは 「塩漬けにしたカタクチイワシ」)
B)3つのカボチャ。(テリーヌ、アイス、シュトロイゼル)
C)パセリスープとハム巻き。
前菜:私はフォアグラのラビオリとアーティチョーク、ヘーゼルナッツつき子牛の内臓。家内はヘレーナ梨とフォアグラ。
メインの魚:私が鰈の胡桃・オレンジ載せ。緑のアスパラガス、マルタ風ソース。
家内は鱸に香味野菜、ジャガイモ、ウズラの卵載せ。
メインの肉:私は久しぶり鳩料理、パパイヤ、アンズダケ、赤キャベツソース。
家内は牛のフィレ、グラッシュソースかけ。
デザート:カラメル菓子、タヒチヴァニラムース、チェリー。
そして、コーヒーと共に新たなチョコレート菓子がお皿二つに次々に載って出てきました。8個X2と16個ですから、食べきれません。
飲み物はドライシェリー、
ワイン1999年Ruppertsberger Reiterpfad 、Riesling Spaetlese trocken 、ルッパーツベルガー・ライタープファド・リースリング・シュペートレーゼ・トロッケン(Weingut Reichsrat von Buhl帝国顧問官ブール男爵家醸造所 、Deidesheim)
さて、3時間を越える美味しい食事に満足と共に、ちょっぴり疲労を感じたのはワインの酔いの所為か? 明日はゆっくり起きたいもの・・・。
19:00~22:15 Euro275.5(31,764円) -
2010.10.24.Blieskastelブリースカステル(ブリース川の畔にある城塞といった意味の町):バロックの建築群
古城ホテル ランドシュロス ファザネリを9:30に出発。ラインラント・プファルツ州Zweibrueckenツヴァイブリュッケン から4kmで州境を越え、Saarlandザールラント州に入った。
アウトバーンA8を少し走り、国道B423に下りると、24km先、今日最初の町はBlieskastelブリースカステルである。ブリース川の畔にある城塞といった意味の町である。
<Blieskastelブリースカステル>
人口23,000人と比較的大きな町。日曜日とあって、旧市街の駐車場も車が少ない。人通りも殆んどいない寂しさである。旧市街から丘の上を望むと、小さな保養地の丘にはルネサンスとバロック街道・バロックの建築群(城館付属教会、Orangerieオランジェリー、市庁舎、)が立っていて壮観である。 -
さて、ブリースカステルの町には有名なものがもう一つある。
丘に登り、城館付属教会の横をさらに上がり、西にある「Gollensteinゴレンシュタイン」を見にいった。
強くなった雨の村道を歩いて行くと、草原の中にヨーロッパで最も高い(7m)という巨大立石があった。雨も次第に強く降り、寒くて途中で引き返したくなりました。原っぱの中に巨石がデンと、立っているのを見ただけ・・・私共も酔狂な部類に入りそうです。
辺りに岩は他になく、人の手になるものと思えます。
ドイツにも巨人伝説が残っているそうですから、巨人が巨石を投げて、ここに突き刺さったのかもしれません。
4000年前の新石器時代から、巨石は雨の降る、この飾り気のない草原に立っていたと云う。
町の目印・シンボルともいえる砂岩の巨石・ゴレンシュタインはいくつかに分離し、倒れていたのを1951年に元のように固められたそうだ。 -
2010.10.24.Homburgホンブルク:かつての要塞都市Hohenburg ホーエンブルク
車はB423をホンブルクに向かい、8kmで市内に入った。
<Homburgホンブルク>
この町を造ったPfalz Zweibrueckenプファルツ・ツヴァイブリュッケン公国(公爵領)が、今年で1410年以来、600年の記念の年なのだとか。
大学もある町は人口44,000人と多い。
この町のHohenburgホーエンブルクは12世紀、ホンブルク伯の居城であった。
1449年に最後のホンブルク伯の死と共に、城と町はナッサウ・ザールブリュッケン伯のものとなる。
16世紀半ばに、ルネサンス風宮殿に改装されたが、その後のプファルツ継承戦争(1688~1697年)もあり、この地方の仏側拠点として、1679~92年に仏・太陽王ルイ14世により、城と町は強力な要塞化が行われた。 -
2010.10.24.Homburg:Festung-Hohenburgホーエンブルク要塞・城址1
Schlossbergシュロスベルクの丘に造られた要塞都市Festung Homburgは1679~97、1705~1714年の間、現役であった。
つまり、プファルツ継承戦争の終結で、1697年に取り壊された。1705年に再建されたが、スペイン継承戦争(1701~1714年)でそれぞれの同盟軍を率いて戦った神聖ローマ皇帝カール5世と仏・太陽王ルイ14世とが講和したことで、要塞は1714年に最終的に取り壊された。
尚、1981年以来、シュロスベルクの要塞跡は邪魔なものを取り除き、修復され、現在のような姿になった。要塞跡を見て回ったが、木々は茂り、要塞内へは入ることができない。
散策するには相応しい一帯で、何組かのドイツ人が秋の要塞跡を歩いていた。
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2010.10.25.Saarbruecken:Schloss宮殿1748年ごろ
ザールラント州の州都はホンブルクの4倍の人口176,000人とかなり大都市である。モーゼルの支流であるザール川沿いに町は発展し、この町の名前も“Saarbrueckenザール川に架かる橋”になっている。
<Saarbrueckenザールブリュッケン>
地図で見るようにフランスに隣接しているだけに、絶対王政のルイ時代、フランス革命からナポレオン時代と、時代を彩る英雄の軍隊に侵攻され、しばしばこの地方はその治世下に置かれています。
歴史的には、アルザス・ロレーヌのように地勢的な事から、最近200年間は独仏の争いの間に翻弄されたと云う感じがする。独仏の間で取りあいした地方はいずれも歴史的なものと、資源・経済的な事由が背景にありました。
中世の時代から、ライン地方とフランドル地域の中継地点として、交易路の要所であった。神聖ローマ皇帝OttoⅢオットー3世が999年、フランスのメッツ大司教に、この地を献呈している。近世では1815年より台頭してきたプロイセンの支配下に置かれ、北ドイツ連邦、ドイツ帝国(第二帝国)の一部となった。第一次大戦(1914~19年)ではドイツが負けた事で、15年の間を国際連盟の管理下(ヴェルサイユ条約)に置かれた。
1935年の住民投票の結果(95%がドイツを希望。)を踏まえ、ドイツ領に復帰している。
(尚、当時の日本は日英同盟によって、ドイツに宣戦を布告し、連合軍側に参加した。)ザールブリュッケン:二度の大戦で負けたが、仏よりドイツを選んだザール地方(現在のザールラント州) by jijidarumaさん市庁舎 (ザールブリュッケン) 建造物
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2010.10.25.Saarbrueckenザールブリュッケン:お茶・ラーツケラー リンゴのケーキ、チョコレートケーキ、紅茶とコーヒー
私にとっては未知の町でしたが、なんとなく白々しい町に思えた。かつてのバロック都市が新しすぎて、興味がわかないまま、歩いた思いがする。 -
2010.10.25. Saarlouisザールルイ :Altes Pfarrhaus Beaumarais古城ホテル“ボーマレの神父様の古い家”(ホテル アルテス・プファーハウス・ボーマレ)
ザール川に沿って走っていくと、10kmぐらいで右手に 世界遺産のVoelklingen Huetteフェルクリンゲン製鉄所が見えてきた。産業遺産ということもあるが、今日は前半で十分に満足した気分で、広い工場や鉄くずの山が見える製鉄所群を横に見て通過してしまった。
そこから更に22kmで今夜の宿泊地 Saarlouisザールルイに着いた。
(1泊)⑧ Altes Pfarrhaus Beaumarais :古城ホテル“ボーマレの神父様の古い家”ホテル アルテス・プファーハウス・ボーマレ ;
3星、35室。205号室(2階) Euro95 、
D- 66740 Saarlouis / Beaumarais 、Hauptstrasse 2 bis 4
Tel:+49 (0) 68 31 / 63 83 Fax:+49 (0) 68 31 / 6 28 98
この町は17世紀の半ばに、当時の支配者であった仏王ルイ14世が、ザール川沿いに要塞を築いたことから、この名前がある。
即ち、ザールルイとは“ザール川のルイ”ということである。
この町の近郊・高台にこの古城ホテル・ホテル アルテス・プファーハウス・ボーマレが立っている。(尚、道路に面したホテル、村落の一角に建った印象は、ホテルの説明にある“高台”・・・この言葉から想像したようなものではなかった。)
1762年、スイス系の貴族Salisザリス男爵夫人の夏の別荘として建てられた。
1857年、別棟が増築されたものの、夫人がボーマレ地区の他の城館に移り、この館はカトリックの教団に譲渡した。この事で館は“ボーマレの神父様の古い家”と呼ばれるようになった。
1984年、改装により、モダンなインテリアのホテル・レストランになった。
羽毛ぶとん、天井が高い部屋でした。ザールルイ:古城ホテル“ボーマレの神父様の古い家” by jijidarumaさんAltes Pfarrhaus Beaumarais ホテル
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2010.10.25. ザールルイ :古城ホテル“ボーマレの神父様の古い家”
(ホテル アルテス・プファーハウス・ボーマレ)
夕食;古城ホテル“ボーマレの神父様の古い家”で
19:00~22:00 Euro141(16,227円)
アールデコ調のResutaurant Trampertレストラン・トラムペルトは仏料理、70席。 -
10.25. ザールルイ :古城ホテル“ボーマレの神父様の古い家”
(ホテル アルテス・プファーハウス・ボーマレ)
アールデコ調のレストランも良いが、今夜はガラス張りの明るいWintergartenヴィンターガルテン(温室のようなレストラン)にした。
ワインは白2009年Grauer Burgunder Spaetlese ・Mosel-Nennig Weingut Karl Petgen Euro25.5。
シェフからのご挨拶:ベジタリアン風小品。
前菜:家内はミックスサラダ、私は蛙足のクリームスープに蛙足の天ぷら添え・・久しぶりの蛙だ。
スープ:トマトベースのスープ、ピーナッツのラビオリとモッツァレラチーズ入り。
食休み:洋ナシのシャーベット。
メイン:私が茹でたサーモン、サフラン泡立て入りホウレンソウ、リソット添え。
家内はミルフィーユ、極上のラタトゥイユRatatouille(仏プロヴァンス地方、ニースの野菜煮込み料理。 茄子、ピーマン、ズッキーニなどの野菜、ハープをオリーブ油で炒め、トマトを加えてワインで煮て作る。)、粉状のパルメザン。
デザート:ケーゼムースにオレンジ、スグリ、イチジク、キューイ等添え。
その後にチョコレートを頂く。 -
2010.10.26.Saarlouisザールルイ:堡塁の今日ドイツ通りにドイツの門があり、右にプロイセン時代を思い出させる王冠、左にプロイセン(ドイツ帝国)の紋章を見ることができる。
ルイ14世に対抗するように、左右にドイツを示しているのが面白い。
堡塁・砲郭が高さ10m、幅20m?、長さはずっと先まであるがよく分からない。
9日目となるザールルイの町はフランスの名高い太陽王ルイ 14世によって建設されたFestungstadt要塞都市である。町の名前を“ザール川のルイ”と称しているだけに、ブルボン王家の家紋のアヤメ(アイリス)の花が目立つ町だ。
本日は石造りの建造物、要塞などを見てまわる。人口38,000人。 -
2010.10.26.Saarlouisザールルイ:ヴォーバン要塞の星型
Festungstadt要塞都市:
1679年にロレーヌ地方がフランスに帰属し、ルイ14世はザール川右岸の防御を固めるために要塞を設けることを命じた。ルイ14世が1680~86年にかけて、当時の著名な要塞建築家ヴォーバンに造らせた星型(1866年の函館の五稜郭も似た星型)にかたどった要塞は有名である。後にプロイセンにより丸天井に作り変えられ、装甲防弾室が作られたと云う。
現在も要塞の一部が残り、市民の憩いの公園になっている。要塞の一部もいろいろなレストランが入って、利用されている。
1683年、ルイ14世は建設中の要塞都市を訪れ、紋章を授けた。紋章には王冠の下に朝日と、3つのアヤメ(アイリス)の花が描かれている。そして、この町のモットーであるDissipat Atque Fovet(太陽は雲と大地の熱を四散させる)がその上に書かれている。これほどの関係であったが、仏革命当時はルイの名をつけることを嫌った革命政府がSarre-Libreサール=リーブルと改名させたと云う事もあった。
1810年には元に戻っている。
また、かつて1697年にはロレーヌ地方の大部分がフランスの支配をのがれ再独立をした時も、この町と周辺はフランスの”飛び地領”として残った事もある、
あるいはナチス政権下の1936年~45年の間、Saarlauternザールラウテルンと、ドイツ語的に改名していたこともある。
ザールルイは第一次、第二次大戦後、いずれもフランスの治下から、ザール地方の諸都市同様に住民投票でドイツに帰属することになった。
こうした歴史経緯があるにもかかわらず、この町は“ザール川のルイ”であり、“ルイ14世の町”であった事を誇りにしているようだ。
町の地図を見ると、いまだに6角形をした市街地・要塞都市の歴史が良く分かる。 -
15km先に進む。
2010.10.26.Merzigメルツィッヒ:
人口30,000人。この町はトリアー選帝侯と仏・ロレーヌ公爵間の勢力争いの狭間にあったようである。1368年から凡そ400年の間、二つの勢力の共同管理下にあったと云う。
フランス革命後、フランスの治下に置かれたが、1815年、ナポレオン敗退後のウィーン会議で、プロイセン王国に譲渡され、1822年よりラインラント県になった。
旧市街の外に立っている「Museum Schloss Fellenbergフェレンベルク城博物館」は元来、水車小屋であったが、ある工場主が1858年にお城風の建物に改装したと云う。その後、老人ホームなどに利用されていたが、1980年に博物館となったものである。10年前に改装した事もあって、ここもきれいになっている。
前庭は石の彫刻が配置された庭があったが、誰もいないのも寂しい。
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2010.10.26.Saarburgザールブルク:ホテル側からのSaarburgザールブルク城の眺めと俯瞰
今までも何度かザールブルクは通過点として、走ったことがあるので、名前はよく知っていた。宿泊・観光をするのは今回が初めてとなる。
千年の歴史の旧市街は城址の左手の麓にあり、旧市街の中心には20m のWasserfall des Leukbachs ロイクバッハの滝と水車小屋が見られると観光案内にあった。どんな風なものか、イメージが湧かなかった。
そこに行ってみるとなるほど確かに滝と言えるが・・・20mは少し誇張のようにも思えた。水車小屋は博物館になっているようだが、どうやって降りて行くのだろう。ともあれ、ここが観光の中心である。
こぢんまりとした旧市街は狭い空間だが、整った美しさがある。 -
2010.10.26.Saarburgザールブルク:ザールブルク城の天守閣
<Saarburgザールブルク>
人口6,400人の町はローマやフランク王国時代から、植民地が見られたと云う。
964年、Graf Siegfried von Luxemburgジークフリード・ルクセンブルク伯により、初めてザールブルク城が山頂に築城される。かつての城は長さ137mと幅50mの長方形の規模を持っていたと云う。
その後、トリアー大司教の治下に置かれ、16世紀の略奪戦争時代には、城はさらに強力に要塞化された。1756年、城は廃墟になってしまったが、1860年、折からの歴史愛好の高まりと共に、最終的に町が城址を購入し、一部を改装した。
ホテルから最初に行ったのは、目玉のザールブルク城塞跡。車で一気に結構な高さまで上がっていけ、幸い駐車場も空いていた。そこからは徒歩で登る。
本丸跡にはレストランもある。 -
2010.10.26.Saarburgザールブルク:ザールブルク城址の俯瞰
また、十数mの塔があり、この上からの眺望は絶景である。
眼の下に我がホテルが良く見え、ザール川が蛇行しながら流れている。山の斜面にブドウ畑も見えて、息切れしながら塔に登った甲斐があった。 -
2010.10.26.Saarburgザールブルク:ザールブルク城からの眺めと中央に今夜のホテルが見える。
(1泊)⑨ Hotel Villa Keller ホテル ビラ ケラー ・ 古城ホテル
:3星、11室。4号室(2階) Euro95
D-54439 Saarburg 、Brueckenstrasse 1
Tel:+49 (0) 65 81- 92 91-0 、Fax :+49 (0) 65 81- 92 91-22
Saarザール川沿いに建っている歴史的な建物(Herrenhaus貴族・領主の館;1801年)を利用したホテルである。ブドウ畑に近接した建物にケラー一族が長年住んでいたが、戦後の1955年に家業の製革業は倒産してしまう。
1997年、ケラー一族は由緒ある建物様式をそのままに、館を改装し、1998年の夏、このホテルをオープンした。
ザールブルク鉄道駅まで徒歩2分。中世のザールブルク城址や魅力的な旧市街、近くにある数多くのワイン生産の村を訪れる楽しみがある。 -
2010.10.26.ザールブルクの葡萄畑
ドイツの人々は10月を“黄金の10月(Der goldene Oktober)”と呼ぶ。快晴が続く、ドイツの旅は文字通りの景観を楽しめる。 -
イチオシ
2010.10.26.ザールブルク:ホテル側からのザールブルク城の眺め
トリアーから25km離れた、ザール川沿いの小さな中世の町はザールブルク城址、巡礼教会St.Marienと、ホテル側から見て右から左に、そのパノラマの景色はすばらしいものだ。
観光船は今の時期は係留されていたが、夏場は気持ち良い眺めを楽しみながら、ザール川遊覧ができるのだろう。 -
2010.10.27フランス.Sierckfestungジールック要塞
この辺りのモーゼル川流域はSchengener Dreieckシェンゲンの三角地帯と言い、独・仏・ルクセンブルク三国の国境がある。
Perlペアルの町の川向こうはSchengenシェンゲンという人口1,500人の小さいワイン村で、ヨーロッパの国々のせめぎ合う国境の小さな村がヨーロッパの象徴的なものになった。
この村の名前を有名にしているのは【ヨーロッパの国家間において国境検査なしで国境を越えることを許可する協定】をここで結ばれたことによる。(シェンゲン協定)
今日はこのシェンゲンに向かうわけではなく、古城好きの私のお目当ては10km先にあるフランスの大要塞見学である。独仏国境を越えて5km行くと、Sierckシェルクの町に入る。
<Sierckシェルク(仏)のSierckfestungジールック大要塞>
Perlペアルの町からモーゼル川上流の仏側に至ると、この大要塞が見えてくる。かつてのロレーヌ公爵家の城である。晴れ間も出てきたので嬉しい。 -
2010.10.27フランス.Sierckfestungジールック要塞
城の歴史;
1036年、Sierckシェルク家により、かつてのローマ軍団の砦跡に戦略的な意味もあって、つまり、モーゼル川からライン川に至る通り道の抑えとして築城された。
1067年には城と町はロレーヌ公爵家の支配下に置かれ、お気に入りの城館となった。
11世紀の城は度々の戦乱で破壊されたが、再建を繰り返し、1475年にはKarl der Kuehneシャルル・ブルゴーニュ公の兵により攻撃され、シャルル公がナンシーの戦いで戦死するまでの2年の間、占領された。
(シャルル公は俗に勇猛ぶりと野心家であったことから突進公、勇胆公と呼ばれた。Herzogtum von Burgundブルゴーニュ公国は、フランスの東部からドイツ西部にかけて支配地を持った。ルイ11世の王政に対抗したフランス第一の強国。)
1643年、大コンデ・アンギャン公(Herzog von Enghien;この年、モーゼル地方を攻略し、ドイツ軍をライン川の対岸まで、押し返している。)により城は攻囲された。
この時にロレーヌ公爵家のお気に入りの城館は罹災し、現在のような壁だけが残った。
1661年、ロレーヌ公爵は時の太陽王ルイ14世に、城と町や支配地の30ヶ村を引き渡すことになった。
1713年、ユトレヒト平和条約により、要塞は取り壊された。
1866年、フランスの町であったシェルクが城址を購入した。 -
2010.10.27フランス.Sierckfestungジールック要塞と魔女の塔
城の歴史を紐解くと、世に知られた人物が出てきて、興味深いものだが、ここでも私共二人だけの見学で、窓口も暇そうにしている。
窓口でもらった案内に沿って、フランス国旗・ロレーヌ公爵家の旗の上がる城址を巡る。城壁、砲郭、堅牢な塔、トンネル、稜堡などはまだ良好の様子を残している。銃眼からのぞくと、眼下に魔女の塔も見える。
本丸から見るモーゼル川のゆったりした流れ、対岸の黄葉の光景、今は自然に戻ったような城址を歩き、かつての攻城戦を思い浮かべた。
今は小さな博物館で中世の常設展示を行い、又、城址が持つ中世の雰囲気を楽しめる様々なイベント(例えば中世祭り)が催されているようだ。 -
2010.10.27フランス.Sierckfestungジールック要塞とモーゼル川
Chaeteau des Ducs de Lorraineロレーヌ公爵領は843年にフランク王国が東(ドイツ)と西(仏)、ロータリンゲン(後のイタリアとロートリンゲン地方)と、三分割した際に"Reich des Lothar"ロータリンゲン王国として成立した事が始まりである。1766年まで神聖ローマ帝国の一部をなしていた。現在の仏北東部・ロートリンゲン(ロレーヌ)地方になる。
ちょうどモーゼル川が城の左手上流で大きく蛇行する地点にあり、モーゼルを見下ろす岩上にロレーヌの公爵の要塞が長々とした城壁を見せて立っている。
ここから数キロ上流で仏・ルクセンブルクの国境沿いを流れてくるAltbachアルトバッハ川が合流している。
1時間ちょっとのフランス滞在で、ドイツに戻る。二つの国を見ると、どうしてもフランスの家並みや道路が貧弱、かつ汚いなーといった印象が残る。 -
イチオシ
2010.10.27.Schloss Berg :Doppelburgドッペルブルクの名残を見せる(二重城・・二つの城郭)
"Erholung tut Leib und Seele wohl." (Deutsches Sprichwort)
休養(娯楽は)は心身ともに健康にする。(ドイツの格言)・・ホテルのメッセージ
今夜の宿泊先はPerl-Nennig/Moselペアル・ネニッヒ村にある古城ホテル・Victor's Residenz-Hotel Schloss Bergビクター レジデンツ ホテル シュロスベルクである。
ローマのモザイク画を見に行った道を走り、古城ホテルには14:40と早い到着になった。
このホテルのグルメレストランで食べる為、わざわざ行程を変え、日程を1日ずらして、今日にした。ホテルの裏手に広い駐車場があり、様々な国(ルクセンブルク、オランダ、フランス、ドイツ)の高級車が停まっていた。驚いたことにヘリコプターの離着地が設けられていた。ビクターズ レジデンツ ホテル シュロス ベルグ ホテル
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2010.10.27.Schloss Berg :古城ホテルとリゾートホテル
歓迎のオレンジカクテルを頂いてから、リフトに乗って、最上階の部屋に入った。
このシックな部屋には残念ながら、バルコニーやテラスがない。
下を見るとバルコニー・テラス付きはこの階から下の層(つまり下の方が高い部屋らしい)になるようだ。
チョコレートが脇机の上に、ホテルからの歓迎メッセージがベッドの上に置かれ、浴室用の浴衣もダブルに置いてある。そのうえに室内スリッパ、ガス抜きのお水、プール専用の浴衣が別に用意され、ホテルのサービスは万全だ。
1泊)⑩ Victor's Residenz-Hotel Schloss Berg ・ 古城ホテル
:ビクター レジデンツ ホテル シュロスベルク
5星、113室。807号室(地上2階) 、Euro198
ホテルチェーン:Victor's Residenz Hotels
D-66706 Perl-Nennig/Mosel 、Schlossstrsse 27-29
ドイツ・フランス・ルクセンブルクの国境(三国・三角地帯の中心地Lage im Herzen des Dreilaenderecks)に近く、地中海の別荘やルネサンスの宮殿といった雰囲気の古城ホテルはネニング村を見渡す丘の上に建てられている。
この高級古城ホテルは周囲をPerl-Nennigのブドウ畑に囲まれ、近くにサン・マルタンの洞窟もある。
主に三つの区域、①Villa・リゾートホテル、②Schloss Berg・グルメレストラン、③Landgasthaus ・レストランDie Scheune(納屋の意)に分かれている。
私共が宿泊した5つ星ホテル(2001年オープン)は地中海をイメージした①Villa・リゾートホテルと言った方が相応しく、地上2階、地下2階の合計4階の建物。丘の斜面を使って、中心に庭、左右にコの字型の建物を配したホテルである。
5星ホテルの本館にはルネサンス風庭園、室内プール、スチームルーム、トレーニング施設、サウナがあって、優雅なものである。
それと歩いて3分離れた所に②Schloss Berg ベルク城が立ち、世評にも高いグルメレストランVictor's Gourmet-Restaurant Schloss Bergがあり、近隣諸国から、グルメ客が訪れている。ベルク城に併設された公認のCasinoカジノがある。
レストランとしてはグルメレストラン以外にも、5星ホテルの本館・地下に地中海料理のレストランBacchus Restaurantと、別棟になっている、③ビアガーデン付きレストランDie Scheune(納屋の意)がある。ここは郷土料理を主に提供していて、ホテルの様々なレストランが様々な客の要望に応えている。
このDoppelburgドッペルブルク(二重城・・二つの城郭を持ち、相互に連結したもの) であったSchloss Bergベルク城の歴史はGanerbenburg共同相続人の城と呼ばれたそうで、城の所有権には関係者が多かったらしい。
12世紀に遡り、二つの城(上と下の城)がベルクの領主貴族により築城され、当時は周囲を水で囲まれた水城であったと云う。
1580年以降も、度々改築を施されている。
下の城は私有され、その後、上の城はルネサンス風な宮殿に改築された。
第二次大戦末期に城は罹災し、1950年、ザールラント州が上の城を買い取り、1958年から青年の家や林間学校として利用してきたと云う。
1990年、今日の形になり、現在の贅沢なホテル・レストラン・カジノがそれである。 -
2010.10.27.Schloss Berg :古城ホテルとグルメレストラン
予約時間の10分前にロビーに下りると、コンシェルジュが暗くなった道をレストランまで案内してくれた。
併設されたカジノのネオンが明るく、彼女に聞いてみると、業績はあまり良さそうな感じではなかったが・・・。駐車場のお客が全てホテルのお客とも思えず、それなりにカジノ目当てのお客もあるようだ。
<夕食;グルメレストランVictor's Gourmet-Restaurant Schloss Berg
ビクター レジデンツ ホテル シュロスベルクにて>
19:00~23:00 Euro394.3(45,259円)
ミシュラン3星、GaultMillau 19。全独ランク7位。
席数34、従業員22名、ワイン760種。
シェフ:Christian Bauクリスチャン バウ
メニューは4品Euro120、5品130、6品140、7品150、8品160とある。
(2005年以来、ミシュラン3星を獲得しているシュロスベルクには興味もあって訪れた。当時、34歳のバウは最も若い3星シェフでした)
レストランには一番乗りのようだ。その後に来られた中年のカップルと共に、レストラン前のソファーに座って、アペリティーフ(私はお薦めの自家製ゼクト、家内はいつものドライシェリー)を頼む。定刻19時に席に案内される。席は一番奥のテーブルの一つ手前右手である。
2008年に訪れたアルペン街道沿いのAschauアッシャウの町にある、長くドイツ料理界に君臨し、20年以上を3星シェフとして活躍してきたハインツ・ヴィンクラーのレストラン80席に比べるとその半分の席しかない。
現在、彼もついに2星になってしまったが。 -
2010.10.27.Schloss Berg :古城ホテルとグルメレストラン
通常のメニューとは別に最近、シェフ クリスチャン バウが推進している、
≪Carte Blancheカルト・ブランシュ(白紙・シェフに自由裁量権を与えるという意味)つまり Entdeckungsreise ohne Karteお品書き無しの探検旅行≫という、レストランお勧めを選択した。日本的には“お任せ”料理でしょうか。
<Voyage Culinaire ボヤージュ キュリネール>
と、食後頂いたメニューにはこう書いてあります。フランス語でボヤージュは「航海や旅」のこと、キュリネールは「料理」のことだそうですから、直訳すると「料理の旅」ということになるのでしょう。
上述のEntdeckungsreise ohne Karteお品書き無しの探検旅行に通ずるものがあります。
それぞれの品はフランス語、ドイツ語、日本語、イタリア語、スペイン語の単語が出てくるメニューでした。
飲み物:アペリティーフ(私はスタッフお勧めの自家製ゼクト、家内はドライシェリーEuro9.5+6)、タウナス産の水Euro8.8、
そしてワインはDr.Heger Spaetburgunder trocken 3Stein ;Ihringer Winklerberg 2001年の赤を一本(Weingut Dr.Herger:Ihringen / Kaiserstuhl /Baden・バーデンワインの名醸地)Euro90。
シェフのご挨拶(7品):
・パルマハムムースをつけたロールビスケット、塩ローストアーモンド。
・カレー味のマカダミア・ナッツ。(尚、1品目と一緒に出た)
・ジントニック入り牛肉にウズラの卵とキャビアのせ。
・海老クラッカーにメカジキ、フェンネルと緑のリンゴのせ。
・サーモン、アボガド、柚子、コリアンダーのコルネット。
・カラメル状(プラリネ)の、ナッツ入りフォアグラのアイスクリーム、
カフェとサクランボ。
・ホウレンソウと半熟有機卵、ビネガーとハブーコ(イベリアハム)・生ハムのムース(発泡)。 -
2010.10.27.Schloss Berg :古城ホテルとグルメレストラン
前菜:ウミザリガニ
・キヌア(栄養価の高い穀物)、緑のリンゴ、ヴィネグレットのソース。
本マグロとハマチ(ブリ)
・ピクルス、大豆・ムシパン、日本の調味料で味付け。
赤ガンベローニ(大きめのエビ)
・鉄板焼き(アラプランチャ)、カリフラワー、松葉だき、アオサ(海藻)入りコシヒカリのスープ(おもゆ)添え。
メイン(魚):大西洋産の鰈、海ザリガニ、バーベナ(ハーブ)、緑のアスパラ添え。
メイン(肉):和牛、ビーツ、キクイモ、トリュフ添え。
デザート:洋ナシのタルト、カラメル、ブリオッシュ(フランスの菓子パン)。
世界のトップ・パティシエたちに愛されるヴァローナのチョコレートとクルミ;
生チョコ、クルミのクリーム、アイボリー?と抹茶のアイスクリーム。
コーヒー:チョコレートなど共に。
以上、私が6品Euro140、家内が4品Euro120でした。
頂いたCarte Blancheカルト・ブランシュのメニューには私共の名前と、シェフのサイン入り、今日の日付入りのものでした。
この写真は翌日のものですが、次回チャンスがあれば、こちらの古城ホテルに泊まってみたいものだ。 -
2010.10.28.Trier:Porta Nigraポルタ・ニグラ(黒い門)
この朝の最初の決断は予定に入れていたLuxemburgルクセンブルクに行くのを諦めた事だ。ここからルクセンブルクの町は20kmと近いのだが、むしろTrierトリアーの町を久しぶりに見てみたい。
モーゼル川に平行したB419国道沿いを走る。あたりは美しいブドウ畑の景観が続く。ザール川がモーゼル川に合流している地点の町Konzコンツを経由し、B51でTrierトリアーの市内に入った。
ローマが造ったドイツ最古の都市にはドイツ最古を謳うものが多い。“第二のローマ”として、西方世界の首都と称されたトリアーのシンボルPorta Nigraポルタ・ニグラ(黒い門) by jijidarumaさんポルタ ニグラ(黒い門) 建造物
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2010.10.28.Trier:Porta Nigraポルタ・ニグラ(黒い門)
メインの歩行者天国Fleischstrasse肉通りは人通りも多い。Kornmarktコルンマルクト(穀物広場)を過ぎて、更にHauptmarktハウプトマルクト(中央広場)からSimeonstrasseジーメオン通りに入ると、ポルタ・ニグラに一直線だ。
2世紀後半の城門であるPorta Nigraポルタ・ニグラ(黒い門)は要塞のような、巨大な砂岩の建物で、黒く煤けた様子は以前と変わらない。
高さ30m、幅36m、144の丸窓が見られる。砂岩は鉄のカスガイで繋ぎとめている。トリアーの象徴であり、目印でもある。
<世界遺産トリアー>
この町は元々、ケルト人の居住地があった。紀元前14年にローマ皇帝アウグストゥスの命により、ローマ軍団の根拠地が造られた。この時からでも2000年の歴史を持ち、旧市街を中心にローマの遺跡が点在する。
ライン川を自然の防衛ラインとしたローマはこの川に沿って軍団基地を設け、当時のゲルマン人に対した。現在、ドイツの大都市になったボン、ケルンなどはローマの軍団・植民都市の名残である。ラインと水運でつながるモーゼル川と当時のガリア主要都市との幹線道路が交差したトリアーは軍団を統括する重要な拠点となり、アルプス以北最大の、“第二のローマ”として、西方世界の首都と称された。
その当時、8万人の人口を誇った都市に発展したと云う。
ドイツに最初にカトリックの司教座(314年・皇帝コンスタンティヌス時代)が置かれたのもトリアーであり、8世紀にはカール大帝により、大司教座となる。
後世には広大な支配地と、強大な権力を持つ領主・司教(トリアー選帝侯)となり、この地方を治めた。 -
2010.10.28.Schloss Foehren古城ホテル・シュロスフェーレン
トリアー見物を終え、カイザー・ヴィルヘルム橋を渡って、向こう岸を走るB53でSchweichシュバイヒ(14km)に向かう。その先14kmでFoehrenフェーレンの村に入った。 -
2010.10.28.Schloss Foehren古城ホテル・シュロスフェーレンの好ましい部屋
(2泊)⑪⑫ Das Forsthaus Schloss Foehren :古城ホテル・シュロスフェーレン
4部屋、及びDie Ferienwohnung2部屋
Hirschzimmer(鹿の間・2階)(朝食のみ)。現金払い Euro119X2=238
D-54343 Foehren (Trier) 、Hofstrasse 27
Tel.: +49 (0) 6502 9384040 、Fax.: +49 (0) 6502 994062
Meulenwaldミューレンの森の中心にある、この古城ホテル(かつての狩猟の館)はTrierトリアーの町から21km東、車で15分のところにある。
その森に2400エーカーの狩猟場を持ち、秋の季節には野生のイノシシ、鹿を獲るのだ。
フェーレンは1445年以来600年近く、神聖ローマ帝国・Kesselstattケッセルシュタット伯爵家の所有であった。その広大な領地はトリアー一帯を占め、他に例のないものであったと云う。
15~17世紀の間は水城であったが、伯爵夫人の話では、その後伯爵夫人の祖母の時代に濠の澱みで蚊などが発生し、また臭いを生じたことから、濠を埋めたててしまった。
写真のセンスのある居間や寝室のありようは小粋な、明るい伯爵夫人自身の手によるものと思われた。 -
2010.10.28.Schloss Foehren古城ホテル・シュロスフェーレン:歓迎の御茶を頂く
現在の城は14世紀に築城され、1663年にバロック様式の宮殿に改装された姿をそのまま残したものである。そして、城の裏手に濠の名残である幾つかの池・沼が残っている。そこは城の周辺を散策する道があった。
見るべきものは周辺のフェーレン渓谷や森に囲まれた古城の外構えである。
古城ホテルに最初に着いた時に、歓迎の意味でお茶をサービスされたが、そこでは立派な銀器がでてきた。 -
2010.10.28.Schloss Foehren古城ホテル・シュロスフェーレン:朝食
1階のサロンが朝食の間で、パン、チーズ、ハム、卵、蜂蜜やジャム、コーヒー、紅茶などが朝食の場に並び、そして実に美味しいヨーグルト・プディンを味わった。バニラプリンを混ぜ、蜂蜜をかけ、フルーツをのせたもので、自家製であろう、その味に驚かされた。
生花が飾れたテーブルでは、蝋燭立に蝋燭を灯し、ゆったりとした朝食は日本の生活にはない、実に贅沢なものだ。
驚いたと言えば、森の泉から汲んだと言われた水のまろやかな美味にも吃驚した。ドイツの水は硬水が多いのでなおさら驚いたのだ。 -
2010.10.28.Schloss Foehren古城ホテル・シュロスフェーレン:宮殿西側の眺め
連綿とした歴史を感じさせる宮殿は今も伯爵家が住み暮らしている。当代にあたる50代のGrafグラーフ伯爵とGraefinグレーフィン伯爵夫人・Alexandraアレクサンドラと、その両親、子供2人(長男は25歳とか言っていた。)が一緒に2階以上に住み、1階には事務所などがある。
傍の建物には義妹が住み、妹夫婦はトリアーに住んでいるとのことだった。
城内には結婚の届け出を行う場所もあって、その時は役所の方が出張ってくるらしい。二日目の夜は結婚パーティが私共の部屋の真向かいにある別棟で大勢の出席者が参集し、ダンスも行われ、盛大に祝われていた。
小さなホテル業と、祝宴・パーティ、研修、会議、コンサート、展示会も、この城の様々な建物を利用して行われているようであるが、それとは別に、城の周囲を囲む、ミューレンの森の恵み、広大な敷地から産するリンゴジュース、ジャム、ママレード、蜂蜜、イノシシ、シカ、ノロシカのソーセージなどを作り、販売もしている。
12月にはクリスマスの市も立つのだと云う。 -
2010.10.28.Schloss Foehren古城ホテル・シュロスフェーレン:宮殿前でアレクサンドラ伯爵夫人と共に
伯爵夫人は家内よりも15cmほど背は高いが、「私の姉妹は皆、背が高いので、貴女と一緒だと、私も背が高くて嬉しい!」と笑顔で言われた。
日本でも旧皇族、宮家、華族などの係累であることが、世上の話題に出ることもあるが、今のドイツでもこの家のように古い家系を誇る一族も多くみられ、Graefin伯爵夫人であるAlexandraアレクサンドラはReichsgraefin von Kesselstatt 即ち、神聖ローマ帝国・Kesselstattケッセルシュタット伯爵夫人の肩書とか、Graefin von Kesselstattケッセルシュタット伯爵夫人の肩書を名刺にしっかりと表記している。 -
2010.10.28.Schloss Foehren古城ホテル・シュロスフェーレン:宮殿、城門、俯瞰
<FoehrenフェーレンとSchloss Foehrenフェーレン宮殿の歴史>
ミューレンの森近くにフェーレンという人口2,700人の小村がある。
1445年以来現在に至るまで、神聖ローマ帝国・Kesselstattケッセルシュタット伯爵家がこの小村に居を構えている。
現在はトリアー・ザールブルク行政区に属し、ローマワイン街道に沿ったSchweichシュバイヒの町と行政共同体を作っている。
元々、ケルト人・ローマ人の遺物が発掘されて、彼らの居住地であった事が知られている。
763年、フランク王ピピン(カロリング王朝)によって、この地域と建物はKloster Pruemプリューム大修道院に寄進されている。
最初の歴史書(1203年トリアー大司教Johannヨハンの書)に"Furna"という呼称で登場する。この呼称はローマ時代のoven ("furnace")かまど・溶鉱炉からきていると云う。
1340年、Kuno von Kuntzichクンチッヒ家のクノの命により、防御能力を持った城に改築され、その後、1406年には城や地域の半分が Friedrich von Schleidenシュライデン家のフリードリヒ (Pruem大修道院長)からAlf von Bassenheimバッセンハイム家のアルフに帰属した。半分はKatharina von Kuntzichクンチッヒ家のカタリーナがArnold von Bassenheimバッセンハイム家のアーノルトとの婚姻の持参品になった。
1445年にAlf and Cone von Bassenheimバッセンハイム家のアルフとコーン 兄弟により、Friedrich von Kesselstattケッセルシュタット家のフリードリヒに譲渡された。
以来、その所有は継続されている。
1663年、結婚したJohann Eberhard von Kesselstattケッセルシュタット家のヨハン・エベルハルトとトリアー選帝侯の長女によって、城は現在に残るバロック様式の宮殿に改築された。ケッセルシュタット伯の城はかつて15~17世紀の間は水城であったと云う。
フェーレン宮殿はモーゼル川から遠く離れたFoehrenbachtalフェーレンバッハ渓谷沿いのミューレンの森の中にある。 -
2010.10.28.Schloss Foehren古城ホテル・シュロスフェーレン:宮殿の裏手から撮ったもの
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2010.10.29.モーゼル川巡り:秋の葡萄畑
シュロスフェーレンを10:05に出発した。
今日はモーゼル川に沿って走る。モーゼル川中流90km先のZellツェルの町までゆっくりとしたドライブになる。
モーゼルの銘酒の産地の一つはPiesportピースポートを中心とする地域で、Kluesselrathクリュッセルラート、Trittenheimトリッテンハイム、Leiwenライベン、Neumagen-Dhronノイマーゲン・ドロンの村々がある。
最初にブドウ畑の写真を撮ったのはKluesselrather Brudelschaftクリュッセルラーター・ブルデルシャフトという銘柄の大きな看板が、丘の広大な斜面に見えた所だ。
モーゼル川流域にはライン流域ほど古城を連続してみる事がない。川もラインとは異なりゆっくり、ゆったりとした流れで女性的だ。ワイン産地巡りがこの街道の一番の楽しみと言えようか。
名醸地として知られたPiesportピースポートの手前、B53の道路の両脇は広大な平地が続く。それらはブドウ畑がずっと広がっていて、向こう岸の斜面も高々と開拓されたブドウ畑だ。モーゼル下りにくると、いつもここで休憩し、写真を撮るのだ。 -
2010.10.29.モーゼル川巡り:Piesportピースポート秋の葡萄畑
この辺りも大きくモーゼル川が蛇行して流れていて、ピースポートは蛇行の頭にあたる。人口2,000人。St.Michael聖ミカエル教会のバロック様式の内装、フレスコ画の天井が見どころだと云われているが、この村は何故かいつも通過してしまう。
少し先のMinheimミンハイムの村に渡る橋から見る風景には感嘆する。私共が車を寄せて写真を撮っていたら、ドイツ人家族も同じような事していた。 -
2010.10.29.モーゼル川巡り・Bernkastel-Kusベルンカステル・クース:Burg Landhutランズフート城
もう一つの名醸地はBernkastel-Kusベルンカステル・クースの地区である。
モーゼル中流の中心地にあたる、この町はモーゼル川流域で最も美しい町と言っても良く、私共もたいへん好んだ町です。
13世紀のBurg Landhutランズフート城址は逆光の中、大変絵になる様子で町の上にある。その昔、あの城址まで登った事があるが、実に美しい眺めだった。
この城の最初(993年)の所有者はドイツ皇妃が妹であった、ルクセンブルク家のAdalberoアダルベロでした。1238年、Salm (Mosel) ザルム伯の手に渡り、その後はトリアーの大司教Heinrich von Vinstingenヴィンスティンゲン家のハインリッヒに売り渡された。
ハインリッヒの後任のトリアー選帝侯・大司教Boemund von Warsbergバルスベルク家のボーエムント2世(在位1354-1362)はベルンカステルの地を好み、ランツフート城の支柱を強化し、美しい部屋を設け、強固な石組み、堂々とした塔、堅い守りとなる胸壁の造作に大金を費やしたと云う。
その後、1692年に火災で焼失するまで、トリアー選帝侯・大司教の夏の宮殿でした。
<伝説;Bernkasteler Doctorベルンカステラー・ドクトール>
トリアー選帝侯・大司教ボーエムント2世(在位 1354-1362)がBernkastel-Kuesベルンカステル・クースのBurg Landhutランズフート城に滞在中、深刻な病気に罹り、この病には効く薬もなく、手の施しようがなかった時、モーゼル川沿いの、この町のワイン醸造農家が謁見を許されて、病気快癒を願って、自分の最高の畑で取れたブドウで作った小さな樽入りのワインを献呈したそうです。
ワインを飲んだ、その後数日で司教は病も癒え、「これぞ本物のドクトール(ドクター)じゃ」と云ったということです。
この時から、この小さなブドウ畑は「ドクトール(ドクター)」と呼ばれるようになったそうだ。ランツフート城 城・宮殿
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2010.10.29.モーゼル川巡り・Bernkastel-Kusベルンカステル・クース:マルクト広場
Bernkastel-Kusベルンカステル・クース(人口6,500人)
右岸側のベルンカステルはマルクト広場が最も美しい。いくらでも写真の被写体となる木組み建築の建物に事欠かない。まずそのマルクト広場に行く。
広場の中でも目立った、大きな建物はAdler‐Apothekeアドラー薬局で、その他の市民の建物は16~17世紀の頃の建築だと云う。いずれも美しく、よく残ったものだ。市庁舎 (ベルンカステル クース) 建造物
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2010.10.29.モーゼル川巡り・Bernkastel-Kusベルンカステル・クース:Schlossberg-Terrasenシュロスベルク‐テラスにて秋の名物であるFederweisserフェーダーヴァイサー(発酵を始めたばかりのブドウ果汁)を飲む
ランズフート城址への道を、市庁舎の横道から上がると右手に、Spitzhaeuschenシュピッツハゥシェンの代表的建物(前述)がある。小さな切妻の3階建てのもので、1416年創建のワイン酒場だ。クリスマス時期には美しく飾られて、最も人気の高い被写体になるそうである。
この先右手にテラスレストランがあった。中に入ると、テラスからモーゼルに架かる橋、対岸のKusクースのSt.Nikolaus聖ニクラウス教会(1401~1464年)、ホテル、ブドウ畑が見え、モーゼルの眺めが良い。寒いがここにした。 -
2010.10.29.モーゼル川巡り・Bernkastel-Kusベルンカステル・クース:Schlossberg-Terrasenシュロスベルク‐テラスにてZwiebelkuchenツヴィーベルクーヘン(タマネギケーキ)を食べる。
Bernkastel-Kues 、Karlstrasse Euro10(1,277円)
店の看板に秋の名物であるFederweisserフェーダーヴァイサー(発酵を始めたばかりのブドウ果汁)と呼ばれる新ワインと、Zwiebelkuchenツヴィーベルクーヘン(タマネギケーキ)が書いてあった。
早速、これを注文した。グラスいっぱいに注がれたフェーダーヴァイサーや、ツヴィーベルクーヘンはRietburg-Sesselbahnの駅傍で飲み食いしたものより、こちらの方が正統のようだった。
気の良い親父さんはプラタナスの黄葉した葉の形をした紙に、HPアドレスを書いて、日本に帰ったら見てくれと言いながら、秋の防寒対策にストーブを焚いてくれた。 -
2010.10.29.モーゼル川巡り・Traben-Trarbachトラーベン・トラールバッハ:門・Bruecken-Schenkeブリュッケン・シェンケ橋上レストラン
10km 走ったUerzigユルツィックもワイン村で、斜面にはUerziger Wuerzgartenユルツィッカー・ヴュルツガルテンと言う銘柄の看板が、ここの斜面でも見える。
B53に沿って大きな蛇行を二つ曲がっていくと、13kmでTraben-Trarbachトラーベン・トラールバッハの温泉療養地(人口6,000人)に着く。
<Traben-Trarbachトラーベン・トラールバッハ>
この町は19世紀に大火事で焼失している。トラーベン側にはFestungsruine Montroyalモントロイヤル要塞跡(1687年フランス様式の要塞。仏のルイ14世がプファルツ継承戦争の時に築いた。)や、ワインの産地だけにワインのお店が多い。
橋と町を守っていたメルヘンチックな町の門が良い。トラールバッハ側に橋を渡り切る寸前に立っているが、今は上がBruecken-Schenkeブリュッケン・シェンケ橋上レストランになっている。 -
2010.10.29.モーゼル川巡り・Traben-Trarbachトラーベン・トラールバッハ:モーゼル川畔
Grevenburgグレヴェンブルク城址がトラールバッハ側の町の上に残り、モントロイヤル要塞跡に対峙した形になっている。
橋をトラーベン側に渡り、市街を歩き、モーゼル川に停泊中の観光船傍まで行ってみた。川沿いにあるプロムナードは散策の人も多い。観光船傍の椅子に腰かけて、暫しの間、絵になる景色を眺めた。 -
2010.10.29.モーゼル川巡り・Zellツェル:Schloss Zell古城ホテル・ツェル城
トラーベン・トラールバッハからはツェルまでB53で19kmの距離である。
<Zellツェル>
Zeller Landツェル地方もワインの生産地域で、その中心がZellツェルである。ザール川のCloefクレーフと同じようなモーゼル川の蛇行が、良く見られる場所の一つで、対岸の半島を含め、幾つかの集落がツェルの町を形作っている。
人口4,500人。
Schloss Zell古城ホテル・ツェル城は双つの塔を持った、後期ゴシック様式の建物で、1307~1543年の間、代々のトリアー選帝侯の居城として建てられた。
1521年マキシミリアン皇帝が、1847年にはプロイセン王ヴィルヘルム4世が所有したと云う。城は現在、古城ホテルになっている。
このホテルにはかつて2度泊まった事があった。モーゼルを訪れる時はいつも宿泊の対象になるが、今回はホテルでお茶をしただけ。
以前、ホテルのオーナーの住居だった所は、私共がお茶をしたStubeレストランに変わり、ホテルの中はどこも素晴しい雰囲気を持った古城ホテルになっている。
かつて家族で訪れた時、本棟に部屋がなくて、先代のオーナーにプライベートルームを貸して頂いた事があった。もう古い話だが・・・。 -
2010.10.29.モーゼル川巡り・ツェル:Schloss Zell古城ホテル・ツェル城
お茶;Schlosshotel Zellツェル城にて
D-56856 Zell / Mosel 、Schlossstrasse 8a
Tel: +49 (0) 6542 / 98860 、Fax : +49 (0) 6542 / 988690
15:30~16:00 Euro5(639円)
若いご夫婦が経営を任されて、ちょうど打ち合わせ中であったが、お茶をしたいとお願いすると、快く応じてくれた。私共二人だけのお茶で、恐縮したものです。
紅茶とコーヒーに自家製のプラリネ2個が付いた。
*プラリネ (ドイツ語・Praline) は焙煎したナッツ類(主にヘーゼルナッツやアーモンド)に加熱した砂糖を和えてカラメル化(カラメリゼ)したものや、溶かしたチョコレートに混ぜたものをいう。 -
2010.10.29.モーゼル川巡り・ツェル:ツェルの黒猫
古城ホテル・ツェル城の裏山のブドウ畑は健在で、“Zeller Schwarze Katzツェルの黒猫“の看板が、急斜面に作られた畑に立っているのが見える。
<伝説;“Zeller Schwarze Katzツェルの黒猫“ >
“Zeller Schwarze Katzツェルの黒猫“の看板が斜面のブドウ畑に立っているのが見える。
ツェルと言えば、『その昔、ワイン農家の飼い猫の黒猫がワイン樽の上に、次々と飛び乗り、買取り交渉に来たワイン商人を、背を丸めて威嚇し、ワインの樽を守ろうとした。後でこのワインを試飲してみると、全てが極上のワインであったとか』・・と云う故事に基づいて、当地のワインは黒猫印のラベルを貼り、世に知られたワイン産地なったそうだ。 -
2010.10.30.Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン:二つの城址
シュロスフェーレンを10:15に出発した。今日はこの旅では長い距離を走る。
”Deutsche Edelsteinstrasseドイツ宝石街道”を行くのだが、さっきも伯爵夫人に「大きな宝石を買ってもらいなさい!」と、家内は声を掛けられていた。
<イーダー・オーバーシュタイン>
この町には過去に3度訪れた。その一つは1984年3月4日(日)~5日(月)にモーゼルからイーダー・オーバーシュタインに1泊の小旅行に出かけた。Gondorf、Alken、Cochem、Marienburg僧院跡に登り、Neumagen、Bernkastel、そしてZellに戻った。古城ホテルSchloss Zellツェル城に泊り、翌日にHunsrueckフンスリュック山地を横切り、イーダー・オーバーシュタインを訪れたのだ。
小学生であった次女が石好きで、ナーエ地方の豊かな天然の宝を見る為に出かけた。まだ残雪の残った二つの城址(写真の左右に見える)に登り、シュタインカウレンベルク宝石鉱山(お休み中だったが)や、ドイツ宝石博物館も訪ねました。
かつて町の近郊から“めのう鉱山”が発見され、宝石の町として発展したもので、周辺の合併した町を含めた人口は31,000人と中規模の町です。
旧市街は土曜日とあって、比較的人通りもあり、街中から見上げた城址と教会の姿には感嘆する美しさがあった。マルクト広場には少年の像が宝石を掲げていた。この横にMuseum Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン博物館があった。宝石関係の展示にイーダー・オーバーシュタイン博物館(現在の名前はドイツ鉱物博物館)もある by jijidarumaさんドイツ宝石博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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2010.10.30.Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン:イーダー・オーバーシュタイン博物館
二つの城址;
Obersteinオーバーシュタインの旧市街の上、岩山には二つの城址が見える。
右手にBurg Bosselsteinブルク ボッセルシュタイン城(1150年頃に築城)、左にSchloss Obersteinシュロス オーバーシュタイン(1320年築城)である。
ボッセルシュタイン城は1600年までシュタインの領主の居城であったが、その後、戦争で破壊されたまま城壁などが残っている。
オーバーシュタイン城は15世紀にはGraf Wyrich IV.ビリッヒ4世伯爵(1415?1501年)により、大きく、強固なものに変えられている。1624年Grafen von Daun-Obersteinダウン・オーバーシュタイン伯爵家の居城として、1682年最後の伯爵まで続いた。
プファルツ継承戦争後、占領軍であるフランス軍はこの城を強固に要塞化した。1697年、ダウン・オーバーシュタイン伯爵家の係累が所有したが、1792年からはフランス革命軍の治下に置かれた。1804年になると競売で城はリッター家の所有となっている。
1815年、オーバーシュタインは再びドイツに戻り、1818年からはビルケンフェルト侯爵家(Birkenfeld zu Oldenburg)のものとなったものの、1855年の大火災で廃墟となった。
建物の一部は再建されて、コンサート、結婚式、家族の催しなどに利用されている。
5月には中世祭り、8月の劇場、クリスマス市などもあるようだ。
その下の岩壁に凡そ1000年ごろ掘られた“Burg im Loch窪みの城”があったと云う。現在、地上60mの同じ場所にFelsenkircheフェルゼン(岩壁)教会がある。
ダウン・オーバーシュタイン家のビリッヒ4世伯爵により、1482~84年に建てられた。又、この教会にはなんでも“兄弟殺し”を悔いて、建立されたものだと云う伝説*が残る。
町のシンボルでもあり、ボッセルシュタイン城址の真下にある、白壁が目立つ教会にはマルクト広場から230段の階段を上っていく。
<ドイツ宝石博物館>
研磨作業所がある博物館にはすごい展示品ばかりで、以前に来た時よりもずっと出展物が多いように思えた。メノウだけでなく、水晶やアメジスト、曇水晶、方解石など、名も分からない宝石が、原石や加工品として所狭しと並んでいた。
王家の王冠、有名人を飾った見事な宝石も・・・宝石好きには確かに楽しい所だ。入館料Euro9.4。 -
2010.10.30.Bad Muenster:Der Rotenfelsローテンフェルス断崖(赤い壁)の遠望
Nahelandナーエ地方は穏やかな気候にも恵まれたナーエワインの産地、健康の為の保養地があり、しかも、宝石、銅などの地下資源に恵まれた地域です。ブドウ畑の広がる景観や、ローテンフェルス断崖に代表される、険しい岩壁も見られる地域です。
ローテンフェルス(海抜327m)はBad Muenster am Steinバート・ミュンスター・アム・シュタインと Norheimノルハイムの間に壁のように立ちはだかっている。
赤みを帯びた断崖はアルプス以北、スカンジナビア半島までの間で、最大の絶壁と云われ、それは高さ202m、長さは1,200mにもなる。
2億6千万年前に火山の噴火によるマグマによってできたもので、一帯は自然保護地域になっている。ロッククライミング愛好者や登山者の格好の場となっているようだ。
赤い断崖上にはぶどう畑もあると云う。 -
2010.10.30.Bad Muensterバート・ミュンスターのEbernburgエベルンブルク城:前景
保養地Bad Muenster am Steinバート・ミュンスター・アム・シュタインに至ると、漸く今日の2番手の目的地であるEbernburgエベルンブルク城(23km)が見えてきた。
Ebernburgエベルンブルク城に登ると、意外に広い駐車場が城の手前の丘にあった。今日の最終地Bad Kreuznachバート・クロイツナッハの町からは南5kmにあたる。エベルンブルク城は周囲から際立って、高々としたもので、難攻不落の城のように見える。
Ebernburgエベルンブルク城 ; ジッキンゲン家の居城。
D-55583 Bad Muenster am Stein-Ebernburg 、Auf der Burg
Tel: +49 (0) 6708 - 617 66 11 、Fax:+49 (0) 6708 - 617 66 18
ここは古城ホテルでもある。正式の名前はプロテスタントの家族の為の休暇と育成の施設エベルンブルクEvangelische Familienferien- und Bildungsstaette Ebernburgであった。
一度、ホテルの利用を問い合わせたのだが、OKの返事が遅れてきたため、既に古城ホテル・カウツェンブルク(梟の城)を予約済みになっていました。
残念ながら、次回にしたい旨、メールを送っていた。結果論でいえば、エベルンブルク城の方が魅力的であった。
この日は何かの団体が城の中庭で、集会を開いていた。また、カヌーの櫂をもった老若男女が裏手のテラスで櫂を交差して立っていた。カヌー団体のメンバーが結婚し、結婚披露宴を古城で催したらしく、新郎新婦は櫂の交差した下をくぐって歩くのが、慣例のようだ。結婚を皆で祝っていた様子を見るのは良いものだ。 -
2010.10.30.Bad Muensterバート・ミュンスターのEbernburgエベルンブルク城とナーエ川遠望
城のテラスからは周辺の眺望は実に素晴しいもので、ブドウ畑、ローテンフェルスの絶景、そしてナーエ川が紅葉の中に見え隠れしている。
城の歴史;
1338年、Raugraf Ruprecht と Graf Johann II von Sponheim-Kreuznach が築城した。
1448年、エベルンブルク領主たちは城を抵当に差し入れた。その後、ドイツ南西部一帯に勢力を持った騎士Sickingen ジッキンゲンの居城になる。この家系はヴォルムスやコンスタンチンの大司教・領主を出している。
1448 ~1771年の323年間、Sickingen ジッキンゲン家の支配が続いた。
1482年、Schweickhardt von Sickingen と彼の息子 Franzフランツにより、城は増築され、大砲などの兵器で強化された。
1523年、城は火災で焼失し、1542年、再建される。
1697年、再び取り壊される。1849年、再建。
1750年及び1771年に、城はプファルツ選帝侯に譲渡された。
20世紀になって、個人所有となり、部分的に改築されている。 -
2010.10.30.バート・ミュンスターのEbernburgエベルンブルク城:
お茶;Burgschaenkeブルクシェンケにて
14:20~14:45 Euro11(1,405円)
訪れたお客でいっぱいのレストランにうまく席が取れた。やはり田舎だけに、日本人(東洋人)が珍しいのか、ジロジロと見られた。
Apfelstreuselアプフェルシュトロイゼル(=Apfelkuchenアップルクーヘン)リンゴケーキと、紅茶にコーヒーをお願いした。
甘い、大きなケーキは昼食抜きの私共にはちょうど良い量でした。 -
2010.10.30.バート・ミュンスターのEbernburgエベルンブルク城:遠望
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2010.10.30.Bad Kreuznachバート・クロイツナッハ:Nahebrueckeナーエ橋(めがね橋)
B48で最終地のバート・クロイツナッハに向かう。距離は5kmと街中に入るのもアッと云う感じだ。
歩いて市内観光に出かけた。人口43,000人のバート・クロイツナッハはナーエ地方の中心地であり、古代ローマ人が築いた都でもあった。
町並みに中世の面影を残すこの町は、ナーエワインの集積地であり、温泉保養地としても広く知られている。
中でもNahebrueckeナーエ橋(めがね橋)、パウル教会、全長1000mのザリーネンタール(製塩所)、そしてFaust-Hausファウストの家、Kurhausクアハウス・保養センターなどが見所とされている。
ナーエ川の作った中州・Insel半島にはナーエ橋(めがね橋)が架かり、立派なパウル教会が目立つ。ここはやはり町一番の景観であった。ナーエ川沿いを歩くPanoramawegパノラマの散策路には大きなプラタナスの並木が彩りを添えて、周辺の秋の黄葉も良いものであった。
<Nahebrueckeナーエ橋(めがね橋)>
町の支配者・Graf SimonⅡジモン2世伯がナーエ川両岸の居住地を結ぶ為に、ナーエ川に腕を伸ばすようにして、1300年に木造の橋を造った事が最初である。
ナーエ橋(めがね橋)の上には、絵の様に可愛い橋上の家(Brueckenhaeuserブリュッケンホイザー)が4つ建っている。橋は長さ135m、幅9mのものであり、橋桁が遠目には3つの眼鏡のように見えることから眼鏡橋と云われる。
真中の家はワイン・レストランでしたが、倒産したようで、中がガランドウでした。
1945年3月17日、ナチス国防軍がナーエ橋の爆破を行ったが、戦後、町では議論百出の会議を経て、1956年、コンクリート製のBogenbrueckeアーチ型の橋を完成させている。
こ旧市街のMannheimerstrasseマンハイム通りに行ってみると、結構にぎやかなもので、なにやら町の催しがあったようだった。この通りを往復した。
Kornmarktコルンマルクト広場にはミニ遊園地ができていて、子どもたちが楽しんでいた。 -
2010.10.30.バート・クロイツナッハ:Kauzenburgカウツェンブルク城(梟の城)
ホテル一帯は草原で、バート・クロイツナッハの屋根と称しているだけに、旧市街や遠くの丘の稜線も遠望できる。
旧市街に下りて、見上げたカウツェンブルク(梟の城)のレストラン棟は実に奇妙な形をしている。Zinne(銃眼付き胸壁)レストランが空間に少し出ているように見える。
<Kauzenburgカウツェンブルク(梟)城の歴史>
Graf Gottfried III. von Sponheimスポーンハイムのゴッドフリード3世伯 によって1206 ~1230年に築城され、その居城となった。
その後は各地の騎士たちの領地争いで、しばしば、この地の支配者が変わった。
1620年にスペインのMarquis de los Balbases・ Ambrosio Spinolaロス・バルバセス侯爵アンブロジオ・スピノラ(1569~1630年)が町と城を獲得し、1632年まで、城の強化を行っている。
スピノラは17世紀前半のスペインを代表する名将。イタリアのジェノバ貴族出身で当時の宗主国スペインの傭兵になった。1618年に三十年戦争が始まると、スピノラはスペイン軍を率いてプファルツに侵入し、華々しい戦果を上げている。
攻城戦の名人と謳われ、ヨーロッパ中にその名を轟かせた。
特に1624年から1625年にかけてスペイン軍が当時のオランダで最も難攻不落を誇った、ブレダの町を包囲した戦いで、ブレダ攻城戦を指揮し、これを開城せしめ、世にその名を知られた。
この時の開城シーンを描いたベラスケス作の『ブレダの開城』は有名である。 -
2010.10.30.バート・クロイツナッハ:Kauzenburgカウツェンブルク城(梟の城)は1631年スウェーデン軍の攻撃で陥落した。
1632年から、スウエーデン王がこの城を取得したが、1635年、皇帝軍が引き継いでいる。
1648年、三十年戦争の終結と共に城はバーデン・プファルツ伯のものになり、強固な要塞化が進められた。1688年、ルイ14世のフランス軍が城を焼き払った。
焼失後、長い間そのままに放置されていた城址は1803年、Recumレクムの領主のものになり、1881年まで居住していた。
その後も所有者が転々とし、1970年からワイン商Elmar Pierothがこの地を取得し、実に奇抜な、新しいレストラン棟を建てた。
現在はKauzenburg Gaststaetten GmbHという経営体が、レストラン、ホテル事業を行っている。 -
イチオシ
2010.10.30.バート・クロイツナッハ:Kauzenburgカウツェンブルク城(梟の城)からの秋の景観
<カウツェンブルク城(梟の城)・Zinne(銃眼付き胸壁)レストランにて>
17:10~18:50 Euro53(6,768円)
地ビールと地元産の白ワインを飲み、料理はスープと“Kauzenburg”-Schwein Schnitzel mit Champignonrahmsauce 、Pommes Frites und Salatteller梟の城ご自慢の料理という豚のカツレツ、マッシュルームソース、フライドポテト、サラダ添え Euro14.2 を私が、サラダとWinzergeschnetzeltes(Schwein und Pute)mit Speck und Trauben im Reisrand豚と七面鳥肉、ベーコン、葡萄入りのヴィンツアースライス Euro14.8 を家内が注文した。
メイン料理のソースは好物のビーフストロガノフのソースのようで、大変美味しかった。
バート・クロイツナッハの高台にあり、眺めの美しいロケーションに立っている。
17時、明るさの残る旧市街や丘陵のブドウ畑の稜線が誠に美しい。
カウツェンブルク(梟の城)のレストランから、ドイツ最後の夕食に相応しい景観を見る事が出来た。
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2010年秋、ドイツワイン街道とラインラント・プファルツ州& ザールラント州の古城群を巡る
2010/10/18~
ラインラント・プファルツ州
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2010年ドイツの秋:①この旅はAlzeyアルツァイから始まる。
2010/10/18~
ラインラント・プファルツ州
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2010年ドイツの秋:②ドイツワイン街道を南に走り出す。
2010/10/18~
ラインラント・プファルツ州
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2010年ドイツの秋:③プファルツのバルコニーと称される一帯は美しい秋だ。
2010/10/18~
ラインラント・プファルツ州
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2010年ドイツの秋:④ハールト丘陵にプファルツのブドウ畑の海・秋の波が打ち寄せている
2010/10/18~
ラインラント・プファルツ州
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2010年ドイツの秋:⑤トリフェルス城を囲む光景は黄葉・紅葉の真っ盛りである。
2010/10/18~
ラインラント・プファルツ州
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2010年ドイツの秋:⑥靴製造のメッカ・ピルマゼンスから公爵家の町ツヴァイブリュッケンへ
2010/10/18~
ラインラント・プファルツ州
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2010年ドイツの秋:⑦7mのGollensteinゴレンシュタイン、巨人が巨石を投げたのか?
2010/10/18~
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2010年ドイツの秋:⑧パトカーに途中まで先導してもらったザンクト・ヴェンデルにはザールラントで最も美しい教...
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2010年ドイツの秋:⑨ドイツの人々は10月を“黄金の10月”(Der goldene Oktober)と呼...
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2010年ドイツの秋:⑩ペアル・ネニッヒのローマのモザイク画とペアル・ボルクのローマ村(邸と博物館)
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2010年ドイツの秋:⑪ローマが造ったドイツ最古の都市トリアーはアルプス以北最大、“第二のローマ”と云われた...
2010/10/18~
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2010年ドイツの秋:⑫古代ローマ人が基礎を創ったドイツワイン、モーゼルワイン街道を走る。
2010/10/18~
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2010年ドイツの秋:⑬ドイツ宝石街道を走り、ナーエワイン街道を行く。
2010/10/18~
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2010年の秋:⑭ドイツ時間が夏時間から通常に戻る日、忘れて1時間早く起きた。
2010/10/18~
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この旅行記へのコメント (2)
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- Rolleiguyさん 2018/01/27 15:11:50
- 古城の趣
- jijidarumaさん
こんなに素晴らしい旅行をされたのに、いままで隠して取っておいたのですね。
秋のドイツは冬に向かう侘しさはあっても、まだこの時期ですと樹々の葉もあって
美しい景色ですね。大昔、1968年に、当時短期間住んでいたマンハイムから日帰りで
いくつかの古城を見学しましたが、その中に、この旅行記にあるバート・デュルクハイムがあります。マンハイムから一人で電車に乗って行って来ました。週末だったこともあって、見学者が多くて中世のドイツに思いを馳せることは出来ませんでしたが、
今でも覚えています。それにしても、これだけたくさんの古城を見学されると、ひとつひとつの記憶は薄れるでしょうに、きちんと記録をとっておられるのには驚きました。
リチャード獅子心王が幽閉されていたという、トリフェルス城はこんなお城だったのですね。興味深く拝見しました。歴史は、ひとつの出来事の数十年、数百年の前と後を時間に沿って眺めると、当時の時代人の関係がつかめて興味をかきたてますね。
またゆっくり拝見します。
Rolleiguy
- jijidarumaさん からの返信 2018/01/27 19:08:02
- Re: 古城の趣
- Rolleiguyさん、こんばんは。
コメントありがとうございました。
2010年の旅はかつて訪れたことのない地域、ザールラント州を入れて、近い距離をぐるりと周遊した形になりました。実際の旅はここに掲載できぬ量で、纏めてしまいました。主にワイン街道と古城ホテル、古城群を抜粋して掲載した次第ながら、一日毎の旅を改めて掲載するのが良いのか、ちょっと迷っております。
いずれにせよ、2018年の旅は未だざっとした案だけで留まっています。
シュパーゲルの季節にとは思っていますが・・・。
さて、以前のデュルンシュタインの旅で、リチャード獅子心王の幽閉話に言及しましたが、此の項で少し写真を載せ、続きを書けたのは良かったです。トリフェルス城の中はそれほど見るべきものはありませんでしたが、当時の城砦の様子はよく理解できました。
訪問されたバート・デュルクハイムも、もっと料理や同席したドイツ人ご夫婦の話も、Kurhausクアハウス(1822年)・カジノ・美しいKurparkクアパーク、ドイツ最大のSalineザリーネ製塩場(330mの長さを持つ)、500年を超えるドイツで一番古いワイン祭りWurstmarktヴルストマルクト(9月、ワイン・ソーセージ市)なども、書き添えたいものでした。
本来はもっと分割し、一回の写真の枚数も減らすべきでしょう。
定年後のドイツ感傷旅行15回目の内訳は、春が10回、夏1回、秋3回、そして冬(クリスマス)が1回)で、春が圧倒的に多いのもこの時期はプレシーズンにあたり、宿泊も取りやすい所為もあります。
秋のドイツは2010年、2013年、2016年と3度走りましたが、2010年はとりわけ景観が素晴らしく、盛りだくさんで楽しかった記憶です。
旅行記は個人的に毎年書いて残していますが、4Tavelでは2009年ドイツのクリスマス、2014年ドイツの春・北方二州を巡る旅に出る、2015年初夏”黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅”、2016年ドイツの秋:ライン・モーゼル・アール・ミュンスターラントの旅を掲載済みです。
おっしゃるように、当時の時代人の関係がつかめて興味をかきたてる対象は古城・城址であり、訪ねる際にまずその歴史を纏めてから訪れるようにしています。それでも意外な話が訪れた先で知る事がありますから、旅は面白いものですね。それではまた。
jijidaruma
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旅行記グループ 2010年ドイツの秋:ドイツワイン街道とラインラント・プファルツ州& ザールラント州の古城群を巡る
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