2010/10/18 - 2010/11/01
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jijidarumaさん
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秋の旅はドイツの南西部・ラインラント・プファルツ州 & ザールラント州を巡る旅である。期間:2010年10月18日(月)~11月01日(月)15日間の旅
2010/10/18 - 2010/11/01
先に主にワイン街道と古城ホテル、古城群を抜粋して掲載し、
次は毎日の食事を朝昼晩と、前後編で掲載しました。
今回は訪れた町々の紹介です。
①この旅はAlzeyアルツァイから始まる。
②ドイツワイン街道を南に走り出す。
③プファルツのバルコニーと称される一帯は美しい秋だ。
④ハールト丘陵にプファルツのブドウ畑の海・秋の波が打ち寄せている。
⑤トリフェルス城を囲む光景は黄葉・紅葉の真っ盛りである。
⑥靴製造のメッカ・ピルマゼンスから公爵家の町ツヴァイブリュッケンへ
⑦7mのGollensteinゴレンシュタイン、巨人が巨石を投げたのか?
⑧パトカーに途中まで先導してもらったザンクト・ヴェンデルにはザールラントで最も美しい教会がある。
⑨ドイツの人々は10月を“黄金の10月”(Der goldene Oktober)と呼ぶ。ザール川沿いの道は文字通りの秋だ。
⑩ペアル・ネニッヒのローマのモザイク画とペアル・ボルクのローマ村(邸と博物館)
⑪ローマが造ったドイツ最古の都市トリアーはアルプス以北最大、“第二のローマ”と云われた。
⑫古代ローマ人が基礎を創ったドイツワイン、モーゼルワイン街道を走る。
・・・・・
写真はBad Kreuznach バート・クロイツナッハのNahebrueckeナーエ橋(めがね橋)
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
10月30日(土)153km 、曇り、時に晴れ間 、暖かな一日15.5℃
7:00起床、朝食8:35~9:10、9:30フェーレン城内をGraefinが案内。その後、私共は周辺を散策した。シュロスフェーレンを10:15に出発。->L? (Schweich) 8km->A1(Nonnweiler)36km ->A62(Birkenfeld)19km ->B41 Idar-Oberstein 19km (市内観光)11:35~13:10 ->B41 (Fischbach) 8km ->B41 (Bad Sobernheim)23km ->L?(Odernheim) Bad Muenster am Stein・Ebernburg 23km(Ebernburg城・お茶)14:10~14:55 ->B48 Bad Kreuznach 5km
ホテル着15:30 (市内観光)16:00~17:00
Kauzenburgフクロウの城で夕食 17:10~18:50
ホテル着19:00 (Kauzenburg mit Landhotel泊)。
写真はフェーレン城の朝食 -
*7:00と目覚めも良い起床。朝食のサロンに下りてみると、昨夜はスイートに泊った新婚さん達が、私共が昨日座ったメインテーブルに座ることになっていた。今日は主賓の席を譲った形だ。
新婚の朝は、御主人は飲み過ぎで頭痛がひどく、お疲れ気味の様子、これと対照的に新婦は生き生き、にこやかなのがすごく印象的であった。
さて、朝食は昨日と同じ、美味しいヨーグルト・プディンを頂いて、満足な朝になりました。(8:35~9:10)
写真はフェーレン城・朝食の間 -
<フェーレン城内外の見学>
ドイツ宝石街道に向かう前にフェーレン城内をアレクサンドラ伯爵夫人が案内してくださった。
勿論、1階部分の結婚の届け出を行う場所、つまり結婚の宣誓・手続きを行う所だ。結婚手続きの時は役所の方が出張ってくると言う。
そこで「伯爵夫人が自ら役人の代役をしたら宜しいのではないか?」と聞いてみたが、「その資格がない。」と言われた。
どんなものか深くは聞かなかったが・・・。
写真はフェーレン城内:結婚の宣誓・手続きを行う所 -
そして、伯爵夫人と家内が一緒の写真を、宮殿前で撮らせて頂いた。
家内よりは15cmほど背は高いが、「私の姉妹は皆、背が高いので、貴女と一緒だと、私も背が高くて嬉しい!」と笑顔で言われた。
短い滞在がとても残念でしたが、充実した満足なものになったお礼を述べ、お別れのご挨拶を交わしてから、私共は宮殿の外周辺を散策した。
写真はフェーレン城の裏手を望んで:埋めたてた濠 -
埋めたてた濠がかつての水城の様子を見せていて、後背地には3つほどの池(沼)があり、周辺の道はドイツ人達の好む散策の道、あるいはハイキングの道となっているようでした。
裏手から見る、紅葉につつまれた宮殿の姿は、いっそう美しく、後一日ちょっとでドイツの地から離れる寂しさを感じた。 (9:30~10:15)
写真はフェーレン城の裏手 -
写真はフェーレン城の裏手
-
写真はフェーレン城の裏手にある池(沼)
-
写真はフェーレン城の裏手:路傍のキリスト像
-
シュロスフェーレンを10:15に出発した。
今日はこの旅では長い距離を走る。
Deutsche Edelsteinstrasseドイツ宝石街道を行くのだが、さっきも伯爵夫人に「大きな宝石を買ってもらいなさい!」と、家内は声を掛けられていた。
Schweichシュバイヒから、アウトバーンA1に入り、36km先のNonnweilerノンバイラーでA62に入り、Birkenfeldビルケンフェルトでアウトバーンから国道B41になる。Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタインまでは38km。
写真は本日の走行地図:フェーレン城=>Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン=>Ebernburgエベルンブルク城=>Bad Kreuznach バート・クロイツナッハ -
車の渋滞もなく、新しいアウトバーンは山間を走るが、楽な道であった。
上の町Idarイーダーから、下の町Obersteinオーバーシュタインにぐるぐる道を回って降りると、旧市街傍のパークハウスがあった。
写真はWappen・Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタインの紋章 -
<Deutsche Edelsteinstrasseドイツ宝石街道>
モーゼル川の南、フンスリュック・ナーエ地方は中級山地の地域である。
ここに長さ48kmのドイツ宝石街道が走っている。その中心はイーダー・オーバーシュタインの町で、ドイツ宝石博物館と、この町のシンボルといわれる小さなフェルゼン教会の下方にも宝石博物館がある。近代的な研磨所があり、宝石研磨の歴史はこの地方で鉱物が豊かに発掘されたことに始まる。
宝石街道の入口にあたる、Fischbachフィッシュバッハの銅鉱山にも宝物が展示されている。
シュタインカウレンベルクの宝石鉱山では輝く石を試掘することができ、ここはおそらくヨーロッパ最大のメノウ鉱山と言われている。見学坑道ではメノウだけでなく、水晶やアメジスト、曇水晶、方解石やそのほかの鉱石を見ることができる。
Kempfeldケンプフェルトの“宝石庭園” では高カラットの石が見ることができる。100以上の原石が柱台の上に展示され、触ってみることもできるそうだ。
絵のように美しい木組みの家並み、Herrsteinヘルシュタインの町は宝石箱のようです。
イーダー・オーバーシュタイン周辺の町やこの地の宝石・アクセサリー業界をイベントなどで代表を務める、ドイツ宝石街道の“宝石の女王”も2年ごとに選ばれている。
写真はIdar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン: Schloss Obersteinオーバーシュタイン城1654年 -
参考に街道の町々と、その見所をあげると:
Fischbachフィッシュバッハ:Kupferbergwerk銅鉱山
Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン:Edelsteinmuseum宝石博物館、
Diamant-/Edelsteinboerseダイヤモンドと宝石取引所、
Felsenkircheフェルゼン(岩壁)教会 。
Kempfeldケンプフェルト:Edelsteingarten宝石庭園
Allenbachアレンバッハ:粉引き小屋、沼と自然学習小道
Herrsteinヘルシュタイン:旧市街、郷土博物館、
Asbacher Huetteアスバッハー・ヒュッテ:水使用の研磨施設、歴史学習小道、
鉄道模型展示会
Wildenburgヴィルデンブルク:野生動物園
Steinkaulenbergシュタインカウレンベルク:試掘坑道のある宝石鉱山
Bundenbachブンデンバッハ:Schiefergrube Herrenbergヘレンベルクの粘板岩坑と、
Fossilienmuseum 化石博物館
Veitsrodtファイツロート:Steinernes Gaestebuch石製のゲストブック
写真はIdar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン:1875年 -
<Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン>
この町には過去に3度訪れた。
その一つは1984年3月4日(日)~5日(月)にモーゼルからイーダー・オーバーシュタインに1泊の小旅行に出かけた。
Gondorf、Alken、Cochem、Marienburg僧院跡に登り、Neumagen、Bernkastel、そしてZellに戻った。古城ホテルSchloss Zellツェル城に泊り、翌日にHunsrueckフンスリュック山地を横切り、イーダー・オーバーシュタインを訪れたのだ。
小学生であった次女が石好きで、ナーエ地方の豊かな天然の宝を見る為に出かけた。
まだ残雪の残った二つの城址に登り、シュタインカウレンベルク宝石鉱山(お休み中だったが)や、ドイツ宝石博物館も訪ねました。
3月5日(月)Rosenmontagバラの月曜日は春の到来を祝うカーニバルの日で街中は仮装した人達が繰り出していました。私共が住んでいたデュッセルドルフ市内も今日は休み、赤ちゃんから老人まで思い思いに仮装して街へ出かけ、祭りを楽しんでいた頃です。
写真はイーダー・オーバーシュタイン:左右に二つの城址が見える -
かつて町の近郊から“めのう鉱山”が発見され、宝石の町として発展したもので、周辺の合併した町を含めた人口は31,000人と中規模の町です。
旧市街は土曜日とあって、比較的人通りもあり、街中から見上げた城址と教会の姿には感嘆する美しさがあった。
晴間に助けられて、きれいな写真が撮れた気がする。
写真はイーダー・オーバーシュタインの中心街 -
<二つの城址>
Obersteinオーバーシュタインの旧市街の上、岩山には二つの城址が見える。
右手にBurg Bosselsteinブルク ボッセルシュタイン城(1150年頃に築城)、左にSchloss Obersteinシュロス オーバーシュタイン(1320年築城)である。
ボッセルシュタイン城は1600年までシュタインの領主の居城であったが、その後、戦争で破壊されたまま城壁などが残っている。
オーバーシュタイン城は15世紀にはGraf Wyrich IV.ビリッヒ4世伯爵(1415?1501年)により、大きく、強固なものに変えられている。
1624年Grafen von Daun-Obersteinダウン・オーバーシュタイン伯爵家の居城として、1682年最後の伯爵まで続いた。
プファルツ継承戦争後、占領軍であるフランス軍はこの城を強固に要塞化した。1697年、ダウン・オーバーシュタイン伯爵家の係累が所有したが、1792年からはフランス革命軍の治下に置かれた。
1804年になると競売で城はリッター家の所有となっている。
1815年、オーバーシュタインは再びドイツに戻り、1818年からはビルケンフェルト侯爵家(Birkenfeld zu Oldenburg)のものとなったものの、1855年の大火災で廃墟となった。建物の一部は再建されて、コンサート、結婚式、家族の催しなどに利用されている。
5月には中世祭り、8月の劇場、クリスマス市などもあるようだ。
写真はイーダー・オーバーシュタイン:右にボッセルシュタイン城、左にオーバーシュタイン城 -
ボッセルシュタイン城址の下の岩壁に凡そ1000年ごろ掘られた“Burg im Loch窪みの城”があったと云う。
現在、地上60mの同じ場所にFelsenkircheフェルゼン(岩壁)教会がある。
ダウン・オーバーシュタイン家のビリッヒ4世伯爵により、1482~84年に建てられた。又、この教会にはなんでも“兄弟殺し”を悔いて、建立されたものだと云う伝説*が残る。
町のシンボルでもあり、ボッセルシュタイン城址の真下にある、白壁が目立つ教会にはマルクト広場から230段の階段を上っていく。
写真はイーダー・オーバーシュタイン:Felsenkircheフェルゼン(岩壁)教会 -
イチオシ
*兄Wyrichビリッヒが弟 Emichエミッヒを殺した。
【 Die Sage vom Brudermord伝説・兄弟殺し 】
11世紀の頃、現在のフェルゼン(岩壁)教会の上にあったボッセルシュタイン城内で二人の兄弟は仲良く過ごしていた。
所がある時、兄ビリッヒが弟のエミッヒをBurg Bosselsteinブルク ボッセルシュタイン城の窓から、投げ落として殺した。
兄弟は二人ともクーゼル傍のリヒテンベルク家の令嬢Bertaベルタ(Burg Lichtenberg bei Kusel )を愛してしまったのだが、ベルタはエミッヒを選んだので、これに兄ビリッヒが嫉妬したのである。
その出来事があった後、ビリッヒは弟殺しを悔いて、罪滅ぼしに岩壁の窪みに教会を自らの手で建てた。そのビリッヒの仕事が完成した時、不思議なことに岩壁の窪みから、泉が流れ出たと伝えられている。
(伝説の泉は今も健在で、水が流れ出ているそうだ。
伝説に絡んだ実際の話はWyrich II. ビリッヒ二世をシュタイン家一族
のある人間が暗殺したものだ・・・と伝えられている)
写真はイーダー・オーバーシュタイン:伝説の残るフェルゼン(岩壁)教会
尚、Die “Großmutter Europas”ヨーロッパの祖母と謳われたMaria Luise Albertineマリア・ルイーズ・アルベルティーネについては既に一章を書いてある。 -
マルクト広場には少年の像が宝石を掲げていた。
写真はイーダー・オーバーシュタイン:マルクト広場と少年像 -
少年の像の横にMuseum Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン博物館(現在の名前はDeutsches Mineralienmuseumドイツ鉱物博物館)があった。
さすがに町には宝石関係の見所が多い。イーダーにあるEdelsteinminen Steinkaulenbergシュタインカウレンベルク宝石鉱山、宝石研磨工房が置かれたWeiherschleifeヴァイアーシュライフェ(水車小屋)、ドイツ宝石博物館Deutsches Edelsteinmuseum、オーバーシュタインのマルクト広場にあるMuseum Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン博物館、Edelstein-Erlebniswelt宝石体験ランドそれにDiamant-und Edelsteinboerseダイヤモンド・宝石取引所などがある。
写真はイーダー・オーバーシュタイン:ドイツ鉱物博物館 -
<イーダー・オーバーシュタイン:ドイツ鉱物博物館>
研磨作業所がある博物館にはすごい展示品ばかりで、以前に来た時よりもずっと出展物が多いように思えた。
メノウだけでなく、水晶やアメジスト、曇水晶、方解石など、名も分からない宝石が、原石や加工品として所狭しと並んでいた。王家の王冠、有名人を飾った見事な宝石も・・・宝石好きには確かに楽しい所だ。入館料Euro9.4。
トリアーの専門大学の宝石・宝飾専科にはイーダー・オーバーシュタイン校がある。
http://www.museum-idar-oberstein.de/ (11:35~13:10)
写真はイーダー・オーバーシュタイン:ドイツ鉱物博物館 -
写真はイーダー・オーバーシュタイン:ドイツ鉱物博物館
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写真はイーダー・オーバーシュタイン:ドイツ鉱物博物館
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写真はイーダー・オーバーシュタイン:ドイツ鉱物博物館
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写真はイーダー・オーバーシュタイン:ドイツ鉱物博物館にあったSchloss Obersteinオーバーシュタイン城の模型
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写真はイーダー・オーバーシュタイン:ドイツ鉱物博物館
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<Die Naheナーエ川>
ライン川がラインガウ地域で東から西へと流れた後、上ラインと中ラインの境である529.1km地点で、Naheナーエ川はライン川に合流する。
つまり、ライン川の支流にあたる。
ナーエ川はHunsrueckフンスリュック地方の西南の外れ、ザールラント州の Nohfeldenノーフェルデン近くを水源として、フンスリュック地方と神聖ローマ帝国選帝候領・ライン川西部を丁度二つに分離するように流れて行く。
“ドイツ宝石街道”の中心地であるIdar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン、Kirnキルン、Bad Kreuznachバード・クロイツナッハを経由し、Bingenビンゲンでライン川に合流する。
その間の距離は125km、面積4,065平方キロの広範な山並みを流れ下る。
ビンゲンはナーエ川(ナーエワインの産地)とライン川の合流点に出来た町で、ワインの集散地として栄えた。
ナーエ川には支流のGlanグラン川(90km)、Alsenzアルゼンツ川(50km)がある。
写真はナーエワイン街道図
ナーエ地域はラインヘッセンとモーゼルの両地域に東と西から挟まれた小さい地域で、ナーエ川とその支流のグラン川、アルゼンツ川流域に広がっている。
その流域はNaheweinstrasseナーエワイン街道と呼ばれている。
その街道沿いの町や村はナーエワインの産地としても有名である。
栽培面積は凡そ4,500haの広さになる。
鉱山地帯でそれぞれの土質が異なるため、とても変化に富んだ多種多様なワインが生まれる。その為、かつてこの地域が「ドイツワインの試飲小屋」とも呼ばれたことも。
今はドイツを代表するトップワイナリーもあり、年々評価が高くなっている地域である。 -
<ナーエワイン街道巡り>
Nahelandナーエ地方は穏やかな気候にも恵まれたナーエワインの産地、健康の為の保養地があり、しかも、宝石、銅などの地下資源に恵まれた地域です。
ブドウ畑の広がる景観や、ローテンフェルス断崖に代表される、険しい岩壁も見られる地域です。
写真はBad Muenster-Ebernburg:町とDer Rotenfelsローテンフェルス断崖 -
イチオシ
ナーエ川沿いに走るB41。
途中、銅鉱山のあるFischbachフィッシュバッハを過ぎ(8km)、 Bad Sobernheimバート・ゾーベルンハイム(23km)と走り、Norheimノルハイムを過ぎ、急斜面にブドウ畑をみる。この斜面はRotenfelsローテンフェルス断崖だ。
L213の道路を走ると、左手に絶壁の急斜面が迫り、道路の横を鉄道が走り、またその横をナーエ川が流れている。三つが並行して走っているのだ。
写真はDer Rotenfelsローテンフェルス断崖*
*ローテンフェルス(海抜327m)はBad Muenster am Steinバート・ミュンスター・アム・シュタインと Norheimノルハイムの間に壁のように立ちはだかっている。
赤みを帯びた断崖はアルプス以北、スカンジナビア半島までの間で、最大の絶壁と云われ、それは高さ202m、長さは1,200mにもなる。
2億6千万年前に火山の噴火によるマグマによってできたもので、一帯は自然保護地域になっている。
ロッククライミング愛好者や登山者の格好の場となっているようだ。
赤い断崖上にはぶどう畑もあると云う。 -
保養地Bad Muenster am Steinバート・ミュンスター・アム・シュタインに至ると、漸く今日の2番手の目的地であるEbernburgエベルンブルク城(23km)が見えてきた。
写真はBad Muenster am Steinバート・ミュンスター・アム・シュタインの町とDer Rotenfelsローテンフェルス(赤い)断崖 -
Ebernburgエベルンブルク城に登ると、意外に広い駐車場が城の手前の丘にあった。これを知らずに300mも離れた登り道の道路際に車を駐車してきたのだ。
先が見えないから、登ってきた車はみな道路際に停めることになる。
今日の最終地Bad Kreuznachバート・クロイツナッハの町からは南5kmにあたる。
エベルンブルク城は周囲から際立って、高々としたもので、難攻不落の城のように見える。
写真はBad Muenster am Steinバート・ミュンスター・アムシュタイン-EbernburgのEbernburgエベルンブルク城: -
<Ebernburgエベルンブルク城 ; ジッキンゲン家の居城>
D-55583 Bad Muenster am Stein-Ebernburg 、Auf der Burg
Tel: +49 (0) 6708 - 617 66 11 、Fax:+49 (0) 6708 - 617 66 18
http://www.ebernburg.de/
ここは古城ホテルでもある。正式の名前は長い「プロテスタントの家族の為の休暇と育成の施設エベルンブルクEvangelische Familienferien- und Bildungsstaette Ebernburg」であった。
一度、ホテルの利用を問い合わせたのだが、OKの返事が遅れてきたため、既に古城ホテル・カウツェンブルク(梟の城)を予約済みになっていました。
残念ながら、次回にしたい旨、メールを送っていた。結果論でいえば、エベルンブルク城の方が魅力的であった。
この日は何かの団体が城の中庭で、集会を開いていた。また、カヌーの櫂をもった老若男女が裏手のテラスで櫂を交差して立っていた。カヌー団体のメンバーが結婚し、結婚披露宴を古城で催したらしく、新郎新婦は櫂の交差した下をくぐって歩くのが、慣例のようだ。結婚を皆で祝っていた様子を見るのは良いものだ。
(14:10~14:55)
写真はEbernburgエベルンブルク城1523年 -
城の歴史;
1338年、Raugraf Ruprecht と Graf Johann II von Sponheim-Kreuznach が築城した。
1448年、エベルンブルク領主たちは城を抵当に差し入れた。その後、ドイツ南西部一帯に勢力を持った騎士Sickingen ジッキンゲンの居城になる。この家系はヴォルムスやコンスタンチンの大司教・領主を出している。
1448 ~1771年の323年間、Sickingen ジッキンゲン家の支配が続いた。
1482年、Schweickhardt von Sickingen と彼の息子 Franzフランツにより、城は増築され、大砲などの兵器で強化された。
1523年、城は火災で焼失し、1542年、再建される。
1697年、再び取り壊される。1849年、再建。
1750年及び1771年に、城はプファルツ選帝侯に譲渡された。
20世紀になって、個人所有となり、部分的に改築されている。
写真はEbernburgエベルンブルク城:城からナーエ川を望んで -
イチオシ
城のテラスからは周辺の眺望は実に素晴しいもので、ブドウ畑、ローテンフェルスの絶景、そしてナーエ川が紅葉の中に見え隠れしている。
写真はEbernburgエベルンブルク城:ナーエ川を望んで -
写真はEbernburgエベルンブルク城:ローテンフェルス(海抜327m)
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イチオシ
写真はEbernburgエベルンブルク城:市街から望んだエベルンブルク城は見事な城塞だ。
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B48で最終地のBad Kreuznachバート・クロイツナッハに向かう。距離は5kmと街中に入るのもアッと云う感じだ。
しかし、ちょっと迷ったので駅近くのアラル給油所に入り、道を聞いた。若い子だったが説明は正確でした。ついでに二度目の給油を行った。
(15:15 41.73L@1.239/L =Euro51.7 ; 5,916円)。
ホテルには15:30と早い到着になった。
写真はWappen・Bad_Kreuznachバート・クロイツナッハの紋章 -
<Bad Kreuznach バート・クロイツナッハ>
30分で荷物を整理した後、歩いて市内観光に出かけた。ホテル一帯は草原で、バート・クロイツナッハの屋根と称しているだけに、旧市街や遠くの丘の稜線も遠望できる。紅葉の森の先にはブドウ畑も見えた。
写真はバート・クロイツナッハ:Kauzenburgフクロウの城一帯はこんな台地である。 -
<Kauzenburgカウツェンブルク(梟)城の歴史>
Graf Gottfried III. von Sponheimスポーンハイムのゴッドフリード3世伯 によって1206 ~1230年に築城され、その居城となった。
その後は各地の騎士たちの領地争いで、しばしば、この地の支配者が変わった。
1620年にスペインのMarquis de los Balbases・ Ambrosio Spinolaロス・バルバセス侯爵アンブロジオ・スピノラ(1569~1630年)が町と城を獲得し、1632年まで、城の強化を行っている。
(スピノラは17世紀前半のスペインを代表する名将。イタリアのジェノバ貴族出身で当時の宗主国スペインの傭兵になった。1618年に三十年戦争が始まると、スピノラはスペイン軍を率いてプファルツに侵入し、華々しい戦果を上げている。
攻城戦の名人と謳われ、ヨーロッパ中にその名を轟かせた。特に1624年から1625年にかけてスペイン軍が当時のオランダで最も難攻不落を誇った、ブレダの町を包囲した戦いで、ブレダ攻城戦を指揮し、これを開城せしめ、世にその名を知られた。
この時の開城シーンを描いたベラスケス作の『ブレダの開城』は有名である)
写真はバート・クロイツナッハ:奇抜なKauzenburgフクロウの城(レストラン棟) -
1632年から、スウエーデン王がこの城を取得したが、1635年、皇帝軍が引き継いでいる。
1648年、三十年戦争の終結と共に城はバーデン・プファルツ伯のものになり、強固な要塞化が進められた。
1688年、ルイ14世のフランス軍が城を焼き払った。
焼失後、長い間そのままに放置されていた城址は1803年、Recumレクムの領主のものになり、1881年まで居住していた。
その後も所有者が転々とし、1970年からワイン商Elmar Pierothがこの地を取得し、実に奇抜な、新しいレストラン棟を建てた。現在はKauzenburg Gaststaetten GmbHという経営体が、レストラン、ホテル事業を行っている。
写真はバート・クロイツナッハ:Kauzenburgフクロウの城は1631年スウェーデン軍の攻撃で陥落。 -
<Pauluskircheパウル教会>
パウル教会は新市街と旧市街の中間、ナーエ川の小島の一角に立っている。町の中心でもある、この辺りが一番良い景観があって、落ち着いた良い所だ。
1311~1332年にJohanns II., Graf von Sponheimスポーンハイムのヨハン2世伯爵により、当初は礼拝堂として建設された。
三十年戦争中の1620年以来、この地はアンブロジオ・スピノラ将軍(上述)指揮下のスペイン軍の基地として強化され、教会も反宗教改革の度を強めた。
1688年、フランス軍が隣接したカウツェンブルク城を焼き払った。更に1689年には教会も焼けおちた。その後、町の人々の力で再建されている。
第二次大戦では、1945年3月17日、ナチス国防軍がナーエ橋の爆破を行ったことで、周辺の建物、教会の屋根なども大きな被害が出た。
1952~54年にかけて、教会はまた再建されている。
尚、トリアー生まれで、「資本論」を著したKarl-Marxカール・マルクスは1843年に妻Jennyジェニーと、パウル教会で結婚している。
写真はバート・クロイツナッハ:Kauzenburgフクロウの城からパウル教会を見下す -
旧市街に下りて、見上げたカウツェンブルク(梟の城)のレストラン棟は実に奇妙な形をしている。Zinne(銃眼付き胸壁)レストランが空間に少し出ているように見える。
写真はバート・クロイツナッハ:Kauzenburgフクロウの城を見上げて -
<Nahebrueckeナーエ橋(めがね橋)>
町の支配者・Graf SimonⅡジモン2世伯がナーエ川両岸の居住地を結ぶ為に、ナーエ川に腕を伸ばすようにして、1300年に木造の橋を造った事が最初である。
Nahebrueckeナーエ橋(めがね橋)の上には、絵の様に可愛い橋上の家(Brueckenhaeuserブリュッケンホイザー)が4つ建っている。
橋は長さ135m、幅9mのものであり、橋桁が遠目には3つの眼鏡のように見えることから眼鏡橋と云われる。真中の家はワイン・レストランでしたが、倒産したようで、中がガランドウでした。
写真はバート・クロイツナッハ:めがね橋上の家並み -
ドイツの石橋の中で、ナーエ橋のように橋上の家をもつのはErfurtエアフルトのKraemerbrueckeクレーマー橋や、EsslingenエスリンゲンのNeckarbrueckeネッカー橋が挙げられる。いずれも2001年、2009年に訪れた事がある。
写真はバート・クロイツナッハ:めがね橋上の家 -
写真はバート・クロイツナッハ:めがね橋上の家・1900年
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イチオシ
1945年3月17日、ナチス国防軍がナーエ橋の爆破を行った事は既述したが、戦後、町では議論百出の会議を経て、1956年、コンクリート製のBogenbrueckeアーチ型の橋を完成させている。
写真はバート・クロイツナッハ:めがね橋上の家 -
写真はバート・クロイツナッハ:Kauzenburgフクロウの城
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参考:Faust-Hausファウストの家1507年;
ゲオルク・ファウスト(Johann Georg Faust 1480?~ 1540年?)が住んだ家だと云う。
ファウスト博士( Doktor Faustus)は16世紀の占星術師、錬金術師として有名で、民衆本Historia von D.Johann『実伝ファウスト博士』(1585年 主人公はヨハネス(ヨハン)・ファウスト(Johann Faust))がベストセラーになった。
彼は悪魔メフィストフェレスと契約し、悪魔の力を借り、様々な不思議を行ったとされる。
ゲーテの戯曲『ファウスト』のモデルでもある。
写真はバート・クロイツナッハ:女衆の像 -
<Élysée-Vertragエリゼ条約>
現代史でいえば、1958年、フランス大統領ドゴールとドイツ首相アデナウアーが、この地のクアハウスで会見し、両国が緊密な関係を結ぶことに同意し、1963年のエリゼ条約締結への流れを作った。
独仏の連携は現在の欧州連合(EU)の中核をなしたものと言える。
写真はバート・クロイツナッハ:旧市街のマンハイム通り -
写真はバート・クロイツナッハ:Kornmarktコルンマルクト広場の泉・ミニ遊園地
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写真はバート・クロイツナッハ:Kornmarktコルンマルクト広場の泉
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写真はバート・クロイツナッハ:Kauzenburgフクロウの城で夕食
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夕食;Kauzenburg mit Landhotel ・Zinne(銃眼付き胸壁)レストランにて
バート・クロイツナッハの高台にあり、眺めの美しいロケーションに立っている。
写真はバート・クロイツナッハ:Kauzenburgフクロウの城で夕食 -
写真はバート・クロイツナッハ:Kauzenburgフクロウの城のレストラン棟・・・騎士の宴の場所と云う。
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写真はバート・クロイツナッハ:Kauzenburgフクロウの城のレストラン棟・・・騎士の宴の場所と云う。
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イチオシ
17時、明るさの残る旧市街や丘陵のブドウ畑の稜線が誠に美しい。
カウツェンブルク(梟の城)のレストランから、ドイツ最後の夕食に相応しい景観を見る事が出来た。
写真はバート・クロイツナッハ:フクロウの城から見る雄大な、美しい秋の景色
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