2010/10/18 - 2010/11/01
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jijidarumaさん
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秋の旅はドイツの南西部・ラインラント・プファルツ州 & ザールラント州を巡る旅である。
期間:2010年10月18日(月)~11月01日(月)15日間の旅
先に主にワイン街道と古城ホテル、古城群を抜粋して掲載し、
次は毎日の食事を朝昼晩と、前後編で掲載しました。
今回は訪れた町々の紹介です。
①この旅はAlzeyアルツァイから始まる。
②ドイツワイン街道を南に走り出す。
③プファルツのバルコニーと称される一帯は美しい秋だ。
④ハールト丘陵にプファルツのブドウ畑の海・秋の波が打ち寄せている。
⑤トリフェルス城を囲む光景は黄葉・紅葉の真っ盛りである。
⑥靴製造のメッカ・ピルマゼンスから公爵家の町ツヴァイブリュッケンへ
⑦7mのGollensteinゴレンシュタイン、巨人が巨石を投げたのか?
・・・・・
写真はSt.Wendelザンクト・ヴェンデル:Dom聖堂内のDom内の聖人ヴェンダリウスの聖遺骨箱
- 旅行の満足度
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- レンタカー
- 航空会社
- ルフトハンザドイツ航空 ANA
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
10月25日(月)121km 、朝は霜が降りた寒い、快晴 、9℃
起床7時、朝食8:10~8:45、ホテル・グーツホフを9:30に出発。 ->L?・B41 St.Wendel 23km(市内観光)10:00~11:50 ->L? 近くの丘にSkulpturenstrasse彫刻の道 2km 12:00~12:10 ->B269 Tholey 21km(市内観光)12:30~13:20 ->B269・A8・623 Saarbruecken 43km(市内観光・Ratskellerでお茶)14:00~16:00 ->B51・A8 ( Voelklingen Huetteフェルクリンゲン製鉄所;世界遺産観光は横に見て通過)10km ->A8・B51 Saarlouis 22km 、
ホテル着17:00 (Altes Pfarrhaus Beaumarais;夕食・泊)。
写真はザールラント州の地図 -
Hotel, Caf?・ und Restaurant Gutshofホテル・グーツホフ
:3星、20室、14号室(2階) 1泊Euro78
D-66539 Neunkirchen-Furpach 、Beim Wallratsroth 1
ホテルはFurpachフルパッハの由緒ある御料地にあり、1980年よりホテル、レストランなどに改装された。
写真はホテル・グーツホフの朝食8:10~8:45
8日目の起床は7時、朝食は一階の明るい朝食の間(8:10~8:45)。
宿泊客はまだ起きてこない・・・いや、朝の早いドイツ人はもう早い旅立ちをしたらしい。 -
*よる歳なみ?!で、歩けば足腰に疲れが残り、飲めば酔いも早くなり、その結果、爆睡してしまう。昨日もそんな感じでした。
私共も昔はレストランでワイン赤白2本を開けていましたが、今は1本だけになりました。
それでもドイツのビールもワインも美味しいので、嬉しい旅が続きます。
写真はホテル・グーツホフ傍の由緒ある御料地 -
イチオシ
町の中心まで3kmほど。近くに公園・池Gutsweiher und Gutsparkや、森があって市民の憩いの場所になっている。
ホテル周辺の人口はおよそ5000人、緑の中に生活している。
晴れ間が出てきたが、まだマイナス2.5℃と寒々としたものだ。車の屋根は真っ白になり、窓も凍っていた。ホテルの近所をちょっぴり散歩。マイポール・5月柱の天辺に鶏が見えた。かつては農村であったのを思い出される。
写真はホテル・グーツホフ傍の五月柱 -
ホテル・グーツホフを9:30に出発し、23km 先のSt.Wendelザンクト・ヴェンデルには10時に着いた。
但し、出だしのB41に入るのが分からず、たまたま、停車中のパトカーを見つけ、車中の警官に道順を聞いてみた。
すると彼は“私のパトカーについてこい!”と言うではないか・・・。
パトカーに途中まで先導してもらってしまった。中年のお巡りさんは実に親切でした。これだからドイツが好きになる。
私も過去をさかのぼっても、このような経験がありません。
その昔、倶楽部の後輩M君が来独し、旧市街で飲んで、我が家に泊る彼と家内と三人で私の車で帰った時に、自宅の150m手前で飲酒運転のチェックにひっかかったことがありました。
下手なドイツ語で、「遠来の友人が来訪し、旧市街で食事をして帰って来たところだ。ビールも軽く飲んだが、家も此処から直ぐの150m離れた所・・・」と説明した。
その時は若いお巡りさんたちでしたが、お目こぼしをして頂いた事がありました。
その時の事を急に思い出しました。
パトカーで先導して頂くなど、生涯一度の体験でしょう。
写真はホテル・グーツホフ傍の公園・池Gutsweiher und Gutspark -
写真はWappen ・St-WendeLザンクト・ヴェンデルの紋章・・・フランスの王家の百合の紋章が入っている。
-
ザンクト・ヴェンデルの町も州の広域行政区の一つである。人口26,000人。
旧市街近くの地下駐車場に車を停める。
月曜日とあって、町の人々の行き来もさすがに多い。
<St.Wendelザンクト・ヴェンデル>
歴史ある旧市街観光の第一は、町の名前にもなっているザンクト・ヴェンデル教会である。
写真はAltes Rathaus旧市庁舎
旧市庁舎(1791年)はFruchtmarkt穀物(果物)広場に面して立っていた。
小ぶりのもので、今まで見てきたドイツワイン街道沿いの市庁舎に比べると、質素と言うか、目立つ感じがない。
1858年に中央階段が付け加えられているが、建物そのものは30年戦争など、戦争でしばしば罹災したと云う。 -
Wendalinus-Basilikaヴェンデリヌスバジリカの名前で知られ大聖堂は14世紀・後期ゴシックのカトリックの教区教会・巡礼教会ですが、ザールラント州で最も美しい教会と称されている。
写真は大聖堂Wendalinus-Basilikaヴェンデリヌスバジリカ:玉ねぎ形をした中央の塔は高さ69mと威容を誇る。 -
Basilikaバジリカ(長方形の大聖堂を称する)には7世紀初頭に亡くなった巡礼の僧・町の守護聖人Wendalinusヴェンダリウスの遺骸がある。
写真は大聖堂Wendalinus-Basilikaヴェンデリヌスバジリカ -
写真は大聖堂Wendalinus-Basilikaヴェンデリヌスバジリカ・入口の聖母子像
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写真は大聖堂Wendalinus-Basilikaヴェンデリヌスバジリカ:年譜
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さて、入った大聖堂内はミサの最中でした。仕方なく、隅の方の席に座り、遠くに神父の姿を見ながら、神父の説教や聖書のある章の朗読を聞いていました。
勿論、中身が理解できるわけではありませんが・・・、そして寄進の袋を持った人が信者の席を回ります。
私共もご挨拶としてEuro2を寄進しました。こうした場合の金額はよく分からないのですが、他の方の様子を見ていると、皆さんコインが多いようでした。
写真は大聖堂Wendalinus-Basilikaヴェンデリヌスバジリカ -
<Wendalinus-Basilikaヴェンデリヌスバジリカ>
1332年、ザンクト・ヴェンデルはバイエルン王より、都市権を与えられる。
新しい巡礼教会(現在のヴェンデリヌスバジリカ)は、かつてあった小さなローマ人達の教会の場所に建てられた。
1360年、バジリカの最も古い部分である中央祭壇が作られ、14世紀の終わり頃、3つの身廊を持った教会の100年をかけた建設が始まった。
その規模は52mの長さ、真中の身廊は高さ17mである。中央祭壇には聖人Wendalinusヴェンダリウス(ザンクト・ヴェンデル)の遺骸を納め、舟形の天井は美しく彩られた。また、玉ねぎ形をした中央の塔は高さ69mと威容を誇る。
写真は大聖堂Wendalinus-Basilikaヴェンデリヌスバジリカ:1934年製作のパイプオルガン(Johannes Klais Orgelbau製作) -
イチオシ
写真は大聖堂Wendalinus-Basilikaヴェンデリヌスバジリカ:舟形の天井は美しい
-
ミサの余韻の残る中を、中央祭壇に向かう。
聖人ヴェンダリウスの遺骨の入った棺の驚くような色彩、その棺の下の周囲にはキリストの処刑、十二使徒たちの一人ひとりが表情豊かに彫られ、彩られているのをみた。
写真は大聖堂Wendalinus-Basilikaヴェンデリヌスバジリカ:中央祭壇 -
イチオシ
バジリカ・聖堂内で最も注目されるのは15世紀末のキリストの埋葬図であり、聖遺物Reliquie des Heiligen Wendelinus(聖人ヴェンダリウスの遺骨)と、美しく彩色された聖なる棺Tumbaである。どちらもとても印象的なものだ。
写真はSt.Wendel:Dom内の聖人ヴェンダリウスの聖遺骨箱 -
イチオシ
棺は崇め、参集する信仰者に見せる意識から、見事なものに仕上げていました。
無に帰るという日本的な葬儀と違って(即身成仏した姿を見せるような形もありますけれど)、聖人などの遺物を尊重・信仰することは西洋ではよくあります。
写真はSt.Wendel:Dom内のDom内の聖人ヴェンダリウスの聖遺骨箱・反対側
・・・十二使徒たちの一人ひとりが表情豊かに彫られ、彩られている -
以前の旅で見てきた、メルヘン街道沿いのMarburgマールブルクの聖エリザベートの黄金の聖遺骨箱、Wienウィーンのカプツィーナー教会にあるパプスブルク家歴代皇帝・皇妃の納骨堂でみた、マリア・テレジア夫妻の比翼の合同棺、ヨーゼフとエリザベート皇帝夫妻の棺にも、そして、Bambergバンベルクで見た神聖ローマ帝国・ハインリヒ2世と皇妃クニグンデの比翼の柩は大理石で出来たもので、いずれも、その壮麗さは見事なものでした。
その他、興味をひくものには1492年の説教壇Nicolaus-Cusanus-Kanzel 、ネオバロック・ピエタ像Neobarocke Pieta、新しいものには1934年製作のパイプオルガン(Johannes Klais Orgelbau製作)がある。
写真はSt.Wendel:Dom内のキリストの埋葬図 -
私共が驚いているのでミサに来ていた人の良さそうなお婆さんが、説明を加えてくれる。その内、新たな50代の女性説明者(靴屋さん)も加わり、歴史的な蘊蓄が披露された。
とりわけ、1487年のキリストの埋葬図はヨーロッパでも5指に入る、素晴らしいものだと、強調されていた。
写真は大聖堂Wendalinus-Basilikaヴェンデリヌスバジリカ:中央祭壇 -
聖人ヴェンダリウスの遺骨はこれから行くTholeyトーライ村のドイツ最古の修道院St.Mauritiusザンクト・モリッツから、運ばれたものなのだそうだ。
250年前の十字架(聖壇)だとか、天井画には神聖ローマ皇帝の紋章はいくつも描かれているが、本来、描かれるべき聖人ヴェンダリウスの姿がないとも・・・言われていた。
大変得難い説明で、親切さには脱帽です。
お巡りさんといい、女性陣といい、ほんとに素晴しい。
写真は大聖堂Wendalinus-Basilikaヴェンデリヌスバジリカ:中央祭壇の上部 -
写真はSt.Wendelザンクト・ヴェンデル:Kaiser Maximilianマクシミリアン1世がザンクト・ヴェンデルを1512年の訪問した時の絵
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世はマクシミリアン大帝(Maximilian der Grosse)と称され、体躯に恵まれ、武勇に秀で、芸術の保護者であったことから、中世最後の騎士と謳われる。
ザンクト・ヴェンデルの市庁舎の大広間にこの絵がある。
Walter Hannigバルター・ハニッヒ作品は 2,50 m x 6,00 m -
親切な小母さんたちは、この地では当たり前のように私共に接してくれましたが、この町の案内書には様々なガイド企画がある。
中でもこの町の女性パワーを代表する三人をガイドする企画があった。
その三人の一人はHerzogin Luise von Sachsen Coburg-Salffeldザクセン・コーブルク公爵夫人ルイーゼ(1800~1831年)です。
パリで死去したルイーゼの柩はザンクト・ヴェンデル教会に1年ほど置かれていたと云う。
彼女はザクセン・ゴータ・アルテンブルク公アウグストと、最初の妃ルイーゼ・シャルロッテ(メクレンブルク・シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ1世)の一人娘でした。
1817年にザクセン・コーブルク・ザールフェルト公(後、ザクセン・コーブルク・ゴータ公)Ernstエルンスト1世の最初の妃となり、2男を生んだ。
後に長男はザクセン・コーブルク・ゴータ公エルンスト2世となり、イギリスのヴィクトリア女王と結婚したAlbertアルベルトは次男である。
若死にしたルイーズ妃であったが、ドイツ最後の皇帝ヴィルヘルム2世の曾祖母であり、現在のイギリス女王エリザベス2世の曾曾祖母にあたる。
写真はザンクト・ヴェンデル:Herzogin Luise von Sachsen Coburg-Salffeldザクセン・コーブルク公爵夫人ルイーゼ -
2人目が画家のMia Muensterミア・ミュンスター(1894~1970年)である。
ザンクト・ヴェンデルにはその業績に敬意を示すMuseum im Mia Muenster-Haus (St. Wendel)ミア・ミュンスター博物館が開館し、「Mia Muenster-Preisミア・ミュンスター賞」が設けられた。
彼女は「Verschollene Generation 失われた世代」の画家とされている。
ドイツ人アーティストやミュージシャンたちにとって、 1890 年から 1914 年というワイマール時代に既に登場していた、あるいは芸術を学んだ世代の芸術家たちを「失われた世代」と呼ぶ。
写真はザンクト・ヴェンデル:Mia Muensterミア・ミュンスターの写真 -
写真はザンクト・ヴェンデル:Mia Muensterミア・ミュンスター ・モード
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写真はザンクト・ヴェンデル:Mia Muensterミア・ミュンスター・自画像
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写真はザンクト・ヴェンデル:ミア・ミュンスターの作品
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そして三人目がJenny&Karl Marxイエニー(ジェニー)とカール・マルクス一家の家政婦であったHelene Demuthヘレーネ・デムート(1820~1890年)である。
家政婦でありながら、歴史に名を残したヘレーネ・デムートは死後、イエニー(ジェニー)の希望でマルクス一家の墓に埋葬された。
デムートはマルクスの死後はロンドンにいたエンゲルスの家政婦をしていたそうです。若い時の写真は実に理知的な顔をしています。
デムートは男の子を一人産んでいますが、父親は不詳であったと伝えられています。マルクスも謹厳実直なお顔をしていますが、男の子の父ではないかとも、うわさされた事があるとか・・・。
Wdr(Westdeutscher Rundfunk Koeln)で彼女の死後120年ということで記事が出ていました。
写真はザンクト・ヴェンデル:Demuthデムート1850年 -
(注;カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスはドイツの経済学者、哲学者、革命家、ジャーナリスト。20世紀において最も影響力があった思想家の一人。
イエニー(ジェニー)の名はJohanna Bertha Julie "Jenny" Freiin von Westphalen (WestphalenヴェストファーレンはKasselカッセルを中心とした王国)という。
男爵家の生まれ。Bad Kreuznachバート・クロイツナッハのPauluskircheパウル教会で1843年にマルクスと結婚している)
写真はザンクト・ヴェンデル:右にJENNYイエニー(ジェニー)とKarl MARXカール・マルクス と左に次女ラウラ、四女エリノア、Friedrich Engelsフリードリヒ・エンゲルス -
別に女性陣の3人を知っていたわけでもなく、たまたま目にした町のパンフレットから、調べてみただけだったが、切りなく歴史・人物が出てきて、面白かった。 (10:00~11:50)
写真はザンクト・ヴェンデル:旧東独の女性会議記念切手・Jenny Marxイエニー(ジェニー)・マルクス1964年発行 -
ザンクト・ヴェンデル教会近くにあった、聖人ヴェンダリウスの泉と像、今に残る市城壁をみてから、近くの丘に“彫刻の道”があると聞き、2kmほど走ってみた。
写真はザンクト・ヴェンデル:聖人ヴェンダリウスの泉と像 -
写真はザンクト・ヴェンデル:今に残る市城壁
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なるほど草原の中に様々な彫刻がある。
<Skulpturenstrasse彫像の街道>
ザンクト・ヴェンデルとボスタール湖の間の25kmにわたって11ヶ国の48人の芸術家達が、オープンエアーにその作品を展示した。
写真はザンクト・ヴェンデル:彫像の街道 -
写真はザンクト・ヴェンデル:彫像の街道図
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これを称して彫像の街道と言っているようだ。幾つか見たが、その存在感は草原の広さには勝てていない。 (12:00~12:10)
写真はザンクト・ヴェンデル:彫像の街道 -
B269をTholeyトーライまで21km。入ると直ぐに右手にスーパーマーケットがあったので、少なくなった水を補給した(6本x0.19=Euro2.64)。
町の中心にある市庁舎で案内書を頂き、少し行った所に車を停めて、僧院を訪ねた。(12:30~13:20)
この町は人口13,000人と小さいが、その昔・紀元前400年頃、ケルト人が居住し、その後紀元50年頃、ローマの植民地が進出してきた。今もその居住跡が度々発掘されている。
中世の12世紀頃にはベネディクト派修道院の守りとして、シャウェンベルクの山上に城が築づかれている。
写真はTholeyトーライ:St.Mauritiusザンクト・モリッツ(モーリシャス)はベネディクト会大修道院・ベネディクト派修道院 -
<Tholeyトーライ村 >
ドイツ最古の修道院と称されるSt.Mauritiusザンクト・モリッツ(モーリシャス)はベネディクト会大修道院である。
伝説によれば610年頃、聖人ヴェンダリウスが、ローマの浴場跡に、最初のベネディクト派修道院を創建したと云う。
それはおよそ1000年の歴史を刻んだが、1794年、フランス革命軍により、154人の僧侶はトリアーに追放され、僧院は解散させられた。更に、残った館なども競売にされてしまったそうだ。
1950年、村に漸く、新しい僧院が再建された。
写真はTholeyトーライ:St.Mauritiusザンクト・モリッツ(モーリシャス)はベネディクト会大修道院・中央聖壇 -
歴史を知らなかった私共が見た僧院は外観が実に堂々としたもので、新しさを感じるものでした。ドイツ最古の僧院と聞いていた事もあって、あれ?!という思いでした。
内部に入ると、僧院独特の質素な、全体的に暗い雰囲気である。中央聖壇などにも、殆んど何もないような様子で、唯一、立派なパイプオルガンが目に付いた。
ザンクト・ヴェンデルのヴェンデリヌスバジリカを思い浮かべると、その大きな落差を感じた。
写真はTholeyトーライ:St.Mauritiusザンクト・モリッツ(モーリシャス)はベネディクト会大修道院 -
写真はTholeyトーライ:St.Mauritiusザンクト・モリッツ(モーリシャス)はベネディクト会大修道院・唯一、立派なパイプオルガン
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写真はTholeyトーライ:St.Mauritiusザンクト・モリッツ(モーリシャス)はベネディクト会大修道院
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<"Schauenburg"シャウェンブルク城>
Tholeyトーライ村の上に海抜570mの山が見える。シャウェンベルクである。
この丘はザールラントで一番高いと云われている。
古くはケルト人、その後はローマ人の砦があった所で、1200年にBliesgausブリースガウス伯がシャウェンブルク城を築いた。
1522年にはFranz von Sickingenジッキンゲン家のフランツによって略取される。その後の30年戦争で完全に廃墟になった。
現在は独仏友好のシンボルの山となっている。35mの展望塔(この日は修復中の様子が見て取れた。)があり、周囲の眺望は素晴らしいと聞くが、修復中でもあり、登らなかった。塔内には独仏関係の展示があるそうだ。
写真はTholeyトーライ:Schaumbergシャウェンベルク:中世の12世紀頃、ベネディクト派修道院の守りとして、シャウェンベルクの山上に城が築づかれている。 -
トーライからSaarbrueckenザールブリュッケンまではちょっと距離がある。B269・A8・623と走って、14時に着いた。
ザールラント州の州都はホンブルクの4倍の人口176,000人とかなり大都市である。モーゼルの支流であるザール川沿いに町は発展し、この町の名前も“Saarbrueckenザール川に架かる橋”になっている。
<Saarbrueckenザールブリュッケン>
ラートハウス傍のパークハウスに車を停めて、市内観光に出た。
地図で見るようにフランスに隣接しているだけに、絶対王政のルイ時代、フランス革命からナポレオン時代と、時代を彩る英雄の軍隊に侵攻され、しばしばこの地方はその治世下に置かれています。
歴史的には、アルザス・ロレーヌのように地勢的な事から、最近200年間は独仏の争いの間に翻弄されたと云う感じがする。独仏の間で取りあいした地方はいずれも歴史的なものと、資源・経済的な事由が背景にありました。
アルザス・ロレーヌのフランス領になった経緯は以下を参照;
アルザス人の意識が強い・・・といった言葉が印象的ですが、ドイツ人には今もドイツ領でしょう。
写真はWappen ・Saarbrueckenザールブリュッケンの紋章 -
中世の時代から、ライン地方とフランドル地域の中継地点として、交易路の要所であった。神聖ローマ皇帝OttoⅢオットー3世が999年、フランスのメッツ大司教に、この地を献呈している。
近世では1815年より台頭してきたプロイセンの支配下に置かれ、北ドイツ連邦、ドイツ帝国(第二帝国)の一部となった。第一次大戦(1914~19年)ではドイツが負けた事で、15年の間を国際連盟の管理下(ヴェルサイユ条約*)に置かれた。
1935年の住民投票の結果(95%がドイツを希望。)を踏まえ、ドイツ領に復帰している。
(尚、当時の日本は日英同盟によって、ドイツに宣戦を布告し、連合軍側に参加した。)
写真はザールブリュッケン:ザール川と両岸 -
【*ヴェルサイユ条約(1919年6月)領土・賠償問題 】
1)ドイツから全海外領土・海外植民地を没収する。
2)エルザス(仏・アルザス)、ロートリンゲン(仏・ロレーヌ)をフランスに割譲。
3)北シュレスヴィヒをデンマークに割譲。
4)オイペン、マルメディをベルギーに割譲。
5)ポーゼン、西プロイセンをポーランドに割譲。
6)メーメルをリトアニアに割譲。
7)ダンツィヒを国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒとする。
8)ザール地方(現在のザールラント州)を15年間国際連盟の管理下のザール (国際連盟管理地域))とする。その後住民投票で帰属を決定。
9)オーストリアとの合併(アンシュルス)を禁止。
10)ドイツならびにその同盟国は賠償義務を有する(のちにドイツの賠償額は1320億金マルクに決定)。後にドーズ案、ヤング案、そしてローザンヌ会議によりドイツの賠償額は30億金マルクにまで軽減されたが、ドイツにとって大きな負担であることには変わりなかった。この事がその後のナチス・ヒトラー政権の登場にもつながっていく。
尚、特記すべき事実はドイツ再統一20周年となる2010年10月3日、ドイツはヴェルサイユ条約で決定された賠償額を、利子も含めてすべて払い終えたことだ。
11)ヴィルヘルム2世を被告人とする国際戦犯裁判の実施。日本を含めた各戦勝国から裁判官が派遣される予定だったが、ヴィルヘルム2世がオランダに亡命したため実現しなかった。
第二次世界大戦(1939~45年)でも、この町は英米軍の激しい空爆を受け、特に末期の1944年10月5日には325の爆弾と35万を超える焼夷弾が町を襲い、旧ザールブリュッケンの町は崩壊した。
(参考;東京大空襲で、日本人の頭上に落とされた爆弾の量は38万1300発、1783tにものぼったそうです。)
大戦後はフランスの管理下に置かれ、1957年の住民投票にて、ドイツに復帰している。
戦後復興を果たしたものの、古い町並みは殆んど残っていないと云う。
第二次大戦後もかつてのヴェルサイユ条約が伏線になったように思えます。
フランスの影響も強く、又、それを是とした町では“ザール川のルイ(ルイ14世)”の意味であるSaarlouisザールルイの名を冠したままです。
歴史の面白さを感じます。
それでもザールランドはドイツを選択しています。
それは自治行政システムに優れた・・・、ドイツ語を使用していた・・・といった事でドイツを選んだのでしょう。
写真はSaarbrueckenザールブリュッケン:1904年頃の絵葉書、かつてのAlte-Bruckeアルテブリュッケや教会、市街地 -
<Die Saarザール川>
ザール川は最長246km、地域面積 7,431 km?、その内、フランス領内を126km、ドイツ国内を120km流れて、トリアー近くのKonzコンツでモーゼル川に合流している。
ザール川の流域に沿ったフランスのアルザス・ロレーヌ(フランス北東部のドイツ国境に近い地域。)は鉄鉱石と石炭を産出するため、しばしば独仏との間で係争地となったことで知られる。住民はドイツ系だが、現在の住民は「ドイツ人」というより「アルザス人」という意識が強いとされる。
このアルザス・ロレーヌの境界にあるヴォージュ山系のSarrebourgに近い湖を水源として、ロレーヌ地方のSarregueminesザールゲミニィスを通り、独仏国境を越え、川に因んだ、ドイツで最小の州ザーランドSaarlandに入る。州都Saarbrueckenザールブリュッケン(ザール川の橋の意)はザール川沿いに発展した人口20万人の町。ザール工業地帯の中心。
少し下流のVoelklingenフェルクリンゲンには“産業文化の大聖堂”と呼ばれるVoelklinger Huetteフェルクリンゲン製鉄所(1994年世界遺産登録)がある。そして、 Saarlouisザールルイ、 Dillingen-Saarディリンゲン・ザール、 Merzigメルツィッヒを過ぎていき、Mettlachメットラッファ、(Orscholzオルショルツ地区のCloefクレーフ展望台からのザール川の眺望は素晴らしく、“Schlemenstreich der Natur・自然のいたずら“と言われる、輪のようになった蛇行の様子が眼下に見られる。)そして、Serrigゼリッヒ、Saarburgザールブルク、モーゼル川との合流点、Konzコンツに流れていく。
写真はザールブリュッケン市内を流れるザール川 -
私にとっては未知の町でしたが、なんとなく白々しい町に思えた。かつてのバロック都市が新しすぎて、興味がわかないまま、歩いた思いがする。
ザール川の岸辺、Alte-Bruckeアルテブリュッケ(1546年カール5世がザール川の両岸を結ぶ為に作らせた。二次大戦で壊れた)、最も美しい広場の3ヶ所の内、旧市街を通る路地に囲まれた聖ヨハンナー・マルクト(ヨハネ市場)だけを見ただけだ。バロック様式の家々に囲まれた広場はちょっと洒落た一角であった。
他の2つはアルテブリュッケを渡った対岸にある、シュロス広場、ルードヴィッヒ広場だったが、仏革命軍に破壊されたバロック様式の宮殿(1811年再建)や、バロック様式のル-トヴィヒ教会(1780年)、旧市庁舎(1750年)を見ることは無かったが、見ていたら、この町の印象も少しは変わっていたかもしれない。
写真はザールブリュッケン:シュロス広場、ルードヴィッヒ広場方向 -
写真はザールブリュッケン:旧市街
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写真はザールブリュッケン:焼き栗
旧市街で見つけた焼き栗を買って歩きながら食べる。時間が経った所為か、良く剥けない。愛想の悪い女性店員はおまけもしてくれなかった?!が、こういう時は小父さんが良い。
ニュルンベルクの名物店Schmidt シュミットのレープクーヘンの支店もあって、Lebkuchen Rollレープクーヘン2X4.8 =Euro9.6をお土産に買った。
これで、クリスマス時のお土産は早々と完了だ。 -
イチオシ
Ratshaus市庁舎のGlockenspiel鐘は毎日15:15と19:19に鳴ると、パンフレットに書かれていたので、15時に庁舎前で見守った。この市庁舎は1900年に完成したネオゴシック建物で、威風堂々としたものだ。
54mの高い塔にある鐘が定時になると、鳴り出した。市電や車の走る周辺の喧騒にも負けずに、鳴っていた。市民にとってはもう生活に溶け込んでしまったのか?上を見上げるのは私共だけだ。
写真はザールブリュッケン:市庁舎 -
写真はSaarbrueckenザールブリュッケン:かつてのバロック様式の宮殿1748年以降
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B51からA8に入り、ザール川に沿って走っていくと、10kmぐらいで右手に 世界遺産のVoelklingen Huetteフェルクリンゲン製鉄所が見えてきた。産業遺産ということもあるが、今日は前半で十分に満足した気分で、広い工場や鉄くずの山が見える製鉄所群を横に見て通過してしまった。
そこから更に22kmで今夜の宿泊地 Saarlouisザールルイに着いた。
Altes Pfarrhaus Beaumarais古城ホテル アルテス・プファーハウス・ボーマレはA8のアウトバーンを下りて、直ぐに見つかった。
古城ホテルのイメージから、丘の上にあると思っていたが、道路際に立つホテルで、村落の入り口に位置していた。到着は17:00。
写真はAltes Pfarrhaus Beaumarais古城ホテル アルテス・プファーハウス・ボーマレ:Resutaurant Trampertレストラン・トラムペルトのテラスAltes Pfarrhaus Beaumarais ホテル
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この旅行記へのコメント (4)
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- frau.himmelさん 2018/04/17 21:20:37
- 素晴らしい!さすがですね。
- jijidarumaさん、こんばんは。
jijidarumaさんのザールブリュッケンの歴史を拝見した後では、私の旅行記など恥ずかしくて取り下げたくなりました。
身辺がバタバタしておりまして、1か月近く間を開けて記した私のザールブリュッケンでしたが、その間にいろいろ見たり調べたりしておりましたので、jijidarumaさんの歴史の説明はすうーっと私の頭の中に入ってまいりました。
なるほど、なるほど、一つ一つ頷きながら拝見いたしました。
1935年の住民投票では95%がドイツ帰属を選んだと知り、ウィーン併合と同じようにきっとナチスの陰謀が働いたのだなと思いましたが、そうとばかりも言えないのですね。
でも知れば知るほど、ザールブリュッケンは歴史に翻弄された町、いろんな知識が増えるって面白いですね。
またいろいろ教えてください。
himmel
- jijidarumaさん からの返信 2018/04/17 23:21:34
- Re: 素晴らしい!さすがですね。
- himmelさん、
こんばんは。いつもコメント、ご投票ありがとうございました。
イエイエ、himmelさんのザールブリュッケンの旅、たいへん詳細で
好奇心いっぱいの旅行記にいつも刺激されているのですよ。
私は文中にも書きましたが、「私にとっては未知の町でしたが、
なんとなく白々しい町に思えた。かつてのバロック都市が新しすぎて、
興味がわかないまま、歩いた思いがする」と、勝手に決め込んだようで、
アルテブリュッケを渡った対岸の旧市街を見ていたら、この町の印象も
少しは変わっていたのでしょう。
それをhimmelさんのザールブリュッケンの旅で反省した所です。
もうチャンスはないのでしょうが。
さて、第一次大戦後のドイツ処分は厳しすぎたと思うのです。
ドイツから全海外領土・海外植民地の没収から始まり、各地の割譲、
莫大な賠償金など、その後の驚異的なインフレや、ナチスの台頭に
大きな影響を与え、第二次大戦に至る流れを決めていった感が
有りますね。大戦時に大きな被害を受けたことも、ドイツを選ぶ
一因になった事でしょう。
ザール川を渡り少し走ればもう独仏の国境線という地域、ザール川の
西はフランスでもよさそうな地勢です。“ザール川のルイ(ルイ14世)”
の意味であるザールルイの町やザールブリュッケンがフランスの町でも
不思議でなかったはず、歴史と人間の面白さを感じます。
ありがとうございました。
jijidaruma
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- Rolleiguyさん 2018/04/07 22:28:32
- 大戦間のドイツ
- jijidarumaさん
ザールラントという名前は両大戦とドイツの関わりの中で必ず出て来る名前ですね。
第一次大戦の戦時賠償が2010年に終わったと言うのは初めて知りました。それだけの期間を必要とするほどの負担だったと言うことなのでしょう。賠償交渉でドイツは四面楚歌の状態だったようですが、戦勝国であった日本はドイツに恨みはなく、むしろ昔からのよしみで同情的だったそうです。日本側の交渉団のなかに私が勤めていた会社の前身会社の支配人が加わっていて、陰に陽にドイツ全権団を応援したそうです。ドイツ側の連絡役が後にドイツ連銀総裁になったブレッシングで、日本の応援が身に染みて有難かったと言われたそうで、終生恩義に感じ、当社が第2次大戦後ドイツに再進出してから
特別の親近感を示してくれたと聞きました。
アルザスやザールラントの住民が独仏入り交じりつつも、心情としてはドイツ的な人が少なくないのは、歴史的な経緯からでしょうが、言葉でも昔驚いたことがあります。
フランスに行った時に、スイスドイツ語が聞こえたので、スイスからですかと尋ねたら、コルマルからだとのことで、アルザスのドイツ語もスイスドイツ語のようなのだと驚いたものです。こうした地方は遠くにいて知識として理解しようとしても、限界があり、その地に行って見て、暮らしてみて初めて分かって来ることがあるのでしょうね。
写真も文章もとても楽しめました。
Rolleiguy
- jijidarumaさん からの返信 2018/04/08 15:04:28
- Re: 大戦間のドイツ
- Rolleiguyさん、
いつもながらコメント、ご投票ありがとうございました。
おっしゃるようにザールラントはドイツの最小の州ですが、歴史的には驚くほど、様々に関与していますね。戦争時もそうですが、戦後も大きな影響を受けた州ですね。
戦時賠償は領土問題と絡んで、いつまでも後に影響を残しているのは、我が国と近隣諸国の問題を見るとよく分かります。この点、ドイツはしっかり、上手にやってのけたほうだと思います。
日独は第一次大戦では、日本には日英同盟があったので、これに引きずられたし、大きな戦いは殆どヨーロッパ主体であり、日独の戦いは青島の戦いぐらいしか覚えがありません。それすら、戦時捕虜の扱いも見事に対応していたことも知られています。日独には恨みが残るような事は無かったかと思います。
ドイツ連銀総裁ブレッシングの例に見られるように、そうした表に出なかったエピソードも納得する所です。
また、言葉が持つ大きな力は大事な局面に出るのですね。ドイツ語の一方言にアレマン語というのがあるそうですが、アレマン人(ゲルマン民族の一派)の使用した言語なのでしょう。アレマン人という言葉をドイツ南西部を走ると見聞きします。
バーデン・ヴュルテンベルク州からアルザスやスイスのドイツ語圏、東部のシュヴァーベン地方、リヒテンシュタインなどの地方はアレマン語の範囲だそうです。スイスドイツ語、アルザスのドイツ語もそうして見れば理解できそうです。
ありがとうございました。
jijidaruma
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