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≪ドイツの春:北方二州を巡る旅≫ <br />ドイツの春:北方二州・シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州&メクレンブルク・フォアポンメルン州を中心に巡る旅<br /><br />期間:2014年05月09日~23日  15日間)<br /><br />≪1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したベーゼラーガー騎兵団の指揮官・ゲオルクとフィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟≫<br /><br />ノルトライン・ヴェストファーレン州のヴェストファーレン低地(ミュンスター平野)の南東端に、宗教都市Paderbornパーダーボルンの町がある。<br /><br />その北西4kmの近郊にSchloss Neuhaus ノイハウス城(写真)がある。ノイハウス城はヴェーザー・ルネサンス様式の宮殿で、宮殿はLippeリッペ川、Almeアルメ川そしてPaderパーダー川の合流点、半島のような地点に立っている。<br /><br />写真はSchloss Neuhaus ノイハウス城の俯瞰

≪1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したベーゼラーガー騎兵団の指揮官・ゲオルクとフィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟≫

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2014/05/09 - 2014/05/23

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jijidaruma

jijidarumaさん

≪ドイツの春:北方二州を巡る旅≫ 
ドイツの春:北方二州・シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州&メクレンブルク・フォアポンメルン州を中心に巡る旅

期間:2014年05月09日~23日  15日間)

≪1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したベーゼラーガー騎兵団の指揮官・ゲオルクとフィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟≫

ノルトライン・ヴェストファーレン州のヴェストファーレン低地(ミュンスター平野)の南東端に、宗教都市Paderbornパーダーボルンの町がある。

その北西4kmの近郊にSchloss Neuhaus ノイハウス城(写真)がある。ノイハウス城はヴェーザー・ルネサンス様式の宮殿で、宮殿はLippeリッペ川、Almeアルメ川そしてPaderパーダー川の合流点、半島のような地点に立っている。

写真はSchloss Neuhaus ノイハウス城の俯瞰

旅行の満足度
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
レンタカー
航空会社
ANA
旅行の手配内容
個別手配

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  • ≪①ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟記念碑(ノイハウス城)≫<br /><br />ノイハウス城は現在Realschule実科学校として利用されているが、その校庭(かつての城の中庭)の一隅にGeorg &amp; Phiripp Freiherr von Boeselagarのゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟記念碑(写真参照)が立っていました。<br /><br />丁度やってきたこの学校の生徒である女の子二人に聞いてみると、この碑の事は知らないという。第二次大戦の敗戦から70年も経つと、ドイツでもこんなものかと思った。<br /><br />写真はノイハウス城の正面

    ≪①ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟記念碑(ノイハウス城)≫

    ノイハウス城は現在Realschule実科学校として利用されているが、その校庭(かつての城の中庭)の一隅にGeorg & Phiripp Freiherr von Boeselagarのゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟記念碑(写真参照)が立っていました。

    丁度やってきたこの学校の生徒である女の子二人に聞いてみると、この碑の事は知らないという。第二次大戦の敗戦から70年も経つと、ドイツでもこんなものかと思った。

    写真はノイハウス城の正面

  • さて、ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟はErzbistum Magdeburgマグデブルク大司教の系譜に繋がる家の出で、1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件を起こした実行者・国内予備軍司令部参謀長・陸軍大佐Claus Schenk Graf von Stauffenbergクラウス・シェンク・グラーフ・シュタウフェンベルク伯爵(かつての旅行記で掲載した)たちのヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの一人として、歴史にその名を遺した。<br /><br />XXX<br /><br />写真はノイハウス城内にあるゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟記念碑

    さて、ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟はErzbistum Magdeburgマグデブルク大司教の系譜に繋がる家の出で、1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件を起こした実行者・国内予備軍司令部参謀長・陸軍大佐Claus Schenk Graf von Stauffenbergクラウス・シェンク・グラーフ・シュタウフェンベルク伯爵(かつての旅行記で掲載した)たちのヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの一人として、歴史にその名を遺した。

    XXX

    写真はノイハウス城内にあるゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟記念碑

  • 1944年7月18日、ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟は騎兵第31連隊の1200名を指揮し、東部戦線からベルリンに向かったという。<br /><br />7月20日のシュタウフェンベルク大佐らの企てを支援するために軍を動かしたのだが、暗殺が失敗に終わったことを知り、兄弟は兵1200名を率いて元の東部戦線に戻った。<br /><br />写真はDBP_1994_Block_29_Attentat_vom_20__Juli_1944:1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件の50周年記念切手

    1944年7月18日、ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟は騎兵第31連隊の1200名を指揮し、東部戦線からベルリンに向かったという。

    7月20日のシュタウフェンベルク大佐らの企てを支援するために軍を動かしたのだが、暗殺が失敗に終わったことを知り、兄弟は兵1200名を率いて元の東部戦線に戻った。

    写真はDBP_1994_Block_29_Attentat_vom_20__Juli_1944:1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件の50周年記念切手

  • 以前、シュタウフェンベルク大佐について書いた。<br />『その時、彼らが実戦部隊を保有しないで計画を実行したことに疑問を持った。クーデター派は直属の部隊を一個大隊すら握っていないで、国内予備軍の反乱鎮圧作戦=「ワルキューレ作戦」(占領地から数百万人の捕虜や労働者をドイツ国内へ連れて来ていたので、彼らが叛乱を起こした際の鎮圧する部隊)を利用して、政権奪取を図った。日本の226事件とは大きな違いだ。』・・・と。<br /><br />実はここに実戦部隊が用意されていたわけである。<br />ベーゼラーガー騎兵団は抵抗運動の同志が信用できる、わずかな実戦部隊の一つでした。だからこそ、この部隊は反乱計画においても、鍵となる重要な役目を与えられていた。<br /><br />写真はDBPB_1954_119_Jahrestag_20__Juli_1944:1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件の10周年記念切手

    以前、シュタウフェンベルク大佐について書いた。
    『その時、彼らが実戦部隊を保有しないで計画を実行したことに疑問を持った。クーデター派は直属の部隊を一個大隊すら握っていないで、国内予備軍の反乱鎮圧作戦=「ワルキューレ作戦」(占領地から数百万人の捕虜や労働者をドイツ国内へ連れて来ていたので、彼らが叛乱を起こした際の鎮圧する部隊)を利用して、政権奪取を図った。日本の226事件とは大きな違いだ。』・・・と。

    実はここに実戦部隊が用意されていたわけである。
    ベーゼラーガー騎兵団は抵抗運動の同志が信用できる、わずかな実戦部隊の一つでした。だからこそ、この部隊は反乱計画においても、鍵となる重要な役目を与えられていた。

    写真はDBPB_1954_119_Jahrestag_20__Juli_1944:1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件の10周年記念切手

  • 1944年8月27日、ゲオルク男爵は戻った東部戦線のポーランド・ウォムジャ(ドイツ名Lomschaロムシャ)でソ連軍の狙撃手に撃たれて戦死。<br />弟のフィリップ男爵は生き残って、2008年5月1日、居城のBurg Kreuzbergクロイツベルク城(bei Altenahrアルテンアール・アイフェル地方)で死去した。<br /><br />何故、この城にゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟の記念碑が建てられたかというのは、記念碑を読んでみると、男爵兄弟が当地の騎兵第15連隊に属し、ノイハウス城にあった士官乗馬学校で騎兵の訓練を受け、その後も、青年士官として軍務についていたことに由来するようだった。<br /><br />XXX<br /><br />写真はUlanenregiment_Koenig_Wilhem_I: “兵隊王” フリ−ドリッヒ・ヴィルヘルム1世(プロイセン王)の槍騎兵連隊

    1944年8月27日、ゲオルク男爵は戻った東部戦線のポーランド・ウォムジャ(ドイツ名Lomschaロムシャ)でソ連軍の狙撃手に撃たれて戦死。
    弟のフィリップ男爵は生き残って、2008年5月1日、居城のBurg Kreuzbergクロイツベルク城(bei Altenahrアルテンアール・アイフェル地方)で死去した。

    何故、この城にゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟の記念碑が建てられたかというのは、記念碑を読んでみると、男爵兄弟が当地の騎兵第15連隊に属し、ノイハウス城にあった士官乗馬学校で騎兵の訓練を受け、その後も、青年士官として軍務についていたことに由来するようだった。

    XXX

    写真はUlanenregiment_Koenig_Wilhem_I: “兵隊王” フリ−ドリッヒ・ヴィルヘルム1世(プロイセン王)の槍騎兵連隊

  • ≪Schloss Neuhaus ノイハウス城 ≫<br /><br />D-33104 Paderborn 、Im Schlosspark 10<br />http://www.schlosspark-paderborn.de/<br /><br /><ノイハウス城の歴史><br />ノイハウスの名前が初めて歴史書に出てくるのは1036年頃である。<br />1257年、パーダーボルン司教により町の防衛拠点として城が建てられた。<br />1370年、ハンザ同盟に加盟したパーダーボルンの繁栄と共に力を付けてきた都市市民との抗争もあり、侯爵司教Heinrich von Spiegel zum Desenberg (Heinrich III)ハインリッヒ・シュピーゲル・デーゼンベルク(ハインリヒ3世)はパーダーボルンの町からノイハウスに自らの居城を移した。<br /><br />ノイハウス城は地域のノイハウスの名を取ったもので、1524〜1526年にかけウェーザー・ルネサンス様式で新たに建造された宮殿である。<br />パーダーボルン侯爵司教領はプロイセン王国に併合された1802年まで続いた。<br /><br />写真はノイハウス城のバロック庭園

    ≪Schloss Neuhaus ノイハウス城 ≫

    D-33104 Paderborn 、Im Schlosspark 10
    http://www.schlosspark-paderborn.de/

    <ノイハウス城の歴史>
    ノイハウスの名前が初めて歴史書に出てくるのは1036年頃である。
    1257年、パーダーボルン司教により町の防衛拠点として城が建てられた。
    1370年、ハンザ同盟に加盟したパーダーボルンの繁栄と共に力を付けてきた都市市民との抗争もあり、侯爵司教Heinrich von Spiegel zum Desenberg (Heinrich III)ハインリッヒ・シュピーゲル・デーゼンベルク(ハインリヒ3世)はパーダーボルンの町からノイハウスに自らの居城を移した。

    ノイハウス城は地域のノイハウスの名を取ったもので、1524〜1526年にかけウェーザー・ルネサンス様式で新たに建造された宮殿である。
    パーダーボルン侯爵司教領はプロイセン王国に併合された1802年まで続いた。

    写真はノイハウス城のバロック庭園

  • ノイハウス城はプロイセン王国の軍事的施設として使用され、その後、1807〜1813年の短い間、フランス帝国の衛星国であったKoenigreich Westfalenヴェストファーレン王国に属し、軍事的施設として使用された。<br /><br />即ち、プロイセン王国から第二次大戦までの各時代を、騎兵部隊(甲騎兵連隊、軽騎兵連隊)の駐屯地の役目を果たしている。更に士官乗馬学校として。<br /><br />写真はノイハウス城・庭園側から

    ノイハウス城はプロイセン王国の軍事的施設として使用され、その後、1807〜1813年の短い間、フランス帝国の衛星国であったKoenigreich Westfalenヴェストファーレン王国に属し、軍事的施設として使用された。

    即ち、プロイセン王国から第二次大戦までの各時代を、騎兵部隊(甲騎兵連隊、軽騎兵連隊)の駐屯地の役目を果たしている。更に士官乗馬学校として。

    写真はノイハウス城・庭園側から

  • 第二次大戦後の1945〜1964年の間は占領国の英国陸軍(ライン軍団)の基地となった。<br /><br />現在の城館は1967年に新しく開校されたRealschule実務学校に使用され、1994年にはノルトライン・ヴェストファーレン州庭園ショーがノイハウス城で行われるにあたり、城内外を整備改装された。<br /><br />以来、夏の宮殿祭りなどが催されるようになった。<br /><br />写真は夏の宮殿祭り

    第二次大戦後の1945〜1964年の間は占領国の英国陸軍(ライン軍団)の基地となった。

    現在の城館は1967年に新しく開校されたRealschule実務学校に使用され、1994年にはノルトライン・ヴェストファーレン州庭園ショーがノイハウス城で行われるにあたり、城内外を整備改装された。

    以来、夏の宮殿祭りなどが催されるようになった。

    写真は夏の宮殿祭り

  • 参考;騎兵(Wik抜粋)<br /><br />最古の騎兵は動物が曳行する戦車に乗った兵士であったが、後に馬(動物)に跨る騎兵に移行していった。<br />中世のヨーロッパでは重騎兵である騎士が戦争の花形となり、弓などの射<br />的武器を卑怯として敬遠する風潮や、儀礼化した騎士同士による一騎討ちが戦争の体系となるなかで大いに栄えた。<br /><br />写真は中世ヨーロッパの騎士(1213年・ミュアの戦い)

    参考;騎兵(Wik抜粋)

    最古の騎兵は動物が曳行する戦車に乗った兵士であったが、後に馬(動物)に跨る騎兵に移行していった。
    中世のヨーロッパでは重騎兵である騎士が戦争の花形となり、弓などの射
    的武器を卑怯として敬遠する風潮や、儀礼化した騎士同士による一騎討ちが戦争の体系となるなかで大いに栄えた。

    写真は中世ヨーロッパの騎士(1213年・ミュアの戦い)

  • 近世になると、旧来の重武装し槍突撃で敵を粉砕する騎兵は姿を消すようになった。かわって登場したのが、銃で武装した乗馬歩兵である竜騎兵や、胸甲騎兵、火縄銃騎兵といった火器を活用する騎兵であった。<br />騎兵は相対的に高い機動力・攻撃力を誇り、作戦の幅を広げ、偵察、伝令、警戒など後方支援でも活躍した。また、軽騎兵・重騎兵と分類されることもあり、前者は機動力を、後者は攻撃力及び防御力を重視している。<br />現代では騎兵から派生した機械に搭乗した兵種も指して「騎兵」と呼ぶことがある。<br /><br />写真はFrench_heavy_cavalry_Paris_August_1914:パリに凱旋した仏軍騎兵部隊

    近世になると、旧来の重武装し槍突撃で敵を粉砕する騎兵は姿を消すようになった。かわって登場したのが、銃で武装した乗馬歩兵である竜騎兵や、胸甲騎兵、火縄銃騎兵といった火器を活用する騎兵であった。
    騎兵は相対的に高い機動力・攻撃力を誇り、作戦の幅を広げ、偵察、伝令、警戒など後方支援でも活躍した。また、軽騎兵・重騎兵と分類されることもあり、前者は機動力を、後者は攻撃力及び防御力を重視している。
    現代では騎兵から派生した機械に搭乗した兵種も指して「騎兵」と呼ぶことがある。

    写真はFrench_heavy_cavalry_Paris_August_1914:パリに凱旋した仏軍騎兵部隊

  • 騎兵連隊(きへいれんたい)は騎兵を主とする連隊。機動打撃を行う戦略騎兵として編成されたものと、主に偵察部隊として歩兵師団内に編成されたものとがある。国によっては軽騎兵や槍騎兵などの騎兵の区分に応じた騎兵連隊を編成していた例もある。<br />歩兵連隊と異なって、大隊結節を持たずに中隊から構成されていることがしばしばある。<br /><br />第一次世界大戦以降は騎兵が機械化されていくのに合わせて、騎兵連隊の名称を持ちながらも戦車連隊や自動車化歩兵連隊の実質を有する例も見られた。<br /><br />写真は救露(?チェコ軍救出)討伐独シベリア出兵・日本の騎兵連隊

    騎兵連隊(きへいれんたい)は騎兵を主とする連隊。機動打撃を行う戦略騎兵として編成されたものと、主に偵察部隊として歩兵師団内に編成されたものとがある。国によっては軽騎兵や槍騎兵などの騎兵の区分に応じた騎兵連隊を編成していた例もある。
    歩兵連隊と異なって、大隊結節を持たずに中隊から構成されていることがしばしばある。

    第一次世界大戦以降は騎兵が機械化されていくのに合わせて、騎兵連隊の名称を持ちながらも戦車連隊や自動車化歩兵連隊の実質を有する例も見られた。

    写真は救露(?チェコ軍救出)討伐独シベリア出兵・日本の騎兵連隊

  • 第二次世界大戦後は廃止が進み、騎兵連隊の名を残している国はアメリカやイギリス、フランスなどあまり多くは無く、またこれらはあくまで伝統的な理由で「騎兵」を冠しているにすぎない。<br /><br />写真はRoyal_guards_sweden:現代のスウエーデン騎兵

    第二次世界大戦後は廃止が進み、騎兵連隊の名を残している国はアメリカやイギリス、フランスなどあまり多くは無く、またこれらはあくまで伝統的な理由で「騎兵」を冠しているにすぎない。

    写真はRoyal_guards_sweden:現代のスウエーデン騎兵

  • ≪②“ベーゼラーガーの騎士”とヒトラー暗殺計画の「閃光」作戦≫<br /><br />Georg Freiherr von Boeselagerゲオルク・ベーゼラーガー男爵(1915~1944年)はドイツ国防軍の騎兵将校、優秀で、実に勇敢な軍人であった。<br />ベーゼラーガー騎兵団の創設という軍事政策上でも立派な功績を遺した。<br />東部戦線での戦死後、陸軍騎兵大佐に昇進。<br /><br />ドイツ抵抗運動の歴史の中で、かの有名なバンベルクの大聖堂にある理想の騎士像(13世紀)“バンベルクの騎士” の再来*とも云われたクラウス・シェンク・シュタウフェンベルク大佐が最も知られた存在です。<br /><br />(*シュタウフェンベルク大佐が入隊したのはバンベルク第17騎兵連隊であり、騎兵将校として育ち、勤務したのもこの地である。<br />また、ニーナ・レルヒェンフェルト男爵令嬢と知り合い、結婚式を挙げたのもバンベルクであった。後に英雄となった眉目秀麗な大佐を“バンベルクの騎士”の再来と称したのもバンベルク市民であれば、尤もなことかもしれない。)<br /><br />ゲオルク大佐が創設したベーゼラーガー騎兵団もまた良く知られていて、ゲオルク大佐は“ベーゼラーガーの騎士”と称されていると云う。<br /><br /><br />写真はゲオルク大佐

    ≪②“ベーゼラーガーの騎士”とヒトラー暗殺計画の「閃光」作戦≫

    Georg Freiherr von Boeselagerゲオルク・ベーゼラーガー男爵(1915~1944年)はドイツ国防軍の騎兵将校、優秀で、実に勇敢な軍人であった。
    ベーゼラーガー騎兵団の創設という軍事政策上でも立派な功績を遺した。
    東部戦線での戦死後、陸軍騎兵大佐に昇進。

    ドイツ抵抗運動の歴史の中で、かの有名なバンベルクの大聖堂にある理想の騎士像(13世紀)“バンベルクの騎士” の再来*とも云われたクラウス・シェンク・シュタウフェンベルク大佐が最も知られた存在です。

    (*シュタウフェンベルク大佐が入隊したのはバンベルク第17騎兵連隊であり、騎兵将校として育ち、勤務したのもこの地である。
    また、ニーナ・レルヒェンフェルト男爵令嬢と知り合い、結婚式を挙げたのもバンベルクであった。後に英雄となった眉目秀麗な大佐を“バンベルクの騎士”の再来と称したのもバンベルク市民であれば、尤もなことかもしれない。)

    ゲオルク大佐が創設したベーゼラーガー騎兵団もまた良く知られていて、ゲオルク大佐は“ベーゼラーガーの騎士”と称されていると云う。


    写真はゲオルク大佐

  • 騎兵第15連隊:<br /><br />1934年4月1日、ゲオルク男爵はパーダーボルンの騎兵第15連隊に入隊する。<br />騎兵教育後、1936年に陸軍騎兵少尉に任官、1939年には陸軍騎兵中尉に昇進。<br /><br />1939〜1941年、ポーランド及び西部戦線:<br /><br />1939年、ポーランド出征で2級鉄十字勲章を授与される。<br />1940年、西部戦線出征で1級鉄十字勲章(Eiserne Kreuz I. Klasse)を授与される。<br />1941年、戦闘における勇敢な行為に対し、特に騎士鉄十字勲章を授与される。<br />1941年には陸軍騎兵大尉に昇進。<br /><br />1941〜1945年、対ソ戦線(奇襲攻撃作戦:1941年6月〜12月バロバロッサ作戦):<br /><br />1941年12月、奇襲攻撃作戦における指揮に対し、柏葉付騎士鉄十字勲章を授与される。<br /><br />写真は柏葉付騎士鉄十字勲章

    騎兵第15連隊:

    1934年4月1日、ゲオルク男爵はパーダーボルンの騎兵第15連隊に入隊する。
    騎兵教育後、1936年に陸軍騎兵少尉に任官、1939年には陸軍騎兵中尉に昇進。

    1939〜1941年、ポーランド及び西部戦線:

    1939年、ポーランド出征で2級鉄十字勲章を授与される。
    1940年、西部戦線出征で1級鉄十字勲章(Eiserne Kreuz I. Klasse)を授与される。
    1941年、戦闘における勇敢な行為に対し、特に騎士鉄十字勲章を授与される。
    1941年には陸軍騎兵大尉に昇進。

    1941〜1945年、対ソ戦線(奇襲攻撃作戦:1941年6月〜12月バロバロッサ作戦):

    1941年12月、奇襲攻撃作戦における指揮に対し、柏葉付騎士鉄十字勲章を授与される。

    写真は柏葉付騎士鉄十字勲章

  • 1942年のしばらくの間、ゲオルク男爵はポツダムの北にあるKrampnitzクランプニッツで、ドイツ国防軍のSchnelle Truppen快速部隊=装甲部隊学校の戦術教官を務め、戦車部隊や偵察部隊の士官候補生を教育した。<br /><br />この時期に反ヒトラーを企てるドイツ国防軍の軍人グループと接触し、影響を受けた。<br /><br />1942年12月初め、ゲオルク男爵はスモレンスクにきて、クルーゲ元帥・中央軍集団司令官に面会し、機動性の高い騎兵部隊を軍または軍集団直轄の「火消し」部隊とし、砲兵、突撃砲、工兵などで支援させることを提案した。<br /><br />1943年1月13日、第4軍・第9軍・第3戦車軍に対し、指名された騎兵部隊をスモレンスクに移動させるよう指示が出された。<br /><br />新たな部隊は、“Der Reiterverband Boeselagersベーゼラーガー騎兵団”と名づけられ、4個中隊から成っていた。<br /><br />写真は1930年9月、騎兵の偵察行動

    1942年のしばらくの間、ゲオルク男爵はポツダムの北にあるKrampnitzクランプニッツで、ドイツ国防軍のSchnelle Truppen快速部隊=装甲部隊学校の戦術教官を務め、戦車部隊や偵察部隊の士官候補生を教育した。

    この時期に反ヒトラーを企てるドイツ国防軍の軍人グループと接触し、影響を受けた。

    1942年12月初め、ゲオルク男爵はスモレンスクにきて、クルーゲ元帥・中央軍集団司令官に面会し、機動性の高い騎兵部隊を軍または軍集団直轄の「火消し」部隊とし、砲兵、突撃砲、工兵などで支援させることを提案した。

    1943年1月13日、第4軍・第9軍・第3戦車軍に対し、指名された騎兵部隊をスモレンスクに移動させるよう指示が出された。

    新たな部隊は、“Der Reiterverband Boeselagersベーゼラーガー騎兵団”と名づけられ、4個中隊から成っていた。

    写真は1930年9月、騎兵の偵察行動

  • 1943〜1944年、ヒトラー暗殺未遂事件に関与:<br /><br />1943年3月13日、中央軍集団・参謀長Henning von Tresckowヘニング・トレスコウ少将らはヒトラーの前線(in Smolenskスモレンスク)視察の機会をとらえ、ヒトラー暗殺計画(3案)を立てた。ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟が志願して実行したが失敗に終わった。<br /><br />写真はヘニング・トレスコウ少将

    1943〜1944年、ヒトラー暗殺未遂事件に関与:

    1943年3月13日、中央軍集団・参謀長Henning von Tresckowヘニング・トレスコウ少将らはヒトラーの前線(in Smolenskスモレンスク)視察の機会をとらえ、ヒトラー暗殺計画(3案)を立てた。ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟が志願して実行したが失敗に終わった。

    写真はヘニング・トレスコウ少将

  • 「閃光」作戦と称した3案は:<br /><br />1943年2月、スターリングラード攻防戦の敗北後、ドイツ軍はソ連軍の攻勢に備えるための作戦を(第三次ハリコフ攻防戦)立案した。この作戦に関連してヒトラーは2月17日にザポロージェに置かれた南方軍集団司令部を飛行機で訪問した。<br /><br />これを好機と見たカナリス国防軍情報部長はスモレンスクの中央軍集団司令部にもヒトラーが訪れるよう工作した。中央軍集団司令官は以前から「黒いオーケストラ」グループに参加を求められていたギュンター・クルーゲ元帥であり、その参謀長は同グループのHenning von Tresckowヘニング・トレスコウ少将だった。彼は東部戦線におけるナチスのユダヤ人大虐殺に憤慨し暗殺を決意する。<br /><br />「閃光」とはトレスコウ少将が計画したヒトラー暗殺計画の隠語名である。彼は以前から情報担当参謀ルドルフ・クリストフ・ゲルスドルフ大佐に爆弾を用意させ、司令部周辺の森林で爆破テストを繰り返していた。 <br /><br />写真はトレスコウ少将夫妻の記念碑

    「閃光」作戦と称した3案は:

    1943年2月、スターリングラード攻防戦の敗北後、ドイツ軍はソ連軍の攻勢に備えるための作戦を(第三次ハリコフ攻防戦)立案した。この作戦に関連してヒトラーは2月17日にザポロージェに置かれた南方軍集団司令部を飛行機で訪問した。

    これを好機と見たカナリス国防軍情報部長はスモレンスクの中央軍集団司令部にもヒトラーが訪れるよう工作した。中央軍集団司令官は以前から「黒いオーケストラ」グループに参加を求められていたギュンター・クルーゲ元帥であり、その参謀長は同グループのHenning von Tresckowヘニング・トレスコウ少将だった。彼は東部戦線におけるナチスのユダヤ人大虐殺に憤慨し暗殺を決意する。

    「閃光」とはトレスコウ少将が計画したヒトラー暗殺計画の隠語名である。彼は以前から情報担当参謀ルドルフ・クリストフ・ゲルスドルフ大佐に爆弾を用意させ、司令部周辺の森林で爆破テストを繰り返していた。

    写真はトレスコウ少将夫妻の記念碑

  • <br />① 当初、ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟の指揮で、ヒトラーが空港から本部へ行く途中、森の中で射殺しようと目論んだが、武装したSS(総統親衛隊)が護衛したヒトラーを倒すことが困難だとして断念した。<br /><br />② 更に二つ目の案として、中央軍集団司令部で会食中にヒトラーを暗殺しようとしたが、クルーゲ元帥が反対したので断念してしまった。<br /><br />③ 最後の手段として、総統大本営に戻るヒトラーをその搭乗機ごと爆殺する計画に切り替え、クルーゲ元帥の了解も取り付けた。また、国内予備軍のオルブリヒト大将と連絡を取り、「ワルキューレ」作戦の発動を依頼した。<br /><br />写真はInschrift_am_Haupttor_der_Henning-von-Tresckow-Kaserne_in_Oldenburg:オルデンブルクにあるトレスコウ少将の名をつけた独軍兵舎の主門に刻まれた顕彰碑


    ① 当初、ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟の指揮で、ヒトラーが空港から本部へ行く途中、森の中で射殺しようと目論んだが、武装したSS(総統親衛隊)が護衛したヒトラーを倒すことが困難だとして断念した。

    ② 更に二つ目の案として、中央軍集団司令部で会食中にヒトラーを暗殺しようとしたが、クルーゲ元帥が反対したので断念してしまった。

    ③ 最後の手段として、総統大本営に戻るヒトラーをその搭乗機ごと爆殺する計画に切り替え、クルーゲ元帥の了解も取り付けた。また、国内予備軍のオルブリヒト大将と連絡を取り、「ワルキューレ」作戦の発動を依頼した。

    写真はInschrift_am_Haupttor_der_Henning-von-Tresckow-Kaserne_in_Oldenburg:オルデンブルクにあるトレスコウ少将の名をつけた独軍兵舎の主門に刻まれた顕彰碑

  • 3月13日、ヒトラーは搭乗機Focke-Wulf フォッケ・ヴルフ・Fw200コンドルで中央軍集団司令部に到着した。ヒトラーには総統副官のハインツ・ブラント大佐が同行していた。<br />一同が会食中、トレスコウ少将はブラント大佐に、”賭け事に負けた”という名目で「コアントロー」酒の小包を、参謀本部編成課長のヘルムート・シュティーフ大佐に届けるよう依頼した。しかし、この包みは酒瓶に見せかけた爆弾であった。<br /><br />同日午後1時過ぎ、ヒトラーは総統大本営に向けて飛び立った。<br /><br />爆発を確信したトレスコウ少将は国内予備軍司令部のオルブリヒト大将に連絡し、彼は「ワルキューレ」発動準備を下令した。<br /><br />しかし、ヒトラー搭乗機が途中、乱気流を避けるため急上昇したので、ロシア上空の寒気で凍結した時限装置が故障し、爆弾は爆発せず、ヒトラーは無事に総統大本営に到着することができた。<br /><br />計画の失敗を知り、トレスコウ少将はオルブリヒト大将に、「ワルキューレ」発動は演習だった事にして計画を中止させた。<br /><br />次に総統大本営のブラント大佐に連絡し、「間違えて別の酒を包んだので、その小包はシュティーフ大佐には渡さないように」と依頼。翌日、副官のファビアン・シュラーブレンドルフ中尉によって爆弾は回収され、計画は発覚しなかった。<br /><br />尚、映画「ワルキューレ作戦」でも、この様子が出ていたが、映画を見た時は「閃光」作戦の事を全く知らず、それが「閃光」作戦だったとは思いもしなかった。<br /><br />XXX<br /><br />写真はFocke-Wulf フォッケ・ヴルフ・Fw200コンドルの同型機

    3月13日、ヒトラーは搭乗機Focke-Wulf フォッケ・ヴルフ・Fw200コンドルで中央軍集団司令部に到着した。ヒトラーには総統副官のハインツ・ブラント大佐が同行していた。
    一同が会食中、トレスコウ少将はブラント大佐に、”賭け事に負けた”という名目で「コアントロー」酒の小包を、参謀本部編成課長のヘルムート・シュティーフ大佐に届けるよう依頼した。しかし、この包みは酒瓶に見せかけた爆弾であった。

    同日午後1時過ぎ、ヒトラーは総統大本営に向けて飛び立った。

    爆発を確信したトレスコウ少将は国内予備軍司令部のオルブリヒト大将に連絡し、彼は「ワルキューレ」発動準備を下令した。

    しかし、ヒトラー搭乗機が途中、乱気流を避けるため急上昇したので、ロシア上空の寒気で凍結した時限装置が故障し、爆弾は爆発せず、ヒトラーは無事に総統大本営に到着することができた。

    計画の失敗を知り、トレスコウ少将はオルブリヒト大将に、「ワルキューレ」発動は演習だった事にして計画を中止させた。

    次に総統大本営のブラント大佐に連絡し、「間違えて別の酒を包んだので、その小包はシュティーフ大佐には渡さないように」と依頼。翌日、副官のファビアン・シュラーブレンドルフ中尉によって爆弾は回収され、計画は発覚しなかった。

    尚、映画「ワルキューレ作戦」でも、この様子が出ていたが、映画を見た時は「閃光」作戦の事を全く知らず、それが「閃光」作戦だったとは思いもしなかった。

    XXX

    写真はFocke-Wulf フォッケ・ヴルフ・Fw200コンドルの同型機

  • 1943年6月1日、ゲオルグ男爵は陸軍騎兵少佐に昇進し、中央騎兵連隊司令官となる。<br />6月15日現在の中央騎兵連隊の規模は士官68名、軍属6名、兵下士官3163名、コサック兵716名、軍馬3016頭であったと云う。<br />1943年6月23日、ゲオルグ男爵は中央騎兵連隊司令官として、中央軍集団・参謀長ヘニング・トレスコウ少将に呼ばれ、パルチザン対策への具申を行う。<br /><br />1943年10月、さらなる戦いで、負傷。<br />1943年12月1日、陸軍騎兵中佐に昇進。<br />1944年2月、新たに負傷した為、6月の時点でもいまだ軍務に戻ることができずにいた。<br /><br />1944年6月、米英軍はノルマンディー上陸作戦を成功させ、東部戦線でもソ連軍の攻勢でドイツ軍中央軍は壊滅的打撃を受けて、ドイツの敗色は濃厚となっていた。<br />この祖国を救うには独裁者、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーを葬り去ることが必須だと、多数の軍人、政治家、官僚、知識人、文化人らが考え、ヒトラーの退陣、最後には暗殺を企てるグループが出てきた。後にゲシュタポによって「Schwarze Kapelle黒いオーケストラ」の名で呼ばれるようになる。<br /><br />1944年7月18日、ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟は共に1944年7月20日にヒトラー総統打倒の企ての同志として、男爵兄弟は騎兵第31連隊の1200名を指揮し、東部戦線からベルリンに向かった。<br />(詳細は次の章・フィリップ男爵の欄を参照)<br /><br />1944年7月20日、クラウス・シェンク・グラーフ・シュタウフェンベルク伯爵らはヒトラー暗殺未遂事件いわゆる“ワルキューレ作戦”を起こしたが失敗した。<br /><br />1944年8月27日にゲオルク男爵は東部戦線のポーランド・ウォムジャ(ドイツ名Lomschaロムシャ)でソ連軍の狙撃手に撃たれて戦死した。<br /><br />ゲオルク男爵は戦死後、騎兵大佐に昇進し、柏葉付騎士鉄十字章に剣を加えられた。 <br />(剣付き柏葉章受章者は159名のドイツ軍人と、1名の日本軍人(山本五十六)の計160名のみである。)<br /><br />写真は剣付・柏葉付騎士鉄十字章

    1943年6月1日、ゲオルグ男爵は陸軍騎兵少佐に昇進し、中央騎兵連隊司令官となる。
    6月15日現在の中央騎兵連隊の規模は士官68名、軍属6名、兵下士官3163名、コサック兵716名、軍馬3016頭であったと云う。
    1943年6月23日、ゲオルグ男爵は中央騎兵連隊司令官として、中央軍集団・参謀長ヘニング・トレスコウ少将に呼ばれ、パルチザン対策への具申を行う。

    1943年10月、さらなる戦いで、負傷。
    1943年12月1日、陸軍騎兵中佐に昇進。
    1944年2月、新たに負傷した為、6月の時点でもいまだ軍務に戻ることができずにいた。

    1944年6月、米英軍はノルマンディー上陸作戦を成功させ、東部戦線でもソ連軍の攻勢でドイツ軍中央軍は壊滅的打撃を受けて、ドイツの敗色は濃厚となっていた。
    この祖国を救うには独裁者、ナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーを葬り去ることが必須だと、多数の軍人、政治家、官僚、知識人、文化人らが考え、ヒトラーの退陣、最後には暗殺を企てるグループが出てきた。後にゲシュタポによって「Schwarze Kapelle黒いオーケストラ」の名で呼ばれるようになる。

    1944年7月18日、ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟は共に1944年7月20日にヒトラー総統打倒の企ての同志として、男爵兄弟は騎兵第31連隊の1200名を指揮し、東部戦線からベルリンに向かった。
    (詳細は次の章・フィリップ男爵の欄を参照)

    1944年7月20日、クラウス・シェンク・グラーフ・シュタウフェンベルク伯爵らはヒトラー暗殺未遂事件いわゆる“ワルキューレ作戦”を起こしたが失敗した。

    1944年8月27日にゲオルク男爵は東部戦線のポーランド・ウォムジャ(ドイツ名Lomschaロムシャ)でソ連軍の狙撃手に撃たれて戦死した。

    ゲオルク男爵は戦死後、騎兵大佐に昇進し、柏葉付騎士鉄十字章に剣を加えられた。 
    (剣付き柏葉章受章者は159名のドイツ軍人と、1名の日本軍人(山本五十六)の計160名のみである。)

    写真は剣付・柏葉付騎士鉄十字章

  • 敬意:<br /><br />ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟は1944年7月20日にシュタウフェンベルク伯爵たちのヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの一人として、歴史にその名を遺した。<br /><br />ゲオルグ男爵に敬意を表して、ドイツ国防軍はミュンスター(Oertze)にある兵営にゲオルグ・ベーゼラーガー男爵の名を付けている。<br /><br />また、ドイツ国防軍はゲオルク・ベーゼラーガー男爵を記念して、1970年より1996年までに実施されたドイツ軍とその同盟国の装甲偵察大隊の軍事汎用性競争をBoeselager-Wettkampfと名付けている。<br /><br />1966年、ボンのある通りをゲオルグ・ベーゼラーガー男爵通りとし、Freyungフライユング(Bayern)ではそこの兵営に向かう通りを“金色の小道”と名付けた。<br /><br />1993年、ゲオルグ男爵の生まれ故郷・居城(Burg Heimerzheimハイメルツハイム城)がある町(Swisttal- Heimerzheimシュヴィッタル‐ハイメルツハイム)では、地域中学校をゲオルグ・ベーゼラーガー中学校と名付けている。<br /><br />写真はBurg Heimerzheimハイメルツハイム城

    敬意:

    ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟は1944年7月20日にシュタウフェンベルク伯爵たちのヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの一人として、歴史にその名を遺した。

    ゲオルグ男爵に敬意を表して、ドイツ国防軍はミュンスター(Oertze)にある兵営にゲオルグ・ベーゼラーガー男爵の名を付けている。

    また、ドイツ国防軍はゲオルク・ベーゼラーガー男爵を記念して、1970年より1996年までに実施されたドイツ軍とその同盟国の装甲偵察大隊の軍事汎用性競争をBoeselager-Wettkampfと名付けている。

    1966年、ボンのある通りをゲオルグ・ベーゼラーガー男爵通りとし、Freyungフライユング(Bayern)ではそこの兵営に向かう通りを“金色の小道”と名付けた。

    1993年、ゲオルグ男爵の生まれ故郷・居城(Burg Heimerzheimハイメルツハイム城)がある町(Swisttal- Heimerzheimシュヴィッタル‐ハイメルツハイム)では、地域中学校をゲオルグ・ベーゼラーガー中学校と名付けている。

    写真はBurg Heimerzheimハイメルツハイム城

  • <br />≪③ベーゼラーガー騎兵団Reiterverband Boeselagerはベルリンへ前進せよ!≫<br /><br />1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したフィリップ・ベーゼラーガー男爵<br /><br />生誕と騎兵第15連隊:<br /><br />1917年、フィリップはWasserburg Heimerzheimハイメルツハイム水城で、父Freiherrn Albert von Boeselager (1883~1956) と母Gattin Freiin Maria-Theresia von Salis-Soglio (1890~1968)の9人の子供の5番目に生まれた。ドイツ国防軍の騎兵将校。<br /><br />Wasserburg Heimerzheimハイメルツハイム水城<br />http://www.burg-heimerzheim.de/<br />http://www.youtube.com/watch?v=ptIUbxMbOb4<br /><br />1936年には、フィリップ男爵は2つ上のゲオルク男爵と同様に、パーダーボルンの騎兵第15連隊に入隊する。<br />1938年9月、陸軍騎兵少尉に任官。<br />1939年には陸軍騎兵中尉に昇進。<br /><br />フィリップ中尉はゲオルク男爵と同じ第15騎兵連隊にいたが負傷し、復帰した1942年7月からKlugeクルーゲ陸軍元帥・中央軍集団司令官のもとで参謀を補佐する士官になる。<br />この頃、参謀長Henning von Tresckowヘニング・トレスコウ少将とも面識ができ、ヒトラー総統打倒の企てのグループに入った。<br /><br />1943年3月13日、中央軍集団・参謀長ヘニング・トレスコウ少将らはヒトラーの前線(in Smolenskスモレンスク)視察の機会をとらえ、ヒトラー暗殺計画(3案)を立てた。ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟が志願して実行したが失敗に終わった。<br />(「閃光」作戦の3案についてはゲオルク男爵の欄を参照)<br /><br />1943年5月、フィリップ男爵は大尉に昇進し、中央騎兵連隊第I大隊長となった。<br /><br />写真は男爵兄弟の生まれ育ったハイメルツハイム水城


    ≪③ベーゼラーガー騎兵団Reiterverband Boeselagerはベルリンへ前進せよ!≫

    1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に関与したフィリップ・ベーゼラーガー男爵

    生誕と騎兵第15連隊:

    1917年、フィリップはWasserburg Heimerzheimハイメルツハイム水城で、父Freiherrn Albert von Boeselager (1883~1956) と母Gattin Freiin Maria-Theresia von Salis-Soglio (1890~1968)の9人の子供の5番目に生まれた。ドイツ国防軍の騎兵将校。

    Wasserburg Heimerzheimハイメルツハイム水城
    http://www.burg-heimerzheim.de/
    http://www.youtube.com/watch?v=ptIUbxMbOb4

    1936年には、フィリップ男爵は2つ上のゲオルク男爵と同様に、パーダーボルンの騎兵第15連隊に入隊する。
    1938年9月、陸軍騎兵少尉に任官。
    1939年には陸軍騎兵中尉に昇進。

    フィリップ中尉はゲオルク男爵と同じ第15騎兵連隊にいたが負傷し、復帰した1942年7月からKlugeクルーゲ陸軍元帥・中央軍集団司令官のもとで参謀を補佐する士官になる。
    この頃、参謀長Henning von Tresckowヘニング・トレスコウ少将とも面識ができ、ヒトラー総統打倒の企てのグループに入った。

    1943年3月13日、中央軍集団・参謀長ヘニング・トレスコウ少将らはヒトラーの前線(in Smolenskスモレンスク)視察の機会をとらえ、ヒトラー暗殺計画(3案)を立てた。ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟が志願して実行したが失敗に終わった。
    (「閃光」作戦の3案についてはゲオルク男爵の欄を参照)

    1943年5月、フィリップ男爵は大尉に昇進し、中央騎兵連隊第I大隊長となった。

    写真は男爵兄弟の生まれ育ったハイメルツハイム水城

  • 第二次大戦時代・ヒトラー総統打倒の企てと失敗:<br /><br />≪“Zurueck in die alten Loecher”あるいは “Alles in die alten Loecher全てが古い穴の中(元の木阿弥・・・元の悪い状態に戻ること=>ヒトラー総統暗殺は失敗)”≫<br /><br />ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟は共に1944年7月20日にヒトラー総統打倒の企ての同志でした。<br /><br />フィリップ男爵は3Kavallerie-Brigade騎兵旅団=6 Schwadronen騎兵中隊=1200人を擁した。“ワルキューレ作戦”決行日前の1944年7月18日に1200名の騎兵を率いて、兄のゲオルクと共に、ベルリンに向かった。<br />ヒトラーの暗殺成功後、直ちに大物側近のヒムラー、ゲッペルスを捕えるために。<br /><br />当初、騎兵旅団は東部戦線のBrest-Litowskブレスト・リトフスク(現ベラルーシ)方向に馬を走らせた。<br />その後、ワルシャワに貨物自動車で運び、ワルシャワからベルリンには飛行機を利用することにして、ベルリンの国家保安本部を占拠することにしていた。<br /><br />この時、1200名の騎兵&quot;Reiterverband Boeselagerベーゼラーガー騎兵団(1943年1月設立)&quot;の内で、作戦の秘密を知っていたのはわずか二人の騎兵大尉だけだったそうです。<br /><br />“全てが古い穴の中(元の木阿弥・・・元の悪い状態に戻ること=>ヒトラー総統暗殺は失敗)”という伝言が同志Robert Bernardisロベルト・ベルナルディス中佐(ドイツ国防軍の参謀本部・8月8日絞首刑、後にオーストリア人のシュタウフェンベルクと称された。)からもたらされたのは、36時間の強行軍をした後でしたが、フィリップ男爵は帰還命令を出し、200 km先の東部戦線に引き返したのです。<br /><br />二人の騎兵大尉を除く、残りの兵は何かを疑うことはあったかもしれませんが、フィリップ男爵は兵たちからこの事で告発されることはなかった。<br /><br />写真はBundesverdienstkreuz_an_Freiherr_von_Boeselagerドイツ連邦功労十字勲章を授与されたフィリップ男爵

    第二次大戦時代・ヒトラー総統打倒の企てと失敗:

    ≪“Zurueck in die alten Loecher”あるいは “Alles in die alten Loecher全てが古い穴の中(元の木阿弥・・・元の悪い状態に戻ること=>ヒトラー総統暗殺は失敗)”≫

    ゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟は共に1944年7月20日にヒトラー総統打倒の企ての同志でした。

    フィリップ男爵は3Kavallerie-Brigade騎兵旅団=6 Schwadronen騎兵中隊=1200人を擁した。“ワルキューレ作戦”決行日前の1944年7月18日に1200名の騎兵を率いて、兄のゲオルクと共に、ベルリンに向かった。
    ヒトラーの暗殺成功後、直ちに大物側近のヒムラー、ゲッペルスを捕えるために。

    当初、騎兵旅団は東部戦線のBrest-Litowskブレスト・リトフスク(現ベラルーシ)方向に馬を走らせた。
    その後、ワルシャワに貨物自動車で運び、ワルシャワからベルリンには飛行機を利用することにして、ベルリンの国家保安本部を占拠することにしていた。

    この時、1200名の騎兵"Reiterverband Boeselagerベーゼラーガー騎兵団(1943年1月設立)"の内で、作戦の秘密を知っていたのはわずか二人の騎兵大尉だけだったそうです。

    “全てが古い穴の中(元の木阿弥・・・元の悪い状態に戻ること=>ヒトラー総統暗殺は失敗)”という伝言が同志Robert Bernardisロベルト・ベルナルディス中佐(ドイツ国防軍の参謀本部・8月8日絞首刑、後にオーストリア人のシュタウフェンベルクと称された。)からもたらされたのは、36時間の強行軍をした後でしたが、フィリップ男爵は帰還命令を出し、200 km先の東部戦線に引き返したのです。

    二人の騎兵大尉を除く、残りの兵は何かを疑うことはあったかもしれませんが、フィリップ男爵は兵たちからこの事で告発されることはなかった。

    写真はBundesverdienstkreuz_an_Freiherr_von_Boeselagerドイツ連邦功労十字勲章を授与されたフィリップ男爵

  • 1944年7月27日、フィリップ男爵は騎士十字章を授けられた。<br />さらに8月8日、第41騎兵連隊(第4騎兵旅団)の連隊長に補された。<br />1944年10月フィリップ男爵は陸軍騎兵少佐に昇進。<br />1945年4月16日、フィリップ少佐は第3騎兵師団第31騎兵連隊長となる。<br /><br />第3騎兵師団はオーストリア南端のBad Gleichenbergバート・グライヒェンベルク地域に後退して、退路を確保しつつ戦い続けた。<br /><br />1945年5月1日、ヒトラーの死が部隊に伝えられた。<br />降伏の地はオーストリアのグラーツ周辺で、幸いなことにソ連軍ではなくアメリカ軍に降伏することができた。<br /><br />1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件を起こした実行者・陸軍大佐クラウス・シェンク・グラーフ・シュタウフェンベルク伯爵たちのヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの一人として、フィリップ男爵も歴史にその名を遺したのである。<br /><br />写真はフィリップ男爵の居城Burg Kreuzbergクロイツベルク城

    1944年7月27日、フィリップ男爵は騎士十字章を授けられた。
    さらに8月8日、第41騎兵連隊(第4騎兵旅団)の連隊長に補された。
    1944年10月フィリップ男爵は陸軍騎兵少佐に昇進。
    1945年4月16日、フィリップ少佐は第3騎兵師団第31騎兵連隊長となる。

    第3騎兵師団はオーストリア南端のBad Gleichenbergバート・グライヒェンベルク地域に後退して、退路を確保しつつ戦い続けた。

    1945年5月1日、ヒトラーの死が部隊に伝えられた。
    降伏の地はオーストリアのグラーツ周辺で、幸いなことにソ連軍ではなくアメリカ軍に降伏することができた。

    1944年7月20日にヒトラー暗殺未遂事件を起こした実行者・陸軍大佐クラウス・シェンク・グラーフ・シュタウフェンベルク伯爵たちのヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの一人として、フィリップ男爵も歴史にその名を遺したのである。

    写真はフィリップ男爵の居城Burg Kreuzbergクロイツベルク城

  • 第二次大戦後:<br /><br />1948年にフィリップ・ベーゼラーガー男爵はRosa Maria Graefin von Westphalen zu Fuerstenbergローザ・マリア・ヴェストファーレン・フュルステンベルク伯爵夫人と結婚し、4人の子供をもうけた。<br />その後、1820年以来、男爵家の狩猟館であったBurg Kreuzbergクロイツベルク城(bei Altenahrアルテンアール・アイフェル地方)に転居し、居城とした。<br />フィリップ男爵は2008年5月、91歳で死ぬまでこの城で家族と共に過ごした。<br />フィリップ男爵は第二次大戦後、ドイツの森林開発の発展に尽くし、1968〜1988年の間、ドイツ森林所有者協会の会長を務めた。<br /><br />写真はフィリップ男爵の居城Burg Kreuzbergクロイツベルク城の居住棟

    第二次大戦後:

    1948年にフィリップ・ベーゼラーガー男爵はRosa Maria Graefin von Westphalen zu Fuerstenbergローザ・マリア・ヴェストファーレン・フュルステンベルク伯爵夫人と結婚し、4人の子供をもうけた。
    その後、1820年以来、男爵家の狩猟館であったBurg Kreuzbergクロイツベルク城(bei Altenahrアルテンアール・アイフェル地方)に転居し、居城とした。
    フィリップ男爵は2008年5月、91歳で死ぬまでこの城で家族と共に過ごした。
    フィリップ男爵は第二次大戦後、ドイツの森林開発の発展に尽くし、1968〜1988年の間、ドイツ森林所有者協会の会長を務めた。

    写真はフィリップ男爵の居城Burg Kreuzbergクロイツベルク城の居住棟

  • また、フィリップ・ベーゼラーガー男爵は戦後の半生をかつての時代、つまりヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの最後の体験者として、生き証人として、更に、抵抗運動の語り部として発言を続けてきました。<br />様々な分野の媒体を通して、また直接にその見解を述べている。新聞や雑誌、ラジオ、テレビで、公の場や、学校でも・・・。<br /><br />前述したごとく、ドイツ国防軍はゲオルク・ベーゼラーガー男爵を記念して、1970年より1996年までに実施されたドイツ軍とその同盟国の装甲偵察大隊の軍事汎用性競争をBoeselager-Wettkampfと名付けているが、フィリップ男爵はこのコンテストのSchirmherrパトロン(後援者)であった。<br /><br />兄ゲオルクと共にベーゼラーガー騎兵連隊を率いて蜂起計画に参加したフィリップ・ベーゼラーガー男爵(1917〜2008年)は兄の戦死後も生き残って、91歳という長寿を全うし、2008年5月1日の夜、居城のBurg Kreuzbergクロイツベルク城(bei Altenahrアルテンアール・アイフェル地方)で死去した。<br />ヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの最後の生き残りでした。<br /><br />写真は一族の居城Schloss_Heessen

    また、フィリップ・ベーゼラーガー男爵は戦後の半生をかつての時代、つまりヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの最後の体験者として、生き証人として、更に、抵抗運動の語り部として発言を続けてきました。
    様々な分野の媒体を通して、また直接にその見解を述べている。新聞や雑誌、ラジオ、テレビで、公の場や、学校でも・・・。

    前述したごとく、ドイツ国防軍はゲオルク・ベーゼラーガー男爵を記念して、1970年より1996年までに実施されたドイツ軍とその同盟国の装甲偵察大隊の軍事汎用性競争をBoeselager-Wettkampfと名付けているが、フィリップ男爵はこのコンテストのSchirmherrパトロン(後援者)であった。

    兄ゲオルクと共にベーゼラーガー騎兵連隊を率いて蜂起計画に参加したフィリップ・ベーゼラーガー男爵(1917〜2008年)は兄の戦死後も生き残って、91歳という長寿を全うし、2008年5月1日の夜、居城のBurg Kreuzbergクロイツベルク城(bei Altenahrアルテンアール・アイフェル地方)で死去した。
    ヒトラー総統打倒の企てに参加した人たちの最後の生き残りでした。

    写真は一族の居城Schloss_Heessen

  • 敬意:<br /><br />フィリップ男爵の死後、その栄誉を記念し、2009年10月にGelsdorfゲルスドルフにあるドイツ国防軍の兵営にフィリップ男爵の名前を付けている。<br />2010年には保養地バート・ノイェンアール・アールヴァイラーの中学校に彼の名を付けています。<br /><br />XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX<br /><br />写真は一族の居城Schloss_Hoellinghofen

    敬意:

    フィリップ男爵の死後、その栄誉を記念し、2009年10月にGelsdorfゲルスドルフにあるドイツ国防軍の兵営にフィリップ男爵の名前を付けている。
    2010年には保養地バート・ノイェンアール・アールヴァイラーの中学校に彼の名を付けています。

    XXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXXX

    写真は一族の居城Schloss_Hoellinghofen

  • 尚、ヒトラー暗殺計画の首謀者の一人であったHenning Hermann Robert Karl von Tresckowヘニング・ヘルマン・ロベルト・カール・フォン・トレスコウ(1901〜1944年)陸軍少将は1944年7月20日ワルキューレ作戦の失敗を知ると、東部戦線のオストロフ(現ロシア)で、7月21日早朝に手りゅう弾を自ら爆発させて自決している。<br /><br />XXX<br /><br />写真は一族の居城Burg_Peppenhoven

    尚、ヒトラー暗殺計画の首謀者の一人であったHenning Hermann Robert Karl von Tresckowヘニング・ヘルマン・ロベルト・カール・フォン・トレスコウ(1901〜1944年)陸軍少将は1944年7月20日ワルキューレ作戦の失敗を知ると、東部戦線のオストロフ(現ロシア)で、7月21日早朝に手りゅう弾を自ら爆発させて自決している。

    XXX

    写真は一族の居城Burg_Peppenhoven

  • ドイツ北方2州の旅の帰途に出会ったゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟・・・、何度かシュタウフェンベルク伯爵たちのヒトラー総統打倒の企てについて書いたが、2014年春の旅も大いに収穫のあった旅になった思いがする。<br /><br />写真は一族の居城Schloss-gemuenden

    ドイツ北方2州の旅の帰途に出会ったゲオルク&フィリップ・ベーゼラーガー男爵兄弟・・・、何度かシュタウフェンベルク伯爵たちのヒトラー総統打倒の企てについて書いたが、2014年春の旅も大いに収穫のあった旅になった思いがする。

    写真は一族の居城Schloss-gemuenden

  • フィリップ・ベーゼラーガー男爵はクロイツベルク城(bei Altenahrアルテンアール・アイフェル地方)で亡くなっていますが、近くのバート・ノイエンアールは何度か訪れました。カジノがある保養地であり、赤ワインの産地で美味しい料理も食べた記憶があります。<br /><br />アルテンアールはそこから更に15km西に行った所で、クロイツベルク城はさらに南に2kmの辺りにあるようです。<br /><br />この道はモーゼル流域に通じているので、走ったこともありますが、さすがにフィリップ・ベーゼラーガー男爵やクロイツベルク城は知りませんでした。<br />私がこの辺りを走っていた頃もフィリップ男爵はまだ存命であったようです。<br /><br />(参照;Wik他・・・2014年10月12日編集・加筆)<br /><br />XXX<br /><br />写真は一族の居城Eggermuehlen_Schloss

    フィリップ・ベーゼラーガー男爵はクロイツベルク城(bei Altenahrアルテンアール・アイフェル地方)で亡くなっていますが、近くのバート・ノイエンアールは何度か訪れました。カジノがある保養地であり、赤ワインの産地で美味しい料理も食べた記憶があります。

    アルテンアールはそこから更に15km西に行った所で、クロイツベルク城はさらに南に2kmの辺りにあるようです。

    この道はモーゼル流域に通じているので、走ったこともありますが、さすがにフィリップ・ベーゼラーガー男爵やクロイツベルク城は知りませんでした。
    私がこの辺りを走っていた頃もフィリップ男爵はまだ存命であったようです。

    (参照;Wik他・・・2014年10月12日編集・加筆)

    XXX

    写真は一族の居城Eggermuehlen_Schloss

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この旅行記へのコメント (2)

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  • frau.himmelさん 2015/01/03 13:34:44
    明けましておめでとうございます
    新年早々、大変読み応えのある旅行記を拝見させていただきました。
    jijidarumaさんらしい大変詳細にお調べになったヒトラー暗殺未遂事件のメンバーのこと。

    ベーゼラガー男爵兄弟のことは全く知りませんでした。
    ああ、でも兄のゲオルク男爵は戦死なさって残念でしたが、弟のフィリップ男爵は処刑されなくて生き続けられたのですね。
    そして、暗殺事件の語り部となり91歳まで生きられた・・ほっとする読後感でした。

    シュタウフェンベルクがバンベルクの騎士の再来と呼ばれたこと、なるほどですね。

    ところでjijidarumaさんは、「ベルリン水曜会」のことをご存知ですか?
    ヒトラー暗殺事件に関与したルートヴィッヒ・ベック将軍やシュプランガー教授など、主に知識人達からなる集会らしいです。
    実は、夫はベック将軍の父親ことを前にちょっとばかり調べておりました。
    このたび、大掃除をしていたら「ベルリン水曜会」の本が出てきたから読みなさいと1冊の本をくれました。

    ぼちぼちヒマを見つけて読んでみたいと思っていますが、文書だけの本と言うのは、齢を取りますと読むのがつらくなります。

    ご健康とご多幸をお祈りいたします。

    himmel

    jijidaruma

    jijidarumaさん からの返信 2015/01/04 15:17:04
    明けましておめでとうございます
    himmelさん

    新年おめでとうございます。

    早々と4日目が過ぎましたね。我が家は1日目から娘2家族(9名)が来訪し、毎年のことながら、大騒ぎの正月のなりました。
    長女の家族は都内にいるせいで、こちらに来るチャンスが少なく、その分纏めて3泊して帰りました。

    ベーゼラガー男爵兄弟のことは、私もSchloss Neuhaus ノイハウス城で初めて顕彰碑を目にして知ったぐらいです。もっと未知な部分があることでしょう。シュタウフェンベルクがバンベルクの騎士の再来と呼ばれたこと、“ベーゼラーガーの騎士”と呼ばれたゲオルク・ベーゼラーガー男爵とか、未知の事を知るのは実に楽しいことです。

    「ベルリン水曜会」の本は大作のようですね。私は読んだことも無く、himmelさんがご一読いただいた後、分かりやすくご紹介を頂くのに期待した方が良さそうです(恐縮!)

    それはともあれ、今年も旅のご報告を楽しみにしております。

    良い年のスタートを、そして元気な一年となりますように!

    jijidaruma


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