2013/09/24 - 2013/10/02
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スフォルツェスコ城は、1450年にミラノ公爵フランチェスコ・スフォルツァが、ヴィスコンティ家の居城として建設されました。現在は美術館として利用されていますが、レオナルド・ダ・ヴィンチの晩年と縁が深いお城です。ミケランジェロの最後の作品といわれる『ロンダニーニのピエタ』の展示でも有名です。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)
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ミラノで宿泊した『アタホテル・クアーク・ミラノ』のベランダから眺めた、静かな朝の光景です。ミラノの郊外らしく緑の多い光景が広がっていました。雨は降っていませんが、昨日と同様、どんよりとした空模様でした。『アタホテル・クアーク』は、ミラノのリパモンティ コルヴェット地区にあり、郊外に位置します。利用はしていませんが、地下照駅が近いようです。
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同じく、『アタホテル・クアーク・ミラノ』のベランダから眺めた光景です。このホテルは、スカラ座やレオナルド・ダ・ヴィビンチ科学技術博物館、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガッレリアなどの見学には便利な場所のようでした。郊外ですから、敷地を広くとった中層階のホテルでした。
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ホテルで朝食を済ませて、早速、この日のミラノ見学の始まりです。最初に向かったのは、『スフォルツェスコ城』です。2000年のイタリア旅行の時にも立寄った中世のお城跡です。ところで、ミラノは 、パリ、ニューヨーク、ロンドンの世界4大都市で開催されるファッションショーの開催地です。ファッション関連らしい大きな看板がありました。
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『スフォルツェスコ城』に到着しました。1358年から1370年頃、中世イタリア・ミラノの名族のヴィスコンティ家のガレアッツォ2世・ヴィスコンティによって建設された城塞です。一族の居城として、子孫たちによって拡張されていきましたが、1447年にミラノで発足した『アンブロジアーナ共和国(1447~1450年)』によって破壊されました。
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『スフォルツェスコ城』の近くにあった噴水の光景です。『スフォルツェスコ城』は、もともとは星型の形状の広大な城郭でしたが、現存しているのは、その面積の1/4程度以下とされ、一辺200メートル程の城壁に囲まれています。城跡のその他の敷地は、センピオーネ公園や道路となっています。勢いよく噴き上げていたこの噴水は、通称のようですが、『カステッロ広場の噴水』と呼ばれているようです。
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イチオシ
一辺200メートル程の城壁に囲まれた『スフォルツェスコ城』の正面隅には、円形の楼塔があり、その中央に位置する『フィレーテの塔』の光景です。『スフォルツェスコ城』は、ミラノにある最大のルネッサンス建造物とされます。14世紀に権威を振るったヴィスコンティ家の居城を、15世紀半ばにミラノ公爵だった『フランチェスコ・スフォルツァ(1401~1466年)』が改築しました。その後、16世紀から17世紀にかけ改装・増築され、ヨーロッパ内でも屈指の重厚な石造りの城塞となりました。この塔に備え付けられて装飾は比較的新しく、時計は約100年前に追加されたもののようです。
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イチオシ
現在の『スフォルツェスコ城』の正面隅にある円形の楼塔の光景です。城壁を含めて、宮殿のイメージではなく、城砦の色彩が色濃く残る建物です。こちらが正面の『フィレーテの塔』に向かって左側の楼塔になります。ネット情報では、『塔は監獄跡』と紹介したものがありました。そうであれば、数多く開けられた窓は、死角のない監視の目になるようです。
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ここからは『スフォルツェスコ城』の城壁内に入城しての見学です。現在の城跡は、200メートル四方ですから、4ヘクタールになります。アールでいえば400アール、メートル法でいえば4万平方メートルの広さになります。『スフォルツェスコ城』に関する公式サイトを閲覧することはできましたが、10メートルを超えるように見えた、城壁に関する諸元は見つかりませんでした。
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高さ等は分かりませんでしたが、一辺が200メートル程とされる城壁の光景です。4ヘクタールとされる広大な敷地を取り囲む兵ですから、実際の高さより低く見えているようです。ネット写真などを参照しますと、建物3階分の高さはあるようでした。城壁の上に巡察路が設けられた要塞の重要な施設として、増強・補修されてきたようです。
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入城した後で、内側から眺めた『フィレーテの塔』の光景です。高さは、109メートルとされます。1358年から1370年頃、ヴィスコンティ家のガレアッツォ2世・ヴィスコンティによって建設された『スフォルツェスコ城』のその後の歴史の紹介です。簡単に触れた部分は、紹介が少し重複します。ヴィスコンティ家に代わった『フランチェスコ・スフォルツァ(1401~1466年)』の略歴です。傭兵隊長の子として生まれ、1412年12月、11歳の時に父に従いナポリに移り、ナポリ王ラディズラーオ1世(1376~1414年)によって騎士に叙任され、トリカーリコ伯に封ぜられました。現在のバジリカータ州マテーラ県にある基礎自治体(コムーネ)です。スフォルツァは、ミラノ公・フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティの娘、ヴィアンカ・マリーアと結婚しました。
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同じく、城内側から眺めた『フィレーテの塔』の光景です。『スフォルツェスコ城』を破壊した『アンブロジアーナ共和国』を攻めたのは、ヴェネチアと組んだ『フランチェスコ・スフォルツァ』でした。『アンブロジアーナ共和国』は建国して3年後の1450年に崩壊しました。ヴィスコンティ家に変わりフランチェスコ・スフォルツァはミラノを再建、居城を改築し城塞としました。1452年、スフォルツァに仕えていたフィレンツェの『アントニオ・フィラレーテ』が、中央塔のファサードを設計しましたが、生前には完成出来ませんでした。引き継いだのは、スフォルツァの信頼を得ていた軍の建築家です。巨大な二つの円塔とフィラレーテ・タワーが建てられました。
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『フィレーテの塔』の中間付近の装飾のズームアップ光景です。『ガレアッツォ・マリーア』が陰謀により暗殺されたため、2番目の妻『ボナ・ディ・サヴォイア』が、まだ若い息子の『デューク・ジャン・ガレアッツォ・マリーア』の摂政となりました。1477年、ボナ・ディ・サヴォイアの塔が建てられました。ここで、『スフォルツェスコ城』の歴史紹介は、一旦、中断します。
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中央の白い石像は、ミラノの守護聖人の『聖アンブロジウス』とされます。『聖アンブロジウス(340?~397年)』は、ギリシャ語にも精通し、東方教父の思想をラテン語に通訳して西方教会に教えをもたらした西方キリスト教神学の貢献者です。4世紀にミラノの司教(主教)を務めました。左はヴィスコンティ家の大蛇の紋章、右は1450年スフォルツァ家がミラノ公に即位した時のミラノ公国の紋章です。
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イチオシ
ミラノの守護聖人の『聖アンブロジウス』のレリーフのズームアップ光景です。正教会、非カルケドン派、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会で聖人とされ、記念日は12月7日です。四大ラテン教父・西方の四大教会博士の一人に数えられます。ローマ帝国(西ローマ帝国)時代のキリスト教の神学者、『アウグスティヌス(354~430年)』に影響を与えたことでも有名です。アンブロシウス、アンブロシイとも日本語表記されます。
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ミラノの守護聖人の『聖アンブロジウス』について、もう少し補足します。アンブロジウスは親代々が元老院に議席を持つ、ローマ名門貴族の出身です。父親が帝国内の各地方で長官を務めた後、西方首都の一つ、トリアー(現在のドイツ)でガリア地域の長官として赴任中の340年頃、10歳上の姉マルチェリーナ、すぐ上の兄サティロにつぐ第三子としてアンブロジウスは生まれました。
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アンブロジウスが幼い頃に父親が亡くなりました。このため、母親と姉、兄とともにローマに戻りました。アンブロジウス家は、ローマ名門貴族で、チリアや北アフリカに広大な大規模農地を所有していました。アンブロジウスはラテン語文法学と修辞学、ギリシャ語等、伝統的な高等教育を治めた後、父親と同様に帝国高級官僚の道を進みました。
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アンブロジウスは、365年頃、兄のサティロとともにシルミウム(現在のセルヴィア)に赴任し、370年頃、ミラノを首府とする『リグーリアとエミリア州(現在のロンバルディア、ピエモンテ東部、エミリアーロマーア州西部などを含む地域)』州知事に赴任しました。当時の皇帝『ヴァレンティニアヌス1世(321~375年:在位364~375年)から任命されました。
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『スフォルツェスコ城』の城内光景が続きます。日本で例えれば、大阪城や、江戸城に匹敵する役割を担ったお城のようです。イタリア国内だけでなく、ヨーロッパ全土での屈指のお城ですから、それ以上の歴史的評価があってもおかしくない城砦になるようです。
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天使が足元に寄り添う、十字架を手にした聖人らしい人物像の光景です。いろいろと調べてはみましたが、人物を特定することはできませんでした。推測になりますが、ミラノの守護聖人の『聖アンブロジウス』以外に該当する人はいないようです。台座に紋章らしいものが見えましたので、これ等が読み溶ければヒントになりそうです。
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アーチ門の上部に見える白っぽい部分は、『ヴィスコンティ家の紋章』が掲げられているようです。『ヴィスコンティ家』は、イタリアの貴族の家系で、13世紀には一族からローマ教皇グレゴリウス10世(1210~1276年:在位1271~1276年)』を出し、都市国家だったミラノの支配権を確立、1395年には『ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ』が皇帝に認められてミラノ公になった家です。紋章は、人を飲み込む大蛇で、ビショーネ(ビッシオーネ)と呼ばれます。近・現代では、アルファロメオのエンブレムとしても知られています。
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緑の芝生が生えている箇所は、堀跡でしょうか、丸い石が整列していました。大砲の弾丸が石だった時代の名残のようです。『ヴァレンティニアヌス1世』は、ヴァレンティニアヌス朝の創始者で、『ヴァレンティニアヌス大帝』とも呼ばれます。後に聖人と称されたアンブロジウスは、皇帝からの信頼が厚く、真面目さと公正さで人々からの評価も高かったとされます。
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場所を変えて眺めた、丸い石が整列していた堀跡の光景です。『射石砲(しゃせきほう)』は、『ボンバード』とも呼ばれ、中世に用いられた最も初期の大砲の一種です。その名のとおり石を打ち出すもので、多くは攻城戦で用いられました。代表的な射石砲には、ベルギーで1449年に作られたモンス・メグがあります。これは186キロの石を発射することができました。
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『スフォルツェスコ城』の歴代城主当たりの騎馬像のようですが、結種は分かりませんでした。再び、『スフォルツェスコ城』の歴史紹介に戻ります。その後、ガレアッツォの弟ルドヴィーゴ・マリーア・スフォルツァ(通称=イル・モーロ)が実権を握り、ミラノの支配者となり、甥のジャン・ガレアッツォたちを追放します。
〇1497年:お城の増改築は中断されました。
〇1497年:ルドヴィーゴの妻ベアトリーチェが死産により死去しました。
〇1499年:神聖ローマ帝国、ハプスブルク家がフランス国と敵対し、ハプスブルク家を後ろ盾にしていたルドヴィコは神聖ローマ帝国側につきました。 -
〇1500年:フランス軍により、スフォルツェスコ城は包囲されました。
〇1508年:スイス傭兵の裏切りなどがあり、ルドヴィーゴは獄死しました。また、フィラレーテ・タワーが爆発し半壊します。
〇1534年:フランチェスコ・スフォルツァが権力を取り戻しお城は修復されました。ただし、塔は無い状態で、再び公爵の居城となる事はありませんでした。 -
〇1535年:ミラノ公国は、ミラノ公死去により神聖ローマ皇帝カール5世が継承し、スペイン領地となりました。
〇1701年:スペイン継承戦争が始まりました。
〇1707年:オーストリアが支配、ラシュタット条約によってオーストリアのハプスブルク家の領地として正式に認められました。 -
〇1796年:ナポレオン・ボナパルトによって一部が破壊されました。
〇1891年~1905年:城の修復工事。この時携わった建築家の中心人物はイタリアのルカ・ベルトラミです。
〇2013年:16世紀のフレスコ画の構造工事と修復が行われました。
以上で、『スフォルツェスコ城』の歴史紹介はお終いです。 -
『スフォルツェスコ城』の歴史紹介が済んだところで、ミラノの世界遺産についての紹介です。世界遺産は、1972年のユネスコ総会で採択された『世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約』に基づいています。『世界遺産リスト』に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産が対象となっています。現在(2021年)その件数は1121件です。その最多の登録数を持つのがイタリアと中国で、それぞれ55件です。世界遺産条締約国は193か国、世界遺産総数は1121件の内訳は、文化遺産が869件・自然遺産が213件・複合遺産が39件です。
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今回のイタリア旅行で見学した世界遺産は、ローマ歴史地区、フィレンツェ歴史地区、ピサのドゥオモ地区、ヴェネツィアとその潟、ナポリ歴史地区、ヴェローナ市街、アマルフィ海岸をはじめとする9箇所でした。ここで敢て世界遺産のことを紹介した理由は、当然登録されていると思い込んでいた『ミラノのドゥオモ』が含まれていないことがきっかけです。400年以上をかけて建設されたその『ミラノのドゥオモ』の大聖堂の素晴らしさは、この後に紹介しますが、『ミラノの歴史地区』当たりの名称で世界遺産に登録されているものと思っていました。改めて、ネット上での旅行案内に目を通してみても、世界遺産と勘違いするような紹介記事と写真で溢れていました。
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2000年のイタリア旅行の直前に購入した『るるぶ2000ITALY』の『イタリア:ローマ、フィレンツェ、ミラノ、ヴェネツィア』にも、ミラノ観光の目玉として写真紹介され、解説文でも『14世紀末のドゥオモからミラノの街造りが始まった』、と紹介されていました。どうやらこの時点から私の勘違いが始まっていたようです。
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この後紹介するミラノのドゥオモは、ゴシック様式の聖堂としては、イタリア最大の規模を誇ります、建築の立案と着工は1386年、1887年に大聖堂全体の建築と装飾が終了しました。14~19世紀にロンバルディア州で活躍した第一級の建築家と芸術家が参画しました。ナポレオンがミラノを支配した19世紀初頭には、ファサードの建造をナポレオンみずからが指揮した記録が残るなど、歴史的にも特筆されます。
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