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ミラノのドゥオモ広場の北に位置するアーケードの紹介です。ミラノ・スカラ座に通じているガレリアです。最初に1861年にデザインされ、イタリアの建築家ジュゼッペ・メンゴーニによって1865年から1877年の間に建設されました。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)

2013秋、イタリア旅行記2(35/53):9月30日(2):ミラノ(2):スカラ座、ダヴィンチ像、ガレリア、ドゥオモ

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2013/09/24 - 2013/10/02

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旅人のくまさん

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ミラノのドゥオモ広場の北に位置するアーケードの紹介です。ミラノ・スカラ座に通じているガレリアです。最初に1861年にデザインされ、イタリアの建築家ジュゼッペ・メンゴーニによって1865年から1877年の間に建設されました。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)

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  • イタリアのオペラの殿堂、ミラノ・スカラ座の建物正面光景です。初代の宮廷劇場以来の伝統を持つ、イタリアオペラ界の最高峰とされます。現在の建物は2代目のもので、初代のオーストリアの領地時代のテアトロ・ドゥカーレは、1776年2月25日、謝肉祭のガラ・コンサート後に焼失しました。1776年、女帝マリア・テレジアにより設計案が承認され、新劇場はサンタ・マリア・アラ・スカラ教会跡に建設され、ここから劇場名がとられました。新劇場は『国立スカラ新劇場』の名前で1778年8月3日に落成しました。

    イタリアのオペラの殿堂、ミラノ・スカラ座の建物正面光景です。初代の宮廷劇場以来の伝統を持つ、イタリアオペラ界の最高峰とされます。現在の建物は2代目のもので、初代のオーストリアの領地時代のテアトロ・ドゥカーレは、1776年2月25日、謝肉祭のガラ・コンサート後に焼失しました。1776年、女帝マリア・テレジアにより設計案が承認され、新劇場はサンタ・マリア・アラ・スカラ教会跡に建設され、ここから劇場名がとられました。新劇場は『国立スカラ新劇場』の名前で1778年8月3日に落成しました。

  • 同じく、ミラノ・スカラ座の建物正面光景です。落成した劇場は、ほどなく『スカラ座』の名で知られるようになり、高貴で裕福なミラノ市民の社交場となりました。はじめはオイルランプでしたが、ガス灯に替わり、1883年には電灯に交換されました。第二次世界大戦中の1943年、連合国による爆撃で大きく破壊されましたが、その後修復されました。

    同じく、ミラノ・スカラ座の建物正面光景です。落成した劇場は、ほどなく『スカラ座』の名で知られるようになり、高貴で裕福なミラノ市民の社交場となりました。はじめはオイルランプでしたが、ガス灯に替わり、1883年には電灯に交換されました。第二次世界大戦中の1943年、連合国による爆撃で大きく破壊されましたが、その後修復されました。

  • ヨーロッパ戦線における戦闘が終結してからわずか1年後、1946年5月11日に、『アルトゥーロ・トスカニーニ(1867~1957年)』の指揮による演奏会で再開しました。トスカニーニは、1929年にウィーンとベルリンでスカラ座の引っ越し公演を行い、歴史的成功を収めましたが、直後にスカラ座を辞任しました。その理由は、ムッソリーニがスカラ座を政治的に利用しようとしていることを察知したためです。

    ヨーロッパ戦線における戦闘が終結してからわずか1年後、1946年5月11日に、『アルトゥーロ・トスカニーニ(1867~1957年)』の指揮による演奏会で再開しました。トスカニーニは、1929年にウィーンとベルリンでスカラ座の引っ越し公演を行い、歴史的成功を収めましたが、直後にスカラ座を辞任しました。その理由は、ムッソリーニがスカラ座を政治的に利用しようとしていることを察知したためです。

  • 台座に『LEONALDO』の文字が刻まれていましたから、歴史的大天才の『レオナルド・ダ・ヴィンティンチ(1452~1519年)』の像です。ルネサンス期を代表する芸術家であり、『飽くなき探究心』と『尽きることのない独創性』を兼ね備えた人物といわれ、史上最高の画家の一人と称されるとともに、人類史上で最も多才との呼び声も高い人物です。画家としては後輩筋のミケランジェロやラファエロと違って、美術の中心地ローマで活躍することはできず、17世紀から18世紀まではこの2人と比較しますと無名同然でした。現在のように高く評価されるようになったのは、19世紀に入って手稿が研究されてからです。

    イチオシ

    台座に『LEONALDO』の文字が刻まれていましたから、歴史的大天才の『レオナルド・ダ・ヴィンティンチ(1452~1519年)』の像です。ルネサンス期を代表する芸術家であり、『飽くなき探究心』と『尽きることのない独創性』を兼ね備えた人物といわれ、史上最高の画家の一人と称されるとともに、人類史上で最も多才との呼び声も高い人物です。画家としては後輩筋のミケランジェロやラファエロと違って、美術の中心地ローマで活躍することはできず、17世紀から18世紀まではこの2人と比較しますと無名同然でした。現在のように高く評価されるようになったのは、19世紀に入って手稿が研究されてからです。

  • 黄色のバラが咲く、ダヴィンチ像の下部の周りの光景です。ミケランジェロの弟子で、『画家・彫刻家・建築家列伝』を著した『ジョルジョ・ヴァザーリ(1511~1574)』は、『レオナルドが菜食主義者であり、籠に入って売られている鳥を購入してはその鳥を放してやるような、命あるものをこよなく愛する人物だった』ことを紹介しています。

    黄色のバラが咲く、ダヴィンチ像の下部の周りの光景です。ミケランジェロの弟子で、『画家・彫刻家・建築家列伝』を著した『ジョルジョ・ヴァザーリ(1511~1574)』は、『レオナルドが菜食主義者であり、籠に入って売られている鳥を購入してはその鳥を放してやるような、命あるものをこよなく愛する人物だった』ことを紹介しています。

  • ダヴィンチ像の下部の周りに配された、彼の弟子たちらしい像のズームアップ光景です。円熟期の1506年に、レオナルドはミラノを訪れました。ベルナルディーノ・ルイーニ、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ、マルコ・ドッジョーノら、絵画分野におけるレオナルドの主要な弟子や追随者たちは、このミラノ滞在時に関係があった人達です。ただし、この時の滞在は短期間でした。

    ダヴィンチ像の下部の周りに配された、彼の弟子たちらしい像のズームアップ光景です。円熟期の1506年に、レオナルドはミラノを訪れました。ベルナルディーノ・ルイーニ、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ、マルコ・ドッジョーノら、絵画分野におけるレオナルドの主要な弟子や追随者たちは、このミラノ滞在時に関係があった人達です。ただし、この時の滞在は短期間でした。

  • スカラ広場の周りの建物光景です。広場の北側に建つ『ガッレリア・ディタリア美術館』です。主に1800年代後半から1900年代前半の絵画を中心にした近代美術館とされます。 この美術館の展示してある作品は、主にミラノの銀行や個人蔵であったものが多いようです。

    スカラ広場の周りの建物光景です。広場の北側に建つ『ガッレリア・ディタリア美術館』です。主に1800年代後半から1900年代前半の絵画を中心にした近代美術館とされます。 この美術館の展示してある作品は、主にミラノの銀行や個人蔵であったものが多いようです。

  • 『レオナルド・ダ・ヴィンチ』は、スフォルツァ家の当主『イル・モーロ(1452~1508年:在位1494~1500年)』に呼ばれてこのミラノにやってきました。その目的はミラノを守るための軍事的なアドバイスのためでした。『万能の天才』の『ダ・ヴィンチ』は、画家としての才能だけでなく、数学、幾何学、科学、工学、建築学など多方面にも並外れた才能を持っていました。音楽にも長けた人です。

    『レオナルド・ダ・ヴィンチ』は、スフォルツァ家の当主『イル・モーロ(1452~1508年:在位1494~1500年)』に呼ばれてこのミラノにやってきました。その目的はミラノを守るための軍事的なアドバイスのためでした。『万能の天才』の『ダ・ヴィンチ』は、画家としての才能だけでなく、数学、幾何学、科学、工学、建築学など多方面にも並外れた才能を持っていました。音楽にも長けた人です。

  • 右手の方が少し樹木に隠れてしまいましたが、最後にもう一度、スカラ広場に面して建つ『ミラノ・スカラ座』の建物光景です。この場所にあった元の建物は、『サンタ・マリア・アラ・スカラ教会』は、ミラノ僭主の『ベルナボ・ヴィスコンティ』に嫁いできた、ヴェローナを支配していたデッラスカラ家の娘の『ベアトリーチェ・レジーナ・デッラ・スカラ』のために建てられたものでした。

    右手の方が少し樹木に隠れてしまいましたが、最後にもう一度、スカラ広場に面して建つ『ミラノ・スカラ座』の建物光景です。この場所にあった元の建物は、『サンタ・マリア・アラ・スカラ教会』は、ミラノ僭主の『ベルナボ・ヴィスコンティ』に嫁いできた、ヴェローナを支配していたデッラスカラ家の娘の『ベアトリーチェ・レジーナ・デッラ・スカラ』のために建てられたものでした。

  • スカラ広場に面した建物に、『ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガレリア』もあります。今度はそちらの紹介です。このガレリアは、最初に1861年にデザインされ、イタリアの建築家『ジュゼッペ・メンゴーニ』によって1865年から1877年の間に建設されました。イタリア王国の初代国王『ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820~1878年:在位1849~1861年)』に因んで名付けられました。ガレリアは、ミラノのドゥオーモとスカラ座という、ミラノにおける二つの著名な観光地に繋がっています。

    スカラ広場に面した建物に、『ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世のガレリア』もあります。今度はそちらの紹介です。このガレリアは、最初に1861年にデザインされ、イタリアの建築家『ジュゼッペ・メンゴーニ』によって1865年から1877年の間に建設されました。イタリア王国の初代国王『ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820~1878年:在位1849~1861年)』に因んで名付けられました。ガレリアは、ミラノのドゥオーモとスカラ座という、ミラノにおける二つの著名な観光地に繋がっています。

  • 角地に建つ四つの建物、その間を通る四つの道路により形成された、八角形の空間の上に位置するドーム天井の光景です。ミラノの中心地であるだけでなく、この後紹介するドームの裾野部分のフレスコ画からは、世界の中心地を主張している場所のようにも思えました。そのフレスコ画には、当時知られていた四大陸が擬人化して描かれていました。

    イチオシ

    角地に建つ四つの建物、その間を通る四つの道路により形成された、八角形の空間の上に位置するドーム天井の光景です。ミラノの中心地であるだけでなく、この後紹介するドームの裾野部分のフレスコ画からは、世界の中心地を主張している場所のようにも思えました。そのフレスコ画には、当時知られていた四大陸が擬人化して描かれていました。

  • 4人の女神をモチーフとして、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカの四大陸を寓話表現したフレスコ画の紹介です。バロック時代のフランドルの画家、『ルーベンス(1577~1640年)』が1615年から16年にかけて『四大陸』を描いています。その四大陸はヨーロッパ、アジア、アフリカ、そして当時未知の地域が多かったアメリカ大陸です。

    4人の女神をモチーフとして、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカの四大陸を寓話表現したフレスコ画の紹介です。バロック時代のフランドルの画家、『ルーベンス(1577~1640年)』が1615年から16年にかけて『四大陸』を描いています。その四大陸はヨーロッパ、アジア、アフリカ、そして当時未知の地域が多かったアメリカ大陸です。

  • ルーベンスの『四大陸』の絵画には、アジア、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカの四つの大陸は、それぞれ女神の姿に擬人化され、その隣に同じく男神に擬人化された河が配置されていいます。例えば、ヨーロッパを擬人化した女神の傍ではドナウ川が擬人化された男神が櫂を手にし、アフリカの女神の傍には男神のナイル川が擬人化されています。その『四大陸』の構成とこの四大陸の擬人化は異なっていました。

    ルーベンスの『四大陸』の絵画には、アジア、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカの四つの大陸は、それぞれ女神の姿に擬人化され、その隣に同じく男神に擬人化された河が配置されていいます。例えば、ヨーロッパを擬人化した女神の傍ではドナウ川が擬人化された男神が櫂を手にし、アフリカの女神の傍には男神のナイル川が擬人化されています。その『四大陸』の構成とこの四大陸の擬人化は異なっていました。

  • 中央の十字路部分の八角形のガラスドーム広場の床面の光景です。中央にイタリア王国の紋章、その周囲にミラノ(赤の十字)、トリノ(牡牛)、フィレンツェ(アイリス)、ローマ(SPQR)の紋章が描かれています。ローマの紋章の『SPQR』は、ラテン語の(セナートゥス・ポプルスクェ・ローマーヌス)の略語とされ、古代の国家ローマとその市民の栄光と誇りを現すものです。これはミラノの紋章です。

    中央の十字路部分の八角形のガラスドーム広場の床面の光景です。中央にイタリア王国の紋章、その周囲にミラノ(赤の十字)、トリノ(牡牛)、フィレンツェ(アイリス)、ローマ(SPQR)の紋章が描かれています。ローマの紋章の『SPQR』は、ラテン語の(セナートゥス・ポプルスクェ・ローマーヌス)の略語とされ、古代の国家ローマとその市民の栄光と誇りを現すものです。これはミラノの紋章です。

  • ガレリアの呼び名の元になった、イタリア王国の初代国王『ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820~1878年:在位1849~1861年)』の紹介です。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、サルデーニャ王国の最後の国王(在位:1849~1861年)、のちイタリア王国の初代国王(在位:1861~1878年)でした。サルデーニャ王カルロ・アルベルトとトスカーナ大公女マリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナの長男としてサルデーニャ王に即位しました。父から引き継いだイタリア統一戦争に終止符を打ち、再統一を成し遂げました。1911年、ローマ中心部にエマヌエーレ2世を祭る聖堂(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂)が建設され、エマヌエーレ2世には、『国父』の称号が追贈されました。

    ガレリアの呼び名の元になった、イタリア王国の初代国王『ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820~1878年:在位1849~1861年)』の紹介です。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、サルデーニャ王国の最後の国王(在位:1849~1861年)、のちイタリア王国の初代国王(在位:1861~1878年)でした。サルデーニャ王カルロ・アルベルトとトスカーナ大公女マリア・テレーザ・ダズブルゴ=トスカーナの長男としてサルデーニャ王に即位しました。父から引き継いだイタリア統一戦争に終止符を打ち、再統一を成し遂げました。1911年、ローマ中心部にエマヌエーレ2世を祭る聖堂(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂)が建設され、エマヌエーレ2世には、『国父』の称号が追贈されました。

  • ガレリアの角地に建つお店の紹介です。『プラダ』です。イタリアを代表する高級ファッションブランドを展開するアパレル企業で、ミラノに本社を置きます。現在のデザイナーは、創業家3代目のミウッチャ・プラダです。1913年、創立者のマリオ・プラダとフラテッリ・プラダ兄弟が、ミラノの中心にあるガレリア・ヴィットリオ・エマヌエーレII世に、プラダ1号店を開業しました。

    ガレリアの角地に建つお店の紹介です。『プラダ』です。イタリアを代表する高級ファッションブランドを展開するアパレル企業で、ミラノに本社を置きます。現在のデザイナーは、創業家3代目のミウッチャ・プラダです。1913年、創立者のマリオ・プラダとフラテッリ・プラダ兄弟が、ミラノの中心にあるガレリア・ヴィットリオ・エマヌエーレII世に、プラダ1号店を開業しました。

  • ガレリアの角地に建つお店の紹介です。『ルイ・ヴィトン』です。ルイ・ヴィトンは、フランスのマルティエ(スーツケース職人)のルイ・ヴィトン(1821~1892年)が創始したファッションブランドです。『LVMH(モエ・ヘネシー・モギビッシュルイ・ヴィトン)』グループの中核ブランドです。 服飾部門における2014年現在のデザイナーはニコラ・ジェスキエールです。

    ガレリアの角地に建つお店の紹介です。『ルイ・ヴィトン』です。ルイ・ヴィトンは、フランスのマルティエ(スーツケース職人)のルイ・ヴィトン(1821~1892年)が創始したファッションブランドです。『LVMH(モエ・ヘネシー・モギビッシュルイ・ヴィトン)』グループの中核ブランドです。 服飾部門における2014年現在のデザイナーはニコラ・ジェスキエールです。

  • ガレリアの角地に建つお店の紹介です。『プラダ』です。ここが発祥の『プラダ』、角地に2箇所のお店がありました。プラダは、世界から珍しい素材や質の高い皮を集めて製品を作っていました。それが評判となり、イタリア王室の御用達となった高級ブランドのお店です。

    ガレリアの角地に建つお店の紹介です。『プラダ』です。ここが発祥の『プラダ』、角地に2箇所のお店がありました。プラダは、世界から珍しい素材や質の高い皮を集めて製品を作っていました。それが評判となり、イタリア王室の御用達となった高級ブランドのお店です。

  • ガレリアの角地に建つお店の紹介です。『ベルナスコーニ』の表示がありましたが、業種はよく分かりませんでした。閉じられた扉の上には、創業年を表わすらしい872年が記されていました。

    ガレリアの角地に建つお店の紹介です。『ベルナスコーニ』の表示がありましたが、業種はよく分かりませんでした。閉じられた扉の上には、創業年を表わすらしい872年が記されていました。

  • 最初の落成から130年以上を経た現在、4階建てのアーケードにはオートクチュール店から書店に至るまでの上品な各種店舗、グッチ、プラダ、ルイ・ヴィトンなどの高級ファッションブランド店の他、レストラン、カフェ、バーなどが入居しています。

    最初の落成から130年以上を経た現在、4階建てのアーケードにはオートクチュール店から書店に至るまでの上品な各種店舗、グッチ、プラダ、ルイ・ヴィトンなどの高級ファッションブランド店の他、レストラン、カフェ、バーなどが入居しています。

  • 初代国王のエマヌエーレ2世以降の『イタリア王国』の紹介です。1940年6月、イタリアはフランスに侵攻し、枢軸国の主要国として第二次世界大戦に参戦しました。しかし、1943年には北アフリカを失陥し、連合国によるイタリア上陸作戦は目前に迫りました。国王やファシスト党内の和平派は休戦に向けて政変を起こし、7月25日にムッソリーニは解任・逮捕されました。

    初代国王のエマヌエーレ2世以降の『イタリア王国』の紹介です。1940年6月、イタリアはフランスに侵攻し、枢軸国の主要国として第二次世界大戦に参戦しました。しかし、1943年には北アフリカを失陥し、連合国によるイタリア上陸作戦は目前に迫りました。国王やファシスト党内の和平派は休戦に向けて政変を起こし、7月25日にムッソリーニは解任・逮捕されました。

  • ムッソリーニの独裁を後押しした結果となったサヴォイア王家は国民の信頼を失い、伝統的に王国時代が長い南イタリアでは王室への強固な支持があったものの、都市国家の伝統ある北部は王家を信任せず、また王室の強い支持基盤だったカトリック教会が国民投票で中立を宣言し、1946年6月の王制の是非を問う国民投票では賛成54%の僅差で王政廃止が決定され、ウンベルト2世は廃位となりました。

    ムッソリーニの独裁を後押しした結果となったサヴォイア王家は国民の信頼を失い、伝統的に王国時代が長い南イタリアでは王室への強固な支持があったものの、都市国家の伝統ある北部は王家を信任せず、また王室の強い支持基盤だったカトリック教会が国民投票で中立を宣言し、1946年6月の王制の是非を問う国民投票では賛成54%の僅差で王政廃止が決定され、ウンベルト2世は廃位となりました。

  • ガレリアの名物の一つです。十字路の交わる付近に青いタイルで囲まれた牡牛のモザイクがあり、その股間部分がやや窪んでいます。この窪みに踵を合わせてクルリと一回転すると幸せが訪れる、旅行者は再びミラノに戻れる等の言い伝えがあります。トレビの泉等と異なり一人ずつしかできないので、観光シーズンには行列ができる事も珍しくないようです。損傷が激しく、定期的に補修されているようです。

    ガレリアの名物の一つです。十字路の交わる付近に青いタイルで囲まれた牡牛のモザイクがあり、その股間部分がやや窪んでいます。この窪みに踵を合わせてクルリと一回転すると幸せが訪れる、旅行者は再びミラノに戻れる等の言い伝えがあります。トレビの泉等と異なり一人ずつしかできないので、観光シーズンには行列ができる事も珍しくないようです。損傷が激しく、定期的に補修されているようです。

  • 長い間イタリアの世界文化遺産と思い込んでいた、『ミラノのドゥオモ』の光景です。『ドゥオモ広場』に面した建物の中心施設です。500年かけて造られた大聖堂が世界文化遺産でないのは不思議ですが、そのことを措いてもミラノで一番の人気の建造物であり、その価値も疑う余地はありません。世界屈指の全長158m、幅92m、高さ108mの威容を誇ります。

    イチオシ

    長い間イタリアの世界文化遺産と思い込んでいた、『ミラノのドゥオモ』の光景です。『ドゥオモ広場』に面した建物の中心施設です。500年かけて造られた大聖堂が世界文化遺産でないのは不思議ですが、そのことを措いてもミラノで一番の人気の建造物であり、その価値も疑う余地はありません。世界屈指の全長158m、幅92m、高さ108mの威容を誇ります。

  • 『ミラノのドゥオモ』は、イタリアを代表するゴチック建築の一つです。ゴチック建築は、12世紀後半から花開いたフランスを発祥とする建築様式です。 ミラノのドゥオモは500万人のカトリック信者がいる世界最大の司教区であるミラノ大司教区を統括する首都大司教の司教座聖堂です。その大司教は2011年から『アンジェロ・スコラ枢機卿(1941年~)』が務めています。

    『ミラノのドゥオモ』は、イタリアを代表するゴチック建築の一つです。ゴチック建築は、12世紀後半から花開いたフランスを発祥とする建築様式です。 ミラノのドゥオモは500万人のカトリック信者がいる世界最大の司教区であるミラノ大司教区を統括する首都大司教の司教座聖堂です。その大司教は2011年から『アンジェロ・スコラ枢機卿(1941年~)』が務めています。

  • 中世にはビザンチン時代、ロマネスク時代、ゴシック時代を経て近世のルネサンス時代が到来しました。ロマネスク様式は、10世紀後半~13世紀の最初のヨーロッパ建築で古代ローマに東方の影響を受けたものです。ロマネスクは、『ローマ風』という意味を持ち、重厚な石造りの建築で薄暗い内部空間が特徴です。ゴシック美術は、フランスのパリで生まれました。その理由の一つは、フランスではロマネスク様式が根付かなかったからという説があります。12世紀の中頃から、パリでは高い建物の中に大きな窓が取り付けられ美しいステンドグラスがはめ込まれた、誰もがうっとりするような華やかな空間のゴシック様式が登場しました。

    中世にはビザンチン時代、ロマネスク時代、ゴシック時代を経て近世のルネサンス時代が到来しました。ロマネスク様式は、10世紀後半~13世紀の最初のヨーロッパ建築で古代ローマに東方の影響を受けたものです。ロマネスクは、『ローマ風』という意味を持ち、重厚な石造りの建築で薄暗い内部空間が特徴です。ゴシック美術は、フランスのパリで生まれました。その理由の一つは、フランスではロマネスク様式が根付かなかったからという説があります。12世紀の中頃から、パリでは高い建物の中に大きな窓が取り付けられ美しいステンドグラスがはめ込まれた、誰もがうっとりするような華やかな空間のゴシック様式が登場しました。

  • ゴシックの前に広まったロマネスク様式は、巡礼や十字軍の影響により異文化の特徴を取り入れ、ヨーロッパのさまざまな場所で多発的に開花しました。これに対し、ゴシック様式は、パリやその周辺のイルド・フランスを中心に起こり、ここを中心に放射線状に広まっていったスタイルです。イルド・フランスは、パリを中心とした内陸部の地域圏で、現在ではフランス総人口約6600万人の約18%が集中している地域です。『フランスの島』という意味を持ち、セーヌ川をはじめ、オワーズ川、マルヌ川などによって、島のような地形になっています。例えば、セーヌ川の中州のシテ島には、パリ最古のステンドグラスの『サントシャペル教会』があり、ステンドグラスが見事なノートルダム寺院もシテ島です。

    ゴシックの前に広まったロマネスク様式は、巡礼や十字軍の影響により異文化の特徴を取り入れ、ヨーロッパのさまざまな場所で多発的に開花しました。これに対し、ゴシック様式は、パリやその周辺のイルド・フランスを中心に起こり、ここを中心に放射線状に広まっていったスタイルです。イルド・フランスは、パリを中心とした内陸部の地域圏で、現在ではフランス総人口約6600万人の約18%が集中している地域です。『フランスの島』という意味を持ち、セーヌ川をはじめ、オワーズ川、マルヌ川などによって、島のような地形になっています。例えば、セーヌ川の中州のシテ島には、パリ最古のステンドグラスの『サントシャペル教会』があり、ステンドグラスが見事なノートルダム寺院もシテ島です。

  • ロマネスク時代では、文化の担い手が聖職者などに限られていましたが、ゴシック時代には都市に住む裕福な町人や知識人、普通の信徒がそれに加わりました。ゴシックの語源は『マニエラ・ゴティカ』で、『野蛮な様式』を意味する蔑称とされます。ゴシックの生い立ちが偲ばれるようです。12世紀~15世紀に全盛期を迎えたゴシック建築は、ロマネスク建築と大きく違う点は、建物の壁が薄く、天井が高くできたことです。このことが、大きな窓を実現させ、ステンドグラスの特徴を強調するのに役立ちました。具体的には、壁の外側から支柱のように支える梁の『フライング・バットレス』と、『尖頭アーチと交差リブヴォールト』です。後者は、先の尖った尖頭アーチにより天井を補強しました。

    ロマネスク時代では、文化の担い手が聖職者などに限られていましたが、ゴシック時代には都市に住む裕福な町人や知識人、普通の信徒がそれに加わりました。ゴシックの語源は『マニエラ・ゴティカ』で、『野蛮な様式』を意味する蔑称とされます。ゴシックの生い立ちが偲ばれるようです。12世紀~15世紀に全盛期を迎えたゴシック建築は、ロマネスク建築と大きく違う点は、建物の壁が薄く、天井が高くできたことです。このことが、大きな窓を実現させ、ステンドグラスの特徴を強調するのに役立ちました。具体的には、壁の外側から支柱のように支える梁の『フライング・バットレス』と、『尖頭アーチと交差リブヴォールト』です。後者は、先の尖った尖頭アーチにより天井を補強しました。

  • 祭壇と、その上部のステンドグラスの光景です。新しく登場したゴシック様式の教会のステンドグラスに描かれたのは、旧約聖書や新約聖書の重要な出来事など、キリスト教の普及に不可欠なビジュアルな場面解説です。ゴシック時代には、ステンドグラスがそれまでの壁画に変わる絵画芸術の中心となりました。美しいステンドグラスには聖書の内容などが記され、文字が読めない民衆に教義するための重要な役割を担っていました。

    祭壇と、その上部のステンドグラスの光景です。新しく登場したゴシック様式の教会のステンドグラスに描かれたのは、旧約聖書や新約聖書の重要な出来事など、キリスト教の普及に不可欠なビジュアルな場面解説です。ゴシック時代には、ステンドグラスがそれまでの壁画に変わる絵画芸術の中心となりました。美しいステンドグラスには聖書の内容などが記され、文字が読めない民衆に教義するための重要な役割を担っていました。

  • ゴシック建築の登場により、役割がクローズアップされたステンドグラスは、色ガラスを通して差し込む神秘的な光をもたらしました。『神は光なりき』と信じた中世の人々にとって、信者の心を照らす光でもありました。ところで、旧約聖書を聖典とする点ではキリスト教とイスラム教とでは大きな差異はないようですが、新約聖書を巡っては大きな隔たりがあります。解説書などの要約では、キリストを神とするか、預言者とするかの違いなどのようです。キリスト教とユダヤ教の違いも旧約聖書についての解釈では一致しても、新約聖書では相反しているようです。また、ステンドグラスに対しては、イスラム教は祈りの妨げになるとして否定的なようです。イランのモスクで目にしたのが稀なケースでした。

    ゴシック建築の登場により、役割がクローズアップされたステンドグラスは、色ガラスを通して差し込む神秘的な光をもたらしました。『神は光なりき』と信じた中世の人々にとって、信者の心を照らす光でもありました。ところで、旧約聖書を聖典とする点ではキリスト教とイスラム教とでは大きな差異はないようですが、新約聖書を巡っては大きな隔たりがあります。解説書などの要約では、キリストを神とするか、預言者とするかの違いなどのようです。キリスト教とユダヤ教の違いも旧約聖書についての解釈では一致しても、新約聖書では相反しているようです。また、ステンドグラスに対しては、イスラム教は祈りの妨げになるとして否定的なようです。イランのモスクで目にしたのが稀なケースでした。

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