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ヴェローナの旧市街紹介の続きです。旧市街には、地下に眠る古代ローマ遺跡を見学できる場所がありました。その他では、定番のジュリエットの館・バルコニーが観光客で賑わっていました。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)

2013秋、イタリア旅行記2(39/53):9月30日(6):ヴェローナ(3):旧市街、ジュリエットの館、バルコニー

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2013/09/24 - 2013/10/02

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

ヴェローナの旧市街紹介の続きです。旧市街には、地下に眠る古代ローマ遺跡を見学できる場所がありました。その他では、定番のジュリエットの館・バルコニーが観光客で賑わっていました。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)

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  • 左手に見えるのが、建物越しに眺めた『ランベルティの塔』の光景になるようです。84メートルの塔の最上部だけが見えていました。その塔が建っている『ラジョーネ宮跡』に向かう途中の光景です。『ラジョーネ宮』の名前はイタリア各地にあるらしく、『ヴェローナ』で場所を特定しないと別の史跡がネット紹介されます。

    左手に見えるのが、建物越しに眺めた『ランベルティの塔』の光景になるようです。84メートルの塔の最上部だけが見えていました。その塔が建っている『ラジョーネ宮跡』に向かう途中の光景です。『ラジョーネ宮』の名前はイタリア各地にあるらしく、『ヴェローナ』で場所を特定しないと別の史跡がネット紹介されます。

  • 『ラジョーネ宮跡』の入口門になるようです。ヴェローナの『ラジョーネ宮』は、12世紀に建てられた貴族の屋敷で、市庁舎(コムーネ)の役割も果たしていたことから『コムーネ宮』とも呼ばれているようです。門を潜った後の撮影だったかもしれません。通路の中央に、車止めの石が置かれていました。

    『ラジョーネ宮跡』の入口門になるようです。ヴェローナの『ラジョーネ宮』は、12世紀に建てられた貴族の屋敷で、市庁舎(コムーネ)の役割も果たしていたことから『コムーネ宮』とも呼ばれているようです。門を潜った後の撮影だったかもしれません。通路の中央に、車止めの石が置かれていました。

  • ローマ時代頃の井戸跡のようですが、水道が発達していたローマ時代ですから、別の施設かも知れません。大切な遺跡らしく、大きな石造の蓋まで残されているのには驚きました。周りには年代を経たように見える、金属製の補強材らしいものもありました。

    ローマ時代頃の井戸跡のようですが、水道が発達していたローマ時代ですから、別の施設かも知れません。大切な遺跡らしく、大きな石造の蓋まで残されているのには驚きました。周りには年代を経たように見える、金属製の補強材らしいものもありました。

  • 『ラジョーネ宮跡』の入口門らしい箇所の上部のズームアップ光景です。普通の門とは異なる、凝った意匠が凝らされていました。『ラジョーネ宮』の名前を冠した遺跡では、ヴェローナから100キロほどの距離にある、パドヴァの『ラジョーネ宮』が有名です。パドヴァの裁判所として、13世紀に建てられました。

    『ラジョーネ宮跡』の入口門らしい箇所の上部のズームアップ光景です。普通の門とは異なる、凝った意匠が凝らされていました。『ラジョーネ宮』の名前を冠した遺跡では、ヴェローナから100キロほどの距離にある、パドヴァの『ラジョーネ宮』が有名です。パドヴァの裁判所として、13世紀に建てられました。

  • 石材の全面に彫刻が施された入口門のズームアップ光景です。入口に向かって右手の光景です。小さな屋根で繋がった右手の柱の造りがユニークでした。若干稚拙にも見えた彫刻には、兜を被った軍人像や、ギリシャ建築所縁のアカンサスの葉も彫刻されていました。

    石材の全面に彫刻が施された入口門のズームアップ光景です。入口に向かって右手の光景です。小さな屋根で繋がった右手の柱の造りがユニークでした。若干稚拙にも見えた彫刻には、兜を被った軍人像や、ギリシャ建築所縁のアカンサスの葉も彫刻されていました。

  • 同じく、石材の全面に彫刻が施された入口門のズームアップ光景です。こちらは入口に向かって左手の光景です。右手の彫刻とよく似ていましたが、こちらの人物像はギリシャ神話かローマ神話の女神のようでした。

    同じく、石材の全面に彫刻が施された入口門のズームアップ光景です。こちらは入口に向かって左手の光景です。右手の彫刻とよく似ていましたが、こちらの人物像はギリシャ神話かローマ神話の女神のようでした。

  • 『ラジョーネ宮跡』にある『ランベルティの塔』がある場所に向かう途中の光景です。この通りは、エルベ広場からシニョーリ広場に向かった時に通ったコスタ門があった通りのようです。縞模様の壁が目印になりますが、反対側から歩いてきた記憶です。

    『ラジョーネ宮跡』にある『ランベルティの塔』がある場所に向かう途中の光景です。この通りは、エルベ広場からシニョーリ広場に向かった時に通ったコスタ門があった通りのようです。縞模様の壁が目印になりますが、反対側から歩いてきた記憶です。

  • 裁判所や市庁舎、公証人役場などとして、ヴェローナで重要な役割を果たしてきたラジョーネ宮跡の光景です。その建物の中庭のような場所から眺めた、ランベルティの塔の下部付近の光景です。ラジョーネ宮跡の建物は、リフレッシュされて近代ビル風の光景でした。

    裁判所や市庁舎、公証人役場などとして、ヴェローナで重要な役割を果たしてきたラジョーネ宮跡の光景です。その建物の中庭のような場所から眺めた、ランベルティの塔の下部付近の光景です。ラジョーネ宮跡の建物は、リフレッシュされて近代ビル風の光景でした。

  • 少しだけズームアップした、ヴェローナで重要な役割を果たしてきたラジョーネ宮跡とランベルティの塔の光景です。外付けの階段は2階に繋がり、館内見学の受付も2階にあるようでした。時間に余裕があれば、ランベルティの塔からのヴェローナ市街の光景を眺めてみたいところでした。

    少しだけズームアップした、ヴェローナで重要な役割を果たしてきたラジョーネ宮跡とランベルティの塔の光景です。外付けの階段は2階に繋がり、館内見学の受付も2階にあるようでした。時間に余裕があれば、ランベルティの塔からのヴェローナ市街の光景を眺めてみたいところでした。

  • ラジョーネ宮跡の中庭のような場所から見上げた、ランベルティの塔の光景です。1403年に落雷の被害に遭い、1448年から1464年まで、16年もの歳月を費やして、修改築工事が行われたようです。外壁の色が変わっている箇所が、建設当初の37メートルの高さほどになるようです。

    ラジョーネ宮跡の中庭のような場所から見上げた、ランベルティの塔の光景です。1403年に落雷の被害に遭い、1448年から1464年まで、16年もの歳月を費やして、修改築工事が行われたようです。外壁の色が変わっている箇所が、建設当初の37メートルの高さほどになるようです。

  • ランベルティの塔への外付けの階段の最上部のズームアップ光景です。入口のアーチ部分の上部にフレスコ画が描かれるなど、意匠が凝らされていました。補修工事の時の15世紀に造られた階段とされます。フレスコ画は、絵筆を持った女性像のように見えました。ヴェローナで最も美しい『ラジョーネ宮の階段』とも呼ばれています。

    イチオシ

    ランベルティの塔への外付けの階段の最上部のズームアップ光景です。入口のアーチ部分の上部にフレスコ画が描かれるなど、意匠が凝らされていました。補修工事の時の15世紀に造られた階段とされます。フレスコ画は、絵筆を持った女性像のように見えました。ヴェローナで最も美しい『ラジョーネ宮の階段』とも呼ばれています。

  • ラジョーネ宮跡の中庭のような場所から見上げた、ランベルティの塔の光景です。残念ながら塔に登ることはできませんでしたが、階段かエレヴェーターを利用できるようでした。視界を遮るものがなく、素晴らしい光景が眺められることが、ネット写真で知ることが出来ました。

    ラジョーネ宮跡の中庭のような場所から見上げた、ランベルティの塔の光景です。残念ながら塔に登ることはできませんでしたが、階段かエレヴェーターを利用できるようでした。視界を遮るものがなく、素晴らしい光景が眺められることが、ネット写真で知ることが出来ました。

  • 何度も紹介しますが、ヴェローナの街で最も高い建物とされる、ランベルティの塔の先端部分のズームアップ光景です。12世紀、当時の権力者だったランベルティ家により建てられました。建てられた当初の高さは37メートルとされますが、15世紀の修改築の結果、現在の84メートルの高さとなりました。

    何度も紹介しますが、ヴェローナの街で最も高い建物とされる、ランベルティの塔の先端部分のズームアップ光景です。12世紀、当時の権力者だったランベルティ家により建てられました。建てられた当初の高さは37メートルとされますが、15世紀の修改築の結果、現在の84メートルの高さとなりました。

  • シニョーリ広場に建っていたマント風の着衣に帽子をかぶった銅像の紹介です。詩人か文筆家のイメージで、権力や地位には縁がなさそうな風貌のブロンズ像でした。ダンテの像に関しては、いくらもネット情報がありましたが、こちらの像はアップされた写真も見つかりませんでした。

    シニョーリ広場に建っていたマント風の着衣に帽子をかぶった銅像の紹介です。詩人か文筆家のイメージで、権力や地位には縁がなさそうな風貌のブロンズ像でした。ダンテの像に関しては、いくらもネット情報がありましたが、こちらの像はアップされた写真も見つかりませんでした。

  • ブロンズ像の足元の表示のズームアップ光景です。『BERTO BARBARANI POETA 1872~1945』の表示が読み取れました。第二次大戦終戦の年の1945年に亡くなった詩人(POETA)の『ベルト・バルバラニ』のようでしたが、ネットでの名前検索はヒットしませんでした。

    ブロンズ像の足元の表示のズームアップ光景です。『BERTO BARBARANI POETA 1872~1945』の表示が読み取れました。第二次大戦終戦の年の1945年に亡くなった詩人(POETA)の『ベルト・バルバラニ』のようでしたが、ネットでの名前検索はヒットしませんでした。

  • 街角で、人だかりがしていた場所のズームアップ光景です。大道芸人の方がパフォーマンスを披露されていました。この後、全体を紹介しますが、三段積の人垣を、特異な衣装とメーキャップの大道芸人の方が披露されているところでした。

    街角で、人だかりがしていた場所のズームアップ光景です。大道芸人の方がパフォーマンスを披露されていました。この後、全体を紹介しますが、三段積の人垣を、特異な衣装とメーキャップの大道芸人の方が披露されているところでした。

  • 少し場所を変えて写真紹介する、大道芸人の方の三段積の人垣のパフォーマンスの光景です。フランスなどでもよく目にしましたが、大道芸人の方が街の風景の一つになっていました。三段積の中間が女性の方で、赤い服の方を誘って記念撮影に応じていました。

    少し場所を変えて写真紹介する、大道芸人の方の三段積の人垣のパフォーマンスの光景です。フランスなどでもよく目にしましたが、大道芸人の方が街の風景の一つになっていました。三段積の中間が女性の方で、赤い服の方を誘って記念撮影に応じていました。

  • ロミオの館は先に紹介しましたが、こちらはジュリエットの館です。『ロミオとジュリエット(英訳の日本語表記)』は、イングランドの劇作家の『ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616年)』による戯曲です。初演年度については諸説ありますが、概ね1595年前後とされます。『ロミオとジュリエット』は恋愛悲劇ですが、若い恋人たちが社会によって課された障壁をはねのけて愛を成就させようとするという描写は、むしろ伝統的な恋愛喜劇に近いものとされ、その話の運びには『夏の夜の夢』などのシェイクスピアによる他のロマンティック・コメディとの類似が指摘されています。シェイクスピアの四大悲劇には、『ハムレット』、『マクベス』、『オセロ』、『リア王』がありますが、これ等の作品とは別枠として扱われています。

    イチオシ

    ロミオの館は先に紹介しましたが、こちらはジュリエットの館です。『ロミオとジュリエット(英訳の日本語表記)』は、イングランドの劇作家の『ウィリアム・シェイクスピア(1564~1616年)』による戯曲です。初演年度については諸説ありますが、概ね1595年前後とされます。『ロミオとジュリエット』は恋愛悲劇ですが、若い恋人たちが社会によって課された障壁をはねのけて愛を成就させようとするという描写は、むしろ伝統的な恋愛喜劇に近いものとされ、その話の運びには『夏の夜の夢』などのシェイクスピアによる他のロマンティック・コメディとの類似が指摘されています。シェイクスピアの四大悲劇には、『ハムレット』、『マクベス』、『オセロ』、『リア王』がありますが、これ等の作品とは別枠として扱われています。

  • ジュリエットの館のバルコニーです。『ロミオとジュリエット』は、あくまでもシェイクスピアによる作品ですから、史実を扱ったものではありません。ジュリエットはキャピュレット家の娘、ロメオがモンタギュー家の息子として悲劇が創作されています。両家、も地元の有力者です。このバルコニーは、劇の有名な場面に合わせて、後から付け足されたものです。

    ジュリエットの館のバルコニーです。『ロミオとジュリエット』は、あくまでもシェイクスピアによる作品ですから、史実を扱ったものではありません。ジュリエットはキャピュレット家の娘、ロメオがモンタギュー家の息子として悲劇が創作されています。両家、も地元の有力者です。このバルコニーは、劇の有名な場面に合わせて、後から付け足されたものです。

  • キャピュレット家の娘、ジュリエットの像の光景です。ここからは、『ロミオとジュリエット』のあらすじについての紹介です。舞台は14世紀のイタリアの都市ヴェローナです。地元の有力者のモンタギュー家(モンテッキ家)とキャピュレット家(カプレーティ家)は、代々対立していました。

    イチオシ

    キャピュレット家の娘、ジュリエットの像の光景です。ここからは、『ロミオとジュリエット』のあらすじについての紹介です。舞台は14世紀のイタリアの都市ヴェローナです。地元の有力者のモンタギュー家(モンテッキ家)とキャピュレット家(カプレーティ家)は、代々対立していました。

  • モンタギュー家の一人息子のロミオは、ロザラインへの片想いに苦しんでいました。気晴らしにと、友人達とキャピュレット家のパーティに忍び込んだロミオは、キャピュレット家の一人娘ジュリエットに出会い、たちまち二人は恋に落ちました。二人はフランシスコ会の修道僧ロレンスの元で秘かに結婚しました。ロレンスは、二人の結婚が、両家の争いに終止符を打つきっかけになることを期待していました。

    モンタギュー家の一人息子のロミオは、ロザラインへの片想いに苦しんでいました。気晴らしにと、友人達とキャピュレット家のパーティに忍び込んだロミオは、キャピュレット家の一人娘ジュリエットに出会い、たちまち二人は恋に落ちました。二人はフランシスコ会の修道僧ロレンスの元で秘かに結婚しました。ロレンスは、二人の結婚が、両家の争いに終止符を打つきっかけになることを期待していました。

  • しかしその直後、ロミオは友人とともに街頭での争いに巻き込まれ、親友・マキューシオを殺されたことに逆上したロミオは、キャピュレット夫人の甥ティボルトを殺してしまいます。このことで、ヴェローナの大公エスカラスは、ロミオを追放の罪に処します。一方、キャピュレットは悲しみにくれるジュリエットに、大公の親戚のパリスと結婚する事を命じます。

    しかしその直後、ロミオは友人とともに街頭での争いに巻き込まれ、親友・マキューシオを殺されたことに逆上したロミオは、キャピュレット夫人の甥ティボルトを殺してしまいます。このことで、ヴェローナの大公エスカラスは、ロミオを追放の罪に処します。一方、キャピュレットは悲しみにくれるジュリエットに、大公の親戚のパリスと結婚する事を命じます。

  • ジュリエットに助けを求められた修道僧のロレンスは、彼女をロミオに添わせるべく、仮死の毒を使った計略を立てました。しかし、この計画は追放されていたロミオにうまく伝わりませんでした。そのためジュリエットが死んだと思ったロミオは、彼女の墓参りに来た大公の親戚のパリスと決闘し、殺してしまいました。

    ジュリエットに助けを求められた修道僧のロレンスは、彼女をロミオに添わせるべく、仮死の毒を使った計略を立てました。しかし、この計画は追放されていたロミオにうまく伝わりませんでした。そのためジュリエットが死んだと思ったロミオは、彼女の墓参りに来た大公の親戚のパリスと決闘し、殺してしまいました。

  • ハリスを倒したロミオは、彼女の墓の側で毒薬を飲んで自殺しました。その直後に仮死状態から目覚めたジュリエットも、ロミオの短剣で後追い自殺をしました。二人の死に悲嘆に暮れる両家でしたが、事の真相を知って、両家はついに和解をしました。

    ハリスを倒したロミオは、彼女の墓の側で毒薬を飲んで自殺しました。その直後に仮死状態から目覚めたジュリエットも、ロミオの短剣で後追い自殺をしました。二人の死に悲嘆に暮れる両家でしたが、事の真相を知って、両家はついに和解をしました。

  • 写真は、若い人たちが願いを込めて書いた色とりどりの紙です。ジュリエットの館で販売しているようでした。1597年に発行された『第一・四折本(First Quarto)』が、シェイクスピア作の『ロミオとジュリエット』が出版物として現れた最古のものとされます。これは、上演の速記録などを基礎にして製作され、作者の許可なく刊行されたものと推定されています。

    写真は、若い人たちが願いを込めて書いた色とりどりの紙です。ジュリエットの館で販売しているようでした。1597年に発行された『第一・四折本(First Quarto)』が、シェイクスピア作の『ロミオとジュリエット』が出版物として現れた最古のものとされます。これは、上演の速記録などを基礎にして製作され、作者の許可なく刊行されたものと推定されています。

  • こちらは、壁に書き込まれた夥しい落書きです。新たに書き込みするスペースはなく、上書きがまかり通っていました。上海版は、不完全な部分も多いものの、実際の上演の様子を反映しており、資料的価値は決して低くないとされ、1599年に刊行の『第二・四折本』は、シェイクスピア自身が手を加えた原稿を用いているとされ、現在目にする『ロミオとジュリエット』の原型となっています。

    こちらは、壁に書き込まれた夥しい落書きです。新たに書き込みするスペースはなく、上書きがまかり通っていました。上海版は、不完全な部分も多いものの、実際の上演の様子を反映しており、資料的価値は決して低くないとされ、1599年に刊行の『第二・四折本』は、シェイクスピア自身が手を加えた原稿を用いているとされ、現在目にする『ロミオとジュリエット』の原型となっています。

  • 同じく、壁に書き込まれた夥しい落書きの光景です。以上の『第一・四折本』、『第二・四折本』に加え、シェイクスピアの死後、1623年に出版された初の全集『第一・二折本』の三種類が、『ロミオとジュリエット』の古刊本として重要視されていて、その後に刊行される『ロミオとジュリエット』の底本となっています。(以上、ウィキペディア参照)

    同じく、壁に書き込まれた夥しい落書きの光景です。以上の『第一・四折本』、『第二・四折本』に加え、シェイクスピアの死後、1623年に出版された初の全集『第一・二折本』の三種類が、『ロミオとジュリエット』の古刊本として重要視されていて、その後に刊行される『ロミオとジュリエット』の底本となっています。(以上、ウィキペディア参照)

  • ジュリエットの館の見学を終えて、ローマ帝国時代の遺跡の『円形劇場(アリーナ)』に向かう途中のヴェローナ市街の光景です。爽やかな緑と、涼しげな噴水の光景です。よく手入れされた洋式庭園でした。

    ジュリエットの館の見学を終えて、ローマ帝国時代の遺跡の『円形劇場(アリーナ)』に向かう途中のヴェローナ市街の光景です。爽やかな緑と、涼しげな噴水の光景です。よく手入れされた洋式庭園でした。

  • 噴水の背後に見えていた近代建築の前の光景です。遊覧用の車がゆっくりと走っていました。電車を模した車でした。左手の御家族らしい一団は、この車を待っている人たちのようでした。

    噴水の背後に見えていた近代建築の前の光景です。遊覧用の車がゆっくりと走っていました。電車を模した車でした。左手の御家族らしい一団は、この車を待っている人たちのようでした。

  • 『ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820~1878年)』の騎馬像です。サルデーニャ王国の最後の国王(在位:1849~1861年)、のちイタリア王国の初代国王(在位:1861~1878年)だった人です。統一イタリアの象徴として国民から敬愛された王ですが、3代目で共和制に移行しました。

    『ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820~1878年)』の騎馬像です。サルデーニャ王国の最後の国王(在位:1849~1861年)、のちイタリア王国の初代国王(在位:1861~1878年)だった人です。統一イタリアの象徴として国民から敬愛された王ですが、3代目で共和制に移行しました。

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