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ヴェネチア専門の現地ガイドさんに案内してもらった、ヴェネチアン・グラスの工場等の紹介です。ほんの少しですが、見学用の実演もありました。その後の自由時間で、ヴェネツィア本島の散策を楽しみました。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)

2013秋、イタリア旅行記2(44/53):10月1日(4):ヴェネチア(4):大運河、ムーア人の時計塔、ガラス工房

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2013/09/24 - 2013/10/02

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

ヴェネチア専門の現地ガイドさんに案内してもらった、ヴェネチアン・グラスの工場等の紹介です。ほんの少しですが、見学用の実演もありました。その後の自由時間で、ヴェネツィア本島の散策を楽しみました。(ウィキペディア、JTBワールドガイド・ローマ他)

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  • ゴンドラより、モーターボートが多いように見えた『カナル・グランデ(大運河)』のズームアップ光景です。ヴェネツィアの観光にとって、プラスなのか、マイナスなのか考えさせられる光景でした。個人的には、大型船や快速線の乗り入れに、一定の歯止めをしなければ、ヴェネツィアの良さが壊れてしまう光景のようにも見えました。ゴンドラを漕ぐ『ゴンドリエーレ』の人達も、大運河に出るのは、楽しくないことかもしれません。

    ゴンドラより、モーターボートが多いように見えた『カナル・グランデ(大運河)』のズームアップ光景です。ヴェネツィアの観光にとって、プラスなのか、マイナスなのか考えさせられる光景でした。個人的には、大型船や快速線の乗り入れに、一定の歯止めをしなければ、ヴェネツィアの良さが壊れてしまう光景のようにも見えました。ゴンドラを漕ぐ『ゴンドリエーレ』の人達も、大運河に出るのは、楽しくないことかもしれません。

  • 『リアルト橋』が架かる大運河の見学を終えて、ヴェネチアン・グラスの製造販売のお店がある方面に向かって、再び歩き始めました。大運河は船が溢れていましたが、陸地は人で溢れていました。ヴェネチアが、イタリア屈指の観光地であることが実感できた散策でした。

    『リアルト橋』が架かる大運河の見学を終えて、ヴェネチアン・グラスの製造販売のお店がある方面に向かって、再び歩き始めました。大運河は船が溢れていましたが、陸地は人で溢れていました。ヴェネチアが、イタリア屈指の観光地であることが実感できた散策でした。

  • この辺りには、緩やかな段差の階段がありました。ガイドブックでは、『リアルト橋』の辺りは、ヴェネチア本島では標高の高い場所であることが紹介されていましたので、その分の下り道かも知れません。道の両側には、種々の品を扱う商店が立ち並んでいました。

    この辺りには、緩やかな段差の階段がありました。ガイドブックでは、『リアルト橋』の辺りは、ヴェネチア本島では標高の高い場所であることが紹介されていましたので、その分の下り道かも知れません。道の両側には、種々の品を扱う商店が立ち並んでいました。

  • この辺りもまだ、『リアルト橋』から余り離れていない場所のようです。地図で見ますと、『リアルト橋』の付近は、逆S字に蛇行する大運河(カナル・グランデ)の曲がり角の一つになります。『リアルト橋』は、最初は木製の橋でしたが、16世紀の終わりころに、石橋に代わりました。(ウィキペディア)

    この辺りもまだ、『リアルト橋』から余り離れていない場所のようです。地図で見ますと、『リアルト橋』の付近は、逆S字に蛇行する大運河(カナル・グランデ)の曲がり角の一つになります。『リアルト橋』は、最初は木製の橋でしたが、16世紀の終わりころに、石橋に代わりました。(ウィキペディア)

  • 重厚な造りの木星扉のズームアップ光景です。建物自体は石造でした。勝手な想像ですが、巨木を元にした木材に彫刻されたように見えました。単純な構図の彫刻ですが、それだけに素材の質が高いことを示しているようにも見えました。中近東の国ではレバノン杉が有名ですが、マツ科ヒマラヤスギ属の針葉樹です。樹高が40メートルに達し、胸高直径が1.5メートルほどになります。レバノン、シリアなどの高地が原産で、古代においては中近東一帯に広く自生していましたが、伐採利用が大規模に進んだ結果、レバノンスギの森は消滅し、現在はレバノン等に小規模に残存するのみとなり、保護扱いされています。(同上)

    重厚な造りの木星扉のズームアップ光景です。建物自体は石造でした。勝手な想像ですが、巨木を元にした木材に彫刻されたように見えました。単純な構図の彫刻ですが、それだけに素材の質が高いことを示しているようにも見えました。中近東の国ではレバノン杉が有名ですが、マツ科ヒマラヤスギ属の針葉樹です。樹高が40メートルに達し、胸高直径が1.5メートルほどになります。レバノン、シリアなどの高地が原産で、古代においては中近東一帯に広く自生していましたが、伐採利用が大規模に進んだ結果、レバノンスギの森は消滅し、現在はレバノン等に小規模に残存するのみとなり、保護扱いされています。(同上)

  • 余り確かではありませんが、『ムーア人の時計塔』の近くでの撮影だったようです。『ムーア人の時計塔』の外観によく似ていますが、直接の関わり合いはない建物だったようです。すでに紹介した『ムーア人の時計塔』の建物ですが、この後にも、写真紹介します。

    余り確かではありませんが、『ムーア人の時計塔』の近くでの撮影だったようです。『ムーア人の時計塔』の外観によく似ていますが、直接の関わり合いはない建物だったようです。すでに紹介した『ムーア人の時計塔』の建物ですが、この後にも、写真紹介します。

  • 建物に囲まれた閉鎖空間のような場所の光景です。その間から青空が覗いていました。中央に未確認飛行物体のユーフォーのようにも見える、不思議な姿の物体は、単なる街灯の先端部分です。この写真では、なぜか、そのユーフォーのような街灯の先が主役になってしまいました。

    建物に囲まれた閉鎖空間のような場所の光景です。その間から青空が覗いていました。中央に未確認飛行物体のユーフォーのようにも見える、不思議な姿の物体は、単なる街灯の先端部分です。この写真では、なぜか、そのユーフォーのような街灯の先が主役になってしまいました。

  • お店のガラス窓越しの撮影になります。賑やかなジオラマ展示でした。ジオラマとは、『展示物とその周辺環境・背景を立体的に表現する方法で、博物館展示方法の一つ』と紹介されています。中央背後に人形姫、その周りが各種の楽器を持ったオーケストラ、舞台上には指揮者や独唱者の姿もありました。中央手前の円形部分に、舞踊のグループがいました。

    お店のガラス窓越しの撮影になります。賑やかなジオラマ展示でした。ジオラマとは、『展示物とその周辺環境・背景を立体的に表現する方法で、博物館展示方法の一つ』と紹介されています。中央背後に人形姫、その周りが各種の楽器を持ったオーケストラ、舞台上には指揮者や独唱者の姿もありました。中央手前の円形部分に、舞踊のグループがいました。

  • サン・マルコ広場北側に建つ、『ムーア人の時計塔』の光景です。 屋上に設置された2体のムーア人のブロンズ像が特徴の建物ですが、近寄り過ぎて、この写真には写っていません。その下の階の像が、ヴェネツィアのシンボルの『有翼の獅子像』です。 屋上のブロンズ像が正午に鐘を鳴らすことから、日本では人気の高い『ムーア人の時計塔』と呼ばれています。(ウィキペディア)

    イチオシ

    サン・マルコ広場北側に建つ、『ムーア人の時計塔』の光景です。 屋上に設置された2体のムーア人のブロンズ像が特徴の建物ですが、近寄り過ぎて、この写真には写っていません。その下の階の像が、ヴェネツィアのシンボルの『有翼の獅子像』です。 屋上のブロンズ像が正午に鐘を鳴らすことから、日本では人気の高い『ムーア人の時計塔』と呼ばれています。(ウィキペディア)

  • 真下から見上げた、通り抜けになっていた『ムーア人の時計塔』の建物光景です。典型的な中世の天文時計とされ、青く美しい文字盤はラピスラズリです。針は24時間計のみで、大理石のローマンインデックスを指し示します。ラピスラズリは、和名では『瑠璃(るり)』と呼ばれる宝石です。人類に認知され、利用された鉱物として最古のものとされ、エジプト、シュメール、バビロニア等で利用されていました。(同上)

    真下から見上げた、通り抜けになっていた『ムーア人の時計塔』の建物光景です。典型的な中世の天文時計とされ、青く美しい文字盤はラピスラズリです。針は24時間計のみで、大理石のローマンインデックスを指し示します。ラピスラズリは、和名では『瑠璃(るり)』と呼ばれる宝石です。人類に認知され、利用された鉱物として最古のものとされ、エジプト、シュメール、バビロニア等で利用されていました。(同上)

  • 『ムーア人の時計塔』の説明パネルですが、冒頭に『サン・マルコ広場』のイタリア語表示の『Piazza San Marco』の文字がありました。その下に4か国語での説明文があり、その英文タイトルは『Clock Tower(時計塔)』、建設期間が1496~1506年と記されていました。二人のムーア人の鐘のほか、マドンナ像や、有翼の獅子像についても説明されていました。(同上)

    『ムーア人の時計塔』の説明パネルですが、冒頭に『サン・マルコ広場』のイタリア語表示の『Piazza San Marco』の文字がありました。その下に4か国語での説明文があり、その英文タイトルは『Clock Tower(時計塔)』、建設期間が1496~1506年と記されていました。二人のムーア人の鐘のほか、マドンナ像や、有翼の獅子像についても説明されていました。(同上)

  • ゴンドラが行き交う、『リオ』と呼ばれる小運河の光景です。橋の下をくぐる時や、ゴンドラがすれ違う時などが、『ゴンドリエーレ』と呼ばれる漕ぎ手の腕の見せ所です。ゴンドラは、船の最後尾の左側に立って漕ぎます。ゴンドラに限らずこの地方の漕ぎ方の特徴は、『立って一本の櫂で前方を見て漕ぐ』ことです。浅瀬の島々を移動するのに、底の平たい小舟で前を見て、障害物を避けながら漕ぐこのスタイルが適しているためです。(同上)

    ゴンドラが行き交う、『リオ』と呼ばれる小運河の光景です。橋の下をくぐる時や、ゴンドラがすれ違う時などが、『ゴンドリエーレ』と呼ばれる漕ぎ手の腕の見せ所です。ゴンドラは、船の最後尾の左側に立って漕ぎます。ゴンドラに限らずこの地方の漕ぎ方の特徴は、『立って一本の櫂で前方を見て漕ぐ』ことです。浅瀬の島々を移動するのに、底の平たい小舟で前を見て、障害物を避けながら漕ぐこのスタイルが適しているためです。(同上)

  • ベネチアン・グラスの発祥は、13世紀中世ヴェネツィア共和国が東方諸国のすぐれた産物をヨーロッパ諸国に独自供給し東西貿易の中心地となる中で、その中でも最も珍重されていたガラス製品を自国で生産すれば多大な利益を得ることが出来ると考えガラス製造に乗り出したことに始まる、とする見解がありますが、しかしトルチェッロ島からは7世紀ないし8世紀のガラス工房跡やガラスが発見されていることや、文献上も10世紀末にはガラス製造のことが登場することなどで、ベネチアン・グラスの正確な起源は未確定です。(同上)

    ベネチアン・グラスの発祥は、13世紀中世ヴェネツィア共和国が東方諸国のすぐれた産物をヨーロッパ諸国に独自供給し東西貿易の中心地となる中で、その中でも最も珍重されていたガラス製品を自国で生産すれば多大な利益を得ることが出来ると考えガラス製造に乗り出したことに始まる、とする見解がありますが、しかしトルチェッロ島からは7世紀ないし8世紀のガラス工房跡やガラスが発見されていることや、文献上も10世紀末にはガラス製造のことが登場することなどで、ベネチアン・グラスの正確な起源は未確定です。(同上)

  • ヴェネチア共和国は、当時最も進んだ技術を持っていたアンティオキアと協定を結び、原料や燃料さらにはガラス職人までをもヴェネツィアに移しました。これによりローマ帝国~イスラム時代から発展してきたガラス技術を取り入れ、応用することで、ヴェネチアン・グラスの技術は発展を遂げていきました。(同上)

    ヴェネチア共和国は、当時最も進んだ技術を持っていたアンティオキアと協定を結び、原料や燃料さらにはガラス職人までをもヴェネツィアに移しました。これによりローマ帝国~イスラム時代から発展してきたガラス技術を取り入れ、応用することで、ヴェネチアン・グラスの技術は発展を遂げていきました。(同上)

  • ヴェネチアン・グラス製造の実演の紹介です。ヴェネチアン・グラスは、鉛を含まないソーダ石灰を使用する事が特徴とされ、コバルトやマンガンなどの鉱物を混ぜることで様々な色合いを表現することが出来ます。 混ぜた鉱物により硬度が変化し、赤色のものが最も硬度が高いとされます。(同上)

    イチオシ

    ヴェネチアン・グラス製造の実演の紹介です。ヴェネチアン・グラスは、鉛を含まないソーダ石灰を使用する事が特徴とされ、コバルトやマンガンなどの鉱物を混ぜることで様々な色合いを表現することが出来ます。 混ぜた鉱物により硬度が変化し、赤色のものが最も硬度が高いとされます。(同上)

  • 高い装飾性も特徴とされます。基本的な製法はソーダガラスを使用した吹きガラスですが、空中で吹くことにより極薄に吹き上げる技法や、グラスを細く引き伸ばしそこに竜や花や鳥などをモチーフにした複雑な装飾を施すなど、『軽業師の妙技』と呼ばれる高度なテクニックが用いられます。他の例にもれず、熟練した職人は『マエストロ』と呼ばれます。(同上)

    高い装飾性も特徴とされます。基本的な製法はソーダガラスを使用した吹きガラスですが、空中で吹くことにより極薄に吹き上げる技法や、グラスを細く引き伸ばしそこに竜や花や鳥などをモチーフにした複雑な装飾を施すなど、『軽業師の妙技』と呼ばれる高度なテクニックが用いられます。他の例にもれず、熟練した職人は『マエストロ』と呼ばれます。(同上)

  • ルネサンス期の15世紀~16世紀にはその繁栄は頂点に達しました。 ヴェルサイユ宮殿の『鏡の間』は、ムラーノ島から連れ出された12人の職人が作成したといわれています。 この時代に一番力を注いだ技法がエナメル装飾で、貴族達は華麗な絵付けの施されたガラス製品を競うように買い求め、エナメル絵付けの施されたガラス製品を持つことがひとつの社会的ステータスとなりました。 (同上)

    ルネサンス期の15世紀~16世紀にはその繁栄は頂点に達しました。 ヴェルサイユ宮殿の『鏡の間』は、ムラーノ島から連れ出された12人の職人が作成したといわれています。 この時代に一番力を注いだ技法がエナメル装飾で、貴族達は華麗な絵付けの施されたガラス製品を競うように買い求め、エナメル絵付けの施されたガラス製品を持つことがひとつの社会的ステータスとなりました。 (同上)

  • ヴェネチアン・グラス製造・販売店の見学を終えて、自由散策の時間になりました。一番の目的は、サン・マルコ寺院の内部見学ですが、その前に、ヴェネチア本島を少し散策しました、この通りは、サン・マルコ広場から、『ムーア人の時計塔』のアーチを潜った通りのようだった記憶です。

    ヴェネチアン・グラス製造・販売店の見学を終えて、自由散策の時間になりました。一番の目的は、サン・マルコ寺院の内部見学ですが、その前に、ヴェネチア本島を少し散策しました、この通りは、サン・マルコ広場から、『ムーア人の時計塔』のアーチを潜った通りのようだった記憶です。

  • サン・マルコ寺院の建物上部の光景になるようです。サン・マルコ寺院は、福音記者・マルコに捧げられた、イタリアのヴェネト州の州都ヴェネツィアで最も有名な大聖堂です。1807年からはヴェネツィア大司教座が置かれているため、本来は『サン・マルコ大聖堂』と呼ばれるべきですが、長い間の慣例で寺院や聖堂と呼ばれています。後ほどsの内部は紹介します。(ウィキペディア)

    サン・マルコ寺院の建物上部の光景になるようです。サン・マルコ寺院は、福音記者・マルコに捧げられた、イタリアのヴェネト州の州都ヴェネツィアで最も有名な大聖堂です。1807年からはヴェネツィア大司教座が置かれているため、本来は『サン・マルコ大聖堂』と呼ばれるべきですが、長い間の慣例で寺院や聖堂と呼ばれています。後ほどsの内部は紹介します。(ウィキペディア)

  • 最大限に土地活用されているヴェネチア本島ですから、緑の樹を目にすることが少なかったようです。前方に、珍しく緑の木立が並んでいました。近くまではいきませんでしたが、公園のような広場のイメージでした。緑の少ないヴェネチア本島では、一番贅沢な光景だったかも知れません。周りには、お土産店が軒を並べていました。

    最大限に土地活用されているヴェネチア本島ですから、緑の樹を目にすることが少なかったようです。前方に、珍しく緑の木立が並んでいました。近くまではいきませんでしたが、公園のような広場のイメージでした。緑の少ないヴェネチア本島では、一番贅沢な光景だったかも知れません。周りには、お土産店が軒を並べていました。

  • サン・マルコ広場の『小広場』と呼ばれる海沿いの広場の光家ウィです。日本で例えれば、神社の鳥居のように立っている施日本の石柱は、この後紹介するヴェネチアの新旧の守護像が祀られています。左側(西側)が古い方の守護聖人で、『守護聖人テオドロス』、右側(東側)が、新しい方と言っても千年以上前の聖マルコに因む『有翼の獅子像』です。(ウィキペディア)

    サン・マルコ広場の『小広場』と呼ばれる海沿いの広場の光家ウィです。日本で例えれば、神社の鳥居のように立っている施日本の石柱は、この後紹介するヴェネチアの新旧の守護像が祀られています。左側(西側)が古い方の守護聖人で、『守護聖人テオドロス』、右側(東側)が、新しい方と言っても千年以上前の聖マルコに因む『有翼の獅子像』です。(ウィキペディア)

  • 中央奥に見えるのは、『サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会』の尖塔です。サン・マルコ広場からは、対岸のサン・ジョルジョ・マッジョーレ島に建つベネディクト会の教会です。現在の建物は『アンドレーア・パッラーディオ(1508~1580年)』により設計され、1566年から1610年にかけて建設されました。(同上)

    中央奥に見えるのは、『サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会』の尖塔です。サン・マルコ広場からは、対岸のサン・ジョルジョ・マッジョーレ島に建つベネディクト会の教会です。現在の建物は『アンドレーア・パッラーディオ(1508~1580年)』により設計され、1566年から1610年にかけて建設されました。(同上)

  • 『サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会』の尖塔のズームアップ光景です。1566年に承認がおり、パッラーディオが亡くなる前(1580年)に完成することは出来ませんでしたが、1575年には教会本体は完成し、その後継続的に改修や内装が施され1610年に完成しました。鐘楼は1791年に完成し、現在はエレベーターが設置されているようです。(同上)

    『サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会』の尖塔のズームアップ光景です。1566年に承認がおり、パッラーディオが亡くなる前(1580年)に完成することは出来ませんでしたが、1575年には教会本体は完成し、その後継続的に改修や内装が施され1610年に完成しました。鐘楼は1791年に完成し、現在はエレベーターが設置されているようです。(同上)

  • 余り確かではありませんが、ヴェネチア本島に位置する『セント・ステファノ教会』の建物の一部になるようです。サン・マルコ広場から、アカデミア橋に向かう途中で見掛けた建物です。フレスコ画らしい壁画がありましたが、かなり色褪せていました。アカデミア橋は、最初は1854年11月に開通した鉄製の橋でしたが、現在は木製の橋です。(同上)

    余り確かではありませんが、ヴェネチア本島に位置する『セント・ステファノ教会』の建物の一部になるようです。サン・マルコ広場から、アカデミア橋に向かう途中で見掛けた建物です。フレスコ画らしい壁画がありましたが、かなり色褪せていました。アカデミア橋は、最初は1854年11月に開通した鉄製の橋でしたが、現在は木製の橋です。(同上)

  • 同じく、余り確かではありませんが、ヴェネチア本島に位置する『セント・ステファノ教会』の建物の光景になるようです。ヴェネチアは、バロック後期の著名な作曲家・ヴィヴァルディの生誕地です。ネット情報では、地元の教会ではヴィヴァルディの演奏会も定期的に開かれているようです。その教会の一つとしてネット紹介されていました。日本では、イ・ムジチ合奏団の『四季』のレコード(現在はCD)で広く知られるようになりました。今でも、定期的に聴きたくなるヴィヴァルディの作品の一つです。(同上)

    同じく、余り確かではありませんが、ヴェネチア本島に位置する『セント・ステファノ教会』の建物の光景になるようです。ヴェネチアは、バロック後期の著名な作曲家・ヴィヴァルディの生誕地です。ネット情報では、地元の教会ではヴィヴァルディの演奏会も定期的に開かれているようです。その教会の一つとしてネット紹介されていました。日本では、イ・ムジチ合奏団の『四季』のレコード(現在はCD)で広く知られるようになりました。今でも、定期的に聴きたくなるヴィヴァルディの作品の一つです。(同上)

  • 『サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会』の建物光景です。この教会の建築が始まったのは、1630年になります。当時は黒死病(ペスト)が蔓延していて、その災厄から逃れる祈りを込めて、建てられたとされます。 しかし、ヴェネチアは埋め立て地のため地盤が軟らかく、工事は難航を極めました。清らかで荘厳な印象を放つこの建物には、黒死病の終焉を記念する意味も込められるようになりました。当時のヴェネツィアでのバロック建築を代表する建築家の『バルダッサーレ・ロンゲーナ(1598~1682年)』の建築案が採用され、1681年に完成しました。(同上)

    イチオシ

    『サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会』の建物光景です。この教会の建築が始まったのは、1630年になります。当時は黒死病(ペスト)が蔓延していて、その災厄から逃れる祈りを込めて、建てられたとされます。 しかし、ヴェネチアは埋め立て地のため地盤が軟らかく、工事は難航を極めました。清らかで荘厳な印象を放つこの建物には、黒死病の終焉を記念する意味も込められるようになりました。当時のヴェネツィアでのバロック建築を代表する建築家の『バルダッサーレ・ロンゲーナ(1598~1682年)』の建築案が採用され、1681年に完成しました。(同上)

  • 『サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会』を大運河(カナル・グランデ)越しに見学した後、『サン・マルコ広場』に戻りました。何度も紹介しますが、ヴェネチアのシンボルタワーの『ヴェネチアの鐘楼』の光景です。『サン・マルコの大鐘楼』等とも呼ばれています。今日の青空に映える素晴らしい尖塔です。建設当初は、見張り台や鐘楼としての機能がありましたが、現在は専ら観光用の見晴らし台としても活躍しています。(同上)

    『サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会』を大運河(カナル・グランデ)越しに見学した後、『サン・マルコ広場』に戻りました。何度も紹介しますが、ヴェネチアのシンボルタワーの『ヴェネチアの鐘楼』の光景です。『サン・マルコの大鐘楼』等とも呼ばれています。今日の青空に映える素晴らしい尖塔です。建設当初は、見張り台や鐘楼としての機能がありましたが、現在は専ら観光用の見晴らし台としても活躍しています。(同上)

  • 少し場所を変えて紹介する、『ヴェネチアの鐘楼』の光景です。高さは98.6mあり、サン・マルコ寺院の前の角に単独で建っています。塔の下半分は、シンプルなレンガ造りになっていて、その上部にアーチ型の鐘架があり、その中に五つの鐘があります。鐘架の上にはヴェネチアを象徴する歩行中のライオンと女性の形が象ってあるレンガ造りの壁があり、さらのその上にピラミッド型の尖塔が乗っています。この尖塔の頂上にある金色の像は、大天使ガブリエルです。 大天使ガブリエルは、聖書の中で、聖母マリアに対してイエス・キリストの誕生を伝え、エリザベトに洗礼者ヨハネの誕生を伝えたとされ、キリスト教ではミカエル、ラファエルと共に三大天使の一人に数えられています。(同上)

    少し場所を変えて紹介する、『ヴェネチアの鐘楼』の光景です。高さは98.6mあり、サン・マルコ寺院の前の角に単独で建っています。塔の下半分は、シンプルなレンガ造りになっていて、その上部にアーチ型の鐘架があり、その中に五つの鐘があります。鐘架の上にはヴェネチアを象徴する歩行中のライオンと女性の形が象ってあるレンガ造りの壁があり、さらのその上にピラミッド型の尖塔が乗っています。この尖塔の頂上にある金色の像は、大天使ガブリエルです。 大天使ガブリエルは、聖書の中で、聖母マリアに対してイエス・キリストの誕生を伝え、エリザベトに洗礼者ヨハネの誕生を伝えたとされ、キリスト教ではミカエル、ラファエルと共に三大天使の一人に数えられています。(同上)

  • 大運河(カナル・グランデ)に面した小広場の海側に建っている2本の石柱の片方です。こちらには『守護聖人テオドロス』が上に載っています。ヴェネチアに守護聖人の『サン・マルコ』がやってくる前の守護神です。二本の柱の間には、かつて絞首刑の死刑執行台が置かれていたため、ヴェネチア人はこの柱の間を通らなかったとの言い伝えがあります。ネット写真では、槍と刀を身に着け、鰐の上に立つ姿の聖人のようでした。ワニの上に乗り槍を持つ聖テオドーロ像は、龍を退治したというテオドーロの神話ヲ背景にしています。(同上)

    大運河(カナル・グランデ)に面した小広場の海側に建っている2本の石柱の片方です。こちらには『守護聖人テオドロス』が上に載っています。ヴェネチアに守護聖人の『サン・マルコ』がやってくる前の守護神です。二本の柱の間には、かつて絞首刑の死刑執行台が置かれていたため、ヴェネチア人はこの柱の間を通らなかったとの言い伝えがあります。ネット写真では、槍と刀を身に着け、鰐の上に立つ姿の聖人のようでした。ワニの上に乗り槍を持つ聖テオドーロ像は、龍を退治したというテオドーロの神話ヲ背景にしています。(同上)

  • こちらもサン・マルコ広場に建つ高い石柱とその上のブロンズ像です。ブロンズ像は、ヴェネチアの守護神の『サン・マルコ』に因む『有翼の獅子像』です。その後ろ姿になります。ヴェネチアの守護聖人である聖マルコを象徴する『サン・マルコの獅子』は、遥か昔より修復が繰り返され、オリジナルのブロンズ像は、現在はドゥカーレ宮殿内に保管されています。円柱の上に設置されているこの像は、そのレプリカです。(同上)

    こちらもサン・マルコ広場に建つ高い石柱とその上のブロンズ像です。ブロンズ像は、ヴェネチアの守護神の『サン・マルコ』に因む『有翼の獅子像』です。その後ろ姿になります。ヴェネチアの守護聖人である聖マルコを象徴する『サン・マルコの獅子』は、遥か昔より修復が繰り返され、オリジナルのブロンズ像は、現在はドゥカーレ宮殿内に保管されています。円柱の上に設置されているこの像は、そのレプリカです。(同上)

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