2012/11/16 - 2012/11/23
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旅人のくまさんさん
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サディー廟の次に、ハーフェズ廟を見学しました。ハーフェズは14世紀のイランの宮廷詩人で、500編ほどの抒情詩を創りました。イランでは知らない人がいない詩人とされます。(ウィキペディア)
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サディー廟の次に向かったハーフェズ廟への道筋の光景です。ハーフェズは、14世紀のイランの著名な詩人です。彼の名は、『ハージェ・シャムソディーン・モハンマド』ですが、聖典コーランを暗記していたため、『ハーフェズ』と呼ばれるようになりました。イラン暦メフル月20日は、『ハーフェズの日』とされ、イラン全土で、文学の会合や詩を読む会が開かれています。(同上)
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ハーフェズ廟の入口付近が見えてきました。言い伝えによれば、ハーフェズは幼い頃に父親を亡くし、その後、母親とともに苦しい生活を強いられました。そのため、時折、勉学の傍らで労働することを余儀なくされていました。ハーフェズの家族、育ち方や生活についても諸説ありますが、歴史研究家によれば、1326年、イラン南部のシラーズで生まれました。(同上)
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ハーフェズ詩集の最初の編纂者だったモハンマド・ゴルアンダームによれば、家族の問題が解消した後、ハーフェズはシラーズで、当時の文学者やイスラム法学者の学術会合を利用することができるようになったようです。色とりどりの花がハーフェズ廟の入口付近を飾っていました。(同上)
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白い葉が綺麗な、シロタエギク(白妙菊)か、その近縁種のようです。モハンマド・ゴルアンダームは、ハーフェズ詩集の序文で、『ハーフェズは、当時、広まっていたイスラム法学とペルシャ・アラビア文学の二つの分野において研究活動に従事し、コーランを記憶した』と述べています。ハーフェズは、当時の偉大なイスラム法学者のもとで、イスラム哲学を学んだようです。(同上)
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階段状の場所に並べられた鉢植えの赤い花の光景です。野生種に近いバラの花でした。当時のシラーズでは、偉大な哲学者や法学者の会合が盛んに行われていました。ハーフェズも当然、この会合で神秘主義哲学者らと知り合いになり、彼らからさまざまなことを学んでいました。しかし、神秘主義に染まることはなかったようです。(同上)
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イチオシ
少し離れた場所から見上げた、ハーフェズ廟の光景です。研究者や思想家によれば、芸術家の成長と神から与えられた能力の開花には、かずかずの要素が影響を及ぼしましたが、そのうちの一つが、社会、政治状況でした。ハーフェズが生きた14世紀は、イラン各地がモンゴル族の襲撃を受けた時代です。歴史家は、14 世紀を、イランの歴史において、大量殺戮といった点で最も恐ろしく野蛮な時代だったとしています。(同上)
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ハーフェズ廟の屋根のズームアップ光景です。この後、ハーフェズの棺に記された詩を紹介します。自分で読み取ることは出来ませんが、現地ガイドさんが朗誦してくれました。和訳での紹介です。
私は天国の鳥、この世の罠から抜け出そう
そなたへの愛に誓って、私を自分の奴隷と呼んでくれるなら
私は時間と空間の支配から抜け出そう (同上) -
詩はまだ続きます。写真は、詩が刻まれているハーフェズの棺です。
神よ、私が埃のように消え去る前に
お導きの雲から慈雨を降らせ給え
わが墓の傍に酒を持ち楽師を連れて坐れ
そなたの芳香(かおり)で私は墓から踊りながら起き上がろう (同上) -
写真は、ハーフェズに捧げるコーラスを披露していた学生さん達らしい一団です。全員女性でした。ハーフェズの詩は続きます。
麗しい歩みの恋人よ、立って姿を見せよ
私は踊りながら生命とこの世に別れを告げよう
老いたりとも一夜私をしっかり抱いてくれ
翌朝私は若返ってそなたの傍から起き上がろう (同上) -
コーラスの方達です。離れた場所から撮影した横顔でしたから、少しアップさせて戴きました。ハーフェズの詩の締め括りの部分です。
死ぬ日、そなたに会う一瞬(いっとき)の猶予をくれ
ハーフェズのように、私は生命とこの世を捧げよう (同上) -
写真は、ハーフェズに捧げるコーラスの披露を終えた女学生さん達です。ハーフェズ廟の公式行事だったかもしれません。(同上)
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近くから見上げたハーフェズ廟の石柱と天蓋の光景です。ハーフェズはシラーズを愛する詩や美女に恋する詩のほかに酒についても多く詠んでいます。その一つです。先程の詩と同様、ペンネームIRANIRANの『中東・イスラム世界への招待」から引用させて頂きました。(同上)
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イチオシ
写真は、アラベスク文様が綺麗なハーフェズ廟の天井光景です。彼の詩の紹介です。
酌人(サーキー)よ、起きて私に酒杯を与えよ
日々の悲しみに土をかけよ
酒杯をわが掌(て)に置け、体から
この青色の幣衣を脱ぎすてるように
(注記) 青色の幣衣=神秘主義者の幣衣 (同上) -
賢者には(名声を求めぬことが)不評であろうとも
われらは名誉や名声を欲しない
酒をくれ、高慢の風をいつまで吹かすのか
悪い結果に終わる欲望には土をかけよ
わが嘆きの胸のため息の煙は
未熟な無常者たちを焼きつくした (同上) -
恋に狂うわが心の秘密を守る友を
私は貴賤のうちにだれも見出せない
恋人といればわが心は楽しいが
彼女は一挙にわが心から安らぎを奪った
白銀(しろがね)の体をしたかの糸杉(恋人)を見た者はだれも
園の糸杉には決して見向きもしない
ハーフェズよ、日夜苦難に耐えよ
ついにはいつか望みが達せられよう
(注記) 『ハーフェズ』は、コーラン暗唱者の称号として用いられているようです。(同上) -
イランに観光旅行で出かける日本人の多くは、私を含めイスファハンとペルセポリスの遺跡に行くことが多いようです。シラーズ、このペルセポリスを訪れる際の拠点となる町です。
バラの花が香る美しい町として知られているこの町を愛したハーフェズの詩には、シラーズが賛美されています。
次に「ガザル」の一節を紹介します。ガザルは、中東・西アジアから南アジアにかけての地域の文学伝統において、恋愛を主題にした定型抒情詩の一様式、ないし、当該様式に則って制作された詩作品です。殊にハーフェズに代表されるペルシャで発展しました。(同上) -
楽しきかなシラーズとその比類なき位置(ありか)
神よ、都を衰退から護らせ給え
我らがルクナバードを荒らし給うな
その澄んだ水はヒズルの齢(よわい)を授ける
ジャファラーバードとムサッラーの間に
吹くは竜涎香の香りを放つ北の風
シラーズに来たりて聖なる霊(天使)の恵を
優れたる人びとから求めよ
(平凡社東洋文庫『ハーフェズ』黒柳恒男訳より)
(訳注)ヒズルの齢とは永遠の命のこと。聖なる霊(天使)とは大天使ガブリエルのこと。
この一節だけでなく、彼の詩にはシラーズを愛して止まない心情が豊富に表現されています。(同上) -
この一節だけでなく、彼の詩にはシラーズを愛して止まない心情が豊富に表現されています。そして、ハーフェズはこの町から出ることができなかったと次のように詠います。
ムサッラーの微風(そよ風)とルクナバードの流れは
私に物見遊山の旅の許しを与えない (同上) -
ハーフェズの詩の中で、最も知られていると思われる詩の紹介です。紹介されたペンネームIRANIRANさんも、最も好きな一つと披露されていました。訳者の黒柳恒男先生(1925~2014年)は、日本のペルシャ語学者・ペルシャ文学者で、日本のペルシャ語・ペルシャ文学研究の礎を築き、普及に努めた人です。アラビア語・ペルシア語・ウルドゥー語の辞書を編纂もされた東京外語大の名誉教授でした。(同上)
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かのシラーズの美女がわが心を受け入れるなら、
その黒いほくろに私は捧げよう、サマルカンドもブハーラーも
酌人(サーキー)よ、残りの酒をくれ、天国でも得られないのは
ルクナバードの川の岸とムサッラーの花園 (同上) -
ああ、都を騒がす陽気で優美な歌姫(ルーリー)たちは
トルコ人が王者の宴(うたげ)を略奪するようにわが心から忍耐を奪った
恋人の美にわれらの不完全な愛は必要でない
麗しい顔に紅(べに)、白粉(おしろい)、黒子や描き眉がどうして要ろうか (同上) -
ヨセフの日毎に増す美から私は知る
愛はズライハーを貞節の帳から引き出すと
そなたが罵ろうが私は祝福をささげよう
苦い答えは甘く紅の口紅にふさわしい
恋人よ、忠告に耳を傾けよ、生命にもまして
幸福な若者たちが大切にするのは老いた賢者の金言 (同上) -
楽師と酒について語り、運命の秘密を決して探るな
だれもこの謎を知性で解いたり、解く者はいない
ハーフェズよ、そなたは抒情詩(ガザル)を作り、白珠(しろたま)を綴った、さあ楽しく歌え
そなたの詩に大空は昂星(スバル)の首飾りをささげよう (同上) -
これでハーフェズ廟もハーフェズの抒情詩の紹介もおしまいです。最後の詩は、現地ガイドさんも同胞が聴いている中では、朗々と紹介するのは、少し恥ずかし過ぎるようです。振り返って眺めた、ハーフェズ廟方面の光景です。次に見学に向かったのは、『キャリーム・ハーン城塞』です。(同上)
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イチオシ
『ザンド朝(1749~1794年)』の創始者の、『キャリーム・ハーン・ザンド(1705頃~1779年))の居城だった『キャリーム・ハーン城塞』の城壁の光景です。傾いている塔ですが、外壁には綺麗なアラベスク文様が浮かび上がっていました。『キャリーム・ハーン(在位:1750~1779年)』は、『カリーム・ハーン』の日本語表記もされますが、『キャリーム・ハーン』の表記に統一しておきます。(同上)
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この写真ですと、より一層傾いた城壁様子が分かります。ザンド朝の創始者であるキャリーム・ハーンは、元は、アフシャール朝の初代君主の『ナーディル・シャー(1688~1747年)』の将軍の一人でした。ナーディル・シャーは、極めて短い期間ですがアナトリア東部からイラン、中央アジア、インドに及ぶ広大な領域を支配下に入れ、『第二のアレクサンドロス』とも呼ばれます。(同上)
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こちらの写真でも、塔の傾斜がよく分かります。ナーディル・シャーの死後、イラン系ともクルド系とも言われるザンド部族は、キャリーム・ハーンを指導者として元の根拠地に戻って自立、ザンド朝を建てました。キャリーム・ハーンは勢力を拡張する中で、正当性を主張するために最後のサファヴィー朝の君主の孫、イスマーイール3世を名目上のシャーとして擁立しました。(同上)
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入城しての見学の時間はありませんでしたが、出入口門の光景です。キャリーム・ハーンは、自らはシャーの『代理人(ヴァキール)』として支配を行いました。1760年までに、キャリーム・ハーンはアフシャール朝の支配するホラーサーンを除いたイランのほとんどを支配するようになりました。彼はさらにアゼルバイジャン、イラク方面にも出兵し、バスラ地方も支配しました。(同上)
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キャリーム・ハーンの強敵は、ガージャール部族連合のムハンマド・ハサン・ハーンでしたが、息子のアーカー・ムハンマド・ハーンを捕らえ、シラーズに抑留し、主導権を握りました。ガージャール部族連合を押さえ込むと、イラン高原には一時的ながら平和が訪れザンド朝は繁栄しました。キャリーム・ハーンは、自らの称号を『王朝の代理人』から『人民の代理人』に変え、善政を布きました。(同上)
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イスマーイール3世の死後もその後継者を擁立することはありませんでした。対外関係では、キャリーム・ハーンはサファヴィー朝時代の交易の復活のためにイギリス東インド会社の交易所をブーシェフルに設置する権利を与えました。これによりブーシェフル経由のペルシャ湾交易が活発化しました。今日においては、イランの歴史上有数の統治者と評価されています。(同上)
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