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ペルセポリスの見学を終えた後、次に向かったのはヤズドです。その途中、キュロス王の墓を訪れました。キュロス2世は、旧約聖書にもその名が記されているようです。キュロス大王とも呼ばれる、アケメネス朝ペルシャ帝国の初代皇帝です。(ウィキペディア)

2012秋、イラン旅行記(26/56):11月19日(9):ペルセポリスからヤズドへ、伝キュロス王の墓、パサルガエダ

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2012/11/16 - 2012/11/23

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旅人のくまさん

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ペルセポリスの見学を終えた後、次に向かったのはヤズドです。その途中、キュロス王の墓を訪れました。キュロス2世は、旧約聖書にもその名が記されているようです。キュロス大王とも呼ばれる、アケメネス朝ペルシャ帝国の初代皇帝です。(ウィキペディア)

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  • キュロス2世(紀元前600年頃~紀元前529年)は、キュロス大王とも呼ばれる、アケメネス朝(紀元前550~紀元前330年)ペルシャ帝国の初代皇帝です。現代のイランでも、『イランの建国者』と称えています。アケメネス朝の名称は、家祖であるアケメネスに由来します。この王朝の君主は、称号として『大王』または、『諸王の王』を名乗りました。(同上)

    イチオシ

    キュロス2世(紀元前600年頃~紀元前529年)は、キュロス大王とも呼ばれる、アケメネス朝(紀元前550~紀元前330年)ペルシャ帝国の初代皇帝です。現代のイランでも、『イランの建国者』と称えています。アケメネス朝の名称は、家祖であるアケメネスに由来します。この王朝の君主は、称号として『大王』または、『諸王の王』を名乗りました。(同上)

  • 同じ場所から、少しズームアップした、伝キュロス大王墓の光景です。2004年に世界文化遺産に登録された『パサルガエダ』は、アケメネス朝(紀元前550~紀元前330年)のキュロス2世によって建設された、当時のペルシャ帝国の首都でした。紀元前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王の遠征軍によって滅ぼされました。(同上)

    同じ場所から、少しズームアップした、伝キュロス大王墓の光景です。2004年に世界文化遺産に登録された『パサルガエダ』は、アケメネス朝(紀元前550~紀元前330年)のキュロス2世によって建設された、当時のペルシャ帝国の首都でした。紀元前330年にマケドニアのアレクサンドロス大王の遠征軍によって滅ぼされました。(同上)

  • 同じ場所から、更にズームアップした、伝キュロス大王墓の光景です。アケメネス朝の創建は、紀元前550年、小王国のアンシャンの第7代の王キュロス2世がメディア王国を滅ぼしたことに始まります。キュロス2世は、紀元前547年にリュディアを滅ぼし、更に紀元前539年に新バビロニアを滅ぼし、大帝国を築きました。(同上)

    同じ場所から、更にズームアップした、伝キュロス大王墓の光景です。アケメネス朝の創建は、紀元前550年、小王国のアンシャンの第7代の王キュロス2世がメディア王国を滅ぼしたことに始まります。キュロス2世は、紀元前547年にリュディアを滅ぼし、更に紀元前539年に新バビロニアを滅ぼし、大帝国を築きました。(同上)

  • 反時計回りに、45度ほど回った場所からの光景です。この後も、同じ方向に回りながら撮影しました。紀元前525年、アケメネス朝第2代のカンビュセス2世(生年不明~紀元前522年)が、エジプトを併合し、古代オリエント世界を統一しました。カンビュセス2世は、父キュロス2世と母カッサンダネの長子として生まれました。弟にスメルディス、妹にロクサーナとアトッサがいます。(同上)

    反時計回りに、45度ほど回った場所からの光景です。この後も、同じ方向に回りながら撮影しました。紀元前525年、アケメネス朝第2代のカンビュセス2世(生年不明~紀元前522年)が、エジプトを併合し、古代オリエント世界を統一しました。カンビュセス2世は、父キュロス2世と母カッサンダネの長子として生まれました。弟にスメルディス、妹にロクサーナとアトッサがいます。(同上)

  • ダイオレス1世(紀元前550年頃~紀元前486年)の時代、ペルシャは更に領土拡大し、ギリシャとの摩擦が起き始めました。紀元前521年にダレイオス1世はパンジャーブ・シンドを征服し、紀元前520年にはペルセポリスの建設に着手、紀元前518年にはガンダーラを征服しました。ダイオレス1世は、一般にキュロス2世から数えて第3代ですが、自らは第9代王と名乗っています。(同上)

    ダイオレス1世(紀元前550年頃~紀元前486年)の時代、ペルシャは更に領土拡大し、ギリシャとの摩擦が起き始めました。紀元前521年にダレイオス1世はパンジャーブ・シンドを征服し、紀元前520年にはペルセポリスの建設に着手、紀元前518年にはガンダーラを征服しました。ダイオレス1世は、一般にキュロス2世から数えて第3代ですが、自らは第9代王と名乗っています。(同上)

  • ダイオレス1世は、偽スメルディス(ガウマータ)を排除して王位に就き、王国の全域で発生した反乱をことごとく鎮圧しました。西はエジプト、トラキア地方から東はインダス川流域に至る広大な領土を統治し、『エジプトのファラオ』の別号を持ちました。この時代についての重要な記録はヘロドトスが『歴史』に記録している逸話と、ダレイオス1世自身が残したベヒストゥン碑文です。(同上)

    ダイオレス1世は、偽スメルディス(ガウマータ)を排除して王位に就き、王国の全域で発生した反乱をことごとく鎮圧しました。西はエジプト、トラキア地方から東はインダス川流域に至る広大な領土を統治し、『エジプトのファラオ』の別号を持ちました。この時代についての重要な記録はヘロドトスが『歴史』に記録している逸話と、ダレイオス1世自身が残したベヒストゥン碑文です。(同上)

  • ダイオレス1世は、自らの出自、即位の経緯、そして各地の反乱の鎮圧などの業績をベヒストゥン碑文として知られる碑文に、複数の言語で記録させました。これは近代における楔形文字と古代ペルシャ語解読のための貴重な資料を提供しました。また、今日にもその遺跡が残されているペルセポリスの建設を開始した王でもあります。(同上)

    イチオシ

    ダイオレス1世は、自らの出自、即位の経緯、そして各地の反乱の鎮圧などの業績をベヒストゥン碑文として知られる碑文に、複数の言語で記録させました。これは近代における楔形文字と古代ペルシャ語解読のための貴重な資料を提供しました。また、今日にもその遺跡が残されているペルセポリスの建設を開始した王でもあります。(同上)

  • ヘロドトスの記録によれば、ダレイオス1世はヒュルカニアとパルティアのサトラップ(クシャサパーワン、総督)ヒュスタスペス(ウシュタースパ)とロドグネ(ワルダガウナ)の長男として生まれました。一方、ベヒストゥン碑文においてダレイオス1世自身が語るところによれば、その祖先はアケメネス家(ハカーマニシュ家)の分流であると記します。(同上)

    ヘロドトスの記録によれば、ダレイオス1世はヒュルカニアとパルティアのサトラップ(クシャサパーワン、総督)ヒュスタスペス(ウシュタースパ)とロドグネ(ワルダガウナ)の長男として生まれました。一方、ベヒストゥン碑文においてダレイオス1世自身が語るところによれば、その祖先はアケメネス家(ハカーマニシュ家)の分流であると記します。(同上)

  • ヘロドトスによれば、カンビュセス2世(カンブジヤ2世)の生前、ダレイオス1世はカンビュセス2世の槍持ちとして親衛隊にいたといいます。この職業は王に極めて近い人物のみが付く高い職です。また、バビロニアのサトラップ、ゴブリュアス(ガウバルワ)の娘と結婚し、3人の子供を儲けていました。先程からの写真の金網は、応募への立入り禁止のフェンスです。(同上)

    ヘロドトスによれば、カンビュセス2世(カンブジヤ2世)の生前、ダレイオス1世はカンビュセス2世の槍持ちとして親衛隊にいたといいます。この職業は王に極めて近い人物のみが付く高い職です。また、バビロニアのサトラップ、ゴブリュアス(ガウバルワ)の娘と結婚し、3人の子供を儲けていました。先程からの写真の金網は、応募への立入り禁止のフェンスです。(同上)

  • ダレイオス1世が主要な舞台に登場するのは、カンビュセス2世の死去(紀元前522年)とその後の王位継承の争いの頃です。ヘロドトスによれば、カンビュセス2世は弟であるスメルディスによる王位簒奪を恐れ、密かに殺害しました。そのためスメルディスの死は人々に知られる事はなかったと記します。写真は、現地でも正式名が分からなかった遺跡のような建物です。(同上)

    イチオシ

    ダレイオス1世が主要な舞台に登場するのは、カンビュセス2世の死去(紀元前522年)とその後の王位継承の争いの頃です。ヘロドトスによれば、カンビュセス2世は弟であるスメルディスによる王位簒奪を恐れ、密かに殺害しました。そのためスメルディスの死は人々に知られる事はなかったと記します。写真は、現地でも正式名が分からなかった遺跡のような建物です。(同上)

  • これで、キュロス2世大王の墓と、かつてのアケメネス朝の都だったパサルガエダの紹介はお終いです。アケメネス朝の話しはもう少し続けます。パティゼイノスと偽スメルディスがペルシャの支配権を握りましたが、即位8カ月目にパルナスペスの子オタネス(ウターナ)が正体を暴き、ダレイオス1世を含む7人の同志で、マゴス僧の兄弟を排除しました。(同上)

    これで、キュロス2世大王の墓と、かつてのアケメネス朝の都だったパサルガエダの紹介はお終いです。アケメネス朝の話しはもう少し続けます。パティゼイノスと偽スメルディスがペルシャの支配権を握りましたが、即位8カ月目にパルナスペスの子オタネス(ウターナ)が正体を暴き、ダレイオス1世を含む7人の同志で、マゴス僧の兄弟を排除しました。(同上)

  • マゴス僧は、本物のスメルディスの死が人々に知られていなかったことに目をつけ、この弟を殺害されたスメルディス王子であるとして玉座に着け、王国全土に布告を出しました。カンビュセス2世は、エジプトからの帰国の途上、シリアでこの知らせを聞き、激しく狼狽しました。偽スメルディスを打倒するため急ぎ戻ろうとし時、剣の操作を誤って負傷し、シリアのアグバタナで死去したことで狼狽のほどが分かります。(同上)

    マゴス僧は、本物のスメルディスの死が人々に知られていなかったことに目をつけ、この弟を殺害されたスメルディス王子であるとして玉座に着け、王国全土に布告を出しました。カンビュセス2世は、エジプトからの帰国の途上、シリアでこの知らせを聞き、激しく狼狽しました。偽スメルディスを打倒するため急ぎ戻ろうとし時、剣の操作を誤って負傷し、シリアのアグバタナで死去したことで狼狽のほどが分かります。(同上)

  • しかしカンビュセス2世がエジプトに遠征している最中、本国を任せていたマゴス僧パティゼイノスが反旗を翻しました。マゴス僧は、宗教儀礼を取り扱う僧です。このマゴス僧には、容姿がスメルディスの生き写しの弟がおり、名前も同じスメルディスでした。少し出来過ぎのような話にも聞こえますが、真偽のほどは分かりません。この後も、もう少し続けます。(同上)

    しかしカンビュセス2世がエジプトに遠征している最中、本国を任せていたマゴス僧パティゼイノスが反旗を翻しました。マゴス僧は、宗教儀礼を取り扱う僧です。このマゴス僧には、容姿がスメルディスの生き写しの弟がおり、名前も同じスメルディスでした。少し出来過ぎのような話にも聞こえますが、真偽のほどは分かりません。この後も、もう少し続けます。(同上)

  • ヘロドトスによる事の顛末です。同志の7人は国制をどうするかについて議論しましたが、まとまりませんでした。それで城外に騎乗して遠乗りし、日の出と共に最初に馬がいなないた者が王となることを定めました。そして馬丁オイバレスの計略により、最初に馬をいななかせることに成功したダレイオス1世が王となりました。あっけない顛末でした。(同上)

    ヘロドトスによる事の顛末です。同志の7人は国制をどうするかについて議論しましたが、まとまりませんでした。それで城外に騎乗して遠乗りし、日の出と共に最初に馬がいなないた者が王となることを定めました。そして馬丁オイバレスの計略により、最初に馬をいななかせることに成功したダレイオス1世が王となりました。あっけない顛末でした。(同上)

  • 一方、ベヒストゥン碑文による事の顛末です。当然、ダレイオス1世の思惑が組み込まれています。カンブジヤ2世(カンビュセス2世)は、同母同父の弟バルディヤを殺害しましたが、バルディヤの死は人々には知らされませんでした。その後カンブジヤ2世がムドラーヤ(エジプト)に進発すると民衆の間に不穏な空気が流れました。(同上)

    一方、ベヒストゥン碑文による事の顛末です。当然、ダレイオス1世の思惑が組み込まれています。カンブジヤ2世(カンビュセス2世)は、同母同父の弟バルディヤを殺害しましたが、バルディヤの死は人々には知らされませんでした。その後カンブジヤ2世がムドラーヤ(エジプト)に進発すると民衆の間に不穏な空気が流れました。(同上)

  • ベヒストゥン碑文は続きます。この時、マゴス僧ガウマータが「余はクル2世の息子であり、カンブジヤ2世の弟であるバルディヤである」と偽って宣言すると、民衆はカンブジヤ2世から離反してガウマータに付き、彼は王として王国を掌握しました。カンブジヤ2世は寿命が尽きて死んだと記します。写真は、途中立寄った遺跡ですが、暗くてさっぱり分かりませんでした。(同上)

    ベヒストゥン碑文は続きます。この時、マゴス僧ガウマータが「余はクル2世の息子であり、カンブジヤ2世の弟であるバルディヤである」と偽って宣言すると、民衆はカンブジヤ2世から離反してガウマータに付き、彼は王として王国を掌握しました。カンブジヤ2世は寿命が尽きて死んだと記します。写真は、途中立寄った遺跡ですが、暗くてさっぱり分かりませんでした。(同上)

  • ガウマータは、自分が偽物であることを隠し通すため、生前のバルディヤを知っている者の多くを粛清しました。このため多くの人々は恐れおののき、ガウマータについて何事をも敢えて口にすることはなくなりました。正当な王家の出身者のダーラヤワウ1世(ダレイオス1世)は、アウラマズダー神に助けを乞うたと記します。(同上)

    ガウマータは、自分が偽物であることを隠し通すため、生前のバルディヤを知っている者の多くを粛清しました。このため多くの人々は恐れおののき、ガウマータについて何事をも敢えて口にすることはなくなりました。正当な王家の出身者のダーラヤワウ1世(ダレイオス1世)は、アウラマズダー神に助けを乞うたと記します。(同上)

  • アウラマズダー神の恩寵を得て、ガウマータとその側近たちを殺害しました。こうしてダーラヤワウ1世は王国をガウマータから奪回し、アウラマズダーの意思によって王となりました。めでたし、めでたしといったところです。写真は、何か曰くがあった樹のようですが、写真は撮ったものの、記憶に残りませんでした。(同上)

    アウラマズダー神の恩寵を得て、ガウマータとその側近たちを殺害しました。こうしてダーラヤワウ1世は王国をガウマータから奪回し、アウラマズダーの意思によって王となりました。めでたし、めでたしといったところです。写真は、何か曰くがあった樹のようですが、写真は撮ったものの、記憶に残りませんでした。(同上)

  • この碑の夕食会上です。途中でレストランに立寄ったのか、泊まったホテルのレストランだったか忘れましたが、たぶん、泊まったホテルのようです。立派な夕食会場でした。(同上)

    この碑の夕食会上です。途中でレストランに立寄ったのか、泊まったホテルのレストランだったか忘れましたが、たぶん、泊まったホテルのようです。立派な夕食会場でした。(同上)

  • 前菜のスープです。次第にアルコール無しの夕食にも慣れてきましたので、残さず戴きました。アルコールが飲めないのは残念ですが、イランの食事は、味付けもよく、毎回、野菜も付いていましたから、アルコールを口にしない方にとっては申し分のない食事が続いたようです。(同上)

    前菜のスープです。次第にアルコール無しの夕食にも慣れてきましたので、残さず戴きました。アルコールが飲めないのは残念ですが、イランの食事は、味付けもよく、毎回、野菜も付いていましたから、アルコールを口にしない方にとっては申し分のない食事が続いたようです。(同上)

  • こちらが、鳥のもも肉料理が入った、メインディッシュです。しっかりと味付けされていました。生野菜は、トマトを含め数種類でした。(同上)

    こちらが、鳥のもも肉料理が入った、メインディッシュです。しっかりと味付けされていました。生野菜は、トマトを含め数種類でした。(同上)

  • 食事を終わった後は、何もすることがありませんので、時間を持て余します。いつものことながら、ホテル近辺と、ホテルの中の散策です。(同上)

    食事を終わった後は、何もすることがありませんので、時間を持て余します。いつものことながら、ホテル近辺と、ホテルの中の散策です。(同上)

  • 明るく照明された玄関先のズームアップ光景です。キュロス2世が創建し、第3代のダレイオス1世の時代に世紀を迎えたアケメネス朝・ペルシャ帝国(紀元前550~紀元前330年)ですが、その後のことも少し紹介しておきます。(同上)

    明るく照明された玄関先のズームアップ光景です。キュロス2世が創建し、第3代のダレイオス1世の時代に世紀を迎えたアケメネス朝・ペルシャ帝国(紀元前550~紀元前330年)ですが、その後のことも少し紹介しておきます。(同上)

  • 泊まったホテル付近の夜景の紹介です。車が多い、広い通りを横断して散策をする気持ちにはなれませでしたから、ホテルの前付近だけを散策しました。アケメネス朝・ペルシャ帝国は、ダレイオス2世の後も4代続き、ダレイオス3世の時代の紀元前330年にアレクサンドロス3世(大王)に滅ぼされました。その終焉の地が、ペルセポリス遺跡でした。(同上)

    泊まったホテル付近の夜景の紹介です。車が多い、広い通りを横断して散策をする気持ちにはなれませでしたから、ホテルの前付近だけを散策しました。アケメネス朝・ペルシャ帝国は、ダレイオス2世の後も4代続き、ダレイオス3世の時代の紀元前330年にアレクサンドロス3世(大王)に滅ぼされました。その終焉の地が、ペルセポリス遺跡でした。(同上)

  • ダレイオス2世(紀元前422~紀元前404年)以降の君主は、アルタクセルクセス2世(紀元前404~紀元前343年)、アルタクセルクセス3世(紀元前343~紀元前338年)、アルセス(紀元前338~紀元前336年)と都築、最後がダレイオス3世(紀元前336~紀元前330年)でした。(同上)

    ダレイオス2世(紀元前422~紀元前404年)以降の君主は、アルタクセルクセス2世(紀元前404~紀元前343年)、アルタクセルクセス3世(紀元前343~紀元前338年)、アルセス(紀元前338~紀元前336年)と都築、最後がダレイオス3世(紀元前336~紀元前330年)でした。(同上)

  • ホテルの周りの夜景の紹介はここまでです。明朝、これらの景色を改めて紹介します。アレキサンダー大王とダレイオス2世との戦いは、紀元前333年10月の『イッソスの戦い』、紀元前331年10月の『ガウガメラの戦い』に敗れたダレイオス2世は、逃走中にバクトリア総督(サトラップ)のベッソスに殺害され、アケメネス朝は滅亡しました。(同上)

    ホテルの周りの夜景の紹介はここまでです。明朝、これらの景色を改めて紹介します。アレキサンダー大王とダレイオス2世との戦いは、紀元前333年10月の『イッソスの戦い』、紀元前331年10月の『ガウガメラの戦い』に敗れたダレイオス2世は、逃走中にバクトリア総督(サトラップ)のベッソスに殺害され、アケメネス朝は滅亡しました。(同上)

  • 外の散策を早々に切り上げて、泊まったホテルに戻ってきました。写真は、ホテル内の1階ロビーの光景です。ダレイオス3世を殺害したベッソスは、王族でダレイオス3世の側近でした。アレキサンダー大王は、ダレイオス3世の死体を発見すると盛大な葬儀を執り行ってダレイオス3世を葬り、その仇を討つという名目によってベッソス追討令を出し、更に東へと進みました。(同上)

    外の散策を早々に切り上げて、泊まったホテルに戻ってきました。写真は、ホテル内の1階ロビーの光景です。ダレイオス3世を殺害したベッソスは、王族でダレイオス3世の側近でした。アレキサンダー大王は、ダレイオス3世の死体を発見すると盛大な葬儀を執り行ってダレイオス3世を葬り、その仇を討つという名目によってベッソス追討令を出し、更に東へと進みました。(同上)

  • ダレイオス3世の死後、ベッソスはペルシャ国王アルタクセルクセスを自称して抗戦を続けたため、アレキサンダー大王はベッソスの不義不忠を糾弾して、これを攻めました。ベッソスは、スピタメネスとオクシュアルテスに捕えられた後アレキサンダー大王に引き渡され、エクバタナで公開処刑されました。ペッソスは、ペルシャ王としては現在も認められていません。(同上)

    ダレイオス3世の死後、ベッソスはペルシャ国王アルタクセルクセスを自称して抗戦を続けたため、アレキサンダー大王はベッソスの不義不忠を糾弾して、これを攻めました。ベッソスは、スピタメネスとオクシュアルテスに捕えられた後アレキサンダー大王に引き渡され、エクバタナで公開処刑されました。ペッソスは、ペルシャ王としては現在も認められていません。(同上)

  • ペルシャ滅亡の余話です。スピタメネス(紀元前370年頃~紀元前328年)は、アケメネス朝ペルシャ時代のソグディアナ、バクトリアの豪族で、ソグド人の将軍でした。ダレイオス3世の死後、ベッソスとともにアレキサンダー大王に敵対しましたが、その後ベッソスを裏切ってアレキサンダー大王引渡し降伏しました。その後更に大王に反旗を翻しましたが、最後は暗殺されました。(同上)

    ペルシャ滅亡の余話です。スピタメネス(紀元前370年頃~紀元前328年)は、アケメネス朝ペルシャ時代のソグディアナ、バクトリアの豪族で、ソグド人の将軍でした。ダレイオス3世の死後、ベッソスとともにアレキサンダー大王に敵対しましたが、その後ベッソスを裏切ってアレキサンダー大王引渡し降伏しました。その後更に大王に反旗を翻しましたが、最後は暗殺されました。(同上)

  • ペルシャ滅亡の余話です。オクシュアルテス(生没年不明)は、アケメネス朝ペルシャ時代のバクトリアの豪族です。ダレイオス3世暗殺後、ベッソスとともにアレキサンダー大王に対抗しましたが、後に降伏しました。彼の娘ロクサネがアレキサンダー大王に嫁いだほか、アマストリネは大王の幕僚で友人のヘファイスティオンの妻となっています。(同上)

    ペルシャ滅亡の余話です。オクシュアルテス(生没年不明)は、アケメネス朝ペルシャ時代のバクトリアの豪族です。ダレイオス3世暗殺後、ベッソスとともにアレキサンダー大王に対抗しましたが、後に降伏しました。彼の娘ロクサネがアレキサンダー大王に嫁いだほか、アマストリネは大王の幕僚で友人のヘファイスティオンの妻となっています。(同上)

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2012秋、イラン旅行記(上巻)

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