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ハムゼ廟の次は、サディー廟の紹介です。13世紀のシラーズ出身の抒情詩人、サディーを祀る廟です。代表作は薔薇園(ゴレスターン)や果樹園(ブースターン)、イランを代表する詩人の一人です。(ウィキペディア)

2012秋、イラン旅行記(14/56):11月18日(7):シラーズ(6):ミラー・モスクのハムゼ廟、サディー廟、詩碑、棺

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2012/11/16 - 2012/11/23

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旅行記グループ 2012秋、イラン旅行記(上巻)

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旅人のくまさん

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ハムゼ廟の次は、サディー廟の紹介です。13世紀のシラーズ出身の抒情詩人、サディーを祀る廟です。代表作は薔薇園(ゴレスターン)や果樹園(ブースターン)、イランを代表する詩人の一人です。(ウィキペディア)

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  • イスラームの聖人のアリー・エブネ・ハムゼを祀ったハムゼ廟紹介の続きです。ガラス細工でできた、『ミラー・モスク』とも呼ばれています。その壁面光景です。壁面には、小さなステンドグラスが並んでいました。(同上)

    イスラームの聖人のアリー・エブネ・ハムゼを祀ったハムゼ廟紹介の続きです。ガラス細工でできた、『ミラー・モスク』とも呼ばれています。その壁面光景です。壁面には、小さなステンドグラスが並んでいました。(同上)

  • 絨毯の上に映し出された小さなステンドグラスの光景です。敷かれている絨毯は、ペルシャ絨毯のようです。ペルシャ絨毯は、イラン(ペルシャ/ペルシアはイランの旧称)で生産され続けている絨毯です。イラン文化、芸術を代表する極めて優れた美術工芸品の一つで、その起源は紀元前の古代ペルシャにまで遡ることができます。床面の敷物だけでなく、壁飾りやテーブルクロスとしても用いられていました。素材として最も多く使用されているのは羊毛ですが、綿も多く用いられています。絹のペルシャ絨毯は、その希少性と価値、そして耐久性の低さから、床の敷物ではなくタペストリのように、壁飾りとして使用されることが多いとされます。(同上)

    絨毯の上に映し出された小さなステンドグラスの光景です。敷かれている絨毯は、ペルシャ絨毯のようです。ペルシャ絨毯は、イラン(ペルシャ/ペルシアはイランの旧称)で生産され続けている絨毯です。イラン文化、芸術を代表する極めて優れた美術工芸品の一つで、その起源は紀元前の古代ペルシャにまで遡ることができます。床面の敷物だけでなく、壁飾りやテーブルクロスとしても用いられていました。素材として最も多く使用されているのは羊毛ですが、綿も多く用いられています。絹のペルシャ絨毯は、その希少性と価値、そして耐久性の低さから、床の敷物ではなくタペストリのように、壁飾りとして使用されることが多いとされます。(同上)

  • 最後にもう一度紹介します、ガラス細工の壁面と天井光景です。小さなドームのような天井から長い紐でシャンデリアが吊り下げられていました。ミラー構造の壁面からの反射を考慮して位置決めされているようにも見えました。(同上)

    最後にもう一度紹介します、ガラス細工の壁面と天井光景です。小さなドームのような天井から長い紐でシャンデリアが吊り下げられていました。ミラー構造の壁面からの反射を考慮して位置決めされているようにも見えました。(同上)

  • カラフルな絨毯を照らし出した小さなステンドグラスの明かりの光景です。今回見学した、眩いばかりのステンドグラスを持った『ナシール・アリ・モスク』とは比べようがありませんが、お祈りの場としては、この程度に留めておいた方がいいのかも知れません。(同上)

    イチオシ

    カラフルな絨毯を照らし出した小さなステンドグラスの明かりの光景です。今回見学した、眩いばかりのステンドグラスを持った『ナシール・アリ・モスク』とは比べようがありませんが、お祈りの場としては、この程度に留めておいた方がいいのかも知れません。(同上)

  • アーチ型に造られた壁面光景です。内面は、細かな文様が彫刻された木の扉と壁で占められていました。ラベスク文様の1種のようですが、枠内に端正に納められた花柄文様でした。丸い明かりがさしているのは、小さなステンドグラスを通した明かりのようでした。(同上)

    アーチ型に造られた壁面光景です。内面は、細かな文様が彫刻された木の扉と壁で占められていました。ラベスク文様の1種のようですが、枠内に端正に納められた花柄文様でした。丸い明かりがさしているのは、小さなステンドグラスを通した明かりのようでした。(同上)

  • ハムゼ廟のミナレットのズームアップ光景です。ガラス細工のミラー・モスクの紹介を終えたところで、イランの地震事情について紹介しておきます。イラン高原は、活動的な褶曲や断層、または火山 の噴火といった、プレート・テクトニクス論で説明されるような、地殻の動きによる地震の被害を受けやすい地域です。このことは、長い地震災害の歴史によってよく知られています。1900年以降の約100年間で、イランでは少なくとも12万6千人が地震被害で命を落としています。イランは、世界的にも地震発生が最も多い国の一つです。幾つもの大きな断層が国内を走っています。この後、ウィキペディアを参照して、主な地震被害などを紹介しておきます。(同上)

    ハムゼ廟のミナレットのズームアップ光景です。ガラス細工のミラー・モスクの紹介を終えたところで、イランの地震事情について紹介しておきます。イラン高原は、活動的な褶曲や断層、または火山 の噴火といった、プレート・テクトニクス論で説明されるような、地殻の動きによる地震の被害を受けやすい地域です。このことは、長い地震災害の歴史によってよく知られています。1900年以降の約100年間で、イランでは少なくとも12万6千人が地震被害で命を落としています。イランは、世界的にも地震発生が最も多い国の一つです。幾つもの大きな断層が国内を走っています。この後、ウィキペディアを参照して、主な地震被害などを紹介しておきます。(同上)

  • 最初に、18世紀以前の起きた地震の紹介です。マグニチュードは推定されていませんので、いずれも発生場所との死者の数だけです。(同上)<br />〇1755年6月7日:カシャーン:4万人<br />〇1727年11月18日:タブリーズ:7万7千人<br />〇893年3月23日:アルダビール:16万人<br />〇856年12月22日:ダムガン:20万人<br />(注記) アルダビールはテヘランの西北、ダムガンは東近郊で、いずれもカスピ海沿岸です。

    最初に、18世紀以前の起きた地震の紹介です。マグニチュードは推定されていませんので、いずれも発生場所との死者の数だけです。(同上)
    〇1755年6月7日:カシャーン:4万人
    〇1727年11月18日:タブリーズ:7万7千人
    〇893年3月23日:アルダビール:16万人
    〇856年12月22日:ダムガン:20万人
    (注記) アルダビールはテヘランの西北、ダムガンは東近郊で、いずれもカスピ海沿岸です。

  • 20世紀には、マグニチュード7以上の地震が13回起き、また、死者が千人を超える地震が14かいおき、その内の3回は死者数が1万人を超えています。最大のものが、1990年6月20日に起きたマグニチュード7.4のイラン北西部ルードバール地震です。4万人以上の犠牲がありました。(同上)

    20世紀には、マグニチュード7以上の地震が13回起き、また、死者が千人を超える地震が14かいおき、その内の3回は死者数が1万人を超えています。最大のものが、1990年6月20日に起きたマグニチュード7.4のイラン北西部ルードバール地震です。4万人以上の犠牲がありました。(同上)

  • 今世紀(21世紀)は、まだ2割程度か経過していませんが、2003年12月26日に起きたマグニチュード6.6の直下型のバム地震では、3万人以上の死者が出ました。この地震により、世界遺産に登録されたアルゲ・バムはほぼ全壊し、危機遺産となりました。日本からも国際緊急援助隊として医師、看護師、医療スタッフなど23名が現地に駆けつけました。(同上)

    今世紀(21世紀)は、まだ2割程度か経過していませんが、2003年12月26日に起きたマグニチュード6.6の直下型のバム地震では、3万人以上の死者が出ました。この地震により、世界遺産に登録されたアルゲ・バムはほぼ全壊し、危機遺産となりました。日本からも国際緊急援助隊として医師、看護師、医療スタッフなど23名が現地に駆けつけました。(同上)

  • ピンク色の花を咲かせた可愛らしい野草の花の光景です。世界文化遺産の『アルゲ・バム』は、ケルマーン州にある要塞都市の遺跡です。2003年に壊滅的な地震被害を受けましたが、2013年6月に遺跡の修復・保全活動が評価され、危機遺産リストから除外されました。(同上)

    ピンク色の花を咲かせた可愛らしい野草の花の光景です。世界文化遺産の『アルゲ・バム』は、ケルマーン州にある要塞都市の遺跡です。2003年に壊滅的な地震被害を受けましたが、2013年6月に遺跡の修復・保全活動が評価され、危機遺産リストから除外されました。(同上)

  • ここからは、イランを代表する抒情詩人のサディーの霊廟の紹介です。『サディー(1184/1210~1291年?)』は、ファールス州の州都シラーズで誕生しました。サディーが誕生した頃のシラーズは、セルジューク朝系のアタベク政権サルグル朝(1114~1270年)の首都でした。サディーは雅号であり、現在のイランでは、『シラーズのサディー』、『長老のサディー』等と呼ばれています。(同上)

    ここからは、イランを代表する抒情詩人のサディーの霊廟の紹介です。『サディー(1184/1210~1291年?)』は、ファールス州の州都シラーズで誕生しました。サディーが誕生した頃のシラーズは、セルジューク朝系のアタベク政権サルグル朝(1114~1270年)の首都でした。サディーは雅号であり、現在のイランでは、『シラーズのサディー』、『長老のサディー』等と呼ばれています。(同上)

  • 『サディー』という雅号は、サディーの父がサルグル朝の第5代君主で同王朝の最盛期を築いたイッズッディーン・サアド・ブン・ザンギー(在位:1203~1220年)ないし、サディーが自著『果樹園』を献呈した第6代君主アブー・バクル・ブン・サアドに由来すると考えられています。サディー廟の青いドームが、次第に大きく見えてきました。この後、サディーの略歴などを紹介します。(同上)

    『サディー』という雅号は、サディーの父がサルグル朝の第5代君主で同王朝の最盛期を築いたイッズッディーン・サアド・ブン・ザンギー(在位:1203~1220年)ないし、サディーが自著『果樹園』を献呈した第6代君主アブー・バクル・ブン・サアドに由来すると考えられています。サディー廟の青いドームが、次第に大きく見えてきました。この後、サディーの略歴などを紹介します。(同上)

  • サディーは、幼いころに父を亡くし、祖父や叔父の世話になりながら、勉学に励みました。その後、学問の中心地だったバグダード(現イラク)へ行き、学問を修めたようです。バグダードではニザームルムルクが創設したマドラサ(神学校)、ニザーミーヤ学院で神学や法学、アラビア語文学など、イスラーム諸学を修めたとされます。(同上)

    サディーは、幼いころに父を亡くし、祖父や叔父の世話になりながら、勉学に励みました。その後、学問の中心地だったバグダード(現イラク)へ行き、学問を修めたようです。バグダードではニザームルムルクが創設したマドラサ(神学校)、ニザーミーヤ学院で神学や法学、アラビア語文学など、イスラーム諸学を修めたとされます。(同上)

  • 『果樹園』の一部写本の記述では、高名な神秘主義思想家スフラワルディーに師事したといいます。サディーはバグダードでの修学を終えると、さらなる研鑽のため、諸国へ遊学の旅に出ました。バグダードを出立したのは1226年頃のようです。 1220年代に入り、モンゴル帝国の侵攻によってホラズム・シャー朝は滅び、イラン高原周辺の諸政権はモンゴル軍の脅威に晒されました。

    『果樹園』の一部写本の記述では、高名な神秘主義思想家スフラワルディーに師事したといいます。サディーはバグダードでの修学を終えると、さらなる研鑽のため、諸国へ遊学の旅に出ました。バグダードを出立したのは1226年頃のようです。 1220年代に入り、モンゴル帝国の侵攻によってホラズム・シャー朝は滅び、イラン高原周辺の諸政権はモンゴル軍の脅威に晒されました。

  • サディーの郷里シラーズの場合、サルグル朝の第6代君主アブー・バクルがモンゴル帝国のオゴデイやグユク、モンケに服従したため、ファールス地方はンゴル軍による破壊は免れたようです。サディーは、30年に亘りインドや中央アジア、アラビア半島、エジプト、エチオピア、モロッコまでを放浪したと述べていますが、時系列的に不自然な部分などがあるようです。(同上)

    サディーの郷里シラーズの場合、サルグル朝の第6代君主アブー・バクルがモンゴル帝国のオゴデイやグユク、モンケに服従したため、ファールス地方はンゴル軍による破壊は免れたようです。サディーは、30年に亘りインドや中央アジア、アラビア半島、エジプト、エチオピア、モロッコまでを放浪したと述べていますが、時系列的に不自然な部分などがあるようです。(同上)

  • サディーは、1256年にシラーズに帰り、詩作を始めます。それまでのサディーは、全く無名の存在だったようです。青年期から壮年期まで、サディーはシラーズに帰還するまでの数十年間自らの作品を公表していなかったようです。1257年に『果樹園』(Būstān:ブースターン)、翌1258年には『薔薇園』(Gulistān:ゴレスターン)を相次いで発表しました。『果樹園』は約4,000対句からなり『薔薇園』も同規模の作品です。放浪中にある程度の分量を書き貯めたり推敲を重ね、シラーズに帰還してから一気に完成させたようです。この頃からその名を知られるようになりました。サディーの作品は教訓、警句、逸話の内容を持ち、現在でもイラン文学史上の最高傑作とされます。(同上)<br />写真はペルシャ式庭園の水路と、その延長線上に位置するサディー廟の光景です。水路に姿を映していました。

    イチオシ

    サディーは、1256年にシラーズに帰り、詩作を始めます。それまでのサディーは、全く無名の存在だったようです。青年期から壮年期まで、サディーはシラーズに帰還するまでの数十年間自らの作品を公表していなかったようです。1257年に『果樹園』(Būstān:ブースターン)、翌1258年には『薔薇園』(Gulistān:ゴレスターン)を相次いで発表しました。『果樹園』は約4,000対句からなり『薔薇園』も同規模の作品です。放浪中にある程度の分量を書き貯めたり推敲を重ね、シラーズに帰還してから一気に完成させたようです。この頃からその名を知られるようになりました。サディーの作品は教訓、警句、逸話の内容を持ち、現在でもイラン文学史上の最高傑作とされます。(同上)
    写真はペルシャ式庭園の水路と、その延長線上に位置するサディー廟の光景です。水路に姿を映していました。

  • サディーがシラーズに戻って来た頃は、ちょうどフレグの西方遠征とイルハン朝樹立の時期にあたります。イルハン朝から派遣されたシラーズ太守アンキヤーヌーや、特にイルハン朝の財務官僚のトップだったジュヴァイニー兄弟との交遊は有名です。ジュヴァイニー兄弟はサディーを父と呼んで尊敬し、サディーもジュヴァイニー兄弟を息子と呼ぶほど親密だったようです。(同上)

    サディーがシラーズに戻って来た頃は、ちょうどフレグの西方遠征とイルハン朝樹立の時期にあたります。イルハン朝から派遣されたシラーズ太守アンキヤーヌーや、特にイルハン朝の財務官僚のトップだったジュヴァイニー兄弟との交遊は有名です。ジュヴァイニー兄弟はサディーを父と呼んで尊敬し、サディーもジュヴァイニー兄弟を息子と呼ぶほど親密だったようです。(同上)

  • 晩年のサディーは、シラーズの郊外に庵を結んで隠遁し、1291年頃にその地で没しました。隠遁後もシラーズに赴任して来たイルハン朝に仕えた王侯たちの尊崇を受け、死後には墓廟が建設されました。その名前に因んでサディーヤ(サディー廟)と名付けられたのが、この場所です。現在のシラーズの北東郊外にあり、同市の観光地の一つとなっています。(同上)

    晩年のサディーは、シラーズの郊外に庵を結んで隠遁し、1291年頃にその地で没しました。隠遁後もシラーズに赴任して来たイルハン朝に仕えた王侯たちの尊崇を受け、死後には墓廟が建設されました。その名前に因んでサディーヤ(サディー廟)と名付けられたのが、この場所です。現在のシラーズの北東郊外にあり、同市の観光地の一つとなっています。(同上)

  • サディー廟の正面からのズームアップ光景です。イラン暦1381年(西暦2002年)より、イラン暦オルディーベヘシュト月1日(西暦4月21日頃)が、サディーの記念日として定められています。<br />1634年に、アジアの詩人の作品として、西洋で初めてヨーロッパ諸語に翻訳されたのは、サディーの作品でした。<br />まず、アンドレ・ドゥリエがサディーの『薔薇園』を、フランス語に翻訳しています。この翻訳版は、不完全な部分もあったようですが、最初の一歩とされています。<br />その1年後には、このフランス語訳を基に、サディーの詩集『薔薇園』がドイツ語に翻訳され、次いでラテン語と英語に翻訳されました。<br />『薔薇園』の説明は、イラン・中央アジアのオーダーメイド旅行専門会社の『ソフィア社』の記事を参照しました。(同上)

    サディー廟の正面からのズームアップ光景です。イラン暦1381年(西暦2002年)より、イラン暦オルディーベヘシュト月1日(西暦4月21日頃)が、サディーの記念日として定められています。
    1634年に、アジアの詩人の作品として、西洋で初めてヨーロッパ諸語に翻訳されたのは、サディーの作品でした。
    まず、アンドレ・ドゥリエがサディーの『薔薇園』を、フランス語に翻訳しています。この翻訳版は、不完全な部分もあったようですが、最初の一歩とされています。
    その1年後には、このフランス語訳を基に、サディーの詩集『薔薇園』がドイツ語に翻訳され、次いでラテン語と英語に翻訳されました。
    『薔薇園』の説明は、イラン・中央アジアのオーダーメイド旅行専門会社の『ソフィア社』の記事を参照しました。(同上)

  • 写真は、サディー廟の中央から吊り下げられた銅製の器具の光景です。ランプのようでした。<br />絶対王政の17世紀のフランスでは、政府に対する直接の批判が許されていなかったため、サディーの詩集『薔薇園』を利用することで、国王に対して進言する道が開かれました。<br />フランスの詩人で作家の『ラ・フォンテーヌ(1621~1695年)は、1694年に2番目の寓話集を出版し、この道の先駆者となりました。(同上)<br /><br />サディーの詩集『薔薇園』には、「善良な人が夢を見た。そこでは、国王が天国におり、敬虔な人が地獄にいた」という文章が出てきますが、この文はラ・フォンテーヌの作品『あるモンゴル人の夢』の中にも、記されています。 (サフィア社記事参照)

    写真は、サディー廟の中央から吊り下げられた銅製の器具の光景です。ランプのようでした。
    絶対王政の17世紀のフランスでは、政府に対する直接の批判が許されていなかったため、サディーの詩集『薔薇園』を利用することで、国王に対して進言する道が開かれました。
    フランスの詩人で作家の『ラ・フォンテーヌ(1621~1695年)は、1694年に2番目の寓話集を出版し、この道の先駆者となりました。(同上)

    サディーの詩集『薔薇園』には、「善良な人が夢を見た。そこでは、国王が天国におり、敬虔な人が地獄にいた」という文章が出てきますが、この文はラ・フォンテーヌの作品『あるモンゴル人の夢』の中にも、記されています。 (サフィア社記事参照)

  • 写真は、サディー廟の中央から吊り下げられた銅製のランプらしい器具のズームアップ光景です。<br />ラ・フォンテーヌの作品、『あるモンゴル人の夢』では、「あるモンゴル人が夢を見た。その夢とは、天国で大臣が尽きることのない楽しみを味わっており、その一方で敬虔な人が炎にまかれて苦しんでいる光景を目にしていた。その様子は、最も不幸な人たちでさえ同情するほどのものだった」というものです。<br /><br />17世紀に、サディーの詩の一部がこのように抜粋して使われていることは、ラ・フォンテーヌやその他の作家の作品にも、非常に多く見られるようです(サフィア社記事参照)。(同上)

    写真は、サディー廟の中央から吊り下げられた銅製のランプらしい器具のズームアップ光景です。
    ラ・フォンテーヌの作品、『あるモンゴル人の夢』では、「あるモンゴル人が夢を見た。その夢とは、天国で大臣が尽きることのない楽しみを味わっており、その一方で敬虔な人が炎にまかれて苦しんでいる光景を目にしていた。その様子は、最も不幸な人たちでさえ同情するほどのものだった」というものです。

    17世紀に、サディーの詩の一部がこのように抜粋して使われていることは、ラ・フォンテーヌやその他の作家の作品にも、非常に多く見られるようです(サフィア社記事参照)。(同上)

  • 写真は、現地ガイドさんが朗読してくれたサディーの詩の一つです。残念ながら、内容までは理解できませんでしたが、日本で例えれば、詩吟のような朗々とした朗読でした。<br /><br />フランスの作家ビクトル・ユーゴーとドイツの詩人ゲーテという、ヨーロッパの2人の文豪をはじめ、多くの文豪が、サディーからインスピレーションを受けているようです。<br /><br />ビクトル・ユーゴー(1802~1885年)は、次のように述べています。<br /><br />「秋風すらも、そのページを破ることができず、どれほど時代が下っても、その春の美しさが冬の冷たさに変わることのない、『薔薇園』という作品を書けるようにするためには、どうしたらよいだろうか」(同上)

    写真は、現地ガイドさんが朗読してくれたサディーの詩の一つです。残念ながら、内容までは理解できませんでしたが、日本で例えれば、詩吟のような朗々とした朗読でした。

    フランスの作家ビクトル・ユーゴーとドイツの詩人ゲーテという、ヨーロッパの2人の文豪をはじめ、多くの文豪が、サディーからインスピレーションを受けているようです。

    ビクトル・ユーゴー(1802~1885年)は、次のように述べています。

    「秋風すらも、そのページを破ることができず、どれほど時代が下っても、その春の美しさが冬の冷たさに変わることのない、『薔薇園』という作品を書けるようにするためには、どうしたらよいだろうか」(同上)

  • また、フランスの詩人モーリス・バレス(1862~1923年)も、サディーの影響を受けていて、次のように述べています。<br /><br />「私は今なお、赤いバラを愛している。それは、(サアディーの故郷である)シーラーズの町から来たからである」<br /><br />また、アンドレ・ジッドもサディーに影響を受けています。彼の著作の一つである『地の糧』は、イランの抒情詩人ハーフェズの詩で始まり、サディーの詩で終わっています。<br /><br />さらに、ジッドはサアディーの『薔薇園』に倣って、著作『地の糧』を8つの章に分けています。(同上)

    イチオシ

    また、フランスの詩人モーリス・バレス(1862~1923年)も、サディーの影響を受けていて、次のように述べています。

    「私は今なお、赤いバラを愛している。それは、(サアディーの故郷である)シーラーズの町から来たからである」

    また、アンドレ・ジッドもサディーに影響を受けています。彼の著作の一つである『地の糧』は、イランの抒情詩人ハーフェズの詩で始まり、サディーの詩で終わっています。

    さらに、ジッドはサアディーの『薔薇園』に倣って、著作『地の糧』を8つの章に分けています。(同上)

  • ドイツの詩人で文豪のゲーテ(1749~1832年)は、1792年以降ペルシャ文学に出会いましたが、それはサディーの詩集『薔薇園』のヘルダーによる翻訳版を研究してからのことです。<br /><br />彼は、『薔薇園』を研究してからペルシャ文学に心惹かれるようになりました。<br /><br />その後、1814年にはやはりペルシャ詩人ハーフェズの詩集を研究することにより、ゲーテはペルシャ文学にこれ以上ないほどに陶酔し、『西東詩集』という作品の執筆に着手しました。<br /><br />彼は、この作品の多くの句の中で、サディーの高潔な思想、特に『薔薇園』の要点を抜粋して述べています。(同上)

    ドイツの詩人で文豪のゲーテ(1749~1832年)は、1792年以降ペルシャ文学に出会いましたが、それはサディーの詩集『薔薇園』のヘルダーによる翻訳版を研究してからのことです。

    彼は、『薔薇園』を研究してからペルシャ文学に心惹かれるようになりました。

    その後、1814年にはやはりペルシャ詩人ハーフェズの詩集を研究することにより、ゲーテはペルシャ文学にこれ以上ないほどに陶酔し、『西東詩集』という作品の執筆に着手しました。

    彼は、この作品の多くの句の中で、サディーの高潔な思想、特に『薔薇園』の要点を抜粋して述べています。(同上)

  • 19世紀のアメリカの思想家ラルフ・ワルド・エマーソン(1803~1882年)は、次のように述べています。<br /><br />「サアディーは、世界の全ての民族の言葉で語り、その語った内容はホメロスやシェイクスピア、セルバンテス、モンテーニュのように常に新鮮味がある」<br /><br />エマーソンはまた、著作の中で、サアディーの詩集『薔薇園』を新約聖書のような世界的な宗教書の一つと見なしており、『薔薇園』の道徳的な教示は一般的で国際的な法律であると考えています。(同上)

    19世紀のアメリカの思想家ラルフ・ワルド・エマーソン(1803~1882年)は、次のように述べています。

    「サアディーは、世界の全ての民族の言葉で語り、その語った内容はホメロスやシェイクスピア、セルバンテス、モンテーニュのように常に新鮮味がある」

    エマーソンはまた、著作の中で、サアディーの詩集『薔薇園』を新約聖書のような世界的な宗教書の一つと見なしており、『薔薇園』の道徳的な教示は一般的で国際的な法律であると考えています。(同上)

  • サディーの語った事柄とその思想は、多くの事例で欧州の作家や詩人の語った内容と似ています。<br /><br />フランスの思想家エルンスト・ルナン(1823~1892年)は、「サディーはあたかもヨーロッパ人の作家のように思われる」と述べています。<br /><br />欧州の作家は非常に古くから、サディーの作品の一部に対して興味を示していますが、エルンスト・ルナンは、これを次のように述べています。<br /><br />「サディーの健全で損なわれることのない英知、彼の言葉に魂を吹き込む繊細さや思想、そしてやんわりと冗談めかして人間の世界の逸脱や欠点をついていること、こうした全ての良さから、サディーは私達の目にとても親しみある存在として映っている」(同上)

    サディーの語った事柄とその思想は、多くの事例で欧州の作家や詩人の語った内容と似ています。

    フランスの思想家エルンスト・ルナン(1823~1892年)は、「サディーはあたかもヨーロッパ人の作家のように思われる」と述べています。

    欧州の作家は非常に古くから、サディーの作品の一部に対して興味を示していますが、エルンスト・ルナンは、これを次のように述べています。

    「サディーの健全で損なわれることのない英知、彼の言葉に魂を吹き込む繊細さや思想、そしてやんわりと冗談めかして人間の世界の逸脱や欠点をついていること、こうした全ての良さから、サディーは私達の目にとても親しみある存在として映っている」(同上)

  • また、フランスの翻訳家ガルサン・ド・タッシーは、次のように述べています。<br /><br />「サディーは、ヨーロッパの人々の間で名声を博している、唯一のイラン人作家である」<br /><br />また、フランスの東洋学者のバルビエ・ド・メナール(1826~1908年)も次のように語っています。<br /><br />「ヨーロッパでサディーが権威ある存在とされているのは、『薔薇園』の中のサディーが、まさに新しい美学の求める全ての特性や恩恵の全ての集合体だからである。(中略) 美徳を備えているからこそ、サディーは完全に私達の間で賞賛と尊敬の的になっている」(同上)

    また、フランスの翻訳家ガルサン・ド・タッシーは、次のように述べています。

    「サディーは、ヨーロッパの人々の間で名声を博している、唯一のイラン人作家である」

    また、フランスの東洋学者のバルビエ・ド・メナール(1826~1908年)も次のように語っています。

    「ヨーロッパでサディーが権威ある存在とされているのは、『薔薇園』の中のサディーが、まさに新しい美学の求める全ての特性や恩恵の全ての集合体だからである。(中略) 美徳を備えているからこそ、サディーは完全に私達の間で賞賛と尊敬の的になっている」(同上)

  • サディーは、多くの世界を見てきた人物です。西はイスラム世界の東西を旅し、様々な人々や文化に触れました。彼は、現在の中央アジアのトルキスタンから、インド亜大陸、さらには北アフリカにまで足を運んでいます。偉大な詩人であると同時に、教養豊かな国際人でもあったようです。<br /><br />写真は、サディーの石棺です。(同上)

    サディーは、多くの世界を見てきた人物です。西はイスラム世界の東西を旅し、様々な人々や文化に触れました。彼は、現在の中央アジアのトルキスタンから、インド亜大陸、さらには北アフリカにまで足を運んでいます。偉大な詩人であると同時に、教養豊かな国際人でもあったようです。

    写真は、サディーの石棺です。(同上)

  • ソフィア社の解説の締め括りに紹介されていた『薔薇園』の中の有名な一節です。<br /><br />人類は、相互に関わりあい、<br />一つの宝石から創造されている。<br />一人が苦しめば、他も穏やかではいられない<br />もし人が、他人の苦しみを感じないなら<br />その人をもはや人間と呼ぶことはできない (同上)

    ソフィア社の解説の締め括りに紹介されていた『薔薇園』の中の有名な一節です。

    人類は、相互に関わりあい、
    一つの宝石から創造されている。
    一人が苦しめば、他も穏やかではいられない
    もし人が、他人の苦しみを感じないなら
    その人をもはや人間と呼ぶことはできない (同上)

  • 『ニチニチソウ(日日草)』<br />分類:キョウチクトウ科ニチニチソウ属の一年草分布:マダガスカル原産の小低木<br />特徴:初夏から晩秋まで次々に花が咲く<br />その他:花弁は5裂し、色は白、ピンク、赤、赤紫など (同上)<br />

    『ニチニチソウ(日日草)』
    分類:キョウチクトウ科ニチニチソウ属の一年草分布:マダガスカル原産の小低木
    特徴:初夏から晩秋まで次々に花が咲く
    その他:花弁は5裂し、色は白、ピンク、赤、赤紫など (同上)

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2012秋、イラン旅行記(上巻)

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