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旧芝離宮恩賜庭園

公園・植物園

旧芝離宮恩賜庭園 施設情報・クチコミに戻る

コンパクトな大名庭園ですが、全体を見渡した時に不思議な感覚を覚えた庭園でもありました。

  • 4.0
  • 旅行時期:2024/09(約1年前)
Lily-junjunさん

by Lily-junjunさん(男性)

浜松町・竹芝 クチコミ:2件

「旧芝離宮恩賜庭園」へのアクセスは、 JR山手線・京浜東北線「浜松町駅」の北口を出て、右方向に100mほど進むと、歩道の右側に「旧芝離宮恩賜庭園」の出入口があります。目と鼻の先にありアクセスは抜群です。「浜離宮恩賜庭園」は出入り口が二箇所ありましたが、「旧芝離宮恩賜庭園」は一箇所のみです。
最初に、「旧芝離宮恩賜庭園」の歴史と概要を紐解くと、まず、名称の変遷については、江戸後期に「堀田家」、「清水徳川家」、「紀州徳川家」へと渡りました。そして、明治維新後は「有栖川宮家」の所有となり、明治8年(1875年)に「宮内省」が買い上げ、翌9年(1876年)に「芝離宮」となります。「小石川後楽園」とともに、現在、東京に残る江戸初期の「大名庭園」の一つです。「回遊式泉水庭園」の特徴をよくあらわした庭園で、池を中心とした庭園の区画や石の配置は、非常に優れています。明暦年間の頃に海面を埋め立てた土地を、延宝6年(1678年)に老中「大久保忠朝」が4代将軍「徳川家綱」から拝領しました。「大久保忠朝」は屋敷を建てるにあたり、藩地の小田原から庭師を呼び庭園を造ったと言われています。庭園は「楽壽園」と呼ばれていました。「旧芝離宮恩賜庭園」は、最初の主である老中「大久保忠朝」の思いが具現化されているところだそうです。それは池の周囲を固める護岸の石遣いにみられます。他の庭園はなだらかな石で護岸を固めることが多いのですが、旧芝離宮ではゴツゴツとした石で池の周囲を固めているそうです。これらの石は、小田原方面から運んできた富士山噴火時の火山岩がメインで、表面に穴が空いていたり尖っていたりしています。それらの火山岩を整形せずに使用しています。そして、幕末頃は紀州徳川家の芝御屋敷となりました。明治4年(1871年)には有栖川宮家の所有となり、明治8年(1875年)に宮内省が買上げ、明治9年(1876年)に「芝離宮」となりました。「芝離宮」は、大正12年(1923年)の関東大震災の際に建物や樹木に大変な被害を受け、一面の焼け野原になったそうです。翌年の大正13年(1924年)1月には、皇太子(昭和天皇)のご成婚記念として東京市に下賜され、大正13年(1924年)4月20日に一般公開しました。また、昭和54年(1979年)6月には、文化財保護法による国の「名勝」に指定されました。
「浜離宮恩賜庭園」と同じように今回も時計回りで見学したいと思います。「旧芝離宮恩賜庭園 サービスセンター」でチケットを購入して入園します。見学順路については次の通りです。

【「旧芝離宮恩賜庭園」のお薦め見学順路】
①《「藤棚」のある広場》⇒②《海水取入口跡》⇒③《九尺台(九盈台)》⇒④《唐津山》⇒⑤《大島》⇒⑥《根府川山》⇒⑦《石柱》⇒⑧《中島》⇒⑨《枯滝》⇒⑩《大山》⇒⑪《雪灯篭》⇒⑫《大泉水》⇒⑬《迎賓館跡》

① 「藤棚」のある広場
「旧芝離宮恩賜庭園サービスセンター」の正面のすぐのところに大きな「藤棚」があります。今日は9月に思えないような暑さで、まるで真夏の照りつけるような陽射だったので、「藤棚」の下で涼んで休んでいる人が結構いました。私も帰りにはここでしばし休息し、水分補給しました。この「藤棚」の見ごろは、4月下旬頃で紫色の大きな花房がさがり、藤の花特有の芳香を放っているそうです。

② 「海水取入口跡」
「藤棚」の次は「海水取入口跡」へ向かいます。右手に「大泉水」を眺めながら「小池」に架かる橋を渡り100mほど進むと石橋があり、石橋の左手に「海水取入口跡」があります。江戸時代に作庭された「旧芝離宮恩賜庭園」は、かつて海水を引き込んだ「潮入りの池」でした。説明板によると貞享3年(1686年)当時の様子を記した「楽壽園記」には、園内に「潮入りの池」があったという記録がありました。かつては、潮の満ち引きによって景色の変化を楽しめるように工夫されていました。しかし、海面の埋め立て等の周辺整備により、現在は「海水取入口跡」のみが残っています。これは、「潮入りの池」であったことを示す重要な遺構だそうです。

③ 「九尺台」(九盈台)
「海水取入口跡」から「大泉水」の「中島」の脇をとおり100mほど進むと「九尺台」があります。「九尺台」の隣にはすり鉢型の築山もありました。「九尺台」は、海の波打際に造られた高台です。「九尺」とは高さで、「盈」とは水や月が満ちるという意味です。かつては、埋立地の庭園は比較的平坦なので、変化をつけるために「築山」を築いたそうです。説明板によると「九尺台」の設置は不明ですが、「明治天皇」が行幸された際に「九尺台」に上り、地元の漁師が網を打つ様子や海の眺望を楽しんだそうです。

④ 「唐津山」
「九尺台」のすぐ先の道は二又になっています。右に進むと「大島」、左に進むと「唐津山」です。最初に「唐津山」を見ることにします。「九尺台」から「唐津山」へは40mほどの距離です。「唐津山」は、庭園の原型を作った「大久保忠朝」が、老中就任の際は肥前国唐津藩2代藩主であったことから、その名を冠して作庭したといわれています。

⑤ 「大島」
「唐津山」から「大島」へ向かいます。道を20mほど戻ると「大島」へ渡る石橋が左手にあります。「大島」は、「大泉水」の南に位置する園内で最大の小島です。「大島」の見どころは鯛の形をした「根府川石」で造られた一枚岩の「鯛橋」です。「鯛橋」は「大島」の南側に架かる橋で、橋長が3.1m、橋幅が1.7mの単径間桁橋です。私には、「大泉水」から飛び跳ねた鯛のようにも見えました。

⑥ 「根府川山」
「大島」の次は、鯛形の「鯛橋」を渡ると右手にすぐのところにある豪壮な築山の「根府川山」です。「根府川山」の見どころは、渓谷のような石組みと大きな「根府川石」です。荒々しさが当てはまる武士の荒ぶる魂を表現したような石組です。この築山の麓にある「根府川石」は、「大久保忠朝」が藩地である相模小田原藩から運んだ石です。ちなみに「大久保忠朝」は、佐賀の肥前国唐津藩2代藩主、千葉の下総国佐倉藩主、小田原の相模小田原藩主の3つの藩主を歴任し、また、老中の首座という重要な役職にも就いていました。

⑦ 「石柱」
「根府川山」から「大泉水」沿いに160mほど進むと四本の「石柱」が見えてきます。この「石柱」は、一体何でしょうか。私には、「旧芝離宮恩賜庭園」のモアイ像蔵、それともヘッジストーンのように見えますが。説明倍によると、この「石柱」は、もともとは小田原北条家の重臣「松田憲秀邸」の門柱だったものをここに運んだものだそうです。そして、小田原藩の上屋敷であった当初には茶室に使われていたといわれています。また、かつては、「石柱」のそばには、馬場と馬見台があったそうですが、今はその面影もありません。

⑧ 「中島」
「石柱」の先には、「西湖の堤」があり、それを渡ると「中島」です。「中島」は、池の中央に浮かぶ島で、中国で仙人が住み不老不死の地といわれる霊山を模した「蓬莱石組」となっています。そして、「中島」へと続く石造りの堤である「西湖の堤」は、中国の浙江省にある西湖の蘇堤の風景を模したもので、風光明媚で数多く詩歌や絵画の題材にもなったそうです。「中島」の反対側にも「八ッ橋」がありましたが、残念ながら工事中で黒い幕のようなもので覆われていて、渡ることができませんでした。

⑨ 「枯滝」
「西湖の堤」の堤を戻り右手に進むと「枯滝」があります。「枯滝」は、山渓を流れ落ちる滝を彷彿とさせる石組みで、流れの河床が園路になっていて、まるで中国の水墨画の世界にいるような景観の変化を楽しむことができます。また、すぐ先にある「大山」から下を見下ろすと枯滝の石組が望めます。両側を切り立った断崖を思わせる石組が壁のように続き、その間を流れる渓谷に大小の滝が流れ落ちる迫力ある石組となっています。

⑩ 「大山」
「枯滝」の石組を抜けると、その先の築山は庭園内で一番高い「大山」があります。眺めが見事で、かつては江戸湾、富士山、筑波山が見えたそうです。しかし、現在は、海は埋め立てられ、周囲には高層ビルが立ち並んでしまい、その眺望は失われてしまいました。ただし、「大山」の頂上からは、大泉水の広々とした景色が楽しむことができました。

⑪ 「雪灯篭」
「大山」から下りて「大泉水」沿いを80mほど進むと、「砂浜」が続き、その先には「州浜」があり、「州浜」の中には、庭園のシンボルともいえる「雪灯篭」が立っています。「州浜」は、花崗岩のゴロタ石を敷き詰められていて、「州浜」の中央に「雪灯篭」が悠然と構えています。「雪灯篭」は、上部を支える3本の脚は安山岩で、火袋や笠は凝灰岩です。よく見ると、風化が激しいのか一部が欠けているように見えます。また、手前の「砂浜」は、庭園では珍しい海岸の砂を入れているそうです。おそらくかつての江戸湾の砂浜を表現しているのでしょうね。

⑫ 「大泉水」
「大泉水」は、「旧芝離宮恩賜庭園」のシンボルといえる大きな池であり、庭園の要をなす施設です。「大泉水」は、約9,000㎡の広さがあり、「中島」、「大島」、「浮島」、「砂浜」、「鯛橋」、「雪灯籠」などが見られます。かつて、「大泉水」は、海水を引き入れた「潮入りの池」でした。驚くべきことは、引き潮の時には「中島」から「浮島」に渡ることができ、潮の干満により州浜や島々の風景が劇的に変化し、見る人の目を楽しませてくれたそうです。今は残念ながら海水の取り入れができなくなり、淡水の池になっています。

⑬ 「迎賓館跡」
「旧芝離宮恩賜庭園」の散策の最後は、出入り口付近の「藤棚」の前にある「迎賓館跡」です。説明板によると、明治、大正期の「芝離宮」には、いまは現存しないわが国初の石造りの「西洋館」がありました。「芝離宮」の「西洋館」は来日した外国の皇族や要人の宿泊所として建てられ、皇室によって外国人貴賓を接待する場として用いられました。皇室の外賓接待では、当初「浜離宮」にあった「延遼館」という建物が主に用いられましたが、やがて老朽化のため取り壊されると、それに代って用いられたのが「芝離宮」の「西洋館」でした。西洋館は明治24年(1891年)に、「宮内省内匠寮」が建設した木造2階建てで、寄棟造り瓦葺の屋根に棟飾りを付し、ベランダが特徴的な洋風建築でした。しかし、大正12(1923)年の関東大震災により「西洋館」も失われてしまい、現在では、その遺構である礎石と植物模様の彫刻が施された大理石の一部のみが残っています。

01_【「旧芝離宮恩賜庭園」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒105-0022 東京都港区海岸1丁目4-1  電話:03-3434-4029
⑵ 開園時間…午前9時~午後5時 ※入園は午後4時30分まで
⑶ 休園日…年末・年始 ※12月29日~翌年1月1日まで
⑷ 入園料…①一般 150円 ②65歳以上70円 ※小学生以下及び都内在住・在学の中学生は無料

02_【「旧芝離宮恩賜庭園」へのアクセス】
⑴ JR山手線・京浜東北線「浜松町駅」北口から徒歩1分100mほど
⑵ 都営地下鉄大江戸線「大門駅」B2出口から徒歩2分140mほど
⑶ 都営地下鉄浅草線「大門駅」B2出口から徒歩2分140mほど
⑷ ゆりかもめ「竹芝駅」徒歩7分500mほど

施設の満足度

4.0

利用した際の同行者:
一人旅
アクセス:
5.0
JR山手線・京浜東北線「浜松町駅」北口から徒歩1分100mほど
人混みの少なさ:
3.0
外国の観光客の姿が目立ちました。
見ごたえ:
4.0
ここも見どころ満載です。

クチコミ投稿日:2024/10/03

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