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frau.himmelさんへのコメント一覧(142ページ)全1,449件

frau.himmelさんの掲示板にコメントを書く

  • はじめまして

    こんにちは、よっしーと申します。リンツの「おとなり旅行記」から飛んできました。
    私もおととし、6月のリンツに1泊しました。本当に泊っただけだったので、巡礼教会も行けず、この街の歴史も知らず、お得な情報も知らず(…)frau.himmelさんの旅行記を拝見してリンツ再訪したくなりました。ヒトラーが理想郷を作りたくもなる、いい街でしたよね?
    クリスマスマーケットの時期に行ってもよさそうかなと思いました。
    そういえば、私も大学生の頃の春休み(かなーり昔ですが)、Prien am ChiemseeのGoethe Instituteに1カ月いたことがあります!(成果は…)
    そんなで、ドイツ(&ドイツ語圏)は今でも親しみを感じています。またこれからも旅行記を楽しみにしています。
    2011年01月19日12時00分返信する 関連旅行記

    RE: はじめまして

    よっしーさん こんばんは。

    よっしーさんの旅行記は何度か訪問させていただいてると思います。
    やっぱりドイツがお好きな方だったのですね。

    > そういえば、私も大学生の頃の春休み(かなーり昔ですが)、Prien am ChiemseeのGoethe Instituteに1カ月いたことがあります!(成果は…)

    えっ! いつごろですか? 驚きです。

    あそこももう撤退してしまいましたね。
    2009年秋、プリーンを訪れた時行ってみました。
    懐かしかったです。
    建物がそのまま残っているだけに、あそこはこうだったとか、あそこで皆集まってお喋りしてた とか 考えると寂しくなってしまいました。
    その時のことを、**2009秋 プリーン街歩き**で書いています。
    お時間ありましたら読んでください。
    私のドイツ語も、若い方と違い、覚えるより忘れるほうが多くて、とうとう教室から撤退してしまいました。
    時々ドイツ語圏に旅行して、なんとかカタコトで通じるくらいです。

    これからもよっしーさんの旅行記、お邪魔させていただきます。
    よろしくお願いいたします。

    frau.himmel
    2011年01月20日00時22分 返信する
  • RE: 年賀

     年賀状有り難うございます。ところで、リンツの実科学校はどこにあるかわかりましたか?たしか、両親のお墓はリンツ周辺のカトリック教会にあります。ヒトラーの系統はユダヤ人ではないか?と言う説(「アドルフ・ヒトラーの一族ー独裁者の隠された血筋ー」)があるようです。この本を読んでいませんが、ユダヤ人とはユダヤ教を信ずる人を言います。また、当時のドイツにおける人種の分類では、8分の1以上ユダヤ人の血が入っている人をユダヤ人と分類しています。例、カール・マルクス、ハルUS国務長官、アンネ・フランク(13歳)は100%、アレクサンダー・レーニンは50%なのでユダヤ人、オードリー・ヘップバーン(13歳)は12分の1で非ユダヤ人と分類されます。リンツ時代のアドルフについては、「アドルフ・ヒトラーの青春ー親友クビツエック{家具職人の息子}の回想と証言ー」に記されています。彼の初恋(あなたが写したリンツの橋をときどき渡る際に見かけた中産階級の17〜8歳)女性のことや、ウイーン西駅近くのアパートでの生活が書かれています。なお、ヘッセン・デンクマールは、とくにオーストリアの場合第一次世界大戦で戦死した兵士の霊を祀る戦没者慰霊塔、日本では忠霊塔、を良く見かけます。このほか、リンツは工業都市のみならず交通の要衝(シュコダ製の戦車・トラックを搬送)だったので、バーリ付近の飛行場発のB24による爆撃を受けています(マクガバーン元上院議員もパイロットとしてウイーン停車場・プラハ近郊の化学工場・クラコフ近郊の石油精製工場を爆撃している)。
    2011年01月07日22時24分返信する

    RE: RE: 年賀

    しょうちゃん様

    またまた大変面白いお話を有難うございます。
    一つ一つに、なるほど!とか、そうなんだ!とか一人で相槌を打ちながら読ませていただきました。

    >ところで、リンツの実科学校はどこにあるかわかりましたか?

    いえ、残念ながら…。でも、ヒトラーがリンツの実科学校で同級生と写っている写真は見つけました(まだ14,5歳くらいのあどけない写真でした)。同級生の中には哲学者(?)ウィトゲンシュタインも写っていました。

    >ヒトラーの系統はユダヤ人ではないか?と言う説(「アドルフ・ヒトラーの一族ー独裁者の隠された血筋ー」)があるようです。

    私も今回ヒトラーのことを調べている段階でヒトラーユダヤ人説を知りました。ヒトラーもある段階で自分の血筋を知り、それが故にユダヤ人に対する残虐行為にもますます拍車がかかったとか…? 
    その他、ユダヤ人の定義、ヒトラーの初恋、親友クビツェックのことなど本当に興味深かったです。

    リンツってそんなに期待して行った街ではなかったのですが、またもや何か消化不良の要素を残してきたような気がします。再訪予備軍です。

    またいろいろ教えてくださいませ。

    frau.himmel
    2011年01月08日21時27分 返信する

    RE: RE: RE: 年賀

    拝復 frau.himmelさん ユダヤ人に対する残虐行為にもますます拍車がかかったとか…?に関しては、?彼が影響を受けた一人に小学校の教師がいます。オーストリアはカトリック信者が多くいます。ローマン・カトリックは昔よりユダがキリストをローマ軍に売り渡した、という説で古来よりユダヤ人を排撃してきました。「サウンド・オブ・ミュージック」の映画で最後のシーンで山を超えるシーンがありますが、その館の執事はどうなったかという疑問があります。その執事はナチス信奉者だったわけで、多くのオーストリア人はナチスを支持していました(当時)。従って、従軍した人は年金もでていますし、戦後ナチスの裁判もなされていません。なぜなら、ほとんどのオーストリア人はナチスを支持していましたので処分しようがなかったのです。なお、ドイツのSS突撃隊所属の人は年金をもらえません。?ウイーン時代に図書館で沢山の本を読み、「ポグロム」に影響されています。帝政ロシア政府は政府に不満を持つ人に対し、ユダヤ人にその矛先を向けるよう仕向けています(ちょうど日帝がすべて悪い)。また、帝政ロシアを打倒したポルシェビーキ政権のリーダー5〜6人(レーニン・トロッキー)がユダヤ人で、ユダヤ人による革命と認識した農民らは反政府活動を起します。特に昔から反ロシアのウクライナ人は20万近いユダヤ人を虐殺しています。さらに、討伐に向かった新政府軍もユダヤ人を1万近く殺しています。このほか戦後ポーランド(実家)に生きて帰ったユダヤ人もポーランド人(カトリック)に殺されています。別件ですが、彼は母親(クララ)の主治医(ユダヤ)には手を出さないようゲシュタポに指示していますし、WW1の上官(大尉)は彼を評価し、鉄十字勲章授与に推薦しています。最後に、ローマ・カトリックが長年の間信徒をけしかけてきたことで、教会には責任はなく、やったのは信徒という立場をとっていることです。
    2011年01月08日22時33分 返信する

    RE: RE: RE: RE: 年賀

    しょうちゃん様

    続編もまた興味深く読ませていただきました。

    それにしても、こんなに集中して歴史のことを勉強したのは、何十年ぶりでしょう。
    特にドイツの現代史は面白いですね。調べれば調べるほど奥が深い。

    > その執事はナチス信奉者だったわけで、多くのオーストリア人はナチスを支持していました(当時)。従って、従軍した人は年金もでていますし、戦後ナチスの裁判もなされていません。なぜなら、ほとんどのオーストリア人はナチスを支持していましたので処分しようがなかったのです。
    > なお、ドイツのSS突撃隊所属の人は年金をもらえません。

    そうなんですってね。
    戦争責任はドイツが全て引き受けた と聞いています。

    またSS突撃隊とは、ヒトラー親衛隊のことですか?
    髑髏マークの暴力部隊とは違うのですね。
    何れにしても、ヒトラーの下で戦争に赴いたと言うのは、SSにしろドイツ国防軍にしろ同じだと思うのですが、一方には年金がでて、片方には出ないのですね。

    > 別件ですが、彼は母親(クララ)の主治医(ユダヤ)には手を出さないようゲシュタポに指示していますし

    今回の旅行でも同じことを聞きました。
    オーストリアの音楽家フランツ・レハールの妻はユダヤ人だったが、彼の音楽がヒトラーの好みだったので、強制収容所行きを免れたとか…。
    もっとも彼自身もユダヤ人という説があるくらいですから、かなりのザル法だったのですね。

    またロシアのユダヤ人問題に関しては、4トラ会員の「浦潮斯徳さん」もいろいろ投稿していらっしゃいまして、なかなか面白いです。

    ヒトラーがウィーン時代影響された「ポグロム」についてはこれから調べてみようと思います。俄か歴女にとっては調べれば調べるほど、??が出てくるのが困ったものです。

    今後ともよろしくお願いいたします。
    2011年01月10日12時03分 返信する

    RE: RE: RE: RE: RE: 年賀

    > またSS突撃隊とは、ヒトラー親衛隊のことですか?ごめんなさい。書くスペースが限られているので。突撃隊はSAでナチ党の党員で褐色のシャツを着ています。そのなかから独立してヒトラー直属の組織(身辺警護を目的)がSS(褐色のシャツに黒色の上着・ネクタイ・ズボン・靴)です。なお、色彩心理学では黒は暴力、褐色はお金が欲しいという消費者の心理を表しています。不況になると褐色の服がはやる傾向がある。
    > 何れにしても、ヒトラーの下で戦争に赴いたと言うのは、SSにしろドイツ国防軍にしろ同じだと思うのですが、一方には年金がでて、片方には出ないのですね。国防軍の一般兵士はいわゆる赤紙で召集された人たちですので、年金がでます(旧西ドイツ政府の判断)。この件については「ヨーロッパ現代史?」芦書房に各国の戦後処理に書かれています。
    > > またロシアのユダヤ人問題に関しては、原 翔「リトアニア」彩流社の最後の方に「ユダヤ人」について触れています。杉原 さんが救ったというユダヤ人の多くはリトアニアに住むユダヤ人です。クラスメートのアレクサンダー・ガリンチーン(英国国籍オックスフォード)に聞いたら、1920年までリトアニアに住んでいたそうです。戦後独立したばかりのリトアニアは、ポーランドが占領し、独ソ秘密協定によりソ連が軍事侵攻してきたので、激動の時代だったと言ってました。。
    > ヒトラーがウィーン時代影響された「ポグロム」について。彼は成績が悪かったのは事実ですが、自分に関心がある本を朝から夜までアパートで読みふけっていたようです。
    2011年01月10日16時41分 返信する
  • 花より団子

    明けましておめでとうございます。

    バラも美しいですが、シュパーゲルがとってもおいしそうですね。

    今年もよろしくお願いします。 *JY*
    2011年01月06日01時48分返信する 関連旅行記

    謹賀新年

    明けましておめでとうございます。
    今年もどうぞよろしくお願いいたします。

    *JY*さんはお正月はロンドンだったのですね。
    やはりスケールが違います。

    母の病気のため、しばらくヨーロッパに行けそうもありませんので、
    せめて、*JY*さんの美しい現地風景で旅をした気分を味わいます。

    ロンドン冬の風景続編をお待ちしてます♪
    2011年01月07日16時07分 返信する
  • シュプレー河畔を、散歩したいです。

    フリードリヒ大王のモニュメント、近くで見ると、すごいですね。
    この通りは、一度は歩いてみたいです
    あと、シュプレー河畔を、ゆっくり散歩したいです。
    http://www.youtube.com/watch?v=FQgESliKQUA
    ですが、ベルリンを鎮圧した、オットー・エルンスト・レーマー大佐が、ナチス式の敬礼をして、閲兵しています。
    1944年7月には、レーマーは、ドイツの英雄で、フォン・シュタウフェンベルク伯爵は、極悪人でした。
    しかし、一年後には、立場が逆転します。
    あと、アーヘンの飾り窓、びっくりですね。合法にすることで、エイズの蔓延を防ぐようです。
    2010年12月14日22時26分返信する 関連旅行記

    RE: シュプレー河畔を、散歩したいです。

    浦潮斯徳さま コメントありがとうございます。

    youtubeの動画見せていただきました。
    面白いですね。
    オットー・エルンスト・レーマー大佐(大昇進したのですね)の閲兵の際の行進、すごいですね…。
    あそこにヒトラーがいてもおかしくないような大英雄扱いですね。

    もう一つ、1945年3月22日ヒトラーがヒトラーユーゲントと謁見しているフィルムも見ました。彼が自殺したのは4月30日ですから1ヶ月ほど前のものですね。
    ヒトラーの顔が浮腫んでいるように見えましたが、私の気のせいかな?
    彼にはドイツ敗戦は時間の問題だとその頃は解かっていたでしょうに、あの年端も行かない子供達を激励している様子にちょっと腹がたちました。

    > あと、アーヘンの飾り窓、びっくりですね。合法にすることで、エイズの蔓延を防ぐようです。

    昨年秋のアーヘン編も見ていただいたのですか、有難うございます。
    飾り窓、私はその後どうなるのか興味津々でもう少し観察していたかったのですが(笑)、
    夫が危ないから写真を撮るのをやめろと、残念でした。

    後ほど浦潮斯徳さまの旅行記にお邪魔させていただきます。
    2010年12月16日11時38分 返信する
  • 仕掛け時計 一度は、見たいです。

    frau.himmel様
    ミュンヘンの、仕掛け時計、等身大なんですね。びっくりです。一度は、見てみたいです。
    リンツの学校に、ヒトラーは通いました。
    1938年、ドイツとオーストリアは、合邦します。ヒトラーも、オーストリア入りしますが、到着が遅れ、リンツには夜中になります。リンツ市民は、真夜中まで待ちました。ヒトラーが、リンツのバルコニーに出ると、市民は、右手を高くあげ、「アイン・フォルク アイン・ライヒ アイン・フューラー(一つの民族 一つの国家 一人の総統)」と、熱狂的に叫びました。ヒトラーも感涙しました。
    第二次大戦末期、連合軍は、ドイツ軍の中で、オーストリア出身の兵士の戦意を落とすため、ナチスの最初の犠牲国は、オーストリアだと発表しました。ユダヤ人迫害のナチス親衛隊の大半は、オーストリア人でした。ヒトラー、アイヒマン、カルテンブルナーも、オーストリア人です。戦後、ナチスの犯罪は、全てドイツが引き受けます。
    突撃隊(SA)は、褐色の帽子に、褐色の制服です。帽子に髑髏が入っているのが、親衛隊(SS)です。突撃隊は、町のゴロツキ上がりです。ヒトラーは政権をとると、貴族階級が上層部を占めるドイツ陸軍に融和するようになります。これに対して、エルンスト・レームを頂点とする、労働者上がりの突撃隊は、ヒトラーに反発します。ヒトラーは近代戦には、ドイツ陸軍と、手をつなぐしかないと考え、ハイドリヒに命じて、レーム一派を粛清します。
    ところで、映画・戦場のピアニストのドイツ将校でしたが、陸軍の軍帽に、親衛隊の制服を、まとっていました。びっくりです。親衛隊の襟章は、稲妻のマークです。ドイツ陸軍の戦車兵の襟章は、髑髏が入っています。ドイツ軍の軍服は、階級、兵科が、とても分かりやすいです。
    2010年12月14日22時11分返信する 関連旅行記

    RE: 仕掛け時計 一度は、見たいです。

    そうですか、リンツとヒトラーはそういう因縁があったのですか。
    リンツはオーストリアにおけるナチスの総本山みたいなところだったのですね。
    たった今、リンツの写真や資料を出して調べてみましたが、見事にヒトラーの形跡を探し出すことは出来ませんでした。
    歴史博物館にも行きましたがそこでも彼に関する記述はなし…。
    国や市が、ヒトラーとの係わり合いを恐れている様子が、反対によく理解できたような気がします。
    何でもネオナチ対策だとか?

    > 突撃隊(SA)は、褐色の帽子に、褐色の制服です。帽子に髑髏が入っているのが、親衛隊(SS)です。突撃隊は、町のゴロツキ上がりです。
    ヒトラーは政権をとると、貴族階級が上層部を占めるドイツ陸軍に融和するようになります。これに対して、エルンスト・レームを頂点とする、労働者上がりの突撃隊は、ヒトラーに反発します。ヒトラーは近代戦には、ドイツ陸軍と、手をつなぐしかないと考え、ハイドリヒに命じて、レーム一派を粛清します。

    ホントにお詳しいですね。
    突撃隊=町のゴロツキ上がりの私兵なんですね。
    ヒトラーは、彼らをユダヤ人に対する迫害や労働組合のストを阻止したりする実力行使(暴力)の部隊としてうまく利用していたようですね。
    髑髏のマークの帽章が余りにも大きくて、すごく印象に残っていました。

    > ヒトラーは政権をとると、貴族階級が上層部を占めるドイツ陸軍に融和するようになります。これに対して、エルンスト・レームを頂点とする、労働者上がりの突撃隊は、ヒトラーに反発します。ヒトラーは近代戦には、ドイツ陸軍と、手をつなぐしかないと考え、ハイドリヒに命じて、レーム一派を粛清します。

    いわゆる「長いナイフの夜」と言われる粛清のことですね。

    浦潮斯徳さまのお陰で、いろいろ勉強することが出てきて忙しくなりました。
    ボケ防止なんて言っていられません。
    ありがとうございます。
    2010年12月16日12時05分 返信する
  • ニュルンベルクのイメージが、変わりました。

    frau.himmel様
    ご返信、ありがとうございます。すこし、えらそうに、コメントしすぎました。
    レーマー少佐は、パウル・フォン・ハーゼ中将に、利用されていたのです。ゲッベルス邸で、ヒトラーの声を、電話で直接聞いたことにより、レーマーは、ヒトラーの生存を確信します。
    このあと、フォン・ハーゼ中将は、大佐に昇進したレーマーに、「私は、この事件と関係ない」と、言いました。
    ヒトラーの暗殺失敗のあと、将軍たちは、態度を急変させていきます。

    フォン・シュタウフェンベルク伯爵に対しては、クーデター派は、自らの命を惜しんだから、暗殺に失敗したと、はき捨てるように言った将軍もいました。

    これにたいして、戦後、ドイツの良心と言われたフォン・ヴァイゼッカー大統領は、シュタウフェンベルクは、ヒトラーを暗殺した後のドイツ再建に、自分がいなければ無理だと、確信していたのだと述べています。

    戦後のドイツは、ナチスを嫌ってアメリカに亡命していたアメリカ帰りの人が、まるで民主主義者の権化のようにして帰国し、同胞をしかりつけたようです。
    旧ドイツ軍の将校は、この民主主義者に、戦後いじめられたようです。
    アデナウアー大統領は、ケルンの市長時代、ヒトラーとの握手を拒み、強制収容所にぶちこまれました。自ら危険を冒して、ナチスに反対したので、アデナウアーは、それなりに評価されています。

    ポーランド総督のハンス・フランク、アルフレート・ローゼンベルク、アイヒマンとも、ユダヤ人という噂がありますが。

    ニュルンベルクというと、戦後の裁判や、ナチス党大会と、あまりいいイメージがなかっただけに、古くて美しい町なので、驚きました。

    frau.himmel様は、ドイツ、オーストリアのあちこちに、かなり行かれているみたいですね。
    私は、ヒトラーの故郷ブラウナウ・アム・インや、リンツにも行ってみたいです。
    デンマーク人とドイツ人混住の町、フレンスブルクにも、いきたいです。

    私は、ロシアのカリーニングラード(旧ドイツ領ケーニヒスベルク)へは、行きました。ドイツ人は、茶褐色の建物を建てるなあと思いました。ロシア人は、赤がすきです。ドイツ人は、茶褐色がすきなのかなあと。あのナチスの突撃隊(SA)も、褐色のユニフォームでしたし。

    frau.himmel様のドイツ、オーストリアの旅行記を、順々に読ませていただきます。
    綺麗なお写真、有難うございました。
    2010年12月11日21時16分返信する 関連旅行記

    RE: ニュルンベルクのイメージが、変わりました。

    浦潮斯徳様 こんばんは!

    先程、といっても昼間ですが、ちょっと浦潮斯徳様の旅行記を拝見させていただきました。
    あいかわらず、下手な小説よりよっぽど面白いと思いました。
    面白いと言っては失礼ですね。ごめんなさい。

    さて、またまた大変興味のある事柄を教えていただき有難うございます。

    > このあと、フォン・ハーゼ中将は、大佐に昇進したレーマーに、「私は、この事件と関係ない」と、言いました。
    > ヒトラーの暗殺失敗のあと、将軍たちは、態度を急変させていきます。

    フォン・ハーゼ中将は往生際は良くなかったようですね。
    彼の執務室がベルリンのウンター・デン・リンデン通りに残っています。今回ベルリンに行った折、そのことは確認したのですが、中は見ませんでした。

    > フォン・シュタウフェンベルク伯爵に対しては、クーデター派は、自らの命を惜しんだから、暗殺に失敗したと、はき捨てるように言った将軍もいました。

    これは、フォン・シュタウフェンベルク伯爵がヒトラー暗殺の現場に残らないで、爆発する前に部屋から出てきたことを言っているのですね。
    将軍達は命と名誉が惜しくて、ヒトラー暗殺を実行するだけの勇気がなかったんですよね。それで、片手・片目がない フォン・シュタウフェンベルク伯爵が実行役になった…。
    そのくせ、ヒトラー暗殺が成功していれば、新体制側にはせ参じるはずだった将軍達ですね。

    > ポーランド総督のハンス・フランク、アルフレート・ローゼンベルク、アイヒマンとも、ユダヤ人という噂がありますが。

    ヒトラー自身もユダヤ人の血が流れているという噂があるんですね。
    ヒトラーの父は私生児で、祖母がクラクフのお屋敷にメイドとして働いている時にユダヤ人である雇い主のお手つきになったとか?
    ヒトラーは自分の生い立ちを知り、それを払拭するかのように、その後ユダヤ人に対する残酷さは増していったのだというような記述がありました。

    > ニュルンベルクというと、戦後の裁判や、ナチス党大会と、あまりいいイメージがなかっただけに、古くて美しい町なので、驚きました。

    ニュルンベルクには何度か行っていますが、かの裁判所はまだ一度も訪れていません。次回は是非行ってみたいと思っています。

    > 私は、ヒトラーの故郷ブラウナウ・アム・インや、リンツにも行ってみたいです。

    ヒトラーの故郷ブラウナウ・アム・インてどこにあるんだろう、故郷ではヒトラーはどういう扱いになっているんだろう、と調べていたら上記のヒトラーユダヤ人説に遭遇したのです。
    リンツは今回行きましたが、浦潮斯徳さまを惹き付ける要素が何かあるのでしょうか?もしかして私に興味があるものだったら、悔しいなと思います。
    次の次くらいにリンツ編を投稿しますので、良かったら見てください。

    > 私は、ロシアのカリーニングラード(旧ドイツ領ケーニヒスベルク)へは、行きました。ドイツ人は、茶褐色の建物を建てるなあと思いました。ロシア人は、赤がすきです。ドイツ人は、茶褐色がすきなのかなあと。あのナチスの突撃隊(SA)も、褐色のユニフォームでしたし。

    ナチスの突撃隊と言うのはあのドクロのマークの(笑)暴力軍のことですか?

    私の親戚にロシアのウラジオストックの女性と結婚したのがおります。
    いつもロシアを案内してくれると言われているのですが、お互いのスケジュールが合わず、まだ実現していません。
    浦潮斯徳さまの旅行記を読ませていただいて、そろそろロシア行きを考えようかなと思っています。

    > 綺麗なお写真、有難うございました。

    それ言わないでください(赤面)。
    下手な写真を堂々と載っけていると言われやしないかと、いつも恥ずかしい思いをしています。

    今後ともよろしくお願いします。
    2010年12月13日20時53分 返信する
  • 一度は、行きたいです。

    frau.himmel様
    お気に触ったら申しわけありません。アイヒマンの処刑は、1962年です。1961年に、ブエノスアイレスで、モサドに逮捕されました。

    ハイドリヒですが、彼の父はユダヤ人という説が郷里では、根強いです。ハイドリヒは、ドイツ人からも、恐れられていました。ハイドリヒが、テロで死亡したときに、カール・フランク(ハイドリヒの次に、チェコを支配したナチスの指導者)は、安堵しました。武装親衛隊のゼップ・ディートリヒ将軍は、「あの牡豚(ハイドリヒの女癖は、病的でした)も、ついにくたばったか」と、声を発しました。

    戦後、ユダヤ全滅作戦が、明らかになり、ナチスの全てが否定されました。大半のナチスの親衛隊員は、ユダヤ人のホロコーストは全く知りませんでした。しかし、ニュルンベルク裁判では、ナチスの親衛隊そのものが、犯罪者の集団とされました。かつてのゲシュタポ、SD隊員たちは、過去に口を閉ざしました。

    しかし最前線で、国防軍兵士と、肩を寄せて一緒に戦った、ナチスの武装親衛隊員たちは、戦後、ドイツ連邦政府に対して、陸、海、空軍の兵士たちと、同権を勝ち取ろうとしました。このときに、アイヒマンが、モサドに捕まりました。ドイツ連邦政府は、アイヒマン問題が、クローズアップされるのを恐れて、かつての武装親衛隊員たちの要求を、退けました。

    武装親衛隊のなかには、17歳18歳の少年たちで構成されたヒトラー・ユーゲント師団もあり、ノルマンディーの激戦場に、送られました。この師団長クルト・マイヤーが、戦後、武装親衛隊の復権につとめようとしました。彼は、「強制収容所など、内からも外からも、見たことがない。知らなかった以上、ユダヤ人の虐殺を、防ぎようがなかった」と。武装親衛隊員で、戦死した遺族は、国防軍兵士の遺族と違い、遺族年金も、支払われていません。

    ドイツ連邦政府は、ナチスの犯罪ゆえ、かつての旧ドイツ軍人に対して、侮辱とも思える行動を、とっています。最近では、ギリシャのクレタ侵攻作戦作戦や、スペインの内戦に参加した、旧ドイツ軍人の栄誉を、剥奪しています。

    一度は行きたいです。綺麗なお写真、ありがとうございました。

    2010年12月09日22時56分返信する 関連旅行記

    RE: 一度は、行きたいです。

    引き続きのコメント有難うございます。

    > お気に触ったら申しわけありません。アイヒマンの処刑は、1962年です。1961年に、ブエノスアイレスで、モサドに逮捕されました。

    気に触る、なんてとんでもありません。
    浦潮斯徳様のご指摘がなかったら、いつまでも間違ったまま放置するところでした。
    自分では1962年と書いたつもりでおりました。
    あの写真は1961年4月10日、エルサレムの防弾ガラスつきの裁判所で裁判を受けているアイヒマンですから、1952年と言うのはありえませんね(恥)。

    > ハイドリヒですが、彼の父はユダヤ人という説が郷里では、根強いです。ハイドリヒは、ドイツ人からも、恐れられていました。ハイドリヒが、テロで死亡したときに、カール・フランク(ハイドリヒの次に、チェコを支配したナチスの指導者)は、安堵しました。武装親衛隊のゼップ・ディートリヒ将軍は、「あの牡豚(ハイドリヒの女癖は、病的でした)も、ついにくたばったか」と、声を発しました。

    ハイドリヒの件も興味深かったです。
    彼がユダヤ人でないかという噂があるのは知っていました。同胞をあのような目にあわせて平気でいられるあの神経、どんな冷酷な人間なんだろうと思っていました。

    戦後のドイツ連邦政府の対応も興味深かったです。
    有難うございました。
    2010年12月11日09時39分 返信する
  • こんな記念館が、あったとは。

    frau.himmel様
    こんな記念館が、あったとは知りませんでした。あのフォン・シュタウフェンベルク伯爵大佐の、ヒトラー暗殺未遂事件は、旧ドイツ軍人には、不評です。この事件に関与した者たちは、ゲシュタポに捕らわれていきます。捕らわれた人たちは、あまりにも開けっぴろげな、自白をしていきます。ヒトラー打倒のグループを、同情心から、黙認していただけの人まで、逮捕され刑死していきます。このことに対して、ハインツ・グデーリアン将軍は、驚きを隠しませんでした。

    砂漠の狐とうたわれた、ドイツの英雄・ロンメル元帥は、フォン・シュタウフェンベルク伯爵の従兄弟の、ツェーザル・フォン・ホーフアッカー(パリでのヒトラー打倒グループの、リーダー)の証言により、ヒトラーから自決を強要されます。ロンメル夫人は、夫はこの事件には、関与していないと、戦後述べています。

    ヒトラーの後継者となったドイツ海軍総司令官のデーニッツは、この一派を軽蔑すると、自叙伝の中で述べています。1944年7月20日は、もうすでに、連合軍は、ノルマンディーに上陸していました。ヒトラーがたとえ死亡したとしても、連合軍は、ドイツの無条件降伏は、必ず求めたと。

    あと、ベルリンでの、ヒトラー暗殺事件を鎮圧した、ドイツ陸軍の、オットー・エルンスト・レーマー(鎮圧命令を、ヒトラーから直接受け、少佐から大佐にいきなり昇進)氏は、戦後ネオ・ナチ活動をしたので、スペインに亡命し、スペインで他界されました。

    150台の敵戦車破壊で有名な、戦車長オットー・カリウス大尉は、シュタウフェンベルク伯爵大佐以外は、評価しないと。そしてドイツ連邦政府の旧ドイツ軍人に対する侮辱にたいして、憤慨しておられます。

    綺麗なお写真、有難うございました。
    2010年12月09日22時19分返信する 関連旅行記

    RE: こんな記念館が、あったとは。

    浦潮斯徳様
    おはようございます。
    私の旅行記にお目を留めていただいて有難うございます。

    何分にも付け焼刃的に調べてコメントにつけたものなので、お詳しい方がお読みになったら、一笑に付されるのではないかと心配しておりました。
    でも、本当にお詳しいんですね。
    シュタウフェンベルク大佐に関しましても、私が知りえなかった歴史的事実を教えていただき、大変興味深かったです。

    > 砂漠の狐とうたわれた、ドイツの英雄・ロンメル元帥は、フォン・シュタウフェンベルク伯爵の従兄弟の、ツェーザル・フォン・ホーフアッカー(パリでのヒトラー打倒グループの、リーダー)の証言により、ヒトラーから自決を強要されます。ロンメル夫人は、夫はこの事件には、関与していないと、戦後述べています。

    有名なロンメル将軍も、その名声ゆえ、反ヒトラー派のリーダーに担ぎ出されたとか何かで読みました。ロンメル夫人の証言の通り、「黙認はしたけれど、積極的に関与しなかった」のでしょうか。

    またヒトラー暗殺を鎮圧したとされるオットー・レーマー大佐は、反ヒトラー派のハーゼ司令官の部下だったのですね。上官の命令に従わないで寝返ったため、暗殺は失敗に終わったと…。もしかして彼の裏切りがなかったら暗殺は成功していたのかもしれないと今まで思っていました。
    でも、浦潮斯徳様がコメントしてくださった、「たとえ、ヒトラーが死亡したとしても、連合軍はドイツの無条件降伏は必ず求めた」という事実、これを読んで、はっとしました。
    時期が遅かったのですね。もう少し早くヒトラー暗殺がなされていたら、こんなに大量のユダヤ人は殺されなかった、大量の軍人は戦死することがなかった、と…。

    浦潮斯徳様のお陰で、もう少し、この件について勉強したいと思い始めました。
    今後ともいろいろご教示願います。
    2010年12月11日09時25分 返信する
  • オーストリア素敵です

    himmelさん はじめまして

    訪問ありがとうございます。
    オーストリアのいくつもの旅行記を拝見しました。個人旅行でのザルツ・カンマーグート地方めぐり、羨ましい限りです。
    またベルリンからザルツブルグまでの列車の旅の色々な出来事も楽しく読ませていただきました。文章がとても素敵です。

    私も昨年ザルツブルグから同じ地域の半日観光をしましたが、見残しが多く再度訪れてみたいと思っています。
    私もシニアですが一人旅が多いので、写真撮影のための自由度が大きい半面、楽しみは半分です。今年は家族でロンドン・パリ旅行でした。
    オーストリアはドイツ語圏でドイツ語には文盲の私でもウィーン・ザルツブルグの旅は不自由なく楽しめました。安心・安全・親切な国という印象でした。
    これからもよろしくお願い致します。 yamada423
    2010年12月09日10時29分返信する
  • 素敵なホテル

    frau.himmelさま

    出来たてほやほやのバート・イシュル旅行記におじゃましています。

    このホテル、すてきですね。
    もろ好みです。
    街もさすが皇帝の保養地だっただけあり 優雅なのですね〜
    また行きたい所が増えてしまった。

    池内紀さんは好きで、新刊がでるとつい読んでしまいます。
    「歩き方」のエッセイ、「バート・イシュル物語」や「トルテ戦争」も
    本当に面白いですね。
    「歩き方」をひっぱりだして再読してしまいました。

                  パンジー
                 
    2010年11月27日12時54分返信する 関連旅行記

    RE: 素敵なホテル

    パンジーさま こんばんは!

    > 出来たてほやほやのバート・イシュル旅行記におじゃましています。

    すみません。中途半端なものをお目にかけてしまいまして。
    作成中、急遽出かける用事ができてしまい…
    帰宅して、開いてみると、パンジーさんのコメントが…。(恥ずかしい〜)
    あわてて続きを書き上げました。よかったら見てくださいね。

    > このホテル、すてきですね。
    > もろ好みです。

    豪華なホテルではありませんが、古い家具がとても似合っていました。
    写真ではベッドのところだけしか写っていなくて、
    どんなホテルだ!って突っ込まれそうですね。(笑)

    バートイシュル、オーストリアがお好きなパンジーさんのこと、
    きっとお気に召すと思います。
    私ね、こんなことを言うと笑われそうですが
    バートイシュルって、イングリッド・バークマン(若い頃の)に雰囲気がぴったりだと思うんですね。
    さっきから彼女のイメージが頭から離れないのです(笑)
    機会があればもう一度と行って見たい街です。

    ところでパンジーさん、新作発表なさいましたね。
    ほやほやの時に見せていただきました。
    足跡だけでコメント残さなかったのですが、
    浅草の酉の市、やっぱりパンジーさんの手にかかると風情がでますね。

    昔、子供達と新宿の花園神社の酉の市によく行きました。
    もう行かなくなって何年経つかしら。
    来年は、しばらくぶりに行ってみようかな〜。

    なんて懐かしく思いながら読ませていただきました。

    またお邪魔させていただきます。              
    2010年11月27日22時24分 返信する

frau.himmelさん

frau.himmelさん 写真

18国・地域渡航

11都道府県訪問

frau.himmelさんにとって旅行とは

4トラベル会員になりいつの間にか15年以上経ちました。
私の拙い旅行記でも多くの方が読んでくださり、大変励みになっております。
齢をとりますとだんだん文章も書けなくなり、また投稿頻度も遅くなってまいりましたが、これからも老化防止・ボケ防止、そして自分自身の旅の備忘録として、この4トラベルを利用していきたいと思います。

自分を客観的にみた第一印象

………?

大好きな場所

ヨーロッパ。特にドイツ語圏

大好きな理由

歴史ある落ち着いた雰囲気が最高。

行ってみたい場所

広く浅くは好みませんので、やはりヨーロッパをもっと極めたいですね。

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