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パリの滞在も2週間目に入ると今日が何曜日だったか分からなくなってきて、一度は月曜日の休館日に「ロダン美術館」に行ってしまいました。翌日のもう一度行き直したのですが、その日は生憎の雨の日でした。今回の3週間弱の日程で唯一雨が降った日でした。雨が降った上に他の美術館が休みの日でもあったので、館内はとても混んでいました。写真には他の観覧者は写っていませんが、この日は他に予定も無くて時間に制限が無かったので気ままに人が途切れるのを待っていました。絵画だと写真を撮る方向は決まっていますが、彫刻の写真を撮るのって面白いなと思いました。最初はゴッホのタンギー爺さんが見たいからと思って予定に組み入れた「ロダン美術館」でしたが、どうせ行くならといろいろ勉強し直したらだんだん興味が深くなってきました。特に妻のローズと弟子だったカミーユとの愛憎などを資料で読み直した後では作品の見方も変わったと思います。今回の旅の中ではロダンとモローとモネが自分の中での再発見でした。新たな発見では彫刻家のジャン・カリエスが挙げられますが、どこまでも奥の深い芸術の都パリを感じました。

晩秋のパリ旅行(11)ロダン美術館でロダンとローズとカミーユ・クローデルを想い、ゴッホのタンギー爺さんの浮世絵に感銘を受ける。

6いいね!

2011/10/22 - 2011/11/06

9462位(同エリア16384件中)

旅行記グループ 2011 パリの旅

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kojikoji

kojikojiさん

パリの滞在も2週間目に入ると今日が何曜日だったか分からなくなってきて、一度は月曜日の休館日に「ロダン美術館」に行ってしまいました。翌日のもう一度行き直したのですが、その日は生憎の雨の日でした。今回の3週間弱の日程で唯一雨が降った日でした。雨が降った上に他の美術館が休みの日でもあったので、館内はとても混んでいました。写真には他の観覧者は写っていませんが、この日は他に予定も無くて時間に制限が無かったので気ままに人が途切れるのを待っていました。絵画だと写真を撮る方向は決まっていますが、彫刻の写真を撮るのって面白いなと思いました。最初はゴッホのタンギー爺さんが見たいからと思って予定に組み入れた「ロダン美術館」でしたが、どうせ行くならといろいろ勉強し直したらだんだん興味が深くなってきました。特に妻のローズと弟子だったカミーユとの愛憎などを資料で読み直した後では作品の見方も変わったと思います。今回の旅の中ではロダンとモローとモネが自分の中での再発見でした。新たな発見では彫刻家のジャン・カリエスが挙げられますが、どこまでも奥の深い芸術の都パリを感じました。

旅行の満足度
5.0
観光
4.5
ホテル
4.5
グルメ
4.5
ショッピング
4.5
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
鉄道 高速・路線バス 観光バス 徒歩
航空会社
中国国際航空
旅行の手配内容
個別手配

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  • この日はゆっくりホテルを出てモンパルナス駅までブラブラ散歩しました。これまでは朝早かったので開いていなかった「カーヴ・デ・ パピーユ」にも立ち寄る事が出来ました。ビオやビオディナミックなど自然派のワインで有名なパリのワインショップです。店の人と話していたらカウンターに新宿のI百貨店のバイヤーの名刺があったりして、さすがだなと思いました。ここでは帰国前にワインを6本ほど購入しました。

    この日はゆっくりホテルを出てモンパルナス駅までブラブラ散歩しました。これまでは朝早かったので開いていなかった「カーヴ・デ・ パピーユ」にも立ち寄る事が出来ました。ビオやビオディナミックなど自然派のワインで有名なパリのワインショップです。店の人と話していたらカウンターに新宿のI百貨店のバイヤーの名刺があったりして、さすがだなと思いました。ここでは帰国前にワインを6本ほど購入しました。

  • ワイン屋さんのあるダケール通りは下町の風情で、もう少しのんびりした旅だったら切り花をホテルの部屋にでも飾りたいくらいでした。

    ワイン屋さんのあるダケール通りは下町の風情で、もう少しのんびりした旅だったら切り花をホテルの部屋にでも飾りたいくらいでした。

  • 午前8時ころでは全ての店は閉まっていますが、10時前ではかなり賑やかになっていました。

    午前8時ころでは全ての店は閉まっていますが、10時前ではかなり賑やかになっていました。

  • 店の前を通るたびにロースターの中を回転しているチキンの丸焼きを買いたくなりました。

    店の前を通るたびにロースターの中を回転しているチキンの丸焼きを買いたくなりました。

  • 八百屋と並んで魚屋さんも美味しそうな魚介にエビやカニがきれいに並べられていました。澁澤龍彦は「ヨーロッパの乳房」の中でモンパルナス当たりのアパルトマンに泊りながらトゥルトーというイチョウガニを茹でて食べたとあったなと思い出します。

    八百屋と並んで魚屋さんも美味しそうな魚介にエビやカニがきれいに並べられていました。澁澤龍彦は「ヨーロッパの乳房」の中でモンパルナス当たりのアパルトマンに泊りながらトゥルトーというイチョウガニを茹でて食べたとあったなと思い出します。

  • この地下通路も何度通ったことか。

    この地下通路も何度通ったことか。

  • いつものようにモンパルナス駅から地下鉄に乗って、ヴァレンヌ駅まで移動しました。3週間近いフランスの旅で雨が降ったのはこの日だけでした。後で気づきましたがヴァレンヌ駅にはロダンの彫刻のレプリカがありました。

    いつものようにモンパルナス駅から地下鉄に乗って、ヴァレンヌ駅まで移動しました。3週間近いフランスの旅で雨が降ったのはこの日だけでした。後で気づきましたがヴァレンヌ駅にはロダンの彫刻のレプリカがありました。

  • 間違って月曜日の休館日に来てしまったときはとても天気が良くて、庭園に作品が置かれたロダン美術館を見学するにはもってこいの日でしたが、翌日はあまり良い条件ではありませんでした。更に祭日で幾つかの美術館が休みのためにここに観光客が集中しているようでした。

    間違って月曜日の休館日に来てしまったときはとても天気が良くて、庭園に作品が置かれたロダン美術館を見学するにはもってこいの日でしたが、翌日はあまり良い条件ではありませんでした。更に祭日で幾つかの美術館が休みのためにここに観光客が集中しているようでした。

  • 「ロダン美術館」の建物はロダンが亡くなるまでの10年間アトリエとして使い、そして暮らしたビロン邸というロココ様式の大きなお屋敷です。フランス政府がこの建物を買い取ることとなったとき、館を気に入っていたロダンが自分の作品及びコレクションを国家に寄付するので、美術館として残して欲しいと提案したそうです。<br />

    「ロダン美術館」の建物はロダンが亡くなるまでの10年間アトリエとして使い、そして暮らしたビロン邸というロココ様式の大きなお屋敷です。フランス政府がこの建物を買い取ることとなったとき、館を気に入っていたロダンが自分の作品及びコレクションを国家に寄付するので、美術館として残して欲しいと提案したそうです。

  • 小雨の中濡れないように慌てて入った入り口のホールで圧倒されるような彫刻の数々に瞬間で魅了されました。正直ロダンの彫刻を知識の無さから、ベルニーニやミケランジェロなどと比べてあまり好きではありませんでした。特にブロンズ像は食わず嫌いの感があったようで、国立西洋美術館でロダンの作品を見ても気持ちが動かされませんでした。

    小雨の中濡れないように慌てて入った入り口のホールで圧倒されるような彫刻の数々に瞬間で魅了されました。正直ロダンの彫刻を知識の無さから、ベルニーニやミケランジェロなどと比べてあまり好きではありませんでした。特にブロンズ像は食わず嫌いの感があったようで、国立西洋美術館でロダンの作品を見ても気持ちが動かされませんでした。

  • 館内は2フロアから構成されており、1階と2階共にロダンの彫刻が中心にカミーユ・クローデルの作品も展示されています。併せてロダン自身がコレクションして所有していたゴッホやモネやルノアールなどの作品も展示されています。

    館内は2フロアから構成されており、1階と2階共にロダンの彫刻が中心にカミーユ・クローデルの作品も展示されています。併せてロダン自身がコレクションして所有していたゴッホやモネやルノアールなどの作品も展示されています。

  • ロダンの作品はほとんど日本でしか見た記憶が無く、上野の国立西洋美術館と倉敷の大原美術館くらいで静岡県立美術館の収蔵品も見たことがありませんでした。海外の美術館においても、特にロダンの張億を見るために行ったことはありませんでした。今回の旅行を前にして俄か勉強をしたくらいでの見学になりました。さすがにパリの「ロダン美術館」では知っている作品も多かったです。

    ロダンの作品はほとんど日本でしか見た記憶が無く、上野の国立西洋美術館と倉敷の大原美術館くらいで静岡県立美術館の収蔵品も見たことがありませんでした。海外の美術館においても、特にロダンの張億を見るために行ったことはありませんでした。今回の旅行を前にして俄か勉強をしたくらいでの見学になりました。さすがにパリの「ロダン美術館」では知っている作品も多かったです。

  • 「接吻」はロダンをあまり知らない自分で知っている代表作とされるものです。ダンテの神曲に登場するパオロとフランチェスカの悲恋をモチーフにしたもので、「考える人」同様に「地獄の門」を装飾するレリーフの1つとして構想され、当初は「フランチェスカ・ダ・リミニ」のタイトルで呼ばれました。その後おそらく作品全体のテーマにそぐわないと判断され、その後すぐに外されて独立した作品として発表されました。

    「接吻」はロダンをあまり知らない自分で知っている代表作とされるものです。ダンテの神曲に登場するパオロとフランチェスカの悲恋をモチーフにしたもので、「考える人」同様に「地獄の門」を装飾するレリーフの1つとして構想され、当初は「フランチェスカ・ダ・リミニ」のタイトルで呼ばれました。その後おそらく作品全体のテーマにそぐわないと判断され、その後すぐに外されて独立した作品として発表されました。

  • 「永遠の青春」もテーマ的には「接吻」と同じ神曲のパオロとフランチェスカに見られるような愛のテーマのヴァリエーションです。ここで扱われている女性の姿態は1882年にアデールという名のモデルをもとにロダンが制作したトルソが下敷きとなっており、ロダンの彫刻には常に見られる既成の彫刻の組み合わせによる構成の一例とされます。誰にでも一見して理解できる甘く官能的な主題と、完結した美しい構成によってこの彫刻は非常な人気を博したそうです。

    「永遠の青春」もテーマ的には「接吻」と同じ神曲のパオロとフランチェスカに見られるような愛のテーマのヴァリエーションです。ここで扱われている女性の姿態は1882年にアデールという名のモデルをもとにロダンが制作したトルソが下敷きとなっており、ロダンの彫刻には常に見られる既成の彫刻の組み合わせによる構成の一例とされます。誰にでも一見して理解できる甘く官能的な主題と、完結した美しい構成によってこの彫刻は非常な人気を博したそうです。

  • 「神の手」は今まで手をモチーフにしたロダンの作品の存在を知りませんでしたが、指がまるで人の体(五体)のように思えました。また手の彫刻の数の多さには驚かされました。

    「神の手」は今まで手をモチーフにしたロダンの作品の存在を知りませんでしたが、指がまるで人の体(五体)のように思えました。また手の彫刻の数の多さには驚かされました。

  • ロダン以前の彫刻は対象をいかに生き写しのように彫刻するかをテーマにしていましたが、ロダンはその彫刻を「彫刻はその対象の生命を生き生きと作品に宿らせることが彫刻であり、そのためにはヴォリュームが重要である」として、対象が持つ生命をその彫刻に吹き込むことにより、彫刻を新たな芸術へと変貌させと言われます。

    ロダン以前の彫刻は対象をいかに生き写しのように彫刻するかをテーマにしていましたが、ロダンはその彫刻を「彫刻はその対象の生命を生き生きと作品に宿らせることが彫刻であり、そのためにはヴォリュームが重要である」として、対象が持つ生命をその彫刻に吹き込むことにより、彫刻を新たな芸術へと変貌させと言われます。

  • 見学した日は小雨が降る曇った日でしたが、太陽光線が直接彫刻に当たらないので彫刻作品を見学するには良い条件だったかもしれません。

    見学した日は小雨が降る曇った日でしたが、太陽光線が直接彫刻に当たらないので彫刻作品を見学するには良い条件だったかもしれません。

  • 日本にロダンの彫刻を紹介した雑誌「白樺」で、この白樺派の高村光太郎や荻原守衛や中原悌二朗などはロダンから大きな影響を受けました。そう考えると上野の国立博物館や竹橋の近代美術館や碌山美術館、早稲田大学の會津八一記念館など父に連れていかれて知ったところに帰りつき、自分の人生は所詮父の影響の下にあるのだろうかと考えてしまいます。

    日本にロダンの彫刻を紹介した雑誌「白樺」で、この白樺派の高村光太郎や荻原守衛や中原悌二朗などはロダンから大きな影響を受けました。そう考えると上野の国立博物館や竹橋の近代美術館や碌山美術館、早稲田大学の會津八一記念館など父に連れていかれて知ったところに帰りつき、自分の人生は所詮父の影響の下にあるのだろうかと考えてしまいます。

  • 「国の護り(武器をとれ)」は松方コレクションとして国立西洋美術館にも収蔵されています。若い彫刻家が評判と懸賞金を獲得するには、公共のコンテストに参加することが最善の方法でした。 1879年にロダンはフランス国家が記念した共和国記念碑とパリ防衛防衛記念碑のために開催されたコンテストに出品しました。<br /> 「1870年のパリの防衛を表す寓話的な記念碑」のデザインである「国の護り」はミケランジェロの彫刻したフィレンツェのドゥオーモ美術館に収蔵された「ピエタ」のような構図にも思えます。傷ついた兵士は翼のある天使に支えられていますが、その猛烈な表情や水平に伸ばした腕、握りこぶしの拳は凱旋門にある「ラ・マルセイエーズ」の彫刻も思い起こさせます。

    「国の護り(武器をとれ)」は松方コレクションとして国立西洋美術館にも収蔵されています。若い彫刻家が評判と懸賞金を獲得するには、公共のコンテストに参加することが最善の方法でした。 1879年にロダンはフランス国家が記念した共和国記念碑とパリ防衛防衛記念碑のために開催されたコンテストに出品しました。
    「1870年のパリの防衛を表す寓話的な記念碑」のデザインである「国の護り」はミケランジェロの彫刻したフィレンツェのドゥオーモ美術館に収蔵された「ピエタ」のような構図にも思えます。傷ついた兵士は翼のある天使に支えられていますが、その猛烈な表情や水平に伸ばした腕、握りこぶしの拳は凱旋門にある「ラ・マルセイエーズ」の彫刻も思い起こさせます。

  • 残念ながらロダンの作品は最初の審査で落選され、審査員はルイ・アーネスト・バリアスのバランスの取れた作品を好んだそおうです。この彫刻は1912年に拡大されて大きさが2倍になり、その後手直しされ、さらに1917年から1919年にかけてオランダの記念碑委員会のために手が加えられました。オランダの記念委員会はそれをベルダン市に寄付しました。

    残念ながらロダンの作品は最初の審査で落選され、審査員はルイ・アーネスト・バリアスのバランスの取れた作品を好んだそおうです。この彫刻は1912年に拡大されて大きさが2倍になり、その後手直しされ、さらに1917年から1919年にかけてオランダの記念碑委員会のために手が加えられました。オランダの記念委員会はそれをベルダン市に寄付しました。

  • 美術館でこの作品を見て何故かドナテッロの「預言者ハバクク」を思い出しました。帰国後にロダンがイタリア旅行でミケランジェロとドナテッロに感銘を受けたと知り、あながち外れでも無かったかなと思いました。「預言者ハバクク」はピエタと同じフィレンツェのドゥオーモ美術館に収蔵されています。

    美術館でこの作品を見て何故かドナテッロの「預言者ハバクク」を思い出しました。帰国後にロダンがイタリア旅行でミケランジェロとドナテッロに感銘を受けたと知り、あながち外れでも無かったかなと思いました。「預言者ハバクク」はピエタと同じフィレンツェのドゥオーモ美術館に収蔵されています。

  • 石膏の作品は保護のためかガラスケースに入っている物が多かったので、写真に撮るのに苦労しました。「ヴェールを被ったトルソ」は「青銅時代」の部分的なカバーだそうです。通常は女性モデルの顔に被るドレープの効果はある種の奇妙さを生み出します。うまい具合にシャンデリアがガラスに映り込みました。

    石膏の作品は保護のためかガラスケースに入っている物が多かったので、写真に撮るのに苦労しました。「ヴェールを被ったトルソ」は「青銅時代」の部分的なカバーだそうです。通常は女性モデルの顔に被るドレープの効果はある種の奇妙さを生み出します。うまい具合にシャンデリアがガラスに映り込みました。

  • カタログ・レゾネや本の表紙などでも見かけるロダンのサインです。

    カタログ・レゾネや本の表紙などでも見かけるロダンのサインです。

  • 「青銅時代」はモデルのオーギュスト・メイル本人を石膏で型を取って鋳造したのではないかと疑われたいわくつきの作品です。もちろんただの中傷であったのですが、それ程見事な肉体美です。ロダンの彫刻は腕や指が非常に雄弁に感情を現していると思います。1877年のブリュッセルの「芸術サークル」展にはこの彫刻の石膏像が「敗北者」という題で出品されたが、これは後に「目覚める人」あるいは「最初の人類」という名で呼ばれるように、神々の世界である黄金と白銀の時代を経て、人類がこの世に初めて生まれ出る青銅時代の最初の脈動が表現されています。元々は左手に槍を持っていましたが、ロダンは武器持たせた腕を解放し、自由な動きを吹き込むことにしました。

    「青銅時代」はモデルのオーギュスト・メイル本人を石膏で型を取って鋳造したのではないかと疑われたいわくつきの作品です。もちろんただの中傷であったのですが、それ程見事な肉体美です。ロダンの彫刻は腕や指が非常に雄弁に感情を現していると思います。1877年のブリュッセルの「芸術サークル」展にはこの彫刻の石膏像が「敗北者」という題で出品されたが、これは後に「目覚める人」あるいは「最初の人類」という名で呼ばれるように、神々の世界である黄金と白銀の時代を経て、人類がこの世に初めて生まれ出る青銅時代の最初の脈動が表現されています。元々は左手に槍を持っていましたが、ロダンは武器持たせた腕を解放し、自由な動きを吹き込むことにしました。

  • 「ニュンペーとサテュロス」はウィリアム・アドルフ・ブグローの絵画からインスピレーションを得ているように思います。森の中の泉でニンフたちが水浴びをしている最中にみだらなサテュロスが現れて彼女たちを押し倒そうとしている場面のようです。

    「ニュンペーとサテュロス」はウィリアム・アドルフ・ブグローの絵画からインスピレーションを得ているように思います。森の中の泉でニンフたちが水浴びをしている最中にみだらなサテュロスが現れて彼女たちを押し倒そうとしている場面のようです。

  • この作品は1884年に造られた大理石の作品から鋳造され、オリジナルはブリュッセル近くのイクセル博物館に保管されています。ベルギーでのロダンの滞在中に造られた天使と小さな子供の像はぽっちゃりした2人がお互いを抱きしあっています。

    この作品は1884年に造られた大理石の作品から鋳造され、オリジナルはブリュッセル近くのイクセル博物館に保管されています。ベルギーでのロダンの滞在中に造られた天使と小さな子供の像はぽっちゃりした2人がお互いを抱きしあっています。

  • 「地獄の門」の中にはカミーユとローズとの間に出来た息子(この子のことをロダンは認知せずに世間にも隠していた)の姿があります。1917年にロダンは死期の迫ったローズと遂に結婚の手続きをしますが、ロダン77歳でローズは73歳でした。その16日後にローズは死去し、さらに9ヵ月後にロダンも死去した。ロダンの末期の言葉は「パリに残した、若い方の妻に逢いたい。」だったそうです。こんな母子像をどんな気持ちで製作したのでしょうか。結局「地獄の門」は未完に終わりましたが、ロダンはその門を潜ったのかもしれません。

    「地獄の門」の中にはカミーユとローズとの間に出来た息子(この子のことをロダンは認知せずに世間にも隠していた)の姿があります。1917年にロダンは死期の迫ったローズと遂に結婚の手続きをしますが、ロダン77歳でローズは73歳でした。その16日後にローズは死去し、さらに9ヵ月後にロダンも死去した。ロダンの末期の言葉は「パリに残した、若い方の妻に逢いたい。」だったそうです。こんな母子像をどんな気持ちで製作したのでしょうか。結局「地獄の門」は未完に終わりましたが、ロダンはその門を潜ったのかもしれません。

  • 一見すると中国西域の塑像を思わせるような作品のようですが、女性の微妙な表情とかは見事だと思います。

    一見すると中国西域の塑像を思わせるような作品のようですが、女性の微妙な表情とかは見事だと思います。

  • 「花飾りの帽子の少女」この作品には衝撃を受けました。可憐さと対照的な空虚なまなざしは、黒目の部分が抜かれているせいもありますが、虚ろで儚い想いが伝わってくるような感情を感じました。とっさに思い付いたのは「アレクサンドル3世橋」の貝を耳にあてたニンフ像に似ていることです。

    「花飾りの帽子の少女」この作品には衝撃を受けました。可憐さと対照的な空虚なまなざしは、黒目の部分が抜かれているせいもありますが、虚ろで儚い想いが伝わってくるような感情を感じました。とっさに思い付いたのは「アレクサンドル3世橋」の貝を耳にあてたニンフ像に似ていることです。

  • この作品は長年連れ添いロダンの死の直前に妻となったローズ・ビュレットをモデルにしたロダンの初期の頃の作品です。1865年のロダンが25歳の頃の作品です。ローズと結婚したのはロダンが77歳ですから、50年以上結婚しなかったわけです。

    この作品は長年連れ添いロダンの死の直前に妻となったローズ・ビュレットをモデルにしたロダンの初期の頃の作品です。1865年のロダンが25歳の頃の作品です。ローズと結婚したのはロダンが77歳ですから、50年以上結婚しなかったわけです。

  • 背中の部分が写っていませんが矢筒を背負い、頭には月の髪飾りがあるのでローマ神話に登場すディアーナ」だと分かります。狩猟と貞節と月の女神で、ユーピテルとラトナの娘で、アポロンの双子の妹です。「ヴェルサイユ宮殿」の庭園のラトナの泉の幼子の姿からは乙女らしくなりました。

    背中の部分が写っていませんが矢筒を背負い、頭には月の髪飾りがあるのでローマ神話に登場すディアーナ」だと分かります。狩猟と貞節と月の女神で、ユーピテルとラトナの娘で、アポロンの双子の妹です。「ヴェルサイユ宮殿」の庭園のラトナの泉の幼子の姿からは乙女らしくなりました。

  • 「カテドラル」ロダンは初めて手だけを使って作品を造り上げた芸術家です。<br />ロダン以前の彫刻では全身又は半身や身体の一部だけを使った表現はありませんでした。この作品2つの手が触れ合うとても神秘的な作品ですが、良く見ると触れ合っているのは2つの手の親指と小指なので、2人の右手がないと出来ない形です。

    「カテドラル」ロダンは初めて手だけを使って作品を造り上げた芸術家です。
    ロダン以前の彫刻では全身又は半身や身体の一部だけを使った表現はありませんでした。この作品2つの手が触れ合うとても神秘的な作品ですが、良く見ると触れ合っているのは2つの手の親指と小指なので、2人の右手がないと出来ない形です。

  • 片方の手の方がいくらか大きくて、少し薄くて小さい方の手をいたわるようで、男性が女性に寄り添っているように見えました。ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの描いた「アダムの創造」のアダムと神の指先を思い出しましたが、ロダンはミケランジェロを越えたなと思いました。

    片方の手の方がいくらか大きくて、少し薄くて小さい方の手をいたわるようで、男性が女性に寄り添っているように見えました。ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの描いた「アダムの創造」のアダムと神の指先を思い出しましたが、ロダンはミケランジェロを越えたなと思いました。

  • 元々は古典絵画が好きで彫刻はあまり興味を持ってこなかったのですが、唯一ミケランジェロとドナテッロとベルニーニの彫刻は好きでした。今回の旅でロダンについていろいろと調べて「ロダン美術館」でじっくり作品を鑑賞すると今まで見えなかったものが見え、近代彫刻の流れみたいなものが自分の中でつながった気がしました。

    元々は古典絵画が好きで彫刻はあまり興味を持ってこなかったのですが、唯一ミケランジェロとドナテッロとベルニーニの彫刻は好きでした。今回の旅でロダンについていろいろと調べて「ロダン美術館」でじっくり作品を鑑賞すると今まで見えなかったものが見え、近代彫刻の流れみたいなものが自分の中でつながった気がしました。

  • 「説教する洗礼者ヨハネ」<br />この作品のモデルはイタリア人の農夫で、アトリエを訪ねてきたこの男は強靭な肉体に荒々しい力をみなぎらせ、また素朴で神秘的な雰囲気を漂わせていたそうです。ロダンは彼を見て直感的に洗礼者ヨハネを思い浮かべます。着衣を脱いでモデル台に上がった彼は「面を上げ、上半身をまっすぐに伸ばし、コンパスのように両脚を開いてしっかりと立った」そうです。

    「説教する洗礼者ヨハネ」
    この作品のモデルはイタリア人の農夫で、アトリエを訪ねてきたこの男は強靭な肉体に荒々しい力をみなぎらせ、また素朴で神秘的な雰囲気を漂わせていたそうです。ロダンは彼を見て直感的に洗礼者ヨハネを思い浮かべます。着衣を脱いでモデル台に上がった彼は「面を上げ、上半身をまっすぐに伸ばし、コンパスのように両脚を開いてしっかりと立った」そうです。

  • ロダンはこの決然たるモデルのポーズを目にして「歩み」のテーマを着想します。本作品の制作過程において生まれた「歩く人」は、トルソに両脚だけが付け加えられた立像で、両足を地につけて「コンパスのように」開いた両脚の動きは、それぞれ時間的にずれのある瞬間を示しているそうです。歩いているモデルの動きの一瞬の動作を写真に撮ってみれば、後の足がしっかりと地についている時にはまだ前の足は完全に地についていることはなく逆の場合も同様です。この洗礼者ヨハネも両足をしっかりと地につけて立っています。

    ロダンはこの決然たるモデルのポーズを目にして「歩み」のテーマを着想します。本作品の制作過程において生まれた「歩く人」は、トルソに両脚だけが付け加えられた立像で、両足を地につけて「コンパスのように」開いた両脚の動きは、それぞれ時間的にずれのある瞬間を示しているそうです。歩いているモデルの動きの一瞬の動作を写真に撮ってみれば、後の足がしっかりと地についている時にはまだ前の足は完全に地についていることはなく逆の場合も同様です。この洗礼者ヨハネも両足をしっかりと地につけて立っています。

  • 人が実際に歩く時にこのような状態になることは決して無く、ロダンは「真実を語るのは芸術家であり、偽るのは写真である。何故なら現実に時間が止まることは決してないからだ。」と残しています。

    人が実際に歩く時にこのような状態になることは決して無く、ロダンは「真実を語るのは芸術家であり、偽るのは写真である。何故なら現実に時間が止まることは決してないからだ。」と残しています。

  • ロダンはいくつもの「カテドラル」と名付けた作品を残しています。

    ロダンはいくつもの「カテドラル」と名付けた作品を残しています。

  • 「背筋を反らせた若い女性のトルソ」1910年にルクセンブルグ美術館のためにフランス政府から委託された作品で、弓なりの背中とバストのカーブを強調しています。腰に見えるヒレ状の隆起は元々残っているもので、ロダンは自らの創作の痕跡として残すことに決めたそうです。

    「背筋を反らせた若い女性のトルソ」1910年にルクセンブルグ美術館のためにフランス政府から委託された作品で、弓なりの背中とバストのカーブを強調しています。腰に見えるヒレ状の隆起は元々残っているもので、ロダンは自らの創作の痕跡として残すことに決めたそうです。

  • カミーユ・クローデルの部屋に入ります。ロダンは友人に「美術館にはまだ何も設置されていませんがマドモアゼル・カミーユの彫刻が何点か展示されることになれば…。」と書き残しているそうです。「分別盛り」は分かりやすい非常にインパクトのある作品で、部屋の中央に置かれています。これはカミーユの弟のポール・クローデルから寄贈されたものです。

    カミーユ・クローデルの部屋に入ります。ロダンは友人に「美術館にはまだ何も設置されていませんがマドモアゼル・カミーユの彫刻が何点か展示されることになれば…。」と書き残しているそうです。「分別盛り」は分かりやすい非常にインパクトのある作品で、部屋の中央に置かれています。これはカミーユの弟のポール・クローデルから寄贈されたものです。

  • 最初の鋳造作品は個人の発注者キャプテン・ティシエ(オルセー美術館)のために造られました。1913年に2番目のブロンズがカルヴィハニによって鋳造されたときに原型の石膏像は失われたと考えられています。カミーユは19歳の時に42歳のロダンの弟子となりやがて愛し合うようになります。ロダンは内縁の妻ローズとも別れられずに以後15年間も複雑な三角関係に悩みます。ロダンにとってカミーユは若さと美貌と才能に満ち溢れた刺激的な存在でしたが、カミーユにとってその関係は徐々に苦悩をもたらすものとなっていきます。

    最初の鋳造作品は個人の発注者キャプテン・ティシエ(オルセー美術館)のために造られました。1913年に2番目のブロンズがカルヴィハニによって鋳造されたときに原型の石膏像は失われたと考えられています。カミーユは19歳の時に42歳のロダンの弟子となりやがて愛し合うようになります。ロダンは内縁の妻ローズとも別れられずに以後15年間も複雑な三角関係に悩みます。ロダンにとってカミーユは若さと美貌と才能に満ち溢れた刺激的な存在でしたが、カミーユにとってその関係は徐々に苦悩をもたらすものとなっていきます。

  • カミーユの作品は常に「ロダンの模倣」と評される葛藤と、妊娠・中絶という出来事が追い打ちをかけ、やがて2人の関係は破綻してロダンはローズのもとへ帰っていきます。心を病んだカミーユは40代後半に統合失調症を発症して精神病院に入院して、その後30年間にわたって隔離生活を余儀なくされます。終生故郷に帰ることを願いつつも叶わず、生涯確執が消えなかった母や妹とも疎遠になり、唯一親交を保っていた弟のポールにも看取られることなく、1943年に78歳の生涯を閉じました。

    カミーユの作品は常に「ロダンの模倣」と評される葛藤と、妊娠・中絶という出来事が追い打ちをかけ、やがて2人の関係は破綻してロダンはローズのもとへ帰っていきます。心を病んだカミーユは40代後半に統合失調症を発症して精神病院に入院して、その後30年間にわたって隔離生活を余儀なくされます。終生故郷に帰ることを願いつつも叶わず、生涯確執が消えなかった母や妹とも疎遠になり、唯一親交を保っていた弟のポールにも看取られることなく、1943年に78歳の生涯を閉じました。

  • 死神のように痩せ衰えた老婆がうつむいた老人を中空へ連れ去ろうとしています。宙に浮くような動きからも老婆はこの世の人間ではないような印象を受けます。老婆はローズを意味して、老人はロダンなのだとすぐに感じます。

    死神のように痩せ衰えた老婆がうつむいた老人を中空へ連れ去ろうとしています。宙に浮くような動きからも老婆はこの世の人間ではないような印象を受けます。老婆はローズを意味して、老人はロダンなのだとすぐに感じます。

  • そして追いすがる若い女性はカミーユ自身です。女性の足元から老婆の右肩の先へ引っ張られるような、引力のようなものを感じます。詩人であり外交官として日本にも駐在していた弟のポールは著書「わが姉カミーユ」の中で「あの美しく誇り高い女性がこんなふうに自分を描いている。嘆願し、屈辱を受け、ひざまずき、裸で。すべては終わった。彼女は私たちの前に、こんな姿で永遠にさらされているのだ。」とこの作品について語っています。

    そして追いすがる若い女性はカミーユ自身です。女性の足元から老婆の右肩の先へ引っ張られるような、引力のようなものを感じます。詩人であり外交官として日本にも駐在していた弟のポールは著書「わが姉カミーユ」の中で「あの美しく誇り高い女性がこんなふうに自分を描いている。嘆願し、屈辱を受け、ひざまずき、裸で。すべては終わった。彼女は私たちの前に、こんな姿で永遠にさらされているのだ。」とこの作品について語っています。

  • 人の情念のようなものは消えることも無く、120年近く経ってもその感情がこの「分別盛り」の彫刻に残っていると感じました。それに比べてロダンの頭像には強い愛情を感じます。

    人の情念のようなものは消えることも無く、120年近く経ってもその感情がこの「分別盛り」の彫刻に残っていると感じました。それに比べてロダンの頭像には強い愛情を感じます。

  • こちらもカミーユの「ウェルテュムヌスとポモナ」ヴェルトゥムネはプロテウスのように姿を変えることができるという力を持っていました、そして彼は妻にと選んだニンフのポモナに愛されるようにするためにこの力を使いました。この幸せで不滅のカップルは齢を取っても死ぬことなく定期的に若返ります。これは巡り来る季節を意味しています。<br />

    こちらもカミーユの「ウェルテュムヌスとポモナ」ヴェルトゥムネはプロテウスのように姿を変えることができるという力を持っていました、そして彼は妻にと選んだニンフのポモナに愛されるようにするためにこの力を使いました。この幸せで不滅のカップルは齢を取っても死ぬことなく定期的に若返ります。これは巡り来る季節を意味しています。

  • 題材からもロダンとの関係が良かったころの作品だと感じることが出来ます。また、柔らかさを感じるような白大理石の質感はローマのボルゲーゼ美術館で初めて見たベルニーニの「アポロンとダフネ」や「プロセルピーナの略奪」に感動したことを思い出させました。

    題材からもロダンとの関係が良かったころの作品だと感じることが出来ます。また、柔らかさを感じるような白大理石の質感はローマのボルゲーゼ美術館で初めて見たベルニーニの「アポロンとダフネ」や「プロセルピーナの略奪」に感動したことを思い出させました。

  • カミーユの傑作「ワルツ」これも分別盛りのように左上の中空へ揺らいでいくような、気持ちを不安にさせるような不安定なバランスを感じさせる作品です。カミーユが彫刻家ロダンの弟子であり愛人であったのは有名で、作風からもロダンの影として苦しんでいました。しかしこの作品の制作期間には音楽家のドビュッシーとの親交を深めていきました。

    カミーユの傑作「ワルツ」これも分別盛りのように左上の中空へ揺らいでいくような、気持ちを不安にさせるような不安定なバランスを感じさせる作品です。カミーユが彫刻家ロダンの弟子であり愛人であったのは有名で、作風からもロダンの影として苦しんでいました。しかしこの作品の制作期間には音楽家のドビュッシーとの親交を深めていきました。

  • ロダンとの決別を心に決めたのか、自分の道を模索していたのかもしれません。この作品からはロダンの影が消え、カミーユ自身の表現方法に辿り着いているように思えました。しかしロダンとは別れることが出来ず、破滅の人生へと突き進んでいきました。

    ロダンとの決別を心に決めたのか、自分の道を模索していたのかもしれません。この作品からはロダンの影が消え、カミーユ自身の表現方法に辿り着いているように思えました。しかしロダンとは別れることが出来ず、破滅の人生へと突き進んでいきました。

  • カミーユは子供が欲しかったのでしょうか。ロダンの子供を妊娠して中絶した事実を知ると小さな胸像を見ても胸が苦しくなってきます。

    カミーユは子供が欲しかったのでしょうか。ロダンの子供を妊娠して中絶した事実を知ると小さな胸像を見ても胸が苦しくなってきます。

  • カミーユの作品「波」はオニキス大理石がまるで柔らかい飴細工のように見えます。戯れる女性が魅力的な作品は1897年のサロンでの石膏像で出品された「波」はほぼ完全にカミーユ自身によって造られました。 3人の同じ小さな女性の人物は頭上から押し寄せるオニキスの巨大な波を見て膝を屈めています。<br />

    カミーユの作品「波」はオニキス大理石がまるで柔らかい飴細工のように見えます。戯れる女性が魅力的な作品は1897年のサロンでの石膏像で出品された「波」はほぼ完全にカミーユ自身によって造られました。 3人の同じ小さな女性の人物は頭上から押し寄せるオニキスの巨大な波を見て膝を屈めています。

  • この作品は日本美術の影響を受けていて、北斎の有名な富岳三十六景の「神奈川沖浪裏」を思い浮かべます。「波」は光の輝きを意識したカミーユの後の作品を予感させる装飾的な作品です。<br />

    この作品は日本美術の影響を受けていて、北斎の有名な富岳三十六景の「神奈川沖浪裏」を思い浮かべます。「波」は光の輝きを意識したカミーユの後の作品を予感させる装飾的な作品です。

  • 「おしゃべりな女たち」はゴシップを語り合う女性たちのひそひそ声が聞こえて来そうな女性像も魅力的です。

    「おしゃべりな女たち」はゴシップを語り合う女性たちのひそひそ声が聞こえて来そうな女性像も魅力的です。

  • カミーユの作品「クロト」はギリシャ神話の運命の糸を紡ぐ女神で、その運命の糸を自らの頭部から髪として吐き出しています。その姿は老婆で、その萎びた身体から大量の髪が出ている姿は異様な雰囲気です。この作品を作ったのはロダンとの関係で精神的に混乱した時期だそうで、長い髪に自ら絡むその老婆に自身を投影していたのでしょうか。クロトは「運命の三女神」こと「モイライ」の1柱で、長姉とされます。その名は「紡ぐ者」を意味し、人間に運命を「割り当てる者」がラケシスで、3人目のアトロポスがこの糸を切ることにより、人間の寿命は決まります。

    カミーユの作品「クロト」はギリシャ神話の運命の糸を紡ぐ女神で、その運命の糸を自らの頭部から髪として吐き出しています。その姿は老婆で、その萎びた身体から大量の髪が出ている姿は異様な雰囲気です。この作品を作ったのはロダンとの関係で精神的に混乱した時期だそうで、長い髪に自ら絡むその老婆に自身を投影していたのでしょうか。クロトは「運命の三女神」こと「モイライ」の1柱で、長姉とされます。その名は「紡ぐ者」を意味し、人間に運命を「割り当てる者」がラケシスで、3人目のアトロポスがこの糸を切ることにより、人間の寿命は決まります。

  • 「カミーユ・クローデルのマスクとピエール・ド・ヴィッサンの左手」はオーギュスト・ロダンの作品です。女性の顔はロダンの創作のインスピレーションの源でした。カミーユの顔は縫い目の残された傷跡のように見えます。マスクは髪や胸の影響を受けることなく、顔の特徴に焦点を合わせることができます。大きく見開いた目と空虚な視線は、巨大な手によって強調されます。この手は「カレー市民」のブ1人であるピエール・ド・ヴィッサンのものです。「カテドラル」ではロダンは右手を使用しましたが、ここでは顔と完全に釣り合っていない、より不安定で脅迫的な左手を使用しました。

    「カミーユ・クローデルのマスクとピエール・ド・ヴィッサンの左手」はオーギュスト・ロダンの作品です。女性の顔はロダンの創作のインスピレーションの源でした。カミーユの顔は縫い目の残された傷跡のように見えます。マスクは髪や胸の影響を受けることなく、顔の特徴に焦点を合わせることができます。大きく見開いた目と空虚な視線は、巨大な手によって強調されます。この手は「カレー市民」のブ1人であるピエール・ド・ヴィッサンのものです。「カテドラル」ではロダンは右手を使用しましたが、ここでは顔と完全に釣り合っていない、より不安定で脅迫的な左手を使用しました。

  • ロダンとカミーユの彫刻を見ていて夏目漱石の「夢十夜」の第六夜を思い出しました。運慶の彫りを見ていた若い男とのやり取りで「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」という一節です。<br />

    ロダンとカミーユの彫刻を見ていて夏目漱石の「夢十夜」の第六夜を思い出しました。運慶の彫りを見ていた若い男とのやり取りで「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」という一節です。

  • ロダンにも石の中に眠っているものが見えたのでしょうか?大理石の中に化石のように何千年も何万年も眠っていたようです。

    ロダンにも石の中に眠っているものが見えたのでしょうか?大理石の中に化石のように何千年も何万年も眠っていたようです。

  • ロダンは彫り出していたのでは無く石の中から掘り出していただけでしょうか。そんなことを考えてしまいました。

    ロダンは彫り出していたのでは無く石の中から掘り出していただけでしょうか。そんなことを考えてしまいました。

  • 国立西洋美術館にも収蔵されている「エヴァ」も有名な作品です。「アダム」とともに「地獄の門」の脇に立てる像として1881年頃に制作されましたが、この案は経済的な理由から実現されませんでした。ロダンは、「豹のしなやかさと優美さ」を具えた美しい肉体を持つモデルを使って制作していましたが、彼女が妊娠していたため頭部と両足は未完成のまま中止になります。その後縮小された「エヴァ」の大理石像などが制作されていますが、この等身像は1899年のサロンに出品されるまで発表されませんでした。ロダンはブールデルに石膏原型に基づく石灰石像を彫らせ、この時に頭部と両足を完成させるため新しいモデルを使うことを許したといいます。

    国立西洋美術館にも収蔵されている「エヴァ」も有名な作品です。「アダム」とともに「地獄の門」の脇に立てる像として1881年頃に制作されましたが、この案は経済的な理由から実現されませんでした。ロダンは、「豹のしなやかさと優美さ」を具えた美しい肉体を持つモデルを使って制作していましたが、彼女が妊娠していたため頭部と両足は未完成のまま中止になります。その後縮小された「エヴァ」の大理石像などが制作されていますが、この等身像は1899年のサロンに出品されるまで発表されませんでした。ロダンはブールデルに石膏原型に基づく石灰石像を彫らせ、この時に頭部と両足を完成させるため新しいモデルを使うことを許したといいます。

  • 日本の実業家であった松方幸次郎が美術館設立という明確な目標を定め、近代彫刻の父ロダンの作品収集へ向かいます。1918年に松方はレオンス・ベネディットが館長をつとめるパリの「ロダン美術館」と契約を結び「地獄の門」を含めた最終的には50点を超える彫刻作品を入手して世界有数のロダン・コレクションを築きました。

    日本の実業家であった松方幸次郎が美術館設立という明確な目標を定め、近代彫刻の父ロダンの作品収集へ向かいます。1918年に松方はレオンス・ベネディットが館長をつとめるパリの「ロダン美術館」と契約を結び「地獄の門」を含めた最終的には50点を超える彫刻作品を入手して世界有数のロダン・コレクションを築きました。

  • またベネディットは松方の収集の協力者となり、パリを中心に買い集められた絵画や彫刻約400点からなる松方コレクションは第2次世界大戦まで「ロダン美術館」の旧礼拝堂に保管されることになります。そう考えると今日の国立西洋美術館で見ることのできるロダンの彫刻のすばらしさを改めて感じる事が出来ます。

    またベネディットは松方の収集の協力者となり、パリを中心に買い集められた絵画や彫刻約400点からなる松方コレクションは第2次世界大戦まで「ロダン美術館」の旧礼拝堂に保管されることになります。そう考えると今日の国立西洋美術館で見ることのできるロダンの彫刻のすばらしさを改めて感じる事が出来ます。

  • 「ケンタウロス」ダンテの「神曲」の地獄篇で生前に人を虐げた暴君たちを血の川において懲らしめる獄卒の役目を果たしているのでモチーフになったのでしょうか。「新曲」の中でダンテ一行が最初の円環を形成している沸騰した血の川地獄が見える場所に着がくと、その地獄の刑罰を担当しているのはギリシア神話由来の半人半馬のケンタウロスたちでした。ケンタウロスは狩りに向かう出で立ちで矢をつがえながら川の回りを駆けていました。そしてダンテが崖を降りて来るのを見つけ、その中の3人が弓をかまえて、遠くから怒鳴りつけました。<br />「おまえらは、いかなる刑罰を受けるために崖を降りて来るのだ?そこから名乗れ、さもないと矢を放つぞ。」ウェルギリウスはダンテに向かって返事は近づいてからすれば良いと指示をして、その間に3人のケンタウロスについて説明しました。

    「ケンタウロス」ダンテの「神曲」の地獄篇で生前に人を虐げた暴君たちを血の川において懲らしめる獄卒の役目を果たしているのでモチーフになったのでしょうか。「新曲」の中でダンテ一行が最初の円環を形成している沸騰した血の川地獄が見える場所に着がくと、その地獄の刑罰を担当しているのはギリシア神話由来の半人半馬のケンタウロスたちでした。ケンタウロスは狩りに向かう出で立ちで矢をつがえながら川の回りを駆けていました。そしてダンテが崖を降りて来るのを見つけ、その中の3人が弓をかまえて、遠くから怒鳴りつけました。
    「おまえらは、いかなる刑罰を受けるために崖を降りて来るのだ?そこから名乗れ、さもないと矢を放つぞ。」ウェルギリウスはダンテに向かって返事は近づいてからすれば良いと指示をして、その間に3人のケンタウロスについて説明しました。

  • 「あれがネッソスだ。美女デイアネイラにほれて死んだが、自らその復讐をなしとげた。あの自分の胸を見つめて中央に突っ立っているのが、大将のケイロン、アキレウスの育ての親だった。もう一人はポロス、昔は暴れ者だった。」

    「あれがネッソスだ。美女デイアネイラにほれて死んだが、自らその復讐をなしとげた。あの自分の胸を見つめて中央に突っ立っているのが、大将のケイロン、アキレウスの育ての親だった。もう一人はポロス、昔は暴れ者だった。」

  • ロダンは生涯で数千点とも言われる作品を制作しています。これは並大抵の人間が制作できる数量ではなく、ピカソと並んで怪物とも言えるエネルギーを示しているように思えました。「ロダン美術館」の作品群はロダンのその力量を理解できる美術館です。

    ロダンは生涯で数千点とも言われる作品を制作しています。これは並大抵の人間が制作できる数量ではなく、ピカソと並んで怪物とも言えるエネルギーを示しているように思えました。「ロダン美術館」の作品群はロダンのその力量を理解できる美術館です。

  • ロダンをロダンたらしめている荒々しい作品群の中で滑らかな美しさが現れるとホッとします。

    ロダンをロダンたらしめている荒々しい作品群の中で滑らかな美しさが現れるとホッとします。

  • ロココ様式の邸宅でまどろむように眠る白い大理石の像を見ているとロダンの中にも穏やかな一面があったのだろうかと考えます。

    ロココ様式の邸宅でまどろむように眠る白い大理石の像を見ているとロダンの中にも穏やかな一面があったのだろうかと考えます。

  • 「睡眠」もし家に1つ置くとしたらこんな作品なんだろうなと思います。

    「睡眠」もし家に1つ置くとしたらこんな作品なんだろうなと思います。

  • 洗礼者ヨハネに「あたりまえじゃないか。」と笑われたような気がしました。

    洗礼者ヨハネに「あたりまえじゃないか。」と笑われたような気がしました。

  • 階段の踊り場に置かれた「3つの影」は3人の別々の人物ではなく3人とも「アダム」だそうです。同じ時空に同じ人物が複数存在することは、「地獄の門」が時空を超越していることを現しているそうですが難解です。

    階段の踊り場に置かれた「3つの影」は3人の別々の人物ではなく3人とも「アダム」だそうです。同じ時空に同じ人物が複数存在することは、「地獄の門」が時空を超越していることを現しているそうですが難解です。

  • この美術館のコレクションのために1928年にフォンデリー・アレクシスルディエが制作したキャスト(鋳造)です。<br />ダンテの「神曲」では地獄の入口には呪われた魂が立っており、「ここに入るすべての者は希望を放棄せよ。」と明記しています。ロダンは影についていくつかの研究を行い、最終的に同じポイントを回っているように見える3つの同一の彫像を組み立てることを決定しました。彼はそれらを観客を見下ろすことができるところからゲートの上にそれらを置き、それからそれらを拡大させて1904年に記念碑的な独立したグループを作りました。ねじれた苦しそうなポーズをとったアダムのように、3つの陰が借りてきたように、ミケランジェロの影響力はここで明白です。頭が首から折れる角度は誇張されており、首と肩はほぼ水平な線を形成しています。ロダンが彼の時代に比類のない表現力を達成したのは、このような解剖学的歪みによるものでした。

    この美術館のコレクションのために1928年にフォンデリー・アレクシスルディエが制作したキャスト(鋳造)です。
    ダンテの「神曲」では地獄の入口には呪われた魂が立っており、「ここに入るすべての者は希望を放棄せよ。」と明記しています。ロダンは影についていくつかの研究を行い、最終的に同じポイントを回っているように見える3つの同一の彫像を組み立てることを決定しました。彼はそれらを観客を見下ろすことができるところからゲートの上にそれらを置き、それからそれらを拡大させて1904年に記念碑的な独立したグループを作りました。ねじれた苦しそうなポーズをとったアダムのように、3つの陰が借りてきたように、ミケランジェロの影響力はここで明白です。頭が首から折れる角度は誇張されており、首と肩はほぼ水平な線を形成しています。ロダンが彼の時代に比類のない表現力を達成したのは、このような解剖学的歪みによるものでした。

  • 「ベローナ」男性のようですが女神です。古代ローマの戦いの神ベローナを描いた1879年の作品です。おそらく怒りの感情で彼の内縁の妻のローズ・ビュレットをモデルにした胸像は、最初はクロリンダやヒッポリタなどの戦士のヒロインの名前で登場し、その後マルスの妻であると考えられていたローマの戦争の女神ベローナに変わり、そして最終的にはフランス共和国を擬人化したものになりました。ロダンはフリギアの帽子の代わりに、ルネサンス風の兜を彼女の頭に置きました。

    「ベローナ」男性のようですが女神です。古代ローマの戦いの神ベローナを描いた1879年の作品です。おそらく怒りの感情で彼の内縁の妻のローズ・ビュレットをモデルにした胸像は、最初はクロリンダやヒッポリタなどの戦士のヒロインの名前で登場し、その後マルスの妻であると考えられていたローマの戦争の女神ベローナに変わり、そして最終的にはフランス共和国を擬人化したものになりました。ロダンはフリギアの帽子の代わりに、ルネサンス風の兜を彼女の頭に置きました。

  • 「影」は後ろのタペストリーから抜け出てきたようにも見えますが、「アダム」とつながる作品なのでルーブル美術館のミケランジェロの「奴隷像」の表情に似ています。

    「影」は後ろのタペストリーから抜け出てきたようにも見えますが、「アダム」とつながる作品なのでルーブル美術館のミケランジェロの「奴隷像」の表情に似ています。

  • ブロンズ彫刻の場合は同じ作品がいくつも存在し、それらの作品には版画作品のようにエディションと呼ばれる番号が表記されています。その手法は、まずロダンが粘土などで原型を制作します。次にその原型を元にして石膏などをつかって型取りし、(石膏原型)最後にその石膏原型を元にして鋳造所の職人たちがブロンズを流し込みブロンズ像を制作します。ロダンの作品はその価値が高く、過去に原型などが横流しされたことなどがあったために偽造が多い芸術家としても有名です。

    ブロンズ彫刻の場合は同じ作品がいくつも存在し、それらの作品には版画作品のようにエディションと呼ばれる番号が表記されています。その手法は、まずロダンが粘土などで原型を制作します。次にその原型を元にして石膏などをつかって型取りし、(石膏原型)最後にその石膏原型を元にして鋳造所の職人たちがブロンズを流し込みブロンズ像を制作します。ロダンの作品はその価値が高く、過去に原型などが横流しされたことなどがあったために偽造が多い芸術家としても有名です。

  • 「悲鳴」はなぜか日本的なものを感じ、日本人で最初のロダンの弟子だった萩原守衛のことを思い出しました。竹橋の国立近代美術館でいくつかの作品を見て、同郷だった中村屋の創業者の相馬愛蔵ことを知りました。萩原守衛は中学生のころに感銘を受けて父と北アルプスの登山の後に穂高町の「碌山美術館」へ連れて行ってもらったことがあります。自分の中でバラバラだったものがこの美術館でつながった気がしました。

    「悲鳴」はなぜか日本的なものを感じ、日本人で最初のロダンの弟子だった萩原守衛のことを思い出しました。竹橋の国立近代美術館でいくつかの作品を見て、同郷だった中村屋の創業者の相馬愛蔵ことを知りました。萩原守衛は中学生のころに感銘を受けて父と北アルプスの登山の後に穂高町の「碌山美術館」へ連れて行ってもらったことがあります。自分の中でバラバラだったものがこの美術館でつながった気がしました。

  • 「地獄の門」の第3構想は壁に掛けられるほどの大きさです。1880年にロダンは新しく建設される予定のパリの装飾美術館のために入口の門扉の制作を政府から依頼されます。ダンテの熱烈な愛読者であり「神曲」に取材した群像「ウゴリーノと息子たち」を制作していたロダンは、ためらうことなくこの門扉を「神曲」を表わした低浮彫の連作によって造りあげようと決めます。

    「地獄の門」の第3構想は壁に掛けられるほどの大きさです。1880年にロダンは新しく建設される予定のパリの装飾美術館のために入口の門扉の制作を政府から依頼されます。ダンテの熱烈な愛読者であり「神曲」に取材した群像「ウゴリーノと息子たち」を制作していたロダンは、ためらうことなくこの門扉を「神曲」を表わした低浮彫の連作によって造りあげようと決めます。

  • そして構成の形式をフィレンツェの洗礼堂のギベルティの「天国の門」にならって制作に取り掛かります。最初の構想スケッチでは左右の扉がそれぞれ縦に四つのパネルに区切られ、全体で8面の浮彫によって「地獄篇」の情景が表現され、中央に巨像が置かれる構成でした。しかし想を練るにつれてダンテの神学的秩序は失われ、次第に渾沌たる世界に変わっていきます。ダンテよりもむしろボードレールの「悪の華」に表現された人間自身の「地獄」の世界に踏み入って行ったと言いえます。

    そして構成の形式をフィレンツェの洗礼堂のギベルティの「天国の門」にならって制作に取り掛かります。最初の構想スケッチでは左右の扉がそれぞれ縦に四つのパネルに区切られ、全体で8面の浮彫によって「地獄篇」の情景が表現され、中央に巨像が置かれる構成でした。しかし想を練るにつれてダンテの神学的秩序は失われ、次第に渾沌たる世界に変わっていきます。ダンテよりもむしろボードレールの「悪の華」に表現された人間自身の「地獄」の世界に踏み入って行ったと言いえます。

  • 石膏着彩の「地獄の門」の第3構想は、粘土による立体的な習作の第3段階で、最終的な構想を示していますが、主題内容の変化とともに構成形式も渾沌とした様相に変貌し、ほぼブロンズの完成作の全体が姿を現わしています。ダンテに取材したモチーフは最早「パオロとフランチェスカ」と「ウゴリーノと息子たち」の2つに限られ、門の中央には「詩作にふけるダンテ」に代わり「考える人」が置かれています。

    石膏着彩の「地獄の門」の第3構想は、粘土による立体的な習作の第3段階で、最終的な構想を示していますが、主題内容の変化とともに構成形式も渾沌とした様相に変貌し、ほぼブロンズの完成作の全体が姿を現わしています。ダンテに取材したモチーフは最早「パオロとフランチェスカ」と「ウゴリーノと息子たち」の2つに限られ、門の中央には「詩作にふけるダンテ」に代わり「考える人」が置かれています。

  • 個人的には諸星大二郎の「生命の木」という作品を思い出しました。東北地方の山中にある隠れキリシタンの創世記の話の最後のシーンで「おらと いっしょに、ぱらいそさ、いくだ!」と呼びかけてみんなで天国(ぱらいそ)へ昇って行く場面です。そして重太(ユダ)だけ「じゅすさま!(イエスさま)」と叫ぶが1人だけ地上に残されます。

    個人的には諸星大二郎の「生命の木」という作品を思い出しました。東北地方の山中にある隠れキリシタンの創世記の話の最後のシーンで「おらと いっしょに、ぱらいそさ、いくだ!」と呼びかけてみんなで天国(ぱらいそ)へ昇って行く場面です。そして重太(ユダ)だけ「じゅすさま!(イエスさま)」と叫ぶが1人だけ地上に残されます。

  • 「石を背負うカリアティード」のカリアティードはアテネのアクロポリスの丘に立つエレクテイオンの梁を支える6人の女性像と同じものです。古代のカリュアイ(クルミの木の意)はスパルタに隣接する6つの村の1つで、スパルタ王メネラーオスの妻ヘレネーの故郷とされます。カリュアイの娘たちは特に美しくて背が高くて強く、しかも強い子を産むとされます。

    「石を背負うカリアティード」のカリアティードはアテネのアクロポリスの丘に立つエレクテイオンの梁を支える6人の女性像と同じものです。古代のカリュアイ(クルミの木の意)はスパルタに隣接する6つの村の1つで、スパルタ王メネラーオスの妻ヘレネーの故郷とされます。カリュアイの娘たちは特に美しくて背が高くて強く、しかも強い子を産むとされます。

  • 「フギット・アモール」はラテン語で「逃れ去る愛」を意味します。決して正面から向かい合うことのない1対の男女の主題は、ダンテの「神曲・地獄篇」に謳われた、不貞の罪で地獄に落とされた「パオロとフランチェスカ」に密接に関連しています。「地獄の門」の右扉には、男女の上下の関係を逆にした「フギット・アモール」が中央と右下の2か所に見て取れます。

    「フギット・アモール」はラテン語で「逃れ去る愛」を意味します。決して正面から向かい合うことのない1対の男女の主題は、ダンテの「神曲・地獄篇」に謳われた、不貞の罪で地獄に落とされた「パオロとフランチェスカ」に密接に関連しています。「地獄の門」の右扉には、男女の上下の関係を逆にした「フギット・アモール」が中央と右下の2か所に見て取れます。

  • この作品は1887年にジョルジュ・プティ画廊で展示されたのを最初に、大きさや材質、そして台座の異なる多数の作例が制作されています。静岡県立美術館収蔵の「フギット・アモール」は1900年のパリ万国博覧会に合わせてアルマ広場で開催されたロダンの大回顧展に出品された歴史的な作品です。

    この作品は1887年にジョルジュ・プティ画廊で展示されたのを最初に、大きさや材質、そして台座の異なる多数の作例が制作されています。静岡県立美術館収蔵の「フギット・アモール」は1900年のパリ万国博覧会に合わせてアルマ広場で開催されたロダンの大回顧展に出品された歴史的な作品です。

  • エミール・アントワーヌ・ブールデルの制作したロダンの像です。「無駄な優しさ」を制作している途中のようで、手には巨大な鑿を持ち、足元には大きな金槌も見えます。ブールデルは23歳のときにパリに出て国立美術学校で学ぶようになります。国立美術学校での教育はブールデルを完全に満足させるものでは無く、 彼は美術学校を中退して苦しい生活のなかでサロンへの出品を続けました。 そんな時にロダンと出会いますが、ロダンは彼の才能をみとめ高く評価しました。

    エミール・アントワーヌ・ブールデルの制作したロダンの像です。「無駄な優しさ」を制作している途中のようで、手には巨大な鑿を持ち、足元には大きな金槌も見えます。ブールデルは23歳のときにパリに出て国立美術学校で学ぶようになります。国立美術学校での教育はブールデルを完全に満足させるものでは無く、 彼は美術学校を中退して苦しい生活のなかでサロンへの出品を続けました。 そんな時にロダンと出会いますが、ロダンは彼の才能をみとめ高く評価しました。

  • ブールデルは32歳のときから15年間ロダンの助手をつとめました。 彼はロダンに教えをうけるだけでなく、ロダンの作品にも影響をあたえたといわれています。そして彼は師の影響をこえて、自分の芸術を発展させました。ブールデルの作品で有名な「弓を引くヘラクレス」は上野の国立西洋美術館のロダンの「地獄の門」の近くに据えられていますし、「ベートーヴェン像」は倉敷の大原美術館に収蔵されています。

    ブールデルは32歳のときから15年間ロダンの助手をつとめました。 彼はロダンに教えをうけるだけでなく、ロダンの作品にも影響をあたえたといわれています。そして彼は師の影響をこえて、自分の芸術を発展させました。ブールデルの作品で有名な「弓を引くヘラクレス」は上野の国立西洋美術館のロダンの「地獄の門」の近くに据えられていますし、「ベートーヴェン像」は倉敷の大原美術館に収蔵されています。

  • 「考える人」あまりにも有名な作品です。上野の国立西洋美術館の屋外で見るのとパリの空気を感じながらパリの日差しで見るのとでは気分も違います。

    「考える人」あまりにも有名な作品です。上野の国立西洋美術館の屋外で見るのとパリの空気を感じながらパリの日差しで見るのとでは気分も違います。

  • この像は当初はLe Poete詩人と名づけられていたもので「考える人」の名称はロダンの没後にこの作品を鋳造した鋳造職人のリュディエであるといわれます。ロダンは装飾美術博物館の門をダンテの「神曲」に着想を得て制作し、それを「地獄の門」と名づけましたが、この「考える人」はその門の頂上に置かれ、地獄の門の上で熟考するダンテを表そうとしたものであるという説やロダン本人を表している説などがあります。

    この像は当初はLe Poete詩人と名づけられていたもので「考える人」の名称はロダンの没後にこの作品を鋳造した鋳造職人のリュディエであるといわれます。ロダンは装飾美術博物館の門をダンテの「神曲」に着想を得て制作し、それを「地獄の門」と名づけましたが、この「考える人」はその門の頂上に置かれ、地獄の門の上で熟考するダンテを表そうとしたものであるという説やロダン本人を表している説などがあります。

  • その横で「疲れて休む女」。妻と別々に見学していたのですが、かなり待たせてしまいました。

    その横で「疲れて休む女」。妻と別々に見学していたのですが、かなり待たせてしまいました。

  • 「考える人」の肉体表現とその姿勢には「アダム」と同様にミケランジェロの影響が感じられます。更に直接的な影響を及ぼした作品はジャン・バティスト・カルポーの「ウゴリーノ」であると言われます。右肘を左の腿に置いた姿勢は、驚くほどよく似ていますが、このカルポーの彫刻がミケランジェロの影響を受けてローマで制作されています。

    「考える人」の肉体表現とその姿勢には「アダム」と同様にミケランジェロの影響が感じられます。更に直接的な影響を及ぼした作品はジャン・バティスト・カルポーの「ウゴリーノ」であると言われます。右肘を左の腿に置いた姿勢は、驚くほどよく似ていますが、このカルポーの彫刻がミケランジェロの影響を受けてローマで制作されています。

  • ヴィクトル・ユゴーのモニュメントですが、詳しいことは分かりませんでした。子供の頃に読んだ「ああ、無情」と「レ・ミゼラブル」が同じ作品と知ったのは小学3年生くらいだったでしょうか。ヴィクトル・ユゴーの思索している頭の中が現実のものとして幻覚にも似たような姿になっているように思えました。

    ヴィクトル・ユゴーのモニュメントですが、詳しいことは分かりませんでした。子供の頃に読んだ「ああ、無情」と「レ・ミゼラブル」が同じ作品と知ったのは小学3年生くらいだったでしょうか。ヴィクトル・ユゴーの思索している頭の中が現実のものとして幻覚にも似たような姿になっているように思えました。

  • 革新的な作風でデビューしたロダンも1880年代に入ると「地獄の門」の制作に着手するなど一定の注文を請け負えるほどに評価が高まっていました。政治家のアントナン・プルーストや評論家のロジェ・マルクス、彫刻家のジュール・ダルーなど多くの名士がロダンに肖像彫刻の制作を依頼しました。ジャーナリストのエドモン・バジールはロダンがその名声を確固たるものとするために著名な人物の胸像を製作することを提案し、そして制作されたのがヴィクトル・ユゴーの肖像彫刻です。

    革新的な作風でデビューしたロダンも1880年代に入ると「地獄の門」の制作に着手するなど一定の注文を請け負えるほどに評価が高まっていました。政治家のアントナン・プルーストや評論家のロジェ・マルクス、彫刻家のジュール・ダルーなど多くの名士がロダンに肖像彫刻の制作を依頼しました。ジャーナリストのエドモン・バジールはロダンがその名声を確固たるものとするために著名な人物の胸像を製作することを提案し、そして制作されたのがヴィクトル・ユゴーの肖像彫刻です。

  • すでに80代に近づいていたヴィクトル・ユゴーはロダンのためにポーズをとることを拒否したため、ロダンはユゴーの自宅に入り浸り、日常生活に密着してスケッチを繰り返して胸像を完成させています。1885年にユゴーが死去すると埋葬されたパンテオンに設置するための記念像の注文がロダンに発注されましたが、彼はこの胸像を元に裸で座った全身像を製作したために依頼主から拒絶されてしまいます。後にロダンはリュククサンブール公園に設置するための記念像を手がけて、こちらは1909年に完成しましたが、それがこの像かは分かりません。まさにあぁ、無情です。

    すでに80代に近づいていたヴィクトル・ユゴーはロダンのためにポーズをとることを拒否したため、ロダンはユゴーの自宅に入り浸り、日常生活に密着してスケッチを繰り返して胸像を完成させています。1885年にユゴーが死去すると埋葬されたパンテオンに設置するための記念像の注文がロダンに発注されましたが、彼はこの胸像を元に裸で座った全身像を製作したために依頼主から拒絶されてしまいます。後にロダンはリュククサンブール公園に設置するための記念像を手がけて、こちらは1909年に完成しましたが、それがこの像かは分かりません。まさにあぁ、無情です。

  • 「バルザックの頭像」はバルザックの真の姿を作るという考えを捨て、ロダンは作家の創造力を表現することにしました。彼は主な顔の特徴的な口や鼻、眉のアーチや厚い髪の塊に焦点を当て、その部分を強調してコントラストの強力な効果を生み出しました。ロダンはバルザックの主要な作品のために行われた試作でサイズと素材が異なる作品を制作することを楽しみました。協力を仰いだ陶芸家のポール・ジャンニーは同じ陶芸家のジャン・カリエスと同様に日本の陶器に情熱を傾けていました。その質感と色彩効果はここで再現することに成功しました。

    「バルザックの頭像」はバルザックの真の姿を作るという考えを捨て、ロダンは作家の創造力を表現することにしました。彼は主な顔の特徴的な口や鼻、眉のアーチや厚い髪の塊に焦点を当て、その部分を強調してコントラストの強力な効果を生み出しました。ロダンはバルザックの主要な作品のために行われた試作でサイズと素材が異なる作品を制作することを楽しみました。協力を仰いだ陶芸家のポール・ジャンニーは同じ陶芸家のジャン・カリエスと同様に日本の陶器に情熱を傾けていました。その質感と色彩効果はここで再現することに成功しました。

  • ジャン・カリエスは今回の旅で初めて出会った陶芸家で、「プティ・パレ」で作品を見たときは衝撃的でした。作風のすばらしさと薩摩焼に傾注した釉薬などの質感に感動しました。確かにバルザックの陶器で出来た茶色い頭像はその雰囲気を感じました。

    ジャン・カリエスは今回の旅で初めて出会った陶芸家で、「プティ・パレ」で作品を見たときは衝撃的でした。作風のすばらしさと薩摩焼に傾注した釉薬などの質感に感動しました。確かにバルザックの陶器で出来た茶色い頭像はその雰囲気を感じました。

  • 「バルザックの胸像」バルザックを題材にした作品はこの部屋に幾つもありました。 ロダンは文芸家協会から依頼された「バルザック」像の制作にあたって、残された資料や写真などをもとにバルザックの真実の姿に迫ろうとしました。そして身体の特徴を探るためにバルザックの生まれ故郷トゥールに出かけて、仕立屋に作家の体格にあった同じ寸法の服を作らせました。

    「バルザックの胸像」バルザックを題材にした作品はこの部屋に幾つもありました。 ロダンは文芸家協会から依頼された「バルザック」像の制作にあたって、残された資料や写真などをもとにバルザックの真実の姿に迫ろうとしました。そして身体の特徴を探るためにバルザックの生まれ故郷トゥールに出かけて、仕立屋に作家の体格にあった同じ寸法の服を作らせました。

  • 1898年のサロンにガウンをまとった石膏像を発表しますが、これが雪だるまや溶岩や異教神などと言われ、「フランスが誇る偉大な作家を侮辱した。」と協会から作品の引き取りを拒否されます。ロダンは石膏像を引き取り、終生外に出さなかったそうです。

    1898年のサロンにガウンをまとった石膏像を発表しますが、これが雪だるまや溶岩や異教神などと言われ、「フランスが誇る偉大な作家を侮辱した。」と協会から作品の引き取りを拒否されます。ロダンは石膏像を引き取り、終生外に出さなかったそうです。

  • これが一番有名な「バルザック像」でしょう。パリ最初の夜明けにラスパイユ大通りのカフェ・ラ・ロトンダの前で暗闇に浮かび上がった姿はこのバルザックでした。

    これが一番有名な「バルザック像」でしょう。パリ最初の夜明けにラスパイユ大通りのカフェ・ラ・ロトンダの前で暗闇に浮かび上がった姿はこのバルザックでした。

  • このブロンズ像はラスパイユ大通りに立つ像の習作で、これが初めて公開されたとき、「ジャガイモの袋をかぶせた」ようだと嘲笑され、協会から引き取りを拒絶されたロダンの失望と憤りは大きかったようです。

    このブロンズ像はラスパイユ大通りに立つ像の習作で、これが初めて公開されたとき、「ジャガイモの袋をかぶせた」ようだと嘲笑され、協会から引き取りを拒絶されたロダンの失望と憤りは大きかったようです。

  • 「どうしてあの部屋着がいけないのか?これは深夜に心のうちの幻影を追いかけながら自分の部屋を行きつ戻りつする文豪の着ていたものではないというのか?」と憤慨します。礼服に身を固めて讃美者の前に現われるようなこれまでの記念像とはあまりに異なったロダンの着想は生前にはついに理解されませんでした。

    「どうしてあの部屋着がいけないのか?これは深夜に心のうちの幻影を追いかけながら自分の部屋を行きつ戻りつする文豪の着ていたものではないというのか?」と憤慨します。礼服に身を固めて讃美者の前に現われるようなこれまでの記念像とはあまりに異なったロダンの着想は生前にはついに理解されませんでした。

  • レオナルド・ダ・ヴィンチは人体解剖を行って、骨格や筋肉まで調べて絵画に応用しましたが、ロダンはバルザックを裸にする必要はあったのでしょうか?

    レオナルド・ダ・ヴィンチは人体解剖を行って、骨格や筋肉まで調べて絵画に応用しましたが、ロダンはバルザックを裸にする必要はあったのでしょうか?

  • ロダンは1889年にフランスのナンシー市から「クロード・ロランのモニュメント」の依頼を受けました。クロード・ロランは17世紀にイタリアで活躍したフランス人の風景画家で、後のイギリス人画家ターナーを始め多くの風景画家に影響を与えた画家です。ロダンは太陽の光と深く関わった画家クロード・ロランを想い、ナンシーの公園に4メートル近い台座を造り、その上にロラン像を置きました。彼の視線の先には日の出の方向を向いているそうです。

    ロダンは1889年にフランスのナンシー市から「クロード・ロランのモニュメント」の依頼を受けました。クロード・ロランは17世紀にイタリアで活躍したフランス人の風景画家で、後のイギリス人画家ターナーを始め多くの風景画家に影響を与えた画家です。ロダンは太陽の光と深く関わった画家クロード・ロランを想い、ナンシーの公園に4メートル近い台座を造り、その上にロラン像を置きました。彼の視線の先には日の出の方向を向いているそうです。

  • 太陽の画家”を象徴して台座には太陽の車を御するアポロンと跳躍する天馬を浮き彫りにしてます。これはロダンの唯一の馬像でもあるそうですが、個人的にはティム・バートン監督の「スリーピー・ホロウ」の首なし騎士を思い出してしまいました。

    太陽の画家”を象徴して台座には太陽の車を御するアポロンと跳躍する天馬を浮き彫りにしてます。これはロダンの唯一の馬像でもあるそうですが、個人的にはティム・バートン監督の「スリーピー・ホロウ」の首なし騎士を思い出してしまいました。

  • この俑ア作家や画家の内面を具現化したロダンの彫刻を見たのは初めてだったので興味深い時間が過ごせました。時間がかかってしまうので妻に怒られないかドキドキしましたが。

    この俑ア作家や画家の内面を具現化したロダンの彫刻を見たのは初めてだったので興味深い時間が過ごせました。時間がかかってしまうので妻に怒られないかドキドキしましたが。

  • 「皿の中の洗礼者ヨハネの斬首された頭部」は小さい作品ですが、非常にリアルでした。今まで絵画の中でのヨハネの首を見る事はありましたが、彫刻では初めてでした。思わず右側からその断面が見たくなってしまいました。

    「皿の中の洗礼者ヨハネの斬首された頭部」は小さい作品ですが、非常にリアルでした。今まで絵画の中でのヨハネの首を見る事はありましたが、彫刻では初めてでした。思わず右側からその断面が見たくなってしまいました。

  • 窓からは小雨降る秋のパリの景色が楽しめます。

    窓からは小雨降る秋のパリの景色が楽しめます。

  • 「ユスターシュ・ド・サン・ピエール」は「カレーの市民」の6体の中で、ロダンが熱意を込めて試作を数多く造っています。それは記念碑設立委員会がサン・ピエールの像だけをロダンに依頼していたからです。またサン・ピエールは市の長老で、イギリス王の人質になるとき真っ先に名乗りをあげた英雄的人物だったからでもあります。目は潤んでいて非常な悲しみに満ちていますが、長老としての責任感ある厳しい表情に造られています。<br />

    「ユスターシュ・ド・サン・ピエール」は「カレーの市民」の6体の中で、ロダンが熱意を込めて試作を数多く造っています。それは記念碑設立委員会がサン・ピエールの像だけをロダンに依頼していたからです。またサン・ピエールは市の長老で、イギリス王の人質になるとき真っ先に名乗りをあげた英雄的人物だったからでもあります。目は潤んでいて非常な悲しみに満ちていますが、長老としての責任感ある厳しい表情に造られています。

  • 身体の方は前かがみになって、まさに左足で重い一歩を踏もうとしています。丸まった背中をかばい血管の筋の見える老いた手、波立つあごひげなどが見事に表現されています。

    身体の方は前かがみになって、まさに左足で重い一歩を踏もうとしています。丸まった背中をかばい血管の筋の見える老いた手、波立つあごひげなどが見事に表現されています。

  • 「イカロスの妹、幻想」イカロスに妹がいたのかは知りませんでした。ギリシャ神話ではダイダロスとイカロスの親子はクレタ島のミノス王に幽閉されてしまい、親子は蝋で鳥の羽根を固めた翼で空を飛んで脱出しました。イカロスは父の警告を忘れ高く飛びすぎて太陽の熱で蝋を溶かされ墜落して死んでしまいます。

    「イカロスの妹、幻想」イカロスに妹がいたのかは知りませんでした。ギリシャ神話ではダイダロスとイカロスの親子はクレタ島のミノス王に幽閉されてしまい、親子は蝋で鳥の羽根を固めた翼で空を飛んで脱出しました。イカロスは父の警告を忘れ高く飛びすぎて太陽の熱で蝋を溶かされ墜落して死んでしまいます。

  • 「座る女」はミシュランジェロの彫刻に対するロダンの美的分析を反映しています。足を開いた状態の像はこの時期のロダンのいくつかの作品で表現された生のエロティシズムを表しています。「ナイアド」や「接吻」などの作品に見られるエロティシズムではなく、暗くて邪魔なセクシュアリティはしばしば猥褻と見なされています。この人物の愛称は「カエル」またはロダンの同時代の人から「バトラキアン」と呼ばれています。

    「座る女」はミシュランジェロの彫刻に対するロダンの美的分析を反映しています。足を開いた状態の像はこの時期のロダンのいくつかの作品で表現された生のエロティシズムを表しています。「ナイアド」や「接吻」などの作品に見られるエロティシズムではなく、暗くて邪魔なセクシュアリティはしばしば猥褻と見なされています。この人物の愛称は「カエル」またはロダンの同時代の人から「バトラキアン」と呼ばれています。

  • 「殉教者」1917年にフォンデリー・アレクシスルディエがロダンの望みどおりに美術館コレクションのために制作したキャスト(鋳造)です。当初は「地獄の門」の一部でしたが、その後に独立した作品となりました。ロダンがインスピレーションを得たのはおそらくステファノ・マデルノの有名なローマのトラステヴェレの「聖セシリアの殉教」ですが、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」とも比較できます。

    「殉教者」1917年にフォンデリー・アレクシスルディエがロダンの望みどおりに美術館コレクションのために制作したキャスト(鋳造)です。当初は「地獄の門」の一部でしたが、その後に独立した作品となりました。ロダンがインスピレーションを得たのはおそらくステファノ・マデルノの有名なローマのトラステヴェレの「聖セシリアの殉教」ですが、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの「福者ルドヴィカ・アルベルトーニ」とも比較できます。

  • この作品の女性たちはそれぞれ「水浴するヴィーナス」など単独の彫刻としても作品が残っています。

    この作品の女性たちはそれぞれ「水浴するヴィーナス」など単独の彫刻としても作品が残っています。

  • 壁に掛かっているのは「無駄な優しさ」で、テーブルに置かれたのは「横たわる疲れた女性」です。

    壁に掛かっているのは「無駄な優しさ」で、テーブルに置かれたのは「横たわる疲れた女性」です。

  • 「ロダンの肖像」ジャック・エミール・ブランシュの作品です。ブランシュは独学で絵を習得して肖像画家として成功し、しばしばロンドンを訪れて文学者のオーブリー・ビアズリーやオスカー・ワイルドの肖像を描いています。パリでは画家のエドガー・ドガや文学者のマルセル・プルーストらの肖像を描き、1880年代には肖像画家としてヨーロッパの上流階級で有名だったそうです。

    「ロダンの肖像」ジャック・エミール・ブランシュの作品です。ブランシュは独学で絵を習得して肖像画家として成功し、しばしばロンドンを訪れて文学者のオーブリー・ビアズリーやオスカー・ワイルドの肖像を描いています。パリでは画家のエドガー・ドガや文学者のマルセル・プルーストらの肖像を描き、1880年代には肖像画家としてヨーロッパの上流階級で有名だったそうです。

  • ゴッホの「タンギー爺さん」最初はこの美術館に来る理由の一つでした。モデルとなったジュリアン・フランソワ・タンギーは、パリで画材屋兼画商を営んでいて、店には印象派や後期印象派の無名画家が出入りしていたそうです。ゴッホも自分の絵画で画材の代金の支払いをしていたそうで、画材店ではゴッホの死後も絵を展示していたそうです。

    ゴッホの「タンギー爺さん」最初はこの美術館に来る理由の一つでした。モデルとなったジュリアン・フランソワ・タンギーは、パリで画材屋兼画商を営んでいて、店には印象派や後期印象派の無名画家が出入りしていたそうです。ゴッホも自分の絵画で画材の代金の支払いをしていたそうで、画材店ではゴッホの死後も絵を展示していたそうです。

  • 背景には浮世絵が描かれており、ジャポニスムが最も良く表れた作品で、浮世絵は文京区千駄木にある店「いせ辰」の版画が基になっています。1887年夏頃に描かれたとされる作品はオーギュスト・ロダンのコレクションとなりこの美術館の所蔵となっています。

    背景には浮世絵が描かれており、ジャポニスムが最も良く表れた作品で、浮世絵は文京区千駄木にある店「いせ辰」の版画が基になっています。1887年夏頃に描かれたとされる作品はオーギュスト・ロダンのコレクションとなりこの美術館の所蔵となっています。

  • ほぼ同構図の絵が2点存在してスタブロス・ニアルコスのコレクションの浮世絵はまた全く違ったものが描かれています。富士山の絵はこれと特定はされていないようです。

    ほぼ同構図の絵が2点存在してスタブロス・ニアルコスのコレクションの浮世絵はまた全く違ったものが描かれています。富士山の絵はこれと特定はされていないようです。

  • これは歌川国貞(三代目歌川豊国)の 「三世岩井粂三郎の三浦屋高尾」という作品です。

    これは歌川国貞(三代目歌川豊国)の 「三世岩井粂三郎の三浦屋高尾」という作品です。

  • 三浦屋高尾とは三浦屋に伝わる高尾太夫のことで、吉原の太夫で一番といわれる花魁だったそうです。この高尾は三浦屋の遊女たちに代々襲名されたものですが、版画である浮世絵を油絵で描く発想とは。

    三浦屋高尾とは三浦屋に伝わる高尾太夫のことで、吉原の太夫で一番といわれる花魁だったそうです。この高尾は三浦屋の遊女たちに代々襲名されたものですが、版画である浮世絵を油絵で描く発想とは。

  • ゴッホは400枚もの浮世絵をコレクションしており、その3分の1以上を占めるのが三代豊国だったそうです。三代目は初代に比べて値段が安かったこともあるのでしょう。

    ゴッホは400枚もの浮世絵をコレクションしており、その3分の1以上を占めるのが三代豊国だったそうです。三代目は初代に比べて値段が安かったこともあるのでしょう。

  • 渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」元々は雑誌の表紙になっていた逆版の物をゴッホは描いたらしいので、だいぶデフォルメされています。

    渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」元々は雑誌の表紙になっていた逆版の物をゴッホは描いたらしいので、だいぶデフォルメされています。

  • 歌川広重の「五十三次名所図会 四十五 石薬師 義経さくら範頼の祠」ゴッホが描くと不思議な魅力と艶やかさが感じられます。

    歌川広重の「五十三次名所図会 四十五 石薬師 義経さくら範頼の祠」ゴッホが描くと不思議な魅力と艶やかさが感じられます。

  • この浮世絵の残りの一点は未だ特定されていないそうです。無名の浮世絵師によるものや広重の「江都名所 吉原日本堤」もしくは英泉の「江戸八景 吉原夜の雨」などにゴッホが雪を描き加えた等、諸説あるそうです。天水桶を乗せた長屋が描かれていることから、いずれにせよ場所は吉原と推測されています。

    この浮世絵の残りの一点は未だ特定されていないそうです。無名の浮世絵師によるものや広重の「江都名所 吉原日本堤」もしくは英泉の「江戸八景 吉原夜の雨」などにゴッホが雪を描き加えた等、諸説あるそうです。天水桶を乗せた長屋が描かれていることから、いずれにせよ場所は吉原と推測されています。

  • ゴッホに向けられたタンギー爺さんの眼差しは今でもロダンの彫刻に向けられています。

    ゴッホに向けられたタンギー爺さんの眼差しは今でもロダンの彫刻に向けられています。

  • 「墓から出てくる手」の指と指の間は最後に切り落とすのですね。これは製作中に折れない工夫なのでしょう。これだけの太さでも必要なのですからローマのボルゲーゼ美術館のベルニーニの「アポロとダフネ」のオリーブの葉に変化する指先などどうやって彫ったのか頭の中が謎が深まっていきます。

    「墓から出てくる手」の指と指の間は最後に切り落とすのですね。これは製作中に折れない工夫なのでしょう。これだけの太さでも必要なのですからローマのボルゲーゼ美術館のベルニーニの「アポロとダフネ」のオリーブの葉に変化する指先などどうやって彫ったのか頭の中が謎が深まっていきます。

  • 「妖精アリエル」テンペストに出てくる空気の妖精アリエルは、「真夏の夜の夢」にでてくる妖精パックとよく似ていて、実際シェイクスピアが妖精として登場させるのはこの2人だけです。シェイクスピアの時代では妖精には2面的な要素があり、1つは天使の仲間としての妖精で、これはプラスのイメージに包まれています。もう1つは悪魔の仲間としての妖精で、これはマイナスのイメージを持っています。「テンペスト」とは「嵐」の意であり、ミラノ大公アントニオらを乗せた船が大嵐に遭い、難破船を襲った嵐はプロスペローが復讐のため手下の妖精エアリエルに命じて用いた魔法の力によるものでした。

    「妖精アリエル」テンペストに出てくる空気の妖精アリエルは、「真夏の夜の夢」にでてくる妖精パックとよく似ていて、実際シェイクスピアが妖精として登場させるのはこの2人だけです。シェイクスピアの時代では妖精には2面的な要素があり、1つは天使の仲間としての妖精で、これはプラスのイメージに包まれています。もう1つは悪魔の仲間としての妖精で、これはマイナスのイメージを持っています。「テンペスト」とは「嵐」の意であり、ミラノ大公アントニオらを乗せた船が大嵐に遭い、難破船を襲った嵐はプロスペローが復讐のため手下の妖精エアリエルに命じて用いた魔法の力によるものでした。

  • 「ラストヴィジョン」モーリス・ロリナトの死後に批評家で美術史家のアーマンド・ダヨットは、この詩人の胸像をロダンに作るよう依頼しました。ロダンは生きているモデルなしで製作することを拒否しましたが、ロダンは「彼の驚異的な才能がインスピレーションを与えた救済のために」制作を始めました。その結果亡くなった作家のイメージを捨てて、ロダンの作品の既存の彫刻要素から派生した象徴的な作品となりました。

    「ラストヴィジョン」モーリス・ロリナトの死後に批評家で美術史家のアーマンド・ダヨットは、この詩人の胸像をロダンに作るよう依頼しました。ロダンは生きているモデルなしで製作することを拒否しましたが、ロダンは「彼の驚異的な才能がインスピレーションを与えた救済のために」制作を始めました。その結果亡くなった作家のイメージを捨てて、ロダンの作品の既存の彫刻要素から派生した象徴的な作品となりました。

  • 「労働の塔」<br />19世紀は労働者を鼓舞させることは重要だと考えられ、労働者階級の台頭も見られました。アルダン・ダヨットとデスボアから1900年の万博のプロジェクトを依頼されたロダンは熱意をもってそれに応えました。彼らのプロジェクトのアイデアをロダンに訴え、彼は勤勉と労働の概念を理解しました。螺旋階段の塔のように設計されたこの記念碑はブロワ城やシャンボール城、ピサの斜塔やローマのトラヤヌスの記念柱を連想させます。地下室のある台座もローマの記念碑を連想させます。それは特に地下で働く鉱山労働者を代表することになる一方、詩人や哲学者や芸術家の行いは螺旋を上昇することとして表されます。最上段の彫像は後に独立したグ作品に変化し、仕事は「愛と喜び」で行われることに変わります。1906年にクーリエで発生した鉱山事故のモニュメントは130メートルの高さで、入り口に地獄の門が計画されましたが実現することはありませんでした。

    「労働の塔」
    19世紀は労働者を鼓舞させることは重要だと考えられ、労働者階級の台頭も見られました。アルダン・ダヨットとデスボアから1900年の万博のプロジェクトを依頼されたロダンは熱意をもってそれに応えました。彼らのプロジェクトのアイデアをロダンに訴え、彼は勤勉と労働の概念を理解しました。螺旋階段の塔のように設計されたこの記念碑はブロワ城やシャンボール城、ピサの斜塔やローマのトラヤヌスの記念柱を連想させます。地下室のある台座もローマの記念碑を連想させます。それは特に地下で働く鉱山労働者を代表することになる一方、詩人や哲学者や芸術家の行いは螺旋を上昇することとして表されます。最上段の彫像は後に独立したグ作品に変化し、仕事は「愛と喜び」で行われることに変わります。1906年にクーリエで発生した鉱山事故のモニュメントは130メートルの高さで、入り口に地獄の門が計画されましたが実現することはありませんでした。

  • ロワール渓谷のブロワで見たブロワ城の螺旋階段や、レオナルド・ダ・ヴィンチがフランソワ1世の依頼で設計したシャンボール城の2重螺旋の階段を見て来たばかりなので心に残りました。もちろんピサの斜塔にも行っていますし、ローマのトラヤヌスの記念柱は、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館のキャストコートの2分割したものも見ています。

    ロワール渓谷のブロワで見たブロワ城の螺旋階段や、レオナルド・ダ・ヴィンチがフランソワ1世の依頼で設計したシャンボール城の2重螺旋の階段を見て来たばかりなので心に残りました。もちろんピサの斜塔にも行っていますし、ローマのトラヤヌスの記念柱は、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館のキャストコートの2分割したものも見ています。

  • 「祝福」は2人の天使の翼がまるで手に変わってゆく瞬間のように見えました。左右の手を使う「手影絵」の鳩を連想させました。

    「祝福」は2人の天使の翼がまるで手に変わってゆく瞬間のように見えました。左右の手を使う「手影絵」の鳩を連想させました。

  • 「花子」花子は本名を「太田ひさ」といい、1900年代に当時の流行に乗ってヨーロッパに渡った舞台女優で、1906年にマルセイユで開催された展覧会でロダンと出会い、幕切れに自害する芝居をロダンが気に入り、1922年に日本に帰国するまでの間モデルを務めたそうです。ロダンのモデルを務めたのは日本人では花子だけで58点の作品が残されているそうで、2点を日本に持ち帰っています。自分をモデルにした作品を譲ってほしいという依頼が叶わぬままロダンが亡くなった後、フランス政府に懸命に働きかけた結果だった。これら2点の作品は現在は新潟市美術館が所有しています。

    「花子」花子は本名を「太田ひさ」といい、1900年代に当時の流行に乗ってヨーロッパに渡った舞台女優で、1906年にマルセイユで開催された展覧会でロダンと出会い、幕切れに自害する芝居をロダンが気に入り、1922年に日本に帰国するまでの間モデルを務めたそうです。ロダンのモデルを務めたのは日本人では花子だけで58点の作品が残されているそうで、2点を日本に持ち帰っています。自分をモデルにした作品を譲ってほしいという依頼が叶わぬままロダンが亡くなった後、フランス政府に懸命に働きかけた結果だった。これら2点の作品は現在は新潟市美術館が所有しています。

  • 「カレーの市民」カレーを包囲したイングランド王エドワードが町の指導者6人が自分の元へ出頭すれば町の人々は救うと持ちかけます。それは6人の処刑を意味していて、更に裸に近い格好で首に縄を巻いて城門の鍵を持って歩いてくるよう要求したそうです。町の裕福な指導者のうちの1人、ユスタシェ・ド・サン・ピエールが最初に志願し、すぐに5人の市民であるジャン・デール、ジャック・ド・ヴィッサン、ピエール・ド・ヴィッサン、ジャン・ド・フィエンヌ、アンドリュー・ダンドルが志願します。サン・ピエールを先頭にやせ衰えた6人は町の城門へと歩いていく敗北と自己犠牲と死に直面した恐怖の交錯する瞬間をロダンは捉えてこの作品を造っています。

    「カレーの市民」カレーを包囲したイングランド王エドワードが町の指導者6人が自分の元へ出頭すれば町の人々は救うと持ちかけます。それは6人の処刑を意味していて、更に裸に近い格好で首に縄を巻いて城門の鍵を持って歩いてくるよう要求したそうです。町の裕福な指導者のうちの1人、ユスタシェ・ド・サン・ピエールが最初に志願し、すぐに5人の市民であるジャン・デール、ジャック・ド・ヴィッサン、ピエール・ド・ヴィッサン、ジャン・ド・フィエンヌ、アンドリュー・ダンドルが志願します。サン・ピエールを先頭にやせ衰えた6人は町の城門へと歩いていく敗北と自己犠牲と死に直面した恐怖の交錯する瞬間をロダンは捉えてこの作品を造っています。

  • 「3つの影」は階段の踊り場にあった作品の大きいサイズのものです。フォークリフトで移動させ易いためなのか、木製のパレットに乗っているのが興醒めです。美術館のコレクションのために1928年にフォンデリー・アレクシスルディエが制作したキャスト(鋳造)作品です。ダンテの「神曲」では地獄の入り口には呪われた魂が立っていて「ここに入るすべての者は希望を放棄せよ。」と書かれています。

    「3つの影」は階段の踊り場にあった作品の大きいサイズのものです。フォークリフトで移動させ易いためなのか、木製のパレットに乗っているのが興醒めです。美術館のコレクションのために1928年にフォンデリー・アレクシスルディエが制作したキャスト(鋳造)作品です。ダンテの「神曲」では地獄の入り口には呪われた魂が立っていて「ここに入るすべての者は希望を放棄せよ。」と書かれています。

  • ロダンは最終的に同じポイントを回転しているように見える3つの同一のフィギュアを組み立てることを決定しました。ねじれた苦しそうなポーズをとったアダムの姿はミケランジェロの影響が明白です。頭が下に落ちる角度は誇張されており、首と肩はほぼ水平な線を形成しています。

    ロダンは最終的に同じポイントを回転しているように見える3つの同一のフィギュアを組み立てることを決定しました。ねじれた苦しそうなポーズをとったアダムの姿はミケランジェロの影響が明白です。頭が下に落ちる角度は誇張されており、首と肩はほぼ水平な線を形成しています。

  • 「ヴィクトル・ユゴーのモニュメント」長い時間混雑した建物の中にいたので、表に出るとほっとしますが、彫刻作品を見るにはちょっと厳しい雨の降り方になってきました。この作品は1997年にフォンデリー・ド・クーベルタンが博物館コレクションのために製作したキャストです。1885年にヴィクトル・ユーゴーが亡くなった後、パンテオンに記念碑を建てることが決まり、ロダンは1889年に委員会から依頼を受けます。ロダンはガーンジー島の岩の上に座っている亡命中のヴィクトル・ユーゴーを描くことを選び、波を落ち着かせるかのように腕を伸ばしました。この最初のプロジェクトは「明快さを欠き、そのシルエットが裸体だった」と満場一致で却下されてしまいます。1891年に美術省はそれのための別の場所を設定し、最終的にパレロイヤルの庭園に建てられることになります。

    「ヴィクトル・ユゴーのモニュメント」長い時間混雑した建物の中にいたので、表に出るとほっとしますが、彫刻作品を見るにはちょっと厳しい雨の降り方になってきました。この作品は1997年にフォンデリー・ド・クーベルタンが博物館コレクションのために製作したキャストです。1885年にヴィクトル・ユーゴーが亡くなった後、パンテオンに記念碑を建てることが決まり、ロダンは1889年に委員会から依頼を受けます。ロダンはガーンジー島の岩の上に座っている亡命中のヴィクトル・ユーゴーを描くことを選び、波を落ち着かせるかのように腕を伸ばしました。この最初のプロジェクトは「明快さを欠き、そのシルエットが裸体だった」と満場一致で却下されてしまいます。1891年に美術省はそれのための別の場所を設定し、最終的にパレロイヤルの庭園に建てられることになります。

  • ユゴーは皇帝ナポレオン3世との政治的対立で亡命生活を余儀なくされ、フランス沿岸から45キロに位置する英国領のガーンジー島に到着したとき、ユゴーは53歳でした。この地に家族とともに15年滞在することになりました。誇大妄想的な趣味から暖炉の脇の壁に自分の頭文字の V と H をタイルで施してみたり、部屋や寝室を劇場のように装飾を施して亡命の不遇さを嘆いていたようです。結局1870年にユゴーはフランスに帰還し、1885年に当時としては高齢の83歳で亡くなります。

    ユゴーは皇帝ナポレオン3世との政治的対立で亡命生活を余儀なくされ、フランス沿岸から45キロに位置する英国領のガーンジー島に到着したとき、ユゴーは53歳でした。この地に家族とともに15年滞在することになりました。誇大妄想的な趣味から暖炉の脇の壁に自分の頭文字の V と H をタイルで施してみたり、部屋や寝室を劇場のように装飾を施して亡命の不遇さを嘆いていたようです。結局1870年にユゴーはフランスに帰還し、1885年に当時としては高齢の83歳で亡くなります。

  • アンヴァリッドのドームが鈍く輝いています。ひと雨ごとにパリの秋は深まっていくように思えました。

    アンヴァリッドのドームが鈍く輝いています。ひと雨ごとにパリの秋は深まっていくように思えました。

  • 3週間の滞在中で雨が降るのがほとんど深夜だったのとあまり寒くないので観光するにはちょうど良い季節でした。

    3週間の滞在中で雨が降るのがほとんど深夜だったのとあまり寒くないので観光するにはちょうど良い季節でした。

  • 館から広がる芝生の庭の先には池があり、「ウゴリーノ」が置かれてありました。ダンテの神曲を読んだのはもう30年近く前になりますが、ギュスターヴ・ドーレの挿絵と共に非常に記憶に残る場面です。ウゴリーノと息子たちは餓えてゆっくりと死に至るようにされ、瀕死の息子たちは自分たちが死んだら自分たちの体を食べるよう父に請います。最後にウゴリーノは「自分は盲目となり、息子と孫たちが死んだことがわかった。私は彼らの死から2日間生きた。そして飢えが深い苦悩より勝ることを証明した。」とあります。

    館から広がる芝生の庭の先には池があり、「ウゴリーノ」が置かれてありました。ダンテの神曲を読んだのはもう30年近く前になりますが、ギュスターヴ・ドーレの挿絵と共に非常に記憶に残る場面です。ウゴリーノと息子たちは餓えてゆっくりと死に至るようにされ、瀕死の息子たちは自分たちが死んだら自分たちの体を食べるよう父に請います。最後にウゴリーノは「自分は盲目となり、息子と孫たちが死んだことがわかった。私は彼らの死から2日間生きた。そして飢えが深い苦悩より勝ることを証明した。」とあります。

  • ウゴリーノのある池から屋敷を望むと青い芝生がとても綺麗でした。現在「ロダン美術館」の入る邸宅は1727年から1737年の間にパリのヴァレンヌ通りに裕福な金融家アブラハム・ペイレンク・デ・モラスのために建てられました。この建築は最終的にジャン・オーベールによって設計され、この当時ファッショナブルだったロケイユ建築(ロココ様式)の代表的な作例とされます。

    ウゴリーノのある池から屋敷を望むと青い芝生がとても綺麗でした。現在「ロダン美術館」の入る邸宅は1727年から1737年の間にパリのヴァレンヌ通りに裕福な金融家アブラハム・ペイレンク・デ・モラスのために建てられました。この建築は最終的にジャン・オーベールによって設計され、この当時ファッショナブルだったロケイユ建築(ロココ様式)の代表的な作例とされます。

  • 20世紀になると邸宅は売りに出され、買い手を待っている間にオテルビロンは貸し出され、その中には作家のジャン・コクトーや画家のアンリ・マティス、ダンサーのイサドラ・ダンカン、彫刻家のクララ・ウェストホフなど、何人かのアーティストが最初に入居し、ロダンに不動産について話しました。1908年にロダンはアトリエとして使用するために、テラスに開く4つの南向きのグラウンドフロアの部屋を借りました。自然のままの庭はロダンにインスピレーションを与え、彼の作品の一部と彼の骨董品のコレクションの一部をその中に置くことを考えました。

    20世紀になると邸宅は売りに出され、買い手を待っている間にオテルビロンは貸し出され、その中には作家のジャン・コクトーや画家のアンリ・マティス、ダンサーのイサドラ・ダンカン、彫刻家のクララ・ウェストホフなど、何人かのアーティストが最初に入居し、ロダンに不動産について話しました。1908年にロダンはアトリエとして使用するために、テラスに開く4つの南向きのグラウンドフロアの部屋を借りました。自然のままの庭はロダンにインスピレーションを与え、彼の作品の一部と彼の骨董品のコレクションの一部をその中に置くことを考えました。

  • 1911年にフランス政府に売却されるとロダンを除くすべての居住者は建物を出るように求められました。ロダンは邸宅を保存するために全力を尽くし、政府との交渉を開始します。<br />「私は、石膏、大理石、青銅、石、そして私の絵の中ですべての私の作品を国に与えるだけでなく、私は芸術家や労働者の教育と訓練のために組み立てるのに非常に喜びを持っていた古代のコレクション、そしてロダン美術館となるオテル・ビロンにこれらすべてのコレクションを保管し、私の生涯そこに住む権利を留保するよう政府に求めます。」と手紙を書きます。

    1911年にフランス政府に売却されるとロダンを除くすべての居住者は建物を出るように求められました。ロダンは邸宅を保存するために全力を尽くし、政府との交渉を開始します。
    「私は、石膏、大理石、青銅、石、そして私の絵の中ですべての私の作品を国に与えるだけでなく、私は芸術家や労働者の教育と訓練のために組み立てるのに非常に喜びを持っていた古代のコレクション、そしてロダン美術館となるオテル・ビロンにこれらすべてのコレクションを保管し、私の生涯そこに住む権利を留保するよう政府に求めます。」と手紙を書きます。

  • 1916年に国民議会はロダンの3つの提案を受け入れ、ロダンがフランス国民に寄付した作品が展示される博物館に邸宅とその庭を割り当てることを法律で決定しました。レオンス・ヴェネディテは彫刻家の遺言の実行者に選ばれ、ロダンの芸術的遺産を管理し、将来の博物館の組織を監督する仕事を受け入れます。<br />

    1916年に国民議会はロダンの3つの提案を受け入れ、ロダンがフランス国民に寄付した作品が展示される博物館に邸宅とその庭を割り当てることを法律で決定しました。レオンス・ヴェネディテは彫刻家の遺言の実行者に選ばれ、ロダンの芸術的遺産を管理し、将来の博物館の組織を監督する仕事を受け入れます。

  • ロダンは終生この大作「地獄の門」の制作に取り組み、その過程で多くの独立した作品が生み出されました。タンパンの中央に座って墜ち行く人々を凝視する男は「考える人」であり、門の頂に立つ「三つの影」は「アダム」と密接な関係を持っています。タンパンの右端に「立てるフォーネス」と「瞑想」、左手に「オルフェウスとマイナスたち」のマイナスたちも見る事が出来ます。

    ロダンは終生この大作「地獄の門」の制作に取り組み、その過程で多くの独立した作品が生み出されました。タンパンの中央に座って墜ち行く人々を凝視する男は「考える人」であり、門の頂に立つ「三つの影」は「アダム」と密接な関係を持っています。タンパンの右端に「立てるフォーネス」と「瞑想」、左手に「オルフェウスとマイナスたち」のマイナスたちも見る事が出来ます。

  • 右扉の下部に「フギット・アモール」、左扉中央に「ネレイスたち」、左の付け柱に浮彫の「美しかりオーミエール」、その柱の上に「うちひしがれたカリアティード」、右の付け柱の上部に「私は美しい」の浮彫があり、この2人の男女を離したものが考える人の左の「うずくまる女」と左扉の上部から身をのけぞらせる男です。

    右扉の下部に「フギット・アモール」、左扉中央に「ネレイスたち」、左の付け柱に浮彫の「美しかりオーミエール」、その柱の上に「うちひしがれたカリアティード」、右の付け柱の上部に「私は美しい」の浮彫があり、この2人の男女を離したものが考える人の左の「うずくまる女」と左扉の上部から身をのけぞらせる男です。

  •  このモニュメントは実際には使用されず、ロダンの生前にブロンズに鋳造されることもありませんでした。1920年代になってようやく鋳造が実現し、最近の鋳造を含め現在世界に7つのブロンズ作品が存在します。<br />

    このモニュメントは実際には使用されず、ロダンの生前にブロンズに鋳造されることもありませんでした。1920年代になってようやく鋳造が実現し、最近の鋳造を含め現在世界に7つのブロンズ作品が存在します。

  • 旅行前にロダンの生涯について調べて、美術館の作品を見学してきた後では子供の頃から何度も見てきた「地獄の門」と全く違った見方が出来ました。

    旅行前にロダンの生涯について調べて、美術館の作品を見学してきた後では子供の頃から何度も見てきた「地獄の門」と全く違った見方が出来ました。

  • 雨の中で傘もささずに立ち尽くす三つ編みの女の子はこの作品を見て何を思うのでしょうか。その時に16年前にフィレンツェ近郊のルッカを訪ねた際のことを思い出しました。楕円形の美しいアンフィテアトロ広場では小学校のバザーが開催されていました。

    雨の中で傘もささずに立ち尽くす三つ編みの女の子はこの作品を見て何を思うのでしょうか。その時に16年前にフィレンツェ近郊のルッカを訪ねた際のことを思い出しました。楕円形の美しいアンフィテアトロ広場では小学校のバザーが開催されていました。

  • 小学生がテーブルの上に社会科見学で行ったフィレンツェの思い出の絵を並べていました。小学3年生の稚拙な絵の中に黒い画用紙一面にサン・ジョヴァンニ洗礼堂の「天国の門」を描いた絵がありました。他の子は自分と同じくらいの大きさの洗礼堂やドゥオーモを描いていますが、画用紙に天国の門だけを金色の絵の具が無いので黄色を上手に使ったその絵に心を惹かれ、5,000リラを寄付して求めました。

    小学生がテーブルの上に社会科見学で行ったフィレンツェの思い出の絵を並べていました。小学3年生の稚拙な絵の中に黒い画用紙一面にサン・ジョヴァンニ洗礼堂の「天国の門」を描いた絵がありました。他の子は自分と同じくらいの大きさの洗礼堂やドゥオーモを描いていますが、画用紙に天国の門だけを金色の絵の具が無いので黄色を上手に使ったその絵に心を惹かれ、5,000リラを寄付して求めました。

  • 同じ年齢くらいのこの子を見てそんな事を思い出しました。今では立派な額に入れて我が家のクリスマス時期の飾りの1つになっています。「地獄の門」の前で「天国の門」のことを考えるとは思いませんでした。

    同じ年齢くらいのこの子を見てそんな事を思い出しました。今では立派な額に入れて我が家のクリスマス時期の飾りの1つになっています。「地獄の門」の前で「天国の門」のことを考えるとは思いませんでした。

  • 傘を差しての見学にはなりましたが、雨の中で「地獄の門」を見るのもいいなと思いました。日本に帰ったら上野の国立美術館の彫刻も違って見えると思います。ただ、「地獄の門」は巨大な台座の上に置かれているのでここまで近くで見る事が出来ません。

    傘を差しての見学にはなりましたが、雨の中で「地獄の門」を見るのもいいなと思いました。日本に帰ったら上野の国立美術館の彫刻も違って見えると思います。ただ、「地獄の門」は巨大な台座の上に置かれているのでここまで近くで見る事が出来ません。

  • 数日前に行った「アンヴァリッド」の前庭と同じ刈込の植込みの中に「考える人」も置かれてありました。これは上野に置かれたものと同じようなシチュエーションのように思えます。現在ロダン美術館によって真正品と認定されているものは、世界に21体存在しているそうです。

    数日前に行った「アンヴァリッド」の前庭と同じ刈込の植込みの中に「考える人」も置かれてありました。これは上野に置かれたものと同じようなシチュエーションのように思えます。現在ロダン美術館によって真正品と認定されているものは、世界に21体存在しているそうです。

  • 邸宅内にあった習作を見てきた後に庭園に置かれた「考える人」を見ると違った雰囲気を感じます。「地獄の門」と違って雨に濡れたブロンズは男性の肉体の筋肉がより強調され、雨の中もいいなと思わせます。

    邸宅内にあった習作を見てきた後に庭園に置かれた「考える人」を見ると違った雰囲気を感じます。「地獄の門」と違って雨に濡れたブロンズは男性の肉体の筋肉がより強調され、雨の中もいいなと思わせます。

  • 学生時代は美術部でもあったので散々石膏像を描きましたが、また時間があったら描いてみたい衝動にかられました。

    学生時代は美術部でもあったので散々石膏像を描きましたが、また時間があったら描いてみたい衝動にかられました。

  • 「バルザック像」のガウンの訳やその中に隠された肉体までも見る事が出来て、幾らかはロダンを理解することが出来た気がします。日本に帰ったら静岡県立美術館へ行ってみたいと思いましたが、数年後にベルギーのゲント美術館で児島虎次郎の作品に出合い、倉敷の大原美術館へ行きましたがその願いはまだ叶っていません。

    「バルザック像」のガウンの訳やその中に隠された肉体までも見る事が出来て、幾らかはロダンを理解することが出来た気がします。日本に帰ったら静岡県立美術館へ行ってみたいと思いましたが、数年後にベルギーのゲント美術館で児島虎次郎の作品に出合い、倉敷の大原美術館へ行きましたがその願いはまだ叶っていません。

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2011 パリの旅

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