那智勝浦・太地旅行記(ブログ) 一覧に戻る
なかなか行く機会がなかった、念願の世界遺産「熊野古道」に行ってきました。直接のきっかけは、昨年の平安京南北散歩で「千本通」を歩いた際、「院政」の拠点「鳥羽離宮」跡にある「城南宮」は、白河上皇や鳥羽上皇が熊野御幸を行う前に7日ほど泊まって身を清めてから熊野へ向かった「熊野詣出立の地」で、「東大路通」の「新熊野神社」は、後白河上皇が熊野まで行くのが大変だったので、京の都に熊野の神霊を勧請し「熊野三山」を作ってしまい、境内には10分で熊野詣が出来る「熊野三山御利益巡り」まであったことで、従ってこれは「平安京南北散歩」の延長線にあります。<br />そういうことで、なんとか上皇と同じルートを歩いて見たいと思っていましたが、当時は往復20日くらいかかったというルートを、今回はわずか 3日間で、しかも紀州の温泉まで堪能するという、何とも贅沢な旅程で達成することになりました。<br />結局、往復400kmの内、歩いたのはわずか15km、残りは全てバスという、手っ取り早い旅行になったものの、それでも毎日10,000歩、27,000歩、16,000歩を歩き、老体には厳しい運動量になり、体力的には疲労困ぱいでしたが、それ以上に夜には温泉とグルメが癒してくれて、疲れも吹っ飛びます。<br />平安時代の上皇たちとは目的が違いますが、その足跡が残る同じルートを辿り、歴史の変遷を感じながら、深い森林に覆われた壮麗な自然を満喫した今回の旅行は、心が洗われ、体も洗われる、今までの旅とは又違う貴重な体験になりました。

「熊野古道」2泊3日で京都から上皇ルートを参詣、プラス温泉とグルメ

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2025/03/23 - 2025/03/25

187位(同エリア916件中)

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Bach

Bachさん

なかなか行く機会がなかった、念願の世界遺産「熊野古道」に行ってきました。直接のきっかけは、昨年の平安京南北散歩で「千本通」を歩いた際、「院政」の拠点「鳥羽離宮」跡にある「城南宮」は、白河上皇や鳥羽上皇が熊野御幸を行う前に7日ほど泊まって身を清めてから熊野へ向かった「熊野詣出立の地」で、「東大路通」の「新熊野神社」は、後白河上皇が熊野まで行くのが大変だったので、京の都に熊野の神霊を勧請し「熊野三山」を作ってしまい、境内には10分で熊野詣が出来る「熊野三山御利益巡り」まであったことで、従ってこれは「平安京南北散歩」の延長線にあります。
そういうことで、なんとか上皇と同じルートを歩いて見たいと思っていましたが、当時は往復20日くらいかかったというルートを、今回はわずか 3日間で、しかも紀州の温泉まで堪能するという、何とも贅沢な旅程で達成することになりました。
結局、往復400kmの内、歩いたのはわずか15km、残りは全てバスという、手っ取り早い旅行になったものの、それでも毎日10,000歩、27,000歩、16,000歩を歩き、老体には厳しい運動量になり、体力的には疲労困ぱいでしたが、それ以上に夜には温泉とグルメが癒してくれて、疲れも吹っ飛びます。
平安時代の上皇たちとは目的が違いますが、その足跡が残る同じルートを辿り、歴史の変遷を感じながら、深い森林に覆われた壮麗な自然を満喫した今回の旅行は、心が洗われ、体も洗われる、今までの旅とは又違う貴重な体験になりました。

  • 「熊野参詣上皇ルート」<br />「熊野参詣」は、平安末期から院政期になって来世への不安を強める上皇らの「熊野御幸」により急激に盛んとなり、上皇たちの熊野詣は、白河上皇9回、鳥羽上皇21回、後白河上皇34回、後鳥羽上皇28回にも及ぶと言われるが、当時は往復400kmを20日くらいかかったという道程を、今回はわずか 3日間でその足跡を体験する

    「熊野参詣上皇ルート」
    「熊野参詣」は、平安末期から院政期になって来世への不安を強める上皇らの「熊野御幸」により急激に盛んとなり、上皇たちの熊野詣は、白河上皇9回、鳥羽上皇21回、後白河上皇34回、後鳥羽上皇28回にも及ぶと言われるが、当時は往復400kmを20日くらいかかったという道程を、今回はわずか 3日間でその足跡を体験する

  • 行程(1日目)京都~(バス190km)~<中辺路・牛馬童子口~近露王子1.6km/標高差100m>~(バス30km)~川湯温泉・山水館(泊) (2日目)川湯温泉~(バス10km)~<中辺路・発心門王子~熊野本宮大社7.7km/250m>~(バス50km)~熊野市鬼ヶ城(昼食)~<伊勢路・松本峠~木本神社2.5km/130m>~(バス70km)~勝浦温泉・ホテル浦島(泊) (3日目)勝浦温泉~(バス20km)~熊野速玉大社~(バス20km)~<那智の滝・熊野那智大社・大門坂2.7km/250m>~(バス40km)~串本・潮岬(昼食)~(バス200km)~京都(合計:歩行距離15.0km、バス630km)

    行程(1日目)京都~(バス190km)~<中辺路・牛馬童子口~近露王子1.6km/標高差100m>~(バス30km)~川湯温泉・山水館(泊) (2日目)川湯温泉~(バス10km)~<中辺路・発心門王子~熊野本宮大社7.7km/250m>~(バス50km)~熊野市鬼ヶ城(昼食)~<伊勢路・松本峠~木本神社2.5km/130m>~(バス70km)~勝浦温泉・ホテル浦島(泊) (3日目)勝浦温泉~(バス20km)~熊野速玉大社~(バス20km)~<那智の滝・熊野那智大社・大門坂2.7km/250m>~(バス40km)~串本・潮岬(昼食)~(バス200km)~京都(合計:歩行距離15.0km、バス630km)

  • 11:00 京都を出発し、14:30 道の駅「熊野古道中辺路」(なかへち)到着

    11:00 京都を出発し、14:30 道の駅「熊野古道中辺路」(なかへち)到着

  • 「世界遺産熊野参詣道」<br />世界遺産の登録名は「紀伊山地の霊場と参詣道」で、「熊野三山」「高野山」「吉野・大峯」の三つの霊場とそこに至る「参詣道」が、2004年に登録された

    「世界遺産熊野参詣道」
    世界遺産の登録名は「紀伊山地の霊場と参詣道」で、「熊野三山」「高野山」「吉野・大峯」の三つの霊場とそこに至る「参詣道」が、2004年に登録された

  • 「牛馬童子」(ぎゅうばどうじ)<br />花山法皇(かざんほうおう 968-1008)の熊野詣の姿で、熊野古道のシンボル的存在となっている *花山法皇は、在位からわずか1年10ヵ月で藤原氏の陰謀で皇位を失い、失意のまま熊野御幸に旅立ち、この峠で萓の茎を箸にして食事をとろうとしたら、露がしたたり落ちたのを見て「これは血か、露か」と物哀しげにたずねたことから、峠を「箸折峠」、麓の里を「ちかつゆ」と呼ぶようになった(初めて熊野御幸を行ったのは、宇多法皇で907年)

    「牛馬童子」(ぎゅうばどうじ)
    花山法皇(かざんほうおう 968-1008)の熊野詣の姿で、熊野古道のシンボル的存在となっている *花山法皇は、在位からわずか1年10ヵ月で藤原氏の陰謀で皇位を失い、失意のまま熊野御幸に旅立ち、この峠で萓の茎を箸にして食事をとろうとしたら、露がしたたり落ちたのを見て「これは血か、露か」と物哀しげにたずねたことから、峠を「箸折峠」、麓の里を「ちかつゆ」と呼ぶようになった(初めて熊野御幸を行ったのは、宇多法皇で907年)

  • 14:35「語り部」さんと合流し、15人グループでスタート

    14:35「語り部」さんと合流し、15人グループでスタート

  • 「熊野古道 語り部さん」<br />和歌山県だけで、「熊野古道語り部ガイドの会」など24団体と個人34名の合計310名程の登録があるらしいが、平均年齢は70代で、ここでも新人確保が課題になっているという

    「熊野古道 語り部さん」
    和歌山県だけで、「熊野古道語り部ガイドの会」など24団体と個人34名の合計310名程の登録があるらしいが、平均年齢は70代で、ここでも新人確保が課題になっているという

  • 最初に「熊野古道」の概要説明があり、「熊野三山」に参詣する道が、京都からの「紀伊路」から「中辺路」「大辺路」のルートと、伊勢神宮からの「伊勢路」ルート、高野山からの「小辺路」ルート、吉野からの「大峯奥駈道」ルートがあり、平安室町時代から多くの参詣者が列をなして歩いたという

    最初に「熊野古道」の概要説明があり、「熊野三山」に参詣する道が、京都からの「紀伊路」から「中辺路」「大辺路」のルートと、伊勢神宮からの「伊勢路」ルート、高野山からの「小辺路」ルート、吉野からの「大峯奥駈道」ルートがあり、平安室町時代から多くの参詣者が列をなして歩いたという

  • 1日目コースは、<牛馬童子口~近露王子1.6km/標高差100m><br />14:35「道の駅熊野古道なかへち・牛馬童子口バス停」~0.8km15:20「牛馬童子像」~0.6km「近露王子」~0.2km16:10「近露王子公園」

    1日目コースは、<牛馬童子口~近露王子1.6km/標高差100m>
    14:35「道の駅熊野古道なかへち・牛馬童子口バス停」~0.8km15:20「牛馬童子像」~0.6km「近露王子」~0.2km16:10「近露王子公園」

  • 「牛馬童子」まで800mの入り口

    「牛馬童子」まで800mの入り口

  • 左手は田辺方面の「大坂本王子」から来る道で、右手に進むと「牛馬童子」へ

    左手は田辺方面の「大坂本王子」から来る道で、右手に進むと「牛馬童子」へ

  • 先程の道の駅が見える、これから標高差100mの峠を越す

    先程の道の駅が見える、これから標高差100mの峠を越す

  • 14:45 目的地まで1.1km地点

    14:45 目的地まで1.1km地点

  • 最初に出会った「語り部さん」のコスチュームは、他の語り部さんの中でも素晴らしく、気分が高揚する!

    最初に出会った「語り部さん」のコスチュームは、他の語り部さんの中でも素晴らしく、気分が高揚する!

  • 「語り部さん」は健脚で、遅れないようについて行く

    「語り部さん」は健脚で、遅れないようについて行く

  • 紀伊山地は雨が多いので、和歌山県の4分の3が森林面積で、そのほとんどが民有林(国有林4.9%)だという、「吉野すぎ」や「尾鷲(おわせ)ひのき」などスギやヒノキが多い

    紀伊山地は雨が多いので、和歌山県の4分の3が森林面積で、そのほとんどが民有林(国有林4.9%)だという、「吉野すぎ」や「尾鷲(おわせ)ひのき」などスギやヒノキが多い

  • 伐採木材を運び出すレール?<br />

    伐採木材を運び出すレール?

  • 「500m標柱」中辺路24番通過<br />中辺路コースには500mごとに標識があり、田辺側の「滝尻王子」~「熊野本宮大社」までに75の標柱があるという、この地点は「滝尻王子」から数えて24番目で12kmということ<br />

    「500m標柱」中辺路24番通過
    中辺路コースには500mごとに標識があり、田辺側の「滝尻王子」~「熊野本宮大社」までに75の標柱があるという、この地点は「滝尻王子」から数えて24番目で12kmということ

  • 山道はいたるところに木の根っこが飛び出して、つまずく恐れもあるが、雨で崩れやすい山道をしっかり守っている

    山道はいたるところに木の根っこが飛び出して、つまずく恐れもあるが、雨で崩れやすい山道をしっかり守っている

  • 山の斜面にはよく「石垣」を見かけるが、これは山を削り、土留めの石垣を作ることで平坦面を作り出し、住居や水田、畑などに有効利用するという先人の知恵

    山の斜面にはよく「石垣」を見かけるが、これは山を削り、土留めの石垣を作ることで平坦面を作り出し、住居や水田、畑などに有効利用するという先人の知恵

  • 石垣は強固な「野面積み」<br />自然石や割石をほとんど加工せずに、石と石との間に小さな石を詰めながら積み上げていくと、強度が高く、隙間があると揺れが分散されて地震に強く、排水性も高いので大雨でも崩れにくい、戦国時代の城壁によく使われているが、どうやってこれを知ったのか、頭が下がる

    石垣は強固な「野面積み」
    自然石や割石をほとんど加工せずに、石と石との間に小さな石を詰めながら積み上げていくと、強度が高く、隙間があると揺れが分散されて地震に強く、排水性も高いので大雨でも崩れにくい、戦国時代の城壁によく使われているが、どうやってこれを知ったのか、頭が下がる

  • 「一里塚」跡<br />江戸時代に、和歌山市から本宮まで熊野街道の1里(4km)ごとに、塚を築きその上に松を植えて標識にしていたという(和歌山より26里・104km地点)

    「一里塚」跡
    江戸時代に、和歌山市から本宮まで熊野街道の1里(4km)ごとに、塚を築きその上に松を植えて標識にしていたという(和歌山より26里・104km地点)

  • 平らな広場があり、竈とも見てとれるような石垣があるが、語り部さんによると「茶店」の跡らしい

    平らな広場があり、竈とも見てとれるような石垣があるが、語り部さんによると「茶店」の跡らしい

  • 「望郷の箸折峠」(はしおりとうげ)ゆりかおる<br />ここは個人の所有地で、所有者が自分の持ち物だということを表すための石碑らしい

    「望郷の箸折峠」(はしおりとうげ)ゆりかおる
    ここは個人の所有地で、所有者が自分の持ち物だということを表すための石碑らしい

  • 目的地の「近露王子」まで1km地点

    目的地の「近露王子」まで1km地点

  • 15:20 「牛馬童子・近露の宝塔」の丘に到着

    15:20 「牛馬童子・近露の宝塔」の丘に到着

  • 「近露の宝塔」(ちかつゆのほうとう)<br />「花山法皇」(968-1008)は17歳で即位し、藤原道長の父・藤原兼家と次兄の道兼の策略で在位1年余で退位させられ、京都山科の元慶寺(花山寺)で出家して、那智山にこもり千日間の修行を積み、熊野御幸をした際にこの地に経典を埋納したとの伝説により設置されたもので、この宝篋印塔は鎌倉時代のものらしい<br />

    「近露の宝塔」(ちかつゆのほうとう)
    「花山法皇」(968-1008)は17歳で即位し、藤原道長の父・藤原兼家と次兄の道兼の策略で在位1年余で退位させられ、京都山科の元慶寺(花山寺)で出家して、那智山にこもり千日間の修行を積み、熊野御幸をした際にこの地に経典を埋納したとの伝説により設置されたもので、この宝篋印塔は鎌倉時代のものらしい

  • 「近露峠」(ちかつゆとうげ)<br />法皇がこの峠で休み昼食を食べる時に、箸がなかったので近くに生えていたカヤを折って渡すと、カヤに露が伝うのを見て「これは血か、露か」と法皇が尋ねられたことから生まれたもの

    「近露峠」(ちかつゆとうげ)
    法皇がこの峠で休み昼食を食べる時に、箸がなかったので近くに生えていたカヤを折って渡すと、カヤに露が伝うのを見て「これは血か、露か」と法皇が尋ねられたことから生まれたもの

  • 「不動明王とお地蔵様」<br />宝塔の前には、お不動さんとお地蔵様らしき石像と崩れた丸い石(不明)があり、柔和なお地蔵さんと怒ったような形相のお不動さんの対比が面白い、不動明王は人々の迷いを取り除き、地蔵菩薩は人々を慈悲で包み込むと言われる

    「不動明王とお地蔵様」
    宝塔の前には、お不動さんとお地蔵様らしき石像と崩れた丸い石(不明)があり、柔和なお地蔵さんと怒ったような形相のお不動さんの対比が面白い、不動明王は人々の迷いを取り除き、地蔵菩薩は人々を慈悲で包み込むと言われる

  • 「牛馬童子と役行者像」<br />明治24年(1891)に造られた比較的新しいもので、「役行者」(えんのぎょうじゃ)とは、山岳信仰で修験道の開祖とされ、素足に下駄をはき岩に腰かけている

    「牛馬童子と役行者像」
    明治24年(1891)に造られた比較的新しいもので、「役行者」(えんのぎょうじゃ)とは、山岳信仰で修験道の開祖とされ、素足に下駄をはき岩に腰かけている

  • 「牛馬童子」(ぎゅうばどうじ)<br />牛と馬を並べて乗っている奇妙な姿は、「花山法皇」の旅姿だと言われ、藤原氏の後、政権を取り戻した白河・鳥羽・後白河・後鳥羽らの上皇が、「熊野詣」をするきっかけを作った「花山法皇」を「熊野古道」のシンボル的存在として祀っているように思える<br />

    「牛馬童子」(ぎゅうばどうじ)
    牛と馬を並べて乗っている奇妙な姿は、「花山法皇」の旅姿だと言われ、藤原氏の後、政権を取り戻した白河・鳥羽・後白河・後鳥羽らの上皇が、「熊野詣」をするきっかけを作った「花山法皇」を「熊野古道」のシンボル的存在として祀っているように思える

  • 「牛馬童子像破損事件」<br />2008年、牛馬童子像の頭部が壊され無くなっているのが発見され、捜索を続けたが見つからなかったため、頭部を複製し胴体にステンレス製ボルトで取り付けた、その2年後、市内バス停のベンチに切断された頭部が発見されたが、既に復元は完了しているので、再度壊して取り付けるわけにもいかず、どうするか検討中だという

    「牛馬童子像破損事件」
    2008年、牛馬童子像の頭部が壊され無くなっているのが発見され、捜索を続けたが見つからなかったため、頭部を複製し胴体にステンレス製ボルトで取り付けた、その2年後、市内バス停のベンチに切断された頭部が発見されたが、既に復元は完了しているので、再度壊して取り付けるわけにもいかず、どうするか検討中だという

  • 右手方面「近露王子」へ0.5km

    右手方面「近露王子」へ0.5km

  • 15.30「中辺路25番」の500m標柱通過(24番から35分経過)

    15.30「中辺路25番」の500m標柱通過(24番から35分経過)

  • まもなく「東屋」に到着

    まもなく「東屋」に到着

  • 15:35 東屋から眼下に町並みが見える<br />「牛馬童子口」スタート(14:35)からちょうど1時間で、しばし休憩<br />

    15:35 東屋から眼下に町並みが見える
    「牛馬童子口」スタート(14:35)からちょうど1時間で、しばし休憩

  • 「熊野古道」の最高点は 標高722m、 最低点は 56m<br />周囲は紀伊山地の、標高1,000~2,000m級の山脈が走る

    「熊野古道」の最高点は 標高722m、 最低点は 56m
    周囲は紀伊山地の、標高1,000~2,000m級の山脈が走る

  • 急こう配の坂道を下る

    急こう配の坂道を下る

  • 「近露王子 0.3km」の標識(牛馬童子像から 0.2km)

    「近露王子 0.3km」の標識(牛馬童子像から 0.2km)

  • 「桜の園」出現

    「桜の園」出現

  • 「屋敷のさくら園」の看板(屋敷は「横矢家」とある)

    「屋敷のさくら園」の看板(屋敷は「横矢家」とある)

  • 民宿・Guest House<br />HPによると1棟貸し(4~5名)食事付で、15,000円前後

    民宿・Guest House
    HPによると1棟貸し(4~5名)食事付で、15,000円前後

  • 本日の Welcome Board らしい

    本日の Welcome Board らしい

  • 県道と合流した所に、「牛馬童子像0.4km」と「近露王子0.1km」の標識

    県道と合流した所に、「牛馬童子像0.4km」と「近露王子0.1km」の標識

  • その先に「日置川」(ひきがわ)<br />和歌山県と奈良県の県境沿いから白浜・日置町(ひきちょう)で太平洋に注ぐ

    その先に「日置川」(ひきがわ)
    和歌山県と奈良県の県境沿いから白浜・日置町(ひきちょう)で太平洋に注ぐ

  • 15:50 橋の袂に「中辺路26番」の500m標柱、「25番」から20分経過

    15:50 橋の袂に「中辺路26番」の500m標柱、「25番」から20分経過

  • 「北野橋」<br />「近露」は田辺と本宮のほぼ中間地点にあたり、熊野参詣道「中辺路」の要所で、熊野詣での宿泊地として、上皇らの仮御所や供奉者の宿所が設けられ、現在も数軒の旅館や民宿などがある

    「北野橋」
    「近露」は田辺と本宮のほぼ中間地点にあたり、熊野参詣道「中辺路」の要所で、熊野詣での宿泊地として、上皇らの仮御所や供奉者の宿所が設けられ、現在も数軒の旅館や民宿などがある

  • 「日置川」を渡る<br />日置川は「近露王子」におまいりする前に潔斎をした清流で、川岸には後鳥羽上皇の御所もあったという

    「日置川」を渡る
    日置川は「近露王子」におまいりする前に潔斎をした清流で、川岸には後鳥羽上皇の御所もあったという

  • 16:00 「近露王子」(ちかつゆおうじ)到着<br />「近露王子」は、「熊野九十九王子」の中で最初に出来た「七王子」(藤代・塩屋・切目・磐代・滝尻・近露・発心門)の一つ

    16:00 「近露王子」(ちかつゆおうじ)到着
    「近露王子」は、「熊野九十九王子」の中で最初に出来た「七王子」(藤代・塩屋・切目・磐代・滝尻・近露・発心門)の一つ

  • 「熊野九十九王子」(くじゅうくおうじ)<br />熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で組織され、熊野の神様の御子神を祀った神社のことをいい、紀伊路・中辺路に限られ、現在確認されているのは101王子

    「熊野九十九王子」(くじゅうくおうじ)
    熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で組織され、熊野の神様の御子神を祀った神社のことをいい、紀伊路・中辺路に限られ、現在確認されているのは101王子

  • 「近露王子跡」案内板<br />建仁元年(1201)十月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記によれば、滝尻についで、近露でも歌会が行なわれています。定家は、川を渡ってから、近露王子に参拝していますので、上皇の御所は右岸にあったようです。承元四年(1210)、修明門院に随行した藤原頼資の日記でも、女院は四月二十九日に宿所に着いて「浴水・禊」をし、翌五月一日に王子社に参拝しています。このように、近露では宿泊することが多く、川水を浴びた後、王子に参拝するのが通例でした。江戸時代には、若一(にゃくいち)王子権現社と呼ばれ、木像の神体が安置されていたようです。明治時代には王子神社となりましたが、末期に金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。

    「近露王子跡」案内板
    建仁元年(1201)十月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記によれば、滝尻についで、近露でも歌会が行なわれています。定家は、川を渡ってから、近露王子に参拝していますので、上皇の御所は右岸にあったようです。承元四年(1210)、修明門院に随行した藤原頼資の日記でも、女院は四月二十九日に宿所に着いて「浴水・禊」をし、翌五月一日に王子社に参拝しています。このように、近露では宿泊することが多く、川水を浴びた後、王子に参拝するのが通例でした。江戸時代には、若一(にゃくいち)王子権現社と呼ばれ、木像の神体が安置されていたようです。明治時代には王子神社となりましたが、末期に金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。

  • 「近露王子碑」<br />昭和9年(1934)当地を訪れた「大本教」(おおもときょう)教主・出口和仁三郎(でぐちおにさぶろう)が揮毫し建立されたが、その2年後「大本経弾圧」の際に破壊されかけて、町長の機転で破壊を免れたといういわくつきの碑

    「近露王子碑」
    昭和9年(1934)当地を訪れた「大本教」(おおもときょう)教主・出口和仁三郎(でぐちおにさぶろう)が揮毫し建立されたが、その2年後「大本経弾圧」の際に破壊されかけて、町長の機転で破壊を免れたといういわくつきの碑

  • 「王子碑の文字について」<br />「近露王子之跡」の文字は、「大本経」の出口和仁三郎の筆になるもので、現存する数少ない「出口王仁三郎」の書である。当地で休息した際、村長の依頼で揮毫し翌年建立されたが、2年後の昭和10年12月「大本教」は、はげしい宗教弾圧をうけ、この碑も取り壊さねばならないことになり、その時村長は、この文字は自分が模写した筆跡であると主張し、碑面に彫られていた「王仁」の署名を削り、そこに村長名「横矢球男謹書」を彫り、王子碑の撤去をまぬがれたという。「出口王仁三郎」の筆跡の碑は全国に数多く建てられていたが、他はことごとく破壊され、辛うじて残ったのはこの碑文だけとされている

    「王子碑の文字について」
    「近露王子之跡」の文字は、「大本経」の出口和仁三郎の筆になるもので、現存する数少ない「出口王仁三郎」の書である。当地で休息した際、村長の依頼で揮毫し翌年建立されたが、2年後の昭和10年12月「大本教」は、はげしい宗教弾圧をうけ、この碑も取り壊さねばならないことになり、その時村長は、この文字は自分が模写した筆跡であると主張し、碑面に彫られていた「王仁」の署名を削り、そこに村長名「横矢球男謹書」を彫り、王子碑の撤去をまぬがれたという。「出口王仁三郎」の筆跡の碑は全国に数多く建てられていたが、他はことごとく破壊され、辛うじて残ったのはこの碑文だけとされている

  • (2024/05/03撮影)→https://4travel.jp/travelogue/11902265<br />宗教法人「大本」については、昨年「亀岡光秀まつり」に行った際に知った記憶があるので読み直してみると、明治25年(1892)に京都府綾部出身の開祖が始めた現在全国信者数 16万人の神道系の新興宗教で、明治の廃城以後荒廃していた明智光秀の拠点「亀山城」を買取り、途中で昭和10年の大本弾圧事件(勢力を拡大するあまり天皇制国家にとって無視できない存在として恐れられた)で亀岡町に譲渡されたものの、戦後再び「大本」の所有になり、現在かつての天守は聖地「天恩郷」と呼ばれており、「諸悪の根元は人心の利己主義と弱肉強食にある」という教義は今の米国に読ませてあげたいほど立派であるが、現在の成長の家や創価学会の設立にも影響を与えているほど存在感のある宗教らしい

    (2024/05/03撮影)→https://4travel.jp/travelogue/11902265
    宗教法人「大本」については、昨年「亀岡光秀まつり」に行った際に知った記憶があるので読み直してみると、明治25年(1892)に京都府綾部出身の開祖が始めた現在全国信者数 16万人の神道系の新興宗教で、明治の廃城以後荒廃していた明智光秀の拠点「亀山城」を買取り、途中で昭和10年の大本弾圧事件(勢力を拡大するあまり天皇制国家にとって無視できない存在として恐れられた)で亀岡町に譲渡されたものの、戦後再び「大本」の所有になり、現在かつての天守は聖地「天恩郷」と呼ばれており、「諸悪の根元は人心の利己主義と弱肉強食にある」という教義は今の米国に読ませてあげたいほど立派であるが、現在の成長の家や創価学会の設立にも影響を与えているほど存在感のある宗教らしい

  • 「皇太子殿下行啓の地」<br />平成4年(1992)に現天皇陛下が皇太子殿下時代に訪れており、皇室の参詣は鎌倉時代1281年の亀山上皇以来、実に771年ぶりのことになるという。当時のニュースを見ると、徳仁(なるひと)親王は学習院時代からの「歴史的な陸上交通」の研究を目的に、3日間にわたって熊野古道を歩かれた。その頃の古道は全国的には無名だったが、当時の徳仁親王は32歳でメディアでは「お妃候補」報道が過熱しており、皇室担当記者のみならず多数の記者が同行し日本全国で報道されることとなり、そのお陰で「熊野古道」の存在が全国に広く知れわたり、2004年の世界遺産登録にもつながったという。実際はこの1年後の平成5年にご成婚し、結婚されてからも2005年、2013年、2018年など数回御訪問されている *皇太子は「行啓」(ぎょうけい)、天皇は「行幸」(ぎょうこう)、上皇・法皇・女院は「御幸」(ごこう)

    「皇太子殿下行啓の地」
    平成4年(1992)に現天皇陛下が皇太子殿下時代に訪れており、皇室の参詣は鎌倉時代1281年の亀山上皇以来、実に771年ぶりのことになるという。当時のニュースを見ると、徳仁(なるひと)親王は学習院時代からの「歴史的な陸上交通」の研究を目的に、3日間にわたって熊野古道を歩かれた。その頃の古道は全国的には無名だったが、当時の徳仁親王は32歳でメディアでは「お妃候補」報道が過熱しており、皇室担当記者のみならず多数の記者が同行し日本全国で報道されることとなり、そのお陰で「熊野古道」の存在が全国に広く知れわたり、2004年の世界遺産登録にもつながったという。実際はこの1年後の平成5年にご成婚し、結婚されてからも2005年、2013年、2018年など数回御訪問されている *皇太子は「行啓」(ぎょうけい)、天皇は「行幸」(ぎょうこう)、上皇・法皇・女院は「御幸」(ごこう)

  • 境内には二つの「歌碑」<br />「峠路ゆ 見おろす村の わが里は 家ごとにして 梨の花さく」花仙<br />「ふるさとは 山重畳と 日に映えて 麓をめぐる 川の瀬の唄」うて起書(郷土の画家)

    境内には二つの「歌碑」
    「峠路ゆ 見おろす村の わが里は 家ごとにして 梨の花さく」花仙
    「ふるさとは 山重畳と 日に映えて 麓をめぐる 川の瀬の唄」うて起書(郷土の画家)

  • 日置川沿いに「熊野古道なかへち美術館」(田辺市立美術館分館)へ<br />平成10年にオープンした美術館で、中辺路町出身の画家の作品を中心に展示している

    日置川沿いに「熊野古道なかへち美術館」(田辺市立美術館分館)へ
    平成10年にオープンした美術館で、中辺路町出身の画家の作品を中心に展示している

  • 16:10 「近露王子公園」で<牛馬童子口~近露王子>コース終了<br />「熊野縁起」(仁和寺蔵)に、「近露の水は現世の不浄を祓う」とあり、1日目はまず「近露」で身を清浄にし、明日からの熊野三山詣出に備える

    16:10 「近露王子公園」で<牛馬童子口~近露王子>コース終了
    「熊野縁起」(仁和寺蔵)に、「近露の水は現世の不浄を祓う」とあり、1日目はまず「近露」で身を清浄にし、明日からの熊野三山詣出に備える

  • 「近露王子公園」からバスで今夜の宿所「川湯温泉」へ<br />1日目の<牛馬童子口~近露王子>コースは、歩行距離1.6km/標高差100mで、まずは足慣らし

    「近露王子公園」からバスで今夜の宿所「川湯温泉」へ
    1日目の<牛馬童子口~近露王子>コースは、歩行距離1.6km/標高差100mで、まずは足慣らし

  • 17:00 1日目宿泊「川湯温泉・山水館」到着<br />「近露王子」からバスで30km、「川湯温泉」は、眼の前の熊野川の支流大塔川(おおとうがわ)の河原を掘ると温泉が湧き出る天然露天風呂があり、川をせき止めて作った共用の「仙人風呂」は有名

    17:00 1日目宿泊「川湯温泉・山水館」到着
    「近露王子」からバスで30km、「川湯温泉」は、眼の前の熊野川の支流大塔川(おおとうがわ)の河原を掘ると温泉が湧き出る天然露天風呂があり、川をせき止めて作った共用の「仙人風呂」は有名

  • 「大塔川と露天風呂」<br />部屋の窓からは大塔川の流れと対岸の林が見えて、河原を掘って作った露天風呂もあり、湯浴み着を着て入ることも出来る、スコップを借りて自分用の温泉風呂を作ったり、夏には川で水遊びしながら温泉を楽しめる

    「大塔川と露天風呂」
    部屋の窓からは大塔川の流れと対岸の林が見えて、河原を掘って作った露天風呂もあり、湯浴み着を着て入ることも出来る、スコップを借りて自分用の温泉風呂を作ったり、夏には川で水遊びしながら温泉を楽しめる

  • 早速、宿の大浴場に入り、ここから河原に出て露天風呂に入ると、外国人や女性客も含め何人か先客がいて斬新!

    早速、宿の大浴場に入り、ここから河原に出て露天風呂に入ると、外国人や女性客も含め何人か先客がいて斬新!

  • 夕食は「鍋バイキング」<br />肉あり、魚あり、鮎も山菜も、美味しかった!

    夕食は「鍋バイキング」
    肉あり、魚あり、鮎も山菜も、美味しかった!

  • デザートも盛沢山で美味!

    デザートも盛沢山で美味!

  • (2日目)7:00 朝食<br />朝風呂温泉に入り、食欲も旺盛!

    (2日目)7:00 朝食
    朝風呂温泉に入り、食欲も旺盛!

  • 8:40 川湯温泉からバスで「発心門王子」休憩所まで10km移動

    8:40 川湯温泉からバスで「発心門王子」休憩所まで10km移動

  • 2日目午前のコースは<発心門王子~熊野本宮大社7.7km/標高差250m><br />熊野古道のうち一番人気のコースで、8:50 発心門王子(ほっしんもんおうじ)~1.7km 9:30 水呑王子(みずのみおうじ)~1.9km 10:10 伏拝王子(ふしおがみおうじ)~1.2km 10:50 三軒茶屋跡~2.2km 12:00 熊野本宮大社~0.7km 12:30 大斎原(おおゆのはら)

    2日目午前のコースは<発心門王子~熊野本宮大社7.7km/標高差250m>
    熊野古道のうち一番人気のコースで、8:50 発心門王子(ほっしんもんおうじ)~1.7km 9:30 水呑王子(みずのみおうじ)~1.9km 10:10 伏拝王子(ふしおがみおうじ)~1.2km 10:50 三軒茶屋跡~2.2km 12:00 熊野本宮大社~0.7km 12:30 大斎原(おおゆのはら)

  • 8:50「発心門王子」(ほっしんもんおうじ)<br />一旦、休憩所から約400m歩いて、「発心門王子」からスタートする

    8:50「発心門王子」(ほっしんもんおうじ)
    一旦、休憩所から約400m歩いて、「発心門王子」からスタートする

  • 「中辺路コース」では、昨日歩いた「近露王子」から「発心門王子」まで約25kmを歩き、ここへ出てくる

    「中辺路コース」では、昨日歩いた「近露王子」から「発心門王子」まで約25kmを歩き、ここへ出てくる

  • 「近露王子」方面のこの先にある「船玉神社」の鳥居をくぐり、その先に「発心門」鳥居と社殿がある<br />

    「近露王子」方面のこの先にある「船玉神社」の鳥居をくぐり、その先に「発心門」鳥居と社殿がある

  • 「発心門」(ほっしんもん)<br />「発心門」とは、仏の道に帰依する入り口(門) という意味で、中世には、この付近に「発心門」と呼ばれた大鳥居があり、参詣者はこの大鳥居の前でお祓いをして、鳥居をくぐり、発心門王子に参り、熊野本宮に向かったという、ここから「熊野本宮の聖域の入り口」と言われ、発信門王子は「熊野参詣九十九王子」のなかでも特に重要な王子だった *死者は、発心門・修行門・菩提門・涅槃門の四門をくぐり成仏を果たすと考えられている

    「発心門」(ほっしんもん)
    「発心門」とは、仏の道に帰依する入り口(門) という意味で、中世には、この付近に「発心門」と呼ばれた大鳥居があり、参詣者はこの大鳥居の前でお祓いをして、鳥居をくぐり、発心門王子に参り、熊野本宮に向かったという、ここから「熊野本宮の聖域の入り口」と言われ、発信門王子は「熊野参詣九十九王子」のなかでも特に重要な王子だった *死者は、発心門・修行門・菩提門・涅槃門の四門をくぐり成仏を果たすと考えられている

  • 「王子神社遺址」<br />「王子神社」は熊野三山の御子神(みこがみ)を祀り、簡素な拝所だったり、参詣者の宿泊施設だったり様々で、神社として残っているものは少ないが、 「発心門王子」は九十九王子の中でも別格で、明治の神社合祀後は「王子神社遺址」の石碑だけだったものの、平成2年(1990)に朱塗りの社殿が復元された

    「王子神社遺址」
    「王子神社」は熊野三山の御子神(みこがみ)を祀り、簡素な拝所だったり、参詣者の宿泊施設だったり様々で、神社として残っているものは少ないが、 「発心門王子」は九十九王子の中でも別格で、明治の神社合祀後は「王子神社遺址」の石碑だけだったものの、平成2年(1990)に朱塗りの社殿が復元された

  • 「発心門王子神社」<br />「発心門王子」は数ある王子社の中でも特に格式の高い「五躰王子」(ごたいおうじ)の一つとして重要な王子とされ、熊野三山(本宮大社、那智大社、速玉大社)に祀られている五所王子と呼ばれる神々全てを祀る *「五躰王子」は、藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、 発心門王子の5王子

    「発心門王子神社」
    「発心門王子」は数ある王子社の中でも特に格式の高い「五躰王子」(ごたいおうじ)の一つとして重要な王子とされ、熊野三山(本宮大社、那智大社、速玉大社)に祀られている五所王子と呼ばれる神々全てを祀る *「五躰王子」は、藤代王子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、 発心門王子の5王子

  • 「南無房堂址」(なむぼうどうあと)<br />平らになった所は、「藤原定家」(1162-1241)が後鳥羽院(1180-1239)に随行した熊野御幸の際、宿とした尼庵で、定家の「後鳥羽院熊野御幸記」(三井記念美術館所蔵)によると、道中の食事や宿の世話でのんびり歌をつくる余裕もない中、ここではまともな宿であったことを喜び、発心門の柱や堂に歌を書き付けたという、現在は壊れそうな説明板が立てられているのみ

    「南無房堂址」(なむぼうどうあと)
    平らになった所は、「藤原定家」(1162-1241)が後鳥羽院(1180-1239)に随行した熊野御幸の際、宿とした尼庵で、定家の「後鳥羽院熊野御幸記」(三井記念美術館所蔵)によると、道中の食事や宿の世話でのんびり歌をつくる余裕もない中、ここではまともな宿であったことを喜び、発心門の柱や堂に歌を書き付けたという、現在は壊れそうな説明板が立てられているのみ

  • 「藤原定家」歌碑<br />「いりがたき みのりの門はけふ過ぎぬ 今より六の道に帰すな」(入りがたい仏法の門を今日過ぎた、今から地獄や畜生などの六道には引き返すな)「藤原定家」は、1201年後鳥羽上皇の熊野御幸に随行し、当時40歳で元々虚弱体質でもあり、宿や食事の手配をしたり、険しい道を歩くのは相当キツかったらしく、途中で体調を崩しながらやっと発心門にたどり着いた時で、この1201年には新古今和歌集の選者にも選ばれており(1205年完成)「虚栄心を捨てて六道には戻るまい」という心境であるらしい

    「藤原定家」歌碑
    「いりがたき みのりの門はけふ過ぎぬ 今より六の道に帰すな」(入りがたい仏法の門を今日過ぎた、今から地獄や畜生などの六道には引き返すな)「藤原定家」は、1201年後鳥羽上皇の熊野御幸に随行し、当時40歳で元々虚弱体質でもあり、宿や食事の手配をしたり、険しい道を歩くのは相当キツかったらしく、途中で体調を崩しながらやっと発心門にたどり着いた時で、この1201年には新古今和歌集の選者にも選ばれており(1205年完成)「虚栄心を捨てて六道には戻るまい」という心境であるらしい

  • 「皇太子殿下行啓の地」<br />現天皇陛下は皇太子時代の1992年行啓されて以来、結婚されてからも何回か御訪問されて、この険しい山道を歩かれている<br />

    「皇太子殿下行啓の地」
    現天皇陛下は皇太子時代の1992年行啓されて以来、結婚されてからも何回か御訪問されて、この険しい山道を歩かれている

  • 9:00「発心門王子」から又バス停の方に降りて、次の「水呑王子」へ進む

    9:00「発心門王子」から又バス停の方に降りて、次の「水呑王子」へ進む

  • 再び「発心門王子」休憩所から「熊野本宮大社」を目指す

    再び「発心門王子」休憩所から「熊野本宮大社」を目指す

  • 「中辺路62番」の500m標柱、<br />「近露王子」で「26番」だったから、36×500m=18km をパスしている

    「中辺路62番」の500m標柱、
    「近露王子」で「26番」だったから、36×500m=18km をパスしている

  • 次の「水呑王子」まで 1.4km標識<br />「梅は咲いたか 桜はまだかいな」

    次の「水呑王子」まで 1.4km標識
    「梅は咲いたか 桜はまだかいな」

  • 「ツバキ」と「シイタケ原木」と「ハチ養蜂箱」

    「ツバキ」と「シイタケ原木」と「ハチ養蜂箱」

  • 「河野翁彰徳碑」と「お地蔵さん」<br />漢文は良く分らないので後で調べると、「河野蔵人翁」は旧新宮藩士で、慶應年間(1865-1868)に荒廃した当地の開墾や灌漑など農地開発を推進した人

    「河野翁彰徳碑」と「お地蔵さん」
    漢文は良く分らないので後で調べると、「河野蔵人翁」は旧新宮藩士で、慶應年間(1865-1868)に荒廃した当地の開墾や灌漑など農地開発を推進した人

  • その頃のものかどうかは分からないが、ローマの水道橋のような「用水路」が残っている

    その頃のものかどうかは分からないが、ローマの水道橋のような「用水路」が残っている

  • シダ類は低地より多湿な山岳地帯に多く、日本には 700種のシダ植物があるが、熊野にはその半分の種類がある、と説明があった

    シダ類は低地より多湿な山岳地帯に多く、日本には 700種のシダ植物があるが、熊野にはその半分の種類がある、と説明があった

  • 途中には民家もあり、のどかな山里風景が広がる

    途中には民家もあり、のどかな山里風景が広がる

  • 「水呑王子」まで0.9km標識

    「水呑王子」まで0.9km標識

  • 懐かしの公衆電話発見

    懐かしの公衆電話発見

  • 直売所かと思ったが、、

    直売所かと思ったが、、

  • いろんなユーモラスな手彫りの人形が並ぶ「個展スペース」になっている

    いろんなユーモラスな手彫りの人形が並ぶ「個展スペース」になっている

  • 3本足だから八咫烏か、しっかり案内してくれている

    3本足だから八咫烏か、しっかり案内してくれている

  • 「中辺路64番」の500m標柱(発心門王子休憩所から1km)

    「中辺路64番」の500m標柱(発心門王子休憩所から1km)

  • 民家を抜けて再び杉林に入る

    民家を抜けて再び杉林に入る

  • 「歯痛の地蔵さん」らしい<br />

    「歯痛の地蔵さん」らしい

  • サクラの開花はもう少し

    サクラの開花はもう少し

  • 9:30「水呑王子」到着

    9:30「水呑王子」到着

  • 「水呑王子」(みずのみおうじ)<br />弘法大師(空海774-835)が杖で地面を突くと、そこから水が噴き出したという言い伝えのある古い歴史のある王子社で、社殿は明治の神社の統廃合で町内の神社に合祀され、現在はない

    「水呑王子」(みずのみおうじ)
    弘法大師(空海774-835)が杖で地面を突くと、そこから水が噴き出したという言い伝えのある古い歴史のある王子社で、社殿は明治の神社の統廃合で町内の神社に合祀され、現在はない

  • 「腰痛地蔵」(こしいたじぞう)<br />石碑の横の右のお地蔵さんは、撫でると腰痛が治まるという腰痛専門のお地蔵さん、語り部さんの説明がないと分からない

    「腰痛地蔵」(こしいたじぞう)
    石碑の横の右のお地蔵さんは、撫でると腰痛が治まるという腰痛専門のお地蔵さん、語り部さんの説明がないと分からない

  • 廃校になった小学校<br />明治9年(1876)開校の三里小学校三越分校で、昭和48年(1973)廃校となり、観光施設として使用されたが現在は廃業

    廃校になった小学校
    明治9年(1876)開校の三里小学校三越分校で、昭和48年(1973)廃校となり、観光施設として使用されたが現在は廃業

  • 「水呑王子」から次の「伏拝王子」(ふしおがみおうじ)へ向かう

    「水呑王子」から次の「伏拝王子」(ふしおがみおうじ)へ向かう

  • 全体的には下りコースだが、途中ではアップダウンもある

    全体的には下りコースだが、途中ではアップダウンもある

  • 「蘇生の森熊野古道」<br />「歴史ある熊野古道やそれを取り巻く森林の管理と保全を行い、訪れる人々にやすらぎと活力を提供することを目的に設置されてます」との説明がある

    「蘇生の森熊野古道」
    「歴史ある熊野古道やそれを取り巻く森林の管理と保全を行い、訪れる人々にやすらぎと活力を提供することを目的に設置されてます」との説明がある

  • 熊野市は面積の9割が山林で、その9割が人工林、さらにその6割が杉だという

    熊野市は面積の9割が山林で、その9割が人工林、さらにその6割が杉だという

  • 「中辺路66番」の500m標柱(発心門王子休憩所から2km)

    「中辺路66番」の500m標柱(発心門王子休憩所から2km)

  • 見事な杉木立

    見事な杉木立

  • 「笠地蔵」(かさじぞう)<br />冬は雪も深そう *「笠地蔵」は、おじいさんとおばあさんが雪に埋もれた地蔵に笠をかぶせてあげたら、恩返しに米や餅や小判などをもらう

    「笠地蔵」(かさじぞう)
    冬は雪も深そう *「笠地蔵」は、おじいさんとおばあさんが雪に埋もれた地蔵に笠をかぶせてあげたら、恩返しに米や餅や小判などをもらう

  • 「中辺路67番」の500m標柱

    「中辺路67番」の500m標柱

  • 看板に、この地域の花に指定されているという「ささゆり」の絵が描いてある、「ささゆり」は日本固有の野生のユリで、葉がササに似て、花は初夏に咲き、寿命はわずか10日の希少種

    看板に、この地域の花に指定されているという「ささゆり」の絵が描いてある、「ささゆり」は日本固有の野生のユリで、葉がササに似て、花は初夏に咲き、寿命はわずか10日の希少種

  • 山の地道から舗装道路に出てきた地点「伏拝王子」まで0.8km

    山の地道から舗装道路に出てきた地点「伏拝王子」まで0.8km

  • 集落の石垣

    集落の石垣

  • この集落はお茶畑が多い

    この集落はお茶畑が多い

  • 随分古そうだが、お茶畑の霜被害を防ぐための扇風機か?

    随分古そうだが、お茶畑の霜被害を防ぐための扇風機か?

  • お年寄りを見かけて、ホッとする

    お年寄りを見かけて、ホッとする

  • 「おばぁのちょっと一息コーナー」<br />閉まっているが直売所か

    「おばぁのちょっと一息コーナー」
    閉まっているが直売所か

  • 「中辺路68番」の500m標柱、「伏拝茶屋」へ<br />この井戸は、菊水地区にあるから「菊水井戸」というらしい *祇園祭の鉾町・菊水鉾町にある武野紹鴎が愛した井戸「菊水鉾の井跡」と同じ名前

    「中辺路68番」の500m標柱、「伏拝茶屋」へ
    この井戸は、菊水地区にあるから「菊水井戸」というらしい *祇園祭の鉾町・菊水鉾町にある武野紹鴎が愛した井戸「菊水鉾の井跡」と同じ名前

  • 「本宮祭」ポスター、大鳥居建立25周年4/13~15

    「本宮祭」ポスター、大鳥居建立25周年4/13~15

  • 村人あり

    村人あり

  • 「伏拝王子」まで300m

    「伏拝王子」まで300m

  • 「R168 十津川五条・新宮田辺」方面<br />国道168号は「五條新宮道路」で、奈良県五條市から和歌山県新宮市まで

    「R168 十津川五条・新宮田辺」方面
    国道168号は「五條新宮道路」で、奈良県五條市から和歌山県新宮市まで

  • 「本宮大社」へ4km、お茶屋さんの跡

    「本宮大社」へ4km、お茶屋さんの跡

  • 2001年NHK連続テレビ小説「ほんまもん」のロケ地<br />殆ど記憶にないが、熊野の山で育った地元の主人公が、料理人の道を目指し奮闘する姿を描くドラマらしい

    2001年NHK連続テレビ小説「ほんまもん」のロケ地
    殆ど記憶にないが、熊野の山で育った地元の主人公が、料理人の道を目指し奮闘する姿を描くドラマらしい

  • 地元富士「百前森山」(ひゃくぜんもりやま)<br />標高 782.7mで、山頂の平坦な広い場所で、侍達が酒盛をして100人の膳が並んだことからの命名で 旧三里村の「三里富士」とも呼ばれる

    地元富士「百前森山」(ひゃくぜんもりやま)
    標高 782.7mで、山頂の平坦な広い場所で、侍達が酒盛をして100人の膳が並んだことからの命名で 旧三里村の「三里富士」とも呼ばれる

  • 「果無山脈」(はてなしさんみゃく)<br />(案内板より)和田ノ森(1049m)、安堵山(1083m)、黒尾山(1235m)、冷水山(1270m)、石地力山(1140m)の連山を呼び東西に18km連なり、稜線は奈良県境となっている。高野山と熊野本宮大社を結ぶ参詣道が残り今なお行きかう人々もある。又、山頂よりの紀伊連山の眺望はすばらしく、遠くは熊野灘沖が一望できる。ブナの原生林、シャクナゲ、どうだんつつじ等々の高山植物や野獣の宝庫でもある。

    「果無山脈」(はてなしさんみゃく)
    (案内板より)和田ノ森(1049m)、安堵山(1083m)、黒尾山(1235m)、冷水山(1270m)、石地力山(1140m)の連山を呼び東西に18km連なり、稜線は奈良県境となっている。高野山と熊野本宮大社を結ぶ参詣道が残り今なお行きかう人々もある。又、山頂よりの紀伊連山の眺望はすばらしく、遠くは熊野灘沖が一望できる。ブナの原生林、シャクナゲ、どうだんつつじ等々の高山植物や野獣の宝庫でもある。

  • 天然アユ 15匹 1,500円

    天然アユ 15匹 1,500円

  • 舗装道路から再び山の地道に入ると、直売所の店番地蔵

    舗装道路から再び山の地道に入ると、直売所の店番地蔵

  • 10:10「伏拝王子」到着

    10:10「伏拝王子」到着

  • 階段を21段上がる

    階段を21段上がる

  • 「伏拝王子」(ふしおがみおうじ)の石祠(せきし:石の神殿)<br />京都を出発した熊野参詣の人々は、およそ260km歩いて、12日前後でこのあたりにたどり着き、熊野三山巡拝の最初の目的地である本宮が、遥か彼方の熊野川の中州に鎮座する光景を目の辺りにして、感動のあまり「伏して拝んだ」ということからこの地名が生まれた<br />

    「伏拝王子」(ふしおがみおうじ)の石祠(せきし:石の神殿)
    京都を出発した熊野参詣の人々は、およそ260km歩いて、12日前後でこのあたりにたどり着き、熊野三山巡拝の最初の目的地である本宮が、遥か彼方の熊野川の中州に鎮座する光景を目の辺りにして、感動のあまり「伏して拝んだ」ということからこの地名が生まれた

  • 「皇太子殿下行啓の地」平成4年(1992)5月27日<br />「熊野本宮大社」(大斎原)が見える

    「皇太子殿下行啓の地」平成4年(1992)5月27日
    「熊野本宮大社」(大斎原)が見える

  • 「和泉式部の供養塔」<br />(和泉式部伝説によると)、和泉式部が熊野詣でようやく「伏拝王子」までたどり着いたときに月の障り(月経)になる。昔は神社参詣に血の穢れは禁物であったため、和泉式部は参拝を諦め、次の歌を詠んだ。「晴れやらぬ 身の浮き雲の かさなりて 月のさはりと なるぞくるしき」すると、熊野権現が現れて、和泉式部に歌を返した。「もとよりも 塵にまじはる 神なれば 月のさはりも 何かくるしき」こうして和泉式部はそのまま熊野本宮へ参詣することができたという<br />

    「和泉式部の供養塔」
    (和泉式部伝説によると)、和泉式部が熊野詣でようやく「伏拝王子」までたどり着いたときに月の障り(月経)になる。昔は神社参詣に血の穢れは禁物であったため、和泉式部は参拝を諦め、次の歌を詠んだ。「晴れやらぬ 身の浮き雲の かさなりて 月のさはりと なるぞくるしき」すると、熊野権現が現れて、和泉式部に歌を返した。「もとよりも 塵にまじはる 神なれば 月のさはりも 何かくるしき」こうして和泉式部はそのまま熊野本宮へ参詣することができたという

  • 「伏拝茶屋」無料休憩所(温泉コーヒー200円)

    「伏拝茶屋」無料休憩所(温泉コーヒー200円)

  • 「大谷さーん」の力水ろ共に、本宮大社まで 3.3km

    「大谷さーん」の力水ろ共に、本宮大社まで 3.3km

  • NHKの連続テレビ小説「ほんまもん」ロケ地<br />この前の民家が、主人公の生家になったらしい

    NHKの連続テレビ小説「ほんまもん」ロケ地
    この前の民家が、主人公の生家になったらしい

  • 「中辺路69番」の500m標柱

    「中辺路69番」の500m標柱

  • 「中辺路70番」の500m標柱

    「中辺路70番」の500m標柱

  • 「ヒメカンアオイ」<br />語り部さんが途中で山野草の説明をしてくれるが、良く分らない

    「ヒメカンアオイ」
    語り部さんが途中で山野草の説明をしてくれるが、良く分らない

  • 「中辺路71番」の500m標柱

    「中辺路71番」の500m標柱

  • 「三軒茶屋の橋」が見えてきた<br />橋の上が「熊野古道」で、手前「伏拝王子」先方「熊野本宮大社」と書いてある

    「三軒茶屋の橋」が見えてきた
    橋の上が「熊野古道」で、手前「伏拝王子」先方「熊野本宮大社」と書いてある

  • 正式名は「九鬼ヶ口(くきがぐち)吊橋」<br />昔は橋がなかったが、平成4年(1992)皇太子行啓の時に出来たという

    正式名は「九鬼ヶ口(くきがぐち)吊橋」
    昔は橋がなかったが、平成4年(1992)皇太子行啓の時に出来たという

  • 10:50「三軒茶屋跡」到着<br />橋を渡ったところに「三軒茶屋跡休憩所」がある、ここは高野山へ通じる「小辺路」と田辺からの「中辺路」の合流点で、江戸時代に三軒の茶屋があって、「中辺路銀座」と呼ばれるほどの賑わいだったという

    10:50「三軒茶屋跡」到着
    橋を渡ったところに「三軒茶屋跡休憩所」がある、ここは高野山へ通じる「小辺路」と田辺からの「中辺路」の合流点で、江戸時代に三軒の茶屋があって、「中辺路銀座」と呼ばれるほどの賑わいだったという

  • 「九鬼ヶ口関所」(くきがぐちせきしょ)<br />その先に「関所」がある、元々国道168号の辺りにあったが、ここに復元した

    「九鬼ヶ口関所」(くきがぐちせきしょ)
    その先に「関所」がある、元々国道168号の辺りにあったが、ここに復元した

  • 「関所」を通るには通行手形と通行料が必要だったが、江戸時代の文久年間(1861~)で十文(約200円)

    「関所」を通るには通行手形と通行料が必要だったが、江戸時代の文久年間(1861~)で十文(約200円)

  • 石標「右かうや十九り半/左きみい寺三十一り半/みち」<br />右:高野山19里半(78km)、左:紀三井寺31里半(126km)、

    石標「右かうや十九り半/左きみい寺三十一り半/みち」
    右:高野山19里半(78km)、左:紀三井寺31里半(126km)、

  • 高野山からの「小辺路」が、ここで「中辺路」と合流

    高野山からの「小辺路」が、ここで「中辺路」と合流

  • この辺りは「お花畑」と言われ、語り部さんの説明では、この時期にしか見れない「バイカオウレン」という梅に似た可憐な花があるというので探す

    この辺りは「お花畑」と言われ、語り部さんの説明では、この時期にしか見れない「バイカオウレン」という梅に似た可憐な花があるというので探す

  • 「バイカオウレン」(梅花黄連)<br />高知県の山肌に全国有数の自生地があり「牧野富太郎」が好んだことで知られ、1~3月上旬ごろに咲く多年草で「森の妖精」と呼ばれる

    「バイカオウレン」(梅花黄連)
    高知県の山肌に全国有数の自生地があり「牧野富太郎」が好んだことで知られ、1~3月上旬ごろに咲く多年草で「森の妖精」と呼ばれる

  • 「中辺路72番」の500m標柱<br />関所を過ぎると、少し緩やかな上りが続き、シダ類や整備された杉・ヒノキの人工林が続く

    「中辺路72番」の500m標柱
    関所を過ぎると、少し緩やかな上りが続き、シダ類や整備された杉・ヒノキの人工林が続く

  • 「中辺路73番」の500m標柱

    「中辺路73番」の500m標柱

  • 「ちょっとより道」の表示板

    「ちょっとより道」の表示板

  • 古道から外れて「木の根道」の小高い丘に寄り道する

    古道から外れて「木の根道」の小高い丘に寄り道する

  • 「展望台」に到着<br />「和歌山県の夕日100選」に選ばれた見晴し台

    「展望台」に到着
    「和歌山県の夕日100選」に選ばれた見晴し台

  • 「大斎原(おおゆのはら)の大鳥居」<br />「伏拝王子」からも見えたが、ここからは「熊野川」と「大斎原」と「大鳥居」がはっきり見える

    「大斎原(おおゆのはら)の大鳥居」
    「伏拝王子」からも見えたが、ここからは「熊野川」と「大斎原」と「大鳥居」がはっきり見える

  • 元の熊野古道に戻る

    元の熊野古道に戻る

  • この辺の石畳は江戸時代のもの、斜め溝は斜面から流れ込む雨水を反対側の斜面に落とす排水溝(洗い越し?)で、石畳を保存する工夫は江戸時代からある

    この辺の石畳は江戸時代のもの、斜め溝は斜面から流れ込む雨水を反対側の斜面に落とす排水溝(洗い越し?)で、石畳を保存する工夫は江戸時代からある

  • シダに囲まれた「三体のお地蔵さん」は、昔は熊野詣の途中で行き倒れる人も多かったので、こういう人を弔ったものだという

    シダに囲まれた「三体のお地蔵さん」は、昔は熊野詣の途中で行き倒れる人も多かったので、こういう人を弔ったものだという

  • 「中辺路74番」の500m標柱

    「中辺路74番」の500m標柱

  • 「祓殿」(はらいど)石塚<br />最近の発掘調査で見つかった江戸時代後半の石塚で、参拝者が穢れを清め道中の安全を祈念するため積み上げたのではないかと考えられる.又それ以前の石列や宝篋印塔の一部分なども出土しているから、鎌倉から室町時代には既に何らかの信仰遺跡がこの地にあったのでないかと思われる

    「祓殿」(はらいど)石塚
    最近の発掘調査で見つかった江戸時代後半の石塚で、参拝者が穢れを清め道中の安全を祈念するため積み上げたのではないかと考えられる.又それ以前の石列や宝篋印塔の一部分なども出土しているから、鎌倉から室町時代には既に何らかの信仰遺跡がこの地にあったのでないかと思われる

  • 「熊野本宮大社」へ0.4km

    「熊野本宮大社」へ0.4km

  • 「祓殿王子」(はらいどおうじ)へ0.3km

    「祓殿王子」(はらいどおうじ)へ0.3km

  • 「祓殿王子」と「中辺路75番」の500m標柱<br />(案内板より)前世と現世に心身に積もった穢れを祓(はら)い清め、日本第一の霊験(れいげん)をもって知られる熊野三所権現の神威にすがって、祈願し、生命力を蘇らせることを目的とする熊野参詣では、禊ぎ(みそぎ)や祓いが重視された。中でもこの王子での祓いは、熊野本宮参詣の前に行うもので、これまでの道中での祓いにも増して重要であった。天仁二年(1109)に貴族・藤原宗忠(1062-1141)は、水呑王子に参拝したのち野路をたどり、祓いを済ませてから本宮の宿所に入って、翌日の参拝に備えた。また、およそ百年後の建仁元年(1201)に、和歌の講師として熊野御幸に供奉(ぐぶ)した貴族・藤原定家(1162-1241)は、この王子近くの地蔵堂で後鳥羽上皇の一行を待ち、本宮の神前に向かった。

    「祓殿王子」と「中辺路75番」の500m標柱
    (案内板より)前世と現世に心身に積もった穢れを祓(はら)い清め、日本第一の霊験(れいげん)をもって知られる熊野三所権現の神威にすがって、祈願し、生命力を蘇らせることを目的とする熊野参詣では、禊ぎ(みそぎ)や祓いが重視された。中でもこの王子での祓いは、熊野本宮参詣の前に行うもので、これまでの道中での祓いにも増して重要であった。天仁二年(1109)に貴族・藤原宗忠(1062-1141)は、水呑王子に参拝したのち野路をたどり、祓いを済ませてから本宮の宿所に入って、翌日の参拝に備えた。また、およそ百年後の建仁元年(1201)に、和歌の講師として熊野御幸に供奉(ぐぶ)した貴族・藤原定家(1162-1241)は、この王子近くの地蔵堂で後鳥羽上皇の一行を待ち、本宮の神前に向かった。

  • 「祓殿王子社跡」(はらいどおうじ)<br />本宮大社の旧社地(大斎原)まで数百m地点にあり、本宮大社参拝の直前に身を清める潔斎所(けっさいしょ)だった

    「祓殿王子社跡」(はらいどおうじ)
    本宮大社の旧社地(大斎原)まで数百m地点にあり、本宮大社参拝の直前に身を清める潔斎所(けっさいしょ)だった

  • 12:00「熊野本宮大社」到着<br />熊野本宮大社の裏鳥居から、裏参道を進む

    12:00「熊野本宮大社」到着
    熊野本宮大社の裏鳥居から、裏参道を進む

  • 「熊野本宮大社」は樹木崇拝<br />「熊野本宮大社」の主祭神は、樹木を支配される神で、紀の国(木の国)の語源にもなっているだけあって、入り口から神々しい樹林に囲まれて、独特の雰囲気を醸し出す、熊野古道は鳥居横の道なので、鳥居はくぐらず細い道を進む

    「熊野本宮大社」は樹木崇拝
    「熊野本宮大社」の主祭神は、樹木を支配される神で、紀の国(木の国)の語源にもなっているだけあって、入り口から神々しい樹林に囲まれて、独特の雰囲気を醸し出す、熊野古道は鳥居横の道なので、鳥居はくぐらず細い道を進む

  • 裏参道から檜皮葺き(ひわだぶき)の社殿が見える

    裏参道から檜皮葺き(ひわだぶき)の社殿が見える

  • 「枝垂れ桜」の前には「拝殿」と、その先に「神門」があり、八咫烏と干支の巳と穏(平穏無事)が入った幟が際立つ!

    「枝垂れ桜」の前には「拝殿」と、その先に「神門」があり、八咫烏と干支の巳と穏(平穏無事)が入った幟が際立つ!

  • 「八咫烏絵馬掛」<br />郵送も出来る「ポスト絵馬」もあり、隣にある「たらようの木」は、「葉書の木」「手紙の木」とも呼ばれ、葉の裏に針などでお経や手紙を書いたといわれ「葉書」の語源となった木

    「八咫烏絵馬掛」
    郵送も出来る「ポスト絵馬」もあり、隣にある「たらようの木」は、「葉書の木」「手紙の木」とも呼ばれ、葉の裏に針などでお経や手紙を書いたといわれ「葉書」の語源となった木

  • 「八咫ポスト」<br />25周年記念鳥居と八咫烏が地球儀を背負い、しめ縄まである黒いポストは、「このヤタポストが地球を背負う形は、世界の平和を願い、かけがえのない地球の自然を保つことの大切さを、ここ熊野からのメッセージとして表現しています」と書かれている<br /><br />

    「八咫ポスト」
    25周年記念鳥居と八咫烏が地球儀を背負い、しめ縄まである黒いポストは、「このヤタポストが地球を背負う形は、世界の平和を願い、かけがえのない地球の自然を保つことの大切さを、ここ熊野からのメッセージとして表現しています」と書かれている

  • 「拝殿」<br />神門の外側で参拝者が祈りを捧げる場所で、神門や社殿の檜皮葺きと違って瓦屋根葺きの建物になっている、ここの拝殿では、毎年年末に来年の願いを込めた「一文字揮毫」があって、今年は「思」(おもい)、昨年は「運」、その前は「力」、何故か、拝殿前にはその「力」の文字

    「拝殿」
    神門の外側で参拝者が祈りを捧げる場所で、神門や社殿の檜皮葺きと違って瓦屋根葺きの建物になっている、ここの拝殿では、毎年年末に来年の願いを込めた「一文字揮毫」があって、今年は「思」(おもい)、昨年は「運」、その前は「力」、何故か、拝殿前にはその「力」の文字

  • 立派な「狛犬」<br />胸に鈴をつけて、右・阿形、左・吽形ともに雄というのは珍しいらしい

    立派な「狛犬」
    胸に鈴をつけて、右・阿形、左・吽形ともに雄というのは珍しいらしい

  • 拝殿の左右には「八咫烏」のレリーフと、左側に金運がアップすると言われる「大黒石」

    拝殿の左右には「八咫烏」のレリーフと、左側に金運がアップすると言われる「大黒石」

  • 右側には健康長寿の石といわれる「亀石」

    右側には健康長寿の石といわれる「亀石」

  • 「神門」と「八咫烏」(やたがらす)<br />「八咫烏」は三本足の烏で、神武天皇が熊野から大和へ進軍する際に道案内をしたと伝えられる重要なシンボルで、「導きの神」として信仰され、特に交通安全や道開きのご利益があるとされ、平安時代の蹴鞠の名人・藤原成道も、蹴鞠上達のために50回以上も熊野詣をしたという。また日本サッカー協会のマークにもなっており、今も多くのサッカー関係者の参拝者が訪れ必勝祈願をしている

    「神門」と「八咫烏」(やたがらす)
    「八咫烏」は三本足の烏で、神武天皇が熊野から大和へ進軍する際に道案内をしたと伝えられる重要なシンボルで、「導きの神」として信仰され、特に交通安全や道開きのご利益があるとされ、平安時代の蹴鞠の名人・藤原成道も、蹴鞠上達のために50回以上も熊野詣をしたという。また日本サッカー協会のマークにもなっており、今も多くのサッカー関係者の参拝者が訪れ必勝祈願をしている

  • 「八咫烏」(やたがらす)由来<br />(案内板より)熊野では「八咫烏」を神の使者と言われ、三本足は主祭神の御神徳である「天・地・人」を表している。烏は一般に不吉の鳥とされるが、方角を知るので未知の地へ行く道案内や、遠隔地へ送る使者の役目をするとされており、熊野の地へ神武天皇御東征の折り、天皇が奥深い熊野の山野に迷った時、お導き申し上げた、又、歴史上では源平合戦の時、那須与一出身地の烏山城は烏が金の御幣(神のお告げ)をこの地にもたらしたので築城したといわれる。また2011年女子サッカーワールドカップでなでしこジャパンが優勝した時は、全員がこの八咫烏のお守りを持参して戦い、八咫烏が優勝に導いてくれた

    「八咫烏」(やたがらす)由来
    (案内板より)熊野では「八咫烏」を神の使者と言われ、三本足は主祭神の御神徳である「天・地・人」を表している。烏は一般に不吉の鳥とされるが、方角を知るので未知の地へ行く道案内や、遠隔地へ送る使者の役目をするとされており、熊野の地へ神武天皇御東征の折り、天皇が奥深い熊野の山野に迷った時、お導き申し上げた、又、歴史上では源平合戦の時、那須与一出身地の烏山城は烏が金の御幣(神のお告げ)をこの地にもたらしたので築城したといわれる。また2011年女子サッカーワールドカップでなでしこジャパンが優勝した時は、全員がこの八咫烏のお守りを持参して戦い、八咫烏が優勝に導いてくれた

  • 「神門」<br />正面に今年の干支の「絵馬」と「しめ縄」で、神聖な領域と現世を隔てる結界とし、不浄なものや悪霊が入れないようにし、左側には「招霊(おがたま)の木」があり神霊を招き入れる

    「神門」
    正面に今年の干支の「絵馬」と「しめ縄」で、神聖な領域と現世を隔てる結界とし、不浄なものや悪霊が入れないようにし、左側には「招霊(おがたま)の木」があり神霊を招き入れる

  • 「熊野大権現」(くまのだいごんげん)<br />「熊野権現」は、熊野三山に祀られる神であり、神仏習合思想のもとで八百万の神々は仏が化身として日本の地に現れた「権現」(ごんげん)と呼ばれるようになった、特に熊野三山の主祭神である「本宮大社」の「家都美御子神」(けつみみこのかみ=スサノオノミコト)、「速玉大社」の「速玉神」(はやたまのかみ=イザナギノミコト)、「那智大社」の「夫須美神」(ふすみのかみ=イザナミノミコト)は「熊野三所権現」と呼ばれ、相互に主祭神を勧請し合い一緒に祀ることで連帯関係を結んでいる、そして、仏が神の姿をかりて現れた本地仏(ほんじぶつ)として「家都美御子神」は阿弥陀如来(未来を司る)、「速玉神」は薬師如来(過去を司る)、「夫須美神」は千手観音(現在を司る)とされ、三山はそれぞれ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落浄土の地であると考えられ、平安時代以降には熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになった、また、他の神々も併せて「熊野十二所権現」と呼ばれ、それぞれに祀られている

    「熊野大権現」(くまのだいごんげん)
    「熊野権現」は、熊野三山に祀られる神であり、神仏習合思想のもとで八百万の神々は仏が化身として日本の地に現れた「権現」(ごんげん)と呼ばれるようになった、特に熊野三山の主祭神である「本宮大社」の「家都美御子神」(けつみみこのかみ=スサノオノミコト)、「速玉大社」の「速玉神」(はやたまのかみ=イザナギノミコト)、「那智大社」の「夫須美神」(ふすみのかみ=イザナミノミコト)は「熊野三所権現」と呼ばれ、相互に主祭神を勧請し合い一緒に祀ることで連帯関係を結んでいる、そして、仏が神の姿をかりて現れた本地仏(ほんじぶつ)として「家都美御子神」は阿弥陀如来(未来を司る)、「速玉神」は薬師如来(過去を司る)、「夫須美神」は千手観音(現在を司る)とされ、三山はそれぞれ、本宮は西方極楽浄土、新宮は東方浄瑠璃浄土、那智は南方補陀落浄土の地であると考えられ、平安時代以降には熊野全体が浄土の地であるとみなされるようになった、また、他の神々も併せて「熊野十二所権現」と呼ばれ、それぞれに祀られている

  • 「4つの社殿」と参拝の順番(二礼二拍手一礼)<br />左から① 西御前、② 中御前、③ 証誠殿(しょうじょうでん)、④ 若宮 で、参拝は ③ 証誠殿(家津美御子神)→② 中御前(速玉神)→① 西御前(夫須美神)→④ 若宮(天照大神)の順番で、最後に境内社の ⑤ 満山社 の順番

    「4つの社殿」と参拝の順番(二礼二拍手一礼)
    左から① 西御前、② 中御前、③ 証誠殿(しょうじょうでん)、④ 若宮 で、参拝は ③ 証誠殿(家津美御子神)→② 中御前(速玉神)→① 西御前(夫須美神)→④ 若宮(天照大神)の順番で、最後に境内社の ⑤ 満山社 の順番

  • 「4つの社殿」の右側は、③「証誠殿」(しょうじょうでん)と ④「若宮」<br />③「証誠殿」(しょうじょうでん)には、主祭神「家都美御子神」(けつみみこのかみ)を祀る、スサノオノミコト(素戔嗚尊)と同神とされ、イザナギ(伊弉諾尊)とイザナミ(伊奘冉尊)の子供  ④「若宮」には、「天照大神」(あまてらすおおかみ)を祀る、日本神話の最高神でスサノオの妹(性別不明?)、神武天皇は5代後の子孫で皇室の祖先となり、伊勢神宮(内宮〕のご祭神

    「4つの社殿」の右側は、③「証誠殿」(しょうじょうでん)と ④「若宮」
    ③「証誠殿」(しょうじょうでん)には、主祭神「家都美御子神」(けつみみこのかみ)を祀る、スサノオノミコト(素戔嗚尊)と同神とされ、イザナギ(伊弉諾尊)とイザナミ(伊奘冉尊)の子供  ④「若宮」には、「天照大神」(あまてらすおおかみ)を祀る、日本神話の最高神でスサノオの妹(性別不明?)、神武天皇は5代後の子孫で皇室の祖先となり、伊勢神宮(内宮〕のご祭神

  • 「4つの社殿」左側は、①「西御前」と ②「中御前」<br />①「西御前」は、那智大社の主祭神「夫須美神」(ふすみのかみ)を祀る、イザナミノミコト(伊奘冉尊)と同神とされ、スサノオ(素戔嗚尊)の母  ②「中御前」は、速玉大社の主祭神「速玉神」(はやたまのかみ)を祀る、イザナギノミコト(伊弉諾尊)と同神とされ、スサノオ(素戔嗚尊)の父、この2人は日本で最初の夫婦神で、縁結びや家内安全の御利益があるとされる

    「4つの社殿」左側は、①「西御前」と ②「中御前」
    ①「西御前」は、那智大社の主祭神「夫須美神」(ふすみのかみ)を祀る、イザナミノミコト(伊奘冉尊)と同神とされ、スサノオ(素戔嗚尊)の母  ②「中御前」は、速玉大社の主祭神「速玉神」(はやたまのかみ)を祀る、イザナギノミコト(伊弉諾尊)と同神とされ、スサノオ(素戔嗚尊)の父、この2人は日本で最初の夫婦神で、縁結びや家内安全の御利益があるとされる

  • 社殿の右手に ⑤「満山社」(まんざんしゃ)<br />最後の参拝は、境内社の満山社で、結びの神、八百萬の神として玉石をお祀りしている

    社殿の右手に ⑤「満山社」(まんざんしゃ)
    最後の参拝は、境内社の満山社で、結びの神、八百萬の神として玉石をお祀りしている

  • 「後白河上皇の歌碑」<br />「咲きにほふ 花の景色を見るからに 神のこころそ そらにしらるる」(咲きほこる花の様子を見るたびに、熊野の神の御心が、それとなく知られる) 「後白河上皇」(1053-1129)は、在院期間35年で34回の熊野御幸を行い、孫にあたる「後鳥羽上皇」(1180-1239)は在院期間24年で28回行っている

    「後白河上皇の歌碑」
    「咲きにほふ 花の景色を見るからに 神のこころそ そらにしらるる」(咲きほこる花の様子を見るたびに、熊野の神の御心が、それとなく知られる) 「後白河上皇」(1053-1129)は、在院期間35年で34回の熊野御幸を行い、孫にあたる「後鳥羽上皇」(1180-1239)は在院期間24年で28回行っている

  • 「後鳥羽上皇の歌碑」<br />「はるばると さかしき峠を わけ過ぎて 音無川を今日みつるかな」(遥々と険しい峠を過ぎて、熊野本宮がある音無川を今日見たことだ) 「後鳥羽上皇」は、和歌にも熱心で、1201年には「新古今和歌集」の選者に指名した「藤原定家」を随行として熊野御幸を行い、険しい道を歩くのが相当キツかった様子が、今日歩いてきた「発心門王子」に歌碑として残っている

    「後鳥羽上皇の歌碑」
    「はるばると さかしき峠を わけ過ぎて 音無川を今日みつるかな」(遥々と険しい峠を過ぎて、熊野本宮がある音無川を今日見たことだ) 「後鳥羽上皇」は、和歌にも熱心で、1201年には「新古今和歌集」の選者に指名した「藤原定家」を随行として熊野御幸を行い、険しい道を歩くのが相当キツかった様子が、今日歩いてきた「発心門王子」に歌碑として残っている

  • 「御由緒」の案内板と「旧社号標」<br />右手駒札は「旧社号標」で、「当社は現在熊野本宮大社であるが、明治四年「熊野坐神社」(くまのにいますじんじゃ)を正式社号として登録、公表した」とある、また「御由緒の案内板」では、「当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、 全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現として広く知られており、御主神は家都美御子大神即ち素戔嗚尊で、 樹木を支配される神で紀国(木ノ国)の語源もここから 起こっている。大神は植林を奨励し造船の技術を教えられ外国との 交通を開かれ、第十代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を 造営した。奈良朝のころから修験の行者が頻繁にここに出入りして修行し、 延喜七年(約千年前) 宇多法皇の御幸をはじめ約三百年にわたり法皇、上皇、如院の 御幸は実に百数十回に及んだ。これと前後して当時の神仏習合によって御主神を阿弥陀如来と いって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者が全国各地から集まり「蟻の熊野詣」とか「伊勢に七度熊野に三度 どちらが欠けても片参り」などとうたわれ、全国に分社を祀り現在約五千数社を数える。その後源平の争乱、承久の変、南北朝の戦乱とさまざまの変災の 渦中にありながら人心の信仰はますます高まり、当宮の神威は明治まで全国に伝播した。現在の社殿は享和二年(1801)徳川家斉将軍の命によって紀州侯治宝卿が音無里(現本宮町大斉の原)に建立されたが、 明治二十二年の大出水にあって現社地に修造して遷座された。この社殿のつくり方を「熊野造」という。なお旧社地は別社地と呼び石祠二殿を仮宮として西方に 中四社、下四社を東方に元境内摂末社を合祠した」

    「御由緒」の案内板と「旧社号標」
    右手駒札は「旧社号標」で、「当社は現在熊野本宮大社であるが、明治四年「熊野坐神社」(くまのにいますじんじゃ)を正式社号として登録、公表した」とある、また「御由緒の案内板」では、「当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、 全国に散在する熊野神社の総本宮で、熊野大権現として広く知られており、御主神は家都美御子大神即ち素戔嗚尊で、 樹木を支配される神で紀国(木ノ国)の語源もここから 起こっている。大神は植林を奨励し造船の技術を教えられ外国との 交通を開かれ、第十代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を 造営した。奈良朝のころから修験の行者が頻繁にここに出入りして修行し、 延喜七年(約千年前) 宇多法皇の御幸をはじめ約三百年にわたり法皇、上皇、如院の 御幸は実に百数十回に及んだ。これと前後して当時の神仏習合によって御主神を阿弥陀如来と いって尊び、日本一といわれた霊験を仰ごうとする参詣者が全国各地から集まり「蟻の熊野詣」とか「伊勢に七度熊野に三度 どちらが欠けても片参り」などとうたわれ、全国に分社を祀り現在約五千数社を数える。その後源平の争乱、承久の変、南北朝の戦乱とさまざまの変災の 渦中にありながら人心の信仰はますます高まり、当宮の神威は明治まで全国に伝播した。現在の社殿は享和二年(1801)徳川家斉将軍の命によって紀州侯治宝卿が音無里(現本宮町大斉の原)に建立されたが、 明治二十二年の大出水にあって現社地に修造して遷座された。この社殿のつくり方を「熊野造」という。なお旧社地は別社地と呼び石祠二殿を仮宮として西方に 中四社、下四社を東方に元境内摂末社を合祠した」

  • 「旧御本宮御社殿絵図」<br />(説明板より)明治22年の大洪水で流出する前の姿を描いたもので、旧社殿は熊野川・音無川・岩田川の合流点にある中洲の「大斎原」(おおゆのはら)に江戸時代(1801)に建立され、かろうじて流出を免れた御本殿(上四社)が現社地にを移築された

    「旧御本宮御社殿絵図」
    (説明板より)明治22年の大洪水で流出する前の姿を描いたもので、旧社殿は熊野川・音無川・岩田川の合流点にある中洲の「大斎原」(おおゆのはら)に江戸時代(1801)に建立され、かろうじて流出を免れた御本殿(上四社)が現社地にを移築された

  • 「熊野本宮祭」<br />毎年4月13から15日にかけて行われ、13日の「湯登神事」(ゆのぼりしんじ)では、宮司以下の神職者ら総勢40~50人が熊野本宮大社から湯の峰で身を清め大斎原まで歩き、15日の「渡御祭」(とぎょさい)では、地元の人や観光客ら500人が順番に神輿を担いで、熊野本宮大社から大斎原までご神体の御霊(みたま)を乗せて移す

    「熊野本宮祭」
    毎年4月13から15日にかけて行われ、13日の「湯登神事」(ゆのぼりしんじ)では、宮司以下の神職者ら総勢40~50人が熊野本宮大社から湯の峰で身を清め大斎原まで歩き、15日の「渡御祭」(とぎょさい)では、地元の人や観光客ら500人が順番に神輿を担いで、熊野本宮大社から大斎原までご神体の御霊(みたま)を乗せて移す

  • 正面の「大鳥居」に向けて 158段の石段参道を下る<br />両脇の「熊野大権現」幟旗は、初穂料1万円で1年間掲げるらしい *伏見稲荷大社の「千本鳥居」の初穂料は30~190万円だが、期間制限はない

    正面の「大鳥居」に向けて 158段の石段参道を下る
    両脇の「熊野大権現」幟旗は、初穂料1万円で1年間掲げるらしい *伏見稲荷大社の「千本鳥居」の初穂料は30~190万円だが、期間制限はない

  • 12:20「熊野本宮大社大鳥居」<br />裏鳥居から入ったので、正面の「大鳥居」から俗界に出る

    12:20「熊野本宮大社大鳥居」
    裏鳥居から入ったので、正面の「大鳥居」から俗界に出る

  • 「大鳥居建立25周年」<br />これから行く「大斎原」(おおゆのはら)は、紀元前に創建された熊野信仰発祥の地であるが、明治22年(1889)夏の大水害で尽く押し流されてしまい、かろうじて流出を免れた御本殿だけが明治24年(1891)に現社地に再建され、跡地だけが残されていて、皇紀2660年(西暦2000年)の節目にこの「大鳥居」が建立された(皇紀2685年は神武天皇の即位を元年とした年で令和7年・2025年)

    「大鳥居建立25周年」
    これから行く「大斎原」(おおゆのはら)は、紀元前に創建された熊野信仰発祥の地であるが、明治22年(1889)夏の大水害で尽く押し流されてしまい、かろうじて流出を免れた御本殿だけが明治24年(1891)に現社地に再建され、跡地だけが残されていて、皇紀2660年(西暦2000年)の節目にこの「大鳥居」が建立された(皇紀2685年は神武天皇の即位を元年とした年で令和7年・2025年)

  • 「是日本第一本宮大斎原・一遍上人神勅念佛開顕地」<br />「大斎原」に向かう途中の石標で、「一遍上人」は、熊野本宮大社でご神託を得てから全国布教を進め日本中に広めていったことに因む<br />

    「是日本第一本宮大斎原・一遍上人神勅念佛開顕地」
    「大斎原」に向かう途中の石標で、「一遍上人」は、熊野本宮大社でご神託を得てから全国布教を進め日本中に広めていったことに因む

  • 「産田社」(うぶたしゃ)があるが、ここはパス<br />本宮と旧社地の間にある摂社で、八百万の神々を生み出したとされる「伊邪那美命」(いざなみのみこと)がお祀りされ、「生みのちから」を感じる場所

    「産田社」(うぶたしゃ)があるが、ここはパス
    本宮と旧社地の間にある摂社で、八百万の神々を生み出したとされる「伊邪那美命」(いざなみのみこと)がお祀りされ、「生みのちから」を感じる場所

  • 「大斎原の大鳥居」(おおゆのはら)<br />「伏拝王子」(ふしおがみおうじ)から見えた「大鳥居」が、田んぼの中に突如として現れる、「高さ33.9m・幅42m」は、日本一の大きさ *2番は奈良・大神(おおみわ)神社 32.2m、京都で最も大きい平安神宮は 24.4m、靖国神社は 25m

    「大斎原の大鳥居」(おおゆのはら)
    「伏拝王子」(ふしおがみおうじ)から見えた「大鳥居」が、田んぼの中に突如として現れる、「高さ33.9m・幅42m」は、日本一の大きさ *2番は奈良・大神(おおみわ)神社 32.2m、京都で最も大きい平安神宮は 24.4m、靖国神社は 25m

  • 「日本一の大鳥居」<br />2000年(平成12年)の建立で、その頃バブル経済が崩壊し、企業の倒産が増えたり社会不安が増す中、先代の宮司が「熊野から人々の安泰や世界平和を願いたい」として建立したという

    「日本一の大鳥居」
    2000年(平成12年)の建立で、その頃バブル経済が崩壊し、企業の倒産が増えたり社会不安が増す中、先代の宮司が「熊野から人々の安泰や世界平和を願いたい」として建立したという

  • 「日本第一大鳥居建立の意義」<br />(説明板より)人心が神と自然から離れつつある今日、当社の最も危惧するところは「命脈の護持」であり次の時代へ日本の心(精神・魂)の復活を祈念するとことであります。皇紀二六六一年(西暦2001年)を迎えた節目に当たり「日本人の精神(心)の蘇り、日本経済の再生、環境の大切さの再認識、国内は基より世界人類平和」を祈念し、熊野信仰の原点となる大斎原に、日本最大の第一大鳥居を建立する運びとなった次第です。<br />

    「日本第一大鳥居建立の意義」
    (説明板より)人心が神と自然から離れつつある今日、当社の最も危惧するところは「命脈の護持」であり次の時代へ日本の心(精神・魂)の復活を祈念するとことであります。皇紀二六六一年(西暦2001年)を迎えた節目に当たり「日本人の精神(心)の蘇り、日本経済の再生、環境の大切さの再認識、国内は基より世界人類平和」を祈念し、熊野信仰の原点となる大斎原に、日本最大の第一大鳥居を建立する運びとなった次第です。

  • 「熊野本宮旧社地」参道<br />熊野本宮旧社殿は、写真左手を流れる「熊野川」に音無川、岩田川が合流する地点に出来た中洲である「大斎原」(おおゆのはら)に、崇神天皇の紀元前33年、3体の月(今の熊野三山の3主祭神)が降臨し創建された熊野信仰発祥の地で、現在の本宮大社の8倍もの規模があり、大鳥居をくぐり杉並木に囲まれた参道を進んでいくと、しだいに空気が変わり神聖な雰囲気を醸し出す *崇神(すじん)天皇は、紀元前660年の初代神武天皇から10代目

    「熊野本宮旧社地」参道
    熊野本宮旧社殿は、写真左手を流れる「熊野川」に音無川、岩田川が合流する地点に出来た中洲である「大斎原」(おおゆのはら)に、崇神天皇の紀元前33年、3体の月(今の熊野三山の3主祭神)が降臨し創建された熊野信仰発祥の地で、現在の本宮大社の8倍もの規模があり、大鳥居をくぐり杉並木に囲まれた参道を進んでいくと、しだいに空気が変わり神聖な雰囲気を醸し出す *崇神(すじん)天皇は、紀元前660年の初代神武天皇から10代目

  • 「世界遺産登録」2004年7月<br />熊野は「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された。修験道の拠点である「吉野・大峯」、熊野信仰の中心地である「熊野三山」、真言密教の根本道場である「高野山」の三霊場及び、これらを結ぶ「参詣道」から構成され、三重・奈良・和歌山にまたがる。「道の世界遺産」としては、フランス・スペインの「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」と2つだけ、手前の「手水舎」には「魂」の球体に注連縄と、神武天皇を道案内したと伝わる「八咫烏」もいる

    「世界遺産登録」2004年7月
    熊野は「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された。修験道の拠点である「吉野・大峯」、熊野信仰の中心地である「熊野三山」、真言密教の根本道場である「高野山」の三霊場及び、これらを結ぶ「参詣道」から構成され、三重・奈良・和歌山にまたがる。「道の世界遺産」としては、フランス・スペインの「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」と2つだけ、手前の「手水舎」には「魂」の球体に注連縄と、神武天皇を道案内したと伝わる「八咫烏」もいる

  • 「熊野坐神社旧社(大斎原)水害前の絵」<br />(説明板より)もともと「熊野坐神社」(くまのにいますじんじゃ)と呼ばれ、紀元前33年に創建された「熊野本宮大社」は、明治22年(1889)の大水害で尽く押し流され、かろうじて流出を免れた御本殿(上四社)だけが、明治24年現社の本宮境内に再建されたが、江戸時代に描かれた図絵から、かつての1万坪を超える境内の概要が分かる、熊野川に左方から岩田川、町並みに並行して音無川が流れ、森に囲まれた中州には横一列に十二柱の社殿と上神楽所、札殿、周りを門を備えた塀が囲み、その外に何棟もの摂末社が立ち並び、宝蔵、文庫、神馬舎、能舞台などが散在している。町並みから音無川を越えて境内へ入る個所に太鼓橋(高橋)があるが、江戸時代までは無かったため、参詣者は自然に禊をして入り、これを「濡藁沓(ぬれわらくつ)の入堂」といった。下流の三川合流地点にある船着場は「新宮」へ向かう「川の参詣道」の出発点だった。

    「熊野坐神社旧社(大斎原)水害前の絵」
    (説明板より)もともと「熊野坐神社」(くまのにいますじんじゃ)と呼ばれ、紀元前33年に創建された「熊野本宮大社」は、明治22年(1889)の大水害で尽く押し流され、かろうじて流出を免れた御本殿(上四社)だけが、明治24年現社の本宮境内に再建されたが、江戸時代に描かれた図絵から、かつての1万坪を超える境内の概要が分かる、熊野川に左方から岩田川、町並みに並行して音無川が流れ、森に囲まれた中州には横一列に十二柱の社殿と上神楽所、札殿、周りを門を備えた塀が囲み、その外に何棟もの摂末社が立ち並び、宝蔵、文庫、神馬舎、能舞台などが散在している。町並みから音無川を越えて境内へ入る個所に太鼓橋(高橋)があるが、江戸時代までは無かったため、参詣者は自然に禊をして入り、これを「濡藁沓(ぬれわらくつ)の入堂」といった。下流の三川合流地点にある船着場は「新宮」へ向かう「川の参詣道」の出発点だった。

  • 「聖地・大斎原」(おおゆのはら)<br />広大な広っぱには「全熊野古道(参詣道)の終着点であり、よみがえりの出発点として世界遺産に登録された国の史跡です」という立看板があり、二基の石祠と一遍上人にちなむ石碑があるのみだが、ここが多くの上皇や女院や貴族、庶民たちが訪れ、祈りを捧げた聖なる土地

    「聖地・大斎原」(おおゆのはら)
    広大な広っぱには「全熊野古道(参詣道)の終着点であり、よみがえりの出発点として世界遺産に登録された国の史跡です」という立看板があり、二基の石祠と一遍上人にちなむ石碑があるのみだが、ここが多くの上皇や女院や貴族、庶民たちが訪れ、祈りを捧げた聖なる土地

  • 「旧社・大斎原」の石祠(せきし)<br />明治22年の大洪水で流出を免れた上四社三神は現在の本宮大社に移築され、ここには流出した中四社と下四社を石造りの祠二基に合祀し祀っている(左側に中四社下四社、右側に境内摂末社の御神霊)

    「旧社・大斎原」の石祠(せきし)
    明治22年の大洪水で流出を免れた上四社三神は現在の本宮大社に移築され、ここには流出した中四社と下四社を石造りの祠二基に合祀し祀っている(左側に中四社下四社、右側に境内摂末社の御神霊)

  • 「一遍上人神勅名号碑」(神勅は神のお告げ)<br />「一遍上人」(1239-1289)が、熊野権現の霊告を受け、独一念仏(ただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱える)を開顕したことを記念して昭和46年に建立された、「一遍上人」は鎌倉中期から室町時代にかけて広まった浄土系仏教「時宗」の開祖で、布教活動に行き詰った時に着いた熊野本宮大社で祈り続ける中で現れた熊野権現のご神託を得てから、再び全国布教を進め日本中に広めたということから熊野を聖地としている

    「一遍上人神勅名号碑」(神勅は神のお告げ)
    「一遍上人」(1239-1289)が、熊野権現の霊告を受け、独一念仏(ただひたすらに「南無阿弥陀仏」を唱える)を開顕したことを記念して昭和46年に建立された、「一遍上人」は鎌倉中期から室町時代にかけて広まった浄土系仏教「時宗」の開祖で、布教活動に行き詰った時に着いた熊野本宮大社で祈り続ける中で現れた熊野権現のご神託を得てから、再び全国布教を進め日本中に広めたということから熊野を聖地としている

  • 「南無阿弥陀仏」石碑<br />「念仏を唱えるだけで極楽浄土へ往生する」という六字名号「南無阿弥陀仏」で、石垣には全国の時宗寺院や個人信徒名が刻まれている

    「南無阿弥陀仏」石碑
    「念仏を唱えるだけで極楽浄土へ往生する」という六字名号「南無阿弥陀仏」で、石垣には全国の時宗寺院や個人信徒名が刻まれている

  • 歌碑「しばらくは 花の下なる 御輿(みこし)かな」を見ながら「大斎原」を退出し、「音無川」に架かる「高橋」(潜水橋)を渡る

    歌碑「しばらくは 花の下なる 御輿(みこし)かな」を見ながら「大斎原」を退出し、「音無川」に架かる「高橋」(潜水橋)を渡る

  • 「大斎原」から「音無川」に架かる「高橋」(潜水橋)を渡ると、国道168号手前に鳥居があり、「潜水橋の歴史」と「謡曲・巻絹」の説明板がある

    「大斎原」から「音無川」に架かる「高橋」(潜水橋)を渡ると、国道168号手前に鳥居があり、「潜水橋の歴史」と「謡曲・巻絹」の説明板がある

  • 「高橋」(太鼓橋)~潜水橋の歴史<br />(説明板より)もともと中洲へ渡る橋は無く、参拝者はここで身を清め、歩いて川を渡っていて、江戸時代になってから「高橋」という太鼓橋が架かったが、明治22年(1889)の大水害で消失し、その後昭和40年代に潜水橋が設置され、さらに令和4年(2022)の豪雨で被災したが、2023年にまた新しい潜水橋が完成した<br />

    「高橋」(太鼓橋)~潜水橋の歴史
    (説明板より)もともと中洲へ渡る橋は無く、参拝者はここで身を清め、歩いて川を渡っていて、江戸時代になってから「高橋」という太鼓橋が架かったが、明治22年(1889)の大水害で消失し、その後昭和40年代に潜水橋が設置され、さらに令和4年(2022)の豪雨で被災したが、2023年にまた新しい潜水橋が完成した

  • 謡曲「巻絹」(まきぎぬ)と音無の梅の歌<br />謡曲は、梅の香に心を打たれて詠った和歌が熊野の神々の功徳を誘ったという内容で、「音なしに咲きそめにける梅の花 匂わざりせば誰か知るべき」

    謡曲「巻絹」(まきぎぬ)と音無の梅の歌
    謡曲は、梅の香に心を打たれて詠った和歌が熊野の神々の功徳を誘ったという内容で、「音なしに咲きそめにける梅の花 匂わざりせば誰か知るべき」

  • 「ヤタガラスサッカー必勝記念碑」<br />熊野本宮大社創建2050年を記念し2018年、地元有志によって建てられたもので、サッカー選手やファンなどが、サッカーに深いゆかりをもつ「勝利の聖地」を訪れその足跡を残す場所として、サッカー絵馬「ご祈念勝札」や、那智黒石の勝守り御石を作ったという

    「ヤタガラスサッカー必勝記念碑」
    熊野本宮大社創建2050年を記念し2018年、地元有志によって建てられたもので、サッカー選手やファンなどが、サッカーに深いゆかりをもつ「勝利の聖地」を訪れその足跡を残す場所として、サッカー絵馬「ご祈念勝札」や、那智黒石の勝守り御石を作ったという

  • 12:50 もう一度、音無川を隔てて見える「大鳥居」を確認しつつ、「熊野本宮大社」を後にする

    12:50 もう一度、音無川を隔てて見える「大鳥居」を確認しつつ、「熊野本宮大社」を後にする

  • 2日目午前の「熊野本宮大社」から、バスで50km走って、熊野灘を望む「伊勢路」へ移動

    2日目午前の「熊野本宮大社」から、バスで50km走って、熊野灘を望む「伊勢路」へ移動

  • 14:10 熊野市「鬼ヶ城」に到着<br />「伊勢神宮」から「熊野速玉大社」までの「伊勢路」170kmのほぼ中間で、伊勢から100kmの地点にある「鬼ヶ城」は、地震による隆起や海の風波によって生じた伊勢志摩から続くリアス式海岸の最南端にあり、平安時代の将軍坂上田村麻呂が、この付近で鬼と恐れられた海賊多我丸(たがまる)を征伐したという「鬼退治伝説」に因む

    14:10 熊野市「鬼ヶ城」に到着
    「伊勢神宮」から「熊野速玉大社」までの「伊勢路」170kmのほぼ中間で、伊勢から100kmの地点にある「鬼ヶ城」は、地震による隆起や海の風波によって生じた伊勢志摩から続くリアス式海岸の最南端にあり、平安時代の将軍坂上田村麻呂が、この付近で鬼と恐れられた海賊多我丸(たがまる)を征伐したという「鬼退治伝説」に因む

  • 「鬼ヶ城センター」で遅めの昼食<br />名物の「熊野地鶏鍋」を堪能 *「熊野地鶏」は三重原産のシャモ「八木戸」(やきど)と「伊勢赤どり」と「名古屋コーチン」を掛け合わせた熊野のブランド鶏

    「鬼ヶ城センター」で遅めの昼食
    名物の「熊野地鶏鍋」を堪能 *「熊野地鶏」は三重原産のシャモ「八木戸」(やきど)と「伊勢赤どり」と「名古屋コーチン」を掛け合わせた熊野のブランド鶏

  • 2日目午後のコースは、<松本峠~木本神社 2.5km/標高差130m><br />熊野灘を眼下に見る海岸線のコースになり、距離は短いが難所の急坂がある結構キツいコースで、15:00 鬼ヶ城センター~0.8km 松本峠登り口~0.7km 15:40 松本峠・鬼ヶ城分岐点~0.8km笛吹橋~0.2km 16:20 木本神社

    2日目午後のコースは、<松本峠~木本神社 2.5km/標高差130m>
    熊野灘を眼下に見る海岸線のコースになり、距離は短いが難所の急坂がある結構キツいコースで、15:00 鬼ヶ城センター~0.8km 松本峠登り口~0.7km 15:40 松本峠・鬼ヶ城分岐点~0.8km笛吹橋~0.2km 16:20 木本神社

  • 15:00「熊野古道・伊勢路」鬼ヶ城センターをスタート

    15:00「熊野古道・伊勢路」鬼ヶ城センターをスタート

  • 「松本峠登り口」へ「国道311号」を進む

    「松本峠登り口」へ「国道311号」を進む

  • 「熊野古道・松本峠」登り口

    「熊野古道・松本峠」登り口

  • 「熊野参詣道・伊勢路・松本峠道」石標<br />入口は竹林と石畳が美しい

    「熊野参詣道・伊勢路・松本峠道」石標
    入口は竹林と石畳が美しい

  • しばらく行くと、かなり急坂の石畳になってくる

    しばらく行くと、かなり急坂の石畳になってくる

  • かなりゴツゴツした巨岩が多い、この周辺は1500万年前の巨大カルデラ火山活動によって噴出したマグマがゆっくり冷えて固まった硬い花崗岩が多く、凝灰岩が波によって浸食され、その後地盤の隆起によって地表に現れた奇岩が鬼ヶ城のダイナミックな景観を作っている

    かなりゴツゴツした巨岩が多い、この周辺は1500万年前の巨大カルデラ火山活動によって噴出したマグマがゆっくり冷えて固まった硬い花崗岩が多く、凝灰岩が波によって浸食され、その後地盤の隆起によって地表に現れた奇岩が鬼ヶ城のダイナミックな景観を作っている

  • 「松本峠 01番」の100m標柱<br />中辺路では「500m標柱」だったが、伊勢路では「100m標柱」になっている、3番あたり(後300m)まで上り坂が続く

    「松本峠 01番」の100m標柱
    中辺路では「500m標柱」だったが、伊勢路では「100m標柱」になっている、3番あたり(後300m)まで上り坂が続く

  • 入口の竹林から変わって、杉木立に囲まれた急坂が続く

    入口の竹林から変わって、杉木立に囲まれた急坂が続く

  • 「江戸の石畳」<br />この辺は特別に雨が多く、土の道だとすぐ流されてしまうので、大小さまざまな石を一個ずつ担いで運んで、敷き詰めて出来た江戸時代の「石畳」が残っている

    「江戸の石畳」
    この辺は特別に雨が多く、土の道だとすぐ流されてしまうので、大小さまざまな石を一個ずつ担いで運んで、敷き詰めて出来た江戸時代の「石畳」が残っている

  • 「クマよけベル」(松本峠100m標柱 02)<br />熊野だけに?、5~9月には熊(ツキノワグマ)が出没するらしい

    「クマよけベル」(松本峠100m標柱 02)
    熊野だけに?、5~9月には熊(ツキノワグマ)が出没するらしい

  • 「石橋」<br />大きな石を運び、切断し、周りに石を積み上げて橋を架ける作業を想像すると、昔の人は凄い!

    「石橋」
    大きな石を運び、切断し、周りに石を積み上げて橋を架ける作業を想像すると、昔の人は凄い!

  • 「苔生した石畳」<br />苔生した石畳や転がった巨石は、最も「古道」らしい、語り部さんの説明では、石畳の側面を見ると石積みの構造が良く分り、「野面乱層積み」(のづららんそうづみ)という、石の継ぎ目がランダムで、石同士がかみ合ってなく、隙間に小石を詰めて補強していて、地震や豪雨にも崩れない頑丈な積み方で、全く頭が下がる

    「苔生した石畳」
    苔生した石畳や転がった巨石は、最も「古道」らしい、語り部さんの説明では、石畳の側面を見ると石積みの構造が良く分り、「野面乱層積み」(のづららんそうづみ)という、石の継ぎ目がランダムで、石同士がかみ合ってなく、隙間に小石を詰めて補強していて、地震や豪雨にも崩れない頑丈な積み方で、全く頭が下がる

  • 「棚田の跡」<br />途中には斜面に平らな地面を造るための石垣があり、ここは「棚田の跡」らしい、近くに、日本一の棚田と言われる「丸山千枚田」(1,340枚)があるが、保存管理は大変だと思う

    「棚田の跡」
    途中には斜面に平らな地面を造るための石垣があり、ここは「棚田の跡」らしい、近くに、日本一の棚田と言われる「丸山千枚田」(1,340枚)があるが、保存管理は大変だと思う

  • 「ビオトープ」<br />語り部さんの説明がないと気づかないが、ここは「ビオトープ」、自然の生態系を再現した所として整備されたが、残念ながらあまり手入れが行き届いてないように見える、が、カエルの鳴き声が聞こえる

    「ビオトープ」
    語り部さんの説明がないと気づかないが、ここは「ビオトープ」、自然の生態系を再現した所として整備されたが、残念ながらあまり手入れが行き届いてないように見える、が、カエルの鳴き声が聞こえる

  • 「松本峠100m標柱 03」

    「松本峠100m標柱 03」

  • 「石畳に木の根」<br />石畳に木の根が這うように伸びる古道は、歴史の流れと強い生命力を感じる

    「石畳に木の根」
    石畳に木の根が這うように伸びる古道は、歴史の流れと強い生命力を感じる

  • 「シダ類」<br />語り部さんの説明は、歴史の話から植物の話まで全般に亘り勉強になる。「シダ類」はゼンマイ、ワラビ、ウラジロなど日本で700種類あるが、この辺りには200種類もあるという

    「シダ類」
    語り部さんの説明は、歴史の話から植物の話まで全般に亘り勉強になる。「シダ類」はゼンマイ、ワラビ、ウラジロなど日本で700種類あるが、この辺りには200種類もあるという

  • 山野の中に鮮やかな色が映える<br />名前が分からないが、調べると、ヒヨドリが好んで食べるという「ヒヨドリジョウゴ」か?

    山野の中に鮮やかな色が映える
    名前が分からないが、調べると、ヒヨドリが好んで食べるという「ヒヨドリジョウゴ」か?

  • 「松本峠100m標柱 04」<br />ここにも「クマよけベル」

    「松本峠100m標柱 04」
    ここにも「クマよけベル」

  • 「明治の石畳」<br />竹林が見えてきたところの石畳は、今までの石畳よりも整然としている、これは「明治に造られたいわくつきの石畳」で、明治元年にこの付近でまぐろの大漁があった時、木本と古泊の隣村間で漁師の漁場争いがあり、その罰として漁師達に築かせたものだという<br />

    「明治の石畳」
    竹林が見えてきたところの石畳は、今までの石畳よりも整然としている、これは「明治に造られたいわくつきの石畳」で、明治元年にこの付近でまぐろの大漁があった時、木本と古泊の隣村間で漁師の漁場争いがあり、その罰として漁師達に築かせたものだという

  • 15:40「松本峠」標高129m 到着<br />大きなお地蔵様が立つところが「松本峠」頂上で、シンボルになっているお地蔵さまは高さ180cmもある、説明板では、「大泊町から木本町に抜けるこの道はトンネルが整備されるまで重要な生活道路だった。江戸時代、鉄砲撃ちの大馬新左衛門が、夜中に峠に差しかかると得体の知れないものが立ちはだかり、思わず発砲し命中したがよく見るとこの峠のお地蔵様だった。今もここに立つ地蔵尊の足元を見ると、その時の弾痕が残っている」

    15:40「松本峠」標高129m 到着
    大きなお地蔵様が立つところが「松本峠」頂上で、シンボルになっているお地蔵さまは高さ180cmもある、説明板では、「大泊町から木本町に抜けるこの道はトンネルが整備されるまで重要な生活道路だった。江戸時代、鉄砲撃ちの大馬新左衛門が、夜中に峠に差しかかると得体の知れないものが立ちはだかり、思わず発砲し命中したがよく見るとこの峠のお地蔵様だった。今もここに立つ地蔵尊の足元を見ると、その時の弾痕が残っている」

  • 「お地蔵さまの弾痕」<br />本物かどうか分からないが、足元に鉄砲で撃たれた跡がある

    「お地蔵さまの弾痕」
    本物かどうか分からないが、足元に鉄砲で撃たれた跡がある

  • 「松本峠説明板」<br />ここ松本峠では熊野古道・伊勢路と、戦国時代に築かれた鬼ケ城跡へのハイキングコースが交差している。200m先に東屋があり、さらに500m進むと鬼ケ城山頂があり、雄大な熊野灘の展望が楽しめる、さらに千畳敷へ進めば海岸沿いに七里ヶ浜と山並みが一望できる

    「松本峠説明板」
    ここ松本峠では熊野古道・伊勢路と、戦国時代に築かれた鬼ケ城跡へのハイキングコースが交差している。200m先に東屋があり、さらに500m進むと鬼ケ城山頂があり、雄大な熊野灘の展望が楽しめる、さらに千畳敷へ進めば海岸沿いに七里ヶ浜と山並みが一望できる

  • 「鬼ケ城 城跡ルート」<br />左折すると、「鬼ケ城」へ進むが、この道は熊野古道ではない

    「鬼ケ城 城跡ルート」
    左折すると、「鬼ケ城」へ進むが、この道は熊野古道ではない

  • 「松本峠100m標柱 06」<br />手前の大石には、ノミと金づちで石を切った時のノミの跡が残る

    「松本峠100m標柱 06」
    手前の大石には、ノミと金づちで石を切った時のノミの跡が残る

  • 「松本峠100m標柱 07」(松本峠最後の標柱)

    「松本峠100m標柱 07」(松本峠最後の標柱)

  • 「見晴らし場」

    「見晴らし場」

  • 「松本峠」解説動画 →(ユーチューブ)<br />伊勢街道随一の景観を見ることが出来る。ここから見ると七里御浜は速玉大社のある新宮まで延々25kmのなだらかな弧を描き、熊野灘の青い海原と白い渚が旅人にひとときの安らぎを与える。「日本の渚百選」の七里御浜沿いには国の名勝天然記念物・獅子岩や日本最古の神社の「花の窟」(はなのいわや)がある。

    「松本峠」解説動画 →(ユーチューブ)
    伊勢街道随一の景観を見ることが出来る。ここから見ると七里御浜は速玉大社のある新宮まで延々25kmのなだらかな弧を描き、熊野灘の青い海原と白い渚が旅人にひとときの安らぎを与える。「日本の渚百選」の七里御浜沿いには国の名勝天然記念物・獅子岩や日本最古の神社の「花の窟」(はなのいわや)がある。

  • 日本の渚百選の「七里御浜」(しちりみはま)<br />日本一長い砂礫海岸で、ウミガメの産卵で有名(毎年5~9月)

    日本の渚百選の「七里御浜」(しちりみはま)
    日本一長い砂礫海岸で、ウミガメの産卵で有名(毎年5~9月)

  • 松本峠 木本登り口<br />左手は「花の窟」(はなのいわや)で、熊野三山信仰に先立つ聖地「窟の熊野」として重要な意味を持ち、熊野灘に面して高さ45mもの巨岩が磐座(いわくら)として神体になっているので、是非見てみたかったポイントだが、今回はパス

    松本峠 木本登り口
    左手は「花の窟」(はなのいわや)で、熊野三山信仰に先立つ聖地「窟の熊野」として重要な意味を持ち、熊野灘に面して高さ45mもの巨岩が磐座(いわくら)として神体になっているので、是非見てみたかったポイントだが、今回はパス

  • 「笛吹橋」(ふえふきばし)<br />征夷大将軍・坂上田村麻呂の行列が鬼退治の勝利を祝って笛を吹き太鼓を叩いて渡ったことから名付けらっれた橋で、欄干の丸い穴は横笛の形をしている

    「笛吹橋」(ふえふきばし)
    征夷大将軍・坂上田村麻呂の行列が鬼退治の勝利を祝って笛を吹き太鼓を叩いて渡ったことから名付けらっれた橋で、欄干の丸い穴は横笛の形をしている

  • 「笛吹橋」駒札<br />平安時代、征夷大将軍・坂上田村麻呂が鬼ケ城の鬼を征伐に来た時、鬼が隠れていたら、清水寺の観音様が天より現れて舞を舞い、鬼たちがこれを見とれている間に弓を射て退治した。この勝利を祝って将軍の行列が笛を吹き、太鼓を叩いてこの橋を渡ったという

    「笛吹橋」駒札
    平安時代、征夷大将軍・坂上田村麻呂が鬼ケ城の鬼を征伐に来た時、鬼が隠れていたら、清水寺の観音様が天より現れて舞を舞い、鬼たちがこれを見とれている間に弓を射て退治した。この勝利を祝って将軍の行列が笛を吹き、太鼓を叩いてこの橋を渡ったという

  • 16:20「木本神社」(きのもとじんじゃ)到着<br />江戸時代初期からある地元の神社

    16:20「木本神社」(きのもとじんじゃ)到着
    江戸時代初期からある地元の神社

  • 16:30 「七里御浜」(しちりみはま)からバスで70kmの「勝浦」へ

    16:30 「七里御浜」(しちりみはま)からバスで70kmの「勝浦」へ

  • 17:30「勝浦港」に到着<br />今日の宿「ホテル浦島」の乗船桟橋

    17:30「勝浦港」に到着
    今日の宿「ホテル浦島」の乗船桟橋

  • ホテルは「勝浦湾」に突き出た半島にある<br />湾内の「勝浦港」は、日本有数の遠洋漁業の基地で近畿最大のまぐろ漁業基地であり、湾内には温泉が湧き、旅館も多い

    ホテルは「勝浦湾」に突き出た半島にある
    湾内の「勝浦港」は、日本有数の遠洋漁業の基地で近畿最大のまぐろ漁業基地であり、湾内には温泉が湧き、旅館も多い

  • ホテル専用の送迎船「浦島丸」で5分

    ホテル専用の送迎船「浦島丸」で5分

  • この辺りは、海底が隆起してできた岬で、堆積岩が熊野灘の荒い風波に浸食されて出来た天然洞窟の中に、自然に温泉が湧出して熱い湯溜りとなって洞窟風呂が出来、「熊野詣」の華やかだった平安末期には、熊野三山に参詣した貴族がこの温泉で旅の疲れを癒したという

    この辺りは、海底が隆起してできた岬で、堆積岩が熊野灘の荒い風波に浸食されて出来た天然洞窟の中に、自然に温泉が湧出して熱い湯溜りとなって洞窟風呂が出来、「熊野詣」の華やかだった平安末期には、熊野三山に参詣した貴族がこの温泉で旅の疲れを癒したという

  • 17:50 本日のホテル「浦島」に到着<br />昭和31年(1956)創業から「船でしか行けないお宿」として昭和バブル期には多くの人が訪れ、どんどん巨大化して、中に入ると迷子になるほどの広さで、温泉やレストランに行くにはかなり歩かされる

    17:50 本日のホテル「浦島」に到着
    昭和31年(1956)創業から「船でしか行けないお宿」として昭和バブル期には多くの人が訪れ、どんどん巨大化して、中に入ると迷子になるほどの広さで、温泉やレストランに行くにはかなり歩かされる

  • 「部屋は昭和の旅館」<br />コロナ禍で厳しい状況だったが、最近はインバウンドで持ち直してきたようで、さすがに日本人客は少ない、全体的に設備も古く温泉以外はあまり快適ではないので、リニューアルが欲しい感じだったが、経営陣も苦しいらしく、昨年2024年1月から新会社になったらしい

    「部屋は昭和の旅館」
    コロナ禍で厳しい状況だったが、最近はインバウンドで持ち直してきたようで、さすがに日本人客は少ない、全体的に設備も古く温泉以外はあまり快適ではないので、リニューアルが欲しい感じだったが、経営陣も苦しいらしく、昨年2024年1月から新会社になったらしい

  • 名物「洞窟温泉」<br />食事前に、早速 5つあるという天然温泉に入る、「洞窟温泉」は2つあり、「忘帰洞」(ぼうきどう)は、紀州徳川家15代頼倫(よりみち)公が、帰るのを忘れるほど心地よい、と褒めたことに由来する歴史の古い温泉

    名物「洞窟温泉」
    食事前に、早速 5つあるという天然温泉に入る、「洞窟温泉」は2つあり、「忘帰洞」(ぼうきどう)は、紀州徳川家15代頼倫(よりみち)公が、帰るのを忘れるほど心地よい、と褒めたことに由来する歴史の古い温泉

  • 「玄武洞」も同じような洞窟風呂だが、源泉は異なる、源泉は全部で10ヶ所もあるらしい

    「玄武洞」も同じような洞窟風呂だが、源泉は異なる、源泉は全部で10ヶ所もあるらしい

  • 「温泉めぐり記念スタンプ」<br />他の「ハマユウの湯」と「磯の湯」にも入り、スタンプで入浴剤「温泉の素」を貰った

    「温泉めぐり記念スタンプ」
    他の「ハマユウの湯」と「磯の湯」にも入り、スタンプで入浴剤「温泉の素」を貰った

  • ビュッフェスタイルの「夕食」<br />目新しい地元料理はなかったが、和洋中何でも有り、ポイントはアルコール飲み放題で、経営陣が変わったからか、今月3月から始まったそうで、種類も豊富、お陰で翌朝の温泉で朝日を拝めなかった!

    ビュッフェスタイルの「夕食」
    目新しい地元料理はなかったが、和洋中何でも有り、ポイントはアルコール飲み放題で、経営陣が変わったからか、今月3月から始まったそうで、種類も豊富、お陰で翌朝の温泉で朝日を拝めなかった!

  • 翌朝「朝食」は7:00から

    翌朝「朝食」は7:00から

  • 8:00 スタート、帰りも「浦島丸」で勝浦桟橋へ

    8:00 スタート、帰りも「浦島丸」で勝浦桟橋へ

  • 3日目のコースは、8:00 勝浦温泉~(バス20km)~9:00<熊野速玉大社>9:20~(バス20km)~9:50<那智の滝・熊野那智大社・青岸渡寺・大門坂 2.7km/標高差250m>12:20~(バス40km)~13:20 串本・潮岬(昼食)14:00~(バス200km)~18:00 京都

    3日目のコースは、8:00 勝浦温泉~(バス20km)~9:00<熊野速玉大社>9:20~(バス20km)~9:50<那智の滝・熊野那智大社・青岸渡寺・大門坂 2.7km/標高差250m>12:20~(バス40km)~13:20 串本・潮岬(昼食)14:00~(バス200km)~18:00 京都

  • 9:00「熊野速玉大社」(くまのはやたまたいしゃ)到着<br />朱塗りの「下馬橋」(げばばし)と「一の鳥居」、「下馬」は文字通り馬から降りるところだが、昔は「熊野本宮大社」から熊野川を下って船で参詣していた

    9:00「熊野速玉大社」(くまのはやたまたいしゃ)到着
    朱塗りの「下馬橋」(げばばし)と「一の鳥居」、「下馬」は文字通り馬から降りるところだが、昔は「熊野本宮大社」から熊野川を下って船で参詣していた

  • 境内末社「手力男神社」と「八咫烏神社」<br />「手力男神社」(たぢからお)は、アマテラスの岩戸隠れの際に引きずり出して世界を明るくしたとされる神を祀り、武道・健康の神、「八咫烏神社」(やたがらす)は、神武天皇の道案内をしたという八咫烏を祀り、交通安全と道開きの神で、「八咫烏」は神の使者で神ではないが、神武天皇の先導役を務めた「賀茂建角身命」(かもたけつぬのみのみこと)の化身と言われ、本宮大社や 那智大社の他、奈良宇陀市の八咫烏神社や京都下鴨神社など祭神として祀っている神社は多い

    境内末社「手力男神社」と「八咫烏神社」
    「手力男神社」(たぢからお)は、アマテラスの岩戸隠れの際に引きずり出して世界を明るくしたとされる神を祀り、武道・健康の神、「八咫烏神社」(やたがらす)は、神武天皇の道案内をしたという八咫烏を祀り、交通安全と道開きの神で、「八咫烏」は神の使者で神ではないが、神武天皇の先導役を務めた「賀茂建角身命」(かもたけつぬのみのみこと)の化身と言われ、本宮大社や 那智大社の他、奈良宇陀市の八咫烏神社や京都下鴨神社など祭神として祀っている神社は多い

  • 「熊野速玉大社参詣曼荼羅」<br />「熊野速玉神社」を宣伝するため、「熊野比丘尼」(くまのびくに)と呼ばれる尼たちが、全国を行脚した時に用いた絵図で、「速玉神社」を中心に新宮の聖地が描かれている

    「熊野速玉大社参詣曼荼羅」
    「熊野速玉神社」を宣伝するため、「熊野比丘尼」(くまのびくに)と呼ばれる尼たちが、全国を行脚した時に用いた絵図で、「速玉神社」を中心に新宮の聖地が描かれている

  • 「熊野神宝館」<br />平安時代の御神像や天皇、上皇、室町幕府将軍足利義満らによって奉納された1000点以上の古神宝(祭神のために作られた品)が保存・展示され、熊野速玉大神坐像、熊野夫須美大神坐像、国常立命坐像、家津美御子大神坐像など、殆どが国宝指定

    「熊野神宝館」
    平安時代の御神像や天皇、上皇、室町幕府将軍足利義満らによって奉納された1000点以上の古神宝(祭神のために作られた品)が保存・展示され、熊野速玉大神坐像、熊野夫須美大神坐像、国常立命坐像、家津美御子大神坐像など、殆どが国宝指定

  • 「武蔵坊弁慶像」(むさしぼう べんけい)<br />「神宝館」の前に「武蔵坊弁慶」の立像があるのは、弁慶は速玉大神に仕えた熊野三党の一つ「鈴木一族」とされ、その最期に源頼朝の追討を受けこの地で討ち死にしたと伝えられることから

    「武蔵坊弁慶像」(むさしぼう べんけい)
    「神宝館」の前に「武蔵坊弁慶」の立像があるのは、弁慶は速玉大神に仕えた熊野三党の一つ「鈴木一族」とされ、その最期に源頼朝の追討を受けこの地で討ち死にしたと伝えられることから

  • 御神木「熊野速玉神社の梛」(ナギ)<br />「平重盛」が1159年の社殿再建の際に手植えしたと伝わり、高さ20m、樹齢1000年で国内最大の「梛」といわれる、古来から梛の葉を懐中に納めてお参りすると、熊野詣を無事果たせると言われ、またナギの葉脈は非常に強靭で容易に横に割くことができないことから「縁が切れない」として、開運や縁結び・夫婦円満・災厄よけのご利益があるとされる

    御神木「熊野速玉神社の梛」(ナギ)
    「平重盛」が1159年の社殿再建の際に手植えしたと伝わり、高さ20m、樹齢1000年で国内最大の「梛」といわれる、古来から梛の葉を懐中に納めてお参りすると、熊野詣を無事果たせると言われ、またナギの葉脈は非常に強靭で容易に横に割くことができないことから「縁が切れない」として、開運や縁結び・夫婦円満・災厄よけのご利益があるとされる

  • 「後白河法皇御撰・梁塵秘抄碑」<br />熊野に33度参詣した「後白河法皇」が編纂した歌謡集「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)にある歌「熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し 廣大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず」、人間味があって面白い

    「後白河法皇御撰・梁塵秘抄碑」
    熊野に33度参詣した「後白河法皇」が編纂した歌謡集「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)にある歌「熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し 廣大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず」、人間味があって面白い

  • 「神門」(しんもん)<br />「熊野速玉大社」は、まだ社殿がない原始信仰、自然信仰の時代に、「熊野大神」が降臨された聖地「権現山」・現在の「神倉神社」の磐座(いわくら)に祀られていた神々を、平安初期(800年頃)に山の麓に社殿を建てて祀った神社で、神倉神社を「元宮」、速玉神社を「新宮」とも呼び、「熊野三山」の中で最も早く「熊野権現」の称号を与えられた

    「神門」(しんもん)
    「熊野速玉大社」は、まだ社殿がない原始信仰、自然信仰の時代に、「熊野大神」が降臨された聖地「権現山」・現在の「神倉神社」の磐座(いわくら)に祀られていた神々を、平安初期(800年頃)に山の麓に社殿を建てて祀った神社で、神倉神社を「元宮」、速玉神社を「新宮」とも呼び、「熊野三山」の中で最も早く「熊野権現」の称号を与えられた

  • 「神倉神社」(かみくらじんじゃ)<br />今回は行けなかったが、「熊野権現」の原点となるところで、ここから1km程歩くと、標高120mの神倉山に「熊野大神」が飛鳥時代(574頃)に一番最初に降臨された聖地があり、社の背後の天ノ磐盾(あまのいわたて)という崖の上に「ゴトビキ岩」と呼ばれる御神体がある *「ゴトビキ」とは、新宮の方言で「ヒキガエル」の意

    「神倉神社」(かみくらじんじゃ)
    今回は行けなかったが、「熊野権現」の原点となるところで、ここから1km程歩くと、標高120mの神倉山に「熊野大神」が飛鳥時代(574頃)に一番最初に降臨された聖地があり、社の背後の天ノ磐盾(あまのいわたて)という崖の上に「ゴトビキ岩」と呼ばれる御神体がある *「ゴトビキ」とは、新宮の方言で「ヒキガエル」の意

  • 「手水舎」<br />象のような長い鼻の龍が珍しい

    「手水舎」
    象のような長い鼻の龍が珍しい

  • 「熊野速玉大社の御由緒」<br />速玉大社は悠久の彼方、熊野信仰の原点・神倉山の霊石ゴトビキ岩(天ノ磐盾)をご神体とする自然崇拝を源として、この天ノ磐盾に降臨せられた熊野三神(熊野速玉大神・熊野夫須美大神・家津美御子大神)を景行天皇58年の御代(西暦128年)初めて神殿を建ててお迎えしたことに創始いたします。我々の祖先は、美し国(うましくに)熊野に坐しますこの真新しい新宮(にいみや)に大自然の恵みを献じて神々を祀り、感謝と畏敬の心を込めて祈りを捧げながら、最も神社神道の特色ともいうべき清め祓いを実践してまいりました。このように、原始信仰から神社神道へと信仰の形を整えていった厳儀を、未来永劫にわたり顕彰し続ける精神をもって「新宮」(しんぐう)と号するゆえんであります。この尊称はまさに熊野速玉大社が、天地(あめつち)を教典とする自然信仰の中から誕生した悠久の歴史を有すことの証といえるでしょう。中世第46代孝謙天皇より「日本第一大霊験所」の勅額を賜り、また120点を数える国宝古神宝類が奉納され、全国に祀る熊野神社の総本宮として厚い信仰を集めております。また境内には熊野信仰の象徴たる「梛の大樹」が繁り、熊野神宝館や熊野詣を物語る「熊野御幸碑」などがあります。

    「熊野速玉大社の御由緒」
    速玉大社は悠久の彼方、熊野信仰の原点・神倉山の霊石ゴトビキ岩(天ノ磐盾)をご神体とする自然崇拝を源として、この天ノ磐盾に降臨せられた熊野三神(熊野速玉大神・熊野夫須美大神・家津美御子大神)を景行天皇58年の御代(西暦128年)初めて神殿を建ててお迎えしたことに創始いたします。我々の祖先は、美し国(うましくに)熊野に坐しますこの真新しい新宮(にいみや)に大自然の恵みを献じて神々を祀り、感謝と畏敬の心を込めて祈りを捧げながら、最も神社神道の特色ともいうべき清め祓いを実践してまいりました。このように、原始信仰から神社神道へと信仰の形を整えていった厳儀を、未来永劫にわたり顕彰し続ける精神をもって「新宮」(しんぐう)と号するゆえんであります。この尊称はまさに熊野速玉大社が、天地(あめつち)を教典とする自然信仰の中から誕生した悠久の歴史を有すことの証といえるでしょう。中世第46代孝謙天皇より「日本第一大霊験所」の勅額を賜り、また120点を数える国宝古神宝類が奉納され、全国に祀る熊野神社の総本宮として厚い信仰を集めております。また境内には熊野信仰の象徴たる「梛の大樹」が繁り、熊野神宝館や熊野詣を物語る「熊野御幸碑」などがあります。

  • 「拝殿」<br />朱塗りの色が鮮やかな「拝殿」の奥に左から、結宮(むすびのみや)、速玉宮、上三殿、八社殿が並んでいる、現在の社殿は、明治16年(1883)に以前の社殿が炎上したあと昭和26年(1951年)に再建されたもので、1801年に建立され明治24年(1891)に移築された本宮大社より新しい

    「拝殿」
    朱塗りの色が鮮やかな「拝殿」の奥に左から、結宮(むすびのみや)、速玉宮、上三殿、八社殿が並んでいる、現在の社殿は、明治16年(1883)に以前の社殿が炎上したあと昭和26年(1951年)に再建されたもので、1801年に建立され明治24年(1891)に移築された本宮大社より新しい

  • 「御祭神」<br />熊野速玉大社の「御祭神」は、拝殿奥の「結宮」「速玉宮」「上三殿」「八社殿」に、イザナギ・イザナミの夫婦神を主祭神とし、十八柱の神々が祀られ、熊野三山の中で最も多い

    「御祭神」
    熊野速玉大社の「御祭神」は、拝殿奥の「結宮」「速玉宮」「上三殿」「八社殿」に、イザナギ・イザナミの夫婦神を主祭神とし、十八柱の神々が祀られ、熊野三山の中で最も多い

  • 「速玉宮」と「結宮」(むすびのみや)<br />「速玉宮」には、主祭神「速玉神」(はやたまのかみ=イザナギノミコト)と、「結宮」に、「夫須美神」(ふすみのかみ=イザナミノミコト)の夫婦神を祀る、中央の扁額(神額)には、「日本第一大霊験所根本熊野権現」とある

    「速玉宮」と「結宮」(むすびのみや)
    「速玉宮」には、主祭神「速玉神」(はやたまのかみ=イザナギノミコト)と、「結宮」に、「夫須美神」(ふすみのかみ=イザナミノミコト)の夫婦神を祀る、中央の扁額(神額)には、「日本第一大霊験所根本熊野権現」とある

  • 「上三殿」は、「証誠殿」「若宮」「神倉宮」<br />「証誠殿」(しょうじょうでん)には、本宮大社の主祭神「家津美御子神」(けつみみこのかみ=スサノオノミコト、「若宮」には主祭神の娘?息子「天照大神」(あまてらすおおかみ)、「神倉宮」には天照大神の曾孫「高倉下命」(たかくらじのみこと)を祀る

    「上三殿」は、「証誠殿」「若宮」「神倉宮」
    「証誠殿」(しょうじょうでん)には、本宮大社の主祭神「家津美御子神」(けつみみこのかみ=スサノオノミコト、「若宮」には主祭神の娘?息子「天照大神」(あまてらすおおかみ)、「神倉宮」には天照大神の曾孫「高倉下命」(たかくらじのみこと)を祀る

  • 「八社殿」は、中四社(禅児宮、聖宮、児宮、子守宮)と、下四社(一万宮・十万宮、勧請宮、飛行宮、米持宮)にそれぞれの神々を祀る

    「八社殿」は、中四社(禅児宮、聖宮、児宮、子守宮)と、下四社(一万宮・十万宮、勧請宮、飛行宮、米持宮)にそれぞれの神々を祀る

  • 境内摂末社の「新宮神社」と「恵比寿神社」<br />(「摂社」は本殿と関係の深い神様を祀り、「末社」は本殿とは直接的な関係がない)

    境内摂末社の「新宮神社」と「恵比寿神社」
    (「摂社」は本殿と関係の深い神様を祀り、「末社」は本殿とは直接的な関係がない)

  • 「川原家・折り畳み式家屋」<br />外に出た駐車場にある土産物屋は「折り畳み式家屋」で、説明板では「熊野川は年に数回大洪水になるため、大雨が続くと店を畳んで高い所に引き上げる必要があったため、釘を使わず、組立・解体が簡単で誰でも出来るを家を造り、川原にはこの家々が建ち並んだ、5~6人なら組立1時間、解体30分で出来るという

    「川原家・折り畳み式家屋」
    外に出た駐車場にある土産物屋は「折り畳み式家屋」で、説明板では「熊野川は年に数回大洪水になるため、大雨が続くと店を畳んで高い所に引き上げる必要があったため、釘を使わず、組立・解体が簡単で誰でも出来るを家を造り、川原にはこの家々が建ち並んだ、5~6人なら組立1時間、解体30分で出来るという

  • 9:20「速玉大社」からバスで20km移動し、9:50「那智の滝」に到着、「那智の滝」~「那智大社」~「青岸渡寺」~「大門坂」を巡る

    9:20「速玉大社」からバスで20km移動し、9:50「那智の滝」に到着、「那智の滝」~「那智大社」~「青岸渡寺」~「大門坂」を巡る

  • 「那智大滝」(なちおおたき)<br />「那智の滝」は、那智山内の滝行(たきぎょう)の場とされる48滝の総称で、今も神聖な修行の場となっており、最も大きい「一の滝」と、上流にある「二の滝」「三の滝」と合わせて「那智大滝」と呼ばれる

    「那智大滝」(なちおおたき)
    「那智の滝」は、那智山内の滝行(たきぎょう)の場とされる48滝の総称で、今も神聖な修行の場となっており、最も大きい「一の滝」と、上流にある「二の滝」「三の滝」と合わせて「那智大滝」と呼ばれる

  • 「那智御滝 飛龍神社」(ひろうじんじゃ)<br />紀元前、神武天皇が東征の際に、この滝を見て「大己貴神」(おおなむちのかみ=大国主命)を祀られ、のちに飛龍権現と称し、仁徳天皇の317年に「那智大社」が造営された時、「飛龍神社」として現在の地に遷り、「熊野那智大社別宮」となっている

    「那智御滝 飛龍神社」(ひろうじんじゃ)
    紀元前、神武天皇が東征の際に、この滝を見て「大己貴神」(おおなむちのかみ=大国主命)を祀られ、のちに飛龍権現と称し、仁徳天皇の317年に「那智大社」が造営された時、「飛龍神社」として現在の地に遷り、「熊野那智大社別宮」となっている

  • 「那智の滝」へ 133段の階段を下りる(滝の落差も133m)<br />歴史深い原生林と、苔生した静寂な森に囲まれた階段を下っていくと、精霊が宿るような神秘さが醸し出され、入り口だけで早くも心が清められるような気分になる

    「那智の滝」へ 133段の階段を下りる(滝の落差も133m)
    歴史深い原生林と、苔生した静寂な森に囲まれた階段を下っていくと、精霊が宿るような神秘さが醸し出され、入り口だけで早くも心が清められるような気分になる

  • 「亀山上皇御宸翰木牌(ごしんかんもくはい)建立地跡」<br />「御宸翰」とは、天皇自筆の文書のことで、亀山上皇が熊野に詣でられた時に書かれた木製の碑があった跡、皇室の那智山に対する信仰を知る資料として貴重なもの<br />

    「亀山上皇御宸翰木牌(ごしんかんもくはい)建立地跡」
    「御宸翰」とは、天皇自筆の文書のことで、亀山上皇が熊野に詣でられた時に書かれた木製の碑があった跡、皇室の那智山に対する信仰を知る資料として貴重なもの

  • 「光ヶ峯遥拝石」(ひかりがみねようはいせき)<br />「光ヶ峰」は那智権現が降臨されたと伝えられ、那智山熊野信仰の原点となる近くの山(686m)で、この光ヶ峯に通じている石を撫でると、その原点の力をもらえると伝えられている

    「光ヶ峯遥拝石」(ひかりがみねようはいせき)
    「光ヶ峰」は那智権現が降臨されたと伝えられ、那智山熊野信仰の原点となる近くの山(686m)で、この光ヶ峯に通じている石を撫でると、その原点の力をもらえると伝えられている

  • 「飛瀧神社」(ひろうじんじゃ)<br />この神社は、「滝」そのものを御神体として祀られているため、拝殿も本殿もない珍しい神社で、直接「那智の滝」を拝礼する、滝は落差 133m、幅 13m、滝壺の深さ 10mで、流れ落ちる水は三筋に分かれているため「三筋の滝」とも呼ばれ、日本の滝100選、一段の落差日本一で日本三名瀑の一つ

    「飛瀧神社」(ひろうじんじゃ)
    この神社は、「滝」そのものを御神体として祀られているため、拝殿も本殿もない珍しい神社で、直接「那智の滝」を拝礼する、滝は落差 133m、幅 13m、滝壺の深さ 10mで、流れ落ちる水は三筋に分かれているため「三筋の滝」とも呼ばれ、日本の滝100選、一段の落差日本一で日本三名瀑の一つ

  • 「滝行」(たきぎょう)の場<br />奈良時代に修験道の開祖・役行者(えんぎょうしゃ)が滝行して以来、滝修行が始まったとされ、花山天皇(968-1008)が那智の「二の滝」に千日間の山籠もりをされ滝行をしたと伝えられる *ここで見る「那智の滝」は「一の滝」で、上流に「二の滝」(落差23m)と「三の滝」(落差15m)があり、那智大社でお祓いを受けてから入山出来る

    「滝行」(たきぎょう)の場
    奈良時代に修験道の開祖・役行者(えんぎょうしゃ)が滝行して以来、滝修行が始まったとされ、花山天皇(968-1008)が那智の「二の滝」に千日間の山籠もりをされ滝行をしたと伝えられる *ここで見る「那智の滝」は「一の滝」で、上流に「二の滝」(落差23m)と「三の滝」(落差15m)があり、那智大社でお祓いを受けてから入山出来る

  • 「延命長寿のお瀧水」<br />短足がかわいい龍の口から流れ出る水を口に含めば、延命長寿の御利益があり、心身が浄化され、文字通り「再生」されるような気がする

    「延命長寿のお瀧水」
    短足がかわいい龍の口から流れ出る水を口に含めば、延命長寿の御利益があり、心身が浄化され、文字通り「再生」されるような気がする

  • 「飛瀧神社拝所」舞台<br />滝を一番近くで見れる「拝所」まで行くと、下で見るよりも滝の大きさや、しぶきや音の迫力を感じることが出来、滝の飛沫がとんでくるとご利益があるとか言われ、まさに自然に囲まれたスピリチュアルなパワースポットという感じを肌で感じることが出来る

    「飛瀧神社拝所」舞台
    滝を一番近くで見れる「拝所」まで行くと、下で見るよりも滝の大きさや、しぶきや音の迫力を感じることが出来、滝の飛沫がとんでくるとご利益があるとか言われ、まさに自然に囲まれたスピリチュアルなパワースポットという感じを肌で感じることが出来る

  • 10:20 「那智の滝」から「那智大社」へ

    10:20 「那智の滝」から「那智大社」へ

  • 「那智山参道入口」<br />「那智山」(なちさん)は、那智川の源流域となる「大雲取山」(966m)「烏帽子山」(909m)「光ヶ峯」(686m)「妙法山」(749m)などの山々からなり、古くから修験者などが集まる霊場として信仰の山となった

    「那智山参道入口」
    「那智山」(なちさん)は、那智川の源流域となる「大雲取山」(966m)「烏帽子山」(909m)「光ヶ峯」(686m)「妙法山」(749m)などの山々からなり、古くから修験者などが集まる霊場として信仰の山となった

  • 「那智大社」までに、467段の階段がある

    「那智大社」までに、467段の階段がある

  • 「モッコク」の大樹(那智大社実方院前庭)<br />那智大社の宿泊所である実方院(じっぽういん)の前庭にある、ツバキ科の常緑高木「モッコク」は全国でも稀に見る巨木で、和歌山県指定天然記念物

    「モッコク」の大樹(那智大社実方院前庭)
    那智大社の宿泊所である実方院(じっぽういん)の前庭にある、ツバキ科の常緑高木「モッコク」は全国でも稀に見る巨木で、和歌山県指定天然記念物

  • 熊野那智大社「一の鳥居」<br />「那智大社」は、もともと「那智の滝」に祀られていた神様を遷座して出来た

    熊野那智大社「一の鳥居」
    「那智大社」は、もともと「那智の滝」に祀られていた神様を遷座して出来た

  • さらに石段を上がって「二の鳥居」<br />「那智大社」は、熊野三山の中でも他の「本宮大社」と「速玉大社」とは異なり、山中の「那智の滝」を神聖視する自然信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後になる

    さらに石段を上がって「二の鳥居」
    「那智大社」は、熊野三山の中でも他の「本宮大社」と「速玉大社」とは異なり、山中の「那智の滝」を神聖視する自然信仰に始まるため、社殿が創建されたのは他の二社よりも後になる

  • 「拝殿」<br />古くから「那智の滝」に祀られていた滝の神様と熊野の神々を、この山の中腹に社殿をつくりお迎えしたことに始まり、主祭神の「夫須美大神」(ふすみのかみ=イザナミノミコト)が結びの神様であることから、人の縁や諸々の願いを結ぶ「結びの宮」として崇められている

    「拝殿」
    古くから「那智の滝」に祀られていた滝の神様と熊野の神々を、この山の中腹に社殿をつくりお迎えしたことに始まり、主祭神の「夫須美大神」(ふすみのかみ=イザナミノミコト)が結びの神様であることから、人の縁や諸々の願いを結ぶ「結びの宮」として崇められている

  • 熊野那智大社「御由緒」<br />「熊野」という地名は「奥まった処」「隠れた処」との意があり、「クマ」は「カミ」と同じ語で「クマノ」とは「神の野」で神々が住まう地といえる。この地に、神武天皇が東征の際に上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大滝を「神」として、そこに国づくりの神である「大巳貴命」(おおあなむちのみこと=オオクニヌシノミコト)を祀られたのが、那智山信仰の始まりとされ、その後、熊野神使である八咫烏の導きにより大和の地に赴かれ、樫原神宮で初代天皇に即位された。当社は、仁徳天皇の317年にこの地に社殿が創建され、那智の滝より熊野の神々を遷座し、新しい社殿には我が国最初の女神「夫須美神」(ふすみのかみ=イザナミノミコト)を主神として、国づくりに御縁の深い十二柱の神々をお祀りした。 熊野信仰は、我が国に仏教が伝わると早くから神仏習合が進み、修験道の隆盛とも相まって熊野権現として崇められ、平安中期より上皇が詣でる熊野御幸は百余回にも及び、やがて武将や庶民に至るまで大勢の人々が詣でるようになり、「蟻の熊野詣」と称された。

    熊野那智大社「御由緒」
    「熊野」という地名は「奥まった処」「隠れた処」との意があり、「クマ」は「カミ」と同じ語で「クマノ」とは「神の野」で神々が住まう地といえる。この地に、神武天皇が東征の際に上陸されたとき、那智の山に光が輝くのをみて、この大滝を「神」として、そこに国づくりの神である「大巳貴命」(おおあなむちのみこと=オオクニヌシノミコト)を祀られたのが、那智山信仰の始まりとされ、その後、熊野神使である八咫烏の導きにより大和の地に赴かれ、樫原神宮で初代天皇に即位された。当社は、仁徳天皇の317年にこの地に社殿が創建され、那智の滝より熊野の神々を遷座し、新しい社殿には我が国最初の女神「夫須美神」(ふすみのかみ=イザナミノミコト)を主神として、国づくりに御縁の深い十二柱の神々をお祀りした。 熊野信仰は、我が国に仏教が伝わると早くから神仏習合が進み、修験道の隆盛とも相まって熊野権現として崇められ、平安中期より上皇が詣でる熊野御幸は百余回にも及び、やがて武将や庶民に至るまで大勢の人々が詣でるようになり、「蟻の熊野詣」と称された。

  • 「本殿」<br />拝殿の奥に本殿があり、右から上五社の「滝宮」「証誠殿」「中御前」「西御前」「若宮」と「八社殿」が並ぶ、上五社の祭神は、「滝宮」に飛瀧権現の「大己貴命」(おおあなむちのみこと=オオクニヌシノミコト)、「証誠殿」に本宮大社の主祭神である「家津御子神」(けつみこのかみ=スサノオノミコト)、「中御前」に速玉大社の主祭神である「速玉神」(はやたまのかみ=イザナギノミコト)、「西御前」に那智大社の主祭神である「夫須美神」(ふすみのかみ=イザナミノミコト)、「若宮」に「天照大神」(あまてらすおおかみ)<br />

    「本殿」
    拝殿の奥に本殿があり、右から上五社の「滝宮」「証誠殿」「中御前」「西御前」「若宮」と「八社殿」が並ぶ、上五社の祭神は、「滝宮」に飛瀧権現の「大己貴命」(おおあなむちのみこと=オオクニヌシノミコト)、「証誠殿」に本宮大社の主祭神である「家津御子神」(けつみこのかみ=スサノオノミコト)、「中御前」に速玉大社の主祭神である「速玉神」(はやたまのかみ=イザナギノミコト)、「西御前」に那智大社の主祭神である「夫須美神」(ふすみのかみ=イザナミノミコト)、「若宮」に「天照大神」(あまてらすおおかみ)

  • 境内摂社の「御縣彦社」(みあがたひこしゃ)<br />神武天皇を大和・樫原に導いた 「八咫烏」(やたがらす)が祀られており、大任を終えて石になったといわれる「烏石」もある

    境内摂社の「御縣彦社」(みあがたひこしゃ)
    神武天皇を大和・樫原に導いた 「八咫烏」(やたがらす)が祀られており、大任を終えて石になったといわれる「烏石」もある

  • 開運絵馬のかかる「宝物殿」<br />熊野信仰を全国に布教する際に山伏・比丘尼が絵説きした「熊野那智山宮曼荼羅」(速玉大社にもあった)や、熊野御幸の法皇や女院方の伝承品、 豊臣秀頼や江戸時代将軍・大名が寄進した品々など多くの資料が保管、公開されている

    開運絵馬のかかる「宝物殿」
    熊野信仰を全国に布教する際に山伏・比丘尼が絵説きした「熊野那智山宮曼荼羅」(速玉大社にもあった)や、熊野御幸の法皇や女院方の伝承品、 豊臣秀頼や江戸時代将軍・大名が寄進した品々など多くの資料が保管、公開されている

  • 「樟霊社」(しょうれいしゃ)<br />平重盛の御手植えとされる樹齢850年の樟(クスノキ)を、那智滝と同様に御神木としてお祀りして、「樟霊社」と名付けており、 幹の根元には空洞があって、無病息災を願って「胎内くぐり」をする事が出来る、県指定天然記念物

    「樟霊社」(しょうれいしゃ)
    平重盛の御手植えとされる樹齢850年の樟(クスノキ)を、那智滝と同様に御神木としてお祀りして、「樟霊社」と名付けており、 幹の根元には空洞があって、無病息災を願って「胎内くぐり」をする事が出来る、県指定天然記念物

  • 「東門」を潜ると「青岸渡寺」

    「東門」を潜ると「青岸渡寺」

  • 「花手水」(はなちょうず)<br />全国の神社やお寺で広がっているが、京都のお寺では大抵住職の奥様が工夫を凝らしているケースが多いので、お寺の方が多いような気がする

    「花手水」(はなちょうず)
    全国の神社やお寺で広がっているが、京都のお寺では大抵住職の奥様が工夫を凝らしているケースが多いので、お寺の方が多いような気がする

  • 「青岸渡寺」(せいがんとじ)<br />仁徳天皇(290-399)の時代に、天竺から渡来した「裸形上人」(らぎょうしょうにん)が那智滝の滝壺で得た観音菩薩を本尊として安置したのが開基とされ、後に推古天皇(554-628)の時代に勅願寺となり、「生仏上人」(しょうぶつしょうにん)が刻んだ「如意輪観音像」に、この小さな観音菩薩を胎内に納めて本尊とした本堂が建立され、隣接する「那智大社」と一体化して「那智権現」と呼ばれ、神仏習合の修験道場として発展した

    「青岸渡寺」(せいがんとじ)
    仁徳天皇(290-399)の時代に、天竺から渡来した「裸形上人」(らぎょうしょうにん)が那智滝の滝壺で得た観音菩薩を本尊として安置したのが開基とされ、後に推古天皇(554-628)の時代に勅願寺となり、「生仏上人」(しょうぶつしょうにん)が刻んだ「如意輪観音像」に、この小さな観音菩薩を胎内に納めて本尊とした本堂が建立され、隣接する「那智大社」と一体化して「那智権現」と呼ばれ、神仏習合の修験道場として発展した

  • 「本堂」<br />明治7年(1874)熊野那智大社より独立するまでは「如意輪堂」と呼ばれ、織田信長の兵火にかかって焼失した後、天正18年(1590)に豊臣秀吉によって再建されたが、明治初期の神仏分離で、熊野三山の他の「本宮大社」「速玉大社」の仏堂は全て取り壊されたが、「那智大社」の「如意輪堂」だけは「西国三十三所の第一番札所」であったため破却されず、明治7年(1874)に「那智大社」から分離し、天台宗の寺院として独立し、新たに「青岸渡寺」と名付けられて「如意輪堂」は青岸渡寺「本堂」として復興した(名前は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来)

    「本堂」
    明治7年(1874)熊野那智大社より独立するまでは「如意輪堂」と呼ばれ、織田信長の兵火にかかって焼失した後、天正18年(1590)に豊臣秀吉によって再建されたが、明治初期の神仏分離で、熊野三山の他の「本宮大社」「速玉大社」の仏堂は全て取り壊されたが、「那智大社」の「如意輪堂」だけは「西国三十三所の第一番札所」であったため破却されず、明治7年(1874)に「那智大社」から分離し、天台宗の寺院として独立し、新たに「青岸渡寺」と名付けられて「如意輪堂」は青岸渡寺「本堂」として復興した(名前は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来)

  • 「観音霊場第一番札所」<br />花山天皇(968-1008)が千日滝行をした際に、熊野権現から託宣を受けた「西国三十三所霊場」を巡礼したことから始まったという日本最古の巡礼路で、「那智権現」と呼ばれる「青岸渡寺」が「第一番札所」となっている *西国三十三所の総距離は近畿から岐阜まで1,000㎞、四国八十八箇所は1,400km<br />

    「観音霊場第一番札所」
    花山天皇(968-1008)が千日滝行をした際に、熊野権現から託宣を受けた「西国三十三所霊場」を巡礼したことから始まったという日本最古の巡礼路で、「那智権現」と呼ばれる「青岸渡寺」が「第一番札所」となっている *西国三十三所の総距離は近畿から岐阜まで1,000㎞、四国八十八箇所は1,400km

  • 「タブノキ」<br />本堂前の「タブノキ」は樹齢700年のご神木で、県指定天然記念物、常緑の高木で、クスノキに似ているが葉や花に違いがあり、タブノキは線香の原料に、クスノキは防虫剤になる

    「タブノキ」
    本堂前の「タブノキ」は樹齢700年のご神木で、県指定天然記念物、常緑の高木で、クスノキに似ているが葉や花に違いがあり、タブノキは線香の原料に、クスノキは防虫剤になる

  • 「西国第一番御詠歌」の碑<br />「補陀洛や 岸うつ浪は 三熊野の 那智の御山に ひびく滝つせ(津瀬)」那智山主 亮享 (那智の滝の音は浄土のいる補陀洛山の岸をうつ波の音のひびくように聞こえて、那智の山は「補陀洛山」のようだ) *「補陀洛山」(ふだらくせん)は、観音菩薩が降臨する霊場とされる南方浄土

    「西国第一番御詠歌」の碑
    「補陀洛や 岸うつ浪は 三熊野の 那智の御山に ひびく滝つせ(津瀬)」那智山主 亮享 (那智の滝の音は浄土のいる補陀洛山の岸をうつ波の音のひびくように聞こえて、那智の山は「補陀洛山」のようだ) *「補陀洛山」(ふだらくせん)は、観音菩薩が降臨する霊場とされる南方浄土

  • 「三重塔」<br />那智山が霊場として全盛期を誇った平安末期に建立され、1117年には白河法皇や鳥羽上皇らが訪れた記録も残り、1590年豊臣秀吉によって再建されたが、現在の塔は昭和47年(1972)に再建されたもの

    「三重塔」
    那智山が霊場として全盛期を誇った平安末期に建立され、1117年には白河法皇や鳥羽上皇らが訪れた記録も残り、1590年豊臣秀吉によって再建されたが、現在の塔は昭和47年(1972)に再建されたもの

  • 「那智の滝」と「朱塗りの塔」と「桜」のコントラストが絶景!<br />昨日までは咲いてなかった「桜」も開花し、素晴らしい撮影ポイントになったが、出来れば三重塔まで歩いて最上階に上がると、滝壺までま近かに見れて、海側は太平洋をも見れるパノラマが望めるらしい、背景の「那智山」は900m級で、「青岸渡寺」の標高は350m、「三重塔」は330mで塔の高さは25m、「那智の滝」は標高400mから滝壺まで130mの落差で落ちる

    「那智の滝」と「朱塗りの塔」と「桜」のコントラストが絶景!
    昨日までは咲いてなかった「桜」も開花し、素晴らしい撮影ポイントになったが、出来れば三重塔まで歩いて最上階に上がると、滝壺までま近かに見れて、海側は太平洋をも見れるパノラマが望めるらしい、背景の「那智山」は900m級で、「青岸渡寺」の標高は350m、「三重塔」は330mで塔の高さは25m、「那智の滝」は標高400mから滝壺まで130mの落差で落ちる

  • 「宝篋印塔」(ほうきょういんとう)<br />鎌倉後期1322年の銘がある日本最古の宝篋印塔(供養塔)、右手の「鐘楼」も鎌倉時代、左手は「水子堂」

    「宝篋印塔」(ほうきょういんとう)
    鎌倉後期1322年の銘がある日本最古の宝篋印塔(供養塔)、右手の「鐘楼」も鎌倉時代、左手は「水子堂」

  • 「那智大黒天堂」(如法堂)<br />那智七福神を祀る、本尊は大黒天

    「那智大黒天堂」(如法堂)
    那智七福神を祀る、本尊は大黒天

  • 「那智の滝」と「ロウバイ」と「桜」<br />

    「那智の滝」と「ロウバイ」と「桜」

  • 「山門・仁王門」<br />もともと「大門坂」にあった門を昭和8年(1933)に移築したもので、内側は狛犬、外側は仁王像が背中合わせにおり、神仏習合の名残とされる珍しい門、仁王像は鎌倉時代の1213年湛慶が作った執金剛力士像(しゅこんごうりきしぞう)

    「山門・仁王門」
    もともと「大門坂」にあった門を昭和8年(1933)に移築したもので、内側は狛犬、外側は仁王像が背中合わせにおり、神仏習合の名残とされる珍しい門、仁王像は鎌倉時代の1213年湛慶が作った執金剛力士像(しゅこんごうりきしぞう)

  • 内側(境内側)からは「狛犬」がいる「山門」

    内側(境内側)からは「狛犬」がいる「山門」

  • 外側(表側)からは「仁王像」がいる「仁王門」

    外側(表側)からは「仁王像」がいる「仁王門」

  • 再び長い石段を下りて、「青岸渡寺」から「大門坂」へ移動

    再び長い石段を下りて、「青岸渡寺」から「大門坂」へ移動

  • 「大門坂」<br />ここから267段の石段と杉木立が640m続く、ここに「青岸渡寺」の山門として移築した「大門」があったので、「大門坂」という

    「大門坂」
    ここから267段の石段と杉木立が640m続く、ここに「青岸渡寺」の山門として移築した「大門」があったので、「大門坂」という

  • 高低差100mの苔むした石畳の道に樹齢800年を超す老杉が取り囲む

    高低差100mの苔むした石畳の道に樹齢800年を超す老杉が取り囲む

  • この石畳の坂道は、平安の昔から多くの参詣者たちが歩いてきた「熊野古道」の面影がもっとも残り、霊場那智山のシンボルとして、「日本の道100選」に選ばれている

    この石畳の坂道は、平安の昔から多くの参詣者たちが歩いてきた「熊野古道」の面影がもっとも残り、霊場那智山のシンボルとして、「日本の道100選」に選ばれている

  • 大門坂には、「一町」(約109m)ごとに「町石」がある、「町石」(ちょういし)は、弘法大師が高野山を開山した際に木製の卒塔婆を立てたのが始まりとされている

    大門坂には、「一町」(約109m)ごとに「町石」がある、「町石」(ちょういし)は、弘法大師が高野山を開山した際に木製の卒塔婆を立てたのが始まりとされている

  • 樹齢約800年の「楠大樹」

    樹齢約800年の「楠大樹」

  • 胎内くぐりで有名な「那智大社」の御神木は樹齢850年とあった

    胎内くぐりで有名な「那智大社」の御神木は樹齢850年とあった

  • 「多富気王子」(たふけおうじ)<br />「たふけ」は手向けで、樹霊や峠の神仏に「手向け」(たむけ)をして、本宮の「祓戸(はらいど)王子」のように、那智山に入る身心を清める場所

    「多富気王子」(たふけおうじ)
    「たふけ」は手向けで、樹霊や峠の神仏に「手向け」(たむけ)をして、本宮の「祓戸(はらいど)王子」のように、那智山に入る身心を清める場所

  • 「多富気王子」は、京都から熊野三山に至るまでに設けられた、熊野古道「九十九王子」(くじゅうくおうじ)最後の一社

    「多富気王子」は、京都から熊野三山に至るまでに設けられた、熊野古道「九十九王子」(くじゅうくおうじ)最後の一社

  • 「夫婦杉」<br />参道出口(入口)近くに、門柱のように対の大杉が立っている、高さ 55m、周囲 8m

    「夫婦杉」
    参道出口(入口)近くに、門柱のように対の大杉が立っている、高さ 55m、周囲 8m

  • 「夫婦杉」の樹齢は 800年を超え、周囲の杉木立は殆どが数百年の歴史を持ち、その中に時折入る木漏れ日が美しい

    「夫婦杉」の樹齢は 800年を超え、周囲の杉木立は殆どが数百年の歴史を持ち、その中に時折入る木漏れ日が美しい

  • 那智の七石「鏡石」という祈り石<br />「那智の七石」とは何か、謂れがありそうなので調べてみると、この「大門坂」入り口の「鏡石」から始まり、「那智大社」までの参道に7個の石があり、2つ目は大門坂を登り切ったところに「唐斗石」、3つ目は那智大社参道途中の「実方院」跡に「平石」、4つ目は青岸渡寺参道途中に「三ツ石」、5つ目は尊勝院の庭に「降石」、6つ目は那智大社と青岸渡寺の間に「笈掛石」、最後の7つ目が那智大社拝殿前に「烏石」とあるらしい、これはスタンプラリーにでもしないと分からない

    那智の七石「鏡石」という祈り石
    「那智の七石」とは何か、謂れがありそうなので調べてみると、この「大門坂」入り口の「鏡石」から始まり、「那智大社」までの参道に7個の石があり、2つ目は大門坂を登り切ったところに「唐斗石」、3つ目は那智大社参道途中の「実方院」跡に「平石」、4つ目は青岸渡寺参道途中に「三ツ石」、5つ目は尊勝院の庭に「降石」、6つ目は那智大社と青岸渡寺の間に「笈掛石」、最後の7つ目が那智大社拝殿前に「烏石」とあるらしい、これはスタンプラリーにでもしないと分からない

  • 「振ヶ瀬橋」(ふりがせばし)と鳥居<br />霊場への入り口で、俗界と聖域の結界になる

    「振ヶ瀬橋」(ふりがせばし)と鳥居
    霊場への入り口で、俗界と聖域の結界になる

  • 「大阪屋旅館跡」<br />和歌山県が生んだ博物学の巨星と言われる「南方熊楠」(みなかたくまぐす 1867-1941)が、那智山中の植物調査を行うために 3年間滞在した旅館跡で、那智原生林の保護に力を尽くしたという *「博物学」は、動物、植物、鉱物など自然界の生物全部の研究

    「大阪屋旅館跡」
    和歌山県が生んだ博物学の巨星と言われる「南方熊楠」(みなかたくまぐす 1867-1941)が、那智山中の植物調査を行うために 3年間滞在した旅館跡で、那智原生林の保護に力を尽くしたという *「博物学」は、動物、植物、鉱物など自然界の生物全部の研究

  • 関所の「十一文関跡」<br />熊野古道には何か所か「関所」を見かけるが、「十一文」支払わなければ通ることが出来ない、「三軒茶屋」の関所では十文(約200円)だったから220円くらいか

    関所の「十一文関跡」
    熊野古道には何か所か「関所」を見かけるが、「十一文」支払わなければ通ることが出来ない、「三軒茶屋」の関所では十文(約200円)だったから220円くらいか

  • ここが「大門坂」入り口<br />本来は、ここから「大門坂」参道を上がるのが正解だが、今回は逆ルートにしたため、歩く負担が極めて楽だった、それでも「那智大社」に上がる500段の石段の往復は、かなりキツかった

    ここが「大門坂」入り口
    本来は、ここから「大門坂」参道を上がるのが正解だが、今回は逆ルートにしたため、歩く負担が極めて楽だった、それでも「那智大社」に上がる500段の石段の往復は、かなりキツかった

  • 12:20「なでしこジャパン記念モニュメント」で「熊野詣」終了<br />「本宮大社」にもあった「八咫烏」縁のサッカー碑だが、この碑は、地元出身の「中村覚之助」(なかむら かくのすけ 1878-1906)に因み勝浦町が建立したもので、勝浦で生まれ現在の筑波大学で明治37年蹴球(しゅうきゅう)部を日本で初めて創設したが、2年後に急逝、その後昭和6年に、覚之助の後輩が発案した日本サッカー協会の八咫烏シンボルマークが完成したという経緯がある

    12:20「なでしこジャパン記念モニュメント」で「熊野詣」終了
    「本宮大社」にもあった「八咫烏」縁のサッカー碑だが、この碑は、地元出身の「中村覚之助」(なかむら かくのすけ 1878-1906)に因み勝浦町が建立したもので、勝浦で生まれ現在の筑波大学で明治37年蹴球(しゅうきゅう)部を日本で初めて創設したが、2年後に急逝、その後昭和6年に、覚之助の後輩が発案した日本サッカー協会の八咫烏シンボルマークが完成したという経緯がある

  • 13:20 「熊野大門坂」からバスで 40km走って「串本」へ<br />熊野から紀伊半島の海岸線を通る「熊野古道・大辺路」コースを辿って、「串本」に立ち寄り、海岸線沿いに京都へ帰る

    13:20 「熊野大門坂」からバスで 40km走って「串本」へ
    熊野から紀伊半島の海岸線を通る「熊野古道・大辺路」コースを辿って、「串本」に立ち寄り、海岸線沿いに京都へ帰る

  • 「本州最南端の地」<br />「串本・潮岬」は、紀伊半島南端の太平洋に突き出た岬で、本州で最南端の位置にあり、眼前には太平洋が広がり、緩やかな円弧状に広がる水平線を見ると、地球が丸いことが実感できる、海上交通の要所であることから、右手には明治6年点灯の白亜の灯台がある<br />

    「本州最南端の地」
    「串本・潮岬」は、紀伊半島南端の太平洋に突き出た岬で、本州で最南端の位置にあり、眼前には太平洋が広がり、緩やかな円弧状に広がる水平線を見ると、地球が丸いことが実感できる、海上交通の要所であることから、右手には明治6年点灯の白亜の灯台がある

  • 遅めの昼食は、名物の「近大マグロ御膳」<br />近くの大島にある「近畿大学の養殖マグロ場」で獲れたマグロを、太平洋を一望できるオーシャンビューのレストランで食べる<br /><br />

    遅めの昼食は、名物の「近大マグロ御膳」
    近くの大島にある「近畿大学の養殖マグロ場」で獲れたマグロを、太平洋を一望できるオーシャンビューのレストランで食べる

  • 14:00 本州最南端の潮岬から、「大辺路」コースと「紀伊路」を辿って、バスで200km走り、京都に到着 18:00 「完」

    14:00 本州最南端の潮岬から、「大辺路」コースと「紀伊路」を辿って、バスで200km走り、京都に到着 18:00 「完」

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