2026/05/17 - 2026/05/17
177位(同エリア506件中)
関連タグ
kojikojiさん
- kojikojiさんTOP
- 旅行記1883冊
- クチコミ1223件
- Q&A回答73件
- 3,828,291アクセス
- フォロワー178人
朝食を終えた午前8時にホテルを出発します。この日はブハラの観光の後に高速鉄道でサマルカンドに移動します。荷物を持っての鉄道の移動は大変だということで、今回のツアーでは別仕立てのバスがブハラの観光中に荷物をサマルカンドのホテルに運んでくれるということです。本来1人1個の預け入れ荷物ですが、添乗員さんに新しいタグをいただいて、小型のキャリーも運んでもらいました。こういったところはツアーで良かったと思えるところです。個人旅行だと駅での移動は非常に苦労することが多くあります。特に近年は妻の荷物も運ばなくてはならないことも多く、階段や高低差のある列車の乗り降りや荷物を荷物スペースに乗せる時などです。荷物置き場の無い東海道新幹線などは海外ではありえないと思う時があります。身軽でブハラ観光用のバスに乗り込み、まずは「イスマーイール・サーマーニー廟/Somoniylar maqbarasi」へ向かいます。この日もフェスティバルの影響で旧市街への車両規制は行われていましたが、妙に顔の広いガイドさんのお陰でセキュリティのゲートもバスに乗ったまま通過できました。バスを降りた先に遊園地があり、そこにはミッキーとミニー風の像がありました。面白がってそこで写真を撮っていると同じツアーの方から妻は「ミミーちゃん!」と呼ばれるようになりました。「アルク城/Buxoro arki」の見学に移るころには今回のツアー中で最高の40℃声の気温となり、さすがに体力を消耗します。「カラーン・モスク/Kalon masjidi」を見学した後は少しの自由時間があり、ここでようやく羊の白い毛の帽子チョギルマ(Chogirma)を被ることが出来ました。お店のおばさんがカッコいいサングラスをしていたので一緒に写真まで撮ってもらいました。ブハラやサマルカンドでは写真撮影5,000スムで帽子を借りることが出来て面白かったです。その勢いでコットンの民族風の衣装の上下のアンサンブルを2つ買ってしまったり…。有名なコウノトリのハサミ屋さんに寄った後は店の2階にある「Zargaron Plov」というレストランで焼きラグマンのランチをいただきました。その後は見学を続けながらホテルまで戻るのですが、気温はさらに上がっているようです。「クカルドシュ・マドラサ/Kukaldosh Madrasah」まで来たところでガイドさんが3台のカートをチャーターしてくれました。ホテルまでならすぐなのにと思いましたが、バスはかなり先に停車していたのでこれは助かりました。迎えに来たバスに乗って30分ほどでブハラ駅に到着しました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 観光バス 徒歩 飛行機
- 航空会社
- 中国国際航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- JTB
-
「ライカルツ・モダリクソン・ブハラ/Reikartz Modarixon Bukhara」ホテルの周囲はこんな住宅街でした。
Reikartz Modarixon Bukhara ホテル
-
ホテルの前の四つ辻は即席の市のようになるみたいで、午前7時には乳製品を売る人や野菜を売るおばあさんなど3人ほどが商売を始めていました。表通りまで出て迎えに来たバスに乗ってブハラ市内の観光が始まります。
-
「ハズラティ・イマーム門/Darvoza-i Khazrati Imam」は2009年9月に再現再現されたブハラ市のかつての門です。ブハラの旧市街を囲む壁の長さは12キロメートルあり、シャイバニド朝のアブドゥルアジズ・ハーンの治世下の1540年から1549年にかけて、城壁が建設されると門の数は11に達しました。
-
門の数は20世紀初頭まで変わらず、城壁沿いに設置された11の門を通じて市内への出入りは厳重に管理されていました。半円形の円筒形の二重塔門は夕方の礼拝後に閉まり朝の礼拝後に開かれました。焼成レンガで造られた門の高さは11.6メートル、幅は23メートル、基部は1.5メートルでした。3階建ての守備員用に設計された2つの小さな塔が設けられました。
-
本来であればホテルの近くまでもバスは入れなかったのですが、この辺はガイドさんの力量に寄ることが大きそうです。旧市街のレストランにナンを納めに行くおじさんすごいです。
-
バスは「パルク・アットラクツィオノフ/Park Attraktsionov」という遊園地の近くで我々を降ろしました。
-
妻との観覧車の思い出は旧満州の長春にある遊園地の鉄工所で造ったような観覧車の上から「関東軍司令部」の建物を見るというものでした。この観覧車は中古のものをどこかの国から買ってきたのかもしれません。日本で活躍した観覧車をアジアの国で見掛けることはよくあります。
-
これを見ると中国で活躍した遊具が輸出されているのだと思いました。現在は多少良くなってきたのかもしれませんが知的財産や登録商標などなんとも思わない国でした。これ以降妻は同じツアーの方から「ミミ―ちゃん!」と呼ばれるようになりました。
-
遊園地が目的ではなく、ブハラ最初の見学は近くにある「イスマーイール・サーマーニー廟/Somoniylar maqbarasi」です。
-
サモニド朝の創始者イスマイル・ソモニとその子孫の霊廟です。この霊廟は中央アジアの建築と芸術の歴史における最初期の霊廟の1つであり、その構造は古代ソグド建築の伝統を保存した偉大な建築的傑作と言われます。
-
開口部の出入り口と窓には気が使われていますが、それ以外は数種類の焼成レンガを組み合わせただけの建築物でありながら、完成された美しさを感じます。
-
文献や伝承によれとこの霊廟はイスマイル・ソモニによって父の墓の上に建てられたとされています。ナルシャヒという歴史家はブハラの歴史書にイスマイル・ソモニの息子アミール・アフマドが奴隷に殺され、この墓に埋葬されたと記しています。父アミール・アフマドの霊廟からレジスタンまでの土地の一部が霊廟に捧げられました。
-
古代ソグド建築というものは初めて見ましたが、ソグド人という名前はNHKの「シルクロード」という番組で初めて聞いたのだと記憶しています。ソグド人は中央アジアのザラフシャン川流域地方に住んでいたイラン系(ペルシア系)のオアシスの農耕民族や商業を得意として定住にこだわらず、シルクロード周辺域の隊商をはじめとして多様な経済活動を行った民族のようです。
-
ソグド人はアケメネス朝の支配下にあった頃より交易に従事し、マケドニア王国のアレクサンドロス3世の征服や、その後のグレコ・バクトリア王国支配下においても交易を続けていきます。クシャーナ朝、エフタル、突厥たびたび遊牧国家の支配を受けてその都度支配者が変遷しましたが、ソグド人は独自の文化を維持していきます。
-
ソグド語とソグド文字を使い、宗教的にはゾロアスター教を信仰しましたが2世紀から3世紀にかけては中国に仏教を伝えました。6世紀から7世紀にはマニ教とキリスト教のネストリウス派を中国やテュルク人に伝え、東方のイラン系精神文化も中国にもたらします。ガイドさんによるとこの霊廟の盾に並ぶ丸いレンガは仏教を意味するということでした。
-
ソグド人の活動範囲は東ローマ帝国から唐の長安にまで及びましたが、イスラム勢力の台頭によりイスラム化が進み、12世紀にはその民族的特色は失われていきます。この縦に並ぶ四角いレンガはイスラム教を表すと説明がありました。
-
外壁の上部には40カ所の小さな窓があり、そこから差し込む光が照明の無い内部を明るく感じさせます。
-
名画面いろいろなところでレンガ建築を見てきましたが、どことも共通性を感じさせない不思議な空間でした。どうしてもドーム周辺に目が行ってしまうので首が疲れます。
-
霊廟から「チャシュマイ・アユブ廟/Chashmai Ayub Mausoleum」へ向かう途中のお土産物屋の前にはこんな毛布に包まれたものがありました。ガイドさんから「これは何でしょう?」という質問があり、「ゆりかご」と答えると当たりでした。
-
毛布を剥がすと中には赤ん坊の人形が置かれてありました。
-
ウズベキスタン古くからの伝統の1つが赤ちゃんの誕生を祝う「ベシクトイ」で、「ベシク」とはゆりかご、「トイ」は式典全般を表す言葉だそうです。
「ベシクトイ」とは第一子の誕生を祝う式典のことで、主役の赤ちゃんには新しいゆりかごが送られます。ガイドさんも弟の子供に贈ったことがあるそうですが、日本円にして5万円くらいするそうです。 -
ゆりかごの中でトイレはどうするかというと左側は男の子用でL字になった先っぽにおちんちんを差し込むそうです。右側の女の子用はよく分かりません。
-
公園の植え込みの脇には陶器の露店が店開きの準備中でした。ウズベキスタンでは「チンネ(chinni)」は陶器・磁器の意味です。「Chinni」は元々ペルシャ語で、中国を意味する「Chin」に形容詞語尾がついた形で、「中国からもたらされた素晴らしいもの」、磁器を指す言葉になったそうです。英語でも「fine china」は陶磁器を意味します。
-
レストランでよく見掛けたのは青と白を基調とした綿花柄の「パフタ柄陶器」でした。パフタは綿花の意味で、綿花はウズベキスタンの重要な農産品です。この緑と紫の大皿は釉薬を乗せた後に鉄筆のような道具で釘彫りして焼成したもので、迷いのない筆致が素晴らしいです。
-
ウズベキスタン東部のリシュトンはフェルガナ盆地にある町で、「ウズベキスタン随一の陶器の町」として知られています。観光地で見られる陶器の90%はこの町で造られたものと言われています。
-
こちらは茶色い釉薬を乗せた後にスジボリを施し、その後に葉を表す緑色と数色の丸い点を描いています。今回の旅ではどこかで陶器を買い求めたいと思っていたので目が留まってしまいます。
-
「チャシュマイ・アユブ廟/Chashmai Ayub Mausoleum」の名前は「ヨブの井戸」を意味し、伝説の中でヨブ(アユブ)がこの地を訪れ、杖で地面を打って井戸を開けたという話に由来します。この井戸の水は今も清らかで癒しの力があると考えられています。現在の建物はティムール王朝時代に建てられ、ブハラでは珍しいホラズム様式の円錐形ドームが特徴です。
-
現在は博物館になっているようで、中から出てきた社会科見学の子供たちが記念写真を撮っていました。
-
ガイドさんの説明をイヤフォンガイドで聞きながらもレストランにリヤカーで配達しているおばさんが気になってしまいます。
-
「アルク城」への道中は閑静な住宅街になっていました。ガイドさんによるとこれは各戸に引き込まれている天然ガスの配管とメーターだそうです。ウズベキスタンは天然ガスの埋蔵量が世界20位くらいだそうです。
-
ツアーには含まれていませんが、「ボロハウズモスク/Bolohovuz masjidi」の前を通過しました。ちょうどお祈りの時間だったようで中を覗くことは出来ませんでした。
-
モスクは1712年に建てられ、1920年代にボリシェヴィキ・ロシア支配下では金曜日のモスクとして使われていました。1917年にはイワーンの正面に細い木製の柱が追加され、夏の礼拝室の膨らんだ屋根を支えました。柱は色とりどりのムカルナで装飾されています。
-
ヒヴァでもいくつかのモスクを見てきましたが、このモスクのファサードはとても美しかったです。
-
モスクの前には八角形のハウズ(人工池)があり、おそらくモスク建設当時に遡るもので当時は貯水池が住民の水源として機能していました。向かって左側には1916年から1917年にかけて建てられた短いミナレットがあり、複数のレンガの帯と青い釉薬タイルが交互に配置されています。20本の柱は水面に映ったものも含めて40本に見えます。
-
ハウズの脇の木陰では露店が並び、ザクロのジュースが売っていました。小ぶりなものが小さなカップ1杯で50.000スムということで諦めました。イスタンブールのスルタンアフメットで飲んで美味しかったジュースが懐かしいです。
-
「ブハラ・タワー/Bukhara Tower」は1920年にブハラ水道施設として知られる給水システムの一部として建設されました。1927年にウラジーミル・グリゴリエヴィチ・シュホフによる設計の給水塔はこの給水システムの一部となりました。1975年の火災以降はこの給水塔は利用を停止されます。90年代後半にブハラ給水塔は歴史的遺産に指定され、2000年代初頭には修復されてエレベーターが設置され、その後レストランとして使われましたが現在は見晴らしのよう展望台になっています。
-
タワーの前に建つ「アルク城/Buxoro arki」は古代における国家権力の象徴とされています。遥か昔からこの要塞はブハラの中心に位置し、街を治める支配者たちの居住地および拠点として機能してきました。アルクの歴史には未解明な点も多く、その正確な創建年代は定かではないようですが、少なくとも1500年以上前には支配者の住居として存在していたことがわかっています。この建造物は照りつける太陽のもと、機械の力に頼ることなく人工の丘の上に築かれました。
-
アルクは何世紀にもわたりブハラのアミールの主要な住居であり、地域の政治や行政的中心地として機能し続けました。その城壁の内側には統治者のみならず、著名な詩人や哲学者や学者たちも訪れたようです。
-
アルク城の建設はアジアの民間伝承に登場する英雄シヤヴシュによるものとされています。物語によるとシヤヴシュは継母からの不当な誘惑を避けて旅に出た末に豊かな砂漠のオアシスへとたどり着きました。そこで彼は地元の王の娘と出会い恋に落ちます。しかし王は娘との結婚を許す条件として、「雄牛の皮に収まる土地に宮殿を建てよ」という難題を課しました。シヤヴシュは機転を利かせ、牛の皮を細かく切って長い紐状にし、それを円形に広げて土地を囲い、その中に見事に宮殿を建て上げたと伝えられています。この伝説によれば、こうしてアルク城が誕生したとされています。
-
これと同じ話はチュニジアのカルタゴでも聞いたことがあります。古代ローマの詩人ウェルギリウスによるとカルタゴを建国した伝説上の女王ディード(Dido)の一行がこの地を訪れた時に地元のベルベル人の長イアルバースは「牛の皮1枚で覆えるだけの土地」しか与えないと言ったそうです。ディードは牛の皮を細長く切り裂いて紐状とし、それでビュルサの丘を囲ってその土地を手に入れたという伝説が残っています。
-
「アルク城」は多くの激しい戦火を経験しています。1220年にはチンギス・ハーン率いるモンゴル軍がブハラを侵攻した際に市民たちは城内に避難しましたが、モンゴル軍は要塞を突破し、守備隊を壊滅させ、財宝を略奪して建物を破壊しています。
-
門を潜って先へ進むと緩やかなスロープが続いています。門の先の天井は丸太が渡されています。このマルタはかなり古いものだという説明がありました。
-
スロープの脇は牢獄になっていて、マネキンが置かれてその当時の姿が再現されています。
-
坂を登り切った先には「モスク・ジョメ/Mosque Jome」があります。このモスクは18世紀初頭のエミール・スカンクリカンの治世中に建てられました。冬のモスクとして建てられ4本の支柱と石の台座の上に置かれたイワーンがあります。天井は巨大な鍾乳石の柱頭で飾られた木製の柱で支えられ、花柄や幾何学模様の装飾で覆われています。
-
その横では金工の実演と販売をしていました。銅のエンボス加工の技術は何世紀にもわたってウズベキスタンの芸術的遺産の1つとなってきました。18世紀と19世紀の銅製の浮き彫りの品々は単なる装飾品ではなく、社会的地位と富の象徴でもあったようです。
-
モスクには8つの入口扉と4つのミフラーブがあります。中には手書きのクルアーンなどが納められていました。
-
ミニ博物館のような設えになっていますが、展示されている物よりも建物自体の美しさに惹かれます。
-
天井から続くミブラーフの壁面の美しさに目を見張ります。デザイン化されたようなアラビア文字は全く読むことは出来ませんが、アラビアビック・カリグラフィーは2021年に無形文化遺産として登録しています。
-
「アルク城」の壁の高さは16メートルから20メートルに及ぶのでブハラ旧市街を見渡すことが出来ます。先ほど見てきた「ボロハウズ・モスク」も木立の間から頭を覗かせています。
-
「モスク・ハナカ/Mosque Khanaqah」は1920年の爆撃で破壊されたため廃墟のような姿です。ロシア内戦中の1920年のブハラの戦いでミハイル・フルンゼ率いる赤軍によって「アルク城」は大きな損傷を受けました。フルンゼは航空機による爆撃に命じたため構造物の大部分が廃墟となりました。
-
最後のエミール(首長)だったモハメド・アリム・ハーンは王室の財宝を持ってアフガニスタンに逃れ、「アルク城」のハレムなどの聖地がボリシェヴィキに汚されないように爆破するよう命じました。そのために元々あった丘の上に建物はほとんど残されていません。
-
これから行く「ポイカロン建築群/Poyi Kalon Complex」やシルクとスパイスのマーケットの白いテントが見えています。
-
元々あった丘陵にレンガを積み上げて城壁としたことが城壁の際を歩くとよく分かります。
-
城壁が崩れてしまった部分を見るとこの城が元々は自然にできた丘陵だということが分かります。
-
「ブハラ・ハン国/首長国の歴史博物館」という小さな博物館の見学もしました。外は気温40℃を越えていますが、博物館の中はエアコンが効いて涼しくなっています。イエローグリフィンの間のフレスコ画は長さ約11メートルに及び、王の謁見式典の場面が描かれています。構図の中央には王の姿があり、王は右手に杯、左手に松明を持っています。王は短い髪でイヤリングをつけ、頭には丸い飾りをつけ、ベルトには剣を身につけています。王の後ろには装飾品で着飾った女性がいます。彼女は左手に杯を持っています。王夫妻の頭の後ろには権力の象徴である光輪が描かれています。
-
詳しいキャプションなど無いので由来などは分かりませんが、中国の三彩を連想させるような釉薬が魅力的です。
-
モダンなデザインの陶器は町中のお土産屋では絶対に見つけられません。古い陶器の写し物も造ればいいのにと思います。
-
現代アートにも通じるようなデザインのボウルは年米のペルーのデザインにも似ている気がします。キース・へリングの迷いのない筆致にも通じます。
-
このタイプの青花の陶器のルーツは中国にあるのだと思いますが、イスラムの影響を受けて変化していくのが魅力的です。
-
下に置かれたのは16世紀から17世紀の「アルク城」で使われていた水道管です。錠前は1769年に「アルク城」で使われていました。鞭は英雄ルスタムが使っていたものです。ペルシャ叙事詩「シャー・ナーメ(王の書)」に記されたルスタムはイスラム世界全域で「力強い英雄」の代名詞として広く知られています。
-
ブハラ・アミール国の統治機構の組織図の下にはナスルラ・ハーンとムザファル・ハーンの肖像画が並べられています。
-
19世紀末にレオン・バルシュチェフスキーによって撮影されたサマルカンドでの写真です。中央に座るのが首長なのでしょうか。西洋式の軍服を纏いながら正座している姿が不思議です。
-
タンバリンのようなドイラ(Doyra)という太鼓は昨夜のディナーショーでも見ることが出来ました。オフトビヨン(Oftobjon)と呼ばれる人形も専門店で売っている物が気になっていました。
-
中央上に吊られた黒い物はヤシの実で造られたものでトルコのコンヤのメブラーナ博物館で見たことがありました。トルコではケシュクルと呼ばれ、寄付を受けるための容器です。シルクロードはトルコも通っているのだと感じるものでした。
-
「フシュタク/Khushtak」
クシュタクという粘土製の玩具の起源は中央アジアのゾロアスター教時代にまで遡ります。古代からウズベク語のフシュタクにはそれ自体が神聖な意味を持っていました。そして護符としても使われました。 -
イスラム教の到来後もウズベクの「フシュタク」はイスラム以前のカルトとしての役割を果たし続けました。これらのウズベクの粘土玩具の生産は農作業の始まりである春分のナヴルーズの祝日に合わせられていました。収穫や来年の苦労のない生活への希望は「クシュタク」と結びつけられていました。
-
粘土製のおもちゃフシュタクは子供たちに配られ、野原や庭を玩具を持って走り回りながら悪霊を吹き飛ばし、豊かな雨を祈るようになりました。同じような形の鳩笛をトルコのパムッカレで買ったことを思い出しました。この人形が日しかったのですが、ブハラの町では見つけることが出来ませんでした。
-
イランから輸入された陶器も展示されています。元々はもっと首が長い花瓶だったのかもしれません。切り取られた跡には銅製のカバーが取り付けられています。
-
灼熱の「アルク城」の見学を終えても観光はまだまだ続きます。元々あった丘陵を要塞に変えるにしても全てをレンガで覆ってしまう発想には驚きます。
-
フェスティバルのエリアに入ると軽快な音楽が流れ、清掃員のおじさんとおばさんが楽しそうに踊っていました。
-
ようやくブハラのシルク・スパイスマーケットのエリアに着きましたが、あまりの熱さに店を見て歩こうという気にはなりません。ガイドさんは伝統の金刺繍などについて説明をしてくれました。
-
今までトルコでも北アフリカのマグレブの国々でもスパイスを買ってもなかなか家で使うことにはなりません。パプリカとかトルコの甘い唐辛子プル・ビブレ(Pul Biber)くらいしか使えませんでした。
-
早朝誰もいない広場から眺めた「カラーン・モスク/Kalon masjidi」まで戻ってきました。カラン・モスクの主要部分はカラハン朝の支配者の1人であるアルスラン・ハーンの治世下の12世紀に建てられ、シャイバニ・ウバイドゥッラー・カーンの治世中の1514年に完成しました。
-
早朝は入場料がかかるので中庭までは入れませんでしたが、今度はツアーに組み込まれた見学場所なので美しい建物を間近で見ることが出来ました。
-
現在でもブハラの市民にとって金曜モスクとして機能し、最大12,000人の礼拝者を収容できるそうです。現在の建物はチンギス・ハーンの軍によって破壊された元のモスクの代わりとして再建されました。
-
一番奥の西側に面した壁には美しいタイルで覆われたミブラーフが設けてあり、その隣には木製の説教壇も置かれてあります。
-
タイルをよく見ると「カットワーク・モザイク」で造られています。色釉をかけた大きなタイルを小片にカットし、その小片を組み合わせて大きな文様面を作る技法で、14世紀ごろから盛んになります。ニッチ(壁龕)になったムカルナス(鍾乳石装飾)の角なども細かく組み合わされ、何とも言えないカーブを描いています。
-
振り返るとアーチの開口部の先に礼拝用の八角形の東屋が見えます。そしてその奥には東側のイワーンと対峙する「ミル・アラブ・メドレセ/Mir Arab madrasasi」野青いドームが2つ見えています。
-
東屋は礼拝に訪れた人々が説教(ホトバ)を見至り、礼拝の開始を告げるために使われました。
-
あまりの暑さに早々に表に出て近くの店を覗いてみます。ヒヴァでは料金表示はありませんでしたが、ブハラやサマルカンドでは羊の白い毛の帽子チョギルマ(Chogirma)を5,000スムで借りて写真を撮ることが出来ました。お店のおばさんがカッコいいのでサングラスをして一緒に写真を撮ってもらいました。
-
顔が小さく見えるのでこの帽子を買ってあげればよかったかなと思いました。
-
せっかくなのでツーショットの写真をもう1枚撮らせていただきました。3人で楽しく盛り上がりましたが、1人分の5,000スムで良かったのかなぁ?
-
その勢いでコットンの民族風の衣装のアンサンブルを2つ買って、「おばさんきれい!」なんて言いながら写真を撮らせていただきます。こういったハワイのムームーみたいな方が「デラックス」で良かったかもしれません。
-
お店の開店なのか客寄せのように民族舞踊が披露されていました。昨夜よりは年齢層が高いですが、観光用の衣装とは違った本物らしさも感じます。
-
意外にシンプルな踊りなので思わず一緒に踊りたくなってしまいます。
-
「タキ・ザルガロン/Toqi Zargaron」までやってきたところで30分ほどの自由時間になりました。最初にこのスザニの店に入ってみましたが、シルク?シルクのスザニが50センチ×1.2メートルで580ドルとめちゃくちゃ高いのですぐに店を出ました。いくらなら買う?と聞かれても答えたら値段交渉が始まってしまいます。
-
その店の前の「Spice Shop」の店先は商品の見せ方が上手です。たくさん吊られた瓢箪はスパイス入れになっています。ひょうたんは昔から水や酒、薬などを入れる「携帯容器」として世界中で使われてきました。日本では七味入れの代名詞になっています。
-
黒ゴマかと思ったらブラッククミンシードでした。キンポウゲ科のニゲラという植物の種で、スーパーフードとも呼ばれていて、摺り合わせたり砕いたりするとオレガノ、クミン、ナツメグに似た強い香りがして独特の苦みと辛み成分があります。これはインドから渡って来たようです。
-
こちらはフェンネルシードです。カレー屋さんのレジの前にお皿に乗って出されているやつです。これもインドでよく使われる香辛料です。
-
スターアニスは中華料理に使われる代表的な調味料で、インドシナ半島からやってきたのでしょうか。
-
こちらはスパイスの女王とも呼ばれるグリーンカルダモンのホール(実)です。小さな緑色のさやに入った黒い種子は独特の甘さとスパイシーさを兼ね備えています。、インド料理や中東料理では欠かせないスパイスの1つです。
-
「ウズベクおじさん」の置物はウズベキスタンのどこでも売っていました。手作りのぬくもりのあるものですが、家に持って帰ったら困りそうなので買うのは止めておきます。
-
ガイドさんが案内してくれたのは「クズネチナヤ・マスタースカヤ/Kuznechnaya Masterskoy」です。
-
店の中には本格的な「火床」があり、実際に製品がここで造られていることが分かります。
-
有名なコウノトリのハサミはシルバーの小さいものが20ドル、ゴールドが25ドルでした。何人かで10本になれば安くしますということでしたが買われたのは数人だけでした。 そもそも「コウノトリのハサミ」は金糸刺繍や布地の工房で使う小型のハサミとして「鳥の形」のものが作られるようになったようです。そのご19世紀ごろのヨーロッパで助産師用の器具に転用されたという説が知られています。
-
買い物が終わったところでハサミ屋さんの2階にある「ザルガロン・プロフ/Zargaron Plov」という店でお昼ご飯になります。
-
ここでは冷たく冷えた缶ビールだけしか置いていませんでした。1本50,000スムはいつもと同じ料金です。
-
キャベツとキュウリの浅漬けのようなサラダはシンプルなのですが、ガーリックが効いてめちゃくちゃ美味しいのでおかわりしたいほどでした。
-
スープに葉カリカリのクルトンが浮いていて、ビスクのような濃厚な美味しさです。
-
メインは焼きラグマン(ボソラグマン)でした。ラグマン(Laghman)は中央アジア全域で広く食べられている手延べ麺で、例えるなら焼うどんのようで美味しかったです。
-
デザートはウズベキスタンではポピュラーなナポレオンケーキでした。さすがにシルクロード方面へはナポレオンも侵攻はしていません。
-
レストランから表を見るとさすがに40℃を越えた炎天下に歩いている人は少ないようです。
-
悲しき我々ツアーは予定されている日程を抜かす訳にはいかないので、午後には残りの2か所の見学に移ります。「ウルグベク・メドレセ/Ulug'bek madrasasi」は早朝の姿とは違って、キリムがたくさん並べられています。
-
早々に2カ所の見学を終えてホテルに向かって戻りますが、日影は全く無いので体力を消耗します。20分ほど歩いて「ラビ・ハウズ/Labi Hovuz」まで戻ったところでガイドさんがカートを3台チャーターしてくれました。
-
交通規制していてもこの電動カートは乗り入れすることが出来るようです。1人10,000スムで6人乗れるので1台で800円くらいです。
-
すれ違った車が古いものだったので急いで写真を撮っておきました。思った通りソヴィエト時代のラーダ・リーヴァVAZ-2107でした。モンゴルを旅した時にも「UAZ(ワズ)」に乗る機会もあったので、ウズベキスタンでも何かで会えるかとは思っていました。
-
いつも最後尾の座席に座るようにしています。何となく面白い写真が撮れるような予感がしています。
-
運転手さんにお礼を言って迎えに来たバスに乗り込みます。ホテルまで戻るのかと思っていましたが、道路規制で1キロくらい先だったのでカートに乗れてよかったです。ブハラの旅はここまででサマルカンドに向かって鉄道旅が始まります。
この旅行記のタグ
関連タグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
2026ウズベキスタンの旅
-
前の旅行記
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(10)夜明けのブハラ旧市街を散策し、ゴミ1つ落ちていない通りを...
2026/05/17~
ブハラ
-
次の旅行記
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(12)ブハラからスペイン製のタルゴ列車に乗ってサマルカンドを目...
2026/05/17~
サマルカンド
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(1)中国国際航空に乗り、北京の空港でトランプダンスを踊り、タシ...
2026/05/14~
タシケント
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(2)タシケントからウズベキスタン航空国内線でウルゲンチを経由し...
2026/05/15~
タシケント
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(3)西のオタ・ダルヴァサ門からイチャン・カラの中に入り、完全な...
2026/05/15~
ヒワ
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(4)午後のヒヴァのイチャン・カラの中の観光の合間にキャラバン・...
2026/05/15~
ヒワ
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(5)タパス・レストランのディナーの後は夜のイチャンカラの夜景を...
2026/05/15~
ヒワ
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(6)早朝のイチャン・カラの中を彷徨い歩き、知らない地元の人たち...
2026/05/16~
ヒワ
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(7)ヒヴァからブハラまでキジルクム砂漠を2階の休憩と昼食を挟ん...
2026/05/16~
ヒワ
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(8)キジルクム砂漠を越えてたどり着いたブハラは美女が舞い踊るこ...
2026/05/16~
ブハラ
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(9)ブハラのシルクとスパイスフェスティバルの夜に美しいスザニを...
2026/05/16~
ブハラ
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(10)夜明けのブハラ旧市街を散策し、ゴミ1つ落ちていない通りを...
2026/05/17~
ブハラ
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(11)気温40度を超えるシルク・スパイスフェスティバルの日曜日...
2026/05/17~
ブハラ
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(12)ブハラからスペイン製のタルゴ列車に乗ってサマルカンドを目...
2026/05/17~
サマルカンド
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(13)夜明けのサマルカンドを歩き、誰もいない早朝のレギスタン広...
2026/05/18~
サマルカンド
-
JTB旅物語ウズベキスタン世界遺産探訪7日間(14)グーリ・アミール廟からサマルカンドの観光を始める。
2026/05/18~
サマルカンド
旅行記グループをもっと見る
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったホテル
ブハラ(ウズベキスタン) の旅行記
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
ブハラ(ウズベキスタン) の人気ホテル
ウズベキスタンで使うWi-Fiはレンタルしましたか?
フォートラベル GLOBAL WiFiなら
ウズベキスタン最安
1,160円/日~
- 空港で受取・返却可能
- お得なポイントがたまる
旅行記グループ 2026ウズベキスタンの旅
0
108